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万世一系

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
剣璽等承継の儀
1989年(昭和64年)1月7日

万世一系(ばんせいいっけい、旧字体萬世一系)は、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室皇統天皇の血筋)についていう[1]

意義

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岩倉具視
伊藤博文

慶応3年(1867年)10月、岩倉具視は、「王政復古議」に「皇家は連綿として万世一系礼楽征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。これが「万世一系」の語の初出である[注 1]

1889年(明治22年)『(旧)皇室典範』制定に当たって伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、以下の3項目を挙げた[2]

第一 皇祚を踐むは皇胤に限る
第二 皇祚を踐むは男系に限る
第三 皇祚は一系にして分󠄁裂すべからず

大日本帝国憲法では次のように記されている。

第一條
大日本帝󠄁國萬世一系天皇之ヲ統治

民間でも大日本帝国憲法に対抗して私擬憲法が盛んに作成されたが、ほとんどが万世一系に言及している[注 2]。万世一系の例外規定を設けているのは『憲法草稿評林』のみで、「臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立」と規定し、皇位継承者が断絶した場合の天皇の選挙制を提案した[3]

起源と正統性

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天照大神

古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある[注 3]。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。

大日本帝国憲法第1条は万世一系を明文化したものである。

歴史

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「万世一系」論の始まり

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[4]

この言葉の初出は上記の「王政復古議」だが、「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念自体は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。

大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

大伴家持
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天降(あまくだ)り 知らしめしける 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代(みよ)重(かさ)ね
天あまの日継(ひつぎ)と 知らし来くる 君の御代御代(みよみよ)敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は 数え得ず 尽くしも兼ねつ — 大伴家持、『万葉集』巻一八
日本を天から下ってお治めになった天孫降臨の神々が治める時代を重ねて
天照大御神の後継ぎとして治めてこられた天皇の治世ごとに
治められる畿内周囲の国々は山も川も広々と豊かなので
奉る貢ぎ物や宝物は数えきれないほどで、挙げ尽くせない。 — 大伴家持、『万葉集』巻一八 (現代語訳)

この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

聖徳太子

日本書紀』は、神武天皇が即位した年を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。

神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。

中国

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王朝が非常に古いという主張は、自国民だけでなく、国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に対して威信を示すためでもあった。中国側がこの主張に感銘を受けた例も記録されている。

新唐書』には日本の歴史も略述され、「神の代」に属す日本の支配者32人のうち最初と最後の2人と[注 4]、『日本書紀』などが掲げる「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている[6]楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加し、日本の学僧である奝然が当時の中国皇帝にもたらした以下の情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。[7][8]」当時の天皇は円融天皇で、皇統譜によれば64代目にあたる[注 5]

宋史』「日本伝」では、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している[9]

北宋の太宗
(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は遐久(かきゅう、はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」 — 北宋の太宗

日本側でも、北畠親房の『神皇正統記』では以下のように論じている[10][11]

北畠親房
モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。 — 北畠親房、『神皇正統記』

ヨーロッパ

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[12]

16 - 17世紀ヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念は知られていた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

スペインのフィリピン臨時総督ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロは『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している[13]

彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。 — ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。

貿易商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン1615年日本から以下のように報告している[13]

彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。 — ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)


エンゲルベルト・ケンペルは『日本誌』で以下のように説明している[14]

エンゲルベルト・ケンペル
“宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。 — エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。

江戸時代

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[15]

江戸時代尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。

軍学者山鹿素行は寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている[16]

山鹿素行
ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。経世家本多利明は寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している[17]

明治時代

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福澤諭吉
新渡戸稲造

[18]

明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性という大原則を受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。1875年(明治8年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。

わが国の皇統は国体とともに連綿れんめんとして外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守ぼくしゅしてしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立のとうと由縁ゆえんは、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。 — 福澤諭吉、『文明論之概略』

ただ、国の紀元についての原則は、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)は国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している[注 6]スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた[19]

本邦最初期の歴史編纂者たちは、八世紀におこなわれていた中国風の年代計算法を採用したがために、干支の六十年周期をおよそ一〇回分数えまちがったと思われる[注 6]。このため、本邦の歴史の始まりは六〇〇年ほどさかのぼらされた。……本邦初期の歴史から六世紀を差し引くなら、日本帝国の創建は、通常受け入れられている前六六〇年ではなくして……前六〇年ということになる。こうすれば、神武天皇はジュリアス・シーザーと同時代人ということになる。 — 新渡戸稲造、(日本・スウェーデン協会の会合の演説より)

戦前

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万世一系は、戦前において、共和制共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。

北一輝は自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。

戦後

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昭和天皇
明仁上皇

[20]

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。歴史教科書は考古学的知見で書かれるようになった。

万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。1977年(昭和52年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした[21]

国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。 — 昭和天皇、(1977年(昭和52年)8月、那須御用邸での記者会見)

皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。1966年(昭和41年)、戦後廃止された「紀元節」が2月11日のまま、ほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。

1990年(平成2年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。1999年(平成11年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。

万世一系がうたわれた実例

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大日本帝国憲法

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[22]

1889年(明治22年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。

…天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ… — 『大日本帝国憲法』告文
輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…

そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。

君が代

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[23]

1880年(明治13年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の4人の選者により編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する[24]

チェンバレン

汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで

A thousand years of happy life be thine!
 Live on, my Lord, till what are pebbles now,
 By age united, to great rocks shall grow,
 Whose venerable sides the moss doth line.

日本の国歌も「天皇の治世」を奉祝する歌であり[25][26]、皇統の永続性(万世一系)がテーマである[27]。世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えている[28]

国体の本義

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国体の本義とは、1938年(昭和13年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。万世一系についての主張を以下に引用する[29]

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。 — 国体の本義

その他の「万世一系」論

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  • 朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ……(大日本帝国憲法発布の詔勅)
  • 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス旧皇室典範第一条)
  • 天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
    • 詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。

論争

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万世一系についての様々な説を巡り、大きな論争に発展した。

戦前の論争

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1911年(明治44年)には、国定教科書問題・南北朝正閏論争があった。学校の歴史教科書で「南北朝時代」の用語を使っていた。このことをめぐって、帝国議会南北朝正閏論が問題化した。それ以降の教科書では、「吉野朝時代」の用語を使うことになった。この問題では、万世一系の概念の中で、皇統の一系(皇統が分立することがない)が問題になった。江戸時代から一般的であった南北朝時代の史観が、明治時代の万世一系では不適当とされた事例である。また、壬申の乱のような皇室での争いは、教科書に記述がなかった。

国体との関係

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国体の一番の根拠は万世一系であった。それゆえに国体の問題でも深い影響を与えていた。天皇機関説論争の際には、神勅が天皇による直接統治の根拠とされた。『国体の本義』でも、神勅や万世一系が冒頭で強調されている。昭和維新を標榜した一連の変革運動でも、君民一体の思想から、天皇による直接支配こそ社会の閉塞をうちやぶるものであり、「君側の奸」がそれを妨げているという主張がなされた。この問題により、万世一系をめぐる論争は、皇室の問題と結びついて大きな広がりを持つことになる。

戦後の論争

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戦後になると戦前の皇国史観への反動とマルクス史観の流行により王朝交替説が盛んに唱えられるようになった。そのうちの多くはその後否定されるに至っているが、継体天皇の出自の問題(継体天皇王族説/継体新王朝論)など現在も議論の絶えない問題もある。

戦後の歴史家

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ベン=アミー・シロニーは戦後の歴史家の研究態度について「戦前の日本で天皇の王朝の非常な古さが国家主義的に悪用されたことに強く反発する戦後の歴史家は、日本における皇室制度と皇室の異例な長命さという意義を軽んじてきた。しかし、そうした彼らでも認めざるをえないのは、皇位を占めている血縁集団が世界最古の在位の君主家だということである。[30]」と指摘している。

皇位継承問題

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第二次世界大戦後、敬宮愛子内親王などの皇族の女子が誕生する一方で、秋篠宮文仁親王誕生以降は悠仁親王の誕生まで約40年もの間皇族の男子が誕生せず、皇位継承権を持つ皇族の男子が不足していることを背景に、皇統の「女系天皇」を容認しようとする皇室典範に関する有識者会議などの動きがあった。万世一系の伝統から旧皇族を復帰させて男系による皇位継承を守ろうという意見、男系にこだわらない「女系天皇」容認論、さらに踏み込んでの直系長子の皇位継承を主張する意見等、政府による令和3年の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議を経ながら、皇位継承を巡って現在も論争となっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 島善高「万世一系の由来」『律令制から立憲制へ』,成文堂,2009。p.308には「王政復古議」(『岩倉具視関係文書』第一,p.301)には「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と書かれ、「万世一系」の語の使用例が古書に見つかるか調査を玉松操に依頼している。
  2. ^ 現存している51本より。
  3. ^ 葦原中国平定の段には「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は我が御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国なり」とある。
  4. ^ 実際の記述は、「自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊為號、居筑紫城。」である。『宋史』日本伝には23人が列挙されており、32は23の転倒と考えられる。この部分は『日本書紀』などとの相違が大きく、最初から筑紫(九州)に都したとされる。
  5. ^ 『新唐書』『宋史』は明治時代に歴代に加えられた弘文天皇淳仁天皇のうち前者を欠くが、神功皇后を神功天皇として歴代に加えているため数は皇統譜と一致する。
  6. ^ a b 藤原貞幹著『衝口發』の説に基づく、神武天皇即位を紀元前60年とする紀年。

出典

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  1. ^ 『新明解四字熟語辞典』三省堂
  2. ^ 伊藤博文『皇室典範義解』pp.2-3。原文はカタカナ。国立国会図書館 近代デジタルライブラリーhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788977/1
  3. ^ 小西豊治『もう一つの天皇制構想』
  4. ^ この章は、シロニー(2003)、22 - 24頁を参照。
  5. ^ この章は、シロニー(2003)、24 - 26頁を参照。
  6. ^ Ryusaku Tsunoda and L.C. Goodrich, ed., Japan in the Chinese Dynastic Histories. Pasadena: P.D. and Ione Perkins, 1951, pp.38-42.
  7. ^ Charlotte von Verschuer, `Japan's Foreign Relations 600 to 1200 A.D.', Monumenta Nipponica, vol.54, No.1 (Spring 1999), p.30.
  8. ^ 田中健夫編『善隣国宝記集英社、1995年(平成7年)、60 - 61・522 - 523頁。
  9. ^ Ryusaku Tsunoda and L.C. Goodrich, ed., Japan in the Chinese Dynastic Histories. Pasadena: P.D. and Ione Perkins, 1951, p.55.
  10. ^ Ryusaku Tsunoda, Wm. Theodore de Bary, Donald Keene, eds., Sources of Japanese Tradition. New York: Columbia University Press, 1958, p.279.
  11. ^ 神皇正統記現代思潮社、1938年(昭和13年)、27 - 29頁。
  12. ^ この章は、シロニー(2003)、26 - 27頁を参照。
  13. ^ a b Michael Cooper, ed., They Came to Japan. Barkeley: University of California Press, 1965, p.76.
  14. ^ Engelbert Kaempfer, The History of Japan. Glasgow: MacLehose & Sons, 1906, 3 vols., vol.1. pp.259-260.
  15. ^ この章は、シロニー(2003)、27 - 28頁を参照。
  16. ^ David M. Earl, Emperor and Nation in Japan. Seattle: University of Washington Press, 1964, p.48.
  17. ^ Donald Keene, The Japanese Discovery of Europe. London: Routledge and Kegan Paul, 1952, pp.79, 153 n.12.
  18. ^ この章は、シロニー(2003)、30 - 32頁を参照。
  19. ^ Nitobe Inazo, 'The Moral Basis of the Japanese Monarchy', in The Works of Inazo Nitobe. Tokyo: University of Tokyo Press, 1979, vol.3, pp.498-499.
  20. ^ この章は、シロニー(2003)、32 - 33頁を参照。
  21. ^ 高橋紘・鈴木邦彦 編著『陛下、お尋ね申し上げます』157頁。
  22. ^ この章は、シロニー(2003)、31頁を参照。
  23. ^ この章は、シロニー(2003)、29 - 30頁を参照。
  24. ^ 和訳はシロニー(2003)、30頁より。英訳は『国歌君が代の研究』より引用。
  25. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  26. ^ 世界大百科事典 第2版
  27. ^ シロニー(2003)、29頁。
  28. ^ シロニー(2003)、30頁。
  29. ^ 文部省(編集)『国体の本義 (1937年) [古書] (-)』1937年(昭和12年)。ASIN B000JBMD00ISBN。
  30. ^ シロニー(2003)、33頁。

参考文献

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関連文献

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  • 奥平康弘『「萬世一系」の研究(上) 「皇室典範的なるもの」への視座』岩波書店〈岩波現代文庫/学術359〉、2017年3月16日。ISBN 9784006003593 
  • 奥平康弘『「萬世一系」の研究(下) 「皇室典範的なるもの」への視座』岩波書店〈岩波現代文庫/学術360〉、2017年3月16日。ISBN 9784006003609 

関連項目

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