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都築秀綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
都筑秀綱
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年(1533年
死没 慶長5年7月21日1600年8月29日
別名 通称:惣左衛門
主君 今川義元氏真本多忠勝
氏族 つづき氏
父母 父:都筑秀景
為政太田資正室(太田資宗母)?
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都筑 秀綱(つづき ひでつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将今川氏本多氏(平八郎家)の家臣。

経歴

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都築氏浜名湖北岸の遠江国引佐郡都筑所領を有する国人で、当初は今川氏に仕えた。

天文2年(1533年)、松下藤六郎為雲の二男として誕生[1]し、その後都筑雅楽助秀景の養子となった。永禄3年(1560年桶狭間の戦いでの今川義元の敗死後も引き続き仕えており、永禄9年(1566年10月1日付で、今川氏真から所領安堵の判物を拝領している。

永禄11年(1568年)末、三河国徳川家康が遠江に侵攻。年を越してなお侵攻した徳川方の本多忠勝戸田忠次らに降伏し、500貫の所領を安堵された。その後、家康が直属軍強化のために新設した旗本先手役の一員に加えられた。以後は部隊長・本多忠勝の与力となった。天正18年(1590年)、徳川氏の関東への国替えに伴い、本多忠勝が城持ち大名に出世すると、秀綱は付家老に抜擢される。自身3,500石に寄子給2,500石を合わせた6,000石を公儀から拝領していたという。

慶長5年(1600年)、死去。

なお、秀綱と共に忠勝の配下でいた子・弥左衛門為政は、慶長6年(1601年)から徳川秀忠旗本となったため、本多家から離れた。孫で後の郡山藩筆頭家老である云成からは再び惣左衛門の通称を用いた。これにより、忠勝系本多氏の家老・都筑氏は都筑惣左衛門で定着する事となった。

脚注

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  1. ^ 干城録-都筑惣左衛門藤原秀綱”. 国立公文書館. 2022年10月30日閲覧。