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源顕雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 顕雅
時代 平安時代後期
生誕 承保元年(1074年
死没 保延2年10月13日1136年11月8日
別名 楊梅大納言
官位 正二位権大納言
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 村上源氏
父母 父:源顕房、母:顕雅母藤原伊綱の娘)
兄弟 賢子雅実顕仲雅俊国信、師子、相覚、顕雅定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿
藤原為隆の娘、章尋の娘、藤原顕季の娘
雅長信雅、弁雅、雅寛、相顕、顕智、景雅、難波頼経正室、女子
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源 顕雅(みなもと の あきまさ、旧字体源 顯雅󠄂)は、平安時代後期の公卿村上源氏右大臣源顕房の六男。官位正二位権大納言楊梅大納言と号す。

経歴

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応徳2年(1085年)に侍従に任じられ、応徳4年(1087年従五位上に叙される。寛治元年(1087年)正五位下左近衛少将に叙任され、近江権守を兼ねた。寛治2年(1088年五位蔵人に補され、従四位下に陞叙。右少将を経て、寛治3年(1089年)に従四位上、寛治5年(1091年)に正四位下に進み、備中権介を兼任した。

美作介、右近衛中将を歴任し、康和4年(1102年蔵人頭、続いて参議に任ぜられ公卿に列す。同年中に院別当に補される。さらに従三位に叙され、康和5年(1103年播磨権守嘉承3年(1108年)に備中権守、天永4年(1113年)に播磨権守と地方官を兼帯。この間に正三位に進む。その後、大宮権大夫を経て、備中権守・備後権守と再度地方官に転じた。

保安3年(1122年権中納言に任ぜられ、同年中納言に進む。大治5年(1130年)には石清水八幡宮に派遣され奉幣を行う。長承元年12月(1133年2月)には権大納言に昇る。長承2年(1133年)には約20年振りに叙位を受け、従二位に昇る。さらに長承4年(1135年)正二位に叙された。

保延2年(1136年)病により出家。9日後に薨去。享年63。なお、『公卿補任』に『尊卑分脈』では没日は14日としているが、『中右記』によると出家と同日の10月4日に薨去した、と記されてある。管弦の才はなかったという。

官歴

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  • 応徳2年(1085年)11月20日:侍従に任ず。
  • 応徳4年(1087年)正月5日:従五位上に叙す。
  • 寛治元年(1087年)10月:近江権守を兼ぬ。11月18日:正五位下に叙す(大嘗會。近江権守)。12月13日(1088年1月9日):左近衛少将に任ず(元侍従兼近江権守)。
  • 寛治2年(1088年)2月17日:五位蔵人に補す。6月5日:従四位下に叙す(少将如元。無品令子内親王去応徳2年未給。臨時除目次)。12月(1089年1月):右近衛少将に転ず(元左少将)。
  • 寛治3年(1089年)正月11日:従四位上に叙す(天皇行幸一院無品内親王別當賞)。
  • 寛治5年(1091年)正月13日:正四位下に叙す。正月28日:備中権介を兼ぬ(少将労)。
  • 嘉保元年(1094年)9月5日:父顕房薨ず。
  • 嘉保3年(1096年)正月24日:美作介を兼ぬ(少将労)。
  • 康和元年12月14日(1100年1月26日):右近衛中将に任ず。
  • 康和4年(1102年)正月23日:蔵人頭に補す。6月:参議に任ず(右中将如元)。7月20日:昇殿を聴し院別当に補す。[1]。7月21日:従三位に叙す(尊勝寺供養賞。院別当)。
  • 康和5年(1103年)2月20日:播磨権守を兼ぬ。
  • 嘉承3年(1108年)正月13日:備中権守を兼ぬ。
  • 天永3年(1112年):正三位に叙すか。
  • 天永4年(1113年)正月28日:播磨権守を兼ぬ。
  • 永久3年(1115年)正月29日:大宮権大夫を兼ぬ。
  • 永久6年(1118年)正月11日:備中権守を兼ぬ。正月18日:備後権守を兼ぬ。
  • 元永2年(1119年)10月16日:娘死去[2]
  • 保安元年(1120年)12月:大宮権大夫を止む。
  • 保安3年(1122年)正月23日:権中納言に任ず。12月17日(1123年1月16日):中納言に転ず。
  • 大治5年(1130年)8月6日:石清水八幡宮に奉幣する[3]
  • 長承元年12月25日(1133年2月1日):権大納言に任ず。
  • 長承2年(1133年)正月5日:従二位に叙す(行幸石清水賀茂行事賞)。
  • 長承4年(1135年)正月5日:正二位に叙す(去大治五年行幸日吉社行事賞)。
  • 保延2年(1136年)10月4日:病に依りて出家。10月13日:薨ず。享年63。

系譜

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脚注

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  1. ^ 中右記康和4年7月20日条
  2. ^ 長秋記元永2年10月16日条
  3. ^ 『中右記』大治5年8月6日条