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藤原憲房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 憲房(ふじわら の のりふさ、生年不詳 - 延久5年10月7日1073年11月8日))は、平安時代後期の貴族藤原北家勧修寺流大宰大弐藤原惟憲の子。官位正四位下尾張守

経歴

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関白藤原頼通の身近に仕え[1]、その家司的存在であった[2]長元9年(1036年後一条天皇崩御すると、その葬儀においてを担いでいる[3]。また、藤原道長土御門殿に隣接して父の藤原惟憲が構えていた近衛の邸宅を憲房は伝領していたが[4]、この邸宅は長暦3年(1039年内裏火災に遭った際に章子内親王が避難し[5]、のちに上東門院(藤原彰子)も遷御した[6]

この間、後一条朝後半に丹後守、後朱雀朝前半に讃岐守受領を歴任しているが、これは藤原頼通の家司的存在であったことに依るところが大きかったと見られる[7]。しかし、長久元年(1040年)讃岐国の貢進物の未済・徴集問題、および、官物徴集を巡った国司郡司・百姓の対立が太政官に持ち込まれる[8]。結局、後朱雀天皇が不当に高率な官物過徴を理由に国司の交代を判断し、憲房は讃岐守を解任されてしまった[9]

後冷泉朝永承6年(1051年皇后藤原寛子皇后宮大進に任ぜられると、左衛門権佐を経て、天喜元年(1053年五位蔵人に補せられた。

天喜5年(1057年阿波守に転じると、のち尾張守を務めるなど、後冷泉朝後半から後三条朝初頭にかけて再び受領を務めている。位階正四位下に至った。

延久5年(1073年)10月7日卒去

官歴

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系譜

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注記のないものは『尊卑分脈』による。

  • 父:藤原惟憲
  • 母:藤原美子(藤原親明の娘) - 後一条天皇乳母
  • 妻:藤原兼輔の娘
    • 男子:藤原敦憲
    • 男子:藤原敦房
    • 男子:藤原敦輔
  • 生母不詳の子女

脚注

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  1. ^ 『関白頼通歌合』長元8年5月16日
  2. ^ 柴田房子「家司受領」『史窓 28』1970年
  3. ^ 『左経記』長元9年4月22日条
  4. ^ 角田文衛「後一条天皇の乳母たち」『応長の明暗』東京堂出版、1977年
  5. ^ a b 『栄花物語』巻34
  6. ^ 『春記』長久元年9月9日条
  7. ^ 大日方克己 2012, p. 52.
  8. ^ 『春記』長久元年4月27日条
  9. ^ 『春記』長久元年6月3日,6月8日条
  10. ^ 『左経記』
  11. ^ 『春記』
  12. ^ 『栄花物語』巻36
  13. ^ 『蔵人補任』
  14. ^ 『職事補任』
  15. ^ 『洞院六巻部類記・治暦大饗記・節会部類』
  16. ^ 『土右記』
  17. ^ a b 『尊卑分脈』

参考文献

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  • 大日方克己『諸国公文・財政文書と受領の基礎的研究』2012年3月https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/34394 
    • 研究代表者 大日方克己『諸国公文・財政文書と受領の基礎的研究(平成21年度~平成23年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書)』 研究課題/領域番号 21520673、2012年。 NCID BB10202487https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21520673 
  • 野々村ゆかり「摂関期における乳母の系譜と歴史的役割」(PDF)『立命館文學』第624号、立命館大学人文学会、2012年1月、407-421頁、CRID 1520009408558305408ISSN 02877015NAID 110009511582 
  • 宮崎康充, 遠山久也『國司補任』続群書類従完成会、1989年。 
  • 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年