太田資宗
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長5年11月22日(1600年12月27日) |
死没 | 延宝8年1月22日(1680年2月22日) |
戒名 | 瑞華院殿道顯日應大居士 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下野山川藩主→三河西尾藩主→遠江浜松藩主 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 父:太田重正、母:都築秀綱の娘 |
兄弟 | 正重[1]、井上政重室、資宗、橋本資宣、遠山資為[2]、荒尾久成室 |
妻 | 板倉重宗の娘 |
子 | 稲葉正吉正室、資政[3]、資次、加藤泰義正室、永井尚庸継室、一柳末礼正室、資良[4]、土井利益正室、角倉玄恒室 |
太田 資宗(おおた すけむね)は、江戸時代前期の譜代大名、六人衆。下野山川藩主、三河西尾藩主、遠江浜松藩初代藩主。掛川藩太田家初代。太田重正の次男。
経歴
[編集]慶長5年(1600年)、徳川氏の家臣・太田重正の子として誕生。父の妹とされる人物に英勝院(徳川家康側室)がいる。
慶長11年(1606年)、7歳にして大御所・徳川家康に拝謁。慶長15年(1610年)、武蔵国豊島郡蓮沼に500石を領する太田家の家督を継ぐ[5]。また、家康の側近となって偏諱を与えられ、当初は康資(祖父と同名)と名乗った。
慶長17年(1612年)、下野の内で300石を加増[5]、元和元年(1615年)には更に200石を加増され[5]、家禄1,000石となる。また従五位下・摂津守に叙任された(のち采女正)。加増は続き、元和9年(1623年)に相模国高座郡の内で1,100石[5]、寛永5年(1628年)に上総国武射・下総国匝瑳二郡の内にて2,000石[5]、寛永6年(1629年)に遠江国山名、豊田両郡の内にて1,500石を加増され[5]、家禄5,600石となる。
寛永9年(1632年)、江戸幕府書院番頭から御小姓組番頭となる[5][注 1]。寛永10年(1633年)3月23日には、3代将軍・徳川家光の側近として松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次と共に六人衆となる(後年の若年寄に相当する)。
寛永12年(1635年)、下野国足利郡山川に1万石を加増され、ついに1万5,600石の大名に列せられ、備中守に叙任。寛永15年(1638年)、約2万石の加増を受け、3万5000石にて三河国幡豆郡西尾に移封。正保元年(1644年)、遠江国浜松に3万5000石をもって移封された。
また、寛永18年(1641年)には資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として本格的な武家系譜の編纂を開始。寛永20年(1643年)9月に武家系譜編纂書『寛永諸家系図伝』完成。将軍・家光に2部(真名本、仮名本)それぞれ186巻(計372巻)を献上した。
延宝8年(1680年)1月22日、81歳(数え年)にて死去。
系譜
[編集]父母
正室
- 板倉重宗の娘
側室
- 青木氏
子女
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 書籍
- 『藩史大事典 第2巻 関東編』 木村礎〔ほか〕編 雄山閣出版 1989.11
関連項目
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