削減経
削減経[1](さくげんきょう、巴: Sallekha-sutta, サッレーカ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第8経。
類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第91経「周那問見経」がある。
釈迦によって、サーリプッタ(舎利弗)の弟であるチュンダに対して、瞑想時における戒めが述べられる。世間(loka)で見られる様々な見解(ditti)について、釈迦が正智をもって遮断すべき44項目を説く。
構成
[編集]登場人物
[編集]場面設定
[編集]ある時、釈迦は舎衛城祇園精舎に滞在していた。
チュンダは釈迦に対して、世間で出回っている様々な我(atta)および世間(loka)論に関する見解(diṭṭhi)を、どうすれば捨断できるようになるかを問う。
釈迦は44項目の戒めを繰り返し挙げ、般涅槃への教誡とすると説く。
内容
[編集]比丘が削減すべき44項目を挙げていく。
Idha kho pana vo cunda sallekho karaṇīyo: pare vihiṃsakā bhavissanti. Mayamettha avihiṃsakā bhavissāmāti sallekho karaṇīyo.
しからばチュンダよ、あなたたちはこのように削減(sallekho)すべきである。Pare pāṇātipātī bhavissanti, mayamettha pāṇātipātā paṭiviratā bhavissāmāti sallekho karaṇīyo.
「他の者たち(Pare)は害する者となるだろうが、我々は害さざる者(アヒンサー)になろう」と、削減(sallekho)されるべし。
- 他人は他者を害する(vihiṃsaka)が、我々は加害者にならない者(アヒンサー)になろう。
- 他人は殺生する(pāṇātipātin)が、我々は殺生から離れた者になろう。
- 他人は与えられていないものを取る(adinnādāyin)が、我々は与えられていないものを取らない者になろう。
- 他人は性的な関係を持つ(abrahmacārin)が、我々は禁欲者(brahmacārī)になろう。
- 他人は妄語する(musāvādin)が、我々は嘘をつかない者になろう。
- 他人は両舌する(pisuṇāvācā; 陰口)が、我々は両舌しない者になろう。
- 他人は悪口する(pharusāvācā; 暴言)が、我々は悪口しない者になろう。
- 他人は綺語する(samphappalāpin; 無駄話)が、我々は綺語しない者になろう。
- 他人は貪欲である(abhijjhālū)が、我々は貪欲にならない者になろう。
- 他人は瞋恚心をもつ(byāpannacitta)が、我々は瞋恚しない者になろう。
- 他人は邪見を持つ(micchādiṭṭhi)が、我々は正見(sammādiṭṭhi)を持てる者になろう。
- 他人は邪思惟する(micchāsaṅkappa)が、我々は正思惟(sammāsaṅkappa)を持てる者になろう。
- 他人は邪語する(micchāvācā)が、我々は正語(sammāvācā)を語る者になろう。
- 他人は邪業する(micchākammanta)が、我々は正業(sammākammanta)をする者になろう。
- 他人は邪命する(micchāミ-ājīva)が、我々は正命(sammā-ājīva)をする者になろう。
- 他人は邪精進する(micchāvāyāma)が、我々は正精進(sammāvāyāma)をする者になろう。
- 他人は邪念を持つ(micchāsati)が、我々は正念(sammāsati)を持てる者になろう。
- 他人は邪定を育む(micchāsamādhi)が、我々は正定(sammāsamādhi)を育む者になろう。
- 他人は邪智者です(micchāñāṇin)が、我々は正智者(sammāñāṇin)になれる者になろう。
- 他人は邪解脱をめざす(micchāvimutti)が、我々は正解脱(sammāvimutti)をめざす者になろう。
- 他人は惛沈(thīna)と惛眠(middha)に囚われるが、我々は惛沈と惛眠を断ち切る者になろう。
- 他人は掉挙する(uddhatā)が、我々は掉挙しない者になろう。
- 他人は懐疑的(vecikicchin)だが、我々は懐疑を断ち切る者になろう。
- 他人は忿怒する(kodhana)が、我々は忿怒しない者になろう。
- 他人は怨恨する(upanāhin)が、我々は怨恨しない者になろう。
- 他人は偽善する(makkhin)が、我々は偽善しない者になろう。
- 他人は悩害する(paḷāsin)が、我々は悩害しない者になろう。
- 他人は嫉妬する(issukin)が、我々は嫉妬しない者になろう。
- 他人は物惜しむ(maccharin; 慳吝)が、我々は物惜しまない者になろう。
- 他人は見栄を張る(saṭha; 諂)が、我々は見栄を張らない者になろう。
- 他人は善人ぶる(māyāvin; 誑)が、我々は善人ぶらない者になろう。
- 他人は強情(thaddha)だが、我々は強情にならない者になろう。
- 他人は高慢(atimānin)だが、我々は高慢にならない者になろう。
- 他人は反抗的(dubbaca)だが、我々は素直(suvaca)になる者になろう。
- 他人は悪友とつきあう(pāpamitta)が、我々は善友とつきあう(kalyāṇamitta)者になろう。
- 他人は放逸する(pamatta)が、我々は不放逸(appamatta)者になろう。
- 他人は信を持たない(assaddhā)が、我々は信(saddhā)を持つ者になろう。
- 他人は悪を恥じない(ahirika; 慚)が、我々は悪を恥じる(hirimant)者になろう。
- 他人は悪を怖れない(anottāpin; 愧)が、我々は悪を怖れる(ottāpin)者になろう。
- 他人は浅学(appassuta)だが、我々は多聞(bahussuta)者になろう。
- 他人は懈怠(kusīta)だが、我々は精進する(āraddhaviriya)者になろう。
- 他人は失念する(muṭṭhassati)が、我々は常に念ある(upaṭṭhitasati)者になろう。
- 他人は悪慧(duppañña)だが、我々は智慧の備わった(paññāsampanna)者になろう。
- 他人は自らの見に固執し、捨てられないでいる(sandiṭṭhiparāmāsi-ādhānagāhi-duppaṭinissaggin)が、我々は自見るに固執せず捨てられる(asandiṭṭhiparāmāsi- ānadhānagāhi-suppaṭinissaggin)者になろう。
同じ44項目を繰り返し挙げ、これらは回避のためになると説く。
Evameva kho cunda vihiṃsakassa purisapuggalassa avihiṃsā hoti parikkamanāya
そのようにチュンダよ、害する人にとって不害(アヒンサー)は、回避(parikkamanāya)のためになるのである。
この44項目によって、誤った道から、正しい道に回避できると説く。
So vata cunda attanā palipapalipanno paraṃ palipapalipannaṃ uddharissatīti netaṃ ṭhānaṃ vijjati. So vata cunda, attanā apalipapalipanno paraṃ palipapalipannaṃ uddharissatīti ṭhānametaṃ vijjati.
チュンダよ、自ら泥沼に落ちた者が、泥沼に落ちた他の者を引き上げるということはありえないのだ。しかしチュンダよ、自ら泥沼に落ちていない者であれば、泥沼に落ちた他の者を引き上げるということは、ありえるのだ。
So vata cunda attanā adanto avinīto aparinibbuto paraṃ damessati vinessati parinibbāpessatīti netaṃ ṭhānaṃ vijjati. So vata cunda attanā danto vinīto parinibbuto paraṃ damessati vinessati parinibbāpessatīti ṭhānametaṃ vijjati.
(それと同様に)チュンダよ、調御・教導・般涅槃していない者が、他の者を調御・教導・般涅槃させるということはありえない。しかしチュンダよ、調御・教導・般涅槃に達した者が、他の者を調御・教導・般涅槃させるということは、ありえるのだ。
同じ44項目を繰り返し挙げ、これらは回避のためになると説く。
Evameva kho cunda vihiṃsakassa purisapuggalassa avihiṃsā hoti parinibbānāya.
そのようにチュンダよ、害する人にとって、不害(アヒンサー)は、般涅槃のためになるのである。
日本語訳
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ 『南伝大蔵経』、『原始仏典』中村、『パーリ仏典』片山
参考文献
[編集]- パーリ仏典, 中部 削減経, Sri Lanka Tripitaka Project