一条実良
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保6年2月28日(1835年3月26日) |
死没 | 慶応4年4月24日(1868年5月16日) |
別名 | 号:華厳光寺 |
墓所 | 青山霊園 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 一条家 |
父母 | 父:一条忠香、母:家女房 |
兄弟 |
実良、明子、美子 養兄弟:峯、美賀子、千代 |
妻 | 正室:近衛総子(近衛忠煕の娘) |
子 | 良子、亨子、養子:忠貞 |
一条 実良(いちじょう さねよし)は、江戸時代後期の公卿。左大臣・一条忠香の子。幼名は嘉多丸。官位は従一位・右大臣。一条家23代当主。法号は華厳光寺。昭憲皇太后(明治天皇皇后)の異母兄。
横浜港の閉鎖などを建言する。慶応3年(1867年)12月に王政復古の大号令が発せられ、公武合体派であることを理由に参内を停止された。
経歴
[編集]嘉永元年(1848年)8月7日に叙従三位。安政5年(1858年)に権大納言となる。文久2年(1862年)に国事御用掛となる。
慶応3年(1867年)に右大臣となる。同年11月13日に叙従一位。
慶応4年(1868年)、薨去。享年34。
系譜
[編集]備考
[編集]- 京都の祇園祭の山鉾のひとつ・函谷鉾には、幼少期の実良(嘉多丸)をモデルにした稚児人形「嘉多丸君(かたまるぎみ)」が乗せられている。1839年に函谷鉾が再建された際、稚児に代わってはじめて稚児人形を乗せるにあたり、人形制作を依頼された大仏師の七条左京が左大臣一条忠香(実良の父)に相談したことによる。忠香は嘉多丸をモデルにすることを許可し、完成した人形に「嘉多丸」と命名した[1][2]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “稚児人形”. 公益財団法人函谷鉾保存会. 2020年7月16日閲覧。
- ^ “函谷鉾の「嘉多丸君」、モデル子孫が対面へ 祇園祭巡行にも参加”. 京都新聞. (2019年6月22日). オリジナルの2020年8月13日時点におけるアーカイブ。 2020年7月16日閲覧。