北白川宮成久王
北白川宮成久王 | |
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北白川宮 | |
1922年頃 | |
続柄 | |
身位 | 王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1887年4月18日 日本・東京府芝区高輪南町 (現:東京都港区高輪)北白川宮邸 |
死去 |
1923年4月1日(35歳没) フランス ペリエ・ラ・カンパーニュ村 |
埋葬 |
1923年6月8日 豊島岡墓地 |
配偶者 | 成久王妃房子内親王(周宮房子内親王) |
子女 | |
父親 | 北白川宮能久親王 |
母親 | 能久親王妃富子 |
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年〈明治20年〉4月18日 - 1923年〈大正12年〉4月1日)は、日本の皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。北白川宮第3代当主。
生涯
[編集]生い立ちと若年期
[編集]1887年〈明治20年〉4月18日、北白川宮能久親王と正妃富子(伊達宗徳侯爵の次女)の唯一の子として誕生。1895年(明治28年)10月28日、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承。
1901年(明治34年)9月、久邇宮家の鳩彦王・稔彦王兄弟とともに、東京陸軍地方幼年学校に第5期生として入校。美少年であった成久王は一部の上級生から人気を集めた[1]。陸軍では、その後、陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
1907年(明治40年)4月18日、成年を迎え貴族院皇族議員となる[2][3]。
1909年(明治42年)に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。1917年(大正6年)に大勲位菊花大綬章を受ける[4]。
1917年(大正6年)秋、夫妻で台湾を訪問し、能久親王ゆかりの地を参拝した。10月26日に台南(能久親王の殉職地)の北白川宮御遺跡所(当時)を参拝[5]。10月28日には台北の台湾神社(当時)を参拝し、11月2日にも同神社を参拝した[6]。
留学と自動車事故
[編集]1921年(大正10年)より軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。
翌年には自動車免許も取得し、機械好きな人柄から自家用車(ヴォワザン23CV、排気量3970 cc[7]。)も購入した。
房子妃も合流し、「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かった。銀行家アルベール・カーンとは家族ぐるみで親交があり、カーンによるプライベートフィルムが残されている[注釈 1]。
1923年(大正12年)、滞仏中に自動車の運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり既に運転の覚えがあった東久邇宮稔彦王をドライブに誘った。成久王の腕前が怪しかったため、稔彦王は「あなたはまだ危ないからおやめなさい。よほど安全な広い通りならいいが、お気をつけになった方がいい」と忠告したが、成久王は聞き入れず、1923年4月1日には「ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに行かないか」と稔彦王を誘った。稔彦王はここでも「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい」と忠告したうえで、イギリスに行く約束があることを理由にこれを断って、ロンドンに向かった。
そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王に変え、同日朝に妃の房子内親王、御用掛エリザベート・ソビー (Elisabeth Sauvy)、運転手ヴィクトール・デリア (Victor Déliât) と共にドライブに出発した[7]。デリアの運転で出発し途中で鳩彦王を拾い、ノルマンディーのエヴルーで昼食を摂った後、成久王が運転を代わり、午後4時頃にシェルブール方面に出発した。
午後4時30分、成久王が運転する車はパリ西方約140kmの、ペリエ・ラ・カンパーニュ村の付近で、スピードの出し過ぎによりスリップし道路から逸脱、路傍のアカシアの巨木に衝突した。成久王は事故から20分後に医師が駆け付けた際には既に死亡していた[8]。また、助手席のデリアも死亡、後部座席の房子妃と鳩彦王はそれぞれ重傷を負った[8]。
成久王の亡骸はパリに移送され、4月3日夕に駐仏日本大使館に到着した[9]。霊柩は4月21日にパリを発ち、22日にマルセイユを経由して日本郵船の香取丸で帰国の途についた[10]。
5月29日に神戸港に到着し、5月30日に東京に帰還した[11]。神戸では長男永久王(当時13歳)と竹田宮妃昌子内親王が出迎え、東京まで付き添った[11][12]。6月8日に豊島岡墓地で斂葬の儀が執り行われた[12]。
1935年(昭和10年)、パリ日本人居留団により事故現場に碑が建てられた[13]。
栄典
[編集]- 1907年(明治40年)11月3日 - 勲一等旭日桐花大綬章[14]
- 1917年(大正6年)10月31日 - 大勲位菊花大綬章[4]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一個・大正三年乃至九年戦役従軍記章[15]
家族
[編集]系図
[編集]北白川宮家
[編集]姻戚関係
[編集]明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ わが武寮 1982 p.467
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。
- ^ 『官報』第7189号(明治40年6月18日)(NDLJP:2950535/9)
- ^ a b 『官報』第1575号、大正6年11月1日(NDLJP:2953689/4)
- ^ 台南神社社務所 編『台南神社誌』台南神社社務所、1928年3月、41頁。全国書誌番号:88090397。(NDLJP:1907486/47)
- ^ 臺灣神社社務所 1935, p. 83(NDLJP:3460493/66)
- ^ a b 広岡 1998 p.94
- ^ a b 『官報』号外、大正12年4月3日(NDLJP:2955322)
- ^ 『官報』第3201号、大正12年4月5日(NDLJP:2955324/6)
- ^ 『官報』第3217号、昭和8年4月24日(NDLJP:2955340/5)
- ^ a b 『官報』第3250号、大正12年6月1日(NDLJP:2955373/11)
- ^ a b 『官報』第3248号、大正12年5月30日(NDLJP:2955371/6)
- ^ 広岡 1998 p.392
- ^ 『官報』第7306号「叙任及辞令」、明治40年11月4日(NDLJP:2950652/2)
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
参考文献
[編集]- 臺灣神社社務所 編『臺灣神社誌』(9版)松崎貞吉、1935年8月。全国書誌番号:21580953。(NDLJP:3460493)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 東幼史編集委員会『東京陸軍幼年学校史 わが武寮』東幼会、1982年10月。
- 広岡裕児『皇族』読売新聞社、1982年10月。ISBN 4-643-98074-5。
関連項目
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学職 | ||
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先代 竹田宮恒久王 |
皇典講究所総裁 第3代:1908年 - 1924年 |
次代 久邇宮邦彦王 |