織田貞置
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元和3年(1617年) |
死没 | 宝永2年6月2日(1705年7月22日) |
改名 | 出来丸(幼名)→貞置 |
別名 | 通称:左京亮、五郎左衛門、主計頭、号:一谷茅翁、永年堂、黄雀軒、文芳翁、山花、三過老人など |
墓所 | 東京都品川区の東海寺清光院 |
官位 | 従五位下・侍従 |
幕府 | 江戸幕府高家旗本 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
氏族 | 高家織田氏 |
父母 | 父:織田信貞 |
兄弟 | 信次、貞置、織田重治室[1]、笹治大膳室 |
妻 |
正室:佐久間正勝娘 継室:織田長政次女、鳥居忠勝娘 |
子 |
長迢、貞則、貞輝など4男3女 養子:貞幹 |
織田 貞置(おだ さだおき)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本・茶人。織田信長の孫。通称は左京亮、五郎左衛門、主計頭。官位は従五位下・侍従。号は一谷茅翁、永年堂、黄雀軒、文芳翁、山花、三過老人など。
生涯
[編集]織田信貞の次男として誕生した。幼名は出来丸。
寛永元年(1624年)、信貞の死去により1000石の領地を相続したとされ、同年、禁裏造営奉行を務めたともされる。寛永7年(1630年)2代将軍・徳川秀忠に御目見し、後に小姓組に加えられたという。なお、寛永元年当時に信貞は浪人中で、寛永7年に召し抱えとなった可能性もある。また、兄信次は病弱で家督を継げなかった。
寛文3年12月19日(1664年)、高家に就任する。同年12月25日、従五位下・侍従に叙任される。延宝7年(1679年)3月15日、高家を辞職する。天和2年(1682年)6月2日に隠居し、養老料300俵を支給される。長男の長迢が家督を相続した。
宝永2年(1705年)6月2日死去、享年89。墓地は東海寺清光院にある。以後、歴代の当主が同院に葬られた。明治期に15基の供養塔が一つにまとめられた。
人物
[編集]「織田信長像」(名古屋市・總見寺蔵)を描かせるなど、祖父の信長を大変に尊敬しており、信長や織田一門の事跡の収集に熱心であったという。信長が横死した本能寺の変と同じ6月2日に隠居し、6月2日に死去した。
千利休の高弟の一人で台子の伝者とされる高橋玄旦からその点前を伝授されている。慶安4年5月20日(1651年7月7日)、織田長益の孫の長好が没すると有楽流を継承し、信次の子で養子とした貞幹のほか、松本見休ら多数の門弟を抱えた。また、長益の茶説を貞置集として纏め、有楽流の茶流を後世に遺した。貞置以降のものを貞置流ともいう。門人には三河吉田藩士の土肥自在軒(二三翁)らがいる[2]。
- 茶道相伝系譜
系譜
[編集]子女は4男3女
- 父:織田信貞
- 母:不詳
三男貞則、四男貞輝は分家して旗本になった。また、養子貞幹(家督を継げなかった兄信次の子)は尾張徳川家の家老になった。