松平資昌
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享元年9月29日(1744年11月3日) |
死没 | 宝暦12年1月18日(1762年2月11日) |
改名 | 豊之助(幼名)、資昌 |
戒名 | 真嶽院殿春誉大廓覚然大居士 |
墓所 |
東京都台東区浅草の安養寺 京都府宮津市金屋谷の大頂寺 |
官位 | 従五位下・伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 遠江浜松藩主、丹後宮津藩主 |
氏族 | 本庄松平家 |
父母 | 松平資訓、岡本氏 |
兄弟 | 資昌、加藤明煕正室ら |
子 | 資尹 |
松平 資昌(まつだいら すけまさ)は、遠江国浜松藩2代藩主。後に丹後国宮津藩初代藩主。本庄松平家4代。
生涯
[編集]延享元年(1744年)9月29日、三河吉田藩主松平資訓の三男として三河吉田で生まれる。父の養子となっていた資順が世嗣のまま死去したため、延享4年(1747年)2月2日に世子に指名される。宝暦2年(1752年)5月12日、父の死去により家督を継いで浜松藩主となる。
宝暦8年12月27日(1759年)、丹後宮津藩に移封される。宝暦11年(1761年)4月25日、病弱のため将軍に奉公が出来ないとして、領地の返上、または養子を貰い受け隠居することを願い出る。5月3日、幕府は養子相続と隠居を許可する。資昌は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族合意の願い出を受け、本庄松平家の桂昌院との縁から特例として家の存続が認められた[1]。11月27日、家督を養子の資尹に譲って隠居する。宝暦12年(1762年)1月18日に死去、享年19。