秋篠宮文仁親王
秋篠宮文仁親王 | |
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秋篠宮家 | |
2016年(平成28年)撮影 | |
続柄 | 上皇第2皇男子[1] |
宮号 | 秋篠宮(あきしののみや) |
全名 | 文仁(ふみひと) |
称号 | 礼宮(あやのみや) |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
お印 | 栂(つが) |
出生 |
1965年11月30日(59歳) 日本・東京都千代田区千代田 皇居・宮内庁病院 |
配偶者 | 文仁親王妃紀子(川嶋紀子) |
子女 | |
父親 | 明仁(上皇) |
母親 | 美智子(上皇后) |
栄典 |
大勲位 |
役職 |
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親署 |
称号:親王(皇嗣) | |
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敬称 |
殿下 His Imperial Highness the Crown Prince[2] |
皇室 |
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秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年〈昭和40年〉11月30日 - )は、日本の皇族。秋篠宮家当主。御称号は礼宮(あやのみや)、お印は栂(ツガ)。身位は親王。敬称は殿下[3]。勲等は大勲位。皇室会議議員。
現在、皇位継承順位第1位の皇嗣[注釈 1](2019年〈令和元年〉5月1日 - )である。
第126代・今上天皇(徳仁)の弟宮。皇位継承順位第2位の皇族である悠仁親王の父宮。
上皇(第125代・平成時代の天皇)上皇(明仁)と上皇后美智子の第2皇男子(2男1女のうち第2子)。
佳子内親王の父でもある。
来歴
[編集]少年時代
[編集]1965年(昭和40年)11月30日午前0時22分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第二子(次男)として宮内庁病院で誕生。幼少時の御称号は礼宮(あやのみや)。「論語」より「博く文を学び、これを約するに礼をもってすれば、またもって畔(そむ)かざるべし」が由来。
幼少時はやんちゃなイメージとして知られていた。テニス等のスポーツに熱心に取り組む一方、地理などにも関心を持っていた。
妹・黒田清子の夫である黒田慶樹とは少年時代からの学友。
青年時代
[編集]1984年(昭和59年)、学習院大学法学部政治学科に入学。翌年には自然文化研究会を結成し、積極的にサークル活動を行うとともに東京農業大学育種学研究所を前身とする財団法人進化生物学研究所で家禽類研究に従事。一学年下の川嶋紀子と知り合いサークル活動を通じ交際を深め、1986年(昭和61年)6月26日に自ら求婚していた。同年から財団法人山階鳥類研究所総裁。学生時代から「口髭」を伸ばしはじめ、それが今でもトレードマークになっているが、伸ばし始めた当初は宮内庁から顰蹙を買っていたことが侍従の日記に残されている[4]。
1988年(昭和63年)、学習院大学法学部政治学科を卒業。同年より社団法人日本動物園水族館協会総裁を務めるとともに、2年間、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院動物学科に留学し魚類に関する分類学を学ぶ。留学中の指導教授のトーマス・ケンプ博士は殿下について「とても優秀な学生で、研究テーマへの熱意は本物だった」と述懐している[5]。 1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇が崩御、父が第125代天皇に即位したことに伴い、兄・皇太子徳仁親王に次いで、皇位継承順位第2位となる。同年から1年間オックスフォード大学大学博物館及びロンドン自然史博物館に在籍。
同年(平成元年)8月26日、川嶋紀子との結婚内定が報道される。9月12日、文仁親王と川嶋紀子の婚姻に関する皇室会議が開催された。全員一致で2人の婚姻が可決され、婚約が内定。午後から記者会見が行われた。昭和天皇の喪中における婚約内定会見となったが、1951年(昭和26年)7月の順宮厚子内親王(現池田厚子)の婚約発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後という前例があり宮内庁が問題ないと判断した[6]。また、11月に行われる即位礼の日程を鑑み早期に行われることが望ましいとされたため、このタイミングでの発表となった。平成改元後初の皇室での慶事であり、若々しい2人の結婚は国民から盛大に祝福された。関連書籍やアニメが作られ、「紀子さまブーム」[7]とも言われる一大現象となった。
皇族全員の昭和天皇の喪が明けた翌1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、前年9月12日の皇室会議で承認された2人の婚約が正式決定した。皇室において昭和天皇崩御後初の慶事となり、納采後の皇居には、皇族や三権の長らが祝賀訪問、お祝い記帳も行われた[8]。
同年6月29日、結婚の儀が行われ、同日秋篠宮家を創設した。宮号は奈良県奈良市の地名「秋篠」に由来する。
秋篠宮時代
[編集]成婚以来、同妃紀子とともに地道に公務を果たす。特にインドネシア・タイなどの東南アジア諸国を公私ともによく訪問し、チャクリー王朝とも交流が深い。
1991年(平成3年)10月23日、第1子で長女の眞子内親王が誕生。"眞"の文字は秋篠宮の"ひらめき"によって選ばれた。1992年(平成4年)に財団法人日本テニス協会名誉総裁に就任。1994年(平成6年)12月29日には、第2子で次女の佳子内親王が誕生。1997年財団法人世界自然保護基金ジャパン総裁就任。2000年より日蘭協会名誉総裁、2004年より特定非営利活動法人全日本愛瓢会名誉総裁、2005年よりサイアム・ソサエティー名誉副総裁。
宮中祭祀・各種公務に取り組む他に、魚類や家禽類の研究も行っている。総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻を構成する国立遺伝学研究所・五條堀孝教授の指導の下、1996年(平成8年)9月30日、家禽のニワトリの起源を遺伝子に基づき解析した研究により、総合研究大学院大学から論文博士(理学)の学位を授与された[9][10]。
通称「さんまの会」では友人知人を自邸に招いており、この集まりが妹・清子内親王と長年の友人である黒田慶樹の交際を深めるきっかけを作った。その後、2005年(平成17年)の彼らの結婚について非常に喜んだ。
兄・皇太子徳仁親王および義姉・同妃雅子には、2001年(平成13年)12月に第一皇女の愛子内親王が誕生。しかし、この後皇太子および同妃には長らく懐妊の兆候が無かったため、第125代天皇明仁の皇孫の世代に男子が皆無という状況は解消されず、皇位は男系男子による継承が絶える危機に直面していた。2003年(平成15年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮および同妃に)第三子を強く希望する」と発言した[注釈 2]。2006年(平成18年)の歌会始では、同妃紀子ともに前年9月24日のコウノトリ放鳥に関する歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、第三子を望む気持ちがあったと考えられている[12]。
2004年(平成16年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、2006年(平成18年)2月7日、同妃紀子の懐妊がスクープされる。当日は公務のため千葉県我孫子市におり、報告を直接受ける前の報道となった。2月25日に、宮内庁から懐妊が正式発表された。
同年9月6日、皇室史上初の帝王切開により第3子で長男の悠仁親王が誕生。皇室においては文仁親王自身の誕生以来、実に41年ぶりの男系男子誕生である。
また、2001年(平成13年)から東京農業大学で学生指導を開始。2006年(平成18年)からは非常勤講師を務め、2008年(平成20年)より同妃紀子の弟が講師を務める東京農業大学農学部バイオセラピー学科客員教授に就任。2年後の2010年(平成22年)3月まで務めた。2007年からは東京大学総合研究博物館特招研究員。
2009年8月21日から28日にかけて秋篠宮同妃はベアトリックス女王及びオランダ政府の招待により、オランダを公式訪問した。 夫妻の訪問は日蘭通商400周年の機会を捉えたものであり、滞在中、日蘭通商400周年記念式典へ出席の他、バルケネンデ首相表敬、地方訪問、(アムステルダム、バルネフェルト、アッペルドールン)等の日程を精力的にこなした。 日蘭両国は、2008年の「外交関係開設150周年」に続き、2009年は「日蘭通商400周年」と2年にわたって周年を祝しており、各地で周年行事が開催されていた。秋篠宮同妃のオランダ訪問は種々の周年行事のハイライトとなった。日蘭協会の名誉総裁である秋篠宮がオランダを訪問し、ハーグで開催された記念式典に出席し、オランダ王室府から厚遇されたことは、日蘭両国の友好関係を再確認し、一層増進することとなった[13]。
2011年(平成23年)11月15日、天皇明仁が入院中で皇太子徳仁親王が長野県訪問中のため皇位継承順位に基づき文仁親王が天皇の名代として初めて天皇の公務を務め、皇居・宮殿で秋の勲章受章者らと接見して天皇の「お言葉」を代読し、皇居・御所で南アフリカ共和国のマックス・シスル国民議会議長と懇談した[14]。
また、文仁親王は有栖川宮職仁親王から始まる有栖川流書道の伝承者でもある。2007年(平成19年)9月16日から2015年(平成27年)9月15日まで皇室会議の予備議員を、2015年(平成27年)9月16日から現在まで皇室会議の議員を務めている[15]。ただし、2017年(平成29年)12月1日の天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行期日を定める為の皇室会議では、議題の利害関係者であったため出席を辞退し、予備議員の常陸宮正仁親王が代わった。
2018年(平成30年)の53歳の誕生日を迎えての記者会見で、兄の徳仁親王の大嘗祭(だいじょうさい)について、国費ではなく、内廷の私的活動費「内廷会計(内廷費)」でまかなうべきであり「身の丈にあった儀式」とすることが「本来の姿」との認識を示した。
皇嗣時代
[編集]2019年(令和元年)5月1日、兄の徳仁親王親王が第126代天皇に即位したことに伴い、皇嗣となった。
1926年(昭和元年)12月25日の昭和天皇の践祚から1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王(当時)が誕生するまでの間に、秩父宮雍仁親王(昭和天皇の長弟)が皇位継承順位第1位であったが、それ以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて、皇子以外の皇族が皇嗣となった。
2019年(令和元年)10月22日に行われた即位礼正殿の儀では、皇太子と同等の装束(黄丹袍)で参列した。
新型コロナウイルス感染症が蔓延する中、2020年(令和2年)5月に、自身が総裁を務める済生会病院に対して秋篠宮一家と皇嗣職職員が作ったガウン500着を寄付した[16]。
2020年(令和2年)11月8日、皇位継承順位1位の皇嗣となったことを天皇が内外に宣明する国事行為たる儀式「立皇嗣の礼」が皇居・宮殿で行われた[17]。天皇の宣明に対し、秋篠宮は「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と決意を述べた[17]。 2022年(令和4年)4月21日、秋篠宮夫妻は立皇嗣の関連行事を締めくくる伊勢神宮参拝を行った。
皇嗣となったことで警備上の都合により、住居の秋篠宮邸が改修されることとなり、工事の間、一家は御用地内に新設された「御仮寓所」に移り住んでいる。
2022年7月、宮内庁御用掛に元警視総監の吉田尚正が着任した。着任にあたっては山積する皇嗣家の諸問題に対処するために他の社外取締役などを全て辞して、専任で就任している[18]。
2022年11月、宮内庁は改修した宮邸を報道陣に公開した。建物は鉄筋コンクリート造りの地下1階、地上2階建てで、全体の延べ面積はおよそ2972平方メートルである。改修にあたっては、国民への負担を配慮した秋篠宮・同妃の希望で建物は1972年(昭和47年)の竣工時のものをなるべく残す方針で行われ、大食堂のシャンデリアや、黒い大理石の棚などは当時のものをそのまま再利用している[19]。
2023年5月6日、イギリス・英連邦王国国王チャールズ3世と王妃カミラの戴冠式に妻・文仁親王妃紀子との同伴で参列した。ウェストミンスター寺院における式典で用意された座席は各国の皇太子夫妻が集まるブロックの一番前で異例の厚遇での列席であった[20]。秋篠宮夫妻は現地時間の5月6日午後2時20分頃、戴冠式から宿泊先のホテルに戻った。秋篠宮文仁親王は報道陣の問いかけに「とても荘厳でよろこびに満ちた良いお式だと思いました」、同妃紀子も「すばらしいお式でした」とそれぞれ感想を述べた。戴冠式に先立ち、夫妻は5日午後にバッキンガム宮殿で行われた国王主催のレセプションに出席した。その場で、国王に直接の祝意と天皇徳仁・皇后雅子からの祝意を伝達した。会場ではほかに、ウィリアム皇太子ら英王室メンバーをはじめ、欧州、アジア、中東、アフリカなど、レセプションに出席した国の王族とも言葉を交わした。また、5日朝には、在英ブルガリア大使館を訪問し、同国のシメオン2世元国王(シメオン・サクスコブルクゴツキ)夫妻とご面会。秋篠宮文仁親王・同妃紀子は2009年に同国を訪問した際、元国王夫妻と面会しており、約40分間にわたり懇談するなどして旧交を温めた。秋篠宮夫妻は戴冠式の後、現地時間の6日午後に英国から政府専用機で出発し、日本時間の7日午後に帰国した[21][22]。その2日後の5月9日に、宮内庁皇嗣職は「秋篠宮皇嗣同妃両殿下のご印象(英国ご訪問を終えて)[23]」を公表した。
年譜
[編集]- 1965年(昭和40年)11月30日、誕生。
- 1970年(昭和45年)10月18日(4歳)、着袴の儀。
- 1985年(昭和60年)11月30日(20歳)、加冠の儀。
- 1988年(昭和63年)(22歳)、学習院大学法学部政治学科卒業。
- 1990年(平成2年)6月29日(24歳)、学習院大学教授川嶋辰彦の長女川嶋紀子と成婚。同日秋篠宮家を創設。
- 1991年(平成3年)10月23日(25歳)、長女(第1子)眞子内親王誕生。
- 1994年(平成6年)12月29日(29歳)、次女(第2子)佳子内親王誕生。
- 2006年(平成18年)9月6日(40歳)、長男(第3子)悠仁親王誕生。
- 2019年(令和元年)5月1日(53歳)、兄(第126代天皇)の即位に伴い、皇嗣。
- 2020年(令和2年)11月8日(54歳)、立皇嗣の礼。
子女
[編集]親王妃紀子との間には、1男2女の3子がある。第126代天皇徳仁の皇甥姪、上皇明仁の皇孫にあたる。
名前および身位 | 読み | 生年月日と年齢 | 続柄 | 備考 |
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眞子内親王 | まこ | 平成1991年)10月23日(33歳) | 3年(第1女子(第1子) | 皇籍離脱後、小室眞子となる。 |
佳子内親王 | かこ | 平成1994年)12月29日(29歳) | 6年(第2女子(第2子) | |
悠仁親王 | ひさひと | 平成18年(2006年)(18歳) 9月 6日 | 第1男子(第3子) |
系譜
[編集]秋篠宮文仁親王
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父: 第125代:明仁 |
祖父: 第124代:昭和天皇 |
曽祖父: 第123代:大正天皇 |
曽祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 香淳皇后 |
曽祖父: 邦彦王(久邇宮) | ||
曽祖母: 俔子 | |||
母: 美智子(上皇后) |
祖父: 正田英三郎 |
曽祖父: 正田貞一郎 | |
曽祖母: 正田きぬ | |||
祖母: 正田富美子 |
曽祖父: 副島綱雄 | ||
曽祖母: 副島アヤ |
秋篠宮文仁親王の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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秋篠宮文仁親王の男系直系祖先
[編集]- 代数は皇統譜による。
- 北朝は歴代に算入していない。
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 | 6 孝安天皇 | 7 孝靈天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | 10 崇神天皇 |
11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | 15 応神天皇 | 稚野毛二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 |
29 欽明天皇 | 30 敏達天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 |
34 舒明天皇 | 38 天智天皇 | 志貴皇子 | 49 光仁天皇 | 50 桓武天皇 | 52 嵯峨天皇 | 54 仁明天皇 |
58 光孝天皇 | 59 宇多天皇 | 60 醍醐天皇 | 62 村上天皇 | 64 円融天皇 | 66 一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | 71 後三条天皇 | 72 白河天皇 | 73 堀河天皇 |
74 鳥羽天皇 | 77 後白河天皇 | 80 高倉天皇 | 82 後鳥羽天皇 | 83 土御門天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 89 後深草天皇 | 92 伏見天皇 | 93 後伏見天皇 | 北1 光厳天皇 |
北3 崇光天皇 | 栄仁親王(伏見宮) | 貞成親王(伏見宮) | 102 後花園天皇 | 103 後土御門天皇 | 104 後柏原天皇 | 105 後奈良天皇 | 106 正親町天皇 | 誠仁親王 | 107 後陽成天皇 |
108 後水尾天皇 | 112 霊元天皇 | 113 東山天皇 | 直仁親王(閑院宮) | 典仁親王(閑院宮) | 119 光格天皇 | 120 仁孝天皇 | 121 孝明天皇 | 122 明治天皇 | 123 大正天皇 |
124 昭和天皇 | 125 明仁 | 秋篠宮文仁親王 |
系図
[編集]122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇位継承資格
[編集]順位 | 画像 | 皇位継承資格者 | 読み | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今の天皇から見た続柄 | 摂政就任順位 | |
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第1位 | 秋篠宮文仁親王 | あきしののみや | ふみひと | 男性 | 1965年11月30日 (昭和40年) |
59歳 | 上皇明仁第2皇男子 | 弟 /第1位 | |
第2位 | 悠仁親王 | ひさひと | 男性 | 2006年 9月 6日 (平成18年) |
18歳 | 秋篠宮文仁親王第1男子 | 甥 /第2位 | ||
第3位 | 常陸宮正仁親王 | ひたちのみや | まさひと | 男性 | 1935年11月28日 (昭和10年) |
89歳 | 昭和天皇第2皇男子 | 叔父 /第3位 |
2019年(令和元年)5月1日現在の皇位継承順位は第1位(皇嗣・推定相続人)。
父・第125代天皇明仁の退位にあたり、2019年5月1日に皇位継承順位1位の兄である皇太子徳仁親王(同年4月30日まで)が皇位を継承したため、文仁親王は新たに皇嗣(皇位継承順位1位)となった。政府方針による呼称は皇嗣殿下(こうしでんか)[24]となり、宮内庁による正式呼称は秋篠宮皇嗣殿下[25][26]となった。皇室典範特例法第5条の規定により、皇嗣となった2019年(令和元年)5月1日以降、皇太子と同等の待遇とされている(国外への対外的な呼称は皇太子と同等のthe Crown Prince[27])。
なお、文仁親王が即位するまでに、兄天皇・徳仁に皇子(皇太子)が誕生するか、自身が薨去(死去)するか、皇室会議で皇位継承順位を入れ替えられない限り、第127代天皇となる。
政府は、(皇太子による立太子の礼に代わって)文仁親王が皇嗣になることを国の内外に宣明する立皇嗣の礼を、憲法で定める国事行為として行うことを決めた。立皇嗣の礼の時期などについて、内閣官房や儀式の事務を担う宮内庁などで検討した結果、2019年(令和元年)10月22日の即位礼正殿の儀からおよそ半年後の2020年(令和2年)4月、皇居宮殿正殿の松の間などで行う方向となり、調整が進められていた。しかし新型コロナウイルスの影響で延期となり、2020年11月8日に実施された。[28]
立皇嗣の礼以降、公式行事などでは新たに作られた皇嗣旗を使用している。
親族
[編集]著名な親族としては、義妹に元外務省臨時職員で下着縫製販売業者の栗原菜緒、女婿にフォーダム大学ロースクールを卒業したとされニューヨーク州で弁護士となった小室圭がいる。
栄典・称号
[編集]栄典
[編集]日本
[編集]外国
[編集]- ベルギー:王冠勲章大十字章 - [30]
- イタリア:イタリア共和国功労勲章大十字騎士章 - (1998年〈平成10年〉4月12日)[31]
- オランダ:王冠勲章大十字章 - (2014年〈平成26年〉10月)[32]
- ペルー:ペルー太陽勲章大十字章 - (2014年〈平成26年〉1月)[33][34]
- スペイン:イサベル・ラ・カトリカ勲章大十字章 - (2008年〈平成20年〉11月8日)[35]
- スウェーデン:北極星勲章大十字司令官章 -
- パラグアイ:国家功労勲章特別大十字章 - (2021年〈令和3年〉)[36]
役職等
[編集]- 皇室会議議員(2期、2015年〈平成27年〉9月16日 - )[37][38]
- 山階鳥類研究所総裁(1986年〈昭和61年〉 - )[39]
- 日本動物園水族館協会総裁(1988年〈昭和63年〉5月25日- )[40]
- 御寺泉涌寺を護る会総裁(1996年〈平成8年〉 - )[39]
- 恩賜財団済生会総裁(2013年〈平成25年〉4月1日 - )[41]
- 大日本農会総裁(2014年〈平成26年〉10月10日 - )[42]
- 大日本山林会総裁(2014年〈平成26年〉10月10日 - )[43]
- 日本植物園協会(2016年〈平成28年〉4月1日 - )[44]
- 家畜資源学術標本基金総裁(2019年〈平成31年〉4月1日 - )[45]
- 世界自然保護基金ジャパン名誉総裁(1997年〈平成9年〉 - )[39]
- 日蘭協会名誉総裁(2000年〈平成12年〉 - )[39]
- 全日本愛瓢会名誉総裁(2004年〈平成16年〉5月 - )[46]
- 日本水大賞委員会名誉総裁(2005年〈平成17年〉5月 - )[47]
- 日本ワックスマン財団名誉総裁(2012年〈平成24年〉4月1日 - )[48]
- 「2025年日本国際博覧会」名誉総裁(2023年〈令和5年〉4月13日 - 2025年〈令和7年〉10月13日)[49]
- 「ラグビーワールドカップ2019日本大会」名誉総裁(2018年〈平成30年〉9月20日 - 2019年〈令和元年〉11月2日)[50]
- 日本テニス協会名誉総裁(1992年〈平成4年〉4月10日 - 2015年〈平成27年〉10月9日)[51]
- 「日本ドナウ交流年2009」日本側名誉総裁(2009年〈平成21年〉)[注釈 3][52]
- 「浜松モザイカルチャー世界博2009」名誉総裁(2009年〈平成21年〉)[53]
- 「第20回国際生物学オリンピック」名誉総裁(2007年〈平成19年〉12月1日 - 2009年〈平成21年〉7月19日)[54]
- 「日本インドネシア友好年」日本側名誉総裁(2008年〈平成20年〉)[55]
- 「浜名湖花博」名誉総裁(2004年〈平成16年〉)[56]
- サイアム・ソサエティー名誉副総裁(2005年〈平成17年〉 - )[39]
- 東京大学総合研究博物館特招研究員(2007年〈平成19年〉 - )[39]
- 東京農業大学農学部客員教授(2008年〈平成20年〉 - )[39]
- 総合研究大学院大学葉山高等研究センター研究員(2005年〈平成17年〉 - 2010年〈平成22年〉)[39]
- 総合研究大学院大学融合推進センター客員研究員(2011年〈平成23年〉 - 2014年〈平成26年〉)[39]
- オーストラリア博物館名誉会員(2016年〈平成28年〉 - )[39]
- 皇室会議予備議員(2期、2007年〈平成19年〉9月16日 - 2015年〈平成27年〉9月15日)
名誉学位
[編集]- 1995年(平成7年) - カセートサート大学:名誉博士号(水産生物学)
- 1995年(平成7年) - ブーラパー大学 :名誉博士号(理学)
- 1999年(平成11年) - コンケン大学:名誉博士号(水産学)
- 2001年(平成13年) - シーナカリンウィロート大学:名誉博士号(理学)
- 2001年(平成13年) - チュラーロンコーン大学:名誉博士号(理学)
- 2003年(平成15年) - ウボンラーチャタニー大学:名誉博士号(農学)
- 2007年(平成19年) - キングモンクット工科大学:名誉博士号(水産学)
- 2011年(平成23年) - カセートサート大学:名誉博士号(畜産学)
- 2011年(平成23年) - チェンマイ大学:名誉博士号(人間・環境管理学)
- 2012年(平成24年) - タンマサート大学ランシット校:名誉博士号(農業技術)
- 2018年(平成30年) - マハーサーラカーム大学:名誉博士号(生物学)[39]
外国訪問歴(平成以降)
[編集]- 1989年(平成元年)
-
- 7月16日 - 8月18日(イギリス・オックスフォード大学留学中): タイ
- 魚類の調査研究のため。
- 11月22日 - 11月24日(オックスフォード大学留学中): リヒテンシュタイン
- 11月13日に崩御した、同国元首フランツ・ヨーゼフ2世(リヒテンシュタイン公)の葬儀参列のため。
- 7月16日 - 8月18日(イギリス・オックスフォード大学留学中): タイ
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 1996年(平成8年)
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
- 2014年(平成26年)
-
- 1月25日 - 2月5日(同妃紀子同行): ペルー、 アルゼンチン(フランス・オーストラリア立ち寄り)
- 秋篠宮および同妃への、ペルー国政府からのペルーと日本との外交関係樹立140周年、また、アルゼンチン国大統領からのアルゼンチンと日本との移住協定発効50周年を記念しての同国訪問の招待による[58]。
- 6月27日 - 7月8日(同妃紀子同行): ザンビア、 タンザニア(南アフリカ共和国・イギリス立ち寄り)
- 秋篠宮および同妃への、ザンビア国政府からのザンビアと日本との外交関係樹立50周年の機会での同国訪問、また、タンザニア国政府からの同国訪問の招待による[59]。
- 9月30日 - 10月10日(同妃紀子同行): グアテマラ、 メキシコ(アメリカ合衆国立ち寄り)
- 秋篠宮および同妃への、グアテマラ国政府から、また、メキシコ国政府から「支倉使節団訪墨400周年記念:日墨交流年」の機会での同国訪問の招待による[60]。
- 1月25日 - 2月5日(同妃紀子同行): ペルー、 アルゼンチン(フランス・オーストラリア立ち寄り)
- 2015年(平成27年)
- 2016年(平成28年)
- 2019年(令和元年)
- 2019年(令和元年)
- 2023年(令和5年)
- 2024年(令和6年)
逸話
[編集]誕生・命名に関するもの
[編集]- 昭和天皇にとって7人目の孫で、2人目の内孫である。また、正田英三郎から見て4人目の孫である(叔母安西恵美子の長女、伯父正田巌の長男に次ぐ)
- 守り刀は人間国宝・高橋貞次が鍛えた。
- 独立前には宮号の候補として、常陸宮家と同様に上総宮・上野宮など、かつて親王が国司(守)となっていた関東の令制国(親王任国)にちなんだものも検討されていたとされる。
- 宮家創設後は宮号の由来である秋篠が脚光を浴び、同地への旅行が流行し「大和路ブーム」が起こった。また、同地にある秋篠寺の伎芸天像が同妃紀子に似ているという人々もいた。
人物像・事跡に関するもの
[編集]- 「宮中祭祀を大切にしていきたいと思っている。拝礼の時も心の持ち方が大事であると考える。私はいつもご先祖様に話し掛けるつもりでお辞儀をしている。」(1998年(平成10年)、江森敬治『秋篠宮さま』、毎日新聞社)
- 動物と触れ合うことを好み、東宮御所や御用邸の庭で蛇を捕まえて近臣に見せたなどというエピソードが伝わる。
- 昭和天皇の崩御に際し、武蔵野陵の陵誌(一般の墓誌にあたる)を揮毫した。
- 高松宮妃より有栖川流書道の伝承を受ける際には、「蜥蜴」などお手本にない文字の書き方を質問したという。
- 母・皇后美智子の発言
- 「小さい時からひじょうにものを深く感じる子供で、表面に出てくるのはさりげないけれど、それを自分なりに一生懸命考えているようなところは今も変わらないと思います。」
- 1985年(昭和60年)の誕生日の文書回答にて
- 「礼宮は、繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります。」
- 宮邸の庭に様々な植物を植えている。同妃紀子がこれらの植物について詠んだ和歌も伝わる。
- 2006年(平成18年)には伊勢神宮第六十二回式年遷宮を長女眞子内親王とともに視察し、御川曳に参加した[69][70]。なお、2007年の式年遷宮には兄宮である皇太子徳仁親王が参加している。
- 宮内庁筋によるとパソコンはMacintoshを使っている[71]。
- 食に対する好奇心が旺盛で、モルモット[注釈 4][72]、メコンオオナマズ[73]などの珍味を食べることもある。
- 日ごろから質素倹約に努められ、鉛筆はキャップを装着することで、2~3センチほどの短さになるまで使用している[74]。
外遊に関するもの
[編集]- 東南アジアを訪れることが多く、現地で泥の川に膝まで浸かりながら歩く姿なども書籍掲載の写真に残されている。
- タイ国王室との縁も深く、成婚の折にはシリントーン王女が式に参列した。国内でも、タイ大使館の主催によるシリキット王妃の誕生日を祝うチャリティコンサートにも一家で列席している。
- タイのほか、パラグアイなど日系人が多い南米諸国との関係も深い。訪日した日系人の団体が秋篠宮邸を表敬訪問したこともあり、この折には日系人とのかかわりを受け継がせたいとの秋篠宮および同妃の希望により眞子内親王が接見に同席した。
- 2006年(平成18年)11月1日には日本人移住70周年を祝うため、悠仁親王誕生のため訪問が延期されていたパラグアイを訪問し、ABCなど地元大手紙でも大きく報道された。文仁親王到着の当日には、パラグアイ国中から多数の日系人が首都アスンシオンに集まり、彼を歓迎した。同国最初の日本人移住地であるラ・コルメナ(1936年入植)をはじめ、各地で盛んに歓迎のセレモニーが行われた[75][76]。
- 常日頃から質素を旨とし、外国訪問の際には極力特別待遇を避けることを希望し、これまで一般客と同乗する定期便を利用してきた。2023年英国王の戴冠式臨席の際には初めて政府専用機を利用している[77]。
生物学に関するもの
[編集]- 鳥類や両生類、ナマズの研究者としても著名で、また、『生き物文化誌学会』の設立に尽力。現在同学会常任理事。同学会誌『生き物文化誌 BIOSTORY』の編集委員でもある。「生物」ではなく「生き物」としたことには、カッパなどの伝説上の生物も含む意味合いを込めている。
- 生物学への造詣が深く、学習院大学在学中から東京農業大学関連施設の財団法人進化生物学研究所で家禽類研究に従事。大学卒業後はオックスフォード大学大学院動物学科に留学後、五條堀孝教授の指導の下、総合研究大学院大学論文博士(理学)の学位を取得し、前述の『生き物自然誌学会』の常任理事の他に、東京農業大学農学部バイオセラピー学科客員教授、東京大学総合研究博物館特招研究員、総合研究大学院大学学融合推進センター客員研究員、『山階鳥類研究所』の総裁及び『WWFジャパン』の名誉総裁も務めている。東京農業大学大学院農学研究科では遺伝育種学の講義を担当[78]。
- 一般にはナマズの研究者として知られ、ナマズの殿下とも通称される。幼少時からナマズへの興味関心は深かった。2006年(平成18年)のパラグアイ訪問時には、現地固有種の1.5メートルを超す大型のナマズスルビ(淡白な味で、現地では重要な蛋白源である)を眺める姿が報道された他に魚類については第125代天皇明仁との共同研究も行っている。
- 鶏の起源について8000年前のタイが起源であるという学説を唱えている。また2000年代にはタイ・中国・香港の鳥インフルエンザウイルスの遺伝子を調査し、関連性がないことを証明した。この論文は米国科学アカデミー紀要(PNAS: The Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)に発表され、同機関のウェブサイトにても閲覧することができる。
- 邸内でナマズ、アヒル[80]、カピバラ、モルモット、マーラ[81]などの動物を飼育されている。上皇夫妻と眞子氏の会話で「モルモットを食べるのが好き」と判明したことが記事で残っている。
テニスに関するもの
[編集]両親と同じくテニスを趣味の一つとしており、その腕前は学生時代に関東でダブルストップ10に入る程であった[82]。1992年から2015年まで日本テニス協会の名誉総裁を務めており[83][84]、全日本テニス選手権において表彰式や試合観戦、テニス国別対抗戦のデビスカップ・フェドカップの組み合わせ抽選会において名誉総裁として参加する他[85][86]、ジャパン・オープン・テニス選手権、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント等の日本で開かれる国際テニス大会へはほぼ毎年観戦に訪れていることで知られている[87][88][89][90][91]。なお、日本テニス協会名誉総裁は2015年10月に長女の眞子内親王に譲られた[92]。
川嶋紀子との婚約に至る経緯
[編集]学習院大学在学時、一年下級の川嶋紀子(当時)と知り合い、サークル活動等を通じて交際を深めていた。
皇太子・明仁親王(当時)と同妃美智子(当時)は、既に紀子のことは知っていたが、礼宮は同年の12月に葉山で静養中の両親に紀子を会わせた。皇太子および同妃は、学習院大学馬術部の親睦会で紀子の父・川嶋辰彦と何度も顔を合わせていることもあり、紀子と皇太子および同妃の出会いは、とてもスムーズなものであったという[93]。
それから間もなく明仁親王は「2人のことを前向きに検討してほしい」と当時の東宮職に指示をし[94]、職員たちも2人の交際を承知した[95]。一方でゴシップ記事として報道されるのを防ぐため、サークルにおいても離れて写真に写ったり、記者が近くにいる時は友人が割って入ったりしていたという。
1989年(平成元年)8月26日、川嶋紀子との婚約内定が報道される。昭和天皇の喪中(大喪)であること、兄・徳仁親王がまだ独身であること、文仁親王自身が留学中の身であることから時期尚早との批判もあったが、両親や兄からの反対はなく、宮内庁は、挙式や結納に当たる「納采の儀」など晴れの儀式は、喪中はふさわしくないものの、皇室会議の開催は喪中でも差し支えないと判断している。
そもそも、皇室の服喪は三期に分けられ、第一期・第二期各50日の合計100日間を過ぎれば、その後の第三期は「心喪」という服喪形式がとられる[96]。心喪とは、この期間中、天皇はじめ各皇族は公の行事には出席するが、神事のみ遠慮するという形式の服喪である[97]。また、原則として結婚等の祝賀行事も行われないが、特別な理由があれば認められる[96]。
また、1947年(昭和22年)に廃止された皇室服喪令をその後も踏襲していると考えれば、皇族の服喪期間は続柄によって期間が異なり、祖父である昭和天皇に対する礼宮の服喪期間は150日であることから、きちんと喪が明けた後に婚約発表が行われていることになる。ちなみに、過去において1例だけ服喪期間中の婚約発表があり、祖母である貞明皇后に対して同じ150日の服喪期間があった順宮厚子内親王と池田隆政の婚約が内定した旨を、1951年(昭和26年)5月17日の貞明皇后崩御からわずか2か月足らずの同年7月11日に、昭和天皇が自らの裁可で田島宮内庁長官に命じて公式に発表させている。昭和天皇崩御から8か月後に皇室会議の決定として発表された礼宮の場合など、この事例に比べれば何の問題もないといった見解を宮内庁関係者は示している[98]。
兄弟の結婚の順番が逆になることについても、天皇・皇后が子の意思を尊重する考えのため、宮内庁幹部も「一般家庭でもあることで、大きな問題ではない」と述べ[99]、元東宮侍従の浜尾実も「高円宮は兄の桂宮よりも先に結婚しています。これも前例があり、全く問題外です」とインタビューで語っている。また、徳仁親王も1989年(平成元年)9月21日の会見で、「2人の間が不安定になっているのはよくないので、2人の結婚は私も強く勧めたところです」と述べた。
皇室会議では、海部首相が開会を宣言。藤森宮内庁長官が「大学のサークル、自然文化研究会や礼宮主宰のテニスクラブでの活動を通じて親交を深め、1985年(昭和60年)暮れには当時皇太子の天皇から『2人の交際を前向きに検討してほしい』とのご指示もあった」と交際の経緯や川嶋紀子の経歴、家族の略歴などを説明した。
1年間と服喪期間が最長である第125代天皇明仁(当時)などの喪が明け、皇族全員が服喪期間を終えた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約した。皇室会議での可決を指して「婚約成立」であるとしている媒体も多く、「秋篠宮は昭和天皇の喪中に婚約会見を開いた」と言う者も存在するが誤りであり、納采の儀が正式な婚約成立である[100]。宮内庁は公式HPにおいて、納采の儀=ご婚約と記載している(例:文仁親王同妃両殿下のご略歴)。また、皇位継承順位の変更や皇族の婚姻等を合議するための皇室会議を開催する権限は内閣総理大臣にあり、2人の婚姻は、田村元衆議院議長、小野明参議院副議長、矢口洪一最高裁判所長官、伊藤正己最高裁判所判事、藤森昭一宮内庁長官、福田一衆議院議員、三笠宮、常陸宮の全員が満場一致で可決している。皇室会議での可決を受けた後の会見を誤って「婚約会見」だとしている媒体もあるが、宮内庁は納采の儀が行われて初めて整う事としており[101]、皇室会議での承認のみでは正式な婚約であるとは認めていない。また、この皇室会議と婚約の違いについて天皇は、「礼宮の納采の儀は喪明けでなくてはならないが、皇室会議は喪中でもいいのではないでしょうか」という話を側近に語ったといわれる[102]。
発言
[編集]- 「記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います。」- 皇太子徳仁親王の人格否定発言に対して
- 「あくまでも私個人としては、自分のための公務は作らない。(中略)私は公務というものはかなり受け身的なものではないかなと。こういう行事があるから出席してほしいという依頼を受けて、それでこちらもそれが非常に意義のあることであればそれを受けてその務めをする。私自身はそういうふうに考えて今までずっと来ています。」 - 公務の在り方について
- 「皇族の公的な活動というのは社会からの要請にこたえて行われるべきものであると思います。」
- 「皇族の役割の大事な一つは、天皇をサポートすることではないかと思っております。」
- 「私にとって非常に大切な友人で、信頼できる人物ですし、人柄も良い。」- 妹婿で友人の黒田慶樹について
- 「自然界に帰すということは自然の中で危険を乗り越えながら自ら生きること、今回のことは残念ですが自然に帰すということはこのようなこともあるということです。」
- 「難しい判断だったと推察するが、今回の意思決定は協会全体として将来的にプラスに働くと思う。」
- 追い込み漁によるイルカの入手を加盟施設に禁じた日本動物園水族館協会の決定について、総裁としての発言
- 「国民と苦楽を共にし、国民の幸せを願いつつ、務めを果たしていくということがその最も基本的なところにあると考える」 - 今後の皇室の在り方について。2017年11月30日の誕生日に先立つ記者会見[103]。
長女眞子内親王の婚約・結婚に関する発言
[編集]長女の眞子内親王と国際基督教大学の同級生だった小室圭が2012年8月に交際を開始し[104]、2013年12月に小室圭は眞子内親王に「将来結婚しましょう」とプロポーズして、眞子内親王はプロポーズをその場で受けた[105]。2017年9月3日、両者の婚約内定が発表された。秋篠宮夫妻は「小室圭さんと娘は、約5年の歳月をかけて、双方の気持ちを確認しながら結婚に向けての話を進めてきた。内定までの5年は私たちの時よりも長い期間になり、二人の意思を確認するのには十分な時間であったことと思う。私たちはその二人の意思を喜んで尊重した。」という感想を公表した[106]。
2017年11月30日、52歳の誕生日を迎えた際の記者会見で小室圭について「非常に真面目な人だというのが第一印象」「娘のことや娘の立場もよく理解してくれていると思う」などと述べた[103]。
しかし、婚約内定後、『週刊女性』などで「小室圭の母親と元婚約者との間に金銭問題が生じている」などのトラブルが発覚した[104]。2018年2月、納采の儀を始めとする結婚関係儀式等の延期が宮内庁から発表された[107]。小室母子は釈明の為に秋篠宮邸を訪れ、金銭トラブルについて圭の母は「借金ではなく贈与」と説明した[104]。その後も協議が重ねられたが、圭の母や圭の主張は変わらず、方策が見えてこなかった[108]。
小室圭とその母に対し、秋篠宮夫妻は、正式な婚約となる「納采の儀」を行うことが現状では困難であるとの考えを伝えている[109]。小室家側にあるとされる金銭トラブルを解決することが必要と判断したとみられる[109]。
2018年11月30日、53歳の誕生日を迎えた際の記者会見で記者たちからの質問に答え、眞子内親王の結婚問題について、今でも結婚したいのであれば「問題をクリア」にし「多くの人が納得し喜んでくれる状況」にするため、(小室家側は)「それ相応の対応をするべきだ」「そういう状況にならなければ、私たちは婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」と話した[110][111][112][113]。また、古くからの友人に発言の真意を問われ「結婚に反対と受け取ってもらってかまわない」と断言したという[114]。
2020年11月30日、55歳の誕生日を迎えた際の記者会見で眞子内親王と小室圭との結婚について「多くの人が納得し喜んでくれている状況ではないと思っている」が、「婚姻は両性の合意のみに基づく」という日本国憲法第24条に触れ「結婚することを認める」と明言した[115][116]。また会見の最後には「結婚と婚約は違いますから」と述べた[115](皇族に憲法24条は適用されないという学説を唱える木村草太は、眞子内親王には皇位継承権はないため婚姻の自由は認められると述べている[117])。
2021年10月26日、本来であれば女性皇族が結婚する際に行う儀式などが行われない形となった眞子内親王の結婚を受けて秋篠宮夫妻は「皇室としては類例を見ない結婚となった。ご迷惑をおかけした方々に誠に申し訳ない気持ちでいます。二人には幸せな家庭を築いていってくれることを願います」と文書でコメントを公表した[116]。
小室圭について、ジャーナリストの江森敬治が「相手の男性の家庭状況など事前に調べたりされましたか?」と質問すると秋篠宮は「個人情報がいろいろとうるさい時代なので、家庭状況などを調査すること自体に問題があります」と述べ、職業は当初より「パラリーガルのままでよい」との考えをもち、結婚の暁には夫婦がつつましくも自立した生活をすることだけを望んでいたとされる[118]。
(秋篠宮の御希望とは別に小室圭の進学や就職に際しての、客観的に確認できる側近や交友関係者による関与の事実については「小室圭#来歴」を参照のこと)。
2021年11月30日、56歳の誕生日を迎えた際の記者会見で、秋篠宮は長女の眞子と小室圭の結婚について「秋篠宮家以外の皇室にも影響が出た」などと述べた[119]。眞子の体調に影響を与えたとされる週刊誌報道やインターネット上の書き込みについては「誹謗中傷、つまり深く人を傷つけるようなことばというのは、雑誌であれネットであれ許容できるものではない。一定の基準を設けて、それを超えたときには反論を出すとか、そういう基準作りをしていく必要があると思う」と述べた[119]。
その他
[編集]- 成婚を祝う記念番組の一部としてアニメ作品「平成のシンデレラ紀子様物語」も製作・放送(フジテレビ、秋篠宮および同妃の声は同局アナウンサーの笠井信輔と、石川秀美が担当した)されている。
- 政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(皇太子を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王」、「皇嗣文仁親王」[120]とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であってもウェブサイトなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮」の表記も用いられる。
- 『週刊ポスト』1989年4月7日号で「礼宮が兄・浩宮との待遇の差にショックを受け、皇籍離脱したいと発言した」、との記事が掲載されたが憶測記事であったことが判明した[121]。1989年(平成元年)9月21日に行われた公式会見で、徳仁親王は、「弟が皇籍を離脱すると言ったということが一部の雑誌などで取り上げられました。私たち家族としてはそういうことは一度も聞いたことがありませんで、非常にびっくりしたというのが事実ですが、その根拠は何だったのでしょうか。一つの雑誌が取りあげて、それを別の雑誌が引用して独り歩きをするということはやはり困ることだと思いますけれども」と発言した。
- 2006年9月6日8時27分に東京都港区の愛育病院で文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産した際、同病院の待合室に置かれたテレビでNHK連続テレビ小説『純情きらり』(NHK総合テレビ)を視聴していたとされる[122]。
- 2021年10月1日、宮内庁は眞子内親王と小室圭との結婚に際して儀式・結婚式が行われない理由について、秋篠宮がこの結婚を多くの人々が喜んでくれる状況にないと判断したためであることを公表した[123]。同年4月に小室圭が発表した28頁にも渡る文書の裁判書面のような書きぶりにひどく落胆したが、内親王の体調不調があり苦渋の決断をしたと伝えられている[124]。
- 1997年(平成9年)3月からは、旧秩父宮邸を改築して使用していたが、立皇嗣にあたり再び宮邸を改修するため、住居は東京都港区元赤坂の赤坂御用地内にある秋篠宮邸で、改修工事に伴い2022年(令和4年)3月まで「御仮寓所(ごかぐうしょ)」に仮住まいしている[125]。
著作
[編集]※鳥類・家禽関係の著書。
- 『欧州家禽図鑑』(共著。写真と解説を執筆)平凡社、平成6年(1994年)、ISBN 4582518133
- 『鶏と人-民族生物学の視点から』(編著)小学館 平成12年(2000年)、ISBN 4096260622
- 『鳥学大全-「鳥のビオソフィア-山階コレクションへの誘い」』(編纂)東京大学総合研究博物館、平成20年(2008年)、ISBN 4130603507 大著
- 『BIOSOPHIA of BIRDS(鳥のビオソフィア)』(編集)東京大学出版会、2008年、ISBN 4130831526 大著
- 『日本の家畜・家禽 フィールドベスト図鑑』(監修・文)学研 平成21年(2009年)、ISBN 405403506X
- 『ヒトと動物の関係学2 家畜の文化』(共編・文) 岩波書店、平成21年(2009年)、ISBN 4000271083
※魚類
- 『ナマズの博覧誌』(共著・編集)誠文堂新光社(2016年)、ISBN 4416114540
※このほか雑誌ANIMALにも推薦文を寄せている。
関連書
[編集]- 『秋篠宮さま』(江森敬治、毎日新聞社)平成10年(1998年)、ISBN 978-4620312033
- 『秋篠宮』(江森敬治、小学館)令和4年(2022年)、ISBN 978-4093888622
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 皇嗣である文仁親王は、 皇室典範特例法第5条の規定により皇太子と同等の地位として扱われるため、皇室典範第11条第2項の規定により皇族の身分を離れることができない。
- ^ ただし湯浅長官は半年前の6月の記者会見で、皇太子および同妃に対しても第二子を願う発言をしている[11]。
- ^ 「日本オーストリア交流年2009」・「日本・ハンガリー交流年」・「日本・ルーマニア交流年2009」・「日本・ブルガリア交流年2009」の各日本側名誉総裁も含む
- ^ 2017年12月2日、上皇・上皇后がインターメディアテク(東京大学総合研究博物館)の特別展示「植物画の黄金時代-英国キュー王立植物園の精華から」を視察したとき(「両陛下を眞子さまが案内 丸の内の博物館」『毎日新聞』2017-12-2)、特別研究員の眞子内親王(当時)が上皇・上皇后にモルモットの毛皮の展示について説明したときの発言より。このときモルモットについて眞子内親王が「父(秋篠宮)が食べるのが好きで」と紹介すると、上皇は「そうなの」と驚いた様子で答えている。
出典
[編集]- ^ 宮内庁 秋篠宮家
- ^ 宮内庁公式サイト 英語版
- ^ 皇室典範第二十三条第二項「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」
- ^ “秋篠宮さま「口ひげ」に宮内庁が震えた日 宮内庁長官まで反対した“驚きのエピソード””. 2020年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月4日閲覧。
- ^ 「秋篠宮さま イギリス留学時代の秘話 恩師「とても優秀な学生」」『FNNプライムオンライン』 - YouTube
- ^ “文仁親王同妃両殿下ご結婚満25年に際し - 宮内庁”. www.kunaicho.go.jp. 2023年10月9日閲覧。
- ^ 日本経済新聞 1990年6月29日夕刊
- ^ 毎日新聞 1990年1月13日夕刊
- ^ 博士論文タイトル:Molecular Phylogeny of Junglefowls,genus Gallus Monophyletic Origin of Domestic Fowls
- ^ 博士論文書誌データベース
- ^ “皇太子さまの第2子に期待 結婚10年で宮内庁長官”. 共同通信 (2003年6月10日). 2013年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月12日閲覧。
- ^ 読売新聞 2006年2月8日「紀子さまご懐妊、コウノトリほほ笑む 歌会始、夫婦で詠まれ1か月」
- ^ [秋篠宮同妃両殿下のオランダ御訪問 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/netherlands/visit/0909_ad.html]
- ^ “秋篠宮さま初の天皇名代務める 叙勲受章者らと面会”. 共同通信 (2011年11月15日). 2012年1月9日閲覧。
- ^ “皇室会議議員名簿”. 宮内庁 (2019年8月1日). 2019年9月12日閲覧。
- ^ “総裁・秋篠宮皇嗣殿下ご一家から手づくりガウン”. 済生会. 2020年6月5日閲覧。
- ^ a b “秋篠宮さま、立皇嗣の礼 皇位継承第1位を宣言”. 日本経済新聞電子版 (日本経済新聞社). (2020年11月8日) 2020年11月8日閲覧。
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関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 秋篠宮家 - 宮内庁(公式サイト)
- 美智子さまが礼宮文仁親王をご出産 - NHK放送史
- 1965年 礼宮文仁さま誕生 皇位継承権第3位(1965年11月)【映像記録 news archive】 - YouTube(TBS NEWS)
- 【全編】秋篠宮ご夫妻 婚約会見 - YouTube(TBS NEWS)
- 秋篠宮さまと紀子さま ご結婚 - NHK放送史
- 「立皇嗣の礼」 秋篠宮さまが「皇嗣」に - NHK放送史