撒餌経
撒餌経[1](さつじきょう、巴: Nivāpa-sutta, ニヴァーパ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第25経。猟師経(りょうしきょう)[2]、『餌食経』(えじききょう)[3]とも。
類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第178経「猟師経」がある。
釈迦が、比丘たちに向かって、悪魔と比丘の関係を、猟師と鹿の関係に喩えつつ、解脱への道を説く。
構成
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内容
[編集]猟師と鹿のたとえについて
[編集]この経は、沙門・バラモンの四種類のあり方について、彼らを鹿の群れにたとえて説かれたものである。沙門・バラモンというのは、初期の仏教において一般的な修行僧のことを指しており、ゴータマ・ブッダの教えを修するために集ってきたさまざまな宗教の修行者やバラモン教の修行者を念頭に置いた説話となっている。この経でゴータマは、人間を鹿にたとえている。鹿は森林に住んでいて餌に乏しくなると、餌を求めてあちこちと動き回ることとなる。そうした鹿を狙って、猟師は、餌をまいた餌場をつくり、そこにわなを仕掛けている、という設定になっている。猟師とは、マーラであり、餌というのは、祭祀などによって、地位や名誉などによる世間的な利益を得て、煩悩を増大させるものである。それは、五つの欲望の対象であるとされている。猟師の目的とするところは、鹿をとらえて食い物にし、自分の生命を維持することであるといえる。したがって、マーラの目的とするのは、修行者を支配することによって、自分の支配欲等を満たすことであるといえる[4]。 そのように、この世にて、自らの修行を全うしようとする者には、マーラの支配のわなが付きまとっているということが説かれている[5]。 ゴータマは、出家する以前に初禅の境地に到達していたとされている。この時期は、ゴータマにとっては、菩薩としての修行中であったと考えられていたようだ。人間の中に常に湧き上がってくる思念について、ゴータマは、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている[6]。 それによると、初禅の境地に到達するには、止観と正見の鍛錬が必要であったとされている。出家する以前に体得した第一禅の境地と、悟る前に体現した第一禅の境地は同じ境地であると考えられるので、悟る前に体現した第一禅の境地には、マラーのわなについての考察も含まれていたようだ。 マラーのわなに関したこととして、双考経では、初禅において止観されたのは、内側から悪い道に行こうとする心の傾向であるといえる。その悪い道は、外側にも存在し、それは、邪悪な見方、邪悪な思い、邪悪な言葉、邪悪な業務、邪悪な生活、邪悪な励み、邪悪な思念、邪悪な精神統一(定)であるとされている[7]。悟る直前に為された第一禅には述べられていないが、いわばその前提として、第一禅の境地の体得には、マラーのわなについての考察が不可欠であったと言うことができる[8]。
ゴータマは、修行を全うしようとする者には、マーラやマーラの仲間たちが行かないところに住み、マーラの眼を根絶し、悪魔が見ないところに心の境地をもって行く必要があるとしている[9]。
解脱の段階(九段階)について
[編集]この経では、第一禅から第四禅にいたり、そののち、まだいくつかの解脱の実現があり、九段階目で想受滅の境地にいたるとされている。他の経文において悟りについて述べた部分では、おおよそ、第四段階の禅定ののちに第三の明知に目覚め、悟りに至るとされている。しかし、この経では、第三の明知についてまでは言及されておらず、第四段階の禅定ののちに、さらに四つの解脱の段階を経たのちに想受滅に至る、というところで終わっている。この経の無所有処や非想非非想の思想については、他の、最古層に属する経典の一部にも、それぞれ、仏説として述べられている思想であるとされる[10]。
この経の説く各段階においてゴータマは、いずれの段階も、マーラを盲目にし、マーラの眼を根絶し、悪魔が見えないところに行った修行僧の住するところであるとしている[11]。
- 第一段階から第四段階 解脱の第一段階から第四段階までは、悟りにおける第一禅から第四禅までの部分が、あてはまっている。
- 第五段階 空無辺処の境地 あまねく外界の想念を超え、内界の想念をなくし、さまざまな想念を思うことがないゆえに、空間は無限であるという境地を実現して住む。外界から内界に向かってゆく想念と、内界から外界に向かってゆく想念とがあり、その想念の動きを超えたり、止めたりするところに、空間(物質的な宇宙)の無限を体感し、そこに住する境地に至ることができるとされている[12]。
- 第六段階 識無辺処の境地 あまねく空無辺処を超えて、意識は無限である識無辺処の境地を実現して住む。物質的な宇宙の無限を体感する境地を越えて、意識の無限(過去現在未来にわたるすべての衆生の総和としての無限と思われる)を体感できる境地に到達するとされている[13]。
- 第七段階 無所有処の境地 あまねく識無辺処を超えて、無所有処を実現して住む[14]。
- 第八段階 非想非非想の境地 あまねく無所有処を超えて、非想非非想処の境地を実現して住む[15]。
- 最後の段階 最後に想受滅という境地に至るとされているが、これは無余の涅槃に近い境地のようである。 想受滅の境地というのは、執着を渡り超えた境地であるとされる。修行者は、あまねく非想非非想処を超えて、想受滅の境地を実現して住む。智慧によって見、かれの煩悩は滅尽している、とされている[16]。そこには、衆生も如来も慈悲も無いようであるから、マーラの眼を根絶し、悪魔が見ないところの究極であると思われる[17]。
ゴータマによってこの経が説かれた集団は、解脱や衆生の抜苦与楽ではなく、想受滅を追及していた集団だったのではないかということが考えられる[18]。
また、全体的な傾向として、無余涅槃を求める出家者に、慈悲の教えを説かなかったのは、そうした修行者に対して、対機説法をおこなっていたためであると思われる。有余涅槃と無余涅槃では次元が異なるため、無余涅槃を求める修行者には、慈悲の実践というものは、理解されないと考えられる[19]。
日本語訳
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ 『南伝大蔵経』
- ^ 『原始仏典』中村
- ^ 『パーリ仏典』片山
- ^ ゴータマが悟る直前にマーラの誘惑や、攻撃を受けたとされるのも、ゴータマが悟って、教えを説いてしまうと、人間をだまして支配することがやりづらくなってしまうからだとされている(出典『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳)。その感知状況は、ゴータマ個人の悟りの逐一の状況まで感知しているような登場の仕方をしているところからすると、人間にべったりと張り付いているような感じさえしてくる。
- ^ ゴータマの時代と現代では、修行者を取り巻く状況も変わり、僧集団の在り方も変化していると見ることができる。それとともに、マーラの支配のわなは、僧集団に対しても、多様に変化しているものと推察される。
- ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思いー双考経 P282 前書き 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
- ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
- ^ 初期の仏教においては、そのほかにも、止観や、調和された屋外での禅定、八正道についての考察、苦の止滅、一切の世界を慈悲で満たしたいという願いなどが、第一禅に至るまでの前提としてあったようだ。
- ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第25経 猟師と鹿の群れ-猟師経 前書きP366 春秋社2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
- ^ そのため、これらの思想は、他の仙人が説いた教えではなく、もともとは仏説であった、とする見解がある。『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 P723 第36経の注4 春秋社2004年 中村元監修
- ^ 想念には外界にあまねく存在するものと、内界の様々な想念があるとする。マーラのわなは、外界と内界の両方にあるといえる。非想非非想の思想と、悪魔のわながつながりがあると見るならば、「解脱」という語は、マーラの眼から逃れるという観点から見た「悟り」であると見ることができる。 外界から内界に向かってゆく想念と、内界から外界に向かってゆく想念とがあり、その想念の動きを止めたところに、空間(物質的な宇宙)の無限や、意識の無限(ブッダの体感する過去現在未来の意識主体の総和)を体感し、そこに住する境地に至ることができるとされている。
- ^ これは、宇宙期についての明知にあたるようだ。
- ^ これは、諸々の衆生意識についての明知にあたるようだ。
- ^ これは、「なにも持たない」ということであるとする経文もある。「なにも持たない」ということは、煩悩を滅することと関係があると思われるので、これは、もろもろの汚れを滅ぼす智に関係があると思われる。
- ^ これは、「生は尽きはてた」という言葉に関係があるようである。「闇黒は消滅して、光明が生じた」というブッダの言葉から推察すると、非想非非想の状態に、光明のみが感じられるということのようである。
- ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第25経 猟師と鹿の群れ-猟師経 P379 春秋社2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
- ^ 第85経や聖求経には、想受滅と思われる境地に至り、教えを説く意欲の亡くなったゴータマに、世界の主であるブラフマー神が、慈悲利他の境地に誘ったことが伝えられている。世界の主は、このままだと世界は滅びる方向に向かってしまう、と言ったとされている。考えてみると、無余の涅槃にとっては、宇宙には生成する時期もあれば、滅びる時期もある訳であるから、それはどちらでもいいわけである。世界の主の放った言葉のうちには、想受滅の解脱とは異なった次元に、諸仏の慈悲を衆生に説く境地があったことがうかがえる。
- ^ 魔の働きと戦争とは大きな関連があると考えられるが、現代においては出家生活での想受滅の追及は、国家間の戦争に反対する想念も消失してしまうので、結果的に戦争に加担する立場に追いやられることになる可能性があるといえる。
- ^ (出典『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第25経 猟師と鹿の群れ-猟師経 P380 春秋社2012年 中村元監修 羽矢辰夫訳)無余涅槃を求める出家者には、抽象的ともいえる「四無量心」としてしか、慈悲について説くことができなかったと見ることができる。