水無瀬兼成
表示
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 永正11年(1514年) |
死没 | 慶長7年9月18日(1602年11月1日) |
改名 | 親氏(初名)→兼成→慈興(法名) |
別名 | 一字名・水 |
官位 | 正二位・権中納言 |
主君 | 後柏原天皇 →後奈良天皇 →正親町天皇 →後陽成天皇 |
氏族 | 水無瀬家 |
父母 |
父:三条西公条、母:甘露寺元長の娘 養父:水無瀬英兼 |
兄弟 | 三条西実枝、兼成、女(中院通為室) |
妻 | 阿州足利 |
子 |
氏成、女(大通寺従高室) 養子:親具 |
水無瀬 兼成(みなせ かねなり)は、戦国時代から江戸時代の公卿。正二位・権中納言[1]。
生涯
[編集]永正11年(1514年)、三条西公条の次男として誕生。兄に実枝がいたため、水無瀬英兼の養子となる。
永禄11年(1568年)、将軍・足利義栄が阿波へ退くと、義栄派の公家は朝廷を追われ、兼成も阿波へ下向を余儀なくされた[2]。
元亀2年(1571年)10月、嫡子の氏成が誕生する。だが、高倉永家の四男・親具をすでに養子としていたため、兼成の跡目をめぐって争いが起きた。結局、親具は水無瀬家を去り、別家となる堀河家を立ち上げた。
慶長7年(1602年)9月18日、死去。享年89。
人物
[編集]兼成は能筆家として知られ、将棋の駒に銘を印した。「水無瀬駒」と称されたその駒は、正親町天皇や後陽成天皇、足利義昭、豊臣秀次、 徳川家康など、公武の面々に譲渡された。兼成がその生涯で制作した将棋駒は、700組以上だとされる[3]。
脚注
[編集]- ^ a b 『公卿補任』
- ^ 榎原 & 清水 2017, p. 389.
- ^ 『水無瀬駒』(水無瀬神宮公式サイト)