コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松平資昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平資昌
時代 江戸時代中期
生誕 延享元年9月29日1744年11月3日
死没 宝暦12年1月18日1762年2月11日
改名 豊之助(幼名)、資昌
戒名 真嶽院殿春誉大廓覚然大居士
墓所 東京都台東区浅草の安養寺
京都府宮津市金屋谷の大頂寺
官位 従五位下伊予守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
遠江浜松藩主、丹後宮津藩
氏族 本庄松平家
父母 松平資訓、岡本氏
兄弟 資昌加藤明煕正室ら
資尹
テンプレートを表示

松平 資昌(まつだいら すけまさ)は、遠江国浜松藩2代藩主。後に丹後国宮津藩初代藩主。本庄松平家4代。

生涯

[編集]

延享元年(1744年)9月29日、三河吉田藩松平資訓の三男として三河吉田で生まれる。父の養子となっていた資順が世嗣のまま死去したため、延享4年(1747年)2月2日に世子に指名される。宝暦2年(1752年)5月12日、父の死去により家督を継いで浜松藩主となる。

宝暦8年12月27日(1759年)、丹後宮津藩に移封される。宝暦11年(1761年)4月25日、病弱のため将軍に奉公が出来ないとして、領地の返上、または養子を貰い受け隠居することを願い出る。5月3日、幕府は養子相続と隠居を許可する。資昌は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族合意の願い出を受け、本庄松平家の桂昌院との縁から特例として家の存続が認められた[1]。11月27日、家督を養子の資尹に譲って隠居する。宝暦12年(1762年)1月18日に死去、享年19。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.204-205
  2. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.209

参考文献

[編集]