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田中卓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田中 卓
たなか たかし
人物情報
生誕 1923年12月12日
死没 (2018-11-24) 2018年11月24日(94歳没)
出身校 旧制浪速高等学校文科乙類
東京帝国大学文学部国史学科(学士)
國學院大學(博士)
学問
学派 皇国史観
研究分野 古代史
研究機関 皇學館大学
指導教員 平泉澄
学位 文学博士國學院大學
影響を受けた人物 平泉澄
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田中 卓(たなか たかし、大正12年(1923年12月12日 - 平成30年(2018年11月24日[1])は、日本歴史学者皇學館大学名誉教授専門は日本古代史。

皇學館大学学事顧問、皇學館大学学長有限会社青々企画代表を務めた。平泉澄の弟子。学位は、文学博士(旧制・國學院大學)。大阪府出身。

人物・略伝

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東大在学時代

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東京帝國大學に入学して間もない1942年昭和17年)、当時文学部国史学科の主任教授であった平泉澄が主宰する青々塾に入塾。また平泉が指導する学生団体、東大朱光会に入会し、1943年(昭和18年)、同会の幹事となった。1944年(昭和19年)9月に、学徒出陣し、海軍予備学生として、土浦海軍航空隊に入隊した。翌1945年(昭和20年)2月に、兵庫県神戸市垂水の海軍経理学校に配属され、日本史等を講義した。6月、海軍少尉正八位)に任ぜられ、8月、終戦を迎えた。9月、東京帝國大學文学部国史学科を卒業した[2]

歴史研究

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戦後、平泉が構築した「平泉史学」[3]の正統の継承者として[4]、日本古代史(古代・上古史)を中心に研究。その著述は多数に亙る。ただ、1949年(昭和24年)8月に発表された処女論文「新撰姓氏録撰述の次第」は、歴史論文でありながら京都大学発行の『国語国文』という国文学系の雑誌に掲載された[要出典]

また、唯物史観全盛期であったため、論文を発表する専門誌が得られず、新しい学術雑誌[5]の創刊に関与したり、神社関係の叢書等で論文を発表した[6]。それ故、論考が多数あるにもかかわらず、そのほとんどが歴史学界において無名の雑誌に掲載されていたがため、それを入手・閲覧するには困難な状況であった。それに応えるべく、田中の還暦を期として彼の著作集が刊行された[7]

なお、田中は、大阪社会事業短期大学在職中の1954年(昭和29年)1月に、井上薫岸俊男直木孝次郎と共に続日本紀研究会を結成した[要出典]

政治問題・教育問題

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田中は、専門の古代史研究のほかに、政治問題教育問題等を扱った著述も数多くある。一水会の顧問である鈴木邦男は、学生時代に右派学生運動をする際、理論武装のために田中の著作を読んだと自らの著作に記している(鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書、2006)。鈴木ら新右翼学生運動が打倒する対象としたYP体制(戦後の体制をヤルタ会談ポツダム宣言に基づく占領支配体制と位置づけたもの)の生みの親は田中であると言われている[8][9][10]

「建国記念日」制定問題

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戦前の「紀元節」であった2月11日を「建国記念日」とすることに賛成の立場から、田中は、1958年(昭和33年)4月に、住吉大社宮司高松忠清の協力を得て、平泉澄ら25名の執筆による『神武天皇紀元論』を刊行。当時、「2月11日」について反対の意を表明していた三笠宮崇仁親王に進呈した。当時、「2月11日」については賛否両論に分かれ、東京大学の歴史学関係者が「建国記念日二月十一日反対の要望書」を建国記念日審議会に提出するほどであった。1966年11月には、建国記念日審議会の場で、竹内理三と、東京大学史学会総会で史学会理事の井上光貞と、「2月11日」についての議論をおこなった[要出典]

教育問題

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教育問題では、日本教師会を結成し自ら会長となり、日本教職員組合中心の教育界に一石を投じた。また、1967年(昭和42年)11月、『最新日本史』出版をしているが、これは、昭和41年度高等学校日本史教科書検定において不合格となった教科書である。なお、教科書の検定問題について、前年の1966年4月、当時教科書検定訴訟を起こしていた東京教育大学教授家永三郎と、日本テレビの番組「未来への行進」にて討論をした。「家永のように、教科書検定の合否を裁判所に持ち込み、裁判官の判決によって学問の可否が決するのは学問の冒涜であり、学者として失格である」と批判している。また、高等学校教科書検定について、著者の学問的良心に基づく歴史観と、教科書は採用する側である教師と、読者たる高校生による真摯な検討の自由こそ尊重すべきで、特定の政策目標のための枠を当てはめてはならないとして、反対の立場をとっている[要出典]

晩年の活動

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2004年(平成16年)から2006年(平成18年)にかけて、オピニオン雑誌「諸君!」誌上で「祖国再建-正統史学を貫く一学徒六十年の闘い」と題して、自らの研究を一般の読者向けに回顧・解説する連載をした。この連載は、田中の83歳の誕生日である2006年12月12日に、彼の評論集の3巻・4巻として出版された。

また、皇室典範改正問題では、女性天皇女系天皇容認の立場を取り、多くの保守派・右翼からの批判にさらされた[9]。なかでも上記『諸君!』連載にて田中が論じた女系天皇容認論(皇室典範に関する有識者会議の報告書への支持)[11]に対して新田均(皇學館大学教授)による『諸君!』誌上での反対論文[12]発表は、これに対して田中が更に反論[13]を加える事態に発展し、皇學館大学内部でも女系天皇問題に対し意見の対立が存在することを示すこととなった[14]

2012年には、女性宮家創設について、小林よしのりが編集する『わしズム』にその正当性を主張する論文を発表した。

2018年11月24日、慢性腎不全のため死去[1][15]。94歳没。叙従四位正八位から進階)[16]

略年譜

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学歴・職歴

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その他の活動

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著書

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単著

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  • 住吉大社神代記』 住吉大社神代記刊行会 1951年10月
  • 神宮の創祀と発展』(神宮教養叢書第5集) 神宮司庁教導部 1959年3月
  • 『愛国心の目覚め』 至文堂 1962年10月
  • 『住吉大社史(上巻)』 住吉大社奉賛会 1963年7月
  • 『祖国を見直そう』 実業之世界社 1967年7月
  • 『最新日本史』 育誠社 1967年11月
  • 『祖国は呼びかける』 太陽社 1973年1月
  • 『日本古典の研究』 皇學館大學出版部 1973年5月
  • 『日本国家成立の研究』 皇學館大學出版部 1974年3月
  • 『海に書かれた邪馬台国 ついに明かされた女王国の秘密』 青春出版社 1975年10月
  • 『古代天皇の秘密 鉄刀<115字>が証かす日本国家のルーツ』 太陽企画出版 1979年2月
  • 皇国史観の対決』 皇學館大學出版部 1984年2月
  • 伊勢神宮式年遷宮』 皇學館大學出版部 1987年12月
  • 『歴史と伝統 この大学を見よ』 皇學館大學出版部 1988年8月
  • 『住吉大社史(中巻)』 住吉大社奉賛会 1994年11月
  • 愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』幻冬舎新書 2013年12月

講演録

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  • 平成時代の幕明け 即位礼大嘗祭を中心に』新人物往来社 1990年11月
    「天皇と神道の関係」(所功大原康男小堀桂一郎と)
  • 『日本国家の成立』、1992年7月、以下は講演冊子:國民會館叢書 
  • 『歴史家として観た戦後五十年―YP(ヤルタ会議ポツダム会議)体制の克服と国連体制の崩壊』1996年3月
  • 『「日本」の国号と「日の丸」「君が代」について―国旗国歌の法制化にむけて』 1999年7月
  • 『日本の建国史―三替統合の精華』、2003年12月 
  • 女帝・女系反対論に対する批判と私見、原則―「有識者会議」報告に賛同し、政府案に要望す』、2006年1月
  • 『皇統の「万葉一統」を護持するために 女性宮家創設の是非をめぐって』、2012年3月

著作集

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  • 『田中卓著作集』(全12巻) 国書刊行会
    • (1)神話と史実 1987年2月
    • (2)日本国家の成立と諸氏族 1986年10月
    • (3)邪馬台国と稲荷山刀銘 1985年4月
    • (4)伊勢神宮の創祀と発展 1985年6月
    • (5)壬申の乱とその前後 1985年9月
    • (6)律令制の諸問題 1986年5月
    • (7)住吉大社神代記の研究 1985年12月
    • (8)出雲国風土記の研究 1988年5月
    • (9)新撰姓氏録の研究 1996年9月
    • (10)古典籍と史料 1993年8月
    • (11-1)神社と祭祀 1994年8月
    • (11-2)私の古代史像-付総目次- 1998年7月
  • 『続 田中卓著作集』(全6巻) 国書刊行会
    • (1)伊勢・三輪・賀茂・出雲の神々 2011年12月
    • (2)古代の住吉大社 2012年3月
    • (3)考古学・上代史料の再検討 2012年6月
    • (4)日本建国史と邪馬台国 2012年9月
    • (5)平泉史学の神髄 2012年12月
    • (6)出陣学徒の終戦史録 2013年3月

評論集

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  • 『田中卓評論集』全4冊 「青々企画
    • (1)愛国心と戦後五十年 1998年10月
    • (2)平泉史学と皇国史観 2000年12月
    • (3)祖国再建(上)〈建国史を解く正統史学〉 2006年12月
    • (4)祖国再建(下)〈わが道を征く六十余年〉 2006年12月

編著

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共著

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  • 大正昭和 福井県史・下巻』 福井県 1957年3月
  • 『神道のこころ』 国民思想社 1965年12月
  • 枚方市史・第3巻史料編(2)』 大阪府枚方市役所 1966年3月
  • 『創立九十年再興十年・皇學館大學史』 皇學館大學 1972年10月
  • 『伊勢神宮と日本文化』(神宮教養叢書別冊6)神宮文庫 1990年4月

共編著

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校訂

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  • 神道大系本『新撰姓氏録』 神道大系編纂会 1981年2月
  • 神道大系本『神道五部書』 神道大系編纂会 1993年7月
  • 神道大系本『風土記』 神道大系編纂会 1994年3月

参考文献

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  • 渡辺寛「田中先生の御退任にあたって」 『皇學館史學』7・8(合併号)1993年3月
  • 渡辺寛「田中先生の略歴と著述(歴史関係)」 『皇學館史學』7・8(合併号) 1993年3月
  • 「田中卓名誉教授略歴及び研究業績」 『皇學館大学紀要』33 1995年1月
  • 田中卓『教養日本史(新装第八版)』 青々企画 1997年10月、『概説日本史』1982年の改題新装
  • 田中卓『私の古代史像-付総目次-』(田中卓著作集11 - II) 国書刊行会 1998年7月
  • 田中卓『愛国心と戦後五十年』(田中卓評論集1) 青々企画 1998年10月
  • 田中卓『平泉史学と皇国史観』(田中卓評論集2) 青々企画 2000年12月
  • 田中卓『祖国再建 上〈建国史を解く正統史学〉』(田中卓評論集3) 青々企画 2006年12月
  • 田中卓『祖国再建 下〈わが道を征く六十余年〉』(田中卓評論集4) 青々企画 2006年12月

脚注

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  1. ^ a b 田中卓氏が死去 元皇学館大学長”. 日本経済新聞 (2018年11月25日). 2024年12月12日閲覧。
  2. ^ 著者紹介”. 田中卓著作集 2 日本国家の成立と諸氏族. 国書刊行会. 2024年11月24日閲覧。
  3. ^ 一般には皇国史観と呼ばれるが、田中は「皇国護持史観」と呼ぶ
  4. ^ 「私は東大における平泉史学門下といて最後の一人」『皇国史観について』『皇學論集』1969収
  5. ^ 『藝林』『神道史研究』『日本上古史研究』など
  6. ^ 下記著作リスト参照
  7. ^ 「晩年の活動」および著作リスト参照
  8. ^ 『右翼事典』(堀幸雄編 三嶺書店、1991)
  9. ^ a b (惜別)田中卓さん 元皇学館大学長・古代史研究者”. 朝日新聞デジタル (2019年1月12日). 2019年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月24日閲覧。
  10. ^ 鈴木邦男をぶっとばせ! 謹賀新年。馬力を出して頑張りましょう!”. kunyon.com (2014年1月6日). 2024年11月24日閲覧。
  11. ^ 『女系天皇で 問題ありません寛仁親王殿下へ ー歴史学の泰斗からの諫言』諸君 2006年3月号/再掲:幻冬舎PLUSE 2019/4/28
  12. ^ 新田均『師・田中卓氏への諫言 女系天皇は、なりません』諸君 2006-04
  13. ^ 田中卓『新田均氏への返書 "女系天皇"の是非は君子の論争で』諸君 2006-05
  14. ^ 新田均は小林よしのりからの批判への反論として自身のブログで以下のように語っている。「私としては黙っていられない事態でした。黙っていれば、皇學館は全学あげて女系論賛成だと誤解されかねません。國學院の先生が田中先生を批判されたら、皇學館対國學院という本質とは関係のない対立図式で語られることになりかねませんでした。したがって、どうしても、皇學館の内部から批判の声が上がる必要があったのです。」新田均のコラムブログ『田中卓氏を批判せざるを得なかった理由』 2011/03/15
  15. ^ 訃報:田中卓さん94歳=元皇学館大学長”. 毎日新聞 (2018年11月24日). 2024年11月24日閲覧。
  16. ^ 『官報』7422号、平成31年1月8日
  17. ^ 「98年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、及び外国人の受章者一覧」『読売新聞』1996年11月3日朝刊

関連項目

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外部リンク

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