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三条西公条

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三条西公条
三条西公条像
後奈良天皇賛、二尊院蔵)
時代 戦国時代
生誕 文明19年5月21日1487年6月12日
死没 永禄6年12月2日1563年12月17日
改名 公保(初名)→公条→仍覚(法名)
別名 号:称名院
戒名 称名院因空
墓所 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町の二尊院
官位 正二位右大臣
主君 後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇
氏族 三条西家
父母 父:三条西実隆、母:勧修寺教秀の三女
兄弟 公順、公条、桂陽、保子、正親町実胤室、勝興寺左計
正室:甘露寺元長の娘
実枝水無瀬兼成中院通為
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三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)は、戦国時代公卿歌人和学者内大臣三条西実隆の次男。官位正二位右大臣称名院と号する。

経歴

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兄・公順が出家したために[1]次男ながら家督を継ぎ、2歳で叙爵して侍従に任じられる。明応6年(1497年)12月に元服・加冠した後、永正2年(1505年)5月蔵人頭、永正4年(1507年)4月参議、永正8年(1511年)10月権中納言を歴任し、大宰権帥神宮伝奏を経て、永正18年(1521年)4月権大納言に昇進した。

大永6年(1526年)1月正二位に叙され、天文10年(1541年)1月内大臣、さらに天文11年(1542年)閏3月右大臣に任じられるが、天文12年(1543年)7月57歳で致仕、天文13年(1544年)2月京都二尊院で出家、法名を仍覚という。永禄6年(1563年12月2日に薨去。享年77。二尊院に葬られた。

父・実隆から『源氏物語』の奥義を継承し、『明星抄』などの注釈を表した他、享禄元年(1528年)から翌年にかけて後奈良天皇に『古今和歌集』を進講するなど、当代一流の文化人として重用された。著書には、古典の注釈書『伊勢物語抄』『百人一首抄』、紀行文に『高野山参詣記』『吉野詣記』『三塔巡礼記』など、他撰の家集としては『称名院』がある。

稲葉良通に専門的な薬方の相伝を行なっている(『稲葉一鉄良通薬処方口伝書』)[2]

系譜

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孫に三条西公国、外孫に中院通勝、玄孫に春日局が、甥に九条稙通がいる。

脚注

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  1. ^ 公順は公条よりも3歳年長であったが、父・実隆が兄の早世によって次男でありながら家督を継いだことから、これを嘉例として公順を廃して(『実隆公記』長享2年3月5日条)、後に東大寺に入れて出家させ、次男である公条を跡継ぎにしたという(菅原正子「三条西公条と学問」『日本中世の学問と教養』同成社、2014年 ISBN 978-4-88621-673-1)。
  2. ^ 宮本義己「稲葉一鉄の医道知識と薬方相伝」、『国学院大学大学院紀要』5輯、1973年