織田長清
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文2年9月25日(1662年11月5日) |
死没 | 享保7年10月7日(1722年11月15日) |
別名 | 通称:安千代、内匠 |
墓所 | 奈良県桜井市芝の慶田寺 |
官位 | 従五位下・丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継 |
藩 | 大和戒重藩主→大和芝村藩主 |
氏族 | 織田氏(信雄系高長流)→織田氏(長益系長政流) |
父母 | 父:織田長頼、養父:織田長明 |
兄弟 |
信武、長八、長清、鍋千代、長晴、 妙眼院、松平正久正室、土方豊高正室、五辻英仲室、皆川重幸室、秋月種封正室 |
妻 |
正室:織田政時長女 継室:内田正衆長女 |
子 |
衛保、長弘、長善、長亮、宗諄、 宝寿院行快室など8男2女 |
織田 長清(おだ ながきよ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。大和国戒重藩4代藩主、同国芝村藩初代藩主。官位は従五位下・丹後守。長政流織田家4代。
生涯
[編集]天和元年(1681年)11月25日、戒重藩主・織田長明の養子となる。天和2年2月11日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。天和3年(1683年)5月2日、長明の隠居により家督を相続する。元禄5年(1691年)、駿府加番を命じられる。元禄15年(1701年)再び駿府加番を命じられる。
宝永元年(1704年)4月11日、陣屋を戒重村から岩田村(芝村と改称)に移転する許可を得る。ただし、工事はなかなか進まず、実際に移転したのは延享2年(1745年)のことであった。宝永6年7月1日、従五位下・丹後守に叙任する。正徳4年(1714年)2月13日に隠居し、三男の長弘に家督を譲る。
享保7年(1722年)10月7日死去、享年61。墓所は奈良県の慶田寺。
太田守一に『織田真紀』を編纂させるなど、文教面での功績が目立つ。なお、『土芥寇讎記』には「長根(=長清)、生得利発ナリ。養父秀一(=長明)、若年ニテ家督ヲ継グニ依テ、仕置等之事ハ、家老山路・山下ト秀一之叔父小十郎(=織田政時)相談シテ、諸事執行セシ。其ノ例ニヤ、今モ仕置之事ハ、家臣等ニ任ス」とあり、若いときは政務を家老らに任せていたようである。
系譜
[編集]子女は8男2女。