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織田長清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田長清
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文2年9月25日1662年11月5日
死没 享保7年10月7日1722年11月15日
別名 通称:安千代、内匠
墓所 奈良県桜井市芝の慶田寺
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継
大和戒重藩主→大和芝村藩
氏族 織田氏(信雄系高長流)織田氏(長益系長政流)
父母 父:織田長頼、養父:織田長明
兄弟 信武、長八、長清、鍋千代、長晴
妙眼院、松平正久正室、土方豊高正室、五辻英仲室、皆川重幸室、秋月種封正室
正室:織田政時長女
継室:内田正衆長女
衛保長弘長善長亮、宗諄、
宝寿院行快室など8男2女
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織田 長清(おだ ながきよ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名大和国戒重藩4代藩主、同国芝村藩初代藩主。官位従五位下丹後守。長政流織田家4代。

生涯

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宇陀松山藩主・織田長頼の三男として宇陀松山にて誕生した。

天和元年(1681年11月25日、戒重藩主・織田長明の養子となる。天和2年2月11日、5代将軍・徳川綱吉御目見する。天和3年(1683年5月2日、長明の隠居により家督を相続する。元禄5年(1691年)、駿府加番を命じられる。元禄15年(1701年)再び駿府加番を命じられる。

宝永元年(1704年4月11日陣屋を戒重村から岩田村(芝村と改称)に移転する許可を得る。ただし、工事はなかなか進まず、実際に移転したのは延享2年(1745年)のことであった。宝永6年7月1日、従五位下・丹後守に叙任する。正徳4年(1714年2月13日に隠居し、三男の長弘に家督を譲る。

享保7年(1722年)10月7日死去、享年61。墓所は奈良県の慶田寺。

太田守一に『織田真紀』を編纂させるなど、文教面での功績が目立つ。なお、『土芥寇讎記』には「長根(=長清)、生得利発ナリ。養父秀一(=長明)、若年ニテ家督ヲ継グニ依テ、仕置等之事ハ、家老山路・山下ト秀一之叔父小十郎(=織田政時)相談シテ、諸事執行セシ。其ノ例ニヤ、今モ仕置之事ハ、家臣等ニ任ス」とあり、若いときは政務を家老らに任せていたようである。

系譜

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子女は8男2女。