お印
お印(おしるし)は、日本の皇族が身の回りの品などに用いる徽章・シンボルマーク。御印章とも[1]。
起源
[編集]起源は一般的には江戸時代後期、光格天皇の皇子・皇女らが用いたものとされているが、「内々のしきたりで記録にも残されない。正直言って詳しいことは分からない。」と宮内庁書陵部は発表している[2]。明治時代以降、宮廷内で広く用いられるようになった。皇室典範など法令上の明確な規定はなく、慣例として行われてきた制度である。皇族に仕える者たちが、皇族の名前や称号を書くことは恐れ多いと考え、お印を使うようになったともいわれる[3]。もともとは女性の間で始まったという説もある[4]。
実例
[編集]親王、内親王、王、女王の場合は命名の儀において、内親王と女王をのぞく親王妃、王妃の場合は皇族男子との結婚時に定められる。圧倒的に植物にまつわるものが多いが、そうでない者もいる。決めるのは母あるいは祖母が多いとされるが[3]父母・祖父母や結婚する夫妻などの合議で決めている例も多い[6]。図案については、皇后雅子の場合は東京芸術大学名誉教授の吉田左源二が図案化を担当したと報じられ[7]、外注されている例もある。
また、親兄弟と関連性を持たせたお印も多く、大正天皇の4皇子は全員「若○」の形式であり、三笠宮崇仁親王の子女は全員「木へん」が共通している(なお、名前も全員「ウ冠」が共通)。
単に徽章としてのみならず、宮家を創設した場合の紋や祝賀行事の際のボンボニエールに、お印の意匠が用いられるなど、その人の象徴として用いられている。実際に身の回りのものに刻印されることは少なく、旅行時の荷物の識別のため、タグに「はまなす」など、お印の名前を文字で書き込むことがある[4]。
また、1935年(昭和10年)4月に北白川宮永久王が徳川祥子と結婚した際には、ボンボニエールにそれぞれのお印の意匠を用いたのみならず、祥子のお印「紅梅」に因み、結婚の儀で着用した五衣や唐衣は、紅梅の配色(襲の色目)となっている。ただし、この当時9歳であった昭和天皇の第一皇女成子内親王も紅梅をお印としており、同時代に重複していた例となる。なお後年、成子内親王が盛厚王と結婚後皇籍離脱し、36歳で早世した際には、その墓所には成子のお印の紅梅と、夫盛厚のお印の松が植えられている[8]。
歴代天皇・皇后
[編集]皇子女
[編集]明治天皇皇子女
[編集]大正天皇皇子
[編集]昭和天皇皇子女
[編集]上皇皇子女
[編集]今上天皇皇子女
[編集]皇族
[編集]上皇明仁の皇子を祖とする宮家
[編集]- 秋篠宮家
昭和天皇の皇子を祖とする宮家
[編集]- 常陸宮家
大正天皇の皇子を祖とする宮家
[編集]- 秩父宮家
- 高松宮家
- 三笠宮家
三笠宮崇仁親王の子孫
[編集]- 桂宮家
- 高円宮家
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 1933年12月 読売新聞「日嗣の皇子へ「栄」の御印章」ほか
- ^ 2006年9月12日 中国新聞
- ^ a b 椎谷 2002 p.133
- ^ a b 椎谷 2002 p.166-168
- ^ a b 田中 2017 p.7
- ^ “皇室の系図-皇室とっておき”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2016年1月31日閲覧。
- ^ 毎日新聞社 編『[ご結婚記念]皇太子殿下と雅子さま』(第2刷)毎日新聞社、1993年、147頁。
- ^ 北條誠、酒井美意子、霜山操子『皇女照宮』秋元書房、1973年7月。ASIN B000J9GT2U。 p.270-272(写真及び墓碑より)
- ^ a b c d e f g h 『華ひらく皇室文化』 2018 p.6-7
参考文献
[編集]- 椎谷哲夫『敬宮愛子さまご誕生 宮中見聞記』明成社、2002年2月。ISBN 978-4944219100。
- 田中潤「北白川宮永久王 同妃両殿下の料」『学習院大学史料館 ミュージアムレター』第34号、学習院大学史料館、2017年4月。
- 小松大秀監修『明治150年記念 華ひらく皇室文化 −明治宮廷を彩る技と美−』青幻社、2018年4月。ISBN 978-4861526442。