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遠山友春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
遠山友春
中津川市苗木遠山史料館所蔵
時代 江戸時代初期
生誕 寛文元年6月6日1661年7月2日
死没 正徳4年2月26日1714年4月10日
別名 幼名:五郎八、隠居後:友山
戒名 大安寺殿前泉州太守泰華友山居士
官位 従五位下・和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継
美濃苗木藩
氏族 苗木遠山氏
父母 父:友貞、母:久世広之の娘
兄弟 長男:友春・娘:(大久保忠香室)・娘:(浅野長恒正室)
娘(滋野井教広室)
正室:伊東長貞の娘、継室:俊(織田長政の娘)
次男:友由・三男:友央・娘(阿部正晴正室)・娘(新庄直祐正室)
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遠山 友春(とおやま ともはる )は、美濃苗木藩の第4代藩主。幼名は五郎八。

略歴

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寛文元年6月6日1661年7月2日苗木城で生まれた。

延宝3年(1675年)7月6日、父の友貞の死去により苗木藩主を嗣ぎ、7月26日には、将軍・徳川綱吉に御目見えした。同年9月には藩内における奉行の不正取締りを行なった。

延宝4年(1676年)12月26日、従五位下・和泉守に叙任された。

延宝5年(1677年)5月、藩主となって初めて苗木城へ入城した。

伊東長貞の娘と婚姻していたが、延宝7年(1679年)12月26日に没したため、江戸高輪東禅寺に葬った。

その後、俊(織田長政の娘)を娶った。

延宝8年(1680年)8月31日、鳥羽藩内藤忠勝改易されたので鳥羽城を在番を命じられ、家老の纐纈藤左衛門・用人の小池傳兵衛・旗頭の石垣荘右衛門・鉄炮頭の伊藤十郎太夫・弓頭の纐纈勘右衛門・槍頭の陶山茂左衛門・平士の棚橋源太左衛門・鈴木金左衛門・長沼八郎左衛門・普請奉行の纐纈市左衛門・東紋太夫・賄役の宮地藤兵衛が随行した。

天和元年(1681年)4月、土井利益が鳥羽藩主となって入城すると引き渡した。

天和元年(1681年)6月15日、幕府の巡見使が苗木領内を通行した際には田瀬村で昼食を供した。

貞享3年(1686年)6月23日、千村平蔵義道を幕命により預かった。

貞享6年(1689年)以後は、呉服橋門番、日比谷門番、幸橋門番、駿府加番、半蔵門番、増上寺の火の番などを勤めた。

元禄8年(1695年)、駿府城加番を任じられ、老臣の田邊紋右衛門・用人の小倉猪兵衛・小池市郎左衛門らを伴って赴任し、翌年まで駐在した。

元禄15年(1702年)7月、岩村藩主の丹羽氏音越後高柳藩への移封にあたり江戸から帰国し、老臣の宮地守右衛門らを伴って岩村城へ赴き、信濃飯田藩主の堀親賢と共に岩村城の請取役を務め、友春は二の丸、堀親賢は本丸、それぞれ7月29日に請取を完了した。

信濃小諸藩より松平乗紀が岩村藩の第8代藩主として2万石で岩村城に来城する前の10月29日まで在番し松平家の家臣に岩村城を引き渡した。

正徳2年(1712年)2月16日、家督を次男の遠山友由に譲って隠居し、友山と称した。

正徳4年(1714年)2月26日に54歳で没した。墓所は中津川市苗木の苗木遠山家廟所。

参考文献

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  • 『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 四代和泉守友春 p10~p11 後藤時男 中津川市 1982年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山和泉守友春 p46~p47 中津川市 1988年 
  • 『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山友春 p233~p234 恵那郡教育会 1926年 
  • 『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1~p8 福岡町 1992年

脚注

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