松平直泰
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛延元年11月28日(1749年1月16日) |
死没 | 享和3年12月29日(1804年2月10日) |
改名 | 処次郎(幼名)、直泰 |
戒名 | 峻徳院殿英光明雄有隣大居士 |
墓所 | 兵庫県明石市人丸町の長寿院 |
官位 | 従五位下内膳正、従四位下但馬守、左兵衛督、若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 播磨明石藩主 |
氏族 | 越前松平家支流明石松平家 |
父母 | 父:松平直純、母:牧野貞通の娘・千姫 |
兄弟 | 直泰、直瑗、直喬、満 |
妻 |
正室:丹羽高庸の娘・利恵姫 継室:丹羽高庸の娘・喜姫 側室:園子、里嘉子 |
子 | 直之、直周、直暠、中条信徳、直方、本多忠曄、有馬広寿、直顕、安藤定則、千賀直標、直宝、直董、栄、輝、寿、堀田一権正室、幹、喬、晋、小堀政共正室ら |
松平 直泰(まつだいら なおひろ)は、江戸時代中期の大名。播磨国明石藩の第4代藩主。官位は従四位下但馬守、左兵衛督、若狭守。直良系越前松平家5代。
生涯
[編集]寛延元年(1748年)、第3代藩主・松平直純の長男として江戸藩邸にて誕生した。宝暦8年(1758年)に元服し、直純より直泰の諱を与えられる。宝暦12年(1762年)、初めて10代将軍・徳川家治に御目見する。元文13年(1763年)に従五位下を叙任し、内膳正と名乗る。
明和元年(1764年)、直純が病没したため家督を継ぐ。明和2年(1765年)、内膳正より丹後守と改称する。明和7年(1770年)、二本松藩主丹羽高庸の娘・勢姫(のち利恵姫と改称)と婚姻する。翌明和8年(1771年)、利恵姫が病没し、浅草の幡随院に葬る。安永2年(1773年)、従四位下に昇進、但馬守、左兵衛督と改称する。安永7年(1778年)、利恵姫の妹・喜姫を継室としたが、天明2年(1782年)には離婚している。天明4年(1784年)、家督を長男の直之に譲り隠居し、若狭守と称す。享和3年(1804年)、卒中のため明石城二の丸にて死去した。享年56。
系譜
[編集]- 父:松平直純(1727-1764)
- 母:千姫 - 牧野貞通の娘
- 正室:利恵姫(? - 1771年) - 丹羽高庸の娘
- 継室:喜姫 - 丹羽高庸の娘
- 側室:園子
- 長男:松平直之(1768年 - 1786年)
- 側室:里嘉子
- 三男:松平直周(1773年 - 1828年)
- 生母不明の子女
参考文献
[編集]- 黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年