醍醐経胤
表示
(醍醐兼潔から転送)
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保2年7月15日(1717年8月21日) |
死没 | 安永10年1月21日(1781年2月13日) |
改名 | 兼潔(初名)→醍醐経胤 |
諡号 | 妙観寺 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇 |
氏族 | 醍醐家 |
父母 | 父:醍醐冬熙、母:お家(宗義真の娘) |
兄弟 | 経胤、大炊御門経秀室、広幡長忠室 |
妻 | お升(宗義誠の娘) |
子 | 冬香、輝久、兼純 |
醍醐 経胤(だいご つねたね)は、江戸時代中期の公卿。従一位右大臣。初名は兼潔(かねきよ)。号は妙観寺。
概要
[編集]中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五帝にもわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。父は左大臣・醍醐冬熙。母は対馬府中藩主・宗義真の娘・お家。
経歴
[編集]享保7年(1722年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛中将を経て、享保14年(1729年)には従三位となり公卿に列する。権中納言・踏歌節会外弁を経て、元文3年(1738年)に権大納言に補される。宝暦4年(1754年)に右近衛大将・右馬寮御監に任じられるも翌年に一度任職を辞す。宝暦10年(1760年)には従一位を授与された。安永7年(1778年)には内大臣を経ずして右大臣に任じられるも、翌年に辞す。またこの年より経胤と改名する。
宝暦元年(1751年)、本家の一条家から養子の兼純を迎えて跡目としていたが、同年に実子の冬香が生誕。跡を継いだ兼純もやがては早世し、冬香がその跡を継いでいる。
家族・親族
[編集]系譜
[編集]醍醐家
[編集]醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
→詳細は「醍醐家」を参照
皇室との関係
[編集]後陽成天皇の男系四世子孫(玄孫)である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。