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遠山友明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
遠山 友明
中津川市苗木遠山史料館所蔵
時代 江戸時代中期
生誕 享保元年12月26日1717年2月7日
死没 宝暦3年6月1日1753年7月1日
改名 松平越之進→遠山友張→遠山友明
戒名 見性寺殿前佐州大守一嶽道安居士
墓所 岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所
官位 従五位下丹後守→佐渡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
美濃苗木藩
氏族 石岡松平家→苗木遠山氏
父母 父:松平頼明、母:留与
養父:遠山友央
兄弟 松平頼永友明松平武元松平頼幸亀井茲胤織田信右正室、松平信友正室
正室:遠山友央長女
長男:友随[1]、次男:友充(相良福将)[2]
養子:友清[3]
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遠山 友明(とおやま ともあき)は、江戸時代中期の大名美濃苗木藩の第8代藩主。

略歴

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享保元年(1717年)12月26日、常陸府中藩松平頼明の三男として生まれた。母は久野安静の娘留与。

享保18年(1733年)3月11日、第7代藩主・遠山友央の養嗣子となって、4月5日に遠山家に移り、その後、友央の長女と婚姻した。

同年5月1日、将軍・徳川吉宗御目見した。同年12月18日、従五位下に叙任され丹後守と称した。

享保19年(1734年)2月12日、名を友張に改名した。

元文5年(1740年)8月27日、友央が隠居したため家督を嗣いだ。

寛保元年(1741年)4月24日に江戸を出発し、5月1日に初めて苗木城へ入城した。

寛保2年(1742年)6月2日、佐渡守に改めた。

寛保3年(1743年)9月5日、9月5日、妻の俊[4]が16歳で没し、江戸高輪東禅寺に葬った。

延享2年(1745年)1月29日、友央の長男の左吉(遠山友清)を養子とした。

享保17年(1732年)閏5月25日、500石の旗本であった友央が、遠山友将の死去により、末期養子として苗木藩主を相続した際に、旗本として分知されていた500石を飛騨に近い加茂郡佐見村の4村(大野・小野・寺前・吉田)を幕府に渡し、高山陣屋飛騨郡代の支配下となっていたが、

延享2年(1745年)7月、高山陣屋の飛騨郡代が長谷川庄五郎から幸田善太夫に替わると、佐見村の内で210石は本田であるが、290石は新田なので上知できないので別の村から本田を290石差し出すように求められた。

そのため下野村369石のうち、290石を幕府(高山陣屋の飛騨郡代)に渡し、残り79石は苗木藩に残した。そのことにより、佐見村内の新田分の290石は苗木藩に戻った。

延享5年(1748年)5月15日、友明に改名した。

江戸の呉服橋御門番・日比谷御門番・常盤橋御門番を勤めた。

宝暦3年(1753年)春に発病し、6月1日に江戸で没した。友央の長男で養嗣子の友清が苗木藩主を嗣いだ。享年37歳。

墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。

参考文献

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  • 『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 八代丹後守友明 p13~p14 後藤時男 中津川市 1982年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山丹後守友明 p48 中津川市 1988年 
  • 『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山友明 p235 恵那郡教育会 1926年 
  • 『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1~p8 福岡町 1992年
  • 『美濃苗木 遠山家譜』(写本)、東京大学史料編纂所

脚注

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  1. ^ 遠山友清の養子
  2. ^ 相良頼完の養子
  3. ^ 遠山友央の長男
  4. ^ 寶勝院殿玉室智明大姉