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蛇喩経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蛇喩経[1](じゃゆきょう、: Alagaddūpama-sutta, アラガッドゥーパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第22経。

類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第200経「阿梨吒経」がある。

釈迦が、比丘アリッタ及び他の比丘たちに、持戒の重要性について説いていく。

構成

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内容

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この経は、如来の教説を否定することは、を捕まえる時に首以外の部分をつかんでかまれることと同じく、長きにわたって、苦しむことになるだろう、とゴータマ・ブッダが説いたことから、蛇喩経と呼ばれる。蛇の喩の意味するところは、長きにわたる利益安楽を得ようとする者は、ブッダの教えを素直に学ぼうとするだけで(dukka)を止める道にたどり着き、安らぎのこころになるだろうという教えである。そして、如来に対する信仰や尊敬をわずかでも持つ者は、すべてに至るとされている。ここでいう天とは、初期の仏教において梵天界とされていたところであると思われる[2]

説話のひとつは、如来の教説を否定する考えに固執した比丘がいたことにちなんだ説話である。それは、ある比丘が、「ゴータマ・ブッダが妨げであると語った事柄を行ったとしても、必ずしも妨げとはならない」と主張したことについてであった[3]

ゴータマは、以前も今も、「苦」と「苦の止滅」だけを教えている、ということが説かれている。苦の因となることを捨てるならば、それは長きにわたってあなたたちに利益と安楽をもたらすだろう、と説いている[4]。そして、如来に対する信仰や尊敬をわずかでも持つ者は、すべて天に至るとされている。彼らの「長きにわたる利益と安楽」とは、天にて再生し、預流者の道を歩み始めるということのようである。また、教えに従い、信仰によく従うあらゆる比丘たちは正しい目覚めに至る者であるとされる。[5]多くの比丘を対象にしたこととしては、三結を捨てたあらゆる比丘たちは、預流者であり、悪所におもむかず、正しい目覚めに至る者であるとされている[6]

また、ある沙門バラモンは、「沙門ゴータマは虚無論者である」という偽った誹謗をしているが、それは、如来に対する信仰や尊敬を捨てる行為であるとしている[7]。 

日本語訳

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  • 『南伝大蔵経・経蔵・中部経典1』(第9巻) 大蔵出版
  • 『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇I』 片山一良訳 大蔵出版
  • 『原始仏典 中部経典1』(第4巻) 中村元監修 春秋社

脚注・出典

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  1. ^ 『南伝大蔵経』、『原始仏典』中村、『パーリ仏典』片山
  2. ^ 帝釈天の存在は、死の恐怖におののく場合があるとされていて、苦の止滅に至っていないためである(出典『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第10経の注5 P678 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳)
  3. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第22経 正しい教えの把握の仕方-蛇喩経 前書きP320 春秋社2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
  4. ^ 在家の人々についての苦の止滅に関わることとして、ゴータマは、対機説法による「苦集滅道」を実践していたようだ。この場合、「苦集滅道」における「滅」は、「苦の死滅」であり、「すべての人に利益と安楽をもたらしたい」ということになる。
  5. ^ ここでの信仰とは、如来に対する信仰や尊敬のことのみを指しているようだ。
  6. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第22経 正しい教えの把握の仕方-蛇喩経 P342  春秋社2012年 中村元監修 羽矢辰夫訳
  7. ^ 当時ゴータマ・ブッダは、「沙門ゴータマ」と呼ばれていたとされる。(出典『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第35経の注5 P721 春秋社2004年 中村元監修 平木光二訳)また、この経文が説かれたころは、如来を誹謗する者はひどい地獄に堕ちるぞ、という断罪的なニュアンスは少なかったようだ。それほどブッダの教えが広まっていなかった初期の頃の説話のようだ。

関連項目

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外部リンク

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