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源顕房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 顕房
時代 平安時代後期
生誕 長暦元年(1037年)。万寿3年(1026年)説もある。
死没 嘉保元年9月5日1094年10月16日
別名 六条右大臣
官位 従一位右大臣正一位
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 村上源氏
父母 父:源師房、母:藤原尊子
兄弟 妧子澄子、女子、俊房顕房麗子仁覚師忠実覚藤原宗実室、藤原師実
養兄弟:広綱
正室:源隆子源隆俊の娘)
藤原定成の娘、源顕雅母藤原良任娘)
藤原惟子清円の娘、式部命婦
藤原賢子雅実顕仲雅俊国信師子相覚顕雅定海、隆覚、信雅覚樹雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房雅隆顕覚藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿
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源 顕房(みなもと の あきふさ)は、平安時代後期の公卿歌人村上源氏右大臣源師房の次男。官位従一位右大臣正一位堀河天皇外祖父

経歴

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後冷泉朝初頭の永承2年(1047年)3月に祐子内親王年爵により従五位下叙爵し、同年12月に元服して侍従任官する。

永承4年(1049年右近衛少将に遷ると、永承5年(1050年)三回の叙位を受けて従四位下、永承6年(1051年)二回の叙位を受けて正四位下天喜3年(1055年)右近衛権中将、と順調に昇進する。ここまでは兄の源俊房と同じキャリアで昇進したが、俊房が正四位下昇進の翌年に従三位に叙せられて公卿に昇進したのと対照的に、顕房は天喜4年(1056年蔵人頭(頭中将)に任ぜられ、頭を5年務めたのち康平4年(1061年従三位参議に叙任されて公卿に列している。

議政官として引き続き中将を兼ねる一方、康平5年(1062年)父の譲りにより二回の叙位を受けて従二位と順調に昇進し、治暦3年(1067年正二位権中納言に叙任されて、昇進面で俊房に肩を並べた。

後三条朝に入ると、兵衛督を務めたほか中宮馨子内親王中宮大夫を兼帯する。延久4年(1072年)には娟子内親王の降嫁事件で後三条天皇から疎まれていた俊房を超えて権大納言に昇任される。

白河朝に入ると、承保元年(1074年)俊房が権大納言に任ぜられて再び昇進を超えられるが、顕房は実娘の藤原賢子摂関家藤原師実の養女として白河天皇春宮時代から入内させており、同年に賢子が皇后に冊立されると、その皇后宮大夫を務めている。永保3年(1083年右大臣に任ぜられ、俊房とともに左右大臣として太政官の高官の地位を占めた。

応徳元年(1085年皇后藤原賢子が没する。しかし、応徳3年(1087年)賢子所生の善仁親王が即位堀河天皇)して、顕房は天皇の実の外祖父となり、天皇外戚としてその勢威は兄にも勝ったという[1]。寛治7年(1093年)には俊房が左近衛大将に任ぜられ、俊房・顕房兄弟で左右大臣・左右大将を独占している。寛治7年(1093年)右近衛大将を長男の源雅実に譲るが、大将の官職を子息に譲ったことについて、藤原師通[2]藤原宗忠[3]らから批判を受けた。

嘉保元年(1094年)正月に俊房とともに従一位に叙せられるが、同年9月5日に赤痢のため自邸(六条大路北・室町西)で薨去。享年58。最終官位は右大臣従一位。後に正一位追贈された。

人物

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日記に『六条右府記』がある。日記自体は散逸したが、逸文として『大饗御装束間事』の永保3年正月22日,26日に正月条が、『園太暦』貞和2年4月28日条に永保3年2月正月27日,28日,3月5日条が残っている。

歌人としても優れ、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に14首の和歌が入集する。また天喜4年(1056年)5月に頭中将顕房家歌合(「六条右大臣家歌合」)を主催したほか、承暦2年(1078年)4月の内裏歌合、及び寛治7年(1093年)5月の郁芳門院(媞子内親王)根合で判者を務めるなど活躍した。『大鏡』の作者とする説もある。

なお、洛南の鳥羽離宮近くの久我の地に別荘を造営したことから、子孫である久我家の家名の由来となった[4]

逸話

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源俊房・顕房兄弟が近衛少将であった頃、治部卿源隆俊がこの兄弟のいずれかを婿に迎えようと思い、目の不自由になった相人に「あの二人をどのように占ったか」と問うたところ、「お二人ともすばらしく、両方とも大臣に昇るに違いない人です」と答えがあった。そこで、「どちらが時勢に合って栄えるだろうか」と尋ねると、「弟君は子孫が栄え、摂政関白も生まれるに違いない相がある」と言われたことから、六条殿(顕房)を婿に迎えたという(『今鏡』)。

寛治7年(1093年)長男の源雅実に譲るために顕房は右近衛大将を辞任していたが、嘉保元年(1094年堀河天皇白河上皇がいる六条殿への朝覲行幸を行った際、左衛門尉藤原盛重右近衛府生・秦行俊ら共の者をはね馬に乗せて前駆として随身のように従えて乗馬で供奉したことから、まるで依然として近衛大将にあるかのような様子であったという(『今鏡』『古事談』)[5]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『世界大百科事典』
  2. ^ 『後二条師通記』寛治7年11月12日条
  3. ^ 『中右記』寛治7年11月20日条
  4. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  5. ^ 『今鏡』村上の源氏 第七 うたたね。『古事談』第一 王道后宮,86「寛治八年朝覲行幸の事」
  6. ^ a b c 『近衛府補任』
  7. ^ 但し、源師子の母については式部命婦(筑前権守藤原信尹女)とする異説もある(『栄花物語』巻36・巻39)。
  8. ^ 寛治7年5月5日に開催された郁芳門院根合の様子を記した『中右記』逸文による。
  9. ^ 『今鏡』299段では母を藤原伊綱女とする。『尊卑分脈』では藤原良任または良綱の女とする。
  10. ^ a b 『今鏡』302段。『尊卑分脈』では源雅兼の子とする。
  11. ^ 『殿暦』康和3年11月20日条、『今鏡』302段。『尊卑分脈』では源雅兼の子とする。
  12. ^ 『中右記』承徳元年3月29日条
  13. ^ 『今鏡』304段

参考文献

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