二条為世
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時代 | 鎌倉時代中期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 建長2年(1250年) |
死没 | 延元3年/建武5年8月5日(1338年9月18日) |
改名 | 為世→明融(法名) |
別名 | 藤大納言 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 御子左家 |
父母 | 父:二条為氏、母:飛鳥井教定の娘 |
兄弟 | 為世、為雄、為実、為言 |
妻 |
正室:賀茂氏久の娘 側室:菅原公氏女、津守国助女 |
子 | 為道、為藤、為宗、為躬、為冬、為子(尊治親王(後の後醍醐天皇)妃、尊良親王母・宗良親王(尊澄法親王)母)、昭訓門院春日局(西園寺実衡室)、室町院大納言局、娘(藤原兼信室) |
二条 為世(にじょう ためよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿・歌人。歌道二条派の祖二条為氏の長男。極官が権大納言だったので藤大納言とも呼ばれた。
生涯
[編集]弘安6年(1282年)に参議となり、その後、正二位権大納言に至った。大覚寺統(後の南朝)の天皇に近侍し、持明院統(後の北朝)の伏見天皇に近侍した従弟の京極為兼と鋭く対立した。嘉元元年(1303年)後宇多上皇の命を受け『新後撰和歌集』を撰進している。延慶2年(1309年)頃、為兼と勅撰和歌集の撰者の地位をめぐって争い[1]、為世は敗れて為兼が『玉葉和歌集』を撰進することとなった。元応2年(1320年)には後宇多上皇に『続千載和歌集』を撰進している。門弟として地下出身である浄弁・頓阿・兼好・慶運などを育て二条派を広め、自身は二条派の宗匠としてその歌風を完成させた。元徳元年(1329年)に出家し、法名を明融とした。延元3年(1338年)8月5日、89歳で薨去。
家集に「為世集」(後人の撰集)がある。また、伝存する為世の自筆として、数枚の短冊と古筆切『五条切』がある。他にも、歌論書『和歌庭訓』がある。『続拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集や、『続現葉和歌集』などの私撰和歌集、『嘉元仙洞御百首』『文保御百首』などの定数歌にも多数入集。歌風は平淡美を尊び、余情ある歌を詠んだと評される。