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「門司区」の版間の差分

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|市= 北九州市
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'''門司区'''(もじく)は、[[政令指定都市]]である[[福岡県]][[北九州市]]を構成する7区の[[行政区]]の一つ。[[1963年]](昭和38年)2月10日に北九州市が発足するまで存在した旧[[門司市]]の市域に相当する。
[[ファイル:門司港.JPG|250px|right|thumb|門司港地区]]
'''門司区'''(もじく)は、[[福岡県]][[北九州市]]を構成する7区の[[行政区]]の一つ。旧[[門司市]]の市域に相当する。


== 地理 ==
== 概要 ==
[[九州]]の北端に位置しており、[[企救半島]]の大半の地域を占めいる。
[[九州]]の北端、[[企救半島]]にあり、同半島の大半を占める。西側は[[関門海峡]]を挟んで[[下関市]]と向か合い、東側は[[周防灘]]に面し、南側は[[小倉北区]]・[[小倉南区]]に接す(→''[[#位置|位置]]'')


本州から九州への玄関口であり、また、[[日本海]]と[[瀬戸内海]]を結ぶ海路を押さえる場所でもあり、古くから交通の要地であった。[[豊国]](後に[[豊前国]])企救郡に属し、[[大化の改新]]の頃に関所(門司関)が設けられたと推測される。「門司」の名の初出は、[[天平]]年間の[[木簡]]であり、「門を司る」すなわち関所の意味と考えられる(→''[[#飛鳥・奈良・平安時代|飛鳥・奈良・平安時代]]'')。
[[奈良時代]]には門司に関所が置かれていたことが知られ<ref>「延暦15年11月21日太政官符」『類聚三代格」巻16、なお同官符は延暦15年(796年)に九州からの船が門司を通過しなくても良い例外を定めたものであり、関所はそれ以前から設置されていたことになる。</ref>、[[鎌倉時代]]には[[北条得宗家]]の所有<ref>「将軍守邦王袖判過書案」『鎌倉遺文』28695号、ただし同書を奉じているのは御内人(北条氏直臣)の長崎高資であるため北条高時の命で出された「元亨4年3月9日長崎高資奉書案」とするのが正しい(須田、2011年、P134)。</ref>となり、[[鎌倉幕府]]滅亡後に[[足利尊氏]]に恩賞として与えられた<ref>「足利尊氏所領注文案」『南北朝遺文 九州編』6916号。</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[周防国]]の[[大内氏]]が[[長門国]]と[[豊前国]]に進出し、関門海峡の両岸を支配した。門司の領主とみられる[[門司能秀]]が[[文明 (日本)|文明]]年間に大内氏の奉行人であったことが知られている<ref>須田牧子「日朝国家間外交における大内氏の地位」『中世日朝関係と大内氏』(東京大学出版会、2011年)</ref>。


平安末期には、九州北部との結び付きの強かった[[平氏]]が門司を支配したと考えられ、[[屋島の戦い]]に敗れた平氏は、門司関に拠り、この地に[[安徳天皇]]の「柳の御所」を構えたが、関門海峡の[[壇ノ浦の戦い]]で敗れ、滅亡した。その後は[[平家没官領]]として[[鎌倉幕府]]に与えられた。13世紀半ば、下総親房が[[得宗]]によって[[地頭]]職に任命されて門司関に下向し、その後土着化して門司氏を称するようになった。鎌倉時代後期に豊前国[[守護]]として企救郡を支配したのは北条氏の一族[[北条氏 (金沢流)|金沢氏]]であった(→''[[#源平合戦・鎌倉時代|源平合戦・鎌倉時代]]'')。
国道・鉄道の[[関門トンネル]]や高速道路の[[関門橋]]、[[関門連絡船]]など九州と本州を結ぶ交通の要所となっており、関門海峡を挟んで位置する[[山口県]][[下関市]]との関係が強い。また企救半島東部の[[周防灘]]に面した[[新門司]]地区にはフェリーターミナルがあり、関西方面への旅客便が就航している。


南北朝時代、九州北部では、[[北朝 (日本)|北朝]][[九州探題]]方に対し[[南朝 (日本)|南朝]]宮方([[懐良親王]]派)が次第に優勢となったが、門司氏一族は探題方と宮方に分裂し、[[門司城]]や猿喰城をめぐって攻防戦が続いた(→''[[#南北朝時代|南北朝時代]]'')。戦国時代には、中国地方の大守護[[大内氏]]が門司氏を[[国人]]として家臣団に組み込みながら、北九州に勢力を及ぼした。門司は、[[日明貿易]]の拠点としても重要な役割を果たした(→''[[#大内氏|大内氏]]'')。[[陶晴賢]]の謀反によって大内氏が滅ぶと、戦略上の要地であった門司城は[[毛利元就]]と[[大友義鎮]](宗麟)との間で度重なる奪取合戦の的となった(→''[[#門司城の戦い|門司城の戦い]]'')。[[豊臣秀吉]]の[[九州国分]]で、門司を含む企救郡は[[毛利勝信]]に与えられた(→''[[#安土桃山時代|安土桃山時代]]'')。
また、近代は[[石炭]]の積み出しや貿易の中継基地としての役割をもつ港湾都市として栄えた。[[門司港 (地区名)|門司港地区]]周辺は大陸との貿易港として栄え、当時の繁栄を偲ばせる建物群が数多く残り、「[[門司港レトロ]]」として観光エリアとなっている。「[[バナナの叩き売り]]」も門司港が貿易で栄えた時代に誕生したものである。


[[関ヶ原の戦い]]後、豊前国は[[細川忠興]]に与えられ、門司は小倉藩の統治下に置かれた。[[一国一城令]]によって門司城は破壊された(→''[[#細川氏|細川氏]]'')。[[1632年]]に移封した細川氏のあとに[[小笠原忠真]]が入国し、小倉藩を引き継いだ。大里地区は関門海峡を渡る際の宿駅・港町として各藩の[[本陣]]が設けられたが、[[北前船]]航路の寄港地として繁栄した下関に比べると、田野浦港が風待ち、汐待ちの補助的な港として利用されたにとどまった。今の門司港地区は、[[塩田]]が広がるひなびた土地であった(→''[[#小笠原氏|小笠原氏]]'')。開国後、小倉藩は[[佐幕]]派に立ち、[[第二次長州征討]]に際しては、幕府から尊攘倒幕派の[[長州藩]]への討ち入りを命じられたが、逆に長州軍が田野浦や大里に上陸して侵攻してきて小倉藩は撤退を余儀なくされ、門司を含む企救郡は、明治3年まで長州藩の占領支配下に置かれた(→''[[#幕末・明治維新|幕末・明治維新]]'')。

寒村であった門司の転機が、[[1889年]](明治22年)以降の築港と鉄道敷設であり、門司港は[[筑豊]]の[[石炭]]の輸出港として急速に発展を始めた。商社や金融機関が次々門司港に支店を構え、大里地区には[[鈴木商店]]系の製糖・製粉などの工場が建設された。[[1899年]](明治32年)にはいち早く[[市制]]施行し門司市が成立した(→''[[#明治時代|明治時代]]'')。大正時代にかけて、門司港は石炭輸出からセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品輸出・原料輸入にシフトしていき、日本有数の貿易港として栄えた。「[[バナナの叩き売り]]」も名物となった。門司港地区には銀行や商社が集まり、「一丁倫敦」と呼ばれた。一方、港湾労働者の生活水準は低く、[[米騒動]]も大規模化した(→''[[#大正時代|大正時代]]'')。昭和期に入ると[[大連]]航路などの国際航路も開けた。貨物量の激増を受けて[[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]が開通したのは[[1942年]](昭和17年)である。[[太平洋戦争]]末期には、門司は度々空襲を受けたほか、関門海峡への[[機雷]]投下を受け、海峡が封鎖される事態となった(→''[[#戦前から太平洋戦争|戦前から太平洋戦争]]'')。

戦後は、機雷による港湾閉鎖が長期化したこと、主要な貿易先であった中国との国交が断たれたことなどから、門司港の地位は低下していった。[[1963年]](昭和38年)、門司市は[[小倉市]]、[[若松市]]、[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]、[[戸畑市]]と五市対等合併し、[[北九州市]]の門司区となった。[[1958年]](昭和33年)の[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]開通に続き、[[1973年]](昭和48年)の[[関門橋]]開通、[[1975年]](昭和50年)の新幹線開通により、門司の通過点化が進み、企業は小倉や[[福岡市]]に流出し、経済はますます沈滞した。[[末吉興一]]市長が打ち出した「[[門司港レトロ]]」構想によって、門司港地区に残る歴史的建造物の保存・活用が行われ、[[1995年]](平成7年)にグランドオープンした。その後も観光開発が進み、賑わいが生まれた。一方、観光以外の地域の活性化には課題もある(→''[[#戦後|戦後]]'')。

旧門司市の[[人口]]は明治時代から急速に増加し、[[1959年]]に16万人余りのピークに達したが、その後門司区時代を通じて減少を続け、[[2015年]]以降、10万人を割り込んでいる。人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36.5%と、北九州市の中でも高い(→''[[#人口|人口]]'')。

門司区内の地域を見ると、[[門司港駅]]を中心とする[[門司港 (地区名)|門司港]]地区は、門司港レトロの歴史的建造物や観光施設、宿泊施設、商業施設が立ち並び、年間200万人が訪れる。その北側に位置する和布刈地区は、レトロ事業と同時期に海峡めぐり推進事業により[[和布刈公園]]周辺が整備されている。[[門司駅]]を中心とする[[大里 (北九州市)|大里]]地区では、[[サッポロビール]]九州工場が閉鎖されるなど経済的な衰えもあるが、その跡地の煉瓦造りの工場を[[門司赤煉瓦プレイス]]として開業するなど、観光客の誘致に取り組んでいる。近年ではマンションが増えつつある。[[周防灘]]に面した[[新門司]]地区には、港湾設備、臨海工業用地が整備されている。太刀浦には、西日本有数の[[コンテナターミナル]]がある(→''[[#地域|地域]]'')。

== 位置 ==
{| border="0" align="left" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:Moji-ku from space.jpg|260px|center|門司区の航空写真]]
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:45%;top:33%;color:orange">'''門司区'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:45%;top:23%">'''[[門司港 (地区名)|門司港]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:28%;top:47%">'''[[大里 (北九州市)|大里]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:70%;top:75%">'''[[新門司]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:54%;top:17%">[[File:BlackMountain.svg|10px]][[和布刈公園|古城山]] 175m</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:50%;top:28%">[[File:BlackMountain.svg|10px]]三角山 194m</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:45%;top:40%">[[File:BlackMountain.svg|10px]][[風師山]] 362.2m</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:43%;top:44%">[[File:BlackMountain.svg|10px]]矢筈山 266m</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:40%;top:58%">[[File:BlackMountain.svg|10px]]戸ノ上山 517.8m</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:20%;top:80%">[[File:BlackMountain.svg|10px]][[足立山]](小倉北区)597.8m</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:3%;top:3%">''[[響灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;right:3%;top:60%">''[[周防灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:30%;top:20%">''[[関門海峡]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:3%;top:60%">{{LinkColor|orange|小倉北区}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:30%;top:90%">{{LinkColor|orange|小倉南区}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:20%;top:10%">{{LinkColor|orange|下関市}}</div>
</div>
|}
北九州市門司区は、[[九州]]の北端、[[企救半島]]にあり、同半島の大半を占める。

西側は、[[関門海峡]]を挟んで、[[本州]]の西端である[[山口県]][[下関市]]と向かい合っている。現在、下関市とは、[[海底トンネル]]である関門トンネル([[関門トンネル (国道2号)|国道]]、[[関門トンネル (山陽本線)|山陽本線]]等)や[[関門橋]]によって結ばれている。

東側は、[[瀬戸内海]]の南西部に当たる[[周防灘]]に面している。

南側は、企救半島西側では北九州市[[小倉北区]]に接し、企救半島東側では[[小倉南区]]に接する。門司区と小倉北・南両区は、古代から[[豊前国]][[企救郡]]として共通する歴史を歩んできた。

門司区の面積は73.67平方キロメートルである<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000845532.xls |title=北九州市推計人口(令和元年7月1日現在) |format=XLS |publisher=北九州市 |accessdate=2019-08-12}}([https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0373.html 北九州市「推計人口、及び推計人口異動状況(Excel版)」]より取得)</ref>。北九州市の面積の約15%を占める<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 33)]]。</ref>。

== 自然 ==
=== 地形・地質 ===
{{顕生代}}
企救半島は、山がちであり、[[筑紫山地]](横谷により東から[[福智山地]]、[[三郡山地]]、[[脊振山地]]に分かれる)のうち福智山地の北東延長に当たる<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 83-85)]]。</ref>。区内最高地は戸ノ上山(標高518メートル)である<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/page/toukei/sougou/nenkan/02/0205.xlsx |format=XLS |title=市域の標高 |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |accessdate=2019-09-08}} [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0316.html 北九州市統計年鑑【2. 土地、気象】]より取得。原データは[[国土地理院]]。</ref>。

企救半島には、[[古生代]][[ペルム紀]]の[[付加体]]である'''[[秋吉帯]]'''の南西延長に当たる地層群が分布している<ref>[[#日本地質学会|日本地質学会 (2010: 177, 178)]]。</ref>。付加体は、[[ユーラシア大陸]]の縁辺部に[[プレート]]が沈み込むに際して、沈み込み帯の深い海底で付加された[[基盤岩]]類であり、当時は九州は陸地ではなかった<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 13)]]。</ref>。中国地方各地の秋吉帯と同様、北部九州の秋吉帯は、大規模な[[石灰岩]]体を含むのが特徴であり、そのほか[[玄武岩]]質岩、[[チャート (岩石)|チャート]]、[[砂岩]]、[[泥岩]]などを含む。小倉南区以南の[[平尾台]]などでは[[白亜紀]][[花崗岩]]類の貫入によって熱変性を受けているが、企救半島では花崗岩の大規模な貫入岩体が見られず、熱変性が弱く、ところによって[[化石]]を産出することがある<ref>[[#日本地質学会|日本地質学会 (2010: 178)]]。</ref>。白野江では、古生代から中生代にかけて海底にいた[[ウミユリ]]の化石を含んだ[[梅花石]]が出土し、その岩層は福岡県の天然記念物に指定されている<ref>[[#田郷|田郷 (1987上: 2-4)]]、[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 297, 309)]]。</ref>。

九州北部(内帯)は、[[中生代]][[白亜紀]]に隆起して陸化し、以後、[[新生代]]を通じて、概して陸上での侵食と火山活動が進行した<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 13)]]。</ref>。企救半島北西部では、秋吉帯は、下部白亜系'''[[関門層群]]'''で覆われている<ref>[[#日本地質学会|日本地質学会 (2010: 178)]]。</ref>。関門層群は、九州北部から中国地方西部に分布する非海成下部白亜系であり、下部の脇野亜層群と上部の下関亜層群から成る。脇野亜層群は、[[礫岩]]、砂岩、泥岩などの非火山性[[砕屑岩]]から成る湖成堆積物が卓越し、一方、下関亜層群は、[[安山岩]]、[[デイサイト]]、[[火山砕屑岩]]を主とする。企救半島北西部は主に脇野亜層群で覆われている<ref>[[#日本地質学会|日本地質学会 (2010: 222-23)]]。</ref>。[[小倉北区]]の脇野亜層群から[[ニシン科]]魚類化石、淡水生の貝化石、石灰藻類の化石が発見されたことから、この時代(約1億2000万年前の白亜紀初期から中期)、筑豊・北九州地方は湖だったことが分かった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 2-3)]]。</ref>。

筑紫山地が福智山地、三郡山地、背振山地に分割されたのは、[[古第三紀]](6600万年前-2300万年前)に発生した[[正断層]]を伴う[[堆積盆地]]の形成によると考えられる<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 84)]]。</ref>。[[新第三紀]][[中新世]](2300万年前-)以降、[[日本海]]が生じ、現在の[[日本列島]]の形に近づいていった。北部九州の地形の骨格は、この第三紀に形成された<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 292, 298)]]。</ref>。[[第四紀]][[更新世]](258万年前-)に入り、筑紫山地はゆっくり侵食削剥が続いた。最終[[間氷期]](12.5万年前)には現在とほぼ同じ海岸線となったが、[[氷期]]には玄界灘や瀬戸内海が陸化した<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 295, 297)]]。</ref>。[[関門海峡]]は、[[最終氷期]](7万年前-1万年前)に、陸化した土地に河川が発達したのが原形であると考えられる<ref>{{Cite web |url=http://www.kmnh.jp/geo/21.html |title=北九州市の貴重な地質遺産――ジオポイント・バーチャル説明板:関門海峡 |publisher=北九州市立自然史・歴史博物館 |accessdate=2019-08-19}}</ref>。関門海峡の海底には、[[花崗岩]]類が露出していることから、古生層より侵食に弱い花崗岩類が差別的に侵食されたものと考えられる<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 85)]]。</ref>。1.5万年前以降、急激な海面上昇が生じ、[[完新世]]の7000年前に関門海峡が通じた<ref>[[#町田ほか|町田ほか (2001: 300)]]。</ref>。

=== 気候 ===
{{Climate chart|[[下関市|下関]]
| 4.5 | 9.4 | 75.5
| 4.6 | 10.1 | 81.2
| 7.0 | 13.1 | 128.4
| 11.4 | 18.0 | 135.5
| 15.8 | 22.1 | 165.5
| 19.9 | 25.5 | 274.8
| 24.0 | 29.4 | 287.1
| 25.4 | 30.9 | 153.3
| 22.0 | 27.5 | 173.9
| 16.6 | 22.6 | 70.3
| 11.5 | 17.2 | 78.8
| 6.9 | 12.2 | 60.2
|float=right
|clear=both
|source={{Cite web |url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=81&block_no=47762&year=&month=&day=&view= |title=下関 平年値(年・月ごとの値) 主な要素 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2019-08-13}}(1981年-2010年の平年値)
}}
門司近傍で[[気象庁]]観測所がある[[下関市|下関]]の平年気温・降水量は雨温図のとおりである。

門司の気候は、[[瀬戸内海式気候]]と[[日本海側気候]]の中間的な性質を持つ。九州北部地方の特徴として、冬型の[[西高東低]]の[[気圧配置]]になると曇天になることが多く、雪が降ることもあるが、冬の降水量は少ない<ref>{{Cite web |url=http://www.jma-net.go.jp/fukuoka/kaiyo/tenkou_column1.html |title=【コラム1】九州北部地方(福岡)の気候は日本海型? |publisher=[[福岡管区気象台]] |accessdate=2019-08-13}}</ref><ref>[[#野澤|野澤ほか編 (2012: 142)]]。</ref>。一方、[[梅雨]]期は、[[前線 (気象)|前線]]が停滞しやすくなり、降水量が多い<ref>{{Cite web |url=http://www.jma-net.go.jp/fukuoka/kaiyo/tenkou_main.html |title=九州北部地方の天候の特徴(解説) |publisher=福岡管区気象台 |accessdate=2019-08-13}}</ref><ref>[[#野澤|野澤ほか編 (2012: 141-42)]]。</ref>。関門海峡は、春先にはしばしば濃い霧が発生する<ref>{{Cite web |url=https://www.pa.qsr.mlit.go.jp/kanmon/2kanmon/index2-3.html |title=関門海峡の気候の特徴 |publisher=関門航路事務所 |accessdate=2019-08-13}}</ref>。
{{Clear}}
== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 縄文・弥生時代 ===
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - 市制・町村制施行により、[[企救郡]](きくぐん)のうち門司村・田野浦村(たのうらむら)・小森江村(こもりえむら)が合併し文字ヶ関村(もじがせきむら)が発足。また、柳ヶ浦村(やなぎがうらむら)、東郷村(とうごうむら)、松ヶ江村(まつがえむら)も成立。
企救半島東側の猿喰や平山では、[[縄文時代]]のものと見られる[[土坑墓]]が発見され、櫛毛川や中畑では、土器、[[鏃]]が発見されている。これらは、[[九州自動車道]]建設の際の調査で発見された。櫛毛川遺跡で発見された土器は、小さな破片ばかりである。中畑遺跡では、[[竪穴式住居]]跡が確認された<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063477.pdf |title=門司の歴史:縄文時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref><ref>[[#田郷|田郷 (1987上: 22-30)]]。</ref>。
* [[1894年]](明治27年)[[8月1日]] - 企救郡文字ヶ関村、町制施行と同時に名称変更、門司町(もじまち)となる。

* [[1899年]](明治32年)4月1日 - 企救郡門司町、[[市制]]施行により'''[[門司市]]'''となる。
[[弥生時代]]の遺跡としては、大里地区の大里桃山遺跡、企救半島東側の大積浜方遺跡で、土器等が出土している<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063478.pdf |title=門司の歴史:弥生時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。弥生時代、稲作の先進地域だった北部九州の中でも、[[遠賀川]]以東の北豊前は、遠賀川以西([[福岡平野]]、[[筑後平野]]、[[唐津平野]])とは文化が異なり、重弧紋、綾杉紋、羽状紋、山形紋などを施した多彩な壺は北豊前独特の文化であるとされる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 34-35)]]。</ref>。
* [[1908年]](明治41年)[[12月1日]] - 企救郡柳ヶ浦村、町制施行と同時に名称変更、[[大里町 (福岡県)|大里町]](だいりまち)となる。

* [[1923年]]([[大正]]12年)[[2月1日]] - 門司市、企救郡大里町を編入。
=== 古墳時代 ===
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[10月1日]] - 門司市、企救郡東郷村を編入。
[[古墳時代]]の遺跡としては、企救半島東側の猿喰に船泊古墳、大里地区に小金塚古墳、小森江地区の門司港寄りに丸山古墳と呼ばれる古墳があったとされるが、現存しない<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063479.pdf |title=門司の歴史:大和時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。企救半島は、当時、[[豊国]][[企救郡]]に属していたが、豊国の中では[[京都郡]](現代の[[行橋市]]、[[勝山町 (福岡県)|勝山町]]、[[苅田町]])にひときわ大きい[[前方後円墳]]が多数作られており、京都郡の首長が大和政権との結び付きを築いていたと考えられる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 41-43)]]。</ref>。企救郡の中では、[[小倉南区]]の[[曽根町 (福岡県)|曽根]]、貫に前方後円墳が集中している<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 44)]]。</ref>。
* [[1942年]](昭和17年)[[5月15日]] - 門司市、企救郡松ヶ江村を編入。これにより現在の区域が確定。

* [[1963年]](昭和38年)[[2月10日]] - 『5市合併』で北九州市発足、'''門司区'''発足。ただし、政令指定都市移行は[[4月1日]]だったため、それまで「門司区」は町名・大字の一部(接頭句)の扱いであった。
大和時代には、[[新羅]]、[[百済]]、[[高句麗]]の船が関門海峡に発着したと考えられる。門司には、関門海峡沿いに{{Ruby|白木崎|しらきざき}}{{Ruby|新羅|しんら}}町、{{Ruby|葛葉|くずは}}{{Ruby|百済|くだら}}町、小森江{{Ruby|高麗町|こままち}}、周防灘沿いに{{Ruby|白野江|しらのえ}}という地名が残っており(一部は町名改正により消滅)、3国と縁のある地名であるとされる<ref>[[#田郷|田郷 (1987上: 49-54)]](下巻はしがきに「高麗町」の読みにつき正誤表あり)。</ref>。

[[527年]]、[[筑紫国]]の豪族[[磐井 (古代豪族)|磐井]]による[[磐井の乱]]が起き、磐井は[[火国]]・豊国まで勢力を張ったが、[[ヤマト王権]]によって鎮圧された<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 36-37)]]。</ref>。その戦後処理として、ヤマト王権は征服地に[[屯倉]]を設置したが、その一つである{{Ruby|腠碕屯倉|みさきのみやけ}}は、[[山陽道]]が関門海峡を渡る地点である門司の田野浦に当たると見られる。有力な豪族の支配地域ではなく、軍事・交通上の理由から屯倉が置かれたと考えられる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 45-47)]]。</ref><ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|日本書紀/卷第十八|『日本書紀』卷第十八(安閑天皇2年5月の条)}}</ref>。

=== 飛鳥・奈良・平安時代 ===
[[646年]]([[大化]]2年)、[[改新の詔]]が出され、その中に「関塞」を置くとの文言がある。この時、門司に関所({{Ruby|杜碕|もりさき}}関、後に'''門司関''')が設けられたと推測されている<ref>[[#史跡同好会|北九州史跡同好会 (1986: 10)]]、[[#田郷|田郷 (1987上: 78)]]。</ref><ref name="門司の歴史・大和">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063479.pdf |title=門司の歴史:大和時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。[[和布刈神社]]の近くに、門司関址の碑が建てられている<ref>{{Cite web |url=http://www.kitakyushu-city.com/mojiku/mojisekishi.html |title=門司関址 |publisher=北九州市 |accessdate=2019-08-02}}</ref>。

[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)に制定された[[大宝律令|大宝令]]により、[[大宰府]]の官制が確立し、大宰府が[[西海道]](九州の[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、[[豊前国|豊前]]、[[豊後国|豊後]]、[[肥前国|肥前]]、[[肥後国|肥後]]、[[日向国|日向]]、[[薩摩国|薩摩]]、[[大隅国|大隅]]の9国と3島)を管轄することとなった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 42)]]。</ref>。この頃(7世紀末)、豊国は豊前国と豊後国に分割されており<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 49)]]。</ref>、門司は小倉とともに豊前国企救郡に属する。西海道の[[租庸調|調庸]]は、その他の地域と異なり、京ではなく大宰府に納められ、大宰府から京進分が京に送られる仕組みであった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 43-46)]]。</ref>。

[[ファイル:Haiden of Mekari Shrine.JPG|thumb|right|200px|[[和布刈神社]]拝殿。]]
大宰府を中心に道路網が整備され、大宰府から京に向かう大宰府道は、門司の杜埼の[[駅家]]に至って関門海峡を渡り、[[山陽道]]に通じていた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 51)]]。</ref>。[[延喜式]]には、「豊前国 社碕 到津各十五匹」との記載がある<ref name="門司の歴史・大和" />。杜埼(社碕)の場所については、田野浦ないし和布刈とする見方<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 51)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 174-75)]]。</ref>、小森江あるいは小倉北区合馬との見方<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 98)]]。</ref>がある。[[710年]]([[和銅]]3年)には、[[和布刈神社]]の和布刈神事でとれたわかめを朝廷に献上したとの記録がある<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100234.html |title=【県指定】和布刈行事 |publisher=北九州市市民文化スポーツ局文化部文化企画課 |accessdate=2019-08-17}}</ref>。

『[[万葉集]]』には、門司を詠んだ可能性のある歌がいくつか収載されている。
{{Quotation|大君の遠の{{Ruby|朝廷|みかど}}と蟻通う{{Ruby|嶋門|しまと}}を見れば神代し思ほゆ|[[柿本人麻呂]]|『万葉集』巻3(304)}}
これは、[[柿本人麻呂]]が京から大宰府へ向かう途中に[[赤間関]]から門司関へ渡る際に詠んだ歌であるとの見方がある<ref name="門司の歴史・大和" />。
{{Quotation|[[早鞆の瀬戸]]の{{Ruby|岩|いわお}}も鮎走る芳野(吉野)の滝になお{{Ruby|及|しか}}ずけり|[[大伴旅人]]|『万葉集』巻6(960)}}
これは、[[720年]]([[養老]]4年)に[[隼人の反乱]]鎮圧のため征隼人持節大将軍に任じられた[[大伴旅人]]が同様に門司関に渡った際に[[吉野]]を懐かしんで詠んだと言われる(異説もある)<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063480.pdf |title=門司の歴史:大和時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。

[[740年]]([[天平]]12年)には、大宰少弐(大宰府長官)である[[藤原広嗣]]が反乱を起こし、筑前・豊前・隼人の兵を率いたが、鎮圧された<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 53-54)]]。</ref>。

山口県[[美東町]]の[[長登銅山]]跡で出土した天平年間の[[木簡]]に「豊前門司」とあるのが、門司の名の初出である。文献上の初出としては、[[796年]]([[延暦]]15年)の『[[類聚三代格]]』に「豊前文字(門司)」という地名が見える<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 154)]]。</ref>。「門を司る」すなわち関所の意味と考えられる<ref>[[#史跡同好会|北九州史跡同好会 (1986: 5)]]。</ref>。それと同時に、旧名{{Ruby|杜崎|もりさき}}の「もり」が「もじ」になまったという考え方もある<ref>[[#田郷|田郷 (1987上: 79)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 1)]]。</ref>。

=== 源平合戦・鎌倉時代 ===
[[ファイル:御所神社 (北九州市門司区大里).jpg|thumb|right|200px|大里地区にある御所神社。安徳天皇の行在所(柳の御所)とされた<ref>[[#史跡同好会|北九州史跡同好会 (1986: 30)]]。</ref>。]]
[[保元の乱]]・[[平治の乱]]後の[[1167年]]に大宰大弐に任じられた[[平頼盛]]は、大宰府に現地赴任し、九州北部の有力武士との結び付きを強めた。平氏は対外交易を重視しており、その一環として、大宰府直轄下にあった門司関も支配下に収めたと考えられる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 66-67)]]。</ref>。しかし、平氏は、[[1185年]]([[寿永]]4年)に[[屋島の戦い]]に敗れて追い詰められ、門司関に拠り、西下する[[源氏]]と対決することとした<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 65)]]。</ref>。平氏は、[[大里 (北九州市)|大里]]に[[安徳天皇]]の「柳の御所」を構えた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 67)]]。</ref>。なお、「{{Ruby|大里|だいり}}」の地名は、[[内裏]]から来ている<ref>[[#田郷|田郷 (1987上: 108-09)]]。</ref>。この時、[[平知盛]]が家臣紀伊通資に命じ、古城山に山城を築かせたのが、門司城の始めであるとされる<ref>[[#史跡同好会|北九州史跡同好会 (1986: 8)]]。</ref>。[[源義経]]が平氏の[[彦島]]の陣地を攻め、[[源範頼]]が九州に上陸して門司の城を破ると、追い詰められた平氏は、[[壇ノ浦の戦い]]で敗れた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 68)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 1-2)]]。</ref>。門司区内には、平氏の死者をとむらった数か所の平家供養塚や殿墓が残っている<ref>[[#田郷|田郷 (1987上: 122-26)]]。</ref>。

平氏が九州に持っていた所領は[[平家没官領]]として召し上げられ、その多くが[[鎌倉幕府]]に与えられた。門司関もその一つである<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 68)]]。</ref>。

[[ファイル:Koso-Hachiman shrine.jpg|thumb|left|200px|旧門司にある[[甲宗八幡神社]]。[[860年]]([[貞観 (日本)|貞観]]2年)、[[清和天皇]]の命による創建と伝えられ、[[神功皇后]]着用の甲(かぶと)を[[神体]]とする<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 157)]]。</ref>。]]
[[1244年]]([[寛元]]2年)、[[北条時頼]]の時代、門司氏の祖となる下総(藤原){{Ruby|親房|ちかふさ}}が門司関に下向してきたと伝えられている。『門司氏系図』によれば、70余艘の兵船を率いてきたとされ、この水軍力によって関門海峡を守ったと考えられる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 68-70)]]。</ref><ref name="門司の歴史・鎌倉">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063482.pdf |title=門司の歴史:鎌倉時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。[[得宗]]によって[[地頭]]職に任命された[[得宗被官]]である<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 111)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 5)]]。</ref>。もっとも、親房は、菊池氏の妨害により、赤間関から門司に上陸することができず、任命されてから11年後の[[1255年]]([[建長]]7年)にようやく上陸することができたとされる<ref name="門司の歴史・鎌倉" />。当時、門司関は、{{Ruby|楠原|くすばる}}(門司港地区)、柳(大里地区)、大積、伊川、{{Ruby|吉志|きし}}、片野(小倉北区三萩野付近)の'''門司関6か郷'''に分かれていた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 70)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 111)]]、[[#門司|門司 (1975: 56)]]。</ref>。下総氏は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて土着化して'''{{Ruby|門司|もんじ}}氏'''を称するようになり、それぞれの所領ごとに片野系門司氏、吉志系門司氏などと呼ばれる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 70)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 111)]]。</ref>。[[甲宗八幡神社]]は、もと門司関八幡宮といい、門司関6か郷の[[産土神]]として、門司氏の崇敬を受けた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 70)]]、[[#門司|門司 (1975: 263-64)]]。</ref>。下総氏は、当初、本城である門司城のほかに、三角山城(楠原郷)、足立城(片野郷)、若王子城(柳郷)、寒竹城(吉志郷)、金山城(大積郷)の5支城を構えた<ref>[[#門司|門司 (1975: 59-62)]]。</ref>。

鎌倉後期の[[弘安]]年間([[1278年]]-[[1287年]])、[[北条氏]]の一族[[北条実政]](金沢実政)が豊前国[[守護]]であった時期に、企救郡が[[北条氏 (金沢流)|金沢氏]]の所領となったと考えられる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 72)]]。</ref>。これは[[元寇]]という外圧を背景に北条氏が[[鎮西探題]]を設置するとともに九州の守護職を奪っていった一環であり、九州で北条氏以外の有力守護に残されたのは[[少弐氏]]の[[筑前国]]、[[大友氏]]の[[豊後国]]、[[島津氏]]の[[薩摩国]]だけとなった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 129)]]。</ref>。

=== 南北朝時代 ===
[[1333年]]([[元弘]]3年)、[[足利高氏]](尊氏)が[[鎌倉幕府]]の[[六波羅探題]]を滅ぼすと、[[鎮西探題]]の支配を受けていた少弐氏・大友氏・島津氏が寝返って鎮西探題を滅ぼした<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 138)]]。</ref>。[[後醍醐天皇]]による[[建武の新政]]が行われたが、金沢氏を継いで企救郡を領有していた[[北条高政]](規矩高政)が建武政権に対する反乱を起こした。門司城では、柚板広貞、門司種俊(下総氏系の門司氏とは別系統と思われる。)が高政に与して立てこもった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 72-73)]]、[[#門司|門司 (1975: 116)]]。</ref>。

一方、下総氏系の門司氏としては、門司{{Ruby|親胤|ちかたね}}(吉志系)、門司親章(大積系)が足利尊氏に従っている<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 73)]]、[[#門司|門司 (1975: 113)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 10)]]。</ref>。尊氏が門司6か郷の地頭となり、門司氏はその地頭代となったと見られる<ref>[[#八木田|八木田 (2010: 10-13)]]。</ref>。尊氏は[[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年)に建武政権に反旗を翻して敗走し、大宰府に入ったが、この時、門司親胤も尊氏に従い、その軍功に対し尊氏からの感状を受け取っている<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 74)]]、[[#門司|門司 (1975: 127-28)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 12)]]。</ref><ref group="注釈">一方、後に南朝宮方に付く門司親頼(伊川系)は、1336年(建武3年)の頃から、[[後醍醐天皇]]側に付いていたと見られる。当時、所領の[[相続]]等をめぐって惣領と庶子との間で一門が分裂することは珍しくなかった。[[#門司|門司 (1975: 128-29)]]。</ref>。

[[観応の擾乱]]で尊氏と[[足利直義]]が対立する中、直義の養子[[足利直冬]]が九州に入ると、九州は、[[北朝 (日本)|北朝]][[九州探題]]方(尊氏派・[[一色氏]])、佐殿方(直冬派・[[少弐氏]])、[[南朝 (日本)|南朝]]宮方([[懐良親王]]方・[[菊池氏]])の三つ巴の複雑な情勢となった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 74-75)]]、[[#門司|門司 (1975: 134)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 21-22)]]。</ref>。宮方に付いた[[長門国]]守護の{{Ruby|厚東|ことう}}武村が、兵船で門司関を度々攻撃したが、武家方<ref group="注釈">[[#門司|門司 (1975: 137-38)]] は、門司親胤が[[細川清氏]]の感状や軍忠状を受け取っており、年号に[[観応]]を用いていることから、親胤が北朝探題方であるとする。[[#米津|米津監修 (1992: 75)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 16)]] は、親胤が直冬から関門海峡合戦の軍功を賞されているとして、直冬方に付いたとする。</ref>の門司親胤はその撃退に成功した<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 74-75)]]、[[#門司|門司 (1975: 136-37)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 16-17)]]。</ref>。

[[1352年]](北朝[[観応]]3年・南朝[[正平 (日本)|正平]]7年)、直冬が大宰府を去って中国地方に向かい、[[1355年]](北朝[[文和]]4年・南朝正平10年)に[[懐良親王]](征西将軍宮)が博多に入ると、九州は宮方の勢力下に入っていった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 141-42)]]。</ref>。門司氏の中では、門司親胤やその子親尚を中心とする惣領家(吉志系、片野系、楠原系)は門司城を拠点とし、北朝探題方に従ったが、門司親頼を中心とする庶家(伊川系、柳系、大積系)は門司{{Ruby|猿喰|さるはみ}}城を築き、征西将軍宮の[[令旨]]を奉受して南朝宮方に従った<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 144)]]、[[#門司|門司 (1975: 155-56)]]。</ref>。宮方は[[1359年]](北朝[[延文]]4年・南朝正平14年)の[[筑後川の戦い]]に大勝し、[[1361年]](北朝[[康安]]元年・南朝正平16年)に探題方の拠点大宰府を制圧し、宮方[[菊池武光]]の軍勢が門司にも迫った<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 141-42)]]、[[#門司|門司 (1975: 148-51)]]。</ref>。

[[1363年]](北朝[[貞治]]2年・南朝正平18年)、探題方の門司親尚は門司城に立てこもり、企救郡に攻め寄せた宮方の菊池武光らに対し防戦した<ref>[[#中村|中村 (2016: 29)]]、[[#門司|門司 (1975: 161)]]。</ref>。その年の冬には、[[大内弘世]]・[[大内満弘]]の援軍を得た門司氏の探題方が、宮方だった柳城主門司{{Ruby|親通|ちかみち}}を引き入れた上、宮方の門司親頼らが立てこもる[[猿喰城]]を攻撃した。2か月の激しい攻防戦の末、宮方の親頼らは討死した。親通は自害した<ref>[[#中村|中村 (2016: 27, 29)]]、[[#門司|門司 (1975: 164-66)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063483.pdf |title=門司の歴史:南北朝時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref><ref group="注釈">[[1364年]](北朝貞治3年・南朝正平19年)、将軍[[足利義詮]]は、宮方が立てこもる門司の柳城を攻めた小野弾正左衛門尉に感謝状を出している。門司区寺内町の山中に柳城跡碑が建てられているが、そうではなく、柳城は猿喰城の別称ではないかとの指摘がある。[[#中村|中村 (2016: 28)]]。</ref>。猿喰城が落城したことにより、豊前の宮方勢力はいったん後退したが、[[1364年]](北朝貞治3年・南朝正平19年)、探題方の大内氏と宮方の厚東氏との争いが発生する中、菊池武光が門司城を奪取したため、門司親尚は[[少弐冬資]]とともに赤間関に亡命し、宮方への反撃のため転戦を続けた<ref>[[#門司|門司 (1975: 173-77)]]、[[#中村|中村 (2016: 29)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 26)]]。</ref>。

[[1371年]](北朝[[応安]]4年・南朝[[建徳]])、[[室町幕府]]によって[[今川了俊]]が[[九州探題]]に任じられ、北九州に上陸すると、次々と宮方の拠点を落とした<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 82-83)]]。</ref>。門司親尚は今川了俊のもとに参陣して九州各地を転戦し、了俊からの感状・[[軍忠状]]を受け取っている<ref>[[#門司|門司 (1975: 180-83)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 27-28)]]。</ref>。

=== 戦国時代 ===
==== 大内氏 ====
今川了俊に従って宮方打倒に貢献した[[大内義弘]]が豊前国守護に補任され、中国地方の大守護であった[[大内氏]]の勢力が北九州に及んできた<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 147)]]。</ref>。一部の史書によれば、[[1397年]]([[応永]]4年)、[[菊池武朝]]と[[少弐貞頼]]が蜂起した時、少弐の一族木綿和泉守が300余騎で門司城に立てこもり、義弘がこれを攻め落とし、以後は門司親常に門司城を守らせたとされる<ref>[[#八木田|八木田 (2010: 36-37)]]。</ref>。義弘は[[1399年]](応永6年)の[[応永の乱]]で守護職を失い、弟[[大内盛見]]は末弟[[大内弘茂]]に長門国・周防国を追われて豊後国に逃げた。盛見は、[[1401年]](応永7年)に関門海峡を渡って領国を取り戻したが、この時、門司氏は盛見を助けている<ref>[[#門司|門司 (1975: 195-98)]]。</ref>。将軍[[足利義教]]の時、大内盛見が筑前・豊前国守護職を回復し、以後、大内氏が守護職を世襲した<ref>[[#門司|門司 (1975: 209)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 147)]]。</ref>。九州では、筑前の[[少弐満貞]]、肥後の[[菊池兼朝]]、薩摩の[[島津氏]]、豊後の[[大友持直]]が割拠しており、大内氏の九州進出は激しい抵抗に遭ったが、[[大内持世]]の時、豊前・筑前両国の平定に成功した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 148)]]、[[#門司|門司 (1975: 198, 209-11)]]。</ref>。15世紀前半には九州探題の権威が失墜し、大内氏のような大名権力が[[荘園]]領主を支配するようになった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 151)]]。</ref>。企救郡で勢力を張る門司氏のような土豪は[[国人]]と呼ばれ、大内氏は、門司氏や筑前の[[麻生氏]]のような国人を家臣団に組み込むことで地域支配を図った<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 95)]]。</ref>。

[[ファイル:日本國西海道九州之圖.jpg|thumb|right|200px|[[李氏朝鮮]]の[[申叔舟]]が著した『[[海東諸国紀]]』([[1471年]])の「日本国西海道九州之図」。]]
15世紀後半頃から、大内氏は[[日明貿易]]の実権を握るようになり、門司関は赤間関とともに日明貿易の重要な発着所となった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 154)]]。</ref><ref name="門司の歴史・室町">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063484.pdf |title=title=門司の歴史:室町時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。門司には、日明貿易に用いる勘合船を造る大規模な造船所があったと見られる<ref>[[#門司|門司 (1975: 287-88)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 39)]]。</ref>。この頃成立した『[[海東諸国紀]]』の「日本国西海道九州之図」には、主要な港の一つとして「文字関」との記載がある<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 155)]]。</ref>。

[[1467年]]([[応仁]]元年)、[[応仁の乱]]が始まると、豊前・筑前を支配する[[大内政弘]]が上京して西軍([[山名宗全]]方)の主力として参戦した。すると、[[1469年]](応仁3年)、東軍の[[細川勝元]]の策動に応じて豊後国の[[大友氏]]が豊前に攻め入り、[[少弐政資]]も筑前・豊前に攻め入った。大内政弘は、[[1477年]]([[文明 (日本)|文明]]9年)、京都で応仁の乱の和議締結に成功すると帰国し、少弐政資を討って豊前・筑前を回復した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 156)]]、[[#門司|門司 (1975: 212-14)]]。</ref>。大内政弘の招きにより、[[連歌師]][[宗祇]]が[[1480年]](文明12年)に北九州を訪れ、その旅行記を『筑紫道記』として残している<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 157)]]。</ref>。この時、大内氏の家臣となっていた門司氏の門司宗親(宗近)や門司{{Ruby|能秀|よしひで}}が宗祇を接待している<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 90)]]、[[#門司|門司 (1975: 214-15)]]。</ref>。
{{Quotation|{{Interp|9月13日}}やがて一葉に乗じて漕出{{Interp|づ}}。安徳天皇行宮の跡をあはれみ、柳ヶ浦を過ぐ。菊{{Interp|企救}}の高浜をながむ。同行のすすめ侍れば、舟の中にて一折有り。<br/> 花ならぬ 真砂もきくの 浜路かな|宗祇<ref name="門司の歴史・室町" /><ref>[[#羽原|羽原 (2016: 288)]]。</ref>。}}
ここに現れる門司能秀は大積系の門司氏であり、[[1485年]](文明17年)の大内氏の壁書(法令)には、大内氏の奉行人として名が挙がっており、大内氏の領国支配の中枢にいたことが分かる<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 96)]]、[[#門司|門司 (1975: 214-15)]]。</ref>。[[1492年]]に大内政弘・[[大内義興|義興]]が[[六角氏]]討伐のため上洛する際には、門司{{Ruby|主計允|かずえのじょう}}氏頼(楠原系門司氏)が{{Ruby|頂吉|かぐめよし}}治部丞氏通(小倉の国人)とともに[[段銭]]催促奉行に任じられている<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 96-97)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 47)]]。</ref>。大友氏が筑前・豊前に侵入してくることも度々あったが、門司氏は所領安堵を受けている大内氏に付いて戦っている<ref>[[#門司|門司 (1975: 218-25)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 48-50)]]。</ref>。しかし、[[天文 (元号)|天文]]年間、大内氏は仁保常陸介を門司城主にしたとされており、門司氏は門司城主の地位を去ったようである<ref>[[#八木田|八木田 (2010: 51)]]。</ref>。

==== 門司城の戦い ====
[[ファイル:Mozi castle.JPG|thumb|right|200px|古城山にある門司城址。]]
{{Main|門司城の戦い}}
{{Multiple image
|align=left |direction=horizontal
|image1=Motonari Mouri.jpg |width1=110
|image2=Otomo Sorin.jpg |width2=100
|footer=門司城をめぐって攻防戦を続けた[[毛利元就]](左)と[[大友義鎮]](宗麟)。
}}
[[1551年]]([[天文 (元号)|天文]]20年)、[[大内義隆]]が重臣[[陶晴賢]]の謀反([[大寧寺の変]])によって自害した。陶晴賢は、豊後国の[[大友義鎮]](宗麟)の弟大友晴英([[大内義長]])を大内氏の当主に迎えた<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 157-58)]]。</ref>。しかし、陶晴賢は、[[1555年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年)、大内義隆の遺臣[[毛利元就]]に攻められて敗死し、大内義長も[[1557年]](弘治3年)、元就によって自害させられた。この時、大友義鎮が弟義長の救援に行かなかったのは、毛利との密約に基づき、北九州の大内領を大友氏が継承することを期待していたからのようである<ref>[[#吉永|吉永 (1994: 67-70)]]。</ref>。

しかし、大友氏と毛利氏との間では、間もなく門司城をめぐる奪取合戦が繰り返された。[[1558年]]([[永禄]]元年)6月、大友軍が守る門司城を、毛利方の[[小早川隆景]]が攻め取り、1559年(永禄2年)9月、大友軍がこれを奪還して城番{{Ruby|怒留湯|ぬるゆ}}{{Ruby|主人|もんど}}を置いたが、毛利方の[[仁保隆慰]]がその年あるいは翌1560年(永禄3年)、門司城を再度奪還した<ref>[[#中村|中村 (2016: 46)]]、[[#門司|門司 (1975: 244)]]、[[#吉永|吉永 (1994: 71-72)]]。</ref><ref group="注釈">門司城の戦いの経過については、文献によって異同がある。[[#門司|門司 (1975: 244-45)]] によれば、門司城の争奪戦は1554年(天文23年)から始まっていた。</ref>。その後も毛利と大友との門司城攻防戦は続くが、有名なのは[[1561年]](永禄4年)の合戦である。その内容については大友方の史書と毛利方の史書で異なるが、大友義鎮自身が出陣して、毛利方が守る門司城を攻めたことが分かる。大友軍は苦戦し、最終的に門司から撤退を余儀なくされた<ref>[[#吉永|吉永 (1994: 74-82)]]。</ref>。門司城は、戦略上の要地であり、関門海峡・瀬戸内海の制海権を握ることにもなったため、毛利氏・大友氏とも、この城の確保にこだわった<ref>[[#門司|門司 (1975: 245-46)]]。</ref>。

大友義鎮は将軍[[足利義輝]]に働きかけて外交戦に訴えた。幕府の仲介により、[[1564年]](永禄7年)、和平が成立し、毛利が門司城を確保しつつ、その他の九州から手を引くこととなった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 105)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 158)]]、[[#小野|小野 (2019: 24)]]、[[#中村|中村 (2016: 47)]]。</ref><ref group="注釈">[[#吉永|吉永 (1994: 82)]] は、毛利が門司を大友に返還したとするが、同書 (99) は、毛利が門司を確保したとする。</ref>。毛利家の門司城城督は、[[仁保隆慰]]とその子仁保元豊が務めたと見られる<ref>[[#中村|中村 (2016: 48)]]。</ref><ref group="注釈">仁保のほか、[[内藤隆春]]や[[冷泉元満]]らも城番を命じられたようである。[[#八木田|八木田 (2010: 90-91)]]。</ref>。その後、毛利氏から大友氏に帰順した[[高橋鑑種]]が[[小倉城]]に配され、門司城を度々攻撃した。[[1571年]]([[元亀]]2年)、門司城は鑑種勢に攻略され、翌[[1572年]](元亀3年)、毛利氏がこれを回復したようである<ref>[[#八木田|八木田 (2010: 100-05)]]。</ref>。

=== 安土桃山時代 ===
大友氏は、強大化する[[島津氏]]の圧迫を受けるようになり、[[1586年]]([[天正]]14年)、[[豊臣秀吉]]の救援を求めたが、島津氏は秀吉の停戦命令に反して北九州に北上し、[[小倉城]]がその前線基地となった。一方、秀吉の命を受けた[[毛利輝元]]の軍は門司城に駐屯し、大里で島津方と交戦した後、小倉城を攻略した<ref>[[#吉永|吉永 (1994: 106-08)]]、[[#中村|中村 (2016: 48)]]。</ref>。秀吉は翌[[1587年]](天正15年)、自ら九州に出陣し、島津氏を降伏させ、[[九州平定]]を達成した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 159)]]。</ref>。

秀吉は、筑前国[[箱崎 (福岡市)|箱崎]]で[[九州国分]](知行割)を行い、企救郡・田川郡6万石は[[毛利勝信]](森吉成)に与えられた<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 170)]]、[[#米津|米津監修 (1992: 114)]]。</ref>。なお、門司氏は、1585年(天正13年)までは企救半島を支配していた事実が分かるが、その後のことはよく分かっておらず、時代の転換期に支配権が失われたと見られる<ref>[[#門司|門司 (1975: 248-49)]]、[[#八木田|八木田 (2010: 119)]]。</ref>。

[[1592年]]([[文禄]]元年)、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]中の秀吉が[[大政所|母]]の危篤を聞き[[名護屋城]]から大坂に向かう途中、関門海峡で突風にあおられ、暗礁に乗り上げて難破した。この時、船頭の明石与次兵衛が責任をとって門司柳ヶ浦で[[切腹]]したと伝えられる。後に小倉藩主細川忠興が与次兵衛の供養と航行の安全を願い、その岩の上に石碑を建てた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 191-93)]]。</ref><ref group="注釈">この岩礁(与次兵衛瀬)は、小森江の沖合いにあったが、[[1911年]](大正元年)から6年がかりで、海軍により撤去された。現在、[[和布刈公園]]に、再建された与次兵衛碑が存在する。[[#佐々木|佐々木 (2013: 194-96)]]。</ref>。

=== 江戸時代 ===
==== 細川氏 ====
秀吉の死後、1600年([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]で西軍に就いた毛利勝信は改易となり、豊前国は[[細川忠興]]に与えられた(現在の北九州市のうち、門司・小倉は細川氏の[[小倉藩]]、若松・戸畑・八幡は[[黒田長政]]の[[福岡藩]]に属した)<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 178-80)]]。</ref>。忠興は、小倉城を改修して居城とし、門司城には従兄弟の長岡(沼田)延元を置いた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 116)]]、[[#小野|小野 (2019: 42)]]。</ref>。

[[ファイル:巌流島 - panoramio.jpg|thumb|right|200px|現在の舟島(巌流島)。大半は近代に埋め立てられたもので、宮本武蔵の決闘当時は約5分の1の1万7000平方メートルの舟形の無人島であった<ref>[[#小野|小野 (2019: 53-54)]]。</ref>。]]
[[1612年]](慶長17年)、剣術家[[宮本武蔵]]が、関門海峡の小島である舟島([[巌流島]])で、[[佐々木小次郎|岩流]]という兵術の達人と決闘したとされる。門司城主沼田延元の子孫がまとめた『沼田家記』によれば、宮本武蔵は、岩流(小次郎)の弟子に追われ、門司城でかくまわれた後、豊後国[[日出城|日出]]にいた養父[[新免無二]]のもとに送り届けられたという<ref>[[#小野|小野 (2019: 52-54)]]。</ref>。

[[1615年]](慶長20年)、[[一国一城令]]が発せられると、門司城を含む領内の端城は破壊された<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 184)]]、[[#米津|米津監修 (1992: 120)]]。</ref>。

2代藩主[[細川忠利]]は、村ごとの戸数、人口、牛馬数、職業を調べ、[[1622年]]に人畜改帳を完成させた。これによれば、企救郡の戸数は4426戸、人口は1万0895人(武士を除く)であった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 121)]]。</ref>。また、[[1626年]]([[寛永]]3年)には、実地調査に基づく[[検地]]帳の改正が行われた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 120-21)]]。</ref>。細川氏は、20か村ほどを集めて[[手永]]という行政区域を作り、それぞれ1人の惣庄屋を置いた。企救郡には、7人(後に6人)の惣庄屋が置かれた。この制度は小笠原氏の時代にも継承され、幕末の時点で、企救郡には城野、富野、小森、片野、今村、津田という6手永があり、門司の村は主に富野手永に属している<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 127-29)]]。</ref>。

==== 小笠原氏 ====
[[1632年]]、細川氏は[[肥後国]]の[[加藤忠広]]のあとに転封され、そのあとの豊前国には[[明石藩]]主[[小笠原忠真]](忠政)が入国した。これは、将軍[[徳川家光]]が、[[外様大名]]ばかりであった九州において、要所を押さえるために[[譜代大名]]である小笠原氏を配した国替えであった<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 184-85)]]、[[#米津|米津監修 (1992: 126-27)]]。</ref>。小笠原氏は、自他ともに幕府の「九州探題」としての役割を認めていた<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 293)]]。</ref>。

[[1732年]]([[享保]]17年)夏には、西日本を飢饉([[享保の大飢饉]])が襲い、企救郡でも餓死者5906人を出す大きな被害があった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 145-46)]]。</ref>。

{{Multiple image
|align=left |direction=horizontal
|image1=Saruhami001.jpg |width1=70
|image2=Saruhami010.jpg |width2=200
|footer=猿喰新田を開発した石原宗祐の頌徳碑(左)と猿喰地区。
}}
[[1757年]]([[宝暦]]7年)から、大里村の庄屋を引退した石原宗祐が、遠浅の入江であった企救半島東側の猿喰湾の干拓工事を行い、[[1759年]](宝暦9年)、33[[町歩]]余りの[[新田]]開発に成功した。銀188貫余りの開発費は、宗祐が私財を投じたものといわれる<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 210)]]、[[#小野|小野 (2019: 76-77)]]。</ref>。[[天明の大飢饉]]の時、猿喰新田の備蓄米によりこの地の付近では餓死者が出なかったと伝えられている<ref>[[#小野|小野 (2019: 77)]]。</ref>。

大里は、小倉と並んで、九州から本州に関門海峡を渡る重要な宿駅・港町であり、御茶屋や各藩の[[本陣]]が設けられていた。在番所が置かれ、渡航手形の発行や通行人改めを行っていた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 144)]]。</ref>。[[長崎街道]]の起点は当初は小倉の[[常盤橋 (紫川)|常盤橋]]であったが、[[1799年]](寛政11年)に[[長崎奉行]]が大里に船舶取締りの番所を設けてから大里が起点となり、小倉・大里間を門司往還と呼んだ<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 189)]]。</ref>。[[1802年]]([[享和]]2年)にこの地を訪れた菱屋平七は、『筑紫紀行』の中で、「豊前門司浦には人家百五六十軒ばかりあるが見ゆ。大裡{{Interp|大里}}は人家三百軒ばかりあり。諸侯方の渡海し給ふ舟場なり。されば本陣などもありといへり。」と記している<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 181)]]。</ref>。[[1826年]]([[文政]]9年)に大里を訪れた[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]は、『江戸参府紀行』で「大里は小さな町である。下関に渡るには最短距離で楽な渡海地である。」と書いている<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 196-97)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 295)]]。</ref>。

また、近世中期以降に北海道・大坂間で[[北前船]]航路が開設されると、寄港地である下関が繁栄し、船の修理を行っていた門司の田野浦も発展した。[[1835年]]には埋立地に新港が築かれた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 144)]]。</ref>。田野浦には、1750年頃の[[宝暦]]年間に[[遊里]]ができたといわれる<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 349)]]。</ref>。もっとも、下関と比べ、田野浦は風待ち、汐待ちの補助的な役割にすぎなかった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 153-54)]]。</ref>。

[[ファイル:Seikyo statue hesaki 20170901.jpg|thumb|right|180px|企救半島東側の[[部埼灯台]]近くにある僧清虚像。清虚は、[[1850年]]([[嘉永]]3年)に亡くなるまでの13年間、難破の多い部崎の浜で航海の目印とするため、[[托鉢]]によって得た薪で一晩中火焚を続けたという<ref>[[#小野|小野 (2019: 215-18)]]、[[#史跡同好会|北九州史跡同好会 (1986: 23)]]。</ref>。]]
一方、今の[[門司港 (地区名)|門司港]]地区は、極めてひなびた土地であった。[[1813年]]([[文化 (元号)|文化]]10年)、小倉藩の郡代役所が[[塩田]]開発のため埋立てを計画し、4年後に完成したが、堤防の決壊で採算が合わなかった。結局、小倉の守永甚助が引き取り、1840年代になってようやく採算がとれるようになった。明治初頭の時点で、塩田は、約10町歩、6区画に分かれていた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 100)]]。</ref>。

=== 幕末・明治維新 ===
[[1858年]]([[安政]]5年)、[[日米修好通商条約]]が締結されると、[[1860年]]にはイギリス人が門司の楠原に上陸し、村人が大騒動をするということがあった。翌[[1861年]]にもイギリス船が門司沖に停泊し、測量を行っている<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 162)]]。</ref>。小倉藩の家老[[小宮民部]]は、海防に力を入れ、[[1863年]]([[文久]]3年)、大里、葛葉、門司などの要所に砲台を築いた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 162)]]、[[#小野|小野 (2019: 117)]]。</ref>。

この年、朝廷から[[攘夷]]決行を迫られた将軍[[徳川家茂]]は、各藩に5月10日をもって攘夷決行すべしとの通達を出した。5月、[[長州藩]]の[[久坂玄瑞]]を中心とする[[尊王攘夷]]派は、田野浦沖に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号に藩の軍艦で砲撃を行い、続いてフランス蒸気船、オランダ軍艦を砲撃した。長州藩の使者が、小倉藩に、すぐに攘夷を実行するように迫ったが、小倉藩は、外国船から攻撃を受けていないのに発砲すべきとの幕命を受けていないとしてこれに応じなかった。6月、アメリカ軍艦とフランス軍艦が報復のため関門海峡に来襲し、下関を攻撃したが([[下関戦争|下関事件]])、小倉藩は静観し、これが長州藩の恨みを買うこととなった<ref>[[#小野|小野 (2019: 125-28)]]、[[#米津|米津監修 (1992: 163)]]。</ref>。小倉藩が攘夷の要求に応じないことを見て、[[高杉晋作]]の[[奇兵隊]]を中心とする長州藩兵約110人が、田野浦に上陸し、砲台を占拠するという挙に出た。小倉藩が幕府に長州藩の横暴を訴えたので、幕府は[[朝陽丸]]で[[中根市之丞]]を下関に派遣したが、長州藩は強硬であった<ref>[[#小野|小野 (2019: 130-31)]]。</ref>。ところが、8月18日、朝廷で長州藩が失脚する事件([[八月十八日の政変]])が起き、9月、長州藩兵は田野浦から引き揚げ、小倉藩は窮地を脱した<ref>[[#小野|小野 (2019: 132-33)]]。</ref>。

[[1864年]]([[元治]]元年)、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊が下関を砲撃する事件があり、小倉藩は門司の海岸に警備の兵を配したが、藩士は見物に終始した<ref>[[#小野|小野 (2019: 138)]]。</ref>。同じ年、[[禁門の変]]を機に幕府による[[第一次長州征討]]があり、[[唐津藩]]、[[福岡藩]]、[[薩摩藩]]、[[熊本藩]]、[[柳川藩]]、[[佐賀藩]]、[[久留米藩]]などの藩兵4万人超が小倉に集結したが、[[西郷隆盛]]の仲介により開戦は回避された<ref>[[#小野|小野 (2019: 139-41)]]。</ref>。

[[1865年]](元治2年)、長州藩では高杉晋作ら尊攘倒幕派が政権を奪取し、幕府は'''[[第二次長州征討]]'''(幕長戦争)に踏み切った<ref>[[#小野|小野 (2019: 145-48)]]。</ref>。幕府から小倉に派遣された[[老中]][[小笠原長行]]は、小倉藩に長州への討ち入りを命じ、小宮民部率いる小倉藩は門司の田野浦や門司村、楠原村に陣を張ったが、他藩の応援はなかった<ref>[[#小野|小野 (2019: 151-52)]]。</ref>。6月17日、長州軍が奇襲に出、軍艦と壇ノ浦砲台から田野浦と門司を砲撃した。[[山縣有朋|山縣狂介]]率いる奇兵隊や報国隊が古城山東の大久保海岸に上陸し、古城山の砲台を奪取し、一旦撤退した(田野浦の戦い)<ref>[[#小野|小野 (2019: 155-58)]]。</ref>。7月3日、長州軍は2度目の上陸作戦に出た。奇兵隊が門司に上陸、大里に進軍し(大里の戦い)、小倉藩は幕府軍や他藩の応援が得られないまま[[赤坂 (北九州市)|赤坂]]まで退却を強いられた<ref>[[#小野|小野 (2019: 161-62)]]。</ref>。7月27日、それまで傍観していた熊本藩が長州藩に砲撃し、幕府方は初めて勝利を収めたものの、熊本藩は一転して撤退し、小笠原長行も戦線から逃亡するに至り、小倉藩は8月1日に小倉城を自ら焼いて[[香春町]]まで撤退を余儀なくされた<ref>[[#小野|小野 (2019: 165-67, 171-76)]]。</ref>。

[[1866年]]([[慶応]]2年)、将軍を継いだ[[徳川慶喜]]は、小倉口の敗戦を受けて長州征討の撤兵を布告した。小倉藩は、薩摩藩、熊本藩に長州藩との仲介を依頼し、企救郡を長州藩が預かるという内容で和議が成立した<ref>[[#小野|小野 (2019: 196-99)]]。</ref>。

[[明治維新]]後の[[1869年]]([[明治]]2年)8月、長州藩が[[版籍奉還]]を行い、企救郡は[[日田県]]の直轄地となった。しかし、長州藩は撤退せず、支配を続けていた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 167)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 264)]]。</ref>。香春藩(旧小倉藩)は新政府に企救郡の返還を願い出たが、受け入れられなかった<ref>[[#小野|小野 (2019: 209)]]。</ref>。この年11月、企救郡[[新道寺]]村で[[一揆]](企救郡百姓一揆)が起こり、門司方面まで騒動が広がり、居宅や家財の打壊しも発生した。長州藩は、このこともあって、[[1870年]](明治3年)2月、企救郡から引き揚げた。日田県知事[[松方正義]]の企救郡巡視が行われるなど、新政府による行政が始まった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 167-68)]]、[[#川添|川添ほか (1997: 264-65)]]。</ref>。

=== 明治時代 ===
==== 明治初年 ====
[[1871年]](明治4年)7月、[[廃藩置県]]が行われ、10月14日、日田県企救郡は、豊津県(旧香春藩)、千束県(旧小倉新田藩)、[[中津県]]と統合されて[[小倉県]]となった<ref>[[#小野|小野 (2019: 212)]]。</ref>。[[1876年]](明治9年)4月、小倉県は[[福岡県]]に併合され、同じ年に[[三潴県]]のうち筑後一円も福岡県に入り、豊前の[[下毛郡]]・[[宇佐郡]]が福岡県から[[大分県]]に割譲されたことで、現在の福岡県域が確定した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 266)]]。</ref>。[[1878年]](明治11年)の[[郡区町村編制法]]により、福岡県は福岡区と31の郡に編成された<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 271)]]。</ref>。[[1884年]](明治17年)頃の門司の産業は、清酒場1軒、醤油場1軒、製塩場6軒であった<ref>[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 22)]]。</ref>。

企救郡では、[[1887年]](明治20年)、従来の門司村に楠原村(現東門司、清見、清滝、広石、葛葉など)が吸収合併された。[[1889年]](明治22年)、[[市制]]・[[町村制]]施行に際し、門司村、田野浦村、小森江村が合併し、'''文字ヶ関村'''となった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 110)]]。</ref>。また、大里地区には'''{{Ruby|柳ヶ浦村|やなぎがうらむら}}'''、企救半島東側には'''{{Ruby|東郷村|とうごうむら}}'''、'''{{Ruby|松ヶ江村|まつがえむら}}'''が成立した。
{| class="wikitable"
|+ 各村の人口と範囲<ref>[[#田郷・それから|田郷 (1988: 54-55)]]。</ref>
! 町村制施行時(明治22年)の村名 !! 明治22年当時の人口(人) !! 明治元年当時の町村名
|-
! 文字ヶ関村
| style="text-align:right" | 3,346 || 楠原郷の田野浦町、田野浦村、楠原村、門司村。柳郷の小森江村。
|-
! 柳ヶ浦村
| style="text-align:right" | 2,696 || 柳郷の{{Ruby|廿町|にじっちょう}}村、大里村、柳村、原町村、{{Ruby|馬寄|まいそう}}村、新町村。
|-
! 東郷村
| style="text-align:right" | 2,973 || 伊川郷の{{Ruby|柄杓田|ひしゃくだ}}村。大積郷の{{Ruby|喜多久|きたく}}村、黒川村、大積村、白野江村。
|-
! 松ヶ枝村
| style="text-align:right" | 4,529 || 沼郷の{{Ruby|恒見|つねみ}}村。伊川郷の平山村、伊川村。吉志郷の{{Ruby|吉志|きし}}村、今津村、{{Ruby|畑|はた}}村、{{Ruby|猿喰|さるはみ}}村。
|}

==== 築港 ====
[[ファイル:Chinzei Bashi pillar.jpg|thumb|right|140px|東本町の埋立地を囲む幅12メートルほどの堀川に、鎮西橋が渡された。現在、堀川はなく、鎮西橋の橋柱のみが残っている<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 19)]]。</ref>。]]
[[1886年]](明治19年)、[[福岡県知事一覧|福岡県知事]]に就任した[[安場保和]]<ref group="注釈">安場が福岡県知事に就任したのは、旧福岡藩士を中心とする[[玄洋社]]の活動によるものであり、当初から筑豊炭田の開発、九州鉄道の敷設、門司港の築港といった計画が意図されていたとの指摘がある。[[#堀|堀 (2017: 18-20)]]。</ref>は、県内視察の上、門司を港湾・鉄道開発の適地と考えた。しかし、財政難のため[[財閥]]の資金に依存せざるを得ず、[[1889年]](明治22年)、[[渋沢栄一]]、[[安田善次郎]]、[[浅野総一郎]]らが参入して、'''門司築港会社'''が設立され、約11万4000坪の埋立てと船溜りの建設が行われた。第1期工事(1889年-)は本町、桟橋通り、港町、西海岸通りの埋立てと第1船溜りの造成、第2期工事([[1890年]]-)は西海岸一帯と塩田の埋立て、第3期工事([[1892年]]-)は第2船溜りの造成、第1船溜りと第2船溜りを連結する水路(堀川)の開削が行われた。工事は[[1898年]](明治31年)に完成した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 162)]]。</ref>。

第1期工事着工間もない1889年(明治22年)11月、門司港は国の'''特別輸出港'''<ref group="注釈">幕末から明治初年にかけて開港された[[横浜港|横浜]]、[[長崎港|長崎]]、[[函館港|函館]]、[[神戸港|神戸]]、[[大阪港|大阪]]、[[新潟港|新潟]]、[[東京港|東京]]に続き、1889年(明治22年)7月30日付けで、門司港は、[[四日市港|四日市]]、[[下関港|下関]]、[[博多港|博多]]、[[口之津港|口之津]]、[[唐津港|唐津]]、[[三角港|三角]]、[[伏木港|伏木]]、[[小樽港|小樽]]とともに特別輸出港に指定された。5品目に限り、日本船又は日本人雇入れの外国船により輸出することが認められた。[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 31)]]。</ref>に指定され、[[石炭]]、[[硫黄]]、[[米]]、[[麦]]、[[小麦粉]]の5品目の取扱いが許可された。工事が完成した1898年(明治31年)には、[[木炭]]、[[セメント]]、[[硫酸]]、[[マンガン鉱]]、[[さらし粉]]の輸出扱いが追加され、[[1899年]](明治32年)には品目制限のない一般開港の指定を受けた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 162-63)]]、[[#堀|堀 (2017: 79)]]。</ref>。

==== 鉄道敷設 ====
{{Multiple image
|align = left |direction = horizontal
|image1 = First Moji station building 1891.jpg |width1 = 150px
|image2 = Kyushu Railway History Museum 14.JPG |width2 = 145px
|footer = [[1891年]](明治24年)に開業した初代門司駅(後の[[門司港駅]]=左)。現在、その付近には、「もじ」と書かれた駅名標と旧{{Ruby|0哩|ゼロマイル}}標のプレートがある<ref>[[#堀|堀 (2017: 29)]]。</ref>。
}}
福岡県会は、[[1882年]](明治15年)には早くも「門司、熊本間鉄道布設に付建議」を決議し、県に予算を付けるよう求めている<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 173)]]。</ref>。福岡県知事安場保和は、1886年(明治19年)、国に門司から熊本県[[三角町|三角]]に至る「九州鉄道布設乃義上申」を提出し、国から民間企業による九州鉄道建設の許可を取り付けた<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 278)]]。</ref>。[[1888年]](明治21年)、'''[[九州鉄道]]'''が設立され、まず[[博多駅|博多]]・[[久留米駅|久留米]]間で着工したが、[[1891年]](明治24年)、門司・高瀬(現[[玉名駅|玉名]])間が開通し、門司駅(現[[門司港駅]]<ref group="注釈">開業当時の初代門司駅(門司港駅)は、現在の[[北九州銀行]]門司支店の裏手に存在した。[[#羽原|羽原 (2016: 175)]]。</ref>)や柳ヶ浦駅(後に大里駅、現[[門司駅]])が開業した。九州鉄道の本社も博多から門司に移転した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 173-74)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 184, 206)]]。</ref>。

[[ファイル:Main Hall of the Kyushu Railway History Museum 20070119.jpg|thumb|right|清滝の旧[[九州鉄道]]本社([[1891年]](明治24年)築)。レンガ造りの2階建てで、通称赤レンガ。現[[九州鉄道記念館]]<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 35)]]。</ref>。鉄道国有化(1907年)、[[日本国有鉄道|国鉄]]発足(1949年)後も九州の鉄道を総括する機能を有していた<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 482)]]。</ref>。]]
同じ頃、石炭産出地である[[筑豊]]では、[[1889年]](明治22年)に[[筑豊興業鉄道]]が設立されて1891年(明治24年)に[[若松駅|若松]]・[[直方駅|直方]]間で開通、1893年(明治26年)に[[折尾駅|折尾]]経由で門司港への石炭輸送が可能となった。同社(筑豊鉄道と改称)は、[[1897年]](明治30年)、九州鉄道と合併した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 178-79)]]。</ref>。また、豊前地方で1893年(明治26年)に設立された[[豊州鉄道]]は、[[田川伊田駅|伊田]]・[[行橋駅|行橋]]間、伊田・[[田川後藤寺駅|後藤寺]]間を開通させ、[[1901年]](明治34年)に九州鉄道と合併した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 179)]]。</ref>。なお、九州鉄道は[[1907年]](明治40年)に[[鉄道国有法]]により国有化され、門司に九州帝国鉄道管理局が置かれた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 180)]]。</ref>。

従来、筑豊の石炭輸送は、[[遠賀川]]の舟運([[平田舟]])に頼っていたが、鉄道により九州各地に送るとともに、門司・若松の輸出港に直送できるようになった<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 201-03)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 138)]]。</ref>。このうち、若松港は水深の浅い[[洞海湾]]に面し、大型船が寄港できなかったのに対し、門司港は、水深が比較的深く、本州との接点にあり、国内外の物流に適しているという優位があった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 197-98)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 155)]]。</ref><ref group="注釈">ただし、門司港内岸壁前面の水深は1.8 - 2.2メートルしかなく、300トンの小船を係留し得る程度であったため、沖荷役に依存していた。[[1919年]](大正8年)から[[1931年]](昭和6年)にかけての修築工事により、水深10メートルの係船岸壁が築造され、1万トン級汽船7隻が同時に係留できるようになった。[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 91)]]。</ref>。門司の開港当初の輸出品は少量の石炭と塩くらいであったが、鉄道開通により筑豊の石炭の輸出港として大きく発展した。1890年(明治23年)の輸出額は34万円余りであったが、1901年(明治34年)の輸出入額は1885万円余りにまで成長した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 18)]]。</ref>。また、当時は船の燃料に石炭が使用されていたことから、汽船への焚料炭(バンカー)の供給基地でもあった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 156)]]。</ref>。

なお、当時、鉄道は下関とつながっておらず、1889年(明治22年)に門司の石田平吉が渡船業を始め、[[1896年]](明治29年)に下関側で[[関門汽船]]が設立され、業者が乱立した。[[1901年]](明治34年)に[[山陽鉄道]]が馬関(現[[下関駅]])まで開通すると<ref group="注釈">山陽鉄道が[[神戸駅|神戸]]・下関間で開通したことにより、神戸からは官設鉄道で[[東京駅|東京]]まで行けるようになった。[[#堀|堀 (2017: 101)]]。</ref>、[[山陽汽船商社]]が関門鉄道連絡船を運行した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 177)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 106-07)]]。</ref>。[[1911年]](明治44年)には、日本最初の貨車航送として、[[小森江駅|小森江]]の笠松町と下関の[[竹崎町|竹崎]]を結ぶ[[関森航路]]が開かれた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 167)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 178)]]。</ref>。

==== 近代産業の生成 ====
北九州には良質の[[石灰岩]]が分布していることもあり、門司で最初の近代化工場は、セメント工場であった。東京の[[浅野セメント]](後に日本セメント)が、[[1894年]](明治27年)から門司工場の操業を開始した<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 185-86)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 148-49)]]、[[#堀|堀 (2017: 59-61)]]。</ref>。1891年(明治24年)開業の家入鉄工所(後に門司鉄工)も一時栄えた<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 186)]]、[[#堀|堀 (2017: 62)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 171)]]。</ref>。

特別輸出港指定から10年弱の間に、[[三井物産]]、[[大阪商船]]、[[日本郵船]]、[[三菱合資会社]]、九州倉庫、豊陽銀行、日本商業銀行、日本貿易銀行、八十七銀行などの支店・出張所が門司港に置かれた。さらに、[[1898年]](明治31年)には[[日本銀行]]{{Ruby|西部|さいぶ}}支店が下関から門司に移転した([[1917年]](大正6年)に門司支店と改称)<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 196)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 106-08)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 41)]]、[[#堀|堀 (2017: 37-38)]]。</ref>。

[[日清戦争]]後、国は製鉄事業の設立を図り、その用地として、遠賀郡八幡村(現[[八幡東区]])、企救郡柳ヶ浦(大里)、広島県[[坂町|坂村]]の3か所を候補地とした。各地で誘致活動が行われたが、大里は選ばれず、[[1897年]](明治30年)、[[日本製鉄八幡製鉄所|官営八幡製鉄所]]が開業した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 280-81)]]。</ref>。

[[ファイル:Moji Akarenga Place 1.jpg|thumb|right|200px|大里にある旧サッポロビール九州工場([[門司赤煉瓦プレイス]])。大里は鈴木王国と言われ、大里から小森江にかけての海側は[[鈴木商店]]の工場群で占められた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 164-65)]]。</ref>。]]
[[1903年]](明治36年)には、[[鈴木商店]]の[[金子直吉]]が大里製糖所を開業し、[[1907年]](明治40年)にライバル企業の[[大日本製糖]]に売却した。金子は、売却益の一部で[[1910年]](明治43年)に大里製粉所を設立した(後にに[[日本製粉]]と合併)<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 164)]]。</ref>。[[1911年]](明治44年)には九州電線(後に[[古河電工]])、[[1913年]](大正2年)には鈴木商店による帝国麦酒(後に[[サッポロビール]]九州工場)・大里硝子製造所・大里酒精製造所(後に[[協和発酵]]門司工場)が設立された<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 189)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 108-09)]]。</ref><ref name="門司の歴史・明治" />。小森江地区に設立された[[神戸製鋼所]]門司工場(後に神鋼メタルプロダクツ)、日本冶金(後に[[東邦金属]])も鈴木商店系である<ref>[[#堀|堀 (2017: 119-20, 160, 164)]]。</ref>。

門司で事業を行い、全国レベルに事業を拡大した人物として、[[出光佐三]]([[出光興産]])、中野金次郎([[日本通運]])、中村精七郎([[山九]])、間猛馬([[間組]])がいる<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 109-10)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 33-38)]]。</ref>。出光佐三は、中野真吾(船舶業、旧門司市長)、久野勘助(米穀商)とともに「門司の三羽烏」と呼ばれ、門司の政財界を主導した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 195-201)]]、[[#堀|堀 (2017: 81, 240-42)]]。</ref>。

==== 門司市の成立 ====
明治初年、今の門司港地区には塩田が広がっており、[[1860年]]([[万延]]元年)の時点で、門司、田野浦、小森江を合わせた人口は2338人であったが<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 100-01)]]。</ref>、築港と鉄道敷設により、1894年(明治32年)になると、文字ヶ関村の人口は1万0076人にまで増大し、この年'''門司町'''となった<ref name="門司の歴史・明治">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063488.pdf |title=門司の歴史:明治時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。さらに、[[1899年]](明治32年)には、人口2万9290人となり、'''[[門司市]]'''となった。一方、柳ヶ浦村は、[[1908年]](明治41年)に'''大里町'''となった<ref name="門司の歴史・明治" />。

[[日清戦争]](1894-95年)を機に、下関・門司の軍事的意義が高まり、各所に砲台や堡塁が築かれた<ref>[[#堀|堀 (2017: 70-71)]]。</ref>。[[1897年]](明治30年)には、老松町に[[陸軍兵器廠]]が置かれ、[[1899年]](明治32年)の要塞地帯法で関門一帯は[[下関要塞]]地帯となり、立入りや撮影が規制されるようになった。ただ、兵器廠は、[[1918年]](大正7年)に小倉に移転した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 122)]]。</ref>。門司港と下関港は、[[1907年]](明治40年)に関門海峡として第一種重要港湾に指定され、国による港湾整備がされることとなった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 164)]]。</ref><ref group="注釈">第一種重要港湾は、外国貿易に必要な施設、港湾改良、港湾施設用地の造成工事を内務省が施工し、事業費の一部を地方に負担させるものであり、[[横浜港|横浜]]・[[神戸港|神戸]]・関門・[[敦賀港|敦賀]]の4港が選定された。[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 67)]]。</ref>。

=== 大正時代 ===
==== 貿易・金融の繁栄 ====
[[ファイル:The bargain sale of the banana M01.jpg|thumb|right|200px|「[[バナナの叩き売り]]発祥の地」碑<ref group="注釈">この碑と説明板は、老舗旅館・群芳閣の玄関脇に建っていたが、群芳閣の解体により取り外された。[[#堀|堀 (2017: 140, 144)]]。</ref>。門司港への[[バナナ]]輸入開始は1904年(明治37年)ないし1905年(明治38年)頃と言われる。輸入時には青色でなければならないが、輸送が遅れ黄色味を帯びたものや傷がついたものを駅前で口上を付けて安売りしたのが始まりとされる<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 95)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 394-95)]]、[[#米津|米津監修 (1992: 211)]]、[[#堀|堀 (2017: 140-41)]]。</ref>。]]
若松港の築港工事が行われ、特別輸出入港に指定されると、石炭輸出は徐々に門司港から若松港にシフトし、門司港はそれに代わってセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品の輸出やその原料の輸入を担うようになっていった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 157)]]。</ref>。[[1914年]](大正3年)には、門司港に入港する汽船トン数が[[神戸港]]や[[横浜港]]をしのいで全国1位となった。米、バナナ、肥料、材木、綿花、砂糖、麦粉、鉱油の西日本第一の取引地と称された<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 111)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 18-19)]]。</ref>。この頃には、門司の一等市街地の地価は東京[[日比谷公園]]の地価と大差ないとされ、土地の狭い門司港地区では建物がどんどん山手に上っていった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 47, 111)]]。</ref>。

[[ファイル:Former Osaka Shosen Moji Branch Office 2008.jpg|thumb|left|現門司港駅近くに残る[[北九州市旧大阪商船|旧大阪商船ビル]](1917年(大正6年)築)。当初は右側面は水際に接して建てられていたが、その後道路部分が埋め立てられた<ref>[[#岡本|岡本ほか (2008: 24)]]。</ref>。]]
1914年(大正3年)、門司駅(現[[門司港駅]])が現在の駅舎に移転した。2代目門司駅は、[[ネオルネッサンス建築|ネオ・ルネサンス様式]]の木造2階建てである<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 81)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 546)]]。</ref>。[[第一次世界大戦]]開戦の年であり、人や物の移動が激しくなるのに対応して、関門連絡船桟橋と直結させたものと見られる<ref>[[#堀|堀 (2017: 30)]]。</ref>。その当時、既に九州と本州を橋または海底トンネルで結ぶことが検討されており、[[鉄道院]]総裁[[江藤新平]]がそのための調査を命じていた。そこでは、主力駅が大里駅(現[[門司駅]])となることが予想されていたため、2代目門司駅(現門司港駅)はレンガやコンクリートでなく木造とされたという<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 85)]]。</ref>。

[[ファイル:Sangiro.JPG|thumb|right|200px|現在残る料亭三宜楼。]]
大正期から昭和初年にかけて、門司港地区の桟橋通り周辺には、多くの銀行や商社が集まり、道路には[[ガス灯]]がともり、「一丁[[ロンドン|倫敦]]」と呼ばれた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 56-57)]]、[[#堀|堀 (2017: 24)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 19)]]。</ref>。桟橋通りは、山側から門司港駅前、その先の埠頭まで通る道であり、これと交差する東西道路([[国道3号]])とともに街並みの軸となった<ref>[[#岡本|岡本ほか (2008: 24-29)]]。</ref>。現門司港駅のほかにも、[[北九州市旧門司税関|旧門司税関]]([[1912年]])、[[北九州市旧大阪商船|旧大阪商船]](1917年)、日本郵船ビル(1927年)など、この時期に建てられた建物のいくつかが[[門司港レトロ]]地区に残っている<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 126-31)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 35-40)]]。</ref>。商社や銀行の支店長など、東京からの転勤族が洋風の「[[ハイカラ]]」な文化をもたらし、洋食品販売の[[明治屋]]、フルーツパーラー、カフェ、パン屋などが並んだ<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 167)]]。</ref>。門司港には料亭も多く、高級料亭だけでも「菊の屋」「金龍亭」「三笠」など十数軒あった。[[1931年]](昭和6年)に清滝に移転した料亭「[[三宜楼]]」が現存している<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 135)]]、[[#堀|堀 (2017: 232)]]。</ref>。明治時代に埋立地内に造られた[[遊郭]](馬場遊郭)もあった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 118-19)]]、[[#堀|堀 (2017: 27)]]。</ref>。[[1911年]](明治44年)、[[九州電気軌道]](後の[[西日本鉄道]])が門司と小倉・黒崎を結ぶ[[路面電車]]([[西鉄北九州線|北九州線]])を開業し、東本町や大里に停留所が置かれた。汽車よりも気楽に乗れる路面電車は、市民の足として人気を博した<ref>[[#米津|米津監修 (1992: 203)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 186-88)]]。</ref>。[[1923年]](大正12年)には、東本町2丁目から田ノ浦までの[[門司築港]]線(門築電車)が建設された(後に九州電気軌道の傘下となる)<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 24-25)]]。</ref>。[[1913年]](大正2年)以降、多数の[[映画館]]も開業した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 92-93)]]。</ref>。

大正期には、先行した門司市と[[小倉市]]に続き、[[若松市]]、[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]、[[戸畑市]]も市制施行し、[[北九州工業地帯]]を形成するようになった。中央資本による大工場が多いが、立地上、原料獲得に有利であることを背景に、素材中心の産業を発展させた<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 290)]]。</ref>。

==== 労働者と米騒動 ====
一方、門司港での石炭輸出を支えていたのが、「ごんぞ」「ごんぞう」<ref group="注釈">ただし、「ごんぞう」は若松で使われていた言葉で、門司では使われなかったという指摘もある。[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 161)]]。</ref>と呼ばれた[[沖仲仕]]であった。汽車で運ばれた石炭を[[艀]]に移し、それを沖待ちの巨大な汽船に届け、人力で運び上げる重労働であった。門司港は、入港船舶数に対し岸壁が足りなかったため、沖合に停泊した本船での荷役が多かった。[[1905年]]当時、門司市の人口4万4113人に対し、仲仕は1万3886人いたという。極めて低賃金であり、[[労働争議]]も多発した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 145-48)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 181)]]。</ref>。門司港の場合、女性の沖仲仕が多いことも特徴であった<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 161-64)]]。</ref>。

門司市では、[[1911年]](明治44年)に[[紫川]]上流の企救郡中谷村福智渓を水源とする[[水道]]の給水が始まり、徐々に整備されていったものの<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 653)]]。</ref>、上下水道や住宅などのインフラの整備は人口急増に追い付かず、特に労働者層の衛生状態は悪く、[[コレラ]]が度々流行して多くの死者を出した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 19)]]、[[#野澤|野澤ほか編 (2012: 166)]]。</ref>。

[[1918年]](大正7年)7月、[[シベリア出兵]]を前にした米価急騰により[[富山県]]で[[1918年米騒動|米騒動]]が始まると、全国に飛び火し、門司では8月14日に始まった。米屋の売り惜しみに対する抗議で市民が米店前に集まったことで本格化し、沖仲仕が合流して数千人に膨らんだ。門司市内の米屋のほとんど、呉服屋、酒屋、醤油屋などが襲撃を受けた。小倉[[第12師団 (日本軍)|第12師団]]が鎮圧に当たり、検挙者は200人ないし300人に上った<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 50-53)]]、[[#堀|堀 (2017: 179-81)]]。</ref>。米騒動後、[[内務省 (日本)|内務省]]は、物価安定、治安維持のために各地に[[公設市場]]を作ったが、門司では[[1920年]](大正9年)、陸軍兵器廠の跡地に老松公設市場を設け、戦後の中央市場の原形となった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 30-31)]]。</ref>。

==== 市域の拡大 ====
[[ファイル:Kitakyushu map circa 1930.PNG|thumb|right|240px|1930年頃の門司周辺地図。門司市は大里町と東郷村を合併しており、企救半島東側の企救郡松ヶ枝村はまだ独立している。]]
[[1913年]](大正3年)、門司市と企救半島北東部の東郷村とを結ぶ桜隧道(桜トンネル)が開通し、峻険な峠道を通らなくてよくなり、行き来が飛躍的に便利になった<ref name="門司の歴史・明治" /><ref>[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 19)]]。</ref>。[[1921年]](大正11年)には初代椿トンネルも開通し、桟橋通りから、企救半島東側の柄杓田、恒見方面に自動車やバスで容易に通行できるようになった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 25)]]。</ref>。

大里町は、[[1923年]](大正12年)2月1日、門司市に編入された。次いで、[[1929年]](昭和4年)10月1日、東郷村が門司市に編入された。[[1942年]](昭和17年)5月15日、松ケ枝村が門司市に編入されて、現在の門司区域が成立した<ref>[[#川添|川添ほか (1997: 付録25)]]。</ref>。なお、現在の門司区役所(当時の門司市役所)庁舎は、[[1930年]](昭和5年)に落成した。

=== 戦前から太平洋戦争 ===
==== 関門鉄道トンネルの開通 ====
[[ファイル:Kyuudairen.jpg|thumb|left|150px|[[1929年]](昭和4年)に国際旅客ターミナルとして建てられた旧大連航路{{Ruby|上屋|うわや}}<ref>[[#堀|堀 (2017: 127-28)]]、[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 26-27)]]。</ref>。]]
[[1931年]](昭和6年)、門司港の修築工事<ref group="注釈">門司港は、[[1918年]](大正7年)、国営化され、[[1919年]](大正8年)には[[内務省 (日本)|内務省]]による修築第1期工事が始まっていた。[[#羽原|羽原 (2016: 164)]]、[[#堀|堀 (2017: 197)]]。</ref>が完成し、[[大連市|大連]]航路、[[天津市|天津]]航路も開け、門司港は国際港として世界に知られるようになった。1か月に200隻近い外航客船が入港した<ref name="門司の歴史・昭和2">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063491.pdf ||title=門司の歴史:昭和時代(2)戦後 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref><ref>[[#堀|堀 (2017: 225)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 164-65)]]。</ref>。[[満州事変]]以降の大陸進出に伴い、門司港は貿易とともに軍需物資や兵員輸送の拠点となった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 164-65)]]。</ref>。

[[ファイル:Draft of cross Kammon straight traffic ja.png|thumb|right|200px|関門海峡連絡交通の構想図。当初、海底トンネルは小倉につながる案が立てられていたが、素通り化を恐れる門司側の運動により小森江に出入口が設けられることになった<ref>[[#堀|堀 (2017: 249-50)]]。</ref>。]]
明治時代から九州と本州を結ぶ海底トンネルの構想はあったが、1930年頃になると、貨物の量が激増し、従来の連絡船による貨物輸送では追いつかなくなったことから、海底トンネルの検討が本格化した。[[1935年]](昭和10年)に鉄道大臣[[内田信也]]が視察に訪れ、弟子待・小森江ルートの採用が決まり、[[1936年]](昭和11年)に'''[[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]'''が着工、[[1942年]](昭和17年)7月に貨物列車の運行が開始した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 181-82)]]。</ref>。

[[ファイル:関門連絡船通路跡の監視窓.JPG|thumb|left|門司港駅から関門連絡船乗り場に向かう地下道には、太平洋戦争中、[[特別高等警察]]が通行人を監視する監視孔が作られた<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 105-06)]]、[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 23)]]。</ref>。]]
これに伴い、1942年4月1日、それまでの門司駅は[[門司港駅]]と改称され、それまでの大里駅は400メートルほど南側に移転<ref group="注釈">大里駅舎の移転は1941年(昭和16年)9月1日である。[[#佐々木|佐々木 (2013: 206)]]。</ref>して[[門司駅]]となった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 81, 206)]]。</ref>。門司駅は、7月、東京、大阪、京都に次ぐ特別一等駅に指定され、戦後まで九州の玄関口としてにぎわった<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 38)]]。</ref>。一方、門司港駅を経由せずに下関駅と門司駅がつながることとなり、門司港地区にとっては衰退の予兆となる出来事でもあった<ref>[[#森下|森下 (2008: 18)]]。</ref>。

[[1937年]](昭和12年)8月には、壇ノ浦・和布刈間で[[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]も着工され、[[1944年]](昭和19年)に貫通したが、戦時下の資金難、物資調達難により、事業は中断された<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 184)]]。</ref>。

==== 戦災 ====
[[太平洋戦争]]中、門司市で最初の空襲は、[[1944年]](昭和19年)6月16日の[[B-29 (航空機)|B-29]]による北九州空襲であり、門司市では、大里、大杉町、黄金町付近に500ポンド[[爆弾]]が投下され、死者34名、負傷者25名を出した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 58-59)]]。</ref>。

日本商船の80%が通航する関門海峡は、アメリカ軍の集中的な攻撃目標となった。[[マリアナ諸島]]基地を出発したアメリカ軍B-29編隊が、1945年(昭和20年)3月27日夜、関門海峡に564トン(約1000発)の[[機雷]]を投下し、以後、終戦前日まで46回、合計4696発の機雷が投下された。[[日本海軍]][[第七艦隊 (日本海軍)|第七艦隊]]による[[掃海]]は困難を極め、関門海峡は完全に封鎖された<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 110-11)]]。</ref>。

6月29日には特に激しい[[空襲]]があり、[[焼夷弾]]により門司市内の3600戸余りが焼け、死者55人、負傷者92人、被災者1万6190人を出した。戦争中の空襲は前後9回に及び、被害面積35万坪、死者111人、負傷者217人に上った<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 128)]]。</ref>。日本銀行門司支店などの建物も壊滅したが<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 242)]]。</ref>、門司港駅はホーム1棟を失う被害にとどまった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 82-83)]]。</ref>。

8月9日には、B-29が小倉市に[[原子爆弾]]を投下しようとしたが、視界が悪かったために[[長崎市]]に[[長崎市への原子爆弾投下|変更]]されることとなった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 130)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063490.pdf |title=門司の歴史:昭和時代(1)戦前・戦中 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。

=== 戦後 ===
==== 復興 ====
終戦後、門司港は[[引き揚げ]]の拠点の一つとなり、[[朝鮮半島]]や大陸からの引揚船が到着した<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 31)]]。</ref>。市街地は焼け野原であり<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 56-57)]]。</ref>、関門海峡は機雷除去作業が続き、[[1949年]](昭和24年)に安全宣言が出されるまで、大型船舶の入出港ができなかった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 209)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 129, 170)]]。</ref>。この関門港閉鎖期間に、外国航路を[[神戸港]]などに奪われたと指摘される<ref>[[#堀|堀 (2017: 291)]]。</ref>。[[1950年]](昭和25年)の[[朝鮮戦争]]では、門司は物資輸送拠点となり、[[朝鮮特需]]にわいた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 131-32)]]。</ref>。貿易関係施設は接収されてアメリカ軍の将兵が駐留した<ref>[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 170)]]。</ref>。この年、大里地区に[[門司競輪場]]が開設された([[2002年]]に廃止)<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 163)]]。</ref>。しかし、朝鮮特需を最後のピークとして、石炭産業は斜陽化し、北九州全体の産業が沈滞していった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 211-12)]]。</ref>。中国との国交が断たれ、貿易相手がアメリカ主体となったことからも、太平洋から遠い門司港の地位は低下した<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 338)]]。</ref>。

[[ファイル:Surviving girl at Shirakizaki, Moji 1953 (1).JPG|thumb|right|200px|門司市白木崎で土砂崩れの下から救出された少女。]]
[[1953年]](昭和28年)6月25日から28日、集中豪雨が北九州を襲い、1時間100mm前後の雨量を記録した。門司市では、風師山で山津波([[土石流]])が発生し、市街地は泥と流木で埋まった。特に白木崎電停(現風師バス停)付近が大きな被害を受けた。関門トンネルは水没した。門司市内だけで死者・行方不明者143人が出た([[昭和28年西日本水害]])<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 200-02)]]、[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 44-49)]]。</ref><ref name="門司の歴史・昭和2" />。

門司市では、[[1947年]](昭和22年)に[[戦災復興土地区画整理事業]]が認可され、新しい町割りが行われ、[[1957年]](昭和32年)に[[土地区画整理事業|換地処分]]が行われて完了した<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000828529.pdf |format=PDF |title=土地区画整理事業一覧表 |publisher=北九州市建築都市局都市再生推進部都市再生整備課 |accessdate=2019-08-18}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000828528.pdf |format=PDF |title=北九州市土地区画整理図 |publisher=北九州市建築都市局都市再生推進部都市再生整備課 |accessdate=2019-08-18}}</ref>。[[1954年]](昭和29年)、門司港地区に栄町銀天街が新築され、1957年(昭和32年)にアーケードが完成した<ref name="門司の歴史・昭和2" />。

==== 関門国道トンネルの開通 ====
[[ファイル:Kanmon Roadway Tunnel - 01.JPG|thumb|left|180px|[[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]・門司側車道入口。3層から成り、最上部が排気ダクト、その下が車道、最下部が人道となっている<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 184-85)]]。</ref>。]]
戦争中に事業が中断されていた[[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]は、[[1952年]](昭和27年)に工事が再開され、[[1958年]](昭和33年)3月に完成した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 184-85)]]。</ref>。この時、門司トンネル博覧会(世界貿易産業大博覧会)が和布刈会場と老松会場で開かれ、[[昭和天皇]]・皇后が来臨し、入場者数は112万人余りに上る盛況であった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 30)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 508)]]。</ref>。また、これに合わせて、関門国道トンネル入口と古城山頂とを6分で結ぶ[[索道|ロープウェイ]]が開設されたが、間もなく乗客が減り、[[1964年]](昭和39年)に廃止された<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 31-32)]]。</ref>。一方、関門連絡船も、トンネル開通で利用客が減少し、1964年(昭和39年)に終了した<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 109)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 178)]]。</ref>。

==== 五市合併 ====
明治以来、北九州の各市(門司、[[小倉市|小倉]]、[[若松市|若松]]、[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]、[[戸畑市]])と下関市との合併論は度々持ち上がっており、昭和に入ってからも、3回、合併運動が展開されたが、失敗に終わっていた<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 16)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 28-29)]]。</ref>。門司市は、[[1948年]](昭和23年)に北九州五市合併総合研究委員会ができた時(第3回合併運動)には、下関市を入れた六市合併を譲らなかった<ref name="門司の歴史・昭和2" />。その背景には、合併により港湾機能が小倉に移転し、門司が「場末」化して衰退するおそれがあるという懸念があった<ref>[[#野澤|野澤ほか編 (2012: 167)]]、[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 179)]]、[[#田郷・それから|田郷 (1988: 160-61)]]。</ref>。しかし、[[1960年]](昭和35年)、八幡市長[[大坪純]]が五市市長会で五市合併を提案したことを機に、現実性を帯びるようになった(第4回合併運動)<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 16)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 28-29)]]。</ref>。北九州工業地帯の地位低下に対する危機感や生活圏の拡大を背景に、[[柳田桃太郎]]門司市長も五市合併に賛同し、[[1961年]](昭和36年)、各市議会で賛成決議がされた。市名は市民から募集された名前の中から[[北九州市]]に決定し、[[1963年]](昭和38年)[[2月10日]]に北九州市が発足(人口103万人余り)、[[4月1日]]に[[政令指定都市]]となり、門司市は'''門司区'''となった<ref name="門司の歴史・昭和2" /><ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 28-32)]]、[[#野澤|野澤ほか編 (2012: 167)]]。</ref><ref group="注釈">北九州市発足から政令指定都市移行までの間は、「門司区」は正確には町名・大字の一部(接頭句)の扱いであった。</ref>。

合併を機に、[[1964年]](昭和39年)、門司港、小倉港、洞海港の3港は、北九州港管理組合(後に北九州市港湾局)が管理する[[北九州港]]となった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 457)]]。</ref>。

==== 関門橋、新幹線の開通 ====
[[ファイル:Kanmonkyo.jpg|thumb|right|200px|門司港地区から望む[[関門橋]]。]]
[[高速道路]]の[[九州自動車道]]と[[中国自動車道]]を結ぶ計画は、[[1962年]](昭和37年)から検討されていたが、[[1968年]](昭和43年)に[[日本道路公団]]によって着工され、[[1973年]](昭和48年)11月に[[関門橋]]が開通した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 185)]]。</ref>。鉄道、国道トンネルに続き、関門橋の開通により、門司港地区は完全に通過点となったとされる<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 102)]]。</ref>。

もっとも、貨物に関しては、関門橋の開通により門司への集積が進んだ<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 102)]]。</ref>。朝鮮戦争以来、1972年(昭和47年)に全面解除されるまでの間、アメリカ軍による西海岸の埠頭施設の接収が長期化したこともあり、田野浦の港湾整備が進められていたが<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 78)]]、[[#林|林[神﨑智子解説](2018: 170)]]。</ref>、北九州市は、[[1971年]](昭和46年)に田野浦コンテナターミナルを開設し、さらに、[[北九州港|太刀浦コンテナターミナル]]を造成し([[1979年]](昭和54年)供用開始)、田野浦・太刀浦一帯を臨海工業地とした。中国、韓国、東南アジアとの間で、自動車部品、工業製品、雑貨などのコンテナの取扱量が急増した<ref name="門司の歴史・昭和2" /><ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 458)]]、[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 102-03)]]</ref>。

[[ファイル:JNR ef30 6+21fc.jpg|thumb|left|200px|[[1961年]]に[[交流電化]]された九州(門司港・[[久留米駅|久留米]]間)と[[直流電化]]方式の本州との間で[[電気機関車]]を入れ替える必要があり、[[交直流電車|交直流両用]]の[[国鉄EF30形電気機関車]]でリレーした。門司駅はそのための重要な停車駅であった<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 38-39)]]。</ref>。]]
[[1975年]](昭和50年)、[[山陽新幹線]][[新下関駅|新下関]]・[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]間の[[新関門トンネル]]が開通して東京・博多間の新幹線全線が開業した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 186)]]。</ref><ref group="注釈">新幹線の接続駅は、門司駅、小倉駅、城野駅、三萩野の4か所が候補となったが、乗換え便の確保という[[日本国有鉄道|国鉄]]の営業上の理由や、北九州市の意向を踏まえ、小倉駅に決定した。[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 453)]]。</ref>。新幹線は門司で止まらない上、在来線でも、関門をまたぐ[[寝台特急]]が激減し、小倉、[[博多駅|博多]]を中心に[[ダイヤグラム]]が組まれるようになって、それまで[[電気機関車]]の入れ替え駅として活躍していた門司駅の繁栄が失われる転機となった<ref>[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 38-40)]]。</ref>。小倉、[[黒崎 (北九州市)|黒崎]]、さらに新幹線の終着点である福岡市が発展する一方、門司は経済成長から取り残された<ref>[[#森下|森下 (2008: 19-20)]]、[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 45)]]。</ref>。他方、経済的な発展から取り残されたがゆえに、歴史的な町並みが残され、後のレトロ事業につながった側面もある<ref>[[#森下|森下 (2008: 22)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 4)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 509)]]。</ref>。

[[ファイル:Nishitetsu148.jpg|thumb|right|180px|[[2000年]](平成12年)に全路線が廃線となった[[西鉄北九州線]]の路面電車車両<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 23)]]。</ref>。]]
[[モータリゼーション]]の進行に伴い、交通渋滞が深刻化したため、[[1985年]](昭和60年)10月、[[門司停留場|門司]]・[[砂津]]間の路面電車が廃止となり、他の[[西鉄北九州線]]の路線も順次廃線となった<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 478)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 187-88)]]、[[#佐々木|佐々木 (2013: 23)]]。</ref>。企業は小倉や博多に九州支店を移すところが増え、[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]後、[[九州旅客鉄道|JR九州]]は本社中枢機能を福岡市に移転し、門司港経済への影響が大きかった<ref>[[#毎日・70年|毎日新聞西部本社報道部 (2015: 110)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 21)]]。</ref><ref group="注釈">国鉄民営化に際し、JR九州の本社を福岡市に置く[[運輸省]]の方針に北九州市が猛反発した結果、妥協策として、福岡市の本社と門司港の北九州本社の2本社体制がとられたが、北九州本社は中身が伴わないとの反発は残った。[[1996年]](平成8年)にJR九州と北九州市の[[末吉興一]]市長が合意し、北九州本社は[[2001年]](平成13年)に廃止された。[[#毎日・50年|毎日新聞西部本社報道部 (2013: 48)]]。</ref>。

==== 門司港レトロ ====
{{Main|門司港レトロ}}
門司では、経済が沈滞する中、老朽化した建物・倉庫群が取壊しの対象となり、[[北九州市旧門司税関|旧門司税関]]、[[北九州市旧大阪商船|旧大阪商船]]、[[北九州市旧門司三井倶楽部|旧門司三井倶楽部]](門鉄会館)などの歴史的な建物も解体されようとしていた<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 33)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 22-24)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 547-48)]]。</ref>。

[[1986年]](昭和61年)に北九州市長に就任した[[末吉興一]]は、翌[[1987年]](昭和62年)、門司港に残る歴史的遺産を生かして街を整備する「[[門司港レトロ]]」構想に着手した<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 27)]]。</ref>。特に、[[1988年]](昭和63年)に門司港駅が国の[[重要文化財]]に指定されたことを機に、洋風建築保存・活用の気運が本格化した<ref>[[#森下|森下 (2008: 21)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 52-53)]]。</ref>。この年、北九州市の「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」が[[自治省]]の[[ふるさと創生事業|ふるさとづくり特別対策事業]]に採択され、予算が付与された<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 24-27, 35)]]。</ref>。[[運輸省]]の歴史的港湾環境創造事業を利用した旧門司税関の復元<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 73-80)]]。</ref>、第1船溜り出入口の[[跳ね橋]]「ブルーウィングもじ」などの西海岸地区緑地整備事業<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 99-102)]]。</ref>、[[友好都市]][[大連市]]の旧[[東清鉄道]]事務所を複製した[[国際友好記念図書館]]の建設<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 80-89)]]。</ref>も進められた。総事業費約300億円が投入され、[[1995年]](平成7年)3月、門司港レトロがグランドオープンした<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 27)]]、[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 185)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 548)]]。</ref>。第1船溜りを中心に、賑わいが生まれた<ref>[[#岡本|岡本ほか (2008: 51)]]。</ref>。

その後、[[1997年]](平成9年)から[[2007年]](平成19年)にかけて門司港レトロ第2期事業が実施され、[[九州鉄道記念館]]や海峡ドラマシップ([[関門海峡ミュージアム]])など、新しい観光施設、宿泊施設、商業施設も次々オープンした<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 550-51)]]、[[#森下|森下 (2008: 29-30)]]。</ref>。かつての[[門司築港]]が建設した門司港・[[外浜駅|外浜]]を通る線路には、[[2005年]](平成17年)まで貨物列車が走っていたが、[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線]]の[[トロッコ列車]](潮風号)が走るようになった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 79)]]、[[#羽原|羽原 (2016: 208)]]。</ref>。[[2014年]](平成26年)には三宜楼が保存修理工事を経て一般公開された<ref>[[#堀|堀 (2017: 232)]]。</ref>。

[[ファイル:Yamashiroya.jpg|thumb|right|200px|[[2001年]](平成13年)に閉店した[[山城屋 (百貨店)|山城屋]]。]]
一方、[[1937年]](昭和12年)に門司港地区に開業し門司唯一の[[百貨店|デパート]]として親しまれていた[[山城屋 (百貨店)|山城屋]]が、小倉を中心とするデパート戦争に取り残され、[[1994年]](平成6年)に[[倒産]]手続に入り、[[2001年]](平成13年)に閉店し、経済の衰えを象徴する出来事となった<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 207-10)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 222)]]。</ref>。観光地化された中心部を外れると、人通りが少なく、寂れつつあるとの指摘もある<ref>[[#岡本ほか (2008: 51)]]。</ref>。
{{Clear}}
== 人口 ==
門司市の人口は、明治時代から急速に増加し、1930年代後半は12万人から13万人台まで増加した。戦争の激化に伴って減少したが、戦後、再び増加し、1959年に史上最高の16万5010人に達した。その後、門司区時代となったが、減少を続け、2015年からは10万人を割り込んだ<ref>[[#羽原|羽原 (2016: 101)]]。</ref>。

北九州市全体として、高等教育機関が少なく、活力ある企業が少ないため、人口流出はこの先も続く可能性が高いと考えられている<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 195)]]。</ref>。
{{Side box |metadata=No
| above = '''門司区(その前身の村・町・市)の人口'''<ref>[[1889年]](明治22年)から[[1941年]](昭和16年)まで、[[1944年]](昭和19年)から[[1995年]](平成7年)までは[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 366, 368)]]。合併前の大里町・東郷村・松ヶ枝村の人口は含まない。</ref><ref>[[1947年]](昭和22年)以降は{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/page/toukei/sougou/nenkan/03/0301.xlsx |format=XLS |title=3-1. 人口の推移 |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |accessdate=2019-09-14}}[https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0317.html 北九州市統計年鑑【3.人口】]より取得。1959年以前は[[国勢調査]](10月1日現在)、公簿・常住・配給人口、住民登録人口(12月31日現在)による。1960年以降は5年ごとの国勢調査と推計人口(10月1日現在)による。</ref>
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| text = {{Graph:Chart
| width = 400 | height = 150
| xAxisTitle=年 |yAxisTitle=人口(人)|yAxisMin=0
| type = area
| x = 1889, 1890, 1891, 1892, 1893, 1894, 1895, 1896, 1897, 1898, 1899, 1900, 1901, 1902, 1903, 1904, 1905, 1906, 1907, 1908, 1909, 1910, 1911, 1912, 1913, 1914, 1915, 1916, 1917, 1918, 1919, 1920, 1921, 1922, 1923, 1924, 1925, 1926, 1927, 1928, 1929, 1930, 1931, 1932, 1933, 1934, 1935, 1936, 1937, 1938, 1939, 1940, 1941, 1944, 1945, 1946, 1947, 1948, 1949, 1950, 1951, 1952, 1953, 1954, 1955, 1956, 1957, 1958, 1959, 1960, 1961, 1962, 1963, 1964, 1965, 1966, 1967, 1968, 1969, 1970, 1971, 1972, 1973, 1974, 1975, 1976, 1977, 1978, 1979, 1980, 1981, 1982, 1983, 1984, 1985, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990, 1991, 1992, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017
| y = 3060, 6917, 6869, 7369, 8182, 10078, 18831, 20608, 21607, 25280, 29290, 34070, 36052, 36798, 38065, 38485, 44113, 49234, 52725, 55682, 59654, 62329, 65812, 68528, 71977, 74520, 74811, 70499, 71724, 73377, 73351, 73838, 74444, 75916, 91990, 94496, 96354, 98740, 101030, 105437, 113725, 110437, 111782, 113724, 115191, 116677, 121989, 122798, 123955, 127766, 131706, 137354, 138649, 118422, 99168, 107910, 109567, 116556, 122417, 124399, 131861, 136046, 139374, 150756, 145027, 155487, 158687, 163160, 165010, 152081, 153073, 155116, 156195, 153056, 153441, 153053, 152666, 152439, 150682, 147472, 147718, 147358, 145734, 144921, 144697, 144571, 144582, 143952, 143100, 142222, 141018, 139987, 138724, 137422, 136011, 134592, 132273, 130743, 129437, 127895, 126401, 125180, 123969, 122577, 120890, 119582, 118428, 117247, 116042, 114750, 113838, 113028, 112031, 110811, 108677, 107810, 106887, 106335, 105503, 104469, 103502, 102576, 101562, 100605, 99637, 98553, 97293
}}
}}

北九州市全体として若年層の流出により[[高齢化社会|高齢化]]が進んでいるが<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 589-90)]]。</ref>、門司区は人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36.5%と、市の中でも高い<ref name="年齢別人口">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000836170.xls |title=年齢別 |format=XLS |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |date=2019-03-31 |accessdate=2019-08-29}}([https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0311.html 北九州市「北九州市の人口(町別)」]より取得) </ref>。
{| class="wikitable" style=border:1px black; float:right; margin-left:1em;"
|-
|<div style="width:500px;height:24px;font:10pt;text-align:center">'''門司区の人口構成'''<small>(2019年3月、単位:人)</small><ref name="年齢別人口" /></div>
{|
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:0px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">6</div><!--widthには世代別人口の20分の1の値(小数点以下切り捨て)を指定している。男性-->
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">100+</div>
|<div style="width:4px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">87</div><!--女性-->
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:4px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">90</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">95-99</div>
|<div style="width:23px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">476</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:24px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">486</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">90-94</div>
|<div style="width:73px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,466</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:64px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,280</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">85-89</div>
|<div style="width:136px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,735</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:98px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,964</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">80-84</div>
|<div style="width:175px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,508</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:148px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,961</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">75-79</div>
|<div style="width:202px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">4,056</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:184px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,692</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">70-74</div>
|<div style="width:225px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">4,510</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:200px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">4,007</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">65-69</div>
|<div style="width:230px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">4,608</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:148px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,974</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">60-64</div>
|<div style="width:163px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,273</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:136px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,735</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">55-59</div>
|<div style="width:153px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,077</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:140px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,812</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">50-54</div>
|<div style="width:153px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,077</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:165px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,319</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">45-49</div>
|<div style="width:169px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,398</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:150px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,019</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">40-44</div>
|<div style="width:156px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">3,123</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:127px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,555</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">35-39</div>
|<div style="width:126px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,539</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:103px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,065</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">30-34</div>
|<div style="width:99px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,990</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:89px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,792</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">25-29</div>
|<div style="width:89px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1.790</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:92px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,842</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">20-24</div>
|<div style="width:94px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,895</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:107px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,153</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">15-19</div>
|<div style="width:99px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,995</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:103px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,063</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">10-14</div>
|<div style="width:100px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">2,017</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:96px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,927</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">5-9</div>
|<div style="width:91px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,839</div>
|-
|<div style="position:relative;right:0px;float:right;width:80px;height:8px;background:skyblue;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,610</div>
|<div style="width:40px;height:8px;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman'">0-4</div>
|<div style="width:76px;height:8px;background:pink;text-align:center;font:6pt 'Times New Roman';color:black">1,524</div>
|}
|}


== 地域 ==
== 地域 ==
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
=== 教育 ===
|<div style="position: relative">[[ファイル:Moji-ku from space.jpg|240px|center|門司区の航空写真]]
==== 高等学校 ====
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:45%;top:15%">[[和布刈]]</div>
県立高校はかつて門司区だけで単一の通学区域(旧第2学区)であったが、若年人口減少により、[[2007年]]([[平成]]19年)[[4月1日]]旧第3学区と統合された([[2009年]]4月1日より旧第2・第3学区は第2学区に変更)。また、区内の県立高校の再編成が行なわれ、[[中高一貫教育|中高一貫]]型を採るケースも出た。
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:60%;top:13%">田野浦</div>
* [[福岡県立門司大翔館高等学校]]
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:75%;top:14%">太刀浦</div>
** [[福岡県立門司商業高等学校]](合併閉校)
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:45%;top:23%">'''[[門司港 (地区名)|門司港]]'''</div>
** [[福岡県立大里高等学校]](合併閉校)
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:35%;top:35%">小森江</div>
* [[福岡県立門司学園高等学校]]
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:28%;top:47%">'''[[大里 (北九州市)|大里]]'''</div>
** [[福岡県立門司高等学校]](閉校)
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:25%;top:52%">[[西門司]]</div>
** [[福岡県立門司北高等学校]](閉校)
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:80%;top:25%">白野江</div>
* [[敬愛中学校・高等学校|敬愛高等学校]]
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:65%;top:32%">大積</div>
* [[豊国学園高等学校]]
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:60%;top:54%">伊川</div>
* [[啓知高等学校]](旧・九州女子学園高等学校)(閉校)
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:60%;top:60%">猿喰</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:50%;top:70%">吉志</div>
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:70%;top:75%">'''[[新門司]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:60%;top:85%">恒見</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:3%;top:3%">''[[響灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;right:3%;top:60%">''[[周防灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:30%;top:20%">''[[関門海峡]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:45%;top:10%">''[[関門橋]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:3%;top:58%">'''{{LinkColor|green|小倉}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:20%;top:10%">'''{{LinkColor|green|下関市}}'''</div>
</div>
|}
=== 門司港・和布刈地区 ===
[[ファイル:Mojiko panorama from Mekari Park.jpg |thumb|left|200px|[[和布刈公園]]から望む[[門司港 (地区名)|門司港]]地区。]]
'''[[門司港 (地区名)|門司港]]地区'''は、[[門司港レトロ]]の観光事業で脚光を浴びている。[[門司港駅]](1914年(大正3年)築)の付近から第1船溜り周辺にかけては、[[北九州市旧門司三井倶楽部|旧門司三井倶楽部]](1921年(大正10年)築)、[[北九州市旧大阪商船|旧大阪商船ビル]](1917年(大正6年)築)、[[北九州市旧門司税関|旧門司税関]](1912年(明治45年)築)などの歴史的建造物が集まっている。旧[[九州鉄道]]本社([[1891年]](明治24年)築)を転用した[[九州鉄道記念館]]などの観光施設や、[[出光美術館]]、[[プレミアホテル門司港|ホテル]]、商業施設も立ち並んでいる。関門海峡エリアは、[[美しい日本の歴史的風土100選]]に選ばれ、門司港駅をはじめとするレトロ地区の施設群は[[経済産業省]]の[[近代化産業遺産]]に認定されている<ref name="門司区の概要">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/file_0002.html |title=門司区の概要 |publisher=門司区役所総務企画課 |date=2019-03-14 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。


他方、年間200万人とされるレトロ地区の観光客は栄町などの商店街に流れておらず、商店街再生の前途は厳しいままである<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 222)]]。</ref>。
==== 中学校 ====
<gallery>
* [[福岡県立門司学園中学校]](門司学園高校併設)
ファイル:Mojiko Station at night (April 2019, after renovation).jpg|[[門司港駅]]。[[2019年]](平成31年)3月に大正時代の姿に改修された。
* 北九州市立風師中学校(2010年北九州市立門司中学校へ統合)
ファイル:140721 Former Moji Mitsui Club Kitakyushu Japan01bs.jpg|[[北九州市旧門司三井倶楽部|旧門司三井倶楽部]]。レトロ事業により門司区谷町から門司港駅正面に移築したもの。
* 北九州市立東郷中学校
ファイル:Mojiko Retro Area 20150606-1.JPG|第1船溜りに面した商業施設(海峡プラザ)。
* 北九州市立戸ノ上中学校
ファイル:Closing Blue-Wing Moji Bridge and Moji Port Hotel in Mojiko Retro Area.JPG|第1船溜りの出入口にある跳ね橋(ブルーウィングもじ)。背後に[[プレミアホテル門司港]]。
* 北九州市立早鞆中学校
ファイル:Mojiko Retro Highmart in Mojiko Retro Area from Blue-Wing Moji Bridge.jpg|[[超高層マンション]]の[[門司港レトロハイマート]]。最上階が「門司港レトロ展望室」となっている。
* 北九州市立松ヶ江中学校
ファイル:Idemitsu Museum of Art, Moji 01.JPG|[[出光美術館]](門司)。
* [[北九州市立緑丘中学校]]
ファイル:Sakaemachi arcade 2.JPG|アーケード商店街(栄町銀天街)。
* 北九州市立門司中学校
ファイル:Nishikimachi townscape 1.JPG|錦町界隈の家並み。
* 北九州市立柳西中学校
</gallery>
* 私立[[敬愛中学校・高等学校|敬愛中学校]]


古城山を中心とする'''{{Ruby|和布刈|めかり}}地区'''は、古くからの観光名所であり、[[1956年]](昭和31年)に[[和布刈公園]]を含む一帯が[[瀬戸内海国立公園]]に編入された<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 525)]]。</ref>。レトロ事業と同時期に海峡めぐり推進事業の中で整備され、展望台には源平合戦絵巻の壁画が設置され、頂上広場、遊具広場、遊歩道なども整備されている<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 107)]]。</ref>。[[和布刈神社]]では、毎年旧暦元旦に神官が海に浸かって[[ワカメ]]を刈り、神前に備える和布刈神事が行われ、福岡県の[[無形文化財]]に指定されている<ref>[[#森下|森下 (2008: 16)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.mekarijinja.com/mekarisinji |title=和布刈神事 |publisher=和布刈神社 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。門司港地区([[九州鉄道記念館駅]])と和布刈地区([[関門海峡めかり駅]])の間を、[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線]]のトロッコ列車が走っている<ref>{{Cite web |url=http://www.retro-line.net/ |title=北九州銀行レトロライン 門司港レトロ観光列車 潮風号 |publisher=平成筑豊鉄道株式会社 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。
==== 小学校 ====
<gallery>
* 北九州市立小森江東小学校
ファイル:Mural painting of a Battle of Dan-no-ura.JPG|[[和布刈公園]]の源平合戦絵巻壁画。下関[[赤間神宮]]社宝『安徳天皇縁起図』に基づき、[[有田焼]]のタイル1400枚で再現した<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 108)]]。</ref>。
* 北九州市立田野浦小学校
ファイル:Kanmonkyo Bridge from Mekari Park.jpg|和布刈公園から見た[[関門橋]]。
* [[北九州市立大里柳小学校]]
ファイル:World Peace Pagoda, Moji.jpg|和布刈公園にある[[世界平和パゴダ]]。日本と[[ミャンマー]]との親善などを目的に[[1958年]]に建立された<ref>{{Cite web |url=http://www.worldpeace-pagoda.net/ |title=世界平和パゴダ |publisher=世界平和パゴダ |accessdate=2019-08-24}}</ref>。
* 北九州市立大里東小学校
ファイル:Mekari Park 03.JPG|ノーフォーク広場。門司市以来の[[姉妹都市]]・[[アメリカ合衆国]][[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]との友好関係を記念し、[[1986年]](昭和61年)に整備された<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 171)]]。</ref>。
* 北九州市立小森江西小学校
ファイル:Entrance of Kammon Pedestrian Tunnel in Moji, Kitakyushu.jpg|[[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]人道入口。
* 北九州市立白野江小学校
ファイル:Shiokazemoiwa.jpg|[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線]]を走る潮風号。
* 北九州市立柄杓田小学校
</gallery>
* [[北九州市立大積小学校]]
* 北九州市立西門司小学校
* 北九州市立松ヶ江南小学校
* 北九州市立松ヶ江北小学校
*[[北九州市立伊川小学校]]
* 北九州市立萩ヶ丘小学校
* 北九州市立大里南小学校
* 北九州市立藤松小学校
* 北九州市立門司中央小学校
* 北九州市立門司海青小学校
* 北九州市立港が丘小学校
* 私立[[敬愛小学校]]


==== 幼稚園 ====
=== 大里・小森江地区 ===
[[ファイル:View from footbridge over Moji Station.jpg|thumb|right|200px|門司駅から小倉方面を望む。]]
* 北九州市立松ヶ江幼稚園
[[門司駅]]を中心とする'''[[大里 (北九州市)|大里]]地区'''は、関門鉄道トンネルの開通によって九州の玄関口となり、駅前の柳町銀天街、市場、スーパーが栄えた。しかし、昭和60年頃から空き店舗が目立つようになり、柳町銀天街のアーケードは撤去された<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 511)]]。</ref>。[[鈴木商店]]が建設した煉瓦造りの工場群のうち、帝国麦酒([[1913年]](大正2年)設立)の工場は[[サッポロビール]]九州工場として稼働していたが、[[2000年]](平成12年)に閉鎖された。その後、建物の保全・活用が図られ、[[2006年]](平成18年)に[[門司赤煉瓦プレイス]]として開業した。事務所棟(門司麦酒煉瓦館)・醸造棟などが国の[[登録有形文化財]]となっている<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 203-04)]]、[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 34-35)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 511-12)]]。</ref><ref name="門司区の概要" /><ref>{{Cite web |url=https://mojirenga.jp/beer/ |title=北九州市門司麦酒煉瓦館 |publisher=門司煉瓦倶楽部 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。
; 私立
* 愛光幼稚園
* あけぼの幼稚園
* [[敬愛幼稚園 (福岡県)|敬愛幼稚園]]
* 門司こばと幼稚園
* [http://saiwai-youchien.jp さいわい幼稚園]
* 東郷瞳幼稚園
* 西門司幼稚園
* 花園幼稚園
* 日の丸幼稚園
* 門司聖母幼稚園
* 門司瞳幼稚園
* 門司幼稚園


サッポロビールの移転後、区画整理が進み、近年では門司駅周辺の[[マンション]]が増えつつある<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 222)]]。</ref>。
==== 図書館 ====
<gallery>
* [[北九州市立図書館#門司図書館|北九州市立門司図書館]]
ファイル:Moji Station 20181224.jpg|[[門司駅]]南口。
** 新門司分館
ファイル:帝国麦酒 (現・門司赤煉瓦プレイス).jpg|旧帝国麦酒醸造棟(後にサッポロビール九州工場、現・[[門司赤煉瓦プレイス]])。
** 大里分館(大里こどもと母のとしょかん)
ファイル:ニッカウヰスキー (旧・大里製粉所倉庫).jpg|旧大里製粉所倉庫(後に協和発酵、現・[[ニッカウヰスキー]]門司工場<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 216)]]。</ref>)。
* 国際友好記念図書館(現在は[[北九州市大連友好記念館|大連友好記念館]]となっており、図書室機能はなくなっている)
ファイル:大里製糖所(現・関門製糖).jpg|旧大里製糖所(現・関門製糖)。
ファイル:平経正卿歌碑.jpg|御所神社近くの[[平経正]]・[[平時忠]]歌碑。
ファイル:Furonoido2014002.jpg|源氏に追われてこの地に着いた平家が疲れを癒やしたと伝えられる「風呂の井戸」。
</gallery>


'''小森江地区'''は、工場群や下関との貨物航路で栄えた町である。[[林芙美子]]の出生地という説があり、[[風師山]]登山道を登った旧小森江浄水場([[1973年]](昭和48年)廃止)敷地内に、林芙美子文学碑がある。貯水池跡には、[[2001年]](平成13年)に[[小森江子供のもり公園]]が開園した。矢筈山山頂には堡塁跡があり、[[1971年]](昭和46年)に矢筈山キャンプ場が開場した<ref>[[#守る会|北九州市の文化財を守る会編 (2019: 30-31)]]。</ref>。
== 主な医療機関 ==
<gallery>
* [[掖済会門司病院]]
ファイル:Komorie station 1.jpg|[[小森江駅]]。
* [[北九州市立門司病院]]
</gallery>
* [[JR九州病院]]

* [[新小文字病院]]
=== 周防灘側 ===
[[周防灘]]に面した'''[[新門司]]地区'''は、[[1959年]](昭和34年)、[[通商産業省]]の工業適地審議会が臨海工業用適地に指定したことから、港湾設備と臨海工業用地の造成が始まった。第1期事業地区(新門司南地区)は[[1976年]](昭和51年)に竣工した。[[出光興産]]、[[古河電気工業]]などの大規模工場や倉庫、[[名門大洋フェリー]]のターミナルなどがある。第2期事業地区(新門司北地区)は[[1978年]](昭和53年)に着工し、[[阪九フェリー]]ターミナル、マリンレジャーの拠点[[新門司マリーナ]]、[[オーシャン東九フェリー]]が開設したほか、[[トヨタ輸送]]新門司自動車物流センターや[[農林水産省]][[動物検疫所]]などが立地している<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 282-83)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Shin-moji Ferry Terminal.jpg|新門司の[[阪九フェリー]]第1ターミナル。
ファイル:New Moji Port Ferry Terminal of Meimon Taiyo Ferry 20190204-1.jpg|新門司の[[名門大洋フェリー]]ターミナル。
ファイル:Kyushu Factory of Furukawa Electric Industrial Cable at dusk.jpg|新門司にある工場(古河電工産業電線株式会社九州工場)。
</gallery>

企救半島東部には、市の指定無形民俗文化財の大積神楽が上演される大積天疫神社、猿喰新田の開発の跡が見られる汐抜き穴、[[部埼灯台]]、[[1996年]](平成8年)に市が整備した[[白野江植物公園]]などもある<ref name="門司区の概要" /><ref>{{Cite web |url=http://www.shiranoe.com/kouen/index.html |title=北九州市立白野江植物公園:公園の紹介 |publisher=北九州市立白野江植物公園 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。

周防灘海域では、干潟が広がり、[[ガザミ]]、[[コウイカ]]、[[スズキ (魚)|スズキ]]、[[カレイ]]などのかご漁、[[刺し網]]、小型[[定置網]]のほか、[[カキ (貝)|カキ]]の養殖が盛んである<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 371)]]。</ref>。柄杓田漁港をはじめとする漁港が整備され、漁業の拠点となっている<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 372)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:部埼灯台 - panoramio.jpg|[[部埼灯台]]。
ファイル:Tachinoura Gantry crane.jpg|太刀浦コンテナターミナル。[[1979年]](昭和54年)に供用開始し、西日本有数の[[コンテナターミナル]]となっている<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 339)]]。</ref>。
</gallery>
{{Clear}}


== 交通 ==
== 交通 ==
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:OSM Map of Moji-ku, Kitakyushu City.png|280px|center|門司区の地図]]
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:42%;top:19%">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[門司港駅]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:27%;top:39%">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[小森江駅]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:23%;top:48%">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[門司駅]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:70%;top:35%">[[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:65%;top:20%">[[ファイル:E2A-JP.png|22px]][[関門橋|関門自動車道]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:48%;top:10%">[[ファイル:Green pog.svg|8px]][[めかりパーキングエリア|めかりPA]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:40%;top:75%">[[ファイル:E3-JP.png|20px]][[九州自動車道]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:58%;top:34%">[[ファイル:Green pog.svg|8px]][[門司インターチェンジ|門司IC]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:49%;top:62%">[[ファイル:Green pog.svg|8px]][[新門司インターチェンジ|新門司IC]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:45%;top:38%">[[ファイル:Japanese Urban Expwy Sign 0004.svg|16px]][[北九州高速4号線]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:51%;top:28%">[[ファイル:Green pog.svg|8px]][[春日出入口]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:30%;top:50%">[[ファイル:Green pog.svg|8px]][[大里出入口]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:30%;top:25%">[[ファイル:Japanese National Route Sign 0199.svg|16px]][[国道199号]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:32%;top:30%">[[ファイル:Japanese National Route Sign 0003.svg|16px]][[国道3号]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:42%;top:5%">[[ファイル:Japanese National Route Sign 0002.svg|16px]][[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:54%;top:55%">[[ファイル:Fukuoka Pref Route Sign 0025.svg|16px]][[福岡県道25号門司行橋線|門司行橋線]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:60%;left:5%;top:65%">[[新関門トンネル]]<br/>([[山陽新幹線]])</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:60%;top:70%">[[新門司]]港</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:5%;top:90%">[[北九州空港]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:0%;top:75%">{{LinkColor|green|小倉北区}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:20%;top:90%">{{LinkColor|green|小倉南区}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:10%;top:5%">{{LinkColor|green|下関市}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:0%;top:3%">''[[響灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;right:3%;top:60%">''[[周防灘]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:20%;top:20%">''[[関門海峡]]''</div>
</div>
|}
=== 鉄道 ===
=== 鉄道 ===
;[[九州旅客鉄道]](JR九州
; {{JR九駅番号|JA}} [[九州旅客鉄道|JR九州]][[鹿児島本線]]
: 門司区西側の関門海峡沿いを走り、門司区内に3駅ある。複線電化区間である。門司港・[[久留米駅|久留米]]間の[[鉄道の電化|電化]]([[交流電化]])が完成したのは[[1961年]](昭和36年)である<ref>[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 175)]]。</ref>。
:* [[鹿児島本線]]
:* {{JR九駅番号|JA|31}} [[門司港駅]] - 始発駅。
:** [[門司港駅]] - [[小森江駅]] - [[門司駅]] ([[山陽本線]]([[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]])との接続駅)
:* {{JR九駅番号|JA|30}} [[小森江駅]] - [[1988年]](昭和63年)に新設された<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 483)]]。</ref>。
;[[平成筑豊鉄道]]
:* {{JR九駅番号|JA|29}} [[門司駅]] - [[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]を経て[[山陽本線]]との接続駅。門司駅の次は[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]である。
:* [[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線|門司港レトロ観光線]]([[北九州銀行]]レトロライン)

:** [[九州鉄道記念館駅]] - [[出光美術館駅]] - [[ノーフォーク広場駅|ノーフォーク広場(レストラン「ら・むゑっと」入口)駅]] - [[関門海峡めかり駅]](全線区内)
; [[平成筑豊鉄道]][[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線|門司港レトロ観光線]]([[北九州銀行]]レトロライン)
この他、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[山陽新幹線]]も区内を通るが、[[新関門トンネル]]のため駅はない。
: 観光線として、門司港地区と和布刈地区を結んでいる(全線門司区内)。
:* [[九州鉄道記念館駅]]
:* [[出光美術館駅]]
:* [[ノーフォーク広場駅]]
:* [[関門海峡めかり駅]]
[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[山陽新幹線]]も区内を通るが、[[新関門トンネル]]のため駅はない。


==== 廃止路線 ====
==== 廃止路線 ====
; 路面電車
;[[西日本鉄道]]
:* [[西鉄北九州線|北九州線]][[2000年]]([[平成]]12年)全線廃止
* [[西日本鉄道]][[西鉄北九州線|北九州線]] - [[1985年]](昭和60年)に[[門司停留場|門司]]・砂津間が廃止され、[[1995年]](平成7年)全線廃止された<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 478)]]。</ref>。
:** [[門司停留場|門司]] - [[1985年]](昭和60年)[[10月20日]]廃止
* [[西鉄北九州線|田野浦線]] - 東本三丁目・田野浦間を走っていたが、[[1936年]](昭和11年)廃止された。
; 貨物線
:* [[西鉄北九州線|田野浦線]]
* [[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[鹿児島本線]] - [[門司港駅|門司港]]・[[外浜駅|外浜]]間が[[2008年]](平成20年)に廃止された。
:** 東本町三丁目 - 田野浦([[1936年]](昭和11年)[[1月10日]]廃止)
;[[日本貨物鉄道]](JR貨物)
:* [[鹿児島本線]]
:** [[門司港駅]] - [[外浜駅]](貨物線・[[2008年]](平成20年)[[9月5日]]廃止)


=== バス ===
=== バス ===
[[ファイル:Nishitetsu Bus 485.JPG|thumb|right|200px|門司港地区・桟橋通り交差点付近を走る[[西鉄バス北九州]]の車両。]]
* [[西鉄バス]] - 子会社の[[西鉄バス北九州]]が運行している。区内の多くの地域にバス路線網があり、門司駅・門司港駅を拠点に区中心部と区内各地を結ぶほか、区内と[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]周辺部、小倉北区、小倉南区、戸畑区を結ぶ役割も持つ。区内に[[西鉄バス北九州門司自動車営業所|門司]]・[[西鉄バス北九州恒見自動車営業所|恒見]]営業所を置く。
戦前は、金バス([[九州電気軌道]])、銀バス(門司自動車会社)、赤バスの3社が競い合っていたが、戦時統制下で九州電気軌道に統合され、その後身である[[西日本鉄道]]がこの地域のバスを運行するようになった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 25-27)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 487)]]。</ref>。
* [[おでかけ交通]] - 地元住民による運営委員会が運営。西鉄バス路線が廃止された区の東岸部(恒見・喜多久地区)で運行する。
; [[西鉄バス]]
: [[2002年]](平成14年)の分社化後、[[西鉄バス北九州]]が運行している<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 489)]]。</ref>。区内の多くの地域にバス路線網があり、門司駅・門司港駅を拠点に区中心部と区内各地を結ぶほか、区内と[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]周辺部、小倉北区、小倉南区、戸畑区を結ぶ役割も持つ。区内に[[西鉄バス北九州門司自動車営業所|門司]]・[[西鉄バス北九州恒見自動車営業所|恒見]]営業所を置く。
; [[おでかけ交通]]
: 地元住民による運営委員会が運営。西鉄バス路線が廃止された区の東岸部(恒見・喜多久地区)で運行する<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 489-90)]]。</ref>。


=== 道路 ===
=== 高速道路 ===
* [[関門橋]](関門自動車道
; {{Ja Exp Route Sign|E3}} [[九州自動車道]]
: 門司と鹿児島を結ぶ九州縦貫自動車道の建設は[[1966年]](昭和41年)に始まり、[[1984年]](昭和59年)に[[門司インターチェンジ|門司IC]]-[[小倉東インターチェンジ|小倉東IC]]が開通、[[1995年]](平成7年)に全線開通した<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 455)]]。</ref>。企救半島東側を縦貫する。
* [[九州自動車道]]
:* [[門司インターチェンジ|門司IC]] - {{Ja Exp Route Sign|E2A}}[[関門橋]](関門自動車道)に接続する。
* [[北九州高速道路4号線]]
:* [[新門司インターチェンジ|新門司IC]] - [[1993年]](平成5年)に新設。福岡方面の出入口のみの[[ハーフインターチェンジ]]であり、北九州港のフェリー乗り場に近い<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 455)]]。</ref>。
* [[国道2号]]([[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]])

* [[国道3号]]
; {{Ja Exp Route Sign|E2A}} 関門自動車道([[関門橋]])
* [[国道198号]]
: 九州自動車道の門司ICと[[中国自動車道]]とを結ぶ。
* [[国道199号]]
:* [[めかりパーキングエリア]] - 関門自動車道上り線にあり、多くの人が立ち寄る観光地となっている<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 456)]]。</ref>。
:* [[門司港インターチェンジ]] - 下関方面の出入口のみのハーフインターチェンジである。

; [[File:Japanese Urban Expwy Sign 0004.svg|26px]] [[北九州高速4号線]](都市高速)
: 関門国道トンネルの開通を前に大渋滞が予想された国道3号のバイパスとして整備が開始されたのが北九州道路であり、[[1961年]](昭和36年)までに[[日本道路公団]]の[[一般有料道路]]として[[春日出入口 (福岡県)|春日]]・[[富野出入口|富野]]間が開通した<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 467)]]。</ref>。[[1991年]](平成3年)に北九州道路と北九州直方道路が[[福岡北九州高速道路公社]]に譲渡されて北九州高速4号線となり、門司区の春日と[[八幡西区]]の[[八幡インターチェンジ (福岡県)|八幡IC]]を結ぶ<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 468, 473-74)]]。</ref>。企救半島の西側を走る。
:* [[春日出入口 (福岡県)|春日出入口]] - 4号線の起点。門司港地区の最寄り。
:* 上り線のみ、九州自動車道門司ICへの分岐がある。
:* [[大里出入口]]

=== 主な国道 ===
[[ファイル:R3-1-020.jpg|thumb|right|200px|門司港地区の桟橋通り交差点。直進方向が[[国道3号]]の大里・小倉方面。右手は海側であり、[[国道198号]]を経て門司港駅前に至る。]]
; [[ファイル:Japanese National Route Sign 0003.svg|24px]] [[国道3号]]
: 老松公園前交差点を起点とし、JR鹿児島本線の山側を走る。一等国道の第4号国道が[[1890年]]以後大里から門司まで延伸し、[[1920年]]の道路法で第2号国道となり、[[1952年]]の新[[道路法]]で国道3号となった<ref>[[#産業史|北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 15)]]。</ref>。本州から[[ファイル:Japanese National Route Sign 0002.svg|20px]][[国道2号]]が[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]を通り、同交差点で国道3号に接続している。
; [[ファイル:Japanese National Route Sign 0199.svg|24px]] [[国道199号]]
: 門司港湾合同庁舎前(門司港駅付近)を起点とし、JR鹿児島本線の海側を走る。国道3号が混雑する中、臨海部の新しい東西幹線として整備された路線であり、[[1970年]](昭和45年)に門司・小倉間が開通した<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 467-69)]]。</ref>。
: 門司港湾合同庁舎前から桟橋通り交差点までの延長618mは[[ファイル:Japanese National Route Sign 0198.svg|20px]][[国道198号]]となり、国道3号に接続する。
: レトロ事業に際し、国道3号から門司港駅前を通って国道199号に流れる大型トラックなどの車の量を抑制するため、国道3号の清滝2丁目から国道199号の西海岸2丁目までを高架でバイパスする都市計画道路清滝西海岸線が整備された<ref>[[#レトロ物語|北九州都市協会発行制作 (1996: 102-05)]]、[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 510)]]。</ref>。


=== 船舶 ===
=== 船舶 ===
; [[北九州港#新門司フェリーターミナル|新門司フェリーターミナル]]
; [[北九州港#新門司フェリーターミナル|新門司フェリーターミナル]]
* [[阪九フェリー]]
* [[阪九フェリー]](- [[神戸港]] - [[堺泉北港|泉大津港]])
: [[門司駅]]・[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]とフェリーターミナルの間に無料送迎バスを運行している。
** - [[神戸港]] - [[堺泉北港|泉大津港]]
* [[名門大洋フェリー]](- [[大阪港|大阪南港]])
*** [[門司駅]]・[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]とフェリーターミナルの間に無料送迎バスを運行している。
: 門司駅・小倉駅とフェリーターミナルの間に無料送迎バスを運行している。
* [[名門大洋フェリー]]
* [[オーシャン東九フェリー]](- [[徳島小松島港|徳島港]] - [[東京港]])
** - [[大阪港|大阪南港]]
*** 門司駅・小倉駅とフェリーターミナルの間に無料送迎バスを運行している。
* [[オーシャン東九フェリー]]
** - [[徳島小松島港|徳島港]] - [[東京港]]


== 経済 ==
== 経済 ==
=== 区内に本社を置く主な企業 ===
=== ===
平成28年[[経済センサス]]によれば、門司区内の事業所数・従業者数は次のとおりである<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/page/toukei/sougou/nenkan/04/0402.xlsx |format=XLS |title=産業大分類,従業者規模別事業所数及び従業者数(民営) |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |accessdate=2019-09-08}} [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0318.html 北九州市統計年鑑【4.事業所】]より取得。原データは[[総務省]][[統計局]]「平成28年[[経済センサス]]-活動調査」。</ref>。門司区内の産業団地としては、[[新門司]]のマリナクロス新門司(31.7ha)があり、[[トヨタ輸送]]、西日本ダイハツ運輸、[[日鉄物流八幡]](日鐵運輸)、[[山九]]、[[阪九フェリー]]、[[安川ロジステック]]などが事業所を立地しており、素材産業、リサイクル、自動車関連の運輸業が集積している<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 187-88)]]。</ref>。
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="text-align:right"
|+ 産業大分類別事業所数及び従業者数(民営)
! 産業大分類 !! 事業所数 !! 従業者数
|-
! 農業、林業
| 1 || 6
|-
! 漁業
| - || -
|-
! 鉱業、採石業、砂利採取業
| 1 || 10
|-
! 建設業
| 329 || 2,433
|-
! 製造業
| 271 || 5,729
|-
! 電気・ガス・熱供給・水道業
| 3 || 41
|-
! 情報通信業
| 11 || 165
|-
! 運輸業、郵便業
| 381 || 6,794
|-
! 卸売業、小売業
| 1,109 || 7,391
|-
! 金融業、保険業
| 50 || 509
|-
! 不動産業、物品賃貸業
| 308 || 653
|-
! 学術研究、専門・技術サービス業
| 110 || 549
|-
! 宿泊業、飲食サービス業
| 569 || 3,147
|-
! 生活関連サービス業、娯楽業
| 368 || 1,312
|-
! 教育、学習支援業
| 99 || 890
|-
! 医療、福祉
| 360 || 7,210
|-
! 複合サービス事業
| 27 || 358
|-
! サービス業(他に分類されないもの)
| 293 || 2,300
|-
! 合計
| 4,290 || 39,497
|}

; 区内に本社を置く主な企業
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* [[岡野バルブ製造]]
* [[岡野バルブ製造]]
* [[マツモト (福岡県)|マツモト]]
* [[マツモト (福岡県)|マツモト]]
* [[阪九フェリー]]
* [[阪九フェリー]]
* [[関門汽船]]
* [[関門汽船]]
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* [[九州電気システム]]
* [[九州電気システム]]
* [[九鉄工業]]
* [[九鉄工業]]
* [[九鉄ジェイライフ]]
* [[九鉄ジェイライフ]]
* [[サンキュードラッグ]]
* [[サンキュードラッグ]]
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* [[JR九州メンテナンス]]
* [[JR九州メンテナンス]]
* [[ジェネック]]
* [[ジェネック]]
* [[高藤建設]]
* [[高藤建設]]
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=== 区内に事業所を置く主な企業 ===
; 区内に事業所を置く主な企業
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*[[エステー]]九州工場
*[[エステー]]九州工場
*[[ニッカウヰスキー]]門司工場
*[[ニッカウヰスキー]]門司工場
*[[小野田化学工業]]門司工場
*[[小野田化学工業]]門司工場
*[[丹平製薬]]門司工場
*[[丹平製薬]]門司工場
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*[[ENEOSグローブエナジー]]北九州支店
*[[ENEOSグローブエナジー]]北九州支店
*[[大日本明治製糖]]西部支社
*[[大日本明治製糖]]西部支社
*[[古河物流]]九州支社
*[[古河物流]]九州支社
*[[上組]]門司支店
*[[上組]]門司支店
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*[[日本サルヴェージ]]門司支店
*[[日本サルヴェージ]]門司支店
*[[東武トップツアーズ]]関門支店
*[[東武トップツアーズ]]関門支店
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=== 門司区発祥の企業 ===
=== 物流 ===
[[北九州港]]の2017年年報によれば、北九州港のうち門司地区の係留隻数は34,234隻、総トン数は51,413,671トン、貨物輸移出は28,354,625トン(完成自動車、鋼材、再利用資材など)、貨物輸移入は30,122,450トン(完成自動車、自動車部品、とうもろこし、砂利・砂など)であり、新門司、次いで太刀浦のウェイトが大きい。門司地区(小倉を含む)の輸出額は9246億円、輸入額は8837億円に上り、双方とも増加傾向にある<ref>{{Cite web |url=http://www.kitaqport.or.jp/jap/data/download/2017y0.pdf |format=PDF |title=北九州港港湾統計:平成29年―2017年―年報 |publisher=北九州市港湾空港局 |pages=54-55, 60 |accessdate=2019-09-08}} [http://www.kitaqport.or.jp/jap/data/report_ym.html 北九州港:統計・データ集]より取得。</ref>。輸出入先は、近年では[[中国]]、[[韓国]]、[[台湾]]などのアジア州が多い<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 334)]]。</ref>。
*[[山九]] - 登記上の本店は門司区。
*[[出光興産]]


また、新門司は、3社4航路が集まり、[[新門司インターチェンジ|新門司IC]]と接続した利便性もあり、九州最大のフェリー基地となっている。トラック航送および旅客とも全体的に減少傾向ではあるが、2013年の報告によれば、長距離フェリー航路の九州地区における新門司発着航路の割合は、トラック航送で61%、旅客輸送で53%まで高まっている<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 344-45)]]。</ref>。
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
[[File:140721_Former_Moji_Mitsui_Club_Kitakyushu_Japan01bs.jpg|thumb|200px|門司港レトロ地区にある[[旧門司三井倶楽部]]]]


=== 商業 ===
=== 名所・旧跡・観光スポット ===
門司区では、北九州市の他の区と同様、かつては、中心商業地区の商店街(栄町銀天街など)に多くの中小・零細商店が軒を連ね、百貨店(山城屋)がそれに隣接していたが、北九州市全体の素材型産業の地位低下、人口の減少、モータリゼーションの進展、[[大規模小売店舗法]]の改正による規制緩和などに伴い、商店街ではシャッターを閉めた店舗が多く見られるようになり、百貨店も閉店した。北九州市の購買力は[[福岡市]]に吸収されていると指摘されている<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 366-76)]]。</ref>。平成26年商業統計調査によれば、門司区の[[卸売]]業の従業者は1198人、[[日本の年間商品販売額一覧|年間商品販売額]]は1382億円(市全体では1兆4998億円)。[[小売]]業の従業者は4099人、年間商品販売額は666億円(市全体では9130億円)である<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000786791.xls |format=XLS |title=第1表 産業細分類別,経営組織別の事業所数,従業者数,年間商品販売額,その他の収入額,商品手持額及び売場面積(門司区)その1 |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |accessdate=2019-09-09}} [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kikaku/01700143.html 商業統計調査(平成26年調査結果)]より取得。</ref>。
* [[門司港レトロ]]地区
* [[和布刈神社]] - 旧暦1月1日に「和布刈神事」が行われる。
* [[めかり公園]]
* [[門司赤煉瓦プレイス]]
* [[白野江植物公園]]
* [[小森江子供のもり公園]]
* だいり公園(大里公園)
* [[新門司マリーナ]]
* ハイビジョンシアター門司 - [[門司競輪場]]跡地にある、[[小倉競輪場]]の場外車券売り場。


=== 祭事・催事 ===
=== 金融 ===
門司には、明治・大正期には、[[日本銀行]]西部支店(後に門司支店)が置かれたほか、三井銀行や住友銀行など大銀行が進出し、西日本最大の金融市場を形成していた<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 435)]]。</ref>。戦後は、[[1963年]](昭和38年)に日本銀行門司事務所が小倉に移転して北九州支店となったほか、多くの[[都市銀行]]が北九州地域の店舗網を縮小し、それに代わり[[地方銀行]]・[[相互銀行]]のプレゼンスが高まった<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 411-12, 436)]]。</ref>。現在、北九州地域の主要金融機関は、[[西日本シティ銀行]]([[2004年]]に[[西日本銀行]]が[[福岡シティ銀行]]と合併)、[[福岡銀行]]、[[福岡ひびき信用金庫]]([[2003年]]に門司信用金庫などが合併)、[[北九州銀行]]([[山口フィナンシャルグループ]])である<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 427)]]。</ref>。
* 北九州市消防出初式(毎年[[1月]]開催)
* 和布刈神事(毎年旧暦元日開催)和布刈神社。県指定民族文化財。
* 門司みなと祭り(毎年[[5月]])
* 門司海峡フェスタ(毎年[[5月]])
* [[関門海峡花火大会]](毎年[[8月13日]])
* 楠原踊(毎年[[10月]])甲宗八幡神社。市指定無形民俗文化財。
* 大積神楽(毎年[[11月]]開催)大積天疫神社。市指定無形民俗文化財。
* 門司港レトロイルミネーション(平成30年度は11月17日から3月17日)


=== 観光 ===
※門司区のイベントカレンダー(平成30年度)を参考に主なものを記載<ref name="events30">{{Cite web|url=http://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/w1100129.html|title=門司区イベント|publisher=北九州市|accessdate=2019-03-09}}</ref>
門司では、[[1947年]](昭和22年)には観光協会が設立され、観光案内所が門司港駅に設置された。海水浴場(喜多久海岸)、[[風師山]]、[[和布刈公園]]、門司ロープウェー、[[国民宿舎]]めかり山荘、めかり塩水プールなどに近隣からの観光客や修学旅行客を誘致していたが、多くが市民や近隣向けのレジャー施設であった<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 441-42)]]。</ref>。1980年代に入ってようやく門司港で歴史的建造物の価値を見直そうという意識が浸透し始め、[[1985年]]に市民団体「門司まちづくり21世紀の会」が活動を始めた。そうした中で、[[1987年]]に初当選した末吉興一市長が、北九州の活性化には観光振興が必要であると主張したのを機に、[[北九州市ルネッサンス構想]]の一環として門司港レトロ事業が実施された<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: )]]。</ref>。[[2003年]](平成15年)には門司港レトロ地区の訪問客数が255万人にまで達したが、ハード面の開発が一段落してからは伸び悩みが見られる<ref>[[#新修・経済編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017経済編: 472-73)]]。</ref>。北九州市観光動態調査によれば、平成30年に門司港地区を訪問した観光客数は延べ218万4000人(うちレトロ地区189万3000人、和布刈地区29万1000人)であった<ref name="H30観光動態調査">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000849915.pdf |format=PDF |title=北九州市観光動態調査(平成30年次) |publisher=北九州市産業経済局地域・観光産業振興部観光課 |date=2019-08 |accessdate=2019-09-10}} [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/san-kei/file_0065.html 北九州市観光動態調査]より取得。</ref>。なお、平成11年以降、門司区の[[官公庁のマスコットキャラクター一覧|マスコットキャラクター]]として「じーも」がイベント等に参加している<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/file_0006.html |title=「じーも」って? |publisher=門司区役所総務企画課 |accessdate=2019-09-10}}</ref>。


== 政治・行政・司法 ==
== 門司が舞台となった作品 ==
=== 行政機関・裁判管轄 ===
[[北九州フィルム・コミッション]]の誘致活動もあり、近年では多くの映画・ドラマ等が門司区内でロケを行っている。
; 門司区役所
;映画
: 政令指定都市は、[[地方自治法]]252条の20により、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例で、その区域を分けて[[行政区|区]]を設け、区の事務所又はその出張所を置くものとされている。区には区長が置かれ、市職員が充てられる<ref>{{Cite web |url=https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000067 |title=地方自治法 |publisher=e-Gov |accessdate=2019-09-05}}</ref>。北九州市においては、「区の設置並びに区の事務所の位置、名称、所管区域及び事務分掌に関する条例」により、門司区を含む7区が置かれている<ref name="区設置条例">{{Cite web |url=https://www1.g-reiki.net/reiki/Li05_Hon_Main_Frame.exe?UTDIR=C:\EFServ2\ss00022C60\GUEST&TID=1&SYSID=4 |title=区の設置並びに区の事務所の位置、名称、所管区域及び事務分掌に関する条例 |publisher=北九州市例規集 |accessdate=2019-09-05}}</ref>。
:* [[錆びたナイフ]](1958年、架空の都市「宇高市」として登場)
: 五市合併当初、区役所の組織・権限は、旧市の組織・権限をほぼそのまま引き継ぐものであり、区長の権限も強かった。昭和49年の7区制への移行などを機に組織改革が進み、本庁への権限集約が進んだ<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 88, 92-93)]]。</ref>。現在、区の事務所(区役所)が分掌する事務は、(1)区が主体となって行うまちづくりに関する事項、(2)区におけるコミュニティの活動の支援に関する事項、(3)[[住民基本台帳]]及び[[戸籍]]に関する事項、(4)区における[[社会福祉]]、[[社会保障]]及び[[保健衛生]]に関する事項、(5)区における[[道路]]その他[[土木]]に関する事項、(6)区における子ども及び家庭に係る行政サービスに関する事項、(7)その他区における行政サービスに関する事項とされている<ref name="区設置条例" />。門司区役所の職員数は平成30年4月現在207人<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/page/toukei/sougou/nenkan/19/1917.xlsx |title=市職員数(平成30年4月1日) |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |accessdate=2019-09-08}}[https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0333.html 北九州市統計年鑑【19. 行財政】]より取得。</ref>。
:* [[新仁義なき戦い 組長の首]]([[1975年]])
: 区役所出張所として、松ケ枝出張所と大里出張所が置かれている<ref>{{Cite web |url=https://www1.g-reiki.net/reiki/Li05_Hon_Main_Frame.exe?UTDIR=C:\EFServ2\ss00022C60\GUEST&TID=1&SYSID=5 |title=北九州市区役所出張所設置条例 |publisher=北九州市例規集 |accessdate=2019-09-05}}</ref>。
:* [[男はつらいよ 幸福の青い鳥]](1986年)
:* 夢の女(1993年)
:* [[釣りバカ日誌10]](1998年)
:* [[スパイ・ゾルゲ]](2003年)
:* [[この胸いっぱいの愛を]]([[2005年]])
:* [[The焼肉ムービー プルコギ]](2007年)
:* [[相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断]](2017年)
:* [[ママレード・ボーイ#実写映画|ママレード・ボーイ]](2018年)
;ドラマ
:* [[銀河テレビ小説]] ふるさとシリーズ 港駅([[日本放送協会|NHK]]、[[1984年]])
:* [[お家さん#テレビドラマ|お家さん]]([[読売テレビ]]、2014年)
:* [[絶狼-ZERO- -DRAGON BLOOD-|絶狼〈ZERO〉-DRAGON BLOOD-]]([[テレビ東京]]、2017年)
;漫画
:*[[アーサーGARAGE]]([[2006年]] - 連載中)


; [[門司警察署]]
== 通信・メディア ==
: [[福岡県警察]]に属する。
=== 郵便 ===
[[郵便局]]は、関門海峡側に多く所在する。なお2017年2月20日付で区内の集配業務が門司郵便局に集約された。


; 門司消防署
'''[[郵便局]]'''
: [[北九州市消防局]]に属する。本署は大里東にあり、老松、松ヶ枝、門司西の分署がある<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shoubou/file_0036.html |title=消防局、消防署・分署一覧 |publisher=北九州市消防局総務部総務課 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
* [[門司郵便局]](集配局)
** 恒見郵便局(元集配局、松ヶ江支所管内の配達を担当していた)
* [[門司港郵便局]](元集配局、区役所本庁管内の集配を担当していた)
{{col|
* 門司小森江郵便局
* 門司葛葉郵便局
* 門司永黒郵便局
* 門司柳町郵便局
* 大里東口郵便局|
* 門司原町郵便局
* 門司藤松郵便局
* 西門司郵便局
* 門司大里本町郵便局
* 門司白野江郵便局|
* 門司田野浦郵便局
* 柄杓田郵便局
* 門司黒川郵便局
* 門司丸山郵便局
* 旧門司郵便局|
* 門司老松郵便局
* 東門司郵便局
* 門司清見郵便局
* 門司清見三郵便局}}
'''[[簡易郵便局]]'''
{{col|
* 大里城山簡易郵便局|
* 門司畑簡易郵便局|
* 大積簡易郵便局|
 }}


[[ファイル:Moji customs01.jpg|thumb|right|200px|[[第七管区海上保安本部]]、[[門司税関]]などが入る門司港湾合同庁舎。]]
=== 電話 ===
; [[第七管区海上保安本部]]
以下に示す市外・市内局番は[[総務省]]の [http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/number_shitei.html 公開情報] による。近年、通信自由化で従来のパターンが通用しなくなっている。
: 門司区に本部を置き、福岡・佐賀・長崎・大分の各県、山口県西部を管轄する。出先の事務所組織として、門司海上保安部がある<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 742)]]。</ref>。
;[[西日本電信電話]]

:他社を含め全域が北九州MAの管轄域にある。区内には4か所の交換機拠点がある。
; [[門司税関]]
:*門司2号…(093)321、322、33x(x=1-3)
: 九州全県と山口県を管轄する。アジア太平洋地域との玄関口として、[[関税]]の徴収、通関手続、輸出入禁止物品の水際取締り等の業務を行う<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 742)]]。</ref>。
:*門司黒川…(093)341、342

:*門司大里…(093)37x(x=1-3)、38x(x=1-3)、391
; 裁判所
:*門司恒見…(093)48x (x=1-3)
: 門司区は[[福岡地方裁判所]]小倉支部、[[福岡家庭裁判所]]小倉支部、小倉簡易裁判所の管轄区域内である<ref>{{Cite web |url=http://www.courts.go.jp/saiban/kankatu/hukuoka/index.html |title=福岡県内の管轄区域表 |publisher=裁判所 |accessdate=2019-08-30}}</ref>。
以下、エリア分類不明。門司区内にも、以下のパターンに該当する電話番号の一部が存在する。

*[[NTTコミュニケーションズ]]…(093)330
; 検察庁
*[[NTTドコモ]]…(093)395
: 門司区は[[福岡地方検察庁]]小倉支部、小倉区検察庁の管轄区域内である。
*[[九州通信ネットワーク]]…(093)98x (x=0-2)

*[[KDDI]]…(093)55x (x=3-8)、776、777
=== 選挙区 ===
*[[ソフトバンク]]…(093)28x (x=0,4-9)、588、888、889
; 市議会議員選挙
*[[J:COM北九州]]…(093)23x (x=0-6)
: [[公職選挙法]]により、政令指定都市の議会の議員の選挙においては区をもって選挙区とされ、人口に応じて選挙区ごとの定数を定めることとされている<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 107)]]。</ref>。現在、[[北九州市議会]]の定数57人のうち門司区に6人が割り当てられている。平成30年3月現在の会派別議員数は、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]2人、[[公明党]]1人、ハートフル北九州2人、[[日本共産党]]1人<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/page/toukei/sougou/nenkan/19/1915.xlsx |format=XLS |title=会派別市議会議員数 |publisher=北九州市企画調整局政策部企画課統計係 |accessdate=2019-09-08}} [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0333.html 北九州市統計年鑑【19.行財政】より取得。]</ref>。
*[[アルテリア・ネットワークス]]…(093)600
; [[衆議院議員総選挙]]
*[[楽天コミュニケーションズ]]…(093)238
: 小選挙区では、門司区は小倉北区、小倉南区とともに[[福岡県第10区]]を構成し、比例代表では[[比例九州ブロック|九州ブロック]]に属する<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 111)]]。</ref>。
*ZIP Telecom…(093)766
; [[参議院議員通常選挙]]
なお参考までに、西日本電信電話における一般的な割り当てルールは以下の通り。
: 選挙区は[[福岡県選挙区]]に属する。
*2xy…中間市・遠賀郡
; [[福岡県議会]]議員選挙
*5xy…小倉北区
: 門司区は1選挙区を構成し、定数87人のうち2人が割り当てられている。
*7xy…若松区

*8xy…戸畑区
== 生活 ==
携帯電話については、[[NTTドコモ]]、[[au (携帯電話)|au by KDDI]]、[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]とも区内ほとんどの地域で利用可能となっているが、山間部で繋がらない地域がある。
=== 教育機関 ===
==== 高等学校 ====
; 福岡県立
: 県立高校はかつて門司区だけで単一の通学区域(旧第2学区)であったが、若年人口減少により、[[2007年]](平成19年)[[4月1日]]旧第3学区と統合された([[2009年]]4月1日より旧第2・第3学区は第2学区に変更)。また、区内の県立高校の再編成が行なわれ、[[中高一貫教育|中高一貫]]型を採るケースも出た。
* [[福岡県立門司大翔館高等学校|門司大翔館高等学校]]
: [[2004年]](平成16年)、[[福岡県立門司商業高等学校|門司商業高等学校]]と[[福岡県立大里高等学校|大里高等学校]]が統合再編され、全日制[[単位制]]高等学校として開校された<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 506)]]。</ref>。
* [[福岡県立門司学園高等学校|門司学園高等学校]]
: [[2007年]](平成19年)、[[福岡県立門司高等学校|門司高等学校]]と[[福岡県立門司北高等学校|門司北高等学校]]が統合された。現在は、併設型公立中高一貫教育校となっている<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 505)]]。</ref>。

; 私立
* [[敬愛中学校・高等学校|敬愛高等学校]]
* [[豊国学園高等学校]]
* [[啓知高等学校]](旧・九州女子学園高等学校)(閉校)

==== 中学校 ====
; 福岡県立
* [[福岡県立門司学園中学校|門司学園中学校]](門司学園高校併設)<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kyouiku/file_0473.html |title=県立中学校 |publisher=北九州市教育委員会総務部総務課 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
; 北九州市立
: 門司区内の市立中学校は7校である<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kyouiku/file_0465.html |title=市立中学校(門司区) |publisher=北九州市教育委員会総務部総務課 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* 東郷中学校
* 戸ノ上中学校
* 早鞆中学校
* 松ヶ江中学校
{{Col-break}}
* [[北九州市立緑丘中学校|緑丘中学校]]
* [[北九州市立門司中学校|門司中学校]]([[1997年]]、港中学校・吉野中学校が統合。[[2010年]]、風師中学校を統合<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 500, 503)]]。</ref>)
* 柳西中学校
{{Col-end}}
; 私立
* [[敬愛中学校・高等学校|敬愛中学校]]

==== 小学校 ====
; 北九州市立
: 門司区内の市立小学校は17校である<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kyouiku/file_0456.html |title=市立小学校(門司区) |publisher=北九州市教育委員会総務部総務課 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[北九州市立大積小学校|大積小学校]]
* 小森江西小学校
* 小森江東小学校
* 白野江小学校
* 大里東小学校
* 大里南小学校
{{Col-break}}
* [[北九州市立大里柳小学校|大里柳小学校]]
* 田野浦小学校
* 西門司小学校
* 萩ヶ丘小学校
* 柄杓田小学校
* 藤松小学校
{{Col-break}}
* [[北九州市立松ヶ江北小学校|松ヶ江北小学校]]([[2019年]]、[[北九州市立伊川小学校|伊川小学校]]を統合)
* 松ヶ江南小学校
* 港が丘小学校([[1999年]]、清見小学校・古城小学校が統合<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 493)]]。</ref>)
* 門司海青小学校([[1995年]]、錦町小学校・丸山小学校が統合<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 491-92)]]。</ref>)
* 門司中央小学校([[1995年]]、庄司小学校・門司小学校が統合<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 491-92)]]。</ref>)
{{Col-end}}

; 私立
* [[敬愛小学校]]

==== 特別支援教育 ====
* [[北九州市立門司総合特別支援学校]]
: [[2016年]](平成28年)、それまでの[[北九州市立門司特別支援学校|門司特別支援学校]]、[[北九州市立小倉南特別支援学校|小倉南特別支援学校]]の一部、企救特別支援学校の一部を再編する形で開校した<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kyouiku/file_0476.html |title=市立特別支援学校 |publisher=北九州市教育委員会総務部総務課 |accessdate=2019-09-22}}</ref><ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 556)]]。</ref>。知的障害教育部門(小学部、中学部、高等部)、病弱教育部門(小学部、中学部)を有する<ref>{{Cite web |url=http://www.kita9.ed.jp/mojisogo-s/gaiyou.html |title=学校概要 |publisher=北九州市立門司総合特別支援学校 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。

==== 幼稚園 ====
; 北九州市立
* 松ヶ江幼稚園(閉園)
; 私立
: 門司区内に10園ある<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kyouiku/file_0449.html |title=市立幼稚園(門司区) |publisher=北九州市教育委員会総務部総務課 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* 愛光幼稚園
* あけぼの幼稚園
* [[敬愛幼稚園 (福岡県)|敬愛幼稚園]]
* さいわい幼稚園
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* 東郷瞳幼稚園
* 西門司幼稚園
* 日の丸幼稚園
* 門司こばと幼稚園
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* 門司聖母幼稚園
* 門司瞳幼稚園
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=== 図書館 ===
* [[北九州市立図書館#門司図書館|北九州市立門司図書館]]
: 門司市立図書館は、[[1910年]](明治43年)、閲覧室として開設された。戦災により蔵書を失ったが、戦後再出発し、[[1964年]](昭和39年)、老松公園に新築開館した<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 645-46)]]。</ref>。五市合併後、北九州市立門司図書館となっている。
* 大里分館(大里こどもと母のとしょかん)
: [[1973年]](昭和48年)、北九州市初の「こどもと母のとしょかん」として開館し、[[2011年]](平成23年)、大里柳市民センター2階に移転した<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 651, 662)]]。</ref>。
* 新門司分館
: [[2007年]](平成19年)開館。松ヶ枝郷土史会と連携して郷土史の収集に力を入れている<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 651, 662)]]。</ref>。

=== 医療機関 ===
* [[掖済会門司病院]]
* [[北九州市立門司病院]]
* [[JR九州病院]]
* [[新小文字病院]]

=== 郵便局 ===
[[郵便局]]は、関門海峡側に多く所在する。なお2017年2月20日付で区内の集配業務が門司郵便局に集約された。
* [[門司郵便局]] - 集配局
* [[門司港郵便局]] - 元集配局、区役所本庁管内の集配を担当していた


=== 新聞 ===
=== 新聞 ===
明治25年に津田維寧が日刊紙『[[門司新報]]』を創刊し、福岡県内で有力紙となったが、全国紙との競合に敗れ、[[1938年]](昭和13年)に廃刊となった。[[1919年]](大正8年)に[[毎日新聞]]関門支局が門司市に発足し、その後、西部総局、西部支社、[[毎日新聞西部本社|西部本社]]に昇格したが、昭和40年、小倉市に移転した。[[大阪朝日新聞]]門司支局は[[1894年]](明治27年)に開設され、その後、九州支社に昇格したが、[[1937年]](昭和12年)に小倉市に移転した([[朝日新聞西部本社]])。[[1942年]](昭和17年)に新聞統制の結果、福岡県は[[朝日新聞]]、毎日新聞、[[西日本新聞]]の3紙となった<ref>[[#佐々木|佐々木 (2013: 138-40)]]。</ref>。
門司区内には、現在[[西日本新聞社]]が門司支局と関連拠点を置いているのみである。かつては[[毎日新聞西部本社]]と[[スポーツニッポン]]新聞西部本社が所在していたが、現在はいずれも[[小倉北区]]と福岡市に移った。

現在、門司区内には、現在[[西日本新聞社]]が門司支局と関連拠点を置いているのみである。


=== 放送 ===
=== 放送 ===
テレビの電波直接受信については、地理的に[[皿倉山]]の[[八幡テレビ・FM放送所]]から出される電波が届かない地域が多いため、区内に数多くの中継局が設けられている。詳細は[[北九州市内の小規模テレビジョン中継局|こちら]]を参照。
テレビの電波直接受信については、地理的に[[皿倉山]]の[[八幡テレビ・FM放送所]]から出される電波が届かない地域が多いため、区内に数多くの中継局が設けられている。詳細は[[北九州市内の小規模テレビジョン中継局]]を参照。


ラジオについてはFMは八幡送信所からの放送を、AMについては[[響ラジオ放送所|響放送所]]からの電波を、それぞれ受信する。但し、AMについては、周防灘側では送信所からの距離がやや離れていることもあり、高周波の2局が、季節や時間帯によっては他局からの混信障害を受ける。なお、[[NHK北九州放送局]]は、FMの中継局を区内に設けている。
ラジオについてはFMは八幡送信所からの放送を、AMについては[[響ラジオ放送所]]からの電波を、それぞれ受信する。但し、AMについては、周防灘側では送信所からの距離がやや離れていることもあり、高周波の2局が、季節や時間帯によっては他局からの混信障害を受ける。なお、[[NHK北九州放送局]]は、FMの中継局を区内の[[風師山]]に設けている。

;NHK北九州FM放送門司超短波中継放送局
== 文化 ==
:*周波数:82.2MHz
=== 文化施設・青少年施設 ===
:*空中線電力:100W
* 門司市民会館
:*所在地:[[風師山]]南峰
: [[1985年]](昭和60年)、門司文化会館から現名称に改称した。大ホール800人を収容する<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 247, 270)]]。</ref>。
* 門司生涯学習センター
: [[1981年]](昭和56年)、門司文化センターとして開館した。1階に収容人数350人の多目的ホールが設けられ、音楽会、各種集会に利用されている。[[2003年]](平成15年)に現名称に改称<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 247, 270)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/2016_0493.html |title=門司生涯学習センター |publisher=北九州市市民文化スポーツ局生涯学習総合センター |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
* 門司港美術工芸研究所
: [[2002年]](平成14年)、廃校となった旧庄司小学校の校舎を活用して、芸術家・工芸家の創作活動の場所として門司港アート村が開村した。[[2011年]](平成23年)から、研究・教育機能を高めた門司港美術工芸研究所として再出発した<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 241-42)]]。</ref>。[[2016年]](平成28年)、門司港レトロ地区に移転した<ref>{{Cite web |url=https://www.mojiko-biken.com/about/ |title=門司港美術工芸研究所について |publisher=門司港美術工芸研究所 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
* 出光美術館(門司)
: [[2000年]](平成12年)開館。出光佐三が収集した書跡、工芸品、陶磁器、絵画など、国宝2点、重要文化財56件を含む約1万件に及ぶコレクションを有し、年数回の展覧会を実施している<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 243-44)]]。</ref>。
* 林芙美子記念室
: [[1995年]](平成7年)、[[北九州市旧門司三井倶楽部]]2階に林芙美子資料室として開設され、門司生まれとされる作家[[林芙美子]]の資料を展示している<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 233-34)]]。</ref>。[[2015年]](平成27年)、林芙美子記念室としてリニューアルオープンした<ref>{{Cite web |url=https://fumikohayashi.wixsite.com/hozonkai/access |title=林芙美子記念室 |publisher=林芙美子記念室 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。
* もじ少年自然の家
: [[1981年]](昭和56年)開所<ref>[[#新修・文化教育編|新修・北九州市史編纂会議編 (2018: 683)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/ko-katei/11901009.html |title=北九州市立 もじ少年自然の家 |publisher=子ども家庭局子育て支援部青少年課 |date=2019-03-19 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。

=== 祭事・催事 ===
門司区で行われる主なイベントには、次のようなものがある<ref name="events30">{{Cite web |url=http://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/w1100129.html |title=門司区のイベントカレンダー[2019年度] |publisher=北九州市 |accessdate=2019-08-24}}</ref>。
* 北九州市消防出初式(毎年[[1月]]) - 西海岸。
* 和布刈神事(毎年旧暦元日開催) - [[和布刈神社]]。県指定民俗文化財。
* 門司海峡フェスタ(毎年[[5月]])
: [[ゴールデンウィーク]]中に門司港地区で行われるイベントで、甲冑武者行列、バナナの叩き売り、打ち上げ花火などが行われる。下関市ではしものせき海峡まつりが行われる<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/vw1100050.html |title=門司海峡フェスタ |publisher=門司区役所総務企画課 |accessdate=2019-09-10}}</ref>。2018年(平成30年)の入場者数は18万人<ref name="H30観光動態調査" />。
* 門司みなと祭り(毎年[[5月]])
: 門司港が国際港として知られるようになった[[1934年]](昭和9年)、[[出光佐三]]と門司商工会議所が中心となり、第1回みなと祭りを開催した。[[日中戦争]]開戦後中止されていたが、[[1947年]](昭和22年)、中野真吾門司市長が呼びかけて復活させた<ref name="門司の歴史・昭和2" /><ref>[[#堀|堀 (2017: 228-31)]]。</ref>。門司港地区を中心に、約2000人が参加する祝賀パレード、総踊り、自衛隊・海上保安庁による艦船公開などが行われる<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 570)]]。</ref>。2018年(平成30年)の見物客数は35万人<ref name="H30観光動態調査" />。
* [[関門海峡花火大会]](毎年[[8月13日]])
: [[1987年]](昭和62年)7月、北九州市政25周年を記念してポート門司花火大会が開かれ、[[1988年]](昭和63年)8月、港鉄道100周年祭として北九州市・下関市共催で花火大会が行われたのを機に、毎年開かれるようになった<ref name="門司の歴史・平成">{{Cite web |url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063492.pdf |title=門司の歴史:平成時代 |publisher=門司区役所まちづくり推進課 |format=PDF |accessdate=2019-08-01}}</ref>。2018年(平成30年)の見物客数は50万人<ref name="H30観光動態調査" />。
* 楠原踊(毎年[[10月]]) - 甲宗八幡神社。市指定無形民俗文化財。
* 大積神楽(毎年[[11月]]) - 大積天疫神社。市指定無形民俗文化財。
* 門司港レトロイルミネーション(11月-2月)
* 門司港レトロカウントダウン(12月31日)

=== 門司が舞台となった作品 ===
北九州市が[[2000年]](平成12年)に組織した[[北九州フィルム・コミッション]]<ref>[[#新修・市政編|新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 191)]]。</ref>の誘致活動もあり、近年では多くの映画・ドラマ等が門司区内でロケを行っている。
;映画
* [[錆びたナイフ]](1958年、架空の都市「宇高市」として登場)
* [[新仁義なき戦い 組長の首]]([[1975年]])
* [[男はつらいよ 幸福の青い鳥]](1986年)
* 夢の女(1993年)
* [[釣りバカ日誌10]](1998年)
* [[スパイ・ゾルゲ]](2003年)
* [[この胸いっぱいの愛を]]([[2005年]])
* [[The焼肉ムービー プルコギ]](2007年)
* [[相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断]](2017年)
* [[ママレード・ボーイ#実写映画|ママレード・ボーイ]](2018年)
;ドラマ
* [[銀河テレビ小説]] ふるさとシリーズ 港駅([[日本放送協会|NHK]]、[[1984年]])
* [[お家さん#テレビドラマ|お家さん]]([[読売テレビ]]、2014年)
* [[絶狼-ZERO- -DRAGON BLOOD-|絶狼〈ZERO〉-DRAGON BLOOD-]]([[テレビ東京]]、2017年)
;漫画
*[[アーサーGARAGE]]([[2006年]] - 連載中)


== 主な著名人 ==
== 主な著名人 ==
:50音順。※は北九州市から特命大使を委嘱された人物。★は故人。
50音順。※は北九州市から特命大使を委嘱された人物。★は故人。
* [[青山真治]](映画監督・小説家)※文化
* [[青山真治]](映画監督・小説家)※文化
* [[秋山竜次]](お笑い芸人[[ロバート (お笑いトリオ)|ロバート]] ※観光)
* [[秋山竜次]](お笑い芸人[[ロバート (お笑いトリオ)|ロバート]] ※観光)
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注釈"}}

=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=岡本哲志+日本の港町研究会 |title=港町の近代――門司・小樽・横浜・函館を読む |publisher=学芸出版社 |year=2008 |isbn=978-4-7615-2430-2 |ref=岡本}}
* {{Cite book |和書 |author=小野剛史 |title=小倉藩の逆襲――豊前国歴史奇譚 |publisher=花乱社 |year=2019 |isbn=978-4-910038-01-8 |ref=小野}}
* {{Cite book |和書 |author=川添昭二・武末純一・岡藤良敬・西谷正浩・梶原良則・折田悦郎 |title=福岡県の歴史 |publisher=[[山川出版社]] |year=1997 |isbn=4-634-32400-8 |ref=川添}}
* {{Cite book |和書 |author=北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会編 |others=北九州市発行 |title=北九州市産業史 |year=1998 |ref=産業史}}
* {{Cite book |和書 |author=北九州市史跡同好会 |title=北九州の史跡探訪――知的なレジャーのために |year=1986 |ref=史跡同好会}}
* {{Cite book |和書 |author=北九州市の文化財を守る会編 |title=北九州歴史散歩[豊前編] |publisher=[[海鳥社]] |year=2019 |isbn=978-4-86656-050-2 |ref=守る会}}
* {{Cite book |和書 |author=財団法人北九州都市協会発行制作 |others=北九州市企画 |title=海峡の街・門司港レトロ物語 |publisher=財団法人北九州都市協会 |year=1996 |ref=レトロ物語}}
* {{Cite book |和書 |author=佐々木いさお |title=歴女・鉄男と訪ねる門司と海峡 |publisher=海鳥社 |year=2013 |isbn=978-4-87415-879-1 |ref=佐々木}}
* {{Cite book |和書 |author=新修・北九州市史編纂会議編 |title=新修・北九州市史 市政編 |publisher=北九州市発行 |year=2017 |ref=新修・市政編}}
* {{Cite book |和書 |author=新修・北九州市史編纂会議編 |title=新修・北九州市史 経済編 |publisher=北九州市発行 |year=2017 |ref=新修・経済編}}
* {{Cite book |和書 |author=新修・北九州市史編纂会議編 |title=新修・北九州市史 文化編・教育編 |publisher=北九州市発行 |year=2018 |ref=新修・文化教育編}}
* {{Cite book |和書 |author=田郷利雄 |title=門司の歴史ものがたり(上・下) |publisher=あらき書店 |year=1987 |ref=田郷}}
* {{Cite book |和書 |author=田郷利雄 |title=それからの門司の歴史ものがたり |publisher=あらき書店 |year=1988 |ref=田郷・それから}}
* {{Cite book |和書 |author=中村修身 |title=北九州・京築・田川の城――戦国史を歩く |publisher=花乱社 |year=2016 |isbn=978-4-905327-59-2 |ref=中村}}
* {{Cite book |和書 |author=[[日本地質学会]] |title=日本地方地質誌8:九州・沖縄地方 |year=2010 |publisher=[[朝倉書店]] |isbn=978-4-254-16788-7 |ref=日本地質学会}}
* {{Cite book |和書 |author=野澤秀樹、堂前亮平、手塚章編 |title=日本の地誌10:九州・沖縄 |year=2012 |publisher=[[朝倉書店]] |isbn=978-4-254-16770-2 |ref=野澤}}
* {{Cite book |和書 |author=羽原清雅 |title=「門司港」発展と栄光の軌跡――夢を追った人・街・港〔第2版〕 |publisher=書肆侃侃房 |year=2016 |isbn=978-4-86385-043-9 |ref=羽原}}
* {{Cite book |和書 |author=[[林えいだい]] |title=《写真記録》関門港の女沖仲仕たち――近代北九州の一風景 |publisher=新評論 |year=2018 |isbn=978-4-7948-1086-1 |ref=林}}
* {{Cite book |和書 |author=堀雅明 |title=関門の近代――二つの港から見た一〇〇年 |publisher=[[弦書房]] |year=2017 |isbn=978-4-86329-147-8 |ref=堀}}
* {{Cite book |和書 |author=毎日新聞西部本社報道部 |title=北九州市 50年の物語 |publisher=石風社 |year=2013 |isbn=978-4-88344-228-7 |ref=毎日・50年}}
* {{Cite book |和書 |author=毎日新聞西部本社報道部 |title=北九州市 戦後70年の物語 |publisher=石風社 |year=2015 |isbn=978-4-88344-248-5 |ref=毎日・70年}}
* {{Cite book |和書 |author=[[町田洋 (火山学者)|町田洋]]・[[太田陽子 (地理学者)|太田陽子]]・河名俊男・森脇広・長岡信治 |title=日本の地形7 九州・南西諸島 |publisher=[[東京大学出版会]] |year=2001 |isbn=4-13-064717-2 |ref=町田ほか}}
* {{Cite book |和書 |author=森下友晴 |title=福岡の歴史的街並み――門司港レトロから柳川、博多まで |publisher=石風社 |year=2008 |isbn=978-4-88344-168-6 |ref=森下}}
* {{Cite book |和書 |author=門司宣里 |title=中世北九州落日の譜――門司氏史話 |publisher=冷牟田印刷 |year=1975 |ref=門司}}
* {{Cite book |和書 |author=八木田謙 |title=史料に見る 中世の門司 |publisher=今井書店 |edition=改訂版 |year=2010 |ref=八木田}}
* {{Cite book |和書 |author=米津三郎監修 |title=北九州の100万年 |publisher=海鳥社 |year=1992 |isbn=4-87415-033-0 |ref=米津}}
* {{Cite book |和書 |author=吉永正春 |title=九州戦国合戦記 |publisher=海鳥社 |year=1994 |isbn=4-87415-094-2 |ref=吉永}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Moji-ku, Kitakyushu}}
{{Commonscat|Moji-ku, Kitakyushu}}
* [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/ 北九州市門司区 公式サイト]
* [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/ 北九州市門司区 公式サイト]
* [https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/file_0016.html 門司の歴史](北九州市門司区役所まちづくり推進課)
* 古地図
** [http://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2378.html 門司市街旅客案内圖] - 1899年(明治32年)、大河内亀松作成、国際日本文化研究センター蔵
** [http://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2379.html 門司新市街圖] - 1924年(大正13年)、中野佐一郎・大淵善吉作成、国際日本文化研究センター蔵
** [http://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2304.html 門司新市街圖] - 1928年(昭和3年)、大淵善吉作成、国際日本文化研究センター蔵
** [http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H24/hyojun/0490728a.html 門司新市街図] - 1932年(昭和7年)、駸々堂旅行案内部発行、福岡県立図書館郷土資料課蔵


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[[Category:北九州市の区]]
[[Category:北九州市の区]]

2019年9月29日 (日) 12:03時点における版

もじく ウィキデータを編集
門司区
門司港レトロ
日本の旗 日本
地方 九州地方
都道府県 福岡県
北九州市
市町村コード 40101-3
面積 73.66km2
総人口 88,627[編集]
推計人口、2024年8月1日)
人口密度 1,203人/km2
隣接自治体
隣接行政区
北九州市小倉北区小倉南区
山口県下関市(海を隔てて隣接)
門司区役所
所在地 801-8510
福岡県北九州市門司区清滝一丁目1番1号
北緯33度56分28.5秒 東経130度57分34.3秒 / 北緯33.941250度 東経130.959528度 / 33.941250; 130.959528座標: 北緯33度56分28.5秒 東経130度57分34.3秒 / 北緯33.941250度 東経130.959528度 / 33.941250; 130.959528
門司区役所
外部リンク 北九州市門司区

門司区位置図

ウィキプロジェクト

門司区(もじく)は、政令指定都市である福岡県北九州市を構成する7区の行政区の一つ。1963年(昭和38年)2月10日に北九州市が発足するまで存在した旧門司市の市域に相当する。

概要

九州の北端、企救半島にあり、同半島の大半を占める。西側は関門海峡を挟んで下関市と向かい合い、東側は周防灘に面し、南側は小倉北区小倉南区に接する(→位置)。

本州から九州への玄関口であり、また、日本海瀬戸内海を結ぶ海路を押さえる場所でもあり、古くから交通の要地であった。豊国(後に豊前国)企救郡に属し、大化の改新の頃に関所(門司関)が設けられたと推測される。「門司」の名の初出は、天平年間の木簡であり、「門を司る」すなわち関所の意味と考えられる(→飛鳥・奈良・平安時代)。

平安末期には、九州北部との結び付きの強かった平氏が門司を支配したと考えられ、屋島の戦いに敗れた平氏は、門司関に拠り、この地に安徳天皇の「柳の御所」を構えたが、関門海峡の壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡した。その後は平家没官領として鎌倉幕府に与えられた。13世紀半ば、下総親房が得宗によって地頭職に任命されて門司関に下向し、その後土着化して門司氏を称するようになった。鎌倉時代後期に豊前国守護として企救郡を支配したのは北条氏の一族金沢氏であった(→源平合戦・鎌倉時代)。

南北朝時代、九州北部では、北朝九州探題方に対し南朝宮方(懐良親王派)が次第に優勢となったが、門司氏一族は探題方と宮方に分裂し、門司城や猿喰城をめぐって攻防戦が続いた(→南北朝時代)。戦国時代には、中国地方の大守護大内氏が門司氏を国人として家臣団に組み込みながら、北九州に勢力を及ぼした。門司は、日明貿易の拠点としても重要な役割を果たした(→大内氏)。陶晴賢の謀反によって大内氏が滅ぶと、戦略上の要地であった門司城は毛利元就大友義鎮(宗麟)との間で度重なる奪取合戦の的となった(→門司城の戦い)。豊臣秀吉九州国分で、門司を含む企救郡は毛利勝信に与えられた(→安土桃山時代)。

関ヶ原の戦い後、豊前国は細川忠興に与えられ、門司は小倉藩の統治下に置かれた。一国一城令によって門司城は破壊された(→細川氏)。1632年に移封した細川氏のあとに小笠原忠真が入国し、小倉藩を引き継いだ。大里地区は関門海峡を渡る際の宿駅・港町として各藩の本陣が設けられたが、北前船航路の寄港地として繁栄した下関に比べると、田野浦港が風待ち、汐待ちの補助的な港として利用されたにとどまった。今の門司港地区は、塩田が広がるひなびた土地であった(→小笠原氏)。開国後、小倉藩は佐幕派に立ち、第二次長州征討に際しては、幕府から尊攘倒幕派の長州藩への討ち入りを命じられたが、逆に長州軍が田野浦や大里に上陸して侵攻してきて小倉藩は撤退を余儀なくされ、門司を含む企救郡は、明治3年まで長州藩の占領支配下に置かれた(→幕末・明治維新)。

寒村であった門司の転機が、1889年(明治22年)以降の築港と鉄道敷設であり、門司港は筑豊石炭の輸出港として急速に発展を始めた。商社や金融機関が次々門司港に支店を構え、大里地区には鈴木商店系の製糖・製粉などの工場が建設された。1899年(明治32年)にはいち早く市制施行し門司市が成立した(→明治時代)。大正時代にかけて、門司港は石炭輸出からセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品輸出・原料輸入にシフトしていき、日本有数の貿易港として栄えた。「バナナの叩き売り」も名物となった。門司港地区には銀行や商社が集まり、「一丁倫敦」と呼ばれた。一方、港湾労働者の生活水準は低く、米騒動も大規模化した(→大正時代)。昭和期に入ると大連航路などの国際航路も開けた。貨物量の激増を受けて関門鉄道トンネルが開通したのは1942年(昭和17年)である。太平洋戦争末期には、門司は度々空襲を受けたほか、関門海峡への機雷投下を受け、海峡が封鎖される事態となった(→戦前から太平洋戦争)。

戦後は、機雷による港湾閉鎖が長期化したこと、主要な貿易先であった中国との国交が断たれたことなどから、門司港の地位は低下していった。1963年(昭和38年)、門司市は小倉市若松市八幡市戸畑市と五市対等合併し、北九州市の門司区となった。1958年(昭和33年)の関門トンネル開通に続き、1973年(昭和48年)の関門橋開通、1975年(昭和50年)の新幹線開通により、門司の通過点化が進み、企業は小倉や福岡市に流出し、経済はますます沈滞した。末吉興一市長が打ち出した「門司港レトロ」構想によって、門司港地区に残る歴史的建造物の保存・活用が行われ、1995年(平成7年)にグランドオープンした。その後も観光開発が進み、賑わいが生まれた。一方、観光以外の地域の活性化には課題もある(→戦後)。

旧門司市の人口は明治時代から急速に増加し、1959年に16万人余りのピークに達したが、その後門司区時代を通じて減少を続け、2015年以降、10万人を割り込んでいる。人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36.5%と、北九州市の中でも高い(→人口)。

門司区内の地域を見ると、門司港駅を中心とする門司港地区は、門司港レトロの歴史的建造物や観光施設、宿泊施設、商業施設が立ち並び、年間200万人が訪れる。その北側に位置する和布刈地区は、レトロ事業と同時期に海峡めぐり推進事業により和布刈公園周辺が整備されている。門司駅を中心とする大里地区では、サッポロビール九州工場が閉鎖されるなど経済的な衰えもあるが、その跡地の煉瓦造りの工場を門司赤煉瓦プレイスとして開業するなど、観光客の誘致に取り組んでいる。近年ではマンションが増えつつある。周防灘に面した新門司地区には、港湾設備、臨海工業用地が整備されている。太刀浦には、西日本有数のコンテナターミナルがある(→地域)。

位置

門司区の航空写真
門司区の航空写真
門司区
三角山 194m
風師山 362.2m
矢筈山 266m
戸ノ上山 517.8m
足立山(小倉北区)597.8m

北九州市門司区は、九州の北端、企救半島にあり、同半島の大半を占める。

西側は、関門海峡を挟んで、本州の西端である山口県下関市と向かい合っている。現在、下関市とは、海底トンネルである関門トンネル(国道山陽本線等)や関門橋によって結ばれている。

東側は、瀬戸内海の南西部に当たる周防灘に面している。

南側は、企救半島西側では北九州市小倉北区に接し、企救半島東側では小倉南区に接する。門司区と小倉北・南両区は、古代から豊前国企救郡として共通する歴史を歩んできた。

門司区の面積は73.67平方キロメートルである[1]。北九州市の面積の約15%を占める[2]

自然

地形・地質

地質時代 - 顕生代[* 1][* 2]
累代 基底年代
Mya[* 3]
顕生代 新生代 第四紀 2.58
新第三紀 23.03
古第三紀 66
中生代 白亜紀 145
ジュラ紀 201.3
三畳紀 251.902
古生代 ペルム紀 298.9
石炭紀 358.9
デボン紀 419.2
シルル紀 443.8
オルドビス紀 485.4
カンブリア紀 541
原生代 2500
太古代[* 4] 4000
冥王代 4600
  1. ^ 基底年代の数値では、この表と本文中の記述では、異なる出典によるため違う場合もある。
  2. ^ 基底年代の更新履歴
  3. ^ 百万年前
  4. ^ 「始生代」の新名称、日本地質学会が2018年7月に改訂

企救半島は、山がちであり、筑紫山地(横谷により東から福智山地三郡山地脊振山地に分かれる)のうち福智山地の北東延長に当たる[3]。区内最高地は戸ノ上山(標高518メートル)である[4]

企救半島には、古生代ペルム紀付加体である秋吉帯の南西延長に当たる地層群が分布している[5]。付加体は、ユーラシア大陸の縁辺部にプレートが沈み込むに際して、沈み込み帯の深い海底で付加された基盤岩類であり、当時は九州は陸地ではなかった[6]。中国地方各地の秋吉帯と同様、北部九州の秋吉帯は、大規模な石灰岩体を含むのが特徴であり、そのほか玄武岩質岩、チャート砂岩泥岩などを含む。小倉南区以南の平尾台などでは白亜紀花崗岩類の貫入によって熱変性を受けているが、企救半島では花崗岩の大規模な貫入岩体が見られず、熱変性が弱く、ところによって化石を産出することがある[7]。白野江では、古生代から中生代にかけて海底にいたウミユリの化石を含んだ梅花石が出土し、その岩層は福岡県の天然記念物に指定されている[8]

九州北部(内帯)は、中生代白亜紀に隆起して陸化し、以後、新生代を通じて、概して陸上での侵食と火山活動が進行した[9]。企救半島北西部では、秋吉帯は、下部白亜系関門層群で覆われている[10]。関門層群は、九州北部から中国地方西部に分布する非海成下部白亜系であり、下部の脇野亜層群と上部の下関亜層群から成る。脇野亜層群は、礫岩、砂岩、泥岩などの非火山性砕屑岩から成る湖成堆積物が卓越し、一方、下関亜層群は、安山岩デイサイト火山砕屑岩を主とする。企救半島北西部は主に脇野亜層群で覆われている[11]小倉北区の脇野亜層群からニシン科魚類化石、淡水生の貝化石、石灰藻類の化石が発見されたことから、この時代(約1億2000万年前の白亜紀初期から中期)、筑豊・北九州地方は湖だったことが分かった[12]

筑紫山地が福智山地、三郡山地、背振山地に分割されたのは、古第三紀(6600万年前-2300万年前)に発生した正断層を伴う堆積盆地の形成によると考えられる[13]新第三紀中新世(2300万年前-)以降、日本海が生じ、現在の日本列島の形に近づいていった。北部九州の地形の骨格は、この第三紀に形成された[14]第四紀更新世(258万年前-)に入り、筑紫山地はゆっくり侵食削剥が続いた。最終間氷期(12.5万年前)には現在とほぼ同じ海岸線となったが、氷期には玄界灘や瀬戸内海が陸化した[15]関門海峡は、最終氷期(7万年前-1万年前)に、陸化した土地に河川が発達したのが原形であると考えられる[16]。関門海峡の海底には、花崗岩類が露出していることから、古生層より侵食に弱い花崗岩類が差別的に侵食されたものと考えられる[17]。1.5万年前以降、急激な海面上昇が生じ、完新世の7000年前に関門海峡が通じた[18]

気候

下関
雨温図説明
123456789101112
 
 
76
 
9
5
 
 
81
 
10
5
 
 
128
 
13
7
 
 
136
 
18
11
 
 
166
 
22
16
 
 
275
 
26
20
 
 
287
 
29
24
 
 
153
 
31
25
 
 
174
 
28
22
 
 
70
 
23
17
 
 
79
 
17
12
 
 
60
 
12
7
気温(°C
総降水量(mm)
出典:下関 平年値(年・月ごとの値) 主な要素”. 気象庁. 2019年8月13日閲覧。(1981年-2010年の平年値)
インペリアル換算
123456789101112
 
 
3
 
49
40
 
 
3.2
 
50
40
 
 
5.1
 
56
45
 
 
5.3
 
64
53
 
 
6.5
 
72
60
 
 
11
 
78
68
 
 
11
 
85
75
 
 
6
 
88
78
 
 
6.8
 
82
72
 
 
2.8
 
73
62
 
 
3.1
 
63
53
 
 
2.4
 
54
44
気温(°F
総降水量(in)

門司近傍で気象庁観測所がある下関の平年気温・降水量は雨温図のとおりである。

門司の気候は、瀬戸内海式気候日本海側気候の中間的な性質を持つ。九州北部地方の特徴として、冬型の西高東低気圧配置になると曇天になることが多く、雪が降ることもあるが、冬の降水量は少ない[19][20]。一方、梅雨期は、前線が停滞しやすくなり、降水量が多い[21][22]。関門海峡は、春先にはしばしば濃い霧が発生する[23]

歴史

縄文・弥生時代

企救半島東側の猿喰や平山では、縄文時代のものと見られる土坑墓が発見され、櫛毛川や中畑では、土器、が発見されている。これらは、九州自動車道建設の際の調査で発見された。櫛毛川遺跡で発見された土器は、小さな破片ばかりである。中畑遺跡では、竪穴式住居跡が確認された[24][25]

弥生時代の遺跡としては、大里地区の大里桃山遺跡、企救半島東側の大積浜方遺跡で、土器等が出土している[26]。弥生時代、稲作の先進地域だった北部九州の中でも、遠賀川以東の北豊前は、遠賀川以西(福岡平野筑後平野唐津平野)とは文化が異なり、重弧紋、綾杉紋、羽状紋、山形紋などを施した多彩な壺は北豊前独特の文化であるとされる[27]

古墳時代

古墳時代の遺跡としては、企救半島東側の猿喰に船泊古墳、大里地区に小金塚古墳、小森江地区の門司港寄りに丸山古墳と呼ばれる古墳があったとされるが、現存しない[28]。企救半島は、当時、豊国企救郡に属していたが、豊国の中では京都郡(現代の行橋市勝山町苅田町)にひときわ大きい前方後円墳が多数作られており、京都郡の首長が大和政権との結び付きを築いていたと考えられる[29]。企救郡の中では、小倉南区曽根、貫に前方後円墳が集中している[30]

大和時代には、新羅百済高句麗の船が関門海峡に発着したと考えられる。門司には、関門海峡沿いに白木崎しらきざき新羅しんら町、葛葉くずは百済くだら町、小森江高麗町こままち、周防灘沿いに白野江しらのえという地名が残っており(一部は町名改正により消滅)、3国と縁のある地名であるとされる[31]

527年筑紫国の豪族磐井による磐井の乱が起き、磐井は火国・豊国まで勢力を張ったが、ヤマト王権によって鎮圧された[32]。その戦後処理として、ヤマト王権は征服地に屯倉を設置したが、その一つである腠碕屯倉みさきのみやけは、山陽道が関門海峡を渡る地点である門司の田野浦に当たると見られる。有力な豪族の支配地域ではなく、軍事・交通上の理由から屯倉が置かれたと考えられる[33][34]

飛鳥・奈良・平安時代

646年大化2年)、改新の詔が出され、その中に「関塞」を置くとの文言がある。この時、門司に関所(杜碕もりさき関、後に門司関)が設けられたと推測されている[35][36]和布刈神社の近くに、門司関址の碑が建てられている[37]

701年大宝元年)に制定された大宝令により、大宰府の官制が確立し、大宰府が西海道(九州の筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向薩摩大隅の9国と3島)を管轄することとなった[38]。この頃(7世紀末)、豊国は豊前国と豊後国に分割されており[39]、門司は小倉とともに豊前国企救郡に属する。西海道の調庸は、その他の地域と異なり、京ではなく大宰府に納められ、大宰府から京進分が京に送られる仕組みであった[40]

和布刈神社拝殿。

大宰府を中心に道路網が整備され、大宰府から京に向かう大宰府道は、門司の杜埼の駅家に至って関門海峡を渡り、山陽道に通じていた[41]延喜式には、「豊前国 社碕 到津各十五匹」との記載がある[36]。杜埼(社碕)の場所については、田野浦ないし和布刈とする見方[42]、小森江あるいは小倉北区合馬との見方[43]がある。710年和銅3年)には、和布刈神社の和布刈神事でとれたわかめを朝廷に献上したとの記録がある[44]

万葉集』には、門司を詠んだ可能性のある歌がいくつか収載されている。

大君の遠の朝廷みかどと蟻通う嶋門しまとを見れば神代し思ほゆ — 柿本人麻呂、『万葉集』巻3(304)

これは、柿本人麻呂が京から大宰府へ向かう途中に赤間関から門司関へ渡る際に詠んだ歌であるとの見方がある[36]

早鞆の瀬戸いわおも鮎走る芳野(吉野)の滝になおしかずけり — 大伴旅人、『万葉集』巻6(960)

これは、720年養老4年)に隼人の反乱鎮圧のため征隼人持節大将軍に任じられた大伴旅人が同様に門司関に渡った際に吉野を懐かしんで詠んだと言われる(異説もある)[45]

740年天平12年)には、大宰少弐(大宰府長官)である藤原広嗣が反乱を起こし、筑前・豊前・隼人の兵を率いたが、鎮圧された[46]

山口県美東町長登銅山跡で出土した天平年間の木簡に「豊前門司」とあるのが、門司の名の初出である。文献上の初出としては、796年延暦15年)の『類聚三代格』に「豊前文字(門司)」という地名が見える[47]。「門を司る」すなわち関所の意味と考えられる[48]。それと同時に、旧名杜崎もりさきの「もり」が「もじ」になまったという考え方もある[49]

源平合戦・鎌倉時代

大里地区にある御所神社。安徳天皇の行在所(柳の御所)とされた[50]

保元の乱平治の乱後の1167年に大宰大弐に任じられた平頼盛は、大宰府に現地赴任し、九州北部の有力武士との結び付きを強めた。平氏は対外交易を重視しており、その一環として、大宰府直轄下にあった門司関も支配下に収めたと考えられる[51]。しかし、平氏は、1185年寿永4年)に屋島の戦いに敗れて追い詰められ、門司関に拠り、西下する源氏と対決することとした[52]。平氏は、大里安徳天皇の「柳の御所」を構えた[53]。なお、「大里だいり」の地名は、内裏から来ている[54]。この時、平知盛が家臣紀伊通資に命じ、古城山に山城を築かせたのが、門司城の始めであるとされる[55]源義経が平氏の彦島の陣地を攻め、源範頼が九州に上陸して門司の城を破ると、追い詰められた平氏は、壇ノ浦の戦いで敗れた[56]。門司区内には、平氏の死者をとむらった数か所の平家供養塚や殿墓が残っている[57]

平氏が九州に持っていた所領は平家没官領として召し上げられ、その多くが鎌倉幕府に与えられた。門司関もその一つである[58]

旧門司にある甲宗八幡神社860年貞観2年)、清和天皇の命による創建と伝えられ、神功皇后着用の甲(かぶと)を神体とする[59]

1244年寛元2年)、北条時頼の時代、門司氏の祖となる下総(藤原)親房ちかふさが門司関に下向してきたと伝えられている。『門司氏系図』によれば、70余艘の兵船を率いてきたとされ、この水軍力によって関門海峡を守ったと考えられる[60][61]得宗によって地頭職に任命された得宗被官である[62]。もっとも、親房は、菊池氏の妨害により、赤間関から門司に上陸することができず、任命されてから11年後の1255年建長7年)にようやく上陸することができたとされる[61]。当時、門司関は、楠原くすばる(門司港地区)、柳(大里地区)、大積、伊川、吉志きし、片野(小倉北区三萩野付近)の門司関6か郷に分かれていた[63]。下総氏は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて土着化して門司もんじを称するようになり、それぞれの所領ごとに片野系門司氏、吉志系門司氏などと呼ばれる[64]甲宗八幡神社は、もと門司関八幡宮といい、門司関6か郷の産土神として、門司氏の崇敬を受けた[65]。下総氏は、当初、本城である門司城のほかに、三角山城(楠原郷)、足立城(片野郷)、若王子城(柳郷)、寒竹城(吉志郷)、金山城(大積郷)の5支城を構えた[66]

鎌倉後期の弘安年間(1278年-1287年)、北条氏の一族北条実政(金沢実政)が豊前国守護であった時期に、企救郡が金沢氏の所領となったと考えられる[67]。これは元寇という外圧を背景に北条氏が鎮西探題を設置するとともに九州の守護職を奪っていった一環であり、九州で北条氏以外の有力守護に残されたのは少弐氏筑前国大友氏豊後国島津氏薩摩国だけとなった[68]

南北朝時代

1333年元弘3年)、足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府六波羅探題を滅ぼすと、鎮西探題の支配を受けていた少弐氏・大友氏・島津氏が寝返って鎮西探題を滅ぼした[69]後醍醐天皇による建武の新政が行われたが、金沢氏を継いで企救郡を領有していた北条高政(規矩高政)が建武政権に対する反乱を起こした。門司城では、柚板広貞、門司種俊(下総氏系の門司氏とは別系統と思われる。)が高政に与して立てこもった[70]

一方、下総氏系の門司氏としては、門司親胤ちかたね(吉志系)、門司親章(大積系)が足利尊氏に従っている[71]。尊氏が門司6か郷の地頭となり、門司氏はその地頭代となったと見られる[72]。尊氏は1336年建武3年)に建武政権に反旗を翻して敗走し、大宰府に入ったが、この時、門司親胤も尊氏に従い、その軍功に対し尊氏からの感状を受け取っている[73][注釈 1]

観応の擾乱で尊氏と足利直義が対立する中、直義の養子足利直冬が九州に入ると、九州は、北朝九州探題方(尊氏派・一色氏)、佐殿方(直冬派・少弐氏)、南朝宮方(懐良親王方・菊池氏)の三つ巴の複雑な情勢となった[74]。宮方に付いた長門国守護の厚東ことう武村が、兵船で門司関を度々攻撃したが、武家方[注釈 2]の門司親胤はその撃退に成功した[75]

1352年(北朝観応3年・南朝正平7年)、直冬が大宰府を去って中国地方に向かい、1355年(北朝文和4年・南朝正平10年)に懐良親王(征西将軍宮)が博多に入ると、九州は宮方の勢力下に入っていった[76]。門司氏の中では、門司親胤やその子親尚を中心とする惣領家(吉志系、片野系、楠原系)は門司城を拠点とし、北朝探題方に従ったが、門司親頼を中心とする庶家(伊川系、柳系、大積系)は門司猿喰さるはみ城を築き、征西将軍宮の令旨を奉受して南朝宮方に従った[77]。宮方は1359年(北朝延文4年・南朝正平14年)の筑後川の戦いに大勝し、1361年(北朝康安元年・南朝正平16年)に探題方の拠点大宰府を制圧し、宮方菊池武光の軍勢が門司にも迫った[78]

1363年(北朝貞治2年・南朝正平18年)、探題方の門司親尚は門司城に立てこもり、企救郡に攻め寄せた宮方の菊池武光らに対し防戦した[79]。その年の冬には、大内弘世大内満弘の援軍を得た門司氏の探題方が、宮方だった柳城主門司親通ちかみちを引き入れた上、宮方の門司親頼らが立てこもる猿喰城を攻撃した。2か月の激しい攻防戦の末、宮方の親頼らは討死した。親通は自害した[80][81][注釈 3]。猿喰城が落城したことにより、豊前の宮方勢力はいったん後退したが、1364年(北朝貞治3年・南朝正平19年)、探題方の大内氏と宮方の厚東氏との争いが発生する中、菊池武光が門司城を奪取したため、門司親尚は少弐冬資とともに赤間関に亡命し、宮方への反撃のため転戦を続けた[82]

1371年(北朝応安4年・南朝建徳)、室町幕府によって今川了俊九州探題に任じられ、北九州に上陸すると、次々と宮方の拠点を落とした[83]。門司親尚は今川了俊のもとに参陣して九州各地を転戦し、了俊からの感状・軍忠状を受け取っている[84]

戦国時代

大内氏

今川了俊に従って宮方打倒に貢献した大内義弘が豊前国守護に補任され、中国地方の大守護であった大内氏の勢力が北九州に及んできた[85]。一部の史書によれば、1397年応永4年)、菊池武朝少弐貞頼が蜂起した時、少弐の一族木綿和泉守が300余騎で門司城に立てこもり、義弘がこれを攻め落とし、以後は門司親常に門司城を守らせたとされる[86]。義弘は1399年(応永6年)の応永の乱で守護職を失い、弟大内盛見は末弟大内弘茂に長門国・周防国を追われて豊後国に逃げた。盛見は、1401年(応永7年)に関門海峡を渡って領国を取り戻したが、この時、門司氏は盛見を助けている[87]。将軍足利義教の時、大内盛見が筑前・豊前国守護職を回復し、以後、大内氏が守護職を世襲した[88]。九州では、筑前の少弐満貞、肥後の菊池兼朝、薩摩の島津氏、豊後の大友持直が割拠しており、大内氏の九州進出は激しい抵抗に遭ったが、大内持世の時、豊前・筑前両国の平定に成功した[89]。15世紀前半には九州探題の権威が失墜し、大内氏のような大名権力が荘園領主を支配するようになった[90]。企救郡で勢力を張る門司氏のような土豪は国人と呼ばれ、大内氏は、門司氏や筑前の麻生氏のような国人を家臣団に組み込むことで地域支配を図った[91]

李氏朝鮮申叔舟が著した『海東諸国紀』(1471年)の「日本国西海道九州之図」。

15世紀後半頃から、大内氏は日明貿易の実権を握るようになり、門司関は赤間関とともに日明貿易の重要な発着所となった[92][93]。門司には、日明貿易に用いる勘合船を造る大規模な造船所があったと見られる[94]。この頃成立した『海東諸国紀』の「日本国西海道九州之図」には、主要な港の一つとして「文字関」との記載がある[95]

1467年応仁元年)、応仁の乱が始まると、豊前・筑前を支配する大内政弘が上京して西軍(山名宗全方)の主力として参戦した。すると、1469年(応仁3年)、東軍の細川勝元の策動に応じて豊後国の大友氏が豊前に攻め入り、少弐政資も筑前・豊前に攻め入った。大内政弘は、1477年文明9年)、京都で応仁の乱の和議締結に成功すると帰国し、少弐政資を討って豊前・筑前を回復した[96]。大内政弘の招きにより、連歌師宗祇1480年(文明12年)に北九州を訪れ、その旅行記を『筑紫道記』として残している[97]。この時、大内氏の家臣となっていた門司氏の門司宗親(宗近)や門司能秀よしひでが宗祇を接待している[98]

[9月13日]やがて一葉に乗じて漕出[]。安徳天皇行宮の跡をあはれみ、柳ヶ浦を過ぐ。菊[企救]の高浜をながむ。同行のすすめ侍れば、舟の中にて一折有り。
 花ならぬ 真砂もきくの 浜路かな — 宗祇[93][99]

ここに現れる門司能秀は大積系の門司氏であり、1485年(文明17年)の大内氏の壁書(法令)には、大内氏の奉行人として名が挙がっており、大内氏の領国支配の中枢にいたことが分かる[100]1492年に大内政弘・義興六角氏討伐のため上洛する際には、門司主計允かずえのじょう氏頼(楠原系門司氏)が頂吉かぐめよし治部丞氏通(小倉の国人)とともに段銭催促奉行に任じられている[101]。大友氏が筑前・豊前に侵入してくることも度々あったが、門司氏は所領安堵を受けている大内氏に付いて戦っている[102]。しかし、天文年間、大内氏は仁保常陸介を門司城主にしたとされており、門司氏は門司城主の地位を去ったようである[103]

門司城の戦い

古城山にある門司城址。
門司城をめぐって攻防戦を続けた毛利元就(左)と大友義鎮(宗麟)。

1551年天文20年)、大内義隆が重臣陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって自害した。陶晴賢は、豊後国の大友義鎮(宗麟)の弟大友晴英(大内義長)を大内氏の当主に迎えた[104]。しかし、陶晴賢は、1555年弘治元年)、大内義隆の遺臣毛利元就に攻められて敗死し、大内義長も1557年(弘治3年)、元就によって自害させられた。この時、大友義鎮が弟義長の救援に行かなかったのは、毛利との密約に基づき、北九州の大内領を大友氏が継承することを期待していたからのようである[105]

しかし、大友氏と毛利氏との間では、間もなく門司城をめぐる奪取合戦が繰り返された。1558年永禄元年)6月、大友軍が守る門司城を、毛利方の小早川隆景が攻め取り、1559年(永禄2年)9月、大友軍がこれを奪還して城番怒留湯ぬるゆ主人もんどを置いたが、毛利方の仁保隆慰がその年あるいは翌1560年(永禄3年)、門司城を再度奪還した[106][注釈 4]。その後も毛利と大友との門司城攻防戦は続くが、有名なのは1561年(永禄4年)の合戦である。その内容については大友方の史書と毛利方の史書で異なるが、大友義鎮自身が出陣して、毛利方が守る門司城を攻めたことが分かる。大友軍は苦戦し、最終的に門司から撤退を余儀なくされた[107]。門司城は、戦略上の要地であり、関門海峡・瀬戸内海の制海権を握ることにもなったため、毛利氏・大友氏とも、この城の確保にこだわった[108]

大友義鎮は将軍足利義輝に働きかけて外交戦に訴えた。幕府の仲介により、1564年(永禄7年)、和平が成立し、毛利が門司城を確保しつつ、その他の九州から手を引くこととなった[109][注釈 5]。毛利家の門司城城督は、仁保隆慰とその子仁保元豊が務めたと見られる[110][注釈 6]。その後、毛利氏から大友氏に帰順した高橋鑑種小倉城に配され、門司城を度々攻撃した。1571年元亀2年)、門司城は鑑種勢に攻略され、翌1572年(元亀3年)、毛利氏がこれを回復したようである[111]

安土桃山時代

大友氏は、強大化する島津氏の圧迫を受けるようになり、1586年天正14年)、豊臣秀吉の救援を求めたが、島津氏は秀吉の停戦命令に反して北九州に北上し、小倉城がその前線基地となった。一方、秀吉の命を受けた毛利輝元の軍は門司城に駐屯し、大里で島津方と交戦した後、小倉城を攻略した[112]。秀吉は翌1587年(天正15年)、自ら九州に出陣し、島津氏を降伏させ、九州平定を達成した[113]

秀吉は、筑前国箱崎九州国分(知行割)を行い、企救郡・田川郡6万石は毛利勝信(森吉成)に与えられた[114]。なお、門司氏は、1585年(天正13年)までは企救半島を支配していた事実が分かるが、その後のことはよく分かっておらず、時代の転換期に支配権が失われたと見られる[115]

1592年文禄元年)、朝鮮出兵中の秀吉がの危篤を聞き名護屋城から大坂に向かう途中、関門海峡で突風にあおられ、暗礁に乗り上げて難破した。この時、船頭の明石与次兵衛が責任をとって門司柳ヶ浦で切腹したと伝えられる。後に小倉藩主細川忠興が与次兵衛の供養と航行の安全を願い、その岩の上に石碑を建てた[116][注釈 7]

江戸時代

細川氏

秀吉の死後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に就いた毛利勝信は改易となり、豊前国は細川忠興に与えられた(現在の北九州市のうち、門司・小倉は細川氏の小倉藩、若松・戸畑・八幡は黒田長政福岡藩に属した)[117]。忠興は、小倉城を改修して居城とし、門司城には従兄弟の長岡(沼田)延元を置いた[118]

現在の舟島(巌流島)。大半は近代に埋め立てられたもので、宮本武蔵の決闘当時は約5分の1の1万7000平方メートルの舟形の無人島であった[119]

1612年(慶長17年)、剣術家宮本武蔵が、関門海峡の小島である舟島(巌流島)で、岩流という兵術の達人と決闘したとされる。門司城主沼田延元の子孫がまとめた『沼田家記』によれば、宮本武蔵は、岩流(小次郎)の弟子に追われ、門司城でかくまわれた後、豊後国日出にいた養父新免無二のもとに送り届けられたという[120]

1615年(慶長20年)、一国一城令が発せられると、門司城を含む領内の端城は破壊された[121]

2代藩主細川忠利は、村ごとの戸数、人口、牛馬数、職業を調べ、1622年に人畜改帳を完成させた。これによれば、企救郡の戸数は4426戸、人口は1万0895人(武士を除く)であった[122]。また、1626年寛永3年)には、実地調査に基づく検地帳の改正が行われた[123]。細川氏は、20か村ほどを集めて手永という行政区域を作り、それぞれ1人の惣庄屋を置いた。企救郡には、7人(後に6人)の惣庄屋が置かれた。この制度は小笠原氏の時代にも継承され、幕末の時点で、企救郡には城野、富野、小森、片野、今村、津田という6手永があり、門司の村は主に富野手永に属している[124]

小笠原氏

1632年、細川氏は肥後国加藤忠広のあとに転封され、そのあとの豊前国には明石藩小笠原忠真(忠政)が入国した。これは、将軍徳川家光が、外様大名ばかりであった九州において、要所を押さえるために譜代大名である小笠原氏を配した国替えであった[125]。小笠原氏は、自他ともに幕府の「九州探題」としての役割を認めていた[126]

1732年享保17年)夏には、西日本を飢饉(享保の大飢饉)が襲い、企救郡でも餓死者5906人を出す大きな被害があった[127]

猿喰新田を開発した石原宗祐の頌徳碑(左)と猿喰地区。

1757年宝暦7年)から、大里村の庄屋を引退した石原宗祐が、遠浅の入江であった企救半島東側の猿喰湾の干拓工事を行い、1759年(宝暦9年)、33町歩余りの新田開発に成功した。銀188貫余りの開発費は、宗祐が私財を投じたものといわれる[128]天明の大飢饉の時、猿喰新田の備蓄米によりこの地の付近では餓死者が出なかったと伝えられている[129]

大里は、小倉と並んで、九州から本州に関門海峡を渡る重要な宿駅・港町であり、御茶屋や各藩の本陣が設けられていた。在番所が置かれ、渡航手形の発行や通行人改めを行っていた[130]長崎街道の起点は当初は小倉の常盤橋であったが、1799年(寛政11年)に長崎奉行が大里に船舶取締りの番所を設けてから大里が起点となり、小倉・大里間を門司往還と呼んだ[131]1802年享和2年)にこの地を訪れた菱屋平七は、『筑紫紀行』の中で、「豊前門司浦には人家百五六十軒ばかりあるが見ゆ。大裡[大里]は人家三百軒ばかりあり。諸侯方の渡海し給ふ舟場なり。されば本陣などもありといへり。」と記している[132]1826年文政9年)に大里を訪れたシーボルトは、『江戸参府紀行』で「大里は小さな町である。下関に渡るには最短距離で楽な渡海地である。」と書いている[133]

また、近世中期以降に北海道・大坂間で北前船航路が開設されると、寄港地である下関が繁栄し、船の修理を行っていた門司の田野浦も発展した。1835年には埋立地に新港が築かれた[134]。田野浦には、1750年頃の宝暦年間に遊里ができたといわれる[135]。もっとも、下関と比べ、田野浦は風待ち、汐待ちの補助的な役割にすぎなかった[136]

企救半島東側の部埼灯台近くにある僧清虚像。清虚は、1850年嘉永3年)に亡くなるまでの13年間、難破の多い部崎の浜で航海の目印とするため、托鉢によって得た薪で一晩中火焚を続けたという[137]

一方、今の門司港地区は、極めてひなびた土地であった。1813年文化10年)、小倉藩の郡代役所が塩田開発のため埋立てを計画し、4年後に完成したが、堤防の決壊で採算が合わなかった。結局、小倉の守永甚助が引き取り、1840年代になってようやく採算がとれるようになった。明治初頭の時点で、塩田は、約10町歩、6区画に分かれていた[138]

幕末・明治維新

1858年安政5年)、日米修好通商条約が締結されると、1860年にはイギリス人が門司の楠原に上陸し、村人が大騒動をするということがあった。翌1861年にもイギリス船が門司沖に停泊し、測量を行っている[139]。小倉藩の家老小宮民部は、海防に力を入れ、1863年文久3年)、大里、葛葉、門司などの要所に砲台を築いた[140]

この年、朝廷から攘夷決行を迫られた将軍徳川家茂は、各藩に5月10日をもって攘夷決行すべしとの通達を出した。5月、長州藩久坂玄瑞を中心とする尊王攘夷派は、田野浦沖に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号に藩の軍艦で砲撃を行い、続いてフランス蒸気船、オランダ軍艦を砲撃した。長州藩の使者が、小倉藩に、すぐに攘夷を実行するように迫ったが、小倉藩は、外国船から攻撃を受けていないのに発砲すべきとの幕命を受けていないとしてこれに応じなかった。6月、アメリカ軍艦とフランス軍艦が報復のため関門海峡に来襲し、下関を攻撃したが(下関事件)、小倉藩は静観し、これが長州藩の恨みを買うこととなった[141]。小倉藩が攘夷の要求に応じないことを見て、高杉晋作奇兵隊を中心とする長州藩兵約110人が、田野浦に上陸し、砲台を占拠するという挙に出た。小倉藩が幕府に長州藩の横暴を訴えたので、幕府は朝陽丸中根市之丞を下関に派遣したが、長州藩は強硬であった[142]。ところが、8月18日、朝廷で長州藩が失脚する事件(八月十八日の政変)が起き、9月、長州藩兵は田野浦から引き揚げ、小倉藩は窮地を脱した[143]

1864年元治元年)、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊が下関を砲撃する事件があり、小倉藩は門司の海岸に警備の兵を配したが、藩士は見物に終始した[144]。同じ年、禁門の変を機に幕府による第一次長州征討があり、唐津藩福岡藩薩摩藩熊本藩柳川藩佐賀藩久留米藩などの藩兵4万人超が小倉に集結したが、西郷隆盛の仲介により開戦は回避された[145]

1865年(元治2年)、長州藩では高杉晋作ら尊攘倒幕派が政権を奪取し、幕府は第二次長州征討(幕長戦争)に踏み切った[146]。幕府から小倉に派遣された老中小笠原長行は、小倉藩に長州への討ち入りを命じ、小宮民部率いる小倉藩は門司の田野浦や門司村、楠原村に陣を張ったが、他藩の応援はなかった[147]。6月17日、長州軍が奇襲に出、軍艦と壇ノ浦砲台から田野浦と門司を砲撃した。山縣狂介率いる奇兵隊や報国隊が古城山東の大久保海岸に上陸し、古城山の砲台を奪取し、一旦撤退した(田野浦の戦い)[148]。7月3日、長州軍は2度目の上陸作戦に出た。奇兵隊が門司に上陸、大里に進軍し(大里の戦い)、小倉藩は幕府軍や他藩の応援が得られないまま赤坂まで退却を強いられた[149]。7月27日、それまで傍観していた熊本藩が長州藩に砲撃し、幕府方は初めて勝利を収めたものの、熊本藩は一転して撤退し、小笠原長行も戦線から逃亡するに至り、小倉藩は8月1日に小倉城を自ら焼いて香春町まで撤退を余儀なくされた[150]

1866年慶応2年)、将軍を継いだ徳川慶喜は、小倉口の敗戦を受けて長州征討の撤兵を布告した。小倉藩は、薩摩藩、熊本藩に長州藩との仲介を依頼し、企救郡を長州藩が預かるという内容で和議が成立した[151]

明治維新後の1869年明治2年)8月、長州藩が版籍奉還を行い、企救郡は日田県の直轄地となった。しかし、長州藩は撤退せず、支配を続けていた[152]。香春藩(旧小倉藩)は新政府に企救郡の返還を願い出たが、受け入れられなかった[153]。この年11月、企救郡新道寺村で一揆(企救郡百姓一揆)が起こり、門司方面まで騒動が広がり、居宅や家財の打壊しも発生した。長州藩は、このこともあって、1870年(明治3年)2月、企救郡から引き揚げた。日田県知事松方正義の企救郡巡視が行われるなど、新政府による行政が始まった[154]

明治時代

明治初年

1871年(明治4年)7月、廃藩置県が行われ、10月14日、日田県企救郡は、豊津県(旧香春藩)、千束県(旧小倉新田藩)、中津県と統合されて小倉県となった[155]1876年(明治9年)4月、小倉県は福岡県に併合され、同じ年に三潴県のうち筑後一円も福岡県に入り、豊前の下毛郡宇佐郡が福岡県から大分県に割譲されたことで、現在の福岡県域が確定した[156]1878年(明治11年)の郡区町村編制法により、福岡県は福岡区と31の郡に編成された[157]1884年(明治17年)頃の門司の産業は、清酒場1軒、醤油場1軒、製塩場6軒であった[158]

企救郡では、1887年(明治20年)、従来の門司村に楠原村(現東門司、清見、清滝、広石、葛葉など)が吸収合併された。1889年(明治22年)、市制町村制施行に際し、門司村、田野浦村、小森江村が合併し、文字ヶ関村となった[159]。また、大里地区には柳ヶ浦村やなぎがうらむら、企救半島東側には東郷村とうごうむら松ヶ江村まつがえむらが成立した。

各村の人口と範囲[160]
町村制施行時(明治22年)の村名 明治22年当時の人口(人) 明治元年当時の町村名
文字ヶ関村 3,346 楠原郷の田野浦町、田野浦村、楠原村、門司村。柳郷の小森江村。
柳ヶ浦村 2,696 柳郷の廿町にじっちょう村、大里村、柳村、原町村、馬寄まいそう村、新町村。
東郷村 2,973 伊川郷の柄杓田ひしゃくだ村。大積郷の喜多久きたく村、黒川村、大積村、白野江村。
松ヶ枝村 4,529 沼郷の恒見つねみ村。伊川郷の平山村、伊川村。吉志郷の吉志きし村、今津村、はた村、猿喰さるはみ村。

築港

東本町の埋立地を囲む幅12メートルほどの堀川に、鎮西橋が渡された。現在、堀川はなく、鎮西橋の橋柱のみが残っている[161]

1886年(明治19年)、福岡県知事に就任した安場保和[注釈 8]は、県内視察の上、門司を港湾・鉄道開発の適地と考えた。しかし、財政難のため財閥の資金に依存せざるを得ず、1889年(明治22年)、渋沢栄一安田善次郎浅野総一郎らが参入して、門司築港会社が設立され、約11万4000坪の埋立てと船溜りの建設が行われた。第1期工事(1889年-)は本町、桟橋通り、港町、西海岸通りの埋立てと第1船溜りの造成、第2期工事(1890年-)は西海岸一帯と塩田の埋立て、第3期工事(1892年-)は第2船溜りの造成、第1船溜りと第2船溜りを連結する水路(堀川)の開削が行われた。工事は1898年(明治31年)に完成した[162]

第1期工事着工間もない1889年(明治22年)11月、門司港は国の特別輸出港[注釈 9]に指定され、石炭硫黄小麦粉の5品目の取扱いが許可された。工事が完成した1898年(明治31年)には、木炭セメント硫酸マンガン鉱さらし粉の輸出扱いが追加され、1899年(明治32年)には品目制限のない一般開港の指定を受けた[163]

鉄道敷設

1891年(明治24年)に開業した初代門司駅(後の門司港駅=左)。現在、その付近には、「もじ」と書かれた駅名標と旧0哩ゼロマイル標のプレートがある[164]

福岡県会は、1882年(明治15年)には早くも「門司、熊本間鉄道布設に付建議」を決議し、県に予算を付けるよう求めている[165]。福岡県知事安場保和は、1886年(明治19年)、国に門司から熊本県三角に至る「九州鉄道布設乃義上申」を提出し、国から民間企業による九州鉄道建設の許可を取り付けた[166]1888年(明治21年)、九州鉄道が設立され、まず博多久留米間で着工したが、1891年(明治24年)、門司・高瀬(現玉名)間が開通し、門司駅(現門司港駅[注釈 10])や柳ヶ浦駅(後に大里駅、現門司駅)が開業した。九州鉄道の本社も博多から門司に移転した[167]

清滝の旧九州鉄道本社(1891年(明治24年)築)。レンガ造りの2階建てで、通称赤レンガ。現九州鉄道記念館[168]。鉄道国有化(1907年)、国鉄発足(1949年)後も九州の鉄道を総括する機能を有していた[169]

同じ頃、石炭産出地である筑豊では、1889年(明治22年)に筑豊興業鉄道が設立されて1891年(明治24年)に若松直方間で開通、1893年(明治26年)に折尾経由で門司港への石炭輸送が可能となった。同社(筑豊鉄道と改称)は、1897年(明治30年)、九州鉄道と合併した[170]。また、豊前地方で1893年(明治26年)に設立された豊州鉄道は、伊田行橋間、伊田・後藤寺間を開通させ、1901年(明治34年)に九州鉄道と合併した[171]。なお、九州鉄道は1907年(明治40年)に鉄道国有法により国有化され、門司に九州帝国鉄道管理局が置かれた[172]

従来、筑豊の石炭輸送は、遠賀川の舟運(平田舟)に頼っていたが、鉄道により九州各地に送るとともに、門司・若松の輸出港に直送できるようになった[173]。このうち、若松港は水深の浅い洞海湾に面し、大型船が寄港できなかったのに対し、門司港は、水深が比較的深く、本州との接点にあり、国内外の物流に適しているという優位があった[174][注釈 11]。門司の開港当初の輸出品は少量の石炭と塩くらいであったが、鉄道開通により筑豊の石炭の輸出港として大きく発展した。1890年(明治23年)の輸出額は34万円余りであったが、1901年(明治34年)の輸出入額は1885万円余りにまで成長した[175]。また、当時は船の燃料に石炭が使用されていたことから、汽船への焚料炭(バンカー)の供給基地でもあった[176]

なお、当時、鉄道は下関とつながっておらず、1889年(明治22年)に門司の石田平吉が渡船業を始め、1896年(明治29年)に下関側で関門汽船が設立され、業者が乱立した。1901年(明治34年)に山陽鉄道が馬関(現下関駅)まで開通すると[注釈 12]山陽汽船商社が関門鉄道連絡船を運行した[177]1911年(明治44年)には、日本最初の貨車航送として、小森江の笠松町と下関の竹崎を結ぶ関森航路が開かれた[178]

近代産業の生成

北九州には良質の石灰岩が分布していることもあり、門司で最初の近代化工場は、セメント工場であった。東京の浅野セメント(後に日本セメント)が、1894年(明治27年)から門司工場の操業を開始した[179]。1891年(明治24年)開業の家入鉄工所(後に門司鉄工)も一時栄えた[180]

特別輸出港指定から10年弱の間に、三井物産大阪商船日本郵船三菱合資会社、九州倉庫、豊陽銀行、日本商業銀行、日本貿易銀行、八十七銀行などの支店・出張所が門司港に置かれた。さらに、1898年(明治31年)には日本銀行西部さいぶ支店が下関から門司に移転した(1917年(大正6年)に門司支店と改称)[181]

日清戦争後、国は製鉄事業の設立を図り、その用地として、遠賀郡八幡村(現八幡東区)、企救郡柳ヶ浦(大里)、広島県坂村の3か所を候補地とした。各地で誘致活動が行われたが、大里は選ばれず、1897年(明治30年)、官営八幡製鉄所が開業した[182]

大里にある旧サッポロビール九州工場(門司赤煉瓦プレイス)。大里は鈴木王国と言われ、大里から小森江にかけての海側は鈴木商店の工場群で占められた[183]

1903年(明治36年)には、鈴木商店金子直吉が大里製糖所を開業し、1907年(明治40年)にライバル企業の大日本製糖に売却した。金子は、売却益の一部で1910年(明治43年)に大里製粉所を設立した(後にに日本製粉と合併)[184]1911年(明治44年)には九州電線(後に古河電工)、1913年(大正2年)には鈴木商店による帝国麦酒(後にサッポロビール九州工場)・大里硝子製造所・大里酒精製造所(後に協和発酵門司工場)が設立された[185][186]。小森江地区に設立された神戸製鋼所門司工場(後に神鋼メタルプロダクツ)、日本冶金(後に東邦金属)も鈴木商店系である[187]

門司で事業を行い、全国レベルに事業を拡大した人物として、出光佐三出光興産)、中野金次郎(日本通運)、中村精七郎(山九)、間猛馬(間組)がいる[188]。出光佐三は、中野真吾(船舶業、旧門司市長)、久野勘助(米穀商)とともに「門司の三羽烏」と呼ばれ、門司の政財界を主導した[189]

門司市の成立

明治初年、今の門司港地区には塩田が広がっており、1860年万延元年)の時点で、門司、田野浦、小森江を合わせた人口は2338人であったが[190]、築港と鉄道敷設により、1894年(明治32年)になると、文字ヶ関村の人口は1万0076人にまで増大し、この年門司町となった[186]。さらに、1899年(明治32年)には、人口2万9290人となり、門司市となった。一方、柳ヶ浦村は、1908年(明治41年)に大里町となった[186]

日清戦争(1894-95年)を機に、下関・門司の軍事的意義が高まり、各所に砲台や堡塁が築かれた[191]1897年(明治30年)には、老松町に陸軍兵器廠が置かれ、1899年(明治32年)の要塞地帯法で関門一帯は下関要塞地帯となり、立入りや撮影が規制されるようになった。ただ、兵器廠は、1918年(大正7年)に小倉に移転した[192]。門司港と下関港は、1907年(明治40年)に関門海峡として第一種重要港湾に指定され、国による港湾整備がされることとなった[193][注釈 13]

大正時代

貿易・金融の繁栄

バナナの叩き売り発祥の地」碑[注釈 14]。門司港へのバナナ輸入開始は1904年(明治37年)ないし1905年(明治38年)頃と言われる。輸入時には青色でなければならないが、輸送が遅れ黄色味を帯びたものや傷がついたものを駅前で口上を付けて安売りしたのが始まりとされる[194]

若松港の築港工事が行われ、特別輸出入港に指定されると、石炭輸出は徐々に門司港から若松港にシフトし、門司港はそれに代わってセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品の輸出やその原料の輸入を担うようになっていった[195]1914年(大正3年)には、門司港に入港する汽船トン数が神戸港横浜港をしのいで全国1位となった。米、バナナ、肥料、材木、綿花、砂糖、麦粉、鉱油の西日本第一の取引地と称された[196]。この頃には、門司の一等市街地の地価は東京日比谷公園の地価と大差ないとされ、土地の狭い門司港地区では建物がどんどん山手に上っていった[197]

現門司港駅近くに残る旧大阪商船ビル(1917年(大正6年)築)。当初は右側面は水際に接して建てられていたが、その後道路部分が埋め立てられた[198]

1914年(大正3年)、門司駅(現門司港駅)が現在の駅舎に移転した。2代目門司駅は、ネオ・ルネサンス様式の木造2階建てである[199]第一次世界大戦開戦の年であり、人や物の移動が激しくなるのに対応して、関門連絡船桟橋と直結させたものと見られる[200]。その当時、既に九州と本州を橋または海底トンネルで結ぶことが検討されており、鉄道院総裁江藤新平がそのための調査を命じていた。そこでは、主力駅が大里駅(現門司駅)となることが予想されていたため、2代目門司駅(現門司港駅)はレンガやコンクリートでなく木造とされたという[201]

現在残る料亭三宜楼。

大正期から昭和初年にかけて、門司港地区の桟橋通り周辺には、多くの銀行や商社が集まり、道路にはガス灯がともり、「一丁倫敦」と呼ばれた[202]。桟橋通りは、山側から門司港駅前、その先の埠頭まで通る道であり、これと交差する東西道路(国道3号)とともに街並みの軸となった[203]。現門司港駅のほかにも、旧門司税関1912年)、旧大阪商船(1917年)、日本郵船ビル(1927年)など、この時期に建てられた建物のいくつかが門司港レトロ地区に残っている[204]。商社や銀行の支店長など、東京からの転勤族が洋風の「ハイカラ」な文化をもたらし、洋食品販売の明治屋、フルーツパーラー、カフェ、パン屋などが並んだ[205]。門司港には料亭も多く、高級料亭だけでも「菊の屋」「金龍亭」「三笠」など十数軒あった。1931年(昭和6年)に清滝に移転した料亭「三宜楼」が現存している[206]。明治時代に埋立地内に造られた遊郭(馬場遊郭)もあった[207]1911年(明治44年)、九州電気軌道(後の西日本鉄道)が門司と小倉・黒崎を結ぶ路面電車北九州線)を開業し、東本町や大里に停留所が置かれた。汽車よりも気楽に乗れる路面電車は、市民の足として人気を博した[208]1923年(大正12年)には、東本町2丁目から田ノ浦までの門司築港線(門築電車)が建設された(後に九州電気軌道の傘下となる)[209]1913年(大正2年)以降、多数の映画館も開業した[210]

大正期には、先行した門司市と小倉市に続き、若松市八幡市戸畑市も市制施行し、北九州工業地帯を形成するようになった。中央資本による大工場が多いが、立地上、原料獲得に有利であることを背景に、素材中心の産業を発展させた[211]

労働者と米騒動

一方、門司港での石炭輸出を支えていたのが、「ごんぞ」「ごんぞう」[注釈 15]と呼ばれた沖仲仕であった。汽車で運ばれた石炭をに移し、それを沖待ちの巨大な汽船に届け、人力で運び上げる重労働であった。門司港は、入港船舶数に対し岸壁が足りなかったため、沖合に停泊した本船での荷役が多かった。1905年当時、門司市の人口4万4113人に対し、仲仕は1万3886人いたという。極めて低賃金であり、労働争議も多発した[212]。門司港の場合、女性の沖仲仕が多いことも特徴であった[213]

門司市では、1911年(明治44年)に紫川上流の企救郡中谷村福智渓を水源とする水道の給水が始まり、徐々に整備されていったものの[214]、上下水道や住宅などのインフラの整備は人口急増に追い付かず、特に労働者層の衛生状態は悪く、コレラが度々流行して多くの死者を出した[215]

1918年(大正7年)7月、シベリア出兵を前にした米価急騰により富山県米騒動が始まると、全国に飛び火し、門司では8月14日に始まった。米屋の売り惜しみに対する抗議で市民が米店前に集まったことで本格化し、沖仲仕が合流して数千人に膨らんだ。門司市内の米屋のほとんど、呉服屋、酒屋、醤油屋などが襲撃を受けた。小倉第12師団が鎮圧に当たり、検挙者は200人ないし300人に上った[216]。米騒動後、内務省は、物価安定、治安維持のために各地に公設市場を作ったが、門司では1920年(大正9年)、陸軍兵器廠の跡地に老松公設市場を設け、戦後の中央市場の原形となった[217]

市域の拡大

1930年頃の門司周辺地図。門司市は大里町と東郷村を合併しており、企救半島東側の企救郡松ヶ枝村はまだ独立している。

1913年(大正3年)、門司市と企救半島北東部の東郷村とを結ぶ桜隧道(桜トンネル)が開通し、峻険な峠道を通らなくてよくなり、行き来が飛躍的に便利になった[186][218]1921年(大正11年)には初代椿トンネルも開通し、桟橋通りから、企救半島東側の柄杓田、恒見方面に自動車やバスで容易に通行できるようになった[219]

大里町は、1923年(大正12年)2月1日、門司市に編入された。次いで、1929年(昭和4年)10月1日、東郷村が門司市に編入された。1942年(昭和17年)5月15日、松ケ枝村が門司市に編入されて、現在の門司区域が成立した[220]。なお、現在の門司区役所(当時の門司市役所)庁舎は、1930年(昭和5年)に落成した。

戦前から太平洋戦争

関門鉄道トンネルの開通

1929年(昭和4年)に国際旅客ターミナルとして建てられた旧大連航路上屋うわや[221]

1931年(昭和6年)、門司港の修築工事[注釈 16]が完成し、大連航路、天津航路も開け、門司港は国際港として世界に知られるようになった。1か月に200隻近い外航客船が入港した[222][223]満州事変以降の大陸進出に伴い、門司港は貿易とともに軍需物資や兵員輸送の拠点となった[224]

関門海峡連絡交通の構想図。当初、海底トンネルは小倉につながる案が立てられていたが、素通り化を恐れる門司側の運動により小森江に出入口が設けられることになった[225]

明治時代から九州と本州を結ぶ海底トンネルの構想はあったが、1930年頃になると、貨物の量が激増し、従来の連絡船による貨物輸送では追いつかなくなったことから、海底トンネルの検討が本格化した。1935年(昭和10年)に鉄道大臣内田信也が視察に訪れ、弟子待・小森江ルートの採用が決まり、1936年(昭和11年)に関門鉄道トンネルが着工、1942年(昭和17年)7月に貨物列車の運行が開始した[226]

門司港駅から関門連絡船乗り場に向かう地下道には、太平洋戦争中、特別高等警察が通行人を監視する監視孔が作られた[227]

これに伴い、1942年4月1日、それまでの門司駅は門司港駅と改称され、それまでの大里駅は400メートルほど南側に移転[注釈 17]して門司駅となった[228]。門司駅は、7月、東京、大阪、京都に次ぐ特別一等駅に指定され、戦後まで九州の玄関口としてにぎわった[229]。一方、門司港駅を経由せずに下関駅と門司駅がつながることとなり、門司港地区にとっては衰退の予兆となる出来事でもあった[230]

1937年(昭和12年)8月には、壇ノ浦・和布刈間で関門国道トンネルも着工され、1944年(昭和19年)に貫通したが、戦時下の資金難、物資調達難により、事業は中断された[231]

戦災

太平洋戦争中、門司市で最初の空襲は、1944年(昭和19年)6月16日のB-29による北九州空襲であり、門司市では、大里、大杉町、黄金町付近に500ポンド爆弾が投下され、死者34名、負傷者25名を出した[232]

日本商船の80%が通航する関門海峡は、アメリカ軍の集中的な攻撃目標となった。マリアナ諸島基地を出発したアメリカ軍B-29編隊が、1945年(昭和20年)3月27日夜、関門海峡に564トン(約1000発)の機雷を投下し、以後、終戦前日まで46回、合計4696発の機雷が投下された。日本海軍第七艦隊による掃海は困難を極め、関門海峡は完全に封鎖された[233]

6月29日には特に激しい空襲があり、焼夷弾により門司市内の3600戸余りが焼け、死者55人、負傷者92人、被災者1万6190人を出した。戦争中の空襲は前後9回に及び、被害面積35万坪、死者111人、負傷者217人に上った[234]。日本銀行門司支店などの建物も壊滅したが[235]、門司港駅はホーム1棟を失う被害にとどまった[236]

8月9日には、B-29が小倉市に原子爆弾を投下しようとしたが、視界が悪かったために長崎市変更されることとなった[237][238]

戦後

復興

終戦後、門司港は引き揚げの拠点の一つとなり、朝鮮半島や大陸からの引揚船が到着した[239]。市街地は焼け野原であり[240]、関門海峡は機雷除去作業が続き、1949年(昭和24年)に安全宣言が出されるまで、大型船舶の入出港ができなかった[241]。この関門港閉鎖期間に、外国航路を神戸港などに奪われたと指摘される[242]1950年(昭和25年)の朝鮮戦争では、門司は物資輸送拠点となり、朝鮮特需にわいた[243]。貿易関係施設は接収されてアメリカ軍の将兵が駐留した[244]。この年、大里地区に門司競輪場が開設された(2002年に廃止)[245]。しかし、朝鮮特需を最後のピークとして、石炭産業は斜陽化し、北九州全体の産業が沈滞していった[246]。中国との国交が断たれ、貿易相手がアメリカ主体となったことからも、太平洋から遠い門司港の地位は低下した[247]

門司市白木崎で土砂崩れの下から救出された少女。

1953年(昭和28年)6月25日から28日、集中豪雨が北九州を襲い、1時間100mm前後の雨量を記録した。門司市では、風師山で山津波(土石流)が発生し、市街地は泥と流木で埋まった。特に白木崎電停(現風師バス停)付近が大きな被害を受けた。関門トンネルは水没した。門司市内だけで死者・行方不明者143人が出た(昭和28年西日本水害[248][222]

門司市では、1947年(昭和22年)に戦災復興土地区画整理事業が認可され、新しい町割りが行われ、1957年(昭和32年)に換地処分が行われて完了した[249][250]1954年(昭和29年)、門司港地区に栄町銀天街が新築され、1957年(昭和32年)にアーケードが完成した[222]

関門国道トンネルの開通

関門国道トンネル・門司側車道入口。3層から成り、最上部が排気ダクト、その下が車道、最下部が人道となっている[251]

戦争中に事業が中断されていた関門国道トンネルは、1952年(昭和27年)に工事が再開され、1958年(昭和33年)3月に完成した[252]。この時、門司トンネル博覧会(世界貿易産業大博覧会)が和布刈会場と老松会場で開かれ、昭和天皇・皇后が来臨し、入場者数は112万人余りに上る盛況であった[253]。また、これに合わせて、関門国道トンネル入口と古城山頂とを6分で結ぶロープウェイが開設されたが、間もなく乗客が減り、1964年(昭和39年)に廃止された[254]。一方、関門連絡船も、トンネル開通で利用客が減少し、1964年(昭和39年)に終了した[255]

五市合併

明治以来、北九州の各市(門司、小倉若松八幡市戸畑市)と下関市との合併論は度々持ち上がっており、昭和に入ってからも、3回、合併運動が展開されたが、失敗に終わっていた[256]。門司市は、1948年(昭和23年)に北九州五市合併総合研究委員会ができた時(第3回合併運動)には、下関市を入れた六市合併を譲らなかった[222]。その背景には、合併により港湾機能が小倉に移転し、門司が「場末」化して衰退するおそれがあるという懸念があった[257]。しかし、1960年(昭和35年)、八幡市長大坪純が五市市長会で五市合併を提案したことを機に、現実性を帯びるようになった(第4回合併運動)[258]。北九州工業地帯の地位低下に対する危機感や生活圏の拡大を背景に、柳田桃太郎門司市長も五市合併に賛同し、1961年(昭和36年)、各市議会で賛成決議がされた。市名は市民から募集された名前の中から北九州市に決定し、1963年(昭和38年)2月10日に北九州市が発足(人口103万人余り)、4月1日政令指定都市となり、門司市は門司区となった[222][259][注釈 18]

合併を機に、1964年(昭和39年)、門司港、小倉港、洞海港の3港は、北九州港管理組合(後に北九州市港湾局)が管理する北九州港となった[260]

関門橋、新幹線の開通

門司港地区から望む関門橋

高速道路九州自動車道中国自動車道を結ぶ計画は、1962年(昭和37年)から検討されていたが、1968年(昭和43年)に日本道路公団によって着工され、1973年(昭和48年)11月に関門橋が開通した[261]。鉄道、国道トンネルに続き、関門橋の開通により、門司港地区は完全に通過点となったとされる[262]

もっとも、貨物に関しては、関門橋の開通により門司への集積が進んだ[263]。朝鮮戦争以来、1972年(昭和47年)に全面解除されるまでの間、アメリカ軍による西海岸の埠頭施設の接収が長期化したこともあり、田野浦の港湾整備が進められていたが[264]、北九州市は、1971年(昭和46年)に田野浦コンテナターミナルを開設し、さらに、太刀浦コンテナターミナルを造成し(1979年(昭和54年)供用開始)、田野浦・太刀浦一帯を臨海工業地とした。中国、韓国、東南アジアとの間で、自動車部品、工業製品、雑貨などのコンテナの取扱量が急増した[222][265]

1961年交流電化された九州(門司港・久留米間)と直流電化方式の本州との間で電気機関車を入れ替える必要があり、交直流両用国鉄EF30形電気機関車でリレーした。門司駅はそのための重要な停車駅であった[266]

1975年(昭和50年)、山陽新幹線新下関小倉間の新関門トンネルが開通して東京・博多間の新幹線全線が開業した[267][注釈 19]。新幹線は門司で止まらない上、在来線でも、関門をまたぐ寝台特急が激減し、小倉、博多を中心にダイヤグラムが組まれるようになって、それまで電気機関車の入れ替え駅として活躍していた門司駅の繁栄が失われる転機となった[268]。小倉、黒崎、さらに新幹線の終着点である福岡市が発展する一方、門司は経済成長から取り残された[269]。他方、経済的な発展から取り残されたがゆえに、歴史的な町並みが残され、後のレトロ事業につながった側面もある[270]

2000年(平成12年)に全路線が廃線となった西鉄北九州線の路面電車車両[271]

モータリゼーションの進行に伴い、交通渋滞が深刻化したため、1985年(昭和60年)10月、門司砂津間の路面電車が廃止となり、他の西鉄北九州線の路線も順次廃線となった[272]。企業は小倉や博多に九州支店を移すところが増え、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後、JR九州は本社中枢機能を福岡市に移転し、門司港経済への影響が大きかった[273][注釈 20]

門司港レトロ

門司では、経済が沈滞する中、老朽化した建物・倉庫群が取壊しの対象となり、旧門司税関旧大阪商船旧門司三井倶楽部(門鉄会館)などの歴史的な建物も解体されようとしていた[274]

1986年(昭和61年)に北九州市長に就任した末吉興一は、翌1987年(昭和62年)、門司港に残る歴史的遺産を生かして街を整備する「門司港レトロ」構想に着手した[275]。特に、1988年(昭和63年)に門司港駅が国の重要文化財に指定されたことを機に、洋風建築保存・活用の気運が本格化した[276]。この年、北九州市の「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」が自治省ふるさとづくり特別対策事業に採択され、予算が付与された[277]運輸省の歴史的港湾環境創造事業を利用した旧門司税関の復元[278]、第1船溜り出入口の跳ね橋「ブルーウィングもじ」などの西海岸地区緑地整備事業[279]友好都市大連市の旧東清鉄道事務所を複製した国際友好記念図書館の建設[280]も進められた。総事業費約300億円が投入され、1995年(平成7年)3月、門司港レトロがグランドオープンした[281]。第1船溜りを中心に、賑わいが生まれた[282]

その後、1997年(平成9年)から2007年(平成19年)にかけて門司港レトロ第2期事業が実施され、九州鉄道記念館や海峡ドラマシップ(関門海峡ミュージアム)など、新しい観光施設、宿泊施設、商業施設も次々オープンした[283]。かつての門司築港が建設した門司港・外浜を通る線路には、2005年(平成17年)まで貨物列車が走っていたが、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線トロッコ列車(潮風号)が走るようになった[284]2014年(平成26年)には三宜楼が保存修理工事を経て一般公開された[285]

2001年(平成13年)に閉店した山城屋

一方、1937年(昭和12年)に門司港地区に開業し門司唯一のデパートとして親しまれていた山城屋が、小倉を中心とするデパート戦争に取り残され、1994年(平成6年)に倒産手続に入り、2001年(平成13年)に閉店し、経済の衰えを象徴する出来事となった[286]。観光地化された中心部を外れると、人通りが少なく、寂れつつあるとの指摘もある[287]

人口

門司市の人口は、明治時代から急速に増加し、1930年代後半は12万人から13万人台まで増加した。戦争の激化に伴って減少したが、戦後、再び増加し、1959年に史上最高の16万5010人に達した。その後、門司区時代となったが、減少を続け、2015年からは10万人を割り込んだ[288]

北九州市全体として、高等教育機関が少なく、活力ある企業が少ないため、人口流出はこの先も続く可能性が高いと考えられている[289]

北九州市全体として若年層の流出により高齢化が進んでいるが[292]、門司区は人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36.5%と、市の中でも高い[293]

門司区の人口構成(2019年3月、単位:人)[293]
6
100+
87
90
95-99
476
486
90-94
1,466
1,280
85-89
2,735
1,964
80-84
3,508
2,961
75-79
4,056
3,692
70-74
4,510
4,007
65-69
4,608
2,974
60-64
3,273
2,735
55-59
3,077
2,812
50-54
3,077
3,319
45-49
3,398
3,019
40-44
3,123
2,555
35-39
2,539
2,065
30-34
1,990
1,792
25-29
1.790
1,842
20-24
1,895
2,153
15-19
1,995
2,063
10-14
2,017
1,927
5-9
1,839
1,610
0-4
1,524

地域

門司区の航空写真
門司区の航空写真
田野浦
太刀浦
小森江
白野江
大積
伊川
猿喰
吉志
恒見

門司港・和布刈地区

和布刈公園から望む門司港地区。

門司港地区は、門司港レトロの観光事業で脚光を浴びている。門司港駅(1914年(大正3年)築)の付近から第1船溜り周辺にかけては、旧門司三井倶楽部(1921年(大正10年)築)、旧大阪商船ビル(1917年(大正6年)築)、旧門司税関(1912年(明治45年)築)などの歴史的建造物が集まっている。旧九州鉄道本社(1891年(明治24年)築)を転用した九州鉄道記念館などの観光施設や、出光美術館ホテル、商業施設も立ち並んでいる。関門海峡エリアは、美しい日本の歴史的風土100選に選ばれ、門司港駅をはじめとするレトロ地区の施設群は経済産業省近代化産業遺産に認定されている[294]

他方、年間200万人とされるレトロ地区の観光客は栄町などの商店街に流れておらず、商店街再生の前途は厳しいままである[295]

古城山を中心とする和布刈めかり地区は、古くからの観光名所であり、1956年(昭和31年)に和布刈公園を含む一帯が瀬戸内海国立公園に編入された[296]。レトロ事業と同時期に海峡めぐり推進事業の中で整備され、展望台には源平合戦絵巻の壁画が設置され、頂上広場、遊具広場、遊歩道なども整備されている[297]和布刈神社では、毎年旧暦元旦に神官が海に浸かってワカメを刈り、神前に備える和布刈神事が行われ、福岡県の無形文化財に指定されている[298][299]。門司港地区(九州鉄道記念館駅)と和布刈地区(関門海峡めかり駅)の間を、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線のトロッコ列車が走っている[300]

大里・小森江地区

門司駅から小倉方面を望む。

門司駅を中心とする大里地区は、関門鉄道トンネルの開通によって九州の玄関口となり、駅前の柳町銀天街、市場、スーパーが栄えた。しかし、昭和60年頃から空き店舗が目立つようになり、柳町銀天街のアーケードは撤去された[304]鈴木商店が建設した煉瓦造りの工場群のうち、帝国麦酒(1913年(大正2年)設立)の工場はサッポロビール九州工場として稼働していたが、2000年(平成12年)に閉鎖された。その後、建物の保全・活用が図られ、2006年(平成18年)に門司赤煉瓦プレイスとして開業した。事務所棟(門司麦酒煉瓦館)・醸造棟などが国の登録有形文化財となっている[305][294][306]

サッポロビールの移転後、区画整理が進み、近年では門司駅周辺のマンションが増えつつある[307]

小森江地区は、工場群や下関との貨物航路で栄えた町である。林芙美子の出生地という説があり、風師山登山道を登った旧小森江浄水場(1973年(昭和48年)廃止)敷地内に、林芙美子文学碑がある。貯水池跡には、2001年(平成13年)に小森江子供のもり公園が開園した。矢筈山山頂には堡塁跡があり、1971年(昭和46年)に矢筈山キャンプ場が開場した[309]

周防灘側

周防灘に面した新門司地区は、1959年(昭和34年)、通商産業省の工業適地審議会が臨海工業用適地に指定したことから、港湾設備と臨海工業用地の造成が始まった。第1期事業地区(新門司南地区)は1976年(昭和51年)に竣工した。出光興産古河電気工業などの大規模工場や倉庫、名門大洋フェリーのターミナルなどがある。第2期事業地区(新門司北地区)は1978年(昭和53年)に着工し、阪九フェリーターミナル、マリンレジャーの拠点新門司マリーナオーシャン東九フェリーが開設したほか、トヨタ輸送新門司自動車物流センターや農林水産省動物検疫所などが立地している[310]

企救半島東部には、市の指定無形民俗文化財の大積神楽が上演される大積天疫神社、猿喰新田の開発の跡が見られる汐抜き穴、部埼灯台1996年(平成8年)に市が整備した白野江植物公園などもある[294][311]

周防灘海域では、干潟が広がり、ガザミコウイカスズキカレイなどのかご漁、刺し網、小型定置網のほか、カキの養殖が盛んである[312]。柄杓田漁港をはじめとする漁港が整備され、漁業の拠点となっている[313]

交通

鉄道

JA JR九州鹿児島本線
門司区西側の関門海峡沿いを走り、門司区内に3駅ある。複線電化区間である。門司港・久留米間の電化交流電化)が完成したのは1961年(昭和36年)である[315]
平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線北九州銀行レトロライン)
観光線として、門司港地区と和布刈地区を結んでいる(全線門司区内)。

西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽新幹線も区内を通るが、新関門トンネルのため駅はない。

廃止路線

路面電車
貨物線

バス

門司港地区・桟橋通り交差点付近を走る西鉄バス北九州の車両。

戦前は、金バス(九州電気軌道)、銀バス(門司自動車会社)、赤バスの3社が競い合っていたが、戦時統制下で九州電気軌道に統合され、その後身である西日本鉄道がこの地域のバスを運行するようになった[318]

西鉄バス
2002年(平成14年)の分社化後、西鉄バス北九州が運行している[319]。区内の多くの地域にバス路線網があり、門司駅・門司港駅を拠点に区中心部と区内各地を結ぶほか、区内と小倉駅周辺部、小倉北区、小倉南区、戸畑区を結ぶ役割も持つ。区内に門司恒見営業所を置く。
おでかけ交通
地元住民による運営委員会が運営。西鉄バス路線が廃止された区の東岸部(恒見・喜多久地区)で運行する[320]

高速道路

E3 九州自動車道
門司と鹿児島を結ぶ九州縦貫自動車道の建設は1966年(昭和41年)に始まり、1984年(昭和59年)に門司IC-小倉東ICが開通、1995年(平成7年)に全線開通した[321]。企救半島東側を縦貫する。
E2A 関門自動車道(関門橋
九州自動車道の門司ICと中国自動車道とを結ぶ。
北九州高速4号線(都市高速)
関門国道トンネルの開通を前に大渋滞が予想された国道3号のバイパスとして整備が開始されたのが北九州道路であり、1961年(昭和36年)までに日本道路公団一般有料道路として春日富野間が開通した[324]1991年(平成3年)に北九州道路と北九州直方道路が福岡北九州高速道路公社に譲渡されて北九州高速4号線となり、門司区の春日と八幡西区八幡ICを結ぶ[325]。企救半島の西側を走る。
  • 春日出入口 - 4号線の起点。門司港地区の最寄り。
  • 上り線のみ、九州自動車道門司ICへの分岐がある。
  • 大里出入口

主な国道

門司港地区の桟橋通り交差点。直進方向が国道3号の大里・小倉方面。右手は海側であり、国道198号を経て門司港駅前に至る。
国道3号
老松公園前交差点を起点とし、JR鹿児島本線の山側を走る。一等国道の第4号国道が1890年以後大里から門司まで延伸し、1920年の道路法で第2号国道となり、1952年の新道路法で国道3号となった[326]。本州から国道2号関門トンネルを通り、同交差点で国道3号に接続している。
国道199号
門司港湾合同庁舎前(門司港駅付近)を起点とし、JR鹿児島本線の海側を走る。国道3号が混雑する中、臨海部の新しい東西幹線として整備された路線であり、1970年(昭和45年)に門司・小倉間が開通した[327]
門司港湾合同庁舎前から桟橋通り交差点までの延長618mは国道198号となり、国道3号に接続する。
レトロ事業に際し、国道3号から門司港駅前を通って国道199号に流れる大型トラックなどの車の量を抑制するため、国道3号の清滝2丁目から国道199号の西海岸2丁目までを高架でバイパスする都市計画道路清滝西海岸線が整備された[328]

船舶

新門司フェリーターミナル
門司駅小倉駅とフェリーターミナルの間に無料送迎バスを運行している。
門司駅・小倉駅とフェリーターミナルの間に無料送迎バスを運行している。

経済

事業所

平成28年経済センサスによれば、門司区内の事業所数・従業者数は次のとおりである[329]。門司区内の産業団地としては、新門司のマリナクロス新門司(31.7ha)があり、トヨタ輸送、西日本ダイハツ運輸、日鉄物流八幡(日鐵運輸)、山九阪九フェリー安川ロジステックなどが事業所を立地しており、素材産業、リサイクル、自動車関連の運輸業が集積している[330]

区内に本社を置く主な企業
区内に事業所を置く主な企業

物流

北九州港の2017年年報によれば、北九州港のうち門司地区の係留隻数は34,234隻、総トン数は51,413,671トン、貨物輸移出は28,354,625トン(完成自動車、鋼材、再利用資材など)、貨物輸移入は30,122,450トン(完成自動車、自動車部品、とうもろこし、砂利・砂など)であり、新門司、次いで太刀浦のウェイトが大きい。門司地区(小倉を含む)の輸出額は9246億円、輸入額は8837億円に上り、双方とも増加傾向にある[331]。輸出入先は、近年では中国韓国台湾などのアジア州が多い[332]

また、新門司は、3社4航路が集まり、新門司ICと接続した利便性もあり、九州最大のフェリー基地となっている。トラック航送および旅客とも全体的に減少傾向ではあるが、2013年の報告によれば、長距離フェリー航路の九州地区における新門司発着航路の割合は、トラック航送で61%、旅客輸送で53%まで高まっている[333]

商業

門司区では、北九州市の他の区と同様、かつては、中心商業地区の商店街(栄町銀天街など)に多くの中小・零細商店が軒を連ね、百貨店(山城屋)がそれに隣接していたが、北九州市全体の素材型産業の地位低下、人口の減少、モータリゼーションの進展、大規模小売店舗法の改正による規制緩和などに伴い、商店街ではシャッターを閉めた店舗が多く見られるようになり、百貨店も閉店した。北九州市の購買力は福岡市に吸収されていると指摘されている[334]。平成26年商業統計調査によれば、門司区の卸売業の従業者は1198人、年間商品販売額は1382億円(市全体では1兆4998億円)。小売業の従業者は4099人、年間商品販売額は666億円(市全体では9130億円)である[335]

金融

門司には、明治・大正期には、日本銀行西部支店(後に門司支店)が置かれたほか、三井銀行や住友銀行など大銀行が進出し、西日本最大の金融市場を形成していた[336]。戦後は、1963年(昭和38年)に日本銀行門司事務所が小倉に移転して北九州支店となったほか、多くの都市銀行が北九州地域の店舗網を縮小し、それに代わり地方銀行相互銀行のプレゼンスが高まった[337]。現在、北九州地域の主要金融機関は、西日本シティ銀行2004年西日本銀行福岡シティ銀行と合併)、福岡銀行福岡ひびき信用金庫2003年に門司信用金庫などが合併)、北九州銀行山口フィナンシャルグループ)である[338]

観光

門司では、1947年(昭和22年)には観光協会が設立され、観光案内所が門司港駅に設置された。海水浴場(喜多久海岸)、風師山和布刈公園、門司ロープウェー、国民宿舎めかり山荘、めかり塩水プールなどに近隣からの観光客や修学旅行客を誘致していたが、多くが市民や近隣向けのレジャー施設であった[339]。1980年代に入ってようやく門司港で歴史的建造物の価値を見直そうという意識が浸透し始め、1985年に市民団体「門司まちづくり21世紀の会」が活動を始めた。そうした中で、1987年に初当選した末吉興一市長が、北九州の活性化には観光振興が必要であると主張したのを機に、北九州市ルネッサンス構想の一環として門司港レトロ事業が実施された[340]2003年(平成15年)には門司港レトロ地区の訪問客数が255万人にまで達したが、ハード面の開発が一段落してからは伸び悩みが見られる[341]。北九州市観光動態調査によれば、平成30年に門司港地区を訪問した観光客数は延べ218万4000人(うちレトロ地区189万3000人、和布刈地区29万1000人)であった[342]。なお、平成11年以降、門司区のマスコットキャラクターとして「じーも」がイベント等に参加している[343]

政治・行政・司法

行政機関・裁判管轄

門司区役所
政令指定都市は、地方自治法252条の20により、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例で、その区域を分けてを設け、区の事務所又はその出張所を置くものとされている。区には区長が置かれ、市職員が充てられる[344]。北九州市においては、「区の設置並びに区の事務所の位置、名称、所管区域及び事務分掌に関する条例」により、門司区を含む7区が置かれている[345]
五市合併当初、区役所の組織・権限は、旧市の組織・権限をほぼそのまま引き継ぐものであり、区長の権限も強かった。昭和49年の7区制への移行などを機に組織改革が進み、本庁への権限集約が進んだ[346]。現在、区の事務所(区役所)が分掌する事務は、(1)区が主体となって行うまちづくりに関する事項、(2)区におけるコミュニティの活動の支援に関する事項、(3)住民基本台帳及び戸籍に関する事項、(4)区における社会福祉社会保障及び保健衛生に関する事項、(5)区における道路その他土木に関する事項、(6)区における子ども及び家庭に係る行政サービスに関する事項、(7)その他区における行政サービスに関する事項とされている[345]。門司区役所の職員数は平成30年4月現在207人[347]
区役所出張所として、松ケ枝出張所と大里出張所が置かれている[348]
門司警察署
福岡県警察に属する。
門司消防署
北九州市消防局に属する。本署は大里東にあり、老松、松ヶ枝、門司西の分署がある[349]
第七管区海上保安本部門司税関などが入る門司港湾合同庁舎。
第七管区海上保安本部
門司区に本部を置き、福岡・佐賀・長崎・大分の各県、山口県西部を管轄する。出先の事務所組織として、門司海上保安部がある[350]
門司税関
九州全県と山口県を管轄する。アジア太平洋地域との玄関口として、関税の徴収、通関手続、輸出入禁止物品の水際取締り等の業務を行う[351]
裁判所
門司区は福岡地方裁判所小倉支部、福岡家庭裁判所小倉支部、小倉簡易裁判所の管轄区域内である[352]
検察庁
門司区は福岡地方検察庁小倉支部、小倉区検察庁の管轄区域内である。

選挙区

市議会議員選挙
公職選挙法により、政令指定都市の議会の議員の選挙においては区をもって選挙区とされ、人口に応じて選挙区ごとの定数を定めることとされている[353]。現在、北九州市議会の定数57人のうち門司区に6人が割り当てられている。平成30年3月現在の会派別議員数は、自由民主党2人、公明党1人、ハートフル北九州2人、日本共産党1人[354]
衆議院議員総選挙
小選挙区では、門司区は小倉北区、小倉南区とともに福岡県第10区を構成し、比例代表では九州ブロックに属する[355]
参議院議員通常選挙
選挙区は福岡県選挙区に属する。
福岡県議会議員選挙
門司区は1選挙区を構成し、定数87人のうち2人が割り当てられている。

生活

教育機関

高等学校

福岡県立
県立高校はかつて門司区だけで単一の通学区域(旧第2学区)であったが、若年人口減少により、2007年(平成19年)4月1日旧第3学区と統合された(2009年4月1日より旧第2・第3学区は第2学区に変更)。また、区内の県立高校の再編成が行なわれ、中高一貫型を採るケースも出た。
2004年(平成16年)、門司商業高等学校大里高等学校が統合再編され、全日制単位制高等学校として開校された[356]
2007年(平成19年)、門司高等学校門司北高等学校が統合された。現在は、併設型公立中高一貫教育校となっている[357]
私立

中学校

福岡県立
北九州市立
門司区内の市立中学校は7校である[359]
私立

小学校

北九州市立
門司区内の市立小学校は17校である[361]
私立

特別支援教育

2016年(平成28年)、それまでの門司特別支援学校小倉南特別支援学校の一部、企救特別支援学校の一部を再編する形で開校した[365][366]。知的障害教育部門(小学部、中学部、高等部)、病弱教育部門(小学部、中学部)を有する[367]

幼稚園

北九州市立
  • 松ヶ江幼稚園(閉園)
私立
門司区内に10園ある[368]

図書館

門司市立図書館は、1910年(明治43年)、閲覧室として開設された。戦災により蔵書を失ったが、戦後再出発し、1964年(昭和39年)、老松公園に新築開館した[369]。五市合併後、北九州市立門司図書館となっている。
  • 大里分館(大里こどもと母のとしょかん)
1973年(昭和48年)、北九州市初の「こどもと母のとしょかん」として開館し、2011年(平成23年)、大里柳市民センター2階に移転した[370]
  • 新門司分館
2007年(平成19年)開館。松ヶ枝郷土史会と連携して郷土史の収集に力を入れている[371]

医療機関

郵便局

郵便局は、関門海峡側に多く所在する。なお2017年2月20日付で区内の集配業務が門司郵便局に集約された。

新聞

明治25年に津田維寧が日刊紙『門司新報』を創刊し、福岡県内で有力紙となったが、全国紙との競合に敗れ、1938年(昭和13年)に廃刊となった。1919年(大正8年)に毎日新聞関門支局が門司市に発足し、その後、西部総局、西部支社、西部本社に昇格したが、昭和40年、小倉市に移転した。大阪朝日新聞門司支局は1894年(明治27年)に開設され、その後、九州支社に昇格したが、1937年(昭和12年)に小倉市に移転した(朝日新聞西部本社)。1942年(昭和17年)に新聞統制の結果、福岡県は朝日新聞、毎日新聞、西日本新聞の3紙となった[372]

現在、門司区内には、現在西日本新聞社が門司支局と関連拠点を置いているのみである。

放送

テレビの電波直接受信については、地理的に皿倉山八幡テレビ・FM放送所から出される電波が届かない地域が多いため、区内に数多くの中継局が設けられている。詳細は北九州市内の小規模テレビジョン中継局を参照。

ラジオについてはFMは八幡送信所からの放送を、AMについては響ラジオ放送所からの電波を、それぞれ受信する。但し、AMについては、周防灘側では送信所からの距離がやや離れていることもあり、高周波の2局が、季節や時間帯によっては他局からの混信障害を受ける。なお、NHK北九州放送局は、FMの中継局を区内の風師山に設けている。

文化

文化施設・青少年施設

  • 門司市民会館
1985年(昭和60年)、門司文化会館から現名称に改称した。大ホール800人を収容する[373]
  • 門司生涯学習センター
1981年(昭和56年)、門司文化センターとして開館した。1階に収容人数350人の多目的ホールが設けられ、音楽会、各種集会に利用されている。2003年(平成15年)に現名称に改称[374][375]
  • 門司港美術工芸研究所
2002年(平成14年)、廃校となった旧庄司小学校の校舎を活用して、芸術家・工芸家の創作活動の場所として門司港アート村が開村した。2011年(平成23年)から、研究・教育機能を高めた門司港美術工芸研究所として再出発した[376]2016年(平成28年)、門司港レトロ地区に移転した[377]
  • 出光美術館(門司)
2000年(平成12年)開館。出光佐三が収集した書跡、工芸品、陶磁器、絵画など、国宝2点、重要文化財56件を含む約1万件に及ぶコレクションを有し、年数回の展覧会を実施している[378]
  • 林芙美子記念室
1995年(平成7年)、北九州市旧門司三井倶楽部2階に林芙美子資料室として開設され、門司生まれとされる作家林芙美子の資料を展示している[379]2015年(平成27年)、林芙美子記念室としてリニューアルオープンした[380]
  • もじ少年自然の家
1981年(昭和56年)開所[381][382]

祭事・催事

門司区で行われる主なイベントには、次のようなものがある[383]

  • 北九州市消防出初式(毎年1月) - 西海岸。
  • 和布刈神事(毎年旧暦元日開催) - 和布刈神社。県指定民俗文化財。
  • 門司海峡フェスタ(毎年5月
ゴールデンウィーク中に門司港地区で行われるイベントで、甲冑武者行列、バナナの叩き売り、打ち上げ花火などが行われる。下関市ではしものせき海峡まつりが行われる[384]。2018年(平成30年)の入場者数は18万人[342]
  • 門司みなと祭り(毎年5月
門司港が国際港として知られるようになった1934年(昭和9年)、出光佐三と門司商工会議所が中心となり、第1回みなと祭りを開催した。日中戦争開戦後中止されていたが、1947年(昭和22年)、中野真吾門司市長が呼びかけて復活させた[222][385]。門司港地区を中心に、約2000人が参加する祝賀パレード、総踊り、自衛隊・海上保安庁による艦船公開などが行われる[386]。2018年(平成30年)の見物客数は35万人[342]
1987年(昭和62年)7月、北九州市政25周年を記念してポート門司花火大会が開かれ、1988年(昭和63年)8月、港鉄道100周年祭として北九州市・下関市共催で花火大会が行われたのを機に、毎年開かれるようになった[387]。2018年(平成30年)の見物客数は50万人[342]
  • 楠原踊(毎年10月) - 甲宗八幡神社。市指定無形民俗文化財。
  • 大積神楽(毎年11月) - 大積天疫神社。市指定無形民俗文化財。
  • 門司港レトロイルミネーション(11月-2月)
  • 門司港レトロカウントダウン(12月31日)

門司が舞台となった作品

北九州市が2000年(平成12年)に組織した北九州フィルム・コミッション[388]の誘致活動もあり、近年では多くの映画・ドラマ等が門司区内でロケを行っている。

映画
ドラマ
漫画

主な著名人

50音順。※は北九州市から特命大使を委嘱された人物。★は故人。

脚注

注釈

  1. ^ 一方、後に南朝宮方に付く門司親頼(伊川系)は、1336年(建武3年)の頃から、後醍醐天皇側に付いていたと見られる。当時、所領の相続等をめぐって惣領と庶子との間で一門が分裂することは珍しくなかった。門司 (1975: 128-29)
  2. ^ 門司 (1975: 137-38) は、門司親胤が細川清氏の感状や軍忠状を受け取っており、年号に観応を用いていることから、親胤が北朝探題方であるとする。米津監修 (1992: 75)八木田 (2010: 16) は、親胤が直冬から関門海峡合戦の軍功を賞されているとして、直冬方に付いたとする。
  3. ^ 1364年(北朝貞治3年・南朝正平19年)、将軍足利義詮は、宮方が立てこもる門司の柳城を攻めた小野弾正左衛門尉に感謝状を出している。門司区寺内町の山中に柳城跡碑が建てられているが、そうではなく、柳城は猿喰城の別称ではないかとの指摘がある。中村 (2016: 28)
  4. ^ 門司城の戦いの経過については、文献によって異同がある。門司 (1975: 244-45) によれば、門司城の争奪戦は1554年(天文23年)から始まっていた。
  5. ^ 吉永 (1994: 82) は、毛利が門司を大友に返還したとするが、同書 (99) は、毛利が門司を確保したとする。
  6. ^ 仁保のほか、内藤隆春冷泉元満らも城番を命じられたようである。八木田 (2010: 90-91)
  7. ^ この岩礁(与次兵衛瀬)は、小森江の沖合いにあったが、1911年(大正元年)から6年がかりで、海軍により撤去された。現在、和布刈公園に、再建された与次兵衛碑が存在する。佐々木 (2013: 194-96)
  8. ^ 安場が福岡県知事に就任したのは、旧福岡藩士を中心とする玄洋社の活動によるものであり、当初から筑豊炭田の開発、九州鉄道の敷設、門司港の築港といった計画が意図されていたとの指摘がある。堀 (2017: 18-20)
  9. ^ 幕末から明治初年にかけて開港された横浜長崎函館神戸大阪新潟東京に続き、1889年(明治22年)7月30日付けで、門司港は、四日市下関博多口之津唐津三角伏木小樽とともに特別輸出港に指定された。5品目に限り、日本船又は日本人雇入れの外国船により輸出することが認められた。北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 31)
  10. ^ 開業当時の初代門司駅(門司港駅)は、現在の北九州銀行門司支店の裏手に存在した。羽原 (2016: 175)
  11. ^ ただし、門司港内岸壁前面の水深は1.8 - 2.2メートルしかなく、300トンの小船を係留し得る程度であったため、沖荷役に依存していた。1919年(大正8年)から1931年(昭和6年)にかけての修築工事により、水深10メートルの係船岸壁が築造され、1万トン級汽船7隻が同時に係留できるようになった。北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 91)
  12. ^ 山陽鉄道が神戸・下関間で開通したことにより、神戸からは官設鉄道で東京まで行けるようになった。堀 (2017: 101)
  13. ^ 第一種重要港湾は、外国貿易に必要な施設、港湾改良、港湾施設用地の造成工事を内務省が施工し、事業費の一部を地方に負担させるものであり、横浜神戸・関門・敦賀の4港が選定された。北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会産業史部会 (1998: 67)
  14. ^ この碑と説明板は、老舗旅館・群芳閣の玄関脇に建っていたが、群芳閣の解体により取り外された。堀 (2017: 140, 144)
  15. ^ ただし、「ごんぞう」は若松で使われていた言葉で、門司では使われなかったという指摘もある。林[神﨑智子解説](2018: 161)
  16. ^ 門司港は、1918年(大正7年)、国営化され、1919年(大正8年)には内務省による修築第1期工事が始まっていた。羽原 (2016: 164)堀 (2017: 197)
  17. ^ 大里駅舎の移転は1941年(昭和16年)9月1日である。佐々木 (2013: 206)
  18. ^ 北九州市発足から政令指定都市移行までの間は、「門司区」は正確には町名・大字の一部(接頭句)の扱いであった。
  19. ^ 新幹線の接続駅は、門司駅、小倉駅、城野駅、三萩野の4か所が候補となったが、乗換え便の確保という国鉄の営業上の理由や、北九州市の意向を踏まえ、小倉駅に決定した。新修・北九州市史編纂会議編 (2017市政編: 453)
  20. ^ 国鉄民営化に際し、JR九州の本社を福岡市に置く運輸省の方針に北九州市が猛反発した結果、妥協策として、福岡市の本社と門司港の北九州本社の2本社体制がとられたが、北九州本社は中身が伴わないとの反発は残った。1996年(平成8年)にJR九州と北九州市の末吉興一市長が合意し、北九州本社は2001年(平成13年)に廃止された。毎日新聞西部本社報道部 (2013: 48)

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参考文献

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  • 林えいだい『《写真記録》関門港の女沖仲仕たち――近代北九州の一風景』新評論、2018年。ISBN 978-4-7948-1086-1 
  • 堀雅明『関門の近代――二つの港から見た一〇〇年』弦書房、2017年。ISBN 978-4-86329-147-8 
  • 毎日新聞西部本社報道部『北九州市 50年の物語』石風社、2013年。ISBN 978-4-88344-228-7 
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  • 門司宣里『中世北九州落日の譜――門司氏史話』冷牟田印刷、1975年。 
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外部リンク