広幡長忠
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永8年4月4日(1711年5月21日) |
死没 | 明和8年9月27日(1771年11月3日) |
改名 | 長忠→承恵(法名) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇 |
氏族 | 広幡家 |
父母 | 父:広幡豊忠、母:家女房 |
兄弟 | 忠誠、忠章、忠成、長忠、小倉宣季室、正親町実連室 |
妻 | 醍醐冬熙の娘、仲小路氏 |
子 | 前豊、信通、西園寺賞季室、観心院(伊達重村室) |
広幡 長忠(ひろはた なかただ)は、江戸時代中期の公卿。官位は正二位権大納言まで進んでいる。父は第2代当主の広幡豊忠(内大臣)。妻は醍醐冬熙(左大臣)の娘。子に広幡輔忠(前豊)(内大臣)、久我信通(久我家養子・内大臣)、娘に西園寺賞季室、伊達重村室観心院がいる。
経歴
[編集]父・豊忠の跡を継いだ三人の兄が相次いで没したため、広幡家の当主となり、1720年(享保5年)に叙爵。以降累進して1728年(享保13年)に従三位に達して公卿に列する。1729年(享保14年)に踏歌節会外弁となり、1730年(享保15年)に権中納言。1731年(享保16年)から1735年(享保20年)の間には皇太子昭仁親王(桜町天皇)の春宮大夫となる。同年正三位。1735年(享保20年)に権大納言となった。1744年(延享元年)に正二位を授与された。しかし1756年(宝暦6年)に出家し、四十六歳にして朝廷を去った。法名は承恵。1771年(明和8年)に入寂。享年61。
系譜
[編集]関連項目
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