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丹後国

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丹後の国から転送)
丹後国

-丹後国
-山陰道
別称 丹州(たんしゅう)[注釈 1]
北丹(ほくたん)
奥丹(おくたん)
所属 山陰道
相当領域 京都府北部
諸元
国力 中国
距離 近国
5郡35郷
国内主要施設
丹後国府 京都府宮津市
丹後国分寺 京都府宮津市(丹後国分寺跡)
丹後国分尼寺 (未詳)
一宮 籠神社(京都府宮津市)
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六十余州名所図会天橋立

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。丹波国の北部(現在の丹後半島)が分国して作られた(和銅6年(713年))。

領域

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明治維新直前の領域は、現在の京都府の下記の区域に相当する。

歴史

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律令制以前

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丹後地方は、丹波地方の中心として、古墳時代には竹野川流域(京丹後市)を中心に繁栄し、大前方後円墳が作られた[1][注釈 2]

京丹後市久美浜の函石浜遺跡からは新朝王莽の貨幣が出土していることから、古くから大陸との関係も深かったと推測されている[2]。また『日本書紀』に、四道将軍が派遣された北陸東海、西道、丹波の四方のうち丹波のみが具体的な地域名で記されていることから、ヤマト王権(大和朝廷)からの主要交通路の行き先にあたる重要な地域であったと推定される[1]

奈良時代・平安時代

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和銅6年(713年4月3日に丹波国の北部、加佐郡与謝郡丹波郡(後の中郡)、竹野郡熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『続日本紀』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され[1]、『和名類聚抄』には35が記されている[2]大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている[1]

分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が国造郡司など支配的地位を有していた。『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、丹波直は天火明命を祖としている。分国後の丹後国では延暦2年(783年)に丹波直真養が丹波郡国造に、貞観8年(866年)に丹波直副茂が近衛府の下級将官に任じられた[1]

分国の背景

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丹波国は、現在の南丹市亀岡市国府が置かれていたと推定され、また南部の桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となった。これに対して、古くからの重要地である丹後は、これより北に離れた地であることが、丹後国の分国の理由と考えられている[1]

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」[注釈 3]とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)[注釈 4]とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる[3][注釈 5]

なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)[1]

戦国時代まで

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田辺城

室町時代山名氏のちに一色氏が守護となるが、戦国時代天正7年(1579年)に織田信長軍の明智光秀細川幽斎(長岡藤孝)とその子忠興らの丹後平定で一色氏は降伏。豊臣秀吉の時代は長岡氏を経て細川父子が支配した[4]水本邦彦は、江戸時代後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『丹哥府志(たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している[4]

江戸時代

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江戸時代に入り慶長5年(1600年)に細川氏が九州移封となった後は12万3千石を与えられた京極高知が治める。元和8年(1622年)に高知が没した後に丹後国は宮津藩田辺藩峰山藩の三藩に分立し、二男高広、三男高三、養子の高通がそれぞれ相続した[2][4]

宮津藩では寛文6年(1666年)に京極高国改易陸奥国に流され[2]一時的に幕府直轄領となった後、寛文9年に山城国淀藩永井尚征が入封。延宝8年(1680年)にその子永井尚長志摩国鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、嫡子がいないため改易となり翌9年に武蔵国岩槻藩阿部正邦が入封した[4]元禄10年(1697年)に下野国宇都宮藩から二才の奥平昌成享保2年(1717年)に信濃国飯山藩青山幸秀宝暦8年(1758年)に遠江国浜松藩から本庄資昌が入封して以降は、明治維新を経て明治4年(1871年)7月の廃藩置県で三藩が県となるまで本庄氏が藩主を務めた[4]

田辺藩は京極高盛が寛文8年(1668年)に但馬国豊岡藩に移封し、京都所司代等を務めた牧野親成が入封。峰山藩は京極氏が廃藩置県まで治めた。熊野郡の幕府直轄領は上方代官が分割して支配していたが、享保20年(1735年)同郡久美浜村に久美浜代官所が設置された[4]。明治4年11月に三県は豊岡県に併合され、明治9年(1876年)8月京都府に編入された[2]。江戸時代には宮津田辺(舞鶴)、峰山に藩庁が置かれた。

江戸時代享保年間に峰山の絹屋佐平次や加悦の手米屋小右衛門らが西陣からちりめんの技法を持ち帰る。丹後ちりめんは藩に保護され、販売不振に陥っていた安政4年(1857年)には不況対策と保護育成のため宮津・峰山両藩と久美浜代官所が合同で丹後国産会所を設立している[4]

徳川幕府との関係

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三藩のうち宮津・田辺は譜代大名、峰山は譜代もしくは外様大名といわれ、久美浜代官所を加えた丹後国四領はそれぞれ分立していながらも一つのまとまりがあったと考えられている。これは峰山と久美浜代官所領の村が分散し入り混じっていながらも問題が起きていないことや、天明4年(1784年)に久美浜代官所領の佐野村で起きた一揆を豊岡・峰山・宮津三藩の加勢で沈静化できたことが理由にあげられ、藩主が移封を繰り返した丹後国を広い意味での幕府直轄領、徳川領国とする根拠にもなっている[4]

近世以降の沿革

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国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
籠神社
大宮売神社

国府

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和名類聚抄』および『拾芥抄』では、国府は加佐郡にあると記載されている。現在の舞鶴市内とする説があるほか、宮津市とする説もあるが、詳細は不明[2]

なお近年では、宮津市の府中地区にある安国寺遺跡(宮津市小松)で方形の柱穴が認められており、同地が国府跡である可能性を高めている[5][6]

国分寺・国分尼寺

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尼寺跡は未詳。

神社

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延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されている(「丹後国の式内社一覧」参照)。大社6社は以下に示すもので、竹野神社以外は名神大社である。

総社一宮以下

  • 総社:不詳 - 籠神社が総社を兼ねていたとする説がある。
  • 一宮:籠神社(宮津市大垣)
  • 二宮:大宮売神社(京丹後市大宮町周枳)

地域

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該当区域の面積は1,283.43k㎡、人口は19万8439人(2010年国勢調査)。(1)

江戸時代の藩

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関ヶ原の戦いの功により京極高知が丹後一国の国主として封じられ、宮津藩(丹後藩)が成立したが、2代京極高広の代に分知により田辺藩及び峰山藩が誕生した。

  • 宮津藩:京極家(12万3千石→分知により7万8千石)→幕府直轄領→永井家(7万3千石)→阿部家(9万9千石)→奥平家(9万石)→青山家(4万8千石)→松平(本庄)家(7万石)
  • 丹後田辺藩(舞鶴藩):京極家(3万5千石)→牧野家(3万5千石)
  • 峰山藩:京極家(1万3千石。宮津藩からの分知1万石と初代藩主京極高通自身の領地3千石)

人物

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国司

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丹後守

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守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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戦国大名

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武家官位としての丹後守

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丹後国の合戦

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脚注

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注釈

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  1. ^ 別称「丹州」は、丹波国とあわせて、または単独での呼称。
  2. ^ 独自の王国が存在したとする説もある(「丹後王国論」を参照)。
  3. ^ 従来の分国では都に近いほうを前とし、遠いほうが後とされた。
  4. ^ なお、1869年陸奥国が5国へ分割された際は「陸前国」「陸中国」に対する「陸後国」は作られず「陸奥国」の名称が存続している。
  5. ^ 丹波国南部の亀岡盆地が太古は大きな湖で丹色の波が立ったところから、丹波と呼ぶようになったという異説もある。丹い波の国—保津川開削400周年記念事業実行委員会

出典

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  1. ^ a b c d e f g 上田純一 編 『丹後地域史へのいざない』p17-44 思文閣出版 2007年
  2. ^ a b c d e f 『ブリタニカ国際大百科事典』4 REFERENCE GUIDE p329 TBSブリタニカ 1974年3月初版
  3. ^ 参考文献
    磯野浩光 「丹後国の国名について」『太邇波考古学論集』 両丹考古学研究会、1997年。
    平良泰久 「丹波の分割」『京都府埋蔵文化財論集』第4集、京都府埋蔵文化財調査研究センター、2001年。
    高橋美久二 「丹波国府の造営」『新修亀岡市史』第1巻、亀岡市、1995年
  4. ^ a b c d e f g h 上田純一 編 『丹後地域史へのいざない』p68-92 思文閣出版 2007年
  5. ^ "大型柱穴、丹後国府の関連建物か 京都・宮津の安国寺遺跡"(京都新聞、2016年12月14日記事)。
  6. ^ "丹後国府関連の建物か 京都・宮津、安国寺遺跡で方形の柱跡"(京都新聞、2016年12月13日記事)。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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