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'''内大臣'''(ないだいじん)とは日本の官名の一つ。時代により職掌が異なる。
'''内大臣'''(ないだいじん)とは日本の官名の一つ。時代により職掌が異なる。
#[[律令制度]]の[[令外官]]の日本の[[大臣 (日本)|大臣]]の一つ。[[左大臣]]、[[右大臣]]に次ぐ。
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#明治時代における[[大日本帝国]]政府における役職の一つ。[[1885年]]制定。[[1945年]]廃止。
#明治時代における[[大日本帝国]]政府における役職の一つ。[[1885年]]制定。[[1945年]]廃止。[[内大臣府]]を参照


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*藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、同様の職掌を掌った官職に就いた者として記載する。
*藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、同様の職掌を掌った官職に就いた者として記載する。

==明治==
'''内大臣'''(ないだいじん)は、[[明治]]の[[大日本帝国]]においては宮中の役職で、[[内閣]]には加わらず、[[国務大臣]]には含まれず、'''[[内大臣府]]'''にあって[[天皇]]の側近として常時[[天皇]]を輔弼し、[[国璽]]・[[御璽]]の管理や[[詔書]]の事務を扱った。当初は、[[太政官]]制廃止直後の前[[太政大臣]][[三条実美]]の処遇のための役職の意味合いもあった。[[昭和]]に入ると[[元老]]に代わって、首相の奏薦に大きな役割を果たし、宮中だけでなく府中(政府内)にも力を持った。内大臣が欠けた緊急の場合、[[枢密院]]議長が臨時に内大臣に就任し天皇に侍立する。これは、[[二・二六事件]]の直後の、枢密院議長[[一木喜徳郎]]が内大臣に就任し即日辞職した例がある。

内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、[[憲法]]学者ですら明確に定義することが出来ない程、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した人物と天皇の信頼関係のみで成立するという、非常に特殊なポストだった。また、特殊なケースとして[[皇族]]の[[貞愛親王]]が内大臣を務めた例([[1912年]] - [[1915年]])がある。

[[降伏]]後の[[1945年]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)によって廃止された。

歴代の内大臣については、[[内大臣府]]を参照。

{{Wikisource|內大臣府官制|内大臣府官制}}


==脚注==
==脚注==

2008年10月22日 (水) 00:14時点における版

内大臣(ないだいじん)とは日本の官名の一つ。時代により職掌が異なる。

  1. 律令制度令外官の日本の大臣の一つ。左大臣右大臣に次ぐ。
  2. 明治時代における大日本帝国政府における役職の一つ。1885年制定。1945年廃止。内大臣府を参照。

律令制度

内大臣(ないだいじん、うちのおおまえつぎみ、うちのおとど)とは、律令制度下における令外官の日本の大臣の一つ。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。正・従二位に相当。

左大臣および右大臣の両人が何らかの事情のため出仕できない場合、代理に政務をつかさどる。令外官となっているが、もともとが成立する以前にも除目(じもく)された記録がある。645年より孝徳斉明天智の3代において内臣に任じられた中臣鎌足(藤原鎌足)が死の直前に内大臣に任じられたのが嚆矢とされている。

以後、特殊の事情によって内大臣が設置される例が複数回あった[1]が、常置の官としての内大臣は、平安中期の藤原道隆以後と考えられている[2]。以後、内大臣には主として摂関家の若手公卿に摂政・関白就任資格を付与するための任命、宿老もしくは功績多大な公卿[3]に対する礼遇のための任命、単に筆頭大納言に相当する公卿への待遇が「3番目の大臣(太政大臣を除く)」に改められた任命、武家政権の長あるいはそれに次ぐ地位の者に対して与えられる任命[4]の4つに分けられるようになる。

明治維新に際して廃止。安土桃山時代・豊臣政権下、五大老筆頭で最大の大名であった徳川家康も叙任された。以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている。

主な内大臣

名前 在職年 在職時の天皇 備考
藤原鎌足 645年 - 669年 天智 内臣、内大臣としては669年
藤原房前 721年 - 737年 元正聖武 内臣
藤原仲麻呂 757年 - 760年 孝謙淳仁 紫微内相、大保
道鏡 764年 - 765年 淳仁、称徳 大臣
藤原良継 771年 - 777年 光仁 内臣、内大臣としては777年
藤原魚名 778年 - 781年 光仁、桓武 内臣、忠臣、内大臣としては779年-781年
藤原高藤 900年 醍醐 勧修寺内大臣
藤原兼通 972年 - 974年 円融  
藤原道隆 989年 - 991年 一条  
藤原道兼 991年 - 994年 一条  
藤原伊周 994年 - 996年 一条 帥内大臣
藤原公季 997年 - 1017年 一条、三条後一条  
藤原頼通 1017年 - 1021年 後一条  
藤原教通 1021年 - 1047年 後一条、後朱雀後冷泉  
藤原頼宗 1047年 - 1060年 後冷泉、後三条  
藤原師実 1060年 - 1065年 後三条  
源師房 1065年 - 1069年 後三条、白河  
藤原信長 1069年 - 1080年 白河 九條太政大臣
藤原能長 1080年 - 1082年 白河 三條内大臣
藤原師通 1083年 - 1099年 白河、堀河 後二條殿
源雅実 1100年 - 1115年 堀河、鳥羽  
藤原忠通 1115年 - 1122年 鳥羽  
源有仁 1122年 - 1131年 鳥羽、崇徳  
藤原宗忠 1131年 - 1136年 崇徳  
藤原頼長 1136年 - 1149年 崇徳、近衛  
源雅定 1149年 - 1150年 近衛  
徳大寺実能 1150年 - 1156年 近衛、後白河  
藤原伊通 1156年 - 1157年 後白河  
三条公教 1157年 - 1160年 後白河、二条 高倉内大臣
藤原基房 1160年 - 1161年 二条  
中御門宗能 1161年 - 1165年 二条  
九条兼実 1165年 - 1166年 二条、六条  
平清盛 1166年 - 1167年 六条  
花山院忠雅 1167年 - 1168年 六条  
源雅通 1168年 - 1175年 六条、高倉  
藤原師長 1175年 - 1177年 高倉 妙音院殿
平重盛 1177年 - 1179年 高倉 小松内大臣
近衛基通 1179年 - 1182年 高倉、安徳  
平宗盛 1182年 - 1183年 安徳 屋島内大臣
徳大寺実定 1183年 安徳  
松殿師家 1183年 - 1184年 安徳  
徳大寺実定 1184年 - 1186年 安徳、後鳥羽  
九条良通 1186年 - 1188年 後鳥羽  
花山院兼雅 1189年 - 1190年 後鳥羽  
藤原兼房 1190年 - 1191年 後鳥羽  
中山忠親 1191年 - 1194年 後鳥羽 中山内大臣
九条良経 1195年 - 1199年 後鳥羽、土御門  
源通親 1199年 - 1201年 土御門 土御門内大臣
藤原隆忠 1201年 - 1204年 土御門  
西園寺実宗 1205年 - 1206年 土御門 大宮入道内大臣
花山院忠経 1206年 - 1207年 土御門  
近衛道経 1207年 - 1208年 土御門  
九条良輔 1208年 - 1209年 土御門  
徳大寺公継 1209年 - 1211年 土御門、順徳  
坊門信清 1211年 - 1212年 順徳  
九条道家 1212年 - 1215年 順徳  
三条公房 1215年 - 1218年 順徳  
源実朝 1218年 順徳 鎌倉右大臣
近衛家通 1218年 - 1219年 順徳  
久我通光 1219年 - 1221年 順徳、仲恭 後久我太政大臣
西園寺公経 1221年 - 1222年 後堀河  
大炊御門師経 1222年 - 1224年 後堀河  
九条良平 1224年 - 1227年 後堀河  
近衛兼経 1227年 - 1231年 後堀河  
西園寺実氏 1231年 - 1235年 後堀河、四条  
二条良実 1235年 - 1236年 四条  
土御門定通 1236年 - 1237年 四条  
九条基家 1237年 - 1238年 四条 後九条内大臣
大炊御門家嗣 1238年 - 1240年 四条  
衣笠家良 1240年 - 1241年 四条  
鷹司兼平 1241年 - 1244年 四条、後嵯峨  
九条忠家 1244年 - 1246年 後嵯峨、後深草  
徳大寺実基 1246年 - 1250年 後深草  
堀川具貫 1250年 後深草  
二条道良 1250年 - 1252年 後深草  
花山院定雅 1252年 後深草  
西園寺公相 1252年 - 1254年 後深草  
西園寺公基 1254年 - 1257年 後深草  
山階実雄 1257年 - 1258年 後深草  
近衛基平 1258年 - 1261年 後深草、亀山  
三条公親 1261年 - 1262年 亀山  
鷹司基忠 1262年 - 1265年 亀山  
大炊御門冬忠 1265年 - 1267年 亀山  
一条家経 1267年 - 1268年 亀山  
花山院通雅 1268年 - 1269年 亀山  
中院通成 1269年 亀山  
二条師忠 1269年 - 1271年 亀山  
花山院師継 1271年 - 1275年 亀山、後宇多 花山院内大臣
近衛家基 1275年 - 1288年 後宇多、伏見  
久我通基 1288年 伏見  
鷹司兼忠 1288年 - 1289年 伏見  
西園寺実兼 1289年 - 1291年 伏見 後西園寺入道相国
大炊御門信嗣 1291年 伏見  
洞院公守 1291年 - 1292年 伏見  
二条兼基 1292年 伏見  
三条実重 1292年 - 1293年 伏見  
九条師教 1293年 - 1296年 伏見  
土御門定実 1296年 - 1297年 伏見  
久我通雄 1297年 - 1298年 伏見  
西園寺公衡 1298年 - 1299年 伏見、後伏見  
鷹司冬平 1299年 - 1302年 後伏見、後二条  
二条内実 1302年 - 1304年 後二条  
近衛家平 1305年 後二条  
一条実家 1305年 - 1306年 後二条  
二条道平 1306年 - 1309年 後二条、花園  
近衛経平 1309年 - 1313年 花園  
堀川具守 1313年 - 1314年 花園  
洞院実泰 1315年 - 1316年 花園  
西園寺公顕 1316年 - 1317年 花園  
三条公茂 1317年 - 1318年 花園、後醍醐  
一条内経 1318年 - 1319年 後醍醐  
六条有房 1319年 後醍醐  
中院通重 1319年 後醍醐  
花山院師信 1319年 - 1321年 後醍醐  
大炊御門冬氏 1322年 後醍醐  
鷹司冬教 1322年 - 1324年 後醍醐  
西園寺実衡 1324年 - 1326年 後醍醐  
近衛基嗣 1326年 - 1330年 後醍醐  
久我長通 1330年 後醍醐  
洞院公賢 1330年 - 1331年 後醍醐  
大宮季衡 1331年 - 1332年 後醍醐  
中院通顕 1332年 - 1333年 後醍醐  
洞院公賢 1333年 - 1334年 後醍醐  
吉田定房 1334年 - 1335年 後醍醐  
一条経通 1335年 - 1337年 後醍醐  
鷹司師平 1337年 - 1339年 後醍醐、後村上  
堀川具親 1339年 - 1340年 後村上  
二条良基 1340年 - 1343年 後村上  
三条実忠 1343年 - 1345年 後村上  
大炊御門冬信 1345年 - 1346年 後村上  
徳大寺公清 1346年 - 1347年 後村上  
近衛道嗣 1347年 - 1349年 後村上  
四辻公重 1349年 - 1351年 後村上  
花山院実定 1351年 後村上  
三条公秀 1352年 - 1353年 後村上  
久我通相 1356年 - 1360年 後村上  
三条公忠 1360年 - 1362年 後村上  
洞院実夏 1363年 - 1364年 後村上  
西園寺実俊 1364年 - 1366年 後村上  
二条師良 1366年 - 1367年 後村上  
三条実継 1367年 - 1370年 後村上、長慶  
勧修寺経顕 1370年 - 1371年 長慶  
近衛兼嗣 1375年 - 1378年 長慶  
今出川公直 1378年 - 1381年 長慶  
足利義満 1381年 - 1382年 長慶  
徳大寺実時 1382年 - 1388年 長慶、後亀山  
一条経嗣 1388年 - 1394年 後亀山、後小松  
四辻善成 1394年 後小松  
花山院通定 1394年 - 1395年 後小松  
洞院公定 1395年 後小松  
正親町三条公豊 1395年 後小松  
三条実冬 1395年 - 1396年 後小松  
万里小路嗣房 1396年 後小松  
九条教嗣 1396年 - 1399年 後小松  
近衛忠嗣 1399年 - 1402年 後小松  
今出川公行 1402年 - 1403年 後小松  
二条満基 1403年 - 1409年 後小松  
足利義持 1409年 - 1419年 後小松、称光  
西園寺実永 1419年 - 1420年 称光  
大炊御門宗氏 1420年 - 1421年 称光  
一条兼良 1421年 - 1424年 称光  
洞院満季 1424年 - 1426年 称光  
近衛房嗣 1426年 - 1429年 称光、後花園  
久我清通 1429年 - 1432年 後花園  
足利義教 1432年 後花園  
大炊御門信宗 1432年 - 1433年 後花園  
鷹司房平 1435年 - 1438年 後花園  
西園寺公名 1438年 - 1441年 後花園  
花山院持忠 1441年 - 1443年 後花園  
万里小路時房 1445年 - 1446年 後花園  
洞院実煕 1446年 - 1450年 後花園  
三条西公保 1450年 後花園  
三条実量 1450年 - 1452年 後花園  
一条教房 1452年 - 1455年 後花園  
近衛教基 1455年 - 1457年 後花園  
正親町三条実雅 1457年 - 1458年 後花園  
足利義政 1458年 - 1460年 後花園  
徳大寺公有 1460年 - 1461年 後花園  
久我通尚 1461年 - 1464年 後花園  
九条政忠 1464年 - 1465年 後花園、後土御門  
今出川教季 1465年 - 1466年 後土御門  
西園寺実遠 1466年 - 1467年 後土御門  
日野勝光 1467年 - 1468年 後土御門  
鷹司政平 1468年 - 1475年 後土御門  
近衛政家 1475年 - 1476年 後土御門  
三条公敦 1476年 - 1479年 後土御門  
大炊御門信量 1479年 - 1481年 後土御門  
徳大寺実淳 1481年 - 1485年 後土御門  
中院通秀 1485年 後土御門 十輪院内府
花山院政長 1485年 - 1486年 後土御門  
一条冬良 1486年 - 1488年 後土御門  
足利義尚 1488年 - 1489年 後土御門  
今出川公興 1489年 - 1491年 後土御門  
二条尚基 1491年 - 1497年 後土御門  
久我豊通 1497年 - 1499年 後土御門  
九条尚経 1499年 - 1501年 後土御門、後柏原  
西園寺公藤 1501年 - 1506年 後柏原  
三条西実隆 1506年 後柏原  
鷹司兼輔 1506年 - 1507年 後柏原  
三条実香 1507年 - 1515年 後柏原  
嵯峨実望 1515年 後柏原  
二条尹房 1515年 - 1518年 後柏原  
大炊御門経名 1518年 - 1521年 後柏原  
徳大寺公胤 1521年 - 1523年 後柏原  
久我通言 1523年 - 1528年 後柏原、後奈良  
九条稙通 1528年 - 1534年 後奈良  
西園寺実宣 1535年 - 1537年 後奈良  
一条房通 1539年 - 1541年 後奈良  
三条西公条 1541年 後奈良  
三条公頼 1541年 - 1543年 後奈良  
今出川公彦 1543年 - 1545年 後奈良  
二条晴良 1545年 - 1546年 後奈良  
万里小路秀房 1546年 後奈良  
一条兼冬 1546年 - 1547年 後奈良  
近衛晴嗣 1547年 - 1553年 後奈良  
西園寺公朝 1553年 - 1554年 後奈良  
正親町三条公兄 1554年 後奈良  
花山院家輔 1557年 後奈良  
広橋兼秀 1557年 後奈良  
勧修寺尹豊 1572年 正親町  
万里小路惟房 1573年 正親町  
一条内基 1575年 - 1576年 正親町  
織田信長 1576年 - 1577年 正親町  
二条昭実 1577年 - 1579年 正親町  
三条西実枝 1579年 正親町  
今出川晴季 1579年 - 1580年 正親町  
徳大寺公維 1580年 正親町  
今出川晴季 1580年 正親町  
近衛信尹 1580年 - 1585年 正親町  
豊臣秀吉 1585年 - 1586年 正親町、後陽成  
織田信雄 1587年 - 1590年 後陽成  
豊臣秀次 1591年 - 1592年 後陽成  
徳川家康 1596年 - 1603年 後陽成  
豊臣秀頼 1603年 - 1605年 後陽成  
徳川秀忠 1605年 - 1606年 後陽成  
鷹司信房 1606年 後陽成  
鷹司信尚 1611年 - 1612年 後陽成、後水尾  
近衛信尋 1612年 - 1614年 後水尾  
西園寺実益 1614年 - 1618年 後水尾  
広橋兼勝 1618年 - 1619年 後水尾  
花山院定煕 1619年 後水尾  
一条昭良 1619年 - 1621年 後水尾  
二条康道 1621年 - 1629年 後水尾  
徳川家光 1623年 - 1626年 後水尾  
三条西実条 1629年 - 1631年 後水尾、明正  
西園寺公益 1631年 - 1632年 明正  
鷹司教平 1632年 明正  
九条道房 1632年 - 1640年 明正  
近衛尚嗣 1640年 - 1642年 明正  
二条光平 1642年 - 1647年 明正、後光明  
中院通村 1647年 後光明  
三条実秀 1648年 後光明  
花山院定好 1649年 後光明  
西園寺実晴 1649年 - 1650年 後光明  
一条教良 1650年 - 1655年 後光明、後西
徳川家綱 1651年 - 1653年 後光明  
徳大寺公信 1655年 - 1656年 後西  
大炊御門経孝 1656年 後西  
三条公富 1656年 - 1658年 後西  
鷹司房輔 1658年 - 1661年 後西  
清閑寺共房 1661年 後西  
中御門広通 1661年 - 1663年 後西、霊元  
九条兼晴 1664年 - 1665年 霊元  
近衛基煕 1665年 - 1671年 霊元  
徳大寺実維 1671年 - 1672年 霊元  
一条冬経 1672年 - 1677年 霊元  
大炊御門経光 1677年 - 1681年 霊元  
徳川綱吉 1680年 - 1705年 霊元、東山  
鷹司兼煕 1681年 - 1683年 霊元  
今出川公規 1683年 - 1684年 霊元  
花山院定誠 1684年 - 1686年 霊元  
近衛家煕 1686年 - 1688年 霊元、東山  
中御門宗条 1688年 東山  
近衛家煕 1688年 - 1693年 東山  
三条実治 1693年 東山  
九条輔実 1693年 - 1704年 東山  
中院通茂 1704年 東山  
二条綱平 1704年 - 1708年 東山  
今出川伊季 1708年 - 1709年 東山  
久我通誠 1709年 - 1711年 東山、中御門  
徳川家宣 1709年 - 1712年 東山、中御門  
近衛家久 1711年 - 1715年 中御門  
徳川家継 1713年 - 1716年 中御門  
二条吉忠 1715年 - 1719年 中御門  
徳川吉宗 1716年 - 1742年 中御門、桜町  
徳大寺公全 1719年 中御門  
二条吉忠 1719年 - 1722年 中御門  
一条兼香 1722年 - 1723年 中御門  
櫛笥隆賀 1723年 中御門  
広幡豊忠 1723年 中御門  
一条兼香 1723年 - 1726年 中御門  
中御門宗顕 1726年 中御門  
中院通躬 1726年 中御門  
九条幸教 1726年 - 1728年 中御門  
西園寺致季 1728年 中御門  
醍醐冬煕 1728年 中御門  
鷹司房煕 1728年 - 1730年 中御門  
久我惟通 1730年 - 1736年 中御門、桜町  
花山院常雅 1736年 - 1737年 桜町  
二条宗熙 1737年 - 1738年 桜町  
一条道香 1738年 桜町  
花山院常雅 1738年 - 1739年 桜町  
九条稙基 1739年 - 1743年 桜町  
鷹司基輝 1743年 桜町  
近衛内前 1743年 - 1745年 桜町  
二条宗基 1745年 - 1748年 桜町、桃園  
徳川家重 1745年 - 1760年 桜町、桃園
烏丸光栄 1748年 桃園  
二条宗基 1748年 - 1749年 桃園  
大炊御門経秀 1749年 桃園  
三条実顕 1749年 - 1750年 桃園  
久我通兄 1750年 桃園  
九条尚実 1750年 - 1755年 桃園  
醍醐兼潔 1755年 桃園  
西園寺公晃 1755年 - 1756年 桃園  
鷹司輔平 1756年 - 1759年 桃園  
九条道前 1759年 - 1770年 桃園、後桜町  
徳川家治 1760年 - 1780年 桃園、後桜町、後桃園光格
三条季晴 1770年 - 1771年 後桜町、後桃園  
一条輝良 1771年 - 1775年 後桃園  
広幡前豊 1775年 後桃園  
西園寺賞季 1775年 後桃園  
一条輝良 1775年 - 1779年 後桃園  
大炊御門家孝 1787年 - 1789年 光格  
徳川家斉 1787年 - 1816年 光格  
鷹司政煕 1789年 - 1791年 光格  
久我信通 1791年 - 1792年 光格  
大炊御門家孝 1792年 光格  
西園寺賞季 1792年 光格  
一条忠良 1792年 - 1796年 光格  
三条実起 1796年 - 1797年 光格  
二条斉通 1797年 - 1798年 光格  
徳大寺実祖 1798年 光格  
今出川実種 1798年 - 1799年 光格  
近衛基前 1799年 - 1814年 光格  
花山院愛徳 1814年 - 1815年 光格  
二条斉信 1815年 - 1820年 光格、仁孝  
三条公修 1820年 - 1821年 仁孝  
九条尚忠 1821年 - 1824年 仁孝  
徳川家慶 1822年 - 1837年 仁孝  
大炊御門経久 1824年 仁孝  
久我通明 1824年 仁孝  
広幡経豊 1824年 仁孝  
近衛忠煕 1824年 - 1847年 仁孝、孝明  
花山院家厚 1847年 孝明  
醍醐輝弘 1847年 - 1848年 孝明  
徳大寺実堅 1848年 孝明  
鷹司輔煕 1848年 - 1857年 孝明  
徳川家定 1853年 - 1858年 孝明  
三条実万 1857年 - 1858年 孝明  
一条忠香 1858年 - 1859年 孝明  
徳川家茂 1858年 - 1864年 孝明  
二条斉敬 1859年 - 1862年 孝明  
久我建通 1862年 孝明  
徳大寺公純 1862年 - 1863年 孝明  
近衛忠房 1863年 - 1867年 孝明、明治  
大炊御門家信 1867年 明治  
広幡忠礼 1867年 明治  
徳川慶喜 1867年 - 1868年 明治  
  • 藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、同様の職掌を掌った官職に就いた者として記載する。

脚注

  1. ^ 藤原良継・魚名の例は位階序列が上位の先任の大臣(右大臣大中臣清麻呂)と実際の太政官首班との地位のバランスを取るための措置、藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言への礼遇措置、藤原兼通は序列下位の公卿(当時兼通は権中納言)が次期関白に内定したために大臣に就任して関白就任資格を整えるための措置であり、いずれも律令制が想定する規定から外れた大臣任官を実現させるための臨時の措置であり、事態が解消すれば廃止される性質のものであった(実際に、魚名は左大臣、兼通は太政大臣就任に伴い、良継・高藤は病死によって廃止されている)。
  2. ^ 当時の摂政藤原兼家は、自分の没後に自分の子弟が摂政関白を継承できなくなることを憂慮して、万が一に備えて長男道隆を大臣に任じようとしたが、太政大臣藤原頼忠・左大臣源雅信・右大臣藤原為光がいずれも健在であった。そのため、道隆を内大臣に据えようとしたのである。これに対して円融法皇一条天皇実父)は、律令に定められた大臣定員3名を無視するものとして強く反対したため、兼家が法皇に奏上を行って漸く許可されている(『小右記永祚元年2月5日条)。道隆は関白就任後に内大臣を辞任したが、そのまま弟の道兼、次いで道隆嫡男の伊周が内大臣に任命され、これを先例としてそれ以後も断続的に後任の内大臣が任命された。
  3. ^ この場合の「功績」には天皇や院の外戚や側近の権臣も含まれる。
  4. ^ 内大臣廃止後に左大臣となった島津久光を例外とすれば、武家の大臣任官者は全て最初は内大臣に任じられている。

参考文献

  • 倉本一宏「内大臣沿革考」(『摂関政治と王朝貴族』(吉川弘文館、2000年)ISBN 978-4-642-02349-8

関連項目