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{{multiple image|perrow=1|total_width=270|caption_align=center|align=right|direction=horizontal|header=仏教美術|image1=Gandhara Buddha (tnm).jpeg|caption1={{仮リンク|ガンダーラの如来立像 (東京国立博物館)|en|Standing Buddha from Gandhara, Tokyo|label=如来立像}} <!--TC-733-->ガンダーラ出土 [[クシャーナ朝]] 2-3世紀 [[東京国立博物館]]蔵<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6143|title=インド・ガンダーラの彫刻|accessdate=2021-05-18|publisher=[[東京国立博物館]]|archivedate=2021-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210518025508/https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6143}}</ref>}}
'''仏教美術'''(ぶっきょうびじゅつ)は、[[仏教]]信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための[[美術]]の総称である<ref group="注釈">英語において対応する"Buddhist Art"など、他の言語においては[[視覚芸術]]以外の芸術も含まれうる。</ref>。これらには、[[仏陀]]や[[菩薩]]、実在・伝説上の[[仏の一覧|尊格]]や尊者、[[祖師]]、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、[[曼荼羅]]や修行のための図像、さらに、[[ストゥーパ]]や塔門、寺院などの建築や、[[金剛杵]]などの仏具が挙げられる<ref name="What is Buddhist Art">{{Cite web|title=What is Buddhist Art?|url=http://buddhistartnews.wordpress.com/what-is-buddhist-art/|publisher=Buddhist Art News|accessdate=2014-01-27}}</ref>。本項においては、仏教に関する芸術のうち、おもに視覚的なものについて解説する。


仏教美術は、[[釈迦]][[入滅]]以降の[[インド亜大陸]]で興り、[[法 (仏教)|仏法]](ダルマ)と[[僧伽]](サンガ)が拡がるのと同様、仏教が伝来したアジア各地で発展した([[#インド仏教美術]])。インド北部から[[中央アジア]]を経由して、[[東アジア]]へと至り、北伝仏教美術が生まれた一方([[#北伝仏教美術]])、[[東南アジア]]では主に南伝仏教の美術が生まれた([[#南伝仏教美術]])。インドでは、先行する[[バラモン教]]の理論を取り入れ{{Sfn|エリアーデ|1991|pp=225-227}}、[[ヒンドゥー教]]や[[ジャイナ教]]とともに洞窟寺院をつくったように、各地でも、在来宗教を取り込み、独自の発展をした{{Sfn|吉田|2006|pp=152-153}}<ref name="blurton113">T. Richard Blurton (1994), ''Hindu Art'', Harvard University Press, {{ISBN2|978-0674391895}}, pp. 113–116, 160–162, 191–192</ref>。
'''仏教美術'''(ぶっきょうびじゅつ)とは、[[仏教]]に関係する[[美術]]である。[[仏教]]の影響を受ける[[芸術|芸術的習慣]]を[[釈迦|仏]]、[[菩薩]]および他のエンティティを描写技術の媒体をとおした歴史的神話的に著名な仏像これらすべての生活からの物語のシーンを[[曼荼羅|マンダラ]]および他のグラフィック教材で仏教の慣行に関連するものを物理的に表す、たとえば [[金剛杵|バジュラス]]、鐘、[[仏塔]]、仏教寺院の建築物など <ref>{{Cite web|title=What is Buddhist Art?|url=http://buddhistartnews.wordpress.com/what-is-buddhist-art/|publisher=Buddhist Art News|accessdate=2014-01-27}}</ref>が挙げられるが 仏教美術は、紀元前6世紀から5世紀にかけての[[釈迦|シッダールタゴータマ]]の歴史的生活の後に[[インド亜大陸]]で始まり、その後、アジアや世界に広がる他の文化との接触によって発展。


[[日本語]]においては、[[明治期]]の日本で行われた欧米的な美術教育において「美術」の概念、およびその下位概念である「絵画」・「彫刻」・「工芸」が新たに輸入・導入されたことにより、仏像・仏画・仏具が[[日本美術]]のなかで仏教美術として捉えられるようになった([[日本美術史]]){{Sfn|君島|2023|p=166}}。
仏教の芸術は信者に続きダルマは新しいホスト国ごとに広がり、適応し進化。北へと開発された[[中央アジア]]と中[[東アジア]]仏教美術の北の枝を形成するために、そして東の限りに[[東南アジア]]仏教美術を形成し インドでは、仏教美術が繁栄し、[[ヒンドゥー教]]と[[ジャイナ教]]の芸術と共同開発され、それぞれが互いに影響を及ぼしている洞窟寺院のように複合体として一緒に構築されていく <ref name="blurton113">T. Richard Blurton (1994), ''Hindu Art'', Harvard University Press, {{ISBN2|978-0674391895}}, pp. 113–116, 160–162, 191–192</ref>。


== 仏教美術の分野 ==
== インド仏教美術 ==
[[ファイル:Footprints of the Buddha (2nd century, Yale University Art Gallery).jpg|サムネイル|[[仏足石]] [[クシャーナ朝]] 2世紀頃 [[コネチカット州]]、{{仮リンク|イェール大学美術館|en|Yale University Art Gallery}}蔵]]
{{Portal 仏教}}
=== 無仏像時代(紀元前5世紀 - 紀元前1世紀) ===
{{See also|[[:en:Aniconism in Buddhism|Aniconism in Buddhism]]|インド美術#古代初期|{{仮リンク|空の玉座|en|Hetoimasia}}}}


==== なぜ仏像は作られなかったのか? ====
* [[仏教建築]]
最初期の仏教において、釈迦は人間の形で表されることはなく(不表現、英:aniconism)、{{仮リンク|仏教のシンボル|en|Buddhist symbolism}}によって描写された{{Sfn|立川|2006|p=54}}。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる<ref>{{Cite journal|author=[[田辺理]]|year=2016|title=見えない仏陀から見える仏陀へ ── 仏陀可視化と仏像の起源について ──|url=https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2016/10/Rilas04_291-301_Tadashi-TANABE.pdf|journal=WASEDA RILAS JOURNAL|volume=4|page=295|ISSN=21878307}}</ref>。
* [[仏教絵画]]
* [[仏像]]
* [[仏具]]


# 仏教以前に主流であった[[バラモン教]]が偶像を必要としなかったので{{Refnest|group=注釈|儀式と哲学が発達したバラモン教においては、火を通じて神々に供物を捧げることはあっても、偶像に対して崇拝を行うことはなかった{{Citebook|last= A. Foucher|first=Alfred|author=[[アルフレッド・フーシェ]]|author2=Thomas, Frederick William|author3=Thomas, L. A.|lang=en|title=Beginnings of Buddhist art, and other essays in Indian and Central-Asian archæology|origyear=1917|LCCN=510762|language=en|url=https://digital.soas.ac.uk/AA00000883/00001|accessdate=2021-06-09}}。ゆえに、ヴェーダ時代の宗教建築や神像はほぼ遺されていない。なお、「バラモン教」という呼称はヨーロッパ人によって付けられたものである。}}、造像の発想自体が無かった<ref name="TBI">{{cite book|last1=Krishan|first1=Yuvraj|last2=Tadikonda|first2=Kalpana K.|title=The Buddha Image: Its Origin and Development|date=1996|publisher=Bharatiya Vidya Bhavan|isbn=978-81-215-0565-9|pages=ix-x|url=https://books.google.com/books?id=kDyJh--iaL0C&pg=PP13}}</ref>。
== 歴史 ==
# {{仮リンク|反偶像主義|en|aniconism}} - 釈迦入滅後数百年間は、「[[群盲象を評す|眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる]]」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
# 涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった<ref group="注釈">当時の仏教徒は、ブッダが悟りを開いたことで人間を超越した存在(不可視)になったと考えていたようである。</ref>{{Sfn|朴|2016|25}}。
#[[三十二相八十種好]]に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため{{Refnest|group=注釈|ただし、三十二相八十種好のうちのいくつかは[[ジャイナ教]]と共有されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8|title=三十二相 - 新纂浄土宗大辞典|accessdate=2021-03-06|publisher=[[浄土宗]]}}</ref> 一方で、この様式が一揃いのものとして確立したのは4世紀から5世紀にかけてのことである<ref>{{Cite journal|author=金順子|year=2017|title=三十二相・八十種好と波羅蜜 ――『Karun・ āpun・ d・ arīka』を中心として――|journal=大正大学大学院研究論集|volume=41|page=103}}</ref>。}}。
仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにもかかわらずである){{Sfn|立川|2006|pp=56-58}}。この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。


紀元前3世紀に石像が登場する以前、木像や金属像があったとの仮説もある{{Sfn|定金|2020|p=229}}。
=== 前氷期(5世紀– 1世紀BCE) ===
[[ファイル:012_Sujata's_Offering_on_left,_Mara's_Attack_on_right_(33541908380).jpg|中央|サムネイル|660x660ピクセル|[[スジャーター]]の乳粥供養(左)と[[マーラ|降魔成道]](右) [[1世紀]] [[サータヴァーハナ朝]] サーンチー第1塔北門欄楯 釈迦は左端に彫られている[[ゴータマ・ブッダの菩提樹|菩提樹]]によって暗示されている<ref>Marshall [https://archive.org/stream/in.ernet.dli.2015.459148 p. 53 英語]</ref>。]]
{{See also|[[:en:Aniconism in Buddhism|Aniconism in Buddhism]]}}[[ファイル:Buddha-Footprint.jpeg|右|サムネイル| [[釈迦|仏]]の足跡。紀元前1世紀、[[ガンダーラ]]。]]
紀元前2世紀から1世紀にかけて、彫刻はより明確になり、仏の生活と教えのエピソードを表していく。これらは、通常は仏塔の装飾に関連して、奉納板または[[フリーズ (建築)|フリーズ]]形をとっておりインドには長い彫刻の伝統と豊かな図像の習得があるが仏は人間の形で表現されることはなく、[[仏教の象徴|仏教の象徴性]]によってのみ表現されるためこの時期は[[仏教におけるアニコニズム|異様]]だったかもしれない。


==== 仏像以前の仏教美術 ====
芸術家は仏を擬人化して描くことに消極的であり、そうすることを避けるために洗練された異様な象徴を開発(他の人物が登場する物語のシーンでも)するがこの傾向は[[Guntur地区のAmaravathi村|アマラバティ派]]の芸術においてインド南部で西暦2世紀まで続き(参照: [[マーラ|マーラの仏に対する攻撃]] )、仏の以前の擬人化された表現は木でできていて以来消滅したかもしれないと主張されてきた。しかし、関連する考古学的証拠は発見されてはいない。
{{Seealso|インド美術#宗教美術の用語}}
[[初期仏教]]の時代は、建築や装飾美術において、後代の造像につながる様式が確立された。ストゥーパは、釈迦の墓であり、[[ダルマ (インド発祥の宗教)|ダルマ]]の象徴であり、[[涅槃]]へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ{{Refnest|group = "注釈"|チャイティヤは本来、ヤクシャやラクシャスが棲む聖樹であり、一種の依代であったが、ストゥーパ信仰と融合した{{Sfn|宮治|1999|p=84}}。}})であった{{Sfn|山田|1999|p=60}}{{Sfn|宮治|1999|p=84}}。


インド亜大陸の大部分を版図に治めた[[マウリヤ朝]]の第3代[[アショーカ王]](紀元前3世紀半ば)は、戦いでの傷心から仏に帰依し、入滅時に8基のストゥーパに分けられた[[舎利]]を分配し、8万4千ものストゥーパと、象・牡牛・馬・獅子を頂に抱いた石柱を築いたとされる{{Sfn|宮治|2000b|pp=10-11}}{{Sfn|秋山|2000|pp=53-56}}{{Sfn|中村ほか|2002|p=2}}。釈迦の彫刻は作られなかったものの、仏教由来でない、ヤクシャ、[[ヤクシニー (夜叉)|ヤクシー]]といった[[夜叉]]・善神像が制作された{{Sfn|宮治|1999|p=93}}{{Sfn|宮治|2000b|p=11}}{{Sfn|高田|1962|p=130}}{{Sfn|前田|2012|p=38}}{{Refnest|group=注釈|仏陀に先んじて夜叉などの民間信仰に由来する神々が仏教美術に登場したのは、パトロンであった仏教徒や制作に携わった職人たちが、仏陀の教えと矛盾することなくこれら諸神を信仰していたという背景がある{{Sfn|高田|1962|p=130}}。なお、ヤクシー・ヤクシャはいずれも[[ヴェーダ]]の神々とは異なった出自を持っている。}}。
インドの仏教美術の最も初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼるがブッダガヤの[[ブッダガヤの大菩提寺|マハーボディ寺院]]は、ビルマとインドネシアの同様の構造のモデルになる。[[シーギリヤ|シギリヤ]]のフレスコ画は、[[アジャンター石窟群|アジャンタ洞窟]]の絵画よりも古いと言われているという <ref>[http://www.frontline.in/archives.htm Buddhist Art] Frontline Magazine 13–26 May 1989</ref>。


紀元前2世紀、マウリヤ朝は[[シュンガ朝]]によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また紀元前1世紀にかけて、釈迦の人生と説法を描いた[[仏伝図]]や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる{{Sfn|宮治|1999|p=4}}。[[奉納]]を目的として石板や[[フリーズ (建築)|フリーズ]]に彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としては[[サーンチー|サーンチー第1塔]]の[[:en:Sanchi#Satavahana period (1st century BCE – 1st century CE)|塔門浮彫]]([[サータヴァーハナ朝]])と[[バールフット|バールフットの欄楯]]が挙げられる。
=== 象徴的なフェーズ(1世紀CE –現在) ===
{{see also|w:Greco-Buddhist art|w:Mathura art|w:Amaravati Marbles}}中国の歴史文学ではハン・ウーディが仏を崇拝することについては他に言及はないが、壁画は仏像が紀元前2世紀にすでに存在していたことを示唆し、それらをインド・グリークスの時代に直接結び付けている。


インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。[[ブッダガヤ]]の[[ブッダガヤの大菩提寺|マハーボディー寺院]]は、[[ビルマ]]と[[インドネシア]]で同様の構造の寺院が建造された。[[スリランカ]]、[[シーギリヤ|シギリヤ]]のフレスコ画は、制作年代において[[アジャンター石窟群|アジャンタ洞窟]]のものよりも遡るとされている <ref>[http://www.frontline.in/archives.htm Buddhist Art] Frontline Magazine 13–26 May 1989</ref>。<gallery mode="nolines">
仏の擬人化された表現は、[[北インド|インド北部]]の1世紀の[[ビマラ]]のから現れ始めたが[[パキスタン]]、[[アマラヴァティ・マーブル|アマラバティ]]、インド中部北部の[[マトゥラー|マトゥラ]]地方の3つの主要な創造の中心地は、現在の[[カイバル・パクトゥンクワ州|北西フロンティア州]]の[[ガンダーラ]]と特定されている。
Peace at Sanchi Stupa.jpg|[[サーンチーの塔]] [[紀元前2世紀|紀元前2世紀]]から[[紀元前1世紀|1世紀]]ごろ 建造から数世紀かけ段階的に増築が繰り返された。釈迦の遺骨([[仏舎利]])を安置する[[ストゥーパ]]の周囲四辺には塔門([[トーラナ]])が配されている。インドにおけるこれらトーラナには、仏生図や本生図などが描かれた。
Sarnath capital.jpg|『[[アショーカの獅子柱頭]]』 [[アケメネス朝]]との交流に基づく、ペルシャ美術の影響が見られる。
MaraAssault.jpg|『降魔成道』 2世紀 {{仮リンク|アマラヴァティ (グントゥール県)|en|Amaravathi, Guntur district|label=古都アマラヴァティ}}出土 [[ギメ東洋美術館]]蔵 瞑想中の仏陀を[[マーラ]]が襲う。このレリーフにおいては、不可視である仏陀が{{仮リンク|空の玉座|en|Hetoimasia}}で暗示されている。
Bharhut Pasenadi Pillar - Dharmachakra.jpg|[[バールフット]]、[[プラセーナジット|プラセーナジット王]]と[[法輪]]のレリーフ
</gallery>


=== 仏像時代(紀元1世紀 - 現在) ===
ヘレニズム文化は、332年の[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の征服中にガンダーラに導入され [[マウリヤ朝|マウリヤ帝国]]の創設者である[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタマウリヤ]] (西暦前321–298年)は、紀元前305–303年の[[セレウコス・マウリヤ戦争|セレウコス朝戦争]]中にマケドニアのサストラップを征服するがインド亜大陸で最大の帝国を形成したチャンドラプタの孫[[アショーカ王|アショカ]] (r。268–232 BCE)は [[カリンガ戦争]]の後に仏教徒に改宗。アショカは拡張主義イデオロギーを捨て、そしてアショカの[[アショーカ王碑文|令]]に記述されているように帝国全体に宗教と哲学を広めるために始動した。アショカは彼の領内のギリシャの影響を仏教へと変えたと主張しているという:
{{see also|w:Greco-Buddhist art|w:Mathura art|w:Amaravati Marbles|インド美術#古代中期}}
[[ファイル:Coin of Kanishka I.jpg|左|サムネイル|[[カニシカ王]]の[[金貨]] [[2世紀]] 裏面には仏陀の肖像と[[ギリシア語|ギリシャ語]]で"ΒΟΔΔΟ"(ボッド、すなわち[[仏陀]])と刻印されている。]]
2020年時点で、最古の仏像は、ガンダーラかマトゥラー産か、結論が出ていないが{{Sfn|宮治・福山|2020b|p=20}}、[[イラン系民族|イラン系]]の王朝、[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世|カニシカ王]](在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。[[カラチ博物館]]所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう{{Sfn|山田|1999|p=82}}。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、[[北インド]]のマトゥラーと[[南インド|南東インド]]のアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた{{Sfn|朴|2016|p=36}}。


なお、初期仏教の末期に成立したとされる『[[増一阿含経]]』には造仏像の功徳を説く記述が存在する([[ウダヤナ|優填王]]造仏像伝説)<ref>『増一阿含経』巻28、[[大正大蔵経]]2,705c</ref>。ただし、これに対応するパーリ語経典『[[増支部]]』には、この記述は存在しない。[[ファイル:Fasting_Buddha_Sikri_Yusufzai_stupa,_Lahore_Museum.jpg|サムネイル|『仏陀苦行像』 [[カイバル・パクトゥンクワ州]]シクリ(Sikri)出土 {{仮リンク|ラホール博物館|en|Lahore Museum}}蔵<ref>{{Cite web|url=https://artsandculture.google.com/asset/_/QgGcgQazjovxxg|title=Fasting Siddhartha|accessdate=2021-04-18|publisher=[[Google]]}}</ref>]]
{{quote|Here in the king's domain among the Greeks, the [[Kambojas]], the Nabhakas, the Nabhapamkits, the Bhojas, the Pitinikas, the Andhras and the Palidas, everywhere people are following Beloved-of-the-Gods' instructions in [[Dharma]]<ref>''[[Edicts of Ashoka|Rock Edict Nb13]]'' (S. Dhammika)</ref>}}
ヘレニズム文化は、[[紀元前4世紀]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の征服によってガンダーラにもたらされた。 [[マウリヤ朝|マウリヤ帝国]]の建国者である[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]](在位[[紀元前321年|紀元前321]]–[[紀元前298年|298年]])は、4世紀末の{{仮リンク|セレウコス・マウリヤ戦争|en|Seleucid–Mauryan war}}でインド北西部の[[マケドニア王国|マケドニア]]領([[サトラップ]])を征服した。そのチャンドラプタの孫である[[アショーカ王]](在位[[紀元前268年|紀元前268]]-[[紀元前232年|232年]])は[[インド亜大陸]]に覇を唱えたが、[[カリンガ戦争]]の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している:
[[シュンガ朝|シュンガ]]帝国によるモーリシャス帝国の転覆後、[[グレコ・バクトリア王国|グレコ・バクトリア]] [[シュンガ朝|朝]]とその後の[[インド・グリーク朝|インド・ギリシャ]]王国がインド北西部に侵入し 彼らは亜大陸の他の地域へのグレコ仏教芸術スタイルの普及を促進。インド・ギリシャ王[[メナンドロス1世|メナンデル1世]]は、仏教の偉大な後援者として有名で、[[阿羅漢|アラハト]]の称号を獲得し <ref>"(In the Milindapanha) Menander is declared an arhat", McEvilley, p. 378.</ref> その間、[[プシャミトラ|プシュヤミトラ・シュンガ]]は仏教を迫害。[[プシャミトラ|モーリアン]]帝国の遺産をさらに消し去るためだと思われているが <ref>Simmons, Caleb; Sarao, K. T. S. (2010). "Pushyamitra Sunga, a Hindu ruler in the second century BCE, was a great persecutor of Buddhists". In Danver, Steven L. Popular Controversies in World History. ABC-CLIO. p. 89. {{ISBN2|978-1598840780}}</ref> これにより、マトゥラ東部の仏教美術が衰退した。


{{quote|……同様にして、ここ王の領土において、〔すなわち〕 {{Underline|[[:en:Yona|ヨーナカ]]}}([[ギリシャ人]])、 [[カンボージャ]]、ナーバカ、ナーバパンティ、ボージャ、 ピティニカ、アンドラ、パーリンダにおいて、到る処で、〔人びとは〕天愛の[[法 (仏教)|法]]の教誡に従っている。<ref>''[[アショーカ王碑文|摩崖奉勅第13章]]'' ([[塚本啓祥]])</ref>|4=[[アショーカ王碑文]]|}}アショーカ王の時代には[[過去七仏|過去仏]]信仰がすでに始まっていた{{Sfn|熊谷|1979|p=683}}。初期の仏像美術において、歴史的な仏陀も過去七仏の一つである[[釈迦牟尼仏]]も(大乗仏教成立以降は[[阿弥陀仏]]も)、瞑想する仏陀として同様の表現方法が行われた。それゆえに、仏陀の周囲に施された装飾が文脈を理解し、どの仏陀であるか判別する上の鍵となる{{Sfn|サダーティッサ|1984|p=65}}。
ガンダーラン仏教の彫刻は人物や装飾品の形で[[インドの芸術に対するヘレニズムの影響|ヘレニズムの芸術的影響]]を示しており、数は以前にインドで知られているものよりもはるかに多くまたより自然で、新たなディテールには波状の髪、両肩を覆うカーテン、靴とサンダル、および[[アカンサス (装飾)|アカンサス]]の葉の装飾が含まれている。{{citation needed|date=April 2018}}
[[File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|サムネイル|マトゥラー派仏Ku、[[クシャーナ朝|クシャン時代]]]]
マトゥラの芸術は、[[夜叉|ヤクサス]]などの神性の擬人化された表現によって例示されるインドの伝統に基づいている傾向があるが仏のその後の表現と比較してかなり古風なスタイルでマチュラン派は、薄い[[モスリン]]の左肩、手のひらの車輪、蓮華座を覆う服を付与した。{{citation needed|date=April 2018}}


==== ガンダーラ(クシャーナ朝以前) ====
MathuraとGandharaも互いに影響を与え 芸術的な花の咲く間2つの地域はどちらも帝国の首都である[[クシャーナ朝|Kushans]]の下で政治的に統一されており仏の擬人化された表現が本質的にマトゥラでの仏教美術の局所的進化の結果であるのか、それともギリシャ[[グレコ仏教|仏教]]の[[シンクレティズム|統合主義]]によるガンダーラのギリシャ文化の影響の結果であるのかは、依然として議論の問題である。[[ファイル:Bodhisattva_Padmapani,_cave_1,_Ajanta,_India.jpg|左|サムネイル| オーバー等身大フィギュア[[菩薩]] [[聖観音|Padmapani]]、洞窟1、[[アジャンター石窟群]]、5世紀]]この象徴的なアートは、現実的な理想主義によって最初から特徴づけられ、現実的な人間の特徴、プロポーション、態度、属性を、神に届く完璧さと静けさの感覚と組み合わさり、人間と神の両方としての仏のこの表現は、その後の仏教美術の図像的な規範となった。{{citation needed|date=April 2018}}
*詳細は[[ガンダーラ美術]]も参照


紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝が[[シュンガ朝]]によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であった[[グレコ・バクトリア王国]]やそれに続く[[インド・グリーク朝]]の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、{{仮リンク|ギリシャ式仏教美術|en|Greco-Buddhist art}}がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、[[メナンドロス1世]](ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには[[出家]]して[[阿羅漢|阿羅漢果]]<ref group="注釈">阿羅漢果とは、[[四向四果]]という仏教における修行の8段階のひとつで、すべての煩悩を断じ終って[[涅槃]]に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位のこと。</ref> を得たという<ref>"(In the Milindapanha) Menander is declared an arhat", McEvilley, p. 378.</ref>。
インドの初期の仏教絵画の残骸はほとんどないが、[[アジャンター石窟群|アジャンタ洞窟]]の後半の段階では、約480 CEまでの比較的短い期間に残された作品の大部分が残っており、これらは非常に洗練された作品であり、明らかによく発達した伝統で生産されており、おそらく宗教的な主題と同じくらい宮殿で世俗的な作品を描いているといえる。


また、この時代、紀元前1世紀には、[[上座部]]から分裂し教勢を増しつつあった[[説一切有部]]が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた{{Sfn|山田|1999|p=80}}。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。
インドでは仏教美術がさらに数世紀にわたって発展し続けたがピンク色のマトゥラの[[砂岩]]彫刻は [[グプタ朝|グプタ]]時代(西暦4世紀から6世紀)に進化し、非常に高い技術の細かさのモデリングと繊細さを実現している。グプタ派の芸術は、アジアの他の地域広域に非常に高い影響力があり 西暦12世紀の終わりには、仏教が栄光を極め、インドのヒマラヤ地域でのみ保存されるようになっていくがこれらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば[[ラダック]]の芸術と伝統はチベットと中国の影響の印をうけている。
[[File:Buddhist_Expansion.svg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Buddhist_Expansion.svg|右|サムネイル|240x240ピクセル|アジア全体での仏教の拡大。]]
仏教が西暦1世紀からインド国外に拡大するにつれて、そのオリジナルの芸術的パッケージは他の芸術的影響と混ざり合い、信仰を採用する国々の間で進歩的な差別化をもたらした。


紀元1世紀、北インドを統一した[[クシャーナ朝]]は、ガンダーラ地方の[[プルシャプラ]](現代の[[パキスタン]]、ペシャワール)を都と定め、[[仏典結集#第3回|第3回仏典結集]]を主催し、この頃すでに盛んになっていた[[大乗仏教]]・[[菩薩|菩薩信仰]]を保護した。
* 1世紀のCEから[[中央アジア]]、[[ネパール]]、[[チベット]]、[[ブータン]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[朝鮮|韓国]]、[[日本]]、[[ベトナム]]を経由して'''北部ルート'''が確立され、[[大乗仏教|大乗]]仏教が普及
* '''南ルート'''、[[上座部仏教|上座部]]仏教の影響下は、を経て[[ミャンマー]]、[[スリランカ]]、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、および[[ラオス]]


初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現において{{仮リンク|インド美術に対するヘレニズムの影響|en|Hellenistic influence on Indian art|label=ヘレニズムがインド美術に及ぼした影響}}をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪や[[コントラポスト]]、通肩<ref group="注釈">[[袈裟]]を両肩にのせる着衣法。</ref>、靴、[[サンダル]]、[[アカンサス (装飾)|アカンサス]]による装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや[[古代オリエント]]由来のものである。
== 北部仏教美術 ==
中央アジア、中国、そして最終的には韓国と日本へ[[仏教のシルクロード伝播|の仏教]]の[[仏教のシルクロード伝播|シルクロード]]の伝承は、中国皇帝[[明帝 (漢)|明]] (58–75)によって西に送られた大使館の半伝説的な説明から1世紀に始まるがしかし恐らく多くの中央アジアの仏教修道士宣教師の努力で [[タリム盆地|タシャン盆地]]の中国領土への[[クシャーナ朝|クシャン帝国]]の拡大の結果として、大規模な接触は西暦2世紀に始まったといえる。[[支婁迦讖|ロカクセマ]]のような仏教経典の[[中国語]]への最初の宣教師と翻訳者は [[パルティア|パルティア人]]、[[クシャーナ朝|クシャン]]、[[ソグディアナ|ソグド人]]または[[トカラ語|クチェアン]] とされる。


2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた{{Sfn|山田|1999|p=117}}。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ([[観音菩薩|観音]])信仰やマイトレーヤ([[弥勒菩薩|弥勒]])が始まると、[[現世利益]]のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる{{Sfn|山田|1999|p=110}}。[[File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|サムネイル|{{仮リンク|マトゥラーの美術|en|Mathura art|label=マトゥラー様式}}の仏像 {{仮リンク|北クシャトラパ|en|Northern Satraps}}([[インド・スキタイ王国]]) 1世紀末頃<ref name="PDM122">{{cite journal|last1=Myer|first1=Prudence R.|date=1986|title=Bodhisattvas and Buddhas: Early Buddhist Images from Mathurā|journal=Artibus Asiae|volume=47|issue=2|pages=111–113|doi=10.2307/3249969|issn=0004-3648|jstor=3249969}}</ref>]]
[[シルクロード]]に沿った中央アジアの宣教活動には、現代の[[新疆ウイグル自治区]]タリム盆地で2世紀から11世紀までの[[セリンドアート|セリニアン美術]]の発展に見られる芸術的影響の流れが伴い、セリンインド[[グレコ・ブッディスト美術|美術]]はインド、ギリシャ、[[ローマ美術|ローマ]]の影響を組み合わせた、現在の[[パキスタン]] [[ガンダーラ]]地区の[[グレコ・ブッディスト美術|グレコ仏教美術]]に由来している。シルクロードグレコ仏教の芸術的影響は、建築モチーフ、仏像そして[[神 (神道)|日本の神々の厳選された]]表現にみれるので今日まで日本にまで及んでいることがわかる。


==== マトゥラー ====
北部ルートの芸術は伝統的な[[阿含経|アーガマ]]に加えて、新しい字の採用と仏教の理解の変化を特徴とする仏教の包括的な枝である[[大乗仏教|マハーヤナ]]仏教の発展によっても大きな影響を受け、大乗は伝統的な超えて[[部派仏教|初期の仏教]]の苦しみからの解放([[苦 (仏教)|duḥkha]]の理想的) [[阿羅漢|arhats]] と[[菩薩]]の道を強調しているが、マハーヤナ経は仏を超越的で無限の存在に昇格させて [[波羅蜜|六つの完全性]]、究極の知識( [[般若経|Prajñāpāramitā]] )、悟り、すべての衆生の解放に専念する[[般若経|般若]]パンテオンを特徴としている。したがって北部仏教芸術はさまざまな[[成仏|仏像]]、[[成仏]]像、および天体( [[天部|devas]] )といった多数の画と像を備え非常に豊かで統合的な仏教のパンテオンによって特徴付けられる傾向がある。
紀元前から紀元後1世紀の[[マトゥラー]]は、宗教都市であると同時に、[[ガンジス川]]の支流[[ヤムナー川]]に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀には[[シュンガ朝]]の[[プシャミトラ|プシュヤミトラ]]の支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが <ref>Simmons, Caleb; Sarao, K. T. S. (2010). "Pushyamitra Sunga, a Hindu ruler in the second century BCE, was a great persecutor of Buddhists". In Danver, Steven L. Popular Controversies in World History. ABC-CLIO. p. 89. {{ISBN2|978-1598840780}}</ref>、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式については[[ヘレニズム]]由来ではなく、同地における[[マウリヤ朝]]以来の他宗派の芸術([[夜叉|ヤクシャ像]]、[[ヤクシニー (夜叉)|ヤクシー像]][<nowiki/>[[バラモン教]]]・[[マハーヴィーラ|ジナ像]][<nowiki/>[[ジャイナ教]]])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている{{Sfn|朴|2016|p=36}}。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の[[肉髻]])、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。[[白毫相]](白い毛房)、[[耳たぶ|耳朶]]の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは[[三十二相八十種好]]で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである{{Refnest|三十ニ相の内容は、経典によって差異が認められる。したがって、インド大陸各地方での造像の展開に伴って、段階的に整理されていったと考えられる{{Sfn|前田|2012|p=35}}。|group=注釈}}。[[ファイル:Bodhisattva_Padmapani,_cave_1,_Ajanta,_India.jpg|左|サムネイル| 『守門神(蓮華手菩薩)』[[アジャンター石窟群|アジャンター石窟]]第1窟 [[5世紀]] アジャンターの石窟に描かれた壁画は、総体としてはこのような尊像よりも、説話図や装飾画の方が割合としては大きい。]]
<!-- ==== アマラ―ヴァティー ====
AmaravatiScroll.JPG
==== グプタ ====
朴pp.38-40 -->
==== 後期石窟寺院美術 ====
インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、[[アジャンター石窟群|アジャンター石窟]]の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している{{Sfn|朴|2016|p=43}}。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、[[バラモン教]]からの民衆化・世俗化が進展しつつあった[[ヒンドゥー教]]の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。


インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。[[グプタ朝|グプタ]]時代([[4世紀]]から[[6世紀]])には、マトゥラーの[[砂岩|赤色砂岩]]彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。この時期には、マトゥラー様式の影響が及んだサールナートで白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方{{Sfn|朴|2016|40}}、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。この時代の傑作、「初転法輪仏坐像」に見られるように、サールナート様式はマトゥラー様式と比べて相貌が穏やかになり、装飾もより一層繊細なものになった{{Sfn|朴|2016|40}}。サールナート様式は、後期石窟美術やナーランダーの仏像美術にも影響を与えた点でも重要といえる。
=== アフガニスタン ===<!-- Deleted image removed: [[File:GBA1(trimmed).jpg|thumb|upright|Statue from a Buddhist monastery, 700&nbsp;AD, Afghanistan]] -->
[[ファイル:Buddha in Sarnath Museum (Dhammajak Mutra).jpg|サムネイル|{{仮リンク|サールナート初転法輪仏坐像|en|Dharmachakra Pravartana Buddha at Sarnath}} [[サールナート]] 砂岩 5世紀末 {{仮リンク|サールナート考古博物館|en|Sarnath Museum}}蔵]]


グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は[[南アジア]]のなかでは[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ地域]]でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、[[ラダック]]の芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。
[[アフガニスタン]] (旧[[バクトリア]] )の仏教美術は、7世紀にイスラムが広まるまで、数世紀にわたって存続。それは[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤン]]の[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|仏]]によって例示され[[化粧しっくい|スタッコ]]、[[結晶片岩|片岩]]または[[粘土]]製その他の彫刻は、インドの[[グプタ朝|グプタ]]後のマニエリスムと[[ヘレニズム]]、あるいは[[グレコ・ローマン|グレコローマン]]の古典的な影響が非常に強く融合している。


{{Clear}}
イスラムの支配は他の「 [[啓典の民|本]] 」の宗教に多少寛容であったが、「 [[偶像崇拝]] 」に依存する宗教として知覚された仏教にはほとんど寛容を示さなかった。その芸術形態もイスラム教の下で禁止されており、仏教美術は多くの攻撃を受け [[ターリバーン|タリバン]]政権による体系的な破壊で頂点に達しバーミヤンの仏像、[[ハッダ (アフガニスタン)|ハダ]]の彫刻、アフガニスタン博物館に残っている多くの遺物が破壊された。


=== 密教の登場 ===
1980年代以降の複数の紛争により、明らかにアーティファクトが見つかる可能性のある国際市場で期待され、考古学的遺跡の体系的な略奪が行われた。
[[ファイル:Anonymous - Perfection of Wisdom in Eight Thousand Lines, Ashtasahasrika Prajnaparamita, Decorated Leaf - 1938.301.5 - Cleveland Museum of Art.tiff|中央|サムネイル|660x660ピクセル|[[八千頌般若経]] [[パーラ朝]]末期 [[1119年]] [[貝葉]] [[ヴィクラマシーラ大学]](超戒寺)で制作 [[クリーブランド美術館]]蔵]]
[[ファイル:Khasarpana Lokesvara.jpg|サムネイル|[[聖観音]](アヴァローキテーシュヴァラ)像 [[9世紀]] [[パーラ朝]] 北東インド、[[ビハール州]]・[[ナーランダ県]]出土]]
6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝<ref name="Singh">{{Cite book|和書|title=A History of Ancient and Early Medieval India: From the Stone Age to the 12th Century|date=2009-01-01|publisher=Pearson Education India|url=https://books.google.com/books?id=H3lUIIYxWkEC&pg=PA521|last=Singh|first=Upinder|page=57|language=en}}</ref> の北インド統一と<ref group="注釈">ただし、グプタ朝は仏教を積極的に弾圧したわけではない。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=Gupta Empire|date=1995-1-1|publisher=Motilal Banarsidass|page=133|accessdate=2021-06-09|isbn=9788120800892|url=https://books.google.co.jp/books?id=uYXDB2gIYbwC&pg=PA133&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false|language=en|last=Kumud Mookerji|first=Radha|author=|author-link=:en:Radha Kumud Mukherjee}}</ref>、[[ローマ帝国の滅亡|ローマ帝国]]の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置く[[ヒンドゥー教]]の影響力を相対的に増加させることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kosaiji.org/Buddhism/mikkyo.htm|title=密教|accessdate=2021-03-28|publisher=[[広済寺 (尼崎市)|広済寺]]|author=石伏叡齋}}{{信頼性要検証|date=2021-06}}</ref>。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教や[[ベンガル地方]]で勃興しつつあった[[タントラ]]、あるいはその他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。密教の成立によって、インドにおける仏教美術は曼荼羅や動的な仏像を生み出した。インドにおける密教美術は、この地へのイスラーム勢力の侵攻が決定的となった13世紀初頭まで続いた{{Refnest|group=注釈|[[インドにおける仏教の衰退|インドにおける仏教の実質的な滅亡]]は、13世紀はじめ頃の[[ナーランダ僧院]]と[[ヴィクラマシーラ大学]]の破壊とされる。インドにおける仏教の再興は、20世紀の[[アナガーリカ・ダルマパーラ|ダルマパーラ]]や[[ビームラーオ・アンベードカル|アンベードカル]]らの登場を待たねばならなかった{{Sfn|松尾|1999|p=52}}<ref>{{Cite book|和書|title=Middle Land, Middle Way A Pilgrim’s Guide to the Buddha’s India|date=1992|year=1992|publisher=The Buddhist Publication Society|pages=55-56|language=en|url=https://buddhistuniversity.net/content/monographs/middle-land-middle-way_dhammika|author=Shravasti Dhammika|authorlink=:pl:Shravasti Dhammika|location=[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]|accessdate=2021-06-07|isbn=9789552401978}}</ref>。}}。


'''[[密教]]'''が体系化されていくにあたって、儀礼の採用([[護摩]]、[[真言]]や[[曼荼羅]]、[[印契]])が図られた。その中で、密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。4世紀から6世紀頃までは、北方系と南方系、いずれの仏教においても、除災招福を目的とした日常的な儀礼・慣習としての呪術は行われていた{{Refnest|group=注釈|初期仏教においては、バラモン教が実践していたことから[[儀式]]を執り行うことは禁じられ、また、悟りとは関係のない[[形而上学]]的な事柄・[[宇宙観]]については説かなかった。紀元後に成立した[[中観派]]もまた、宇宙観・世界の構造は本質的に[[空 (仏教)|空]]であるとした{{Sfn|松長|1991|p=134}}。}}{{Sfn|松長|1991|p=134}}。しかし、これらの儀式はあくまで悟りの追求とは目的を別としていた。ところが、6世紀から7世紀にかけて、これらの呪術の目的は現世利益的なものから正しい悟り・[[成仏]](解脱)へと焦点が移される{{Sfn|松長|1991|p=136}}<ref group="注釈">『[[大毘盧遮那成仏神変加持経|大日経]]』、『[[金剛頂経]]』</ref>。また、4世紀から5世紀頃、ガンダーラの僧、[[世親]]が『[[倶舎論]]』の一章、世間品のなかで[[須弥山]]と宇宙について説いたことで、仏教においても宇宙観について議論が行われるようになった{{Sfn|松長|1991|p=146}}。これらの要因を背景として、[[瑜伽|瑜伽観法]]が成立し、また宇宙に充満する仏・菩薩・[[明王]]・諸天・[[鬼神#仏教の鬼|鬼神]]にいたるまでを[[パンテオン]]として視覚的に表した曼荼羅が登場したのである{{Sfn|立川|2006|pp=16-17}}。なお、曼荼羅をはじめとした密教における「[[視覚芸術]]」は、布教や美的感覚を満足させるために制作されたわけではなく、色や形を通じて宇宙の本質性を表すことを目的に作られたことに留意しなければならない{{Sfn|松長|1991|p=154}}。中国や日本の密教においてはこの関係性は顧みられなくなったものの{{Refnest|group=注釈|ただし、800年前後に活躍した日本の[[空海]]は『[[空海#真言密教の確立|声字実相義]]』において、物質を顕色([[色]])、形色(長短、高低などの形)、表色(身体を動かす運動)の三種に分けて論じている{{Sfn|松長|1991|p=155}}。}}{{Sfn|立川|2006|p=18}}、その後のインド仏教やチベット密教においては引き続き重視された{{Sfn|松長|1991|p=132}}{{Sfn|松長|1991|p=154}}。[[8世紀]]に入ると、インドにおいては『[[大毘盧遮那成仏神変加持経|大日経]]』系密教にかわって『[[金剛頂経]]』系の密教が主流となり{{Sfn|立川|2006|pp=29-30}}、したがって、曼荼羅においても[[胎蔵界曼荼羅]]の作例は途絶え、[[金剛界曼荼羅]]{{Sfn|立川|2006|p=12}}、さらにこれを踏まえた[[無上瑜伽タントラ|無上瑜伽]]密教系の曼荼羅が制作されるようになった{{Sfn|松長|1991|p=180}}{{Sfn|立川|2006|p=30-33}}。インドやチベットで作られた、膨大なバリエーションを持つ無上瑜伽系の曼荼羅はいくつかの系統に大別することができるが{{Refnest|group=注釈|父(ふ)タントラ系([[秘密集会タントラ]]など)、母(も)タントラ系(サンヴァラ曼荼羅など)、不二(ふに)タントラ系([[時輪タントラ]]など){{Sfn|松長|1991|p=183}}}}、芸術・聖像学的な視点で見た場合、以下のような特徴をあげられる{{Sfn|松長|1991|p=180}}:
=== 中央アジア ===
{{See also|敦煌学|莫高窟|ホータン王国|シルクロード}}
[[File:SerindianGroup.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:SerindianGroup.jpg|左|サムネイル|セリンインド美術、6〜7 世紀のテラコッタ、Tumshuq(新in)。]]
[[中央アジア]]は長い間、中国、インド、[[イラン|ペルシャ]]の出会いの場の役割を果たし 紀元前2世紀に [[漢|元漢]]の西側への拡大により、アジアのヘレニズム文明、特に[[グレコ・バクトリア王国|グレコバクトリア王国]]との接触が増加。


* [[ヤブユム]](男女合体像)
その後仏教の北への拡大は中央アジアのオアシスに仏教徒のコミュニティと仏教の王国の形成さえもたらし、[[シルクロード]]の一部の都市はほぼ完全に仏教の仏塔と修道院で構成されており、その主な目的の1つは東西間の旅行者を歓迎し、サービスを提供することであったという。
* [[忿怒|忿怒形]]
* 多面多臂像{{Sfn|立川|2006|p=31}}
* ヒンドゥーの神格{{Sfn|立川|2006|p=37}}
* 構成において方形ではなく円形の多用、また三角形の登場{{Sfn|立川|2006|p=67}}


仏教彫刻においても密教化は進んだ。6世紀中頃に造営が始まった{{仮リンク|アウランガーバード石窟|en|Aurangabad Caves}}では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる{{Sfn|朴|2016|44}}。これは、彫刻史においても変化を意味した。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったのは、古典的で内省・均整が特徴的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった{{Sfn|朴|2016|p=39}}。
中央アジアの東部(特に[[東トルキスタン|中国のトルキスタン]] ( [[タリム盆地]]、[[新疆ウイグル自治区|新]] ))は、非常に豊かな[[セリンドアート|セリンドの芸術]] (多くの洞窟の[[洞窟壁画|壁画]]と[[レリーフ]]、キャンバス上の携帯用の絵画、彫刻、儀式のオブジェクト)ヘレニズム文化を明らかにし ガンダーラ様式を連想させる芸術作品、および[[カローシュティー文字|ガンダーリ]]文字[[カローシュティー文字|ハロシュティ]]の経典が見つかっている。しかし、これらの影響は活発な中国文化に急速に吸収され、その時点から中国特有の特色が強まっていく。


11世紀末から始まった[[セーナ朝]]の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに制作された最後の時代であった。[[1203年]]に[[ゴール朝]]の軍勢によって[[ヴィクラマシーラ大学]]が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術は終焉を迎えた。<gallery>
AURANGABAD47.jpeg|諸難救済の観音菩薩{{Sfn|朴|2016|45}} [[マハーラーシュトラ州]]アウランガーバード石窟第7窟 [[玄武岩]] 6世紀後半
2 Vajrayana mother goddesses at Aurangabad Buddhist Caves.jpg|密教の女尊群 アウランガーバード石窟
Crowned Buddha, Bihar, Pala Empire, 10th-11th century.jpg|銅冠釈迦像 [[パーラ朝|パーラ帝国]](10世紀から11世紀) [[ビハール州]] メトロポリタン美術館蔵
Bangladeshi - Bodhisattva Avalokiteshvara - Walters 543006 - View A.jpg|聖観音像 9世紀 青銅 [[バングラデシュ]]出土 [[メリーランド州]][[ウォルターズ美術館]]蔵
043 Buddha Teaching, Nalanda (9218609395).jpg|説法釈迦像 [[ナーランダ僧院]]出土 ビハール州{{仮リンク|パトナ博物館|en|Patna Museum}}蔵
057 Tara, Nalanda (9221347438).jpg|[[多羅菩薩]]像 ナーランダ僧院出土 ビハール州{{仮リンク|パトナ博物館|en|Patna Museum}}蔵
Naogaon Paharpur 11Oct12 IMG 3684.jpg|alt=パハルプールの仏教寺院遺跡群の塑像 粘土 9世紀 パーラ朝 バングラデシュ|[[パハルプールの仏教寺院遺跡群]]の塑像 粘土 9世紀 パーラ朝 バングラデシュ 
</gallery>{{Clear}}

[[11世紀]]に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや[[大スンダ列島]]、チベットといった、インドの周辺地域で隆盛した。特にチベット仏教とその美術は、[[モンゴル系民族]]や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。[[File:Buddhist_Expansion.svg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Buddhist_Expansion.svg|サムネイル|240x240ピクセル|アジア全体での仏教の拡大。黒の矢印は[[初期仏教]]の展開を示す。また、赤が大乗仏教の、緑が上座部仏教の、青が密教の伝来経路を示している。]]
釈迦入滅後、仏教がインド亜大陸内外にひろまるにつれ、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国のあいだで仏教美術の発展的差異が生じていった{{Sfn|宮治|2013|p=322}}。

* '''北伝仏教''':主に[[大乗仏教]]([[顕教]]と[[密教]]<ref group="注釈">7世紀から13世紀にかけて、インドでは新興のヒンドゥー教との対立のなかで[[密教]]が成立した。中国へは、[[善無畏]]、[[金剛智]]らによって7世紀([[唐|唐代]])に伝わっていた。
9世紀、[[空海]]によって日本にも中国から中期密教がもたらされた。
一方、[[吐蕃|チベット]]は、8世紀後半に仏教を国教とすると、インドから直接密教を取り入れ続けた。それゆえに、『[[無上瑜伽タントラ]]』が実践されるなど後期密教の特徴を強く残している。</ref>)が普及。
[[中央アジア]]、[[ネパール]]、[[チベット]]、[[ブータン]]、[[スマトラ島]]、[[ジャワ島]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[朝鮮|韓国]]、[[日本]]、[[ベトナム]]など。

* '''南伝仏教''':主に[[上座部仏教]]が普及。[[南インド]]から[[ミャンマー]]、[[スリランカ]]、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、および[[ラオス]]<ref group="注釈">[[インド洋]]以東には上座部仏教と同時に大乗仏教も広まった。例えば、[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]を建設した[[シャイレーンドラ朝|シャイレーンドラ王家]]は、大乗仏教を信奉していた。</ref>。
{{Clear}}
{{Clear}}


=== 中国 ===
== 北伝仏教美術 ==
{{seealso|大乗仏教#伝播|中央アジアの美術}}
{{see also|中国美術|中国の歴史|中国の宗教|中国の仏教}}仏教は西暦1世紀ごろに中国に到着し、特に彫像の領域で、中国に新しいタイプの芸術をもたらした。この遠い宗教を受けて、強い中国の特徴は仏教芸術に組み込まれた。{{multiple image
[[ファイル:Amitayus_Buddha_in_His_Paradise.jpg|左|サムネイル|260x260ピクセル|『阿弥陀仏極楽浄土図』[[18世紀]] [[チベット]] [[メトロポリタン美術館]]蔵]]
<!-- Essential parameters -->|align=right|direction=horizontal|width=|height=<!-- Image 1 -->|image1=NorthernWeiMaitreya.JPG|caption1=A Chinese [[Northern Wei]] Buddha Maitreya, 443&nbsp;CE.|width1=132|height1=<!-- Image 2 -->|image2=Maitreia, Northern Wei dynasty, dated 512, Stone, Prague, NG Vp 3176, 151206.jpg|caption2=A seated [[Maitreya]] statue Northern Wei, 512&nbsp;CE.|width2=133|height2=<!-- Image 3 -->|image3=TangBodhisattva.JPG|caption3=Tang [[Bodhisattva]].|width3=140|height3=|header=Chinese Buddhist Art|header_align=center|header_background=|footer=|footer_align=<!-- left/right/center -->|footer_background=|background color=}}
北伝仏教の美術は、'''[[大乗仏教]]'''の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な[[阿含経]]に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、[[部派仏教|初期仏教]]が修行の到達点としていた[[阿羅漢]]<ref group="注釈">部派仏教(後代の[[上座部]])においては、阿羅漢とは[[仏陀]]以外の修行者の達しうる最高の境地であり、苦しみからの解放された状態であった。</ref> ではなく、そこからさらに[[菩薩]]の境地をめざすことを重要視していた。[[般若経]](大乗仏教の経典群)において、[[仏陀]]は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は[[菩提]]、[[波羅蜜|六波羅蜜]]、知恵の完成(般若波羅蜜多、[[般若経|Prajñāpāramitā]])、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する[[菩薩]]たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な[[成仏]]([[過去七仏]])や[[如来]]、菩薩や[[天部]]([[韋駄天]]や[[帝釈天]])に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と[[シンクレティズム|結びつくことで]]新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった<ref group="注釈">例えば、インドの中期密教以降ではヒンドゥー教と、南北朝時代以降の中国では道教と、新羅以後の朝鮮半島では[[巫俗]]と、飛鳥時代以後の日本では[[神道]]・[[祟り神|怨霊信仰]]と結びついた。 一方で、その受容の過程にも国によって差異があった。インドではヒンドゥー教への対抗上仏教側が積極的に神格を取り入れたが、朝鮮では仏教側が既存の巫俗信仰を容認する形で取り込んでいった。</ref>。


中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る[[仏教のシルクロード伝播|仏教]]の[[シルクロード]]を介した伝播は、[[後漢]]の[[明帝 (漢)|明帝]]によって西方へと派遣された[[甘英]]ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、[[クシャーナ朝]](仏教の庇護者であった)の[[西域]]への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。[[支婁迦讖]]のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、[[パルティア人]]、[[月氏]]、[[ソグド人]]または[[トハラ人]]とされる。
==== 北王朝 ====
5世紀から6世紀にかけて、[[南北朝時代 (中国)|北王朝]]はかなり象徴的で抽象的な表現様式を模式的な線で発展させるが彼らのスタイルは荘厳であるとも言われており 肉体性の欠如およびアクセス可能で現実的な方法で悟りの純粋な理想を表現する元の仏教の目的からの距離は、徐々に仏教芸術の表現につながるより自然主義と現実主義への変化につながっていく。


=== 北伝仏教の美術と東方への影響 ===
仏教彫刻が保存されている場所:
{{multiple image|align=right|direction=vertical|header=アジアにおける風神像の変遷|header_align=center|header_background=burlywood|width=450|image1=WindGods.JPG|caption1=左:[[ヘレニズム]]の風神/[[2世紀]]の[[ハッダ (アフガニスタン)|ハッダ]]にて、[[ガンダーラ美術]]の下で作られた像。風を蓄えた袋を背負っている。<br />
中:[[キジル石窟]]の風神/[[7世紀]]の[[タリム盆地]]で造営された[[仏教]][[石窟寺院]]の[[壁画]]に見られる風神の図。風袋を背負ってはいるが、ここではより[[アジア]]的な、[[インド]]文化の影響の色濃い[[精霊]]の姿に変わっている。<br />
右:日本の風神/[[17世紀]]日本の絵師・[[俵屋宗達]]が描いた風神図([[風神雷神図#風神雷神図屏風(俵屋宗達)|風神雷神図屏風]]右隻の部分)。風袋を背負う様式を踏襲しながらも、姿は大きく変容し、青い鬼神になっている。}}{{Seealso|古代ギリシアの彫刻|:en:Persian art}}<!-- 節のリード文
仏教以外の宗教についてと紀元後の中央アジア? -->


[[シルクロード]]を通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の[[新疆ウイグル自治区]]にあたる[[タリム盆地]]で2世紀から11世紀にかけて栄えた[[中央アジアの美術#東トルキスタン|東トルキスタン]]の美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合[[ガンダーラ|ガンダーラ地方]]で、インドやギリシャ、[[ローマ美術|ローマ]]の影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。また、ヘレニズム仏教美術は、大乗仏教の教えを伝えたのみならず、古代ギリシャやローマ、ペルシャ、北西インドの文化・風俗・身体表現・装飾を伝える役割をも担い<ref>{{Cite journal|author=[[定方晟]]|year=1983|title=仏典の成立とギリシャ文化|url=http://www.totetu.org/assets/media/paper/t104_015.pdf|journal=東洋学術研究|volume=22|issue=1|pages=15-30|ISSN=02876086}}</ref><ref>{{Cite journal|author=[[小谷仲男]]|date=1967-1-1|title=<論説>ガンダーラ仏教美術の展開|url=https://doi.org/10.14989/shirin_50_88|journal=『[[史林]]』|volume=50|issue=1|pages=88-104}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Ciordia|first=José M.|year=2020|title=The Ship in the Cave: The Greek and Nautical Origin of Buddhist Architecture|url=https://doi.org/10.1080/13467581.2019.1697698|journal=Journal of Asian Architecture and Building Engineering|volume=19|issue=1|pages=48-69|language=en}}</ref>{{Sfn|東京国立博物館|2003|p=13}}、近くは南インド、遠くは日本にまで今日まで至る文化的な影響をのこした。それらは、建築の[[紋様]]([[宝相華文]]や[[連珠文]])や聖像、[[仏画]]、仏像、[[神道]]([[水天]]や[[鬼子母神]])に見ることができる。
* [[雲崗石窟]]、[[山西省]]
* [[龍門洞窟|龍門石窟]]、[[河南省]]
* [[甘粛省]] [[炳霊寺石窟]]


図像的なディーテールにおいても、ヘレニズム文化から仏教美術への影響が及ぼされた<ref>{{Cite web|url=https://www.buddhistdoor.net/features/buddhist-iconography-along-the-silk-road-with-professor-osmund-bopearachchi-part-two-the-land-route|title=Buddhist Iconography Along the Silk Road with Prof. Osmund Bopearachchi, Part Two – The Land Route|accessdate=2021-05-24|publisher=Buddhistdoor Global|author=Shantel Wong|coauthors=Wendy Yu|date=2019-09-03|language=en}}</ref>{{Sfn|東京国立博物館|2003|p=127}}。翻波式衣文といった衣紋の表現や、[[フリーズ (建築)|フリーズ]]における植物や幾何学パターンにおいて顕著であるが、聖像表現においてもそれは例外ではなかった。例えば、尊格の装束においては[[ダイアデム (冠)|ディアデーマ]]がある。ディアデーマ([[ギリシア語|希]]:διάδημα)とは、ペルシャやヘレニズム国家の王が身につけた冠であり、王権の象徴でもある。ディアデーマは仏教美術にそのまま尊格の表現として採り込まれると、中国の[[莫高窟]]の壁画や日本の[[来迎図]]などに登場する菩薩や[[飛天]]の表現様式とともに定着した。
==== 唐王朝 ====
[[File:Tejaprabhā_Buddha_and_the_Five_Planets_by_Chang_Huai-hsing.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Tejaprabh%C4%81_Buddha_and_the_Five_Planets_by_Chang_Huai-hsing.jpg|右|サムネイル|897 CE]]
[[隋]]から移行した後 [[唐]]の仏像は著しく生き生きとした表現へと進化。外国の影響に対する王朝の開放性と、中国仏教の僧ksのインドへの多数の旅行によるインド文化とのやり取りのおかげで、唐王朝の仏教彫刻は、グプタ時代のインドの芸術に触発された、むしろ古典的な形をとっていくがその間唐の首都[[長安]] (今日の[[西安市|西安]] )は仏教の重要な中心地になり、そこから仏教が[[朝鮮|韓国]]に広がり [[遣唐使]]が日本に足場を築くことになっていった。


また、ガンダーラおよび中央アジアにおいて仏教彫刻が成立していくなかで、[[ギリシア神話|ギリシャ神話]]の神々や[[ゾロアスター教]]の神々、そして他の[[インド神話|インド]]の神々が取り込まれていった。これらの地域で制作された仏教彫刻にのみ作例がのこる[[アトラース|アトラース神]]{{Refnest|なお、アトラ―スに関しては、6世紀(東魏末から北斉初期)の中国で仏教彫刻に類似の図像がみることができ、ガンダーラ美術からの影響を唱える説もある([[大阪市立美術館]]収蔵の仏三尊像碑など){{Sfn|東京国立博物館|2003|p=165}}。|group=注釈}}や[[トリートーン|トーリトーン神]]、[[アプロディーテー|アフロディーテー神]]、[[ポセイドーン|ポセイドーン神]]のような神格もあれば、美術様式の一端となって東アジアまで伝わった、[[ミスラ|ミスラ神]]と習合した[[ヘーリオス|ヘーリオス神]]、[[クベーラ]]と習合した[[ディオニューソス|ディオニューソス神]]、[[ニュクス|ニュクス神]]、[[エロース|エロース神]]などの神格、後代には天部として仏教において信仰対象になった[[ヘーラクレース|ヘーラクレース神]]([[執金剛神]])や[[スーリヤ]]([[日天]])、[[訶梨帝母|ハリーティー神]]と習合した[[テュケー|テュケー神]](鬼子母神)、クベーラと習合して食厨の神としての大黒天を形作ったファッロ―神(後述)などがいた{{Sfn|東京国立博物館|2003|p=14}}。20世紀に入ってからの美術史における研究で、仏教美術に取り込まれた神格が、本来ギリシャに源流を持つことが明らかになった例もある。ガンダーラ、敦煌にも作例が残る[[風神雷神図|風神と雷神]]は、本来はギリシャ神話の[[ボレアース|ボレアース神]]に図像的な起源を持つことが研究によって指摘された<ref name="matsumoto">{{Cite journal|author=松本栄一|year=1929|title=東洋古美術に現はれた風神雷神|journal=[[国華]]|volume=468|publisher=国華社/[[朝日新聞社]]}}</ref>。さらに、日本の宗教美術史家である[[田辺勝美]]は、「武装した毘沙門天」という図像の成立過程に関する研究を通じて、天部のひとつである[[毘沙門天]]が、ギリシャの[[ヘルメース]]、ローマの[[メルクリウス]]に源流をもつ、クシャーナ人に信仰された福神、ファッロ―([[バクトリア語]]:Pharro、[[アヴェスター語]]:[[クワルナフ]])を基に成立したことを明らかにした<ref>{{Cite book|和書|title=毘沙門天像の起源 : ガンダーラにおける東西文化の交流|date=1999-11-01|publisher=吉川弘文館|author=田辺勝美|authorlink=田辺勝美|isbn=978-4642054812}}</ref><ref>{{Cite thesis|author=田辺勝美 |year=2002 |title=毘沙門天像の起源 : ガンダーラにおける東西文化の交流 |url=http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=215498 |volume=東京大学 |type=博士 (文学) 乙第15498号 |id={{naid|500000244911}}
しかし中国では唐時代の終わり頃に外国の影響が否定的に認識されるようになり、845年、唐皇帝[[武宗 (唐)|ウズォン]]は、先住民の宗教である[[道教]]を支援するためにすべての「外国の」宗教(キリスト教の[[ネストリウス派|ネストリア主義]]、[[ゾロアスター教]]、[[仏教]]を含む)を禁止。彼は仏教の所有物を没収し、信仰を地下に強制した。その意味で彼は中国の宗教とその芸術の発展に影響を与えた。
}}</ref>。<gallery>
[[File:Chinesischer_Maler_von_1238_001.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Chinesischer_Maler_von_1238_001.jpg|左|サムネイル|オーバー等身大フィギュア[[菩薩]] Padmapani、洞窟1、アジャンター石窟群、5世紀]]
Tilglath pileser iii.jpg|アッシリア王[[ティグラト・ピレセル3世]]のレリーフ [[紀元前8世紀|紀元前8世紀ごろ]]
[[中国の禅|禅]]仏教は日本の[[禅]]の起源として数世紀にわたって、特にチャン[[宋 (王朝)|王朝]] (960–1279)の下で、チャン僧院が文化と学習の中心地であったときに繁栄し続けた。
Kushan king or prince.jpg|[[クシャーナ朝]]の王族({{仮リンク|フヴィシュカ|en|Huvishka}}が仏陀に布施する様子を描いた彫刻の一部か<ref name="Une peinture kouchane sur toile">{{cite journal|last1=Marshak|first1=Boris|last2=Grenet|first2=Frantz|date=2006|title=Une peinture kouchane sur toile|journal=Comptes rendus des séances de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres|volume=150|issue=2|pages=257|doi=10.3406/crai.2006.87101}}</ref>) [[2世紀]]後半 ガンダーラ出土 後頭部には、頭に巻き付けたディアデマがたなびいている。
Mural Worshipping Bodhisattva.jpg|合掌する菩薩たち 莫高窟第285窟 [[6世紀]]、[[北魏]]時代 帯状冠のリボンが浮遊感を演出する。
Tennin (Japanese angel).jpg|[[飛天]] 日本、[[法界寺]]阿弥陀堂壁画 [[11世紀]]([[平安時代]]末期)
Lotus within beads and reels motif Stupa No2 Sanchi.jpg|蓮花を囲むヘレニズム風の[[:en:bead and reel|数珠紋]] 紀元前115年頃 サーンチー、ストゥーパ第2塔
NaraTempleTiles.JPG|奈良出土の寺院の瓦 7世紀 [[東京国立博物館]]平成館
PharroAndArdoxsho.jpg|パーンチカとハーリティー像浮彫 パキスタン、[[タフテ・バヒー]]出土 片岩 クシャーナ朝 2世紀 [[大英博物館]]蔵 男女神が対になった彫刻は同時代によく見られるが、仏教遺跡から出土したことから[[極楽]]の表現であったと考えられる。ハリーティーは後に中国で訶梨帝母となった。男神がファッロ―、女神は豊穣神{{仮リンク|アルドクショー|en|Ardoksho}}とも{{Sfn|東京国立博物館|2003|p=145}}。
Kariteimo.jpg|[[国宝]] 絹本著色訶梨帝母像 京都、[[醍醐寺]]収蔵 平安時代から鎌倉時代 ガンダーラ地方で邪神として恐れられていたパーンチカは、研究者によっては天然痘を擬人化した存在とも見られている{{Sfn|東京国立博物館|2003|p=154}}。数世紀ののち、仏教に善神として取り入れられ、西域を経て、唐代の中国、奈良時代の日本へと広まっていった。
</gallery>{{ギリシャ仏教美術}}


=== アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ) ===
禅教修道士による初期の絵画は活気のあるモノクロの絵画を好む組み合わせ絵画特有の細心のリアリズムを避け、[[ゴンビ|ブラシワーク]]を通して啓発の影響を表現しようとする傾向がみえる <ref>Cotterell, A; ''The imperial capitals of China: an inside view of the celestial empire'', Random House 2008, {{ISBN2|978-1-84595-010-1}} p. 179</ref>。
{{See also|ガンダーラ#ガンダーラ美術|:en:Gandharan Buddhism}}


[[バクトリア]]地方(現在の[[アフガニスタン]])の仏教美術は、[[7世紀]]に[[アッバース朝#アッバース朝の最盛期|イスラーム勢力]]がこの地に拡大するまで数世紀にわたって存続した。また、この地では、[[1世紀|紀元1世紀]]頃に人の姿をした仏陀([[仏像]])が初めて制作された。湿潤高温であるインドとは異なり、天空の神秘が重んじられた結果、弥勒信仰や兜率天信仰に由来する美術が多くつくられ、それまでになかったドーム窟が盛んに造営された。これはインドではほとんど作例のないものである。また、それに続いて[[釈迦菩薩]]や[[弥勒菩薩]]などの菩薩像や、[[仏伝図]]<ref group="注釈">仏伝図とは、釈迦の生涯、つまり出生直前の出来事から[[涅槃]]までを描いたもの。</ref> を物語る、仏塔や寺院の内部を装飾するための[[レリーフ|浮彫]]が作られるようになる{{Sfn|前田|2012|p=38}}。この時代の空気をうかがえる代表的な例としては、[[カニシカ王の舎利容器]]が挙げられる。
12世紀に[[朱熹]]下での[[宋明理学]]の台頭は、僧画家に対し多くの批判をもたらした。彼らが禅仏教で当時人気がなかった学校と関係していたので、彼らの描く絵は捨てられ無視された。一部の絵は禅僧を訪ねて日本に運ばれた後も生き残ったが、禅の絵の学校は次第に衰退していった <ref>Ortiz, Valérie Malenfer; ''Dreaming the southern song landscape: the power of illusion in Chinese painting'', Brill 1999, {{ISBN2|978-90-04-11011-3}} pp. 161–162</ref>。


[[3世紀]]前半、クシャーナ朝は[[ゾロアスター教]]を奉じる[[サーサーン朝]]によって滅ぼされた。しかし、ガンダーラ美術の命脈は途絶えなかったどころか、ペルシャや北インドの意匠を取り込みながら発展していったのである。[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤン]]では、[[4世紀]]から[[6世紀]]にかけて、2体の大仏をはじめとする多くの[[磨崖仏|石仏]]や、石窟壁画が作られた{{Refnest|建設当時、両大仏が建てられたのは交通の要衝であったが、こういった場所に摩崖のレリーフを彫るのはペルシャの伝統であった。また、壁画の色彩感覚や身体表現にササン朝美術の影響を見ることができる{{Sfn|前田|2012|p=42}}。|group=注釈}}。バーミヤンの石窟美術においては、インドで見られる本生図や仏伝図はモチーフとして見られない一方、幾何学的な構成で弥勒菩薩と無数の仏たちを描く千仏構図が登場した{{Sfn|宮治|1999|p=12}}。他にも、[[化粧しっくい|スタッコ]]、[[結晶片岩|片岩]]または[[粘土]]でも仏教美術が制作された。これらの作品は、インドの[[グプタ朝]]以降の[[マニエリスム|様式主義]]と[[ギリシャ美術]]、{{仮リンク|ヘレニズム美術|en|Hellenistic art|label=}}、ことによってはそれに引き続いた[[ローマ美術]]をも要素として取り入れながら、非常に強く融合させている。
==== 清王朝 ====
清王朝時代、満州皇帝はさまざまな政治的および個人的な理由で仏教の実践を支持し[[順治帝]]は禅仏教の信者であり、彼の後継者である[[康熙帝]]は[[チベット仏教]]を推進し、[[チベット仏教]]が人間の具現化であると主張 <ref>Weidner, Marsha Smith, and Patricia Ann Berger. Latter Days of the Law : Images of Chinese Buddhism, 850–1850. Lawrence, KS: Spencer Museum of Art, University of Kansas, 1994.</ref> しかし、仏教芸術の皇室の後援がこの時期に最高に達したのは、3番目の清の支配者である[[乾隆帝]]の支配下で 彼はチベット様式の膨大な数の宗教的作品を委託し、その多くは彼を様々な神聖な装いで描いている <ref>Berger 1994, p. 113</ref>。


イスラムの支配は、他の「[[啓典の民|啓典]]」の宗教にはいくぶんか寛容だったが、「[[偶像崇拝]]」に依っていると見做された仏教にはほとんど寛容さを示さなかった。したがって、その芸術形態もイスラム教の支配下においては禁止された。[[8世紀]]以降も、[[アッバース朝]]の支配やそれに伴う戦乱で多くの寺院や石仏が破壊された。近代以降も仏教美術はたびたび被害に遭い、体系的な破壊は[[ターリバーン|タリバン]]政権時代に頂点に達した。バーミヤンの仏像、[[ハッダ (アフガニスタン)|ハッダ]]の彫刻、{{仮リンク|アフガニスタン国立博物館|en|National Museum of Afghanistan|label=}}に残っている多くの遺物が破壊・流出させられた。
この期間に制作された芸術作品はチベットと中国の芸術的アプローチのユニークな融合によって特徴付けられ、図像的な細部への特徴的なチベットへの注視と中国風の装飾的な要素を組み合わせており 碑文は多くの場合、中国語、満州語、チベット語、モンゴル語、サンスクリット語で書かれているが、絵画は頻繁に鮮やかな色でレンダリングされていく <ref>Berger 1994, pp. 114–118</ref>。


[[1980年代]]以降、長く続いた[[アフガニスタン紛争]]による混乱は、仏教に関連する文化財の流出と、国際市場への転売を狙った組織的な遺跡への略奪を引き起こした。しかし、[[2000年代]]に入ってから、国外に流失した仏教美術の作品を含む多くの文化財がアフガニスタンへと返還された。日本からは、[[平山郁夫]]らの主導による返還事業が行われた<ref>{{Cite news|title=日本で保護の流出文化財をカブールでお披露目|date=2017-3-2|url=https://www.sankei.com/article/20170302-HYWTNI6ASFMLBP2NJWO7BBWDOY/|newspaper=[[産経新聞]]|accessdate=2021-2-2}}</ref>。
さらに、[[乾隆帝]]は多くの大規模な建設プロジェクトを開始。1744年、彼は[[雍和宮|永和寺]]を北京の主要なチベット仏教の僧院として再献身し多くの貴重な宗教画、彫刻、織物、碑文を寺院に寄付 <ref>Berger 1994, p. 114</ref>。[[Xumi Fushou Temple]]とその中に収められた作品は [[乾隆帝|乾隆皇帝]]によって委託された別のプロジェクトで、乾隆の統治下で中国で生産された仏教美術を特徴づけるチベットと満州の芸術スタイルのユニークなブレンドを具体化した。


<gallery widths="180" mode="nolines">
1795年に[[乾隆帝|乾隆帝が]]退位した後、清宮でのチベット仏教の人気は低下。清皇帝によるチベット仏教の推進の背後にある動機は計算された政治的操作の行為であり満州、モンゴル、チベットのコミュニティを結びつける手段として解釈されてきたが、近年は奨学金による挑戦がなされている<ref>Berger, Patricia Ann. Empire of Emptiness : Buddhist Art and Political Authority In Qing China. Honolulu: University of Hawai'i Press, 2003.</ref>。
BuddhistTriad.JPG|alt=三尊像 大乗仏教初期の例。向かって左から、月氏の信者、弥勒菩薩、釈迦、観音菩薩、僧侶。 ガンダーラ 2世紀ら3世紀|[[三尊形式|三尊像]] 大乗仏教初期の例。向かって左から、[[月氏]]の信者、[[弥勒菩薩]]、[[釈迦]]、[[観音菩薩]]、僧侶。 [[ガンダーラ]] [[2世紀]]ら[[3世紀]] 
[[File:Vairochana_the_Cosmic_Buddha_720p.webm|サムネイル|ヴァイロカナコスミックブッダ720]]
Afghanistan, bodhisattva, valle di ghorband, monastero di fondukistan, VII sec.JPG|守護神像 粘土造 [[7世紀]]頃 [[アフガニスタン]]、フォンドキスタン出土 [[ギメ美術館]]蔵
[[File:Gathering_of_Buddhas_and_Bodhisattvas_720p.webm|サムネイル|Gathering of Buddhas and Bodhisattvas 720p]]
GandharanAtlas.JPG|仏教彫刻を支えるギリシャの神、[[アトラース]] [[ハッダ (アフガニスタン)|ハッダ遺跡]] ギメ美術館蔵
BimaranCasket2.JPG|[[:en:Bimaran Casket|ビマラン棺]](黄金の聖遺物容器)に刻まれた仏陀像 [[大英博物館]]蔵
Gandharan sculpture - head of a bodhisattva front view (cropped).jpg|菩薩像頭部 4世紀 [[シンガポール]]、{{仮リンク|アジア文明博物館|en|Asian Civilisations Museum}}蔵
</gallery>


=== トルキスタン(中央アジア) ===
=== レガシー ===
{{See also|敦煌学|ホータン王国|シルクロード}}
中国での仏教の普及により、この国は世界で最も豊かな仏教コレクションがある国と化す。[[莫高窟]]の近く[[敦煌市|敦煌]]と[[甘粛省|甘粛]]省[[永靖県]][[炳霊寺石窟]]など洞窟、[[河南省|河南]]省[[洛陽市|洛陽]]近くの[[龍門洞窟|龍門石窟]]、[[山西省|山西]]省[[大同市|大同]]近くの[[雲崗石窟]]および[[重慶市|重慶]]市近く[[大足石刻]]は、仏教彫刻サイトとして最も重要かつ有名。[[唐|唐時代]]に8世紀に丘の中腹に彫られ、3つの川の合流を見下ろす[[楽山大仏]]は、今でも世界最大の石仏。
[[File:SerindianGroup.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:SerindianGroup.jpg|左|サムネイル|『シャンカチャルヤ・アヴァダーナ』[[ジャータカ]]、瞑想する[[仏陀]]に両脇に[[アプサラス]]が控える。仏陀の[[螺髪]]の上には鳥が巣を作っている<ref>{{Cite web|url=https://amis-musee-cernuschi.org/en/bouddha-la-legende-doree-3/|title=Buddha, the golden legend|accessdate=2021-02-05|publisher={{仮リンク|セルヌスキ美術館|en|Musée Cernuschi}}|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210205081602/https://amis-musee-cernuschi.org/en/bouddha-la-legende-doree-3/|archivedate=2021-02-05|website=SOCIÉTÉ DES AMIS DU MUSÉE CERNUSCHI|date=2019-06-26}}</ref>。現在の[[新疆ウイグル自治区]][[トムシュク市]]出土 6~7世紀 [[ギメ美術館]]蔵。]]


[[中央アジア]]は長い間、[[ペルシャ]]、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。[[紀元前2世紀]]ごろ、[[前漢]]による[[西域]]への影響力の拡大は、[[中国文明]]へ西アジアの[[ヘレニズム]]国家、特に[[グレコ・バクトリア王国]]とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも[[紀元前1世紀]]頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、[[イラン系民族|イラン系]]の[[クシャーナ朝]]の王、[[カニシカ1世]]による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。
{{Clear}}


これらの動きは、[[タクラマカン砂漠]]の周縁に栄えた[[オアシス都市|オアシス諸都市]]に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。[[シルクロード]]の一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。
=== 韓国 ===
{{see also|朝鮮の仏教|韓国の仏教|韓国の美術}}[[朝鮮|韓国]]の仏教美術は一般に他の仏教の影響と強く独創的な韓国文化との相互作用を反映しさらにステップの芸術、特にシベリアと[[スキチア|スキタイ]]の影響は [[新羅]] [[新羅の王冠|の王冠]]、ベルトのバックル、短剣、コンマの形をした[[ゴゴック|ゴゴク]]などの遺物や埋葬品の発掘に基づいた初期の韓国仏教芸術で明らかで <ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/explore/Korea/koreaonline/crown.htm|title=Crown|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Arts of Korea|accessdate=2007-01-09}}</ref><ref>Grayson (2002), p. 21.</ref> この土着の芸術のスタイルは、幾何学的で抽象的で characteristic "barbarian" 豊かに飾られていた。他からの影響も強かったが韓国の仏教美術は「飲酒、正しい調子の味、抽象感だけでなく、不思議なことに現代の味と一致する色の味」(Pierre Cambon、''Arts asiatiques-Guimet ''' ) などと比喩される。


'''[[西トルキスタン]]'''([[パミール高原]]以西、現在の[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]])
==== 韓国の三国期 ====

[[File:Pensive_Bodhisattva_02.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Pensive_Bodhisattva_02.jpg|右|サムネイル|[[:en:Gilt-bronze_Maitreya_in_Meditation_(National_Treasure_No._83)|Bangasayusang]], バンガサユサン、半座位瞑想的弥 おそらく7世紀初頭頃の新羅]]
6世紀、玄奘が[[ソグディアナ]]を訪れた際には、この地に住んでいた[[ソグド人]]は主に[[ゾロアスター教]]を信仰していた。しかし、のちに[[ソビエト連邦|ソ連]]によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している<ref>{{Cite journal|和書|author=早田啓子 |url=http://id.nii.ac.jp/1203/00003680/ |title=中央アジアとその周辺の宗教文化 VI |journal=学苑 |issn=13480103 |publisher=昭和女子大学近代文化研究所 |date=2005-09 |volume=779 |pages=83-93 |naid=110004617694}}</ref>。8世紀に入ると、[[アッバース朝]]による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。
[[三国時代 (朝鮮半島)|朝鮮三国のうち]]最初に仏教を公式に受け入れたのは372年の[[高句麗]]だが <ref name="graysonp252">Grayson (2002), p. 25.</ref> しかし、中国の記録と高句麗の壁画での仏教のモチーフの使用は、公式の日付よりも早く仏教が導入されたことを示しており <ref>Grayson (2002), p. 24.</ref> [[百済]]王国は384年に仏教を公式に認め <ref name="graysonp252" /> [[新羅]]王国は孤立しており、中国への海や陸地へのアクセスが容易ではなく、535年に仏教を公式に採用 <ref>{{Cite encyclopedia}}; {{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm|title=Korea, 500&ndash;1000 A.D.|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref> 仏教の導入は、職人が崇拝のイメージ、寺院の建築家、仏教の経典の文学者、そして韓国文明を変容させる必要性を刺激した。洗練された芸術スタイルが韓国王国への伝達で特に重要だったのは386年に中国の[[北魏]]王朝を設立した漢族以外のXianbei族Tuobaの芸術でこのスタイルは高句麗と百済の芸術に特に影響を与える。百済の職人は後にこのスタイルを南朝鮮の要素と独特の韓国の要素とともに日本に伝え 職人は特定の韓国仏教芸術スタイルを作成するためさまざまな地域のスタイルを取り入れて組み合わせる非常に選択的なものとなる。<ref>Grayson (2002), pp. 27 & 33.</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture, 5th&ndash;9th Century|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref>

[[File:Seokguram_Buddha.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seokguram_Buddha.JPG|左|サムネイル|[[:en:Seokguram_Grotto|Seokguram Grotto]] 世界遺産であり、統一新羅時代にまでさかのぼります]]
良質な石材に乏しかった中央アジアでは、[[粘土]]は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった<ref name="Toyo-2-32">[[#前田|前田(2012) p.32]]</ref>。
高句麗の仏教美術は北からの原型と同様の活力と機動性を示したが百済王国は中国の[[南北朝時代 (中国)|南王朝]]とも密接に接触しており、この緊密な外交的接触は百済の彫刻を代表する穏やかで比例した彫刻に例証され[[百済の笑顔|百済笑顔]]は果てし無い笑顔で美術史家に知られていくが <ref name="metmuseum2">{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture (5th–9th century) &#124; Thematic Essay &#124; Heilbrunn Timeline of Art History &#124; The Metropolitan Museum of Art|publisher=metmuseum.org|accessdate=2014-12-11}}</ref> 新羅王国はまた韓国人の双子であるミロク・ボサツが改宗の贈り物として日本に送られ、現在は日本の[[弥勒菩薩半跏思惟像|高龍寺]]に鎮座している半座の瞑想的な[[弥勒菩薩半跏思惟像|マイトレーヤ]]である[[弥勒菩薩半跏思惟像|バンガサユサン]]によって象徴される独特の仏教芸術の伝統を発展させた <ref name="kenyon2">{{Cite web|url=http://www2.kenyon.edu/Depts/Religion/Fac/Adler/Reln275/Jap-Kor-art.htm|title=Japanese Art and Its Korean Secret|publisher=www2.kenyon.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref>。三国期間における仏教は以下のような大規模な寺院建設プロジェクト、刺激的な[[ミレクサ|Mireuksa]]百済王国の寺院や新羅の[[黄龍寺|Hwangnyongsa]]寺を生み出したが百済の建築家はその技術で有名であり、黄龍寺に巨大な9階建ての仏塔を建設し、[[飛鳥寺|法華寺]] (飛鳥寺)や[[法隆寺]]などの大和初期の仏教寺院を建てていく <ref name="google22">{{Cite book|title=Sir Banister Fletcher's a History of Architecture|last=Fletcher, B.|last2=Cruickshank, D.|date=1996|publisher=Architectural Press|isbn=978-0750622677|url=https://books.google.com/books?id=Gt1jTpXAThwC|page=716|accessdate=2014-12-12}}</ref>。6世紀の韓国仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、その後は独特の土着の特徴を示し始め <ref>[http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm metmuseum.org]</ref> これらの土着の特徴は日本の初期仏教美術で見ることができ、一部の初期の日本の仏教彫刻は現在、特に百済、または大和日本に移住した韓国の職人から発祥したと考えられている。特に半着座のマイトレーヤの形態は、高柳寺と中宮寺のシッダールタ像によって証明されるように、日本に伝わる高度に発達した朝鮮様式に適合した。多くの歴史家は韓国を仏教の単なる伝達者として描写しているが、三国、特に百済は538年または552年に日本で仏教を導入し、形成する際の積極的なエージェントとして役立ったのである<ref name="google3">{{Cite book|title=Korea: A Religious History|last=Grayson, J.H.|date=2002|publisher=RoutledgeCurzon|isbn=978-0700716050|url=https://books.google.com/books?id=e1BzL2lwPqEC|page=33|accessdate=2014-12-11}}</ref>。

'''[[東トルキスタン]] '''(特に( [[タリム盆地]]、[[新疆ウイグル自治区]] ))

以降千年ほど、[[エフタル]]、[[西突厥]]、[[唐]]、[[東突厥]]、[[ウイグル]]と支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも西域様式(西域美術とも)を展開させていき、[[10世紀]]、[[カラハン朝]]の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた{{Sfn|前田|2012|p=loc=§2}}。

ドイツの東洋学者で、[[アルベルト・グリュンヴェーデル]]の調査隊に随行した{{仮リンク|エルンスト・ヴァルトシュミット|en|Ernst Waldschmidt}}によって提起された年代観に依れば、西域北道における仏教壁画美術、西域様式は、おおまかに三段階に分けられる{{Sfn|宮治|2000a|p=199}}。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式([[500年]]頃)、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式([[600年]]頃と600年から650年の間、それに650年以降の3段階)、漢民族の強い影響を受けた第3様式である<ref group="注釈">[[北京大学]]の考古学者、[[宿白]]による石窟形式と[[炭素14年代測定法|炭素14]]に基づく見解によれば、キジル石窟が造営された時期はもう100年ほど遡る4世紀後半から始められた。</ref>{{Sfn|前田|2012|p=47}}。第2様式とそれ以前のスタイルの違いとして、第1様式と比べてより対比的な彩色とパターンの多用があるが、これは技術的な要因として[[ラピスラズリ]]が新たに登場したことと、イラン的な要素が強まったことが原因であると考えられている{{Sfn|宮治|2000a|p=200}}。クチャの[[キジル石窟]]は西方からの影響が大きい第1様式と第2様式の壁画から成るのに対して、同じくクチャの[[クムトラ石窟]]では第3様式も見られる{{Sfn|宮治|2000a|p=199}}。<gallery mode="nolines">
Ajina-Tepe Buddhist mural, Tajikistan, 7th-8th century CE.jpg|[[タジキスタン]]、[[アジナ・テパ遺跡]]の壁画 [[吐火羅|吐火羅王国]] 7世紀から8世紀
D.VII.6 Front, Dandan Uiliq.jpg|『[[大自在天]]』 [[尉遅乙僧|尉遲乙僧]]、または尉遅跋質那か? [[ホータン王国|ホータン]]、[[ダンダン・ウィリク]]出土 6世紀頃 [[大英博物館]]蔵 インドやペルシャからの影響が見て取ることができる。
Kizil, man in armour, cave 14.jpg|[[キジル石窟]]、第14窟 賢い馬と王([[ジャータカ]], "Jataka of wise horse")<ref>{{Cite book|title=Early Buddhist Art of China and Central Asia: Part 4, Vol. 12|date=2002-1-1|publisher=[[ブリル (出版社)|Brill Academic Publishers, Inc.]]|pages=862(38)|author=Marylin Martin Rhie}}</ref>
Druna the Brahmin with Relics of the Buddha, Cave 224, Kizil.jpg|キジル石窟、第224窟 [[仏舎利]]を抱える[[バラモン]]、ドーナ(独楼那、徒盧那) 第2様式では目鼻が中央に寄せて描かれることが多い。
Bezeklik Caves - Praṇidhi scene No. 5, Temple No. 9.jpg|[[ベゼクリク千仏洞]]『誓願図』 9世紀  第3様式の例。人物の相貌や装束に唐の影響が強く表れている。
Turpan-bezeklik-pinturas-d01.jpg|ベゼクリク千仏洞 第3様式では同形仏を繰り返し描くのが特徴。
</gallery>{{Clear}}

=== 中国 ===
{{main|中国の仏教美術}}
[[1世紀]]、仏教は[[後漢|中国]]へと至り、この国の美術、とりわけ[[塑像]]の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった<ref>{{Cite web|url=https://www.ctwm.org.tw/jp/art_1_arti.html?id=3|title=「秀骨清像」と「曹衣出水」について|accessdate=2021-02-05|publisher=[[中台世界博物館]]}}</ref>。

中国における仏教の受容において、[[漢訳#仏典の漢訳|漢訳仏典]]と[[教相判釈]]が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来[[サンスクリット]]や[[パーリ語]]で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で[[偽経]]と呼ばれる、原典にはない経典<ref group="注釈">儒教の価値観を色濃く反映した『[[仏説父母恩重難報経]]』など。</ref> も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、[[征服王朝]]である[[14世紀]]の元と[[17世紀]]以降の清の時代には特に、[[チベット仏教]]とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった{{Sfn|朴|2016|p=267}}。

=== 朝鮮 ===
{{see also|朝鮮の仏教|大韓民国の宗教|韓国の美術|:en:Korean Buddhist sculpture}}[[朝鮮]]における仏教美術は一般として、他国から渡来した仏教の影響と朝鮮独自の文化の交流を反映している。また、初期の朝鮮仏教芸術は[[新羅]]の{{仮リンク|新羅の王冠|en|Crown of Silla|label=王冠}}や角帯(ベルト)のバックル、短剣、{{仮リンク|ゴゴク|en|Gogok}}([[勾玉]]の一種)などの工芸品や埋葬品に見られるように、[[ツングース系民族|シベリア]]や[[スキタイ]]などの[[ユーラシア・ステップ|草原文化]]の美術様式からも影響を受けていた <ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/explore/Korea/koreaonline/crown.htm|title=Crown|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Arts of Korea|accessdate=2007-01-09}}</ref><ref>Grayson (2002), p. 21.</ref>{{Sfn|朴|2016|p=341}}。 この土着的な美術様式は、幾何学的かつ抽象的で、 海洋文化や騎馬民族文化、[[シャーマニズム]]の伝統で豊かに彩られている。周辺諸国からの影響も強かったが、朝鮮仏教美術は「落ち着いて、抑制が効き、抽象的ではあるが不思議なほど現代的なセンスに合致している」(Pierre Cambon、''Arts asiatiques-Guimet ''' )などと評されている。この国における仏教とその美術は、李氏朝鮮の初期をのぞいて組織だった破壊行為や徹底的な抑圧に晒されることはなかった、それゆえに、現代においても体系だった研究が行われている。[[ファイル:Pensive Bodhisattva 02.jpg|サムネイル|『{{仮リンク|金銅弥勒菩薩半跏像|en|Gilt-bronze Maitreya in Meditation (National Treasure No. 83)}}』[[弥勒菩薩半跏思惟像]]の代表的な作例。[[大韓民国指定国宝]]第83号 7世紀頃 新羅 [[ソウル特別市]]、[[国立中央博物館]]蔵。]]

==== 朝鮮三国時代 ====
{{See also|仏教公伝}}
3世紀から4世紀頃にかけて、[[朝鮮半島]]各地に散らばっていた多種多様な部族連合が、徐々に国としてまとまりを見せ始める。朝鮮半島北部から[[中国東北部|東北三省]]の一部まで版図を拡げた'''[[高句麗]]'''、南部から西南にかけての'''[[百済]]'''、東南部の[[洛東江]]下流の[[伽耶|伽倻諸国]]、そして東南・{{仮リンク|慶州盆地|en|Gyeongju Basin}}の(のちに朝鮮を統一する)'''[[新羅]]'''が成り、抗争を繰り広げる、いわゆる[[三国時代 (朝鮮半島)|朝鮮三国時代]]が始まった。

[[372年]]、これらの国のうち[[高句麗]]が最初に仏教を受容する <ref name="graysonp252">Grayson (2002), p. 25.</ref>。 しかし、中国側の記録と高句麗の壁画に描かれた仏教的なモチーフで確認できるように、この年代よりも早い時期に仏教が伝わっていたようである <ref>Grayson (2002), p. 24.</ref>。 384年、続いて[[百済]]に仏教が伝わる <ref name="graysonp252" />。[[535年]]<ref group="注釈">528年とも。</ref>、両国に100年以上遅れて[[新羅]]王国が仏教を受容する <ref>{{Cite web|url=https://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak.html|title=Korea, 500–1000 A.D.|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2021-06-10|year=2020|language=en}}</ref><ref group="注釈">新羅は立地上、中国大陸への海路・陸路を確立できなかったためであった。5世紀初頭には高句麗の僧侶を通じこの新しい教えの存在を認知していたようである。</ref>。高句麗と百済では中原から公的に伝来したのに対し、新羅への伝道は民衆への浸透が先行し、おそらく布教に対して迫害が行われていたようである{{Sfn|山田|1999|p=127}}。

仏教の導入は、職人には崇敬のための図像制作を、建築家には寺院の建築を、学者には経典を渇望させ、そして朝鮮の文明を一変せしめた。これら朝鮮の諸王国に洗練された美術様式を伝えたのは「[[夷狄]]」であった[[拓跋部|拓跋氏]]の[[北魏]]様式であった<ref group="注釈">[[386年]]、[[鮮卑|鮮卑族]]の一派であった拓跋氏は、華北に[[北魏]]を建てた。</ref>。北魏、それに続く[[北斉]]の仏教美術は、これら三国に大きな影響を与えた。百済は後に、[[南朝 (中国)|中国南朝]]と高句麗、そして百済特有の美意識とともに作り上げられた仏像美術を日本に伝えることとなる{{Sfn|朴|2016|147-151}}。

6世紀後半以降、百済では石仏の造立がいち早く始まった{{Sfn|朴|2016|p=320}}。[[印相]]・持物・装束といったディテールには北魏様式を保っているものの、造形的な印象は、外見的には静謐さがありながらも芯が強い溌剌としているという、百済仏らしさがより顕著になっている。

新羅では、6世紀には高句麗の影響によって金銅仏の制作が、7世紀ごろにはおそらく百済の影響によって石仏や磨崖仏の制作が始まる{{Sfn|朴|2016|321}}。この時代の新羅石仏美術は、百済のものに比して体躯の表現にまだ稚拙さがうかがえるものの、重厚さという点ですでに独立した美術様式を芽生えさせていた。朝鮮の仏師たちは、各々の様式を作り上げるために優れた審美眼を発揮し、さまざまな他地域のスタイルを取り入れ融合させた<ref>Grayson (2002), pp. 27 & 33.</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture, 5th&ndash;9th Century|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref>。

高句麗はおもに、華北由来の仏教の影響下にあった<ref>{{Cite journal|author=[[門田誠一]]|year=2013|title=高句麗千仏信仰の系譜 : 延嘉七年造像銘の検討|journal=歴史学部論集|volume=3|page=71}}</ref>。仏教美術においては、まず五胡十六国時代の古式金銅仏の様式が取り入れられた。7世紀に入ると、北朝の仏教美術と連動するかたちで発展した。2021年現在確認されている朝鮮最古の仏像、「[[539年|延嘉七年]]」銘金銅仏立像もこの時代に制作された<ref>{{Cite web|url=https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=1955|title=国立中央博物館|accessdate=2021-03-08|publisher=[[国立中央博物館]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210308100624/https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=1955|archivedate=2021-03-08|language=ja}}</ref>。高句麗の仏像は主に金銅と塑造で、厚い通肩の法衣や火炎紋の光背、微かな笑みが特徴である。

===== 百済の微笑と半跏思惟菩薩像 =====
このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった <ref>[http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm metmuseum.org]</ref>。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、[[梁 (南朝)|梁]]などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には{{仮リンク|百済の微笑|en|Baekje smile}}と呼ばれている、神秘的で穏やかな[[アルカイク・スマイル|アルカイックスマイル]]を浮かべているものが少なくない<ref name="metmuseum2">{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture (5th–9th century) &#124; Thematic Essay &#124; Heilbrunn Timeline of Art History &#124; The Metropolitan Museum of Art|publisher=metmuseum.org|accessdate=2014-12-11}}</ref>。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて[[半跏思惟像|半跏思惟菩薩像]]が盛んに作られた{{Sfn|朴|2016|p=320}}。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の[[広隆寺]]伝来の[[弥勒菩薩半跏思惟像#広隆寺の宝冠弥勒|宝冠菩薩]]にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた<ref name="kenyon2">{{Cite web|url=http://www2.kenyon.edu/Depts/Religion/Fac/Adler/Reln275/Jap-Kor-art.htm|title=Japanese Art and Its Korean Secret|publisher=www2.kenyon.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://sjc.kr/square/nanseng_new/square2_shot11.jsp?sub_sep_idx=2|title=二つの像|accessdate=2021-03-09|publisher=SJC(ソウルジャパンクラブ)|language=ja}}</ref><ref group="注釈">なお、宝冠菩薩の制作地については、百済説、新羅説、日本説、渡来人制作説があり、用材に[[アカマツ]]と[[クスノキ]]が使われていたことから、結論は出ていない。</ref>。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)[[渡来人]]が携わっていたからであると考えられている{{Sfn|朴|2016|325}}。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである<ref name="google3">{{Cite book|title=Korea: A Religious History|last=Grayson, J.H.|date=2002|publisher=RoutledgeCurzon|isbn=978-0700716050|url=https://books.google.com/books?id=e1BzL2lwPqEC|page=33|accessdate=2014-12-11}}</ref>。

また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の[[益山市|益山]]には{{仮リンク|彌勒寺 (益山市)|en|Mireuksa|label=彌勒寺}}が、新羅の[[慶州市|慶州]]には[[皇龍寺]]が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、[[奈良]]の[[飛鳥寺|法華寺]] (飛鳥寺)や[[法隆寺]]などの建設を行った <ref name="google22">{{Cite book|title=Sir Banister Fletcher's a History of Architecture|last=Fletcher, B.|last2=Cruickshank, D.|date=1996|publisher=Architectural Press|isbn=978-0750622677|url=https://books.google.com/books?id=Gt1jTpXAThwC|page=716|accessdate=2014-12-12}}</ref>。[[File:Seokguram_Buddha.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seokguram_Buddha.JPG|サムネイル|阿閦如来座像 [[石窟庵]] [[恵恭王]]の時代、[[大暦]]9年([[775年]])完成 [[1909年]]に偶然再発見された。現在、[[韓国の国宝|大韓民国国宝]]第24号されているほか、[[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産]]にも登録されている。]]


==== 統一新羅 ====
==== 統一新羅 ====
7世紀後半、新羅が百済、高句麗を併呑し、唐の勢力を朝鮮半島から排除することに成功、[[統一新羅]]時代が始まった。統一新羅初期の仏教美術は、新羅の様式と百済の様式が融合したものであった。8世紀には、慶州石窟庵の本尊如来坐像に見られるように、人体像の把握が進み、身体の量感や肢体の伸びやかさが巧みに表現された、石仏の名品が多く作られた。また、朝鮮半島の統一後、唐との外交関係が好転し冊封体制に復帰したことで、国際色の色濃い唐の仏教美術の影響も大きく受けることとなった。
[[File:Goryeo_Pagoda.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Goryeo_Pagoda.jpg|サムネイル|213x213ピクセル|[[高麗|高麗時代]]の慶清寺塔は、韓国国立博物館の 1階にある]]
[[統一新羅]]時代、[[東アジア]]は特に安定しており中国と韓国はともに統一政府を享受、初期の統一新羅芸術は新羅スタイルと百済スタイルを組み合わせたもので 韓国の仏教芸術は正統派の仏像をモチーフにした新しい人気の仏教モチーフが示すように、新しい[[唐|唐時代]]スタイルにも影響を受けた。唐中国は東アジア、中央アジア、南アジアの交差道路であったためこの時代の仏教美術はいわゆる国際スタイルを示し、国の支援による仏教美術はこの期間に栄えた。その代表的なものは[[石窟庵]]である。


また、統一新羅の時代には、数は少ないながらも密教美術の作例を確認することができ、[[金剛界大日如来]]や[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[明王]]といった尊格の仏像が作られた{{Sfn|朴|2016|328}}。
==== 高麗王朝 ====
新羅統一の崩壊と918年の[[高麗]]時代の確立は韓国仏教芸術の新しい時代を示し 高麗の王たちは、仏教と仏教美術、特に仏教絵画と金と銀のインクで書かれた経典を惜しみなく後援 [http://www.metmuseum.org/toah/ht/07/eak/ht07eak.htm]。この期間の最高の成果は2度行われた約80,000個の[[高麗八萬大蔵経|トリピタカコリアナ]]の木版画の彫刻。


9世紀後半、[[中央集権|中央集権政的]]な体制が崩壊し、地方分権化と貴族層・[[花郎]]の台頭が進んだ。こういった社会制度の変化に応じるように、鉄造の金銅仏が作られるようになった。<gallery mode="nolines">
==== 朝鮮 ====
Seosan Buddha Triad Carved on the Rock.JPG|瑞山龍賢里(ソサン・ヨンヒョンリ)磨崖[[三尊形式|如来三尊]]像 [[7世紀]]初頭(百済後期){{Sfn|朴|2016|p=320}} [[忠清南道]]、[[瑞山市]]
[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]は1406年から仏教を積極的に抑制し、仏教寺院と美術品の生産量はその後減少したが、1549年から仏教美術は引き続き生産されていく [https://books.google.com/books?vid=ISBN0300051670&id=wMK-Ba0-RG4C&pg=PA335&lpg=PA335&dq=korean+buddhist+art&sig=_kCe2AGEUno0itMIz1VXdKH5KOI]。
JulienpaulA.jpg|銅造如来及両脇侍立像 百済 6世紀-7世紀 [[東京国立博物館]]蔵([[法隆寺献納宝物]])
Standing Bodhisattva. Goguryeo. Seoul National University Museum.jpg|仏陀立像 高句麗 [[ソウル大学校#美術館|ソウル大学校美術館]]蔵
Pensive BodhisattavaThree Kingdoms 7th century MET.jpg|思惟菩薩像 金銅仏 [[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]](7世紀中頃) メトロポリタン美術館蔵<ref>{{Cite web|url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/65397?searchField=All&amp;sortBy=Relevance&amp;ft=Bodhisattva&amp;offset=0&amp;rpp=20&amp;pos=5|title=Pensive bodhisattva|accessdate=2021-03-09|publisher=[[メトロポリタン美術館]]|language=en}}</ref>
Maitreya Koryuji.JPG|弥勒菩薩半跏思惟像「宝冠弥勒」 木造 [[小川晴暘]]撮影 [[広隆寺]]蔵
군위 아미타여래삼존 석굴.jpg|軍威石窟[[阿弥陀三尊|三尊仏]] [[大韓民国指定国宝]] 大韓民国[[慶尚南道]] [[花崗岩]]製 統一新羅時代(7世紀頃) 1962年発見。[[脇侍]]の屈曲した姿勢に、隋から初唐の様式の影響がうかがえる<ref>{{Cite Kotobank|軍威石窟三尊仏|[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|accessdate=2021-04-03}}</ref>。
</gallery>[[ファイル:Pressapochista4.jpg|サムネイル|『[[咸和 (渤海)|咸和]]四年銘仏龕』([[834年]])時期としては渤海後期様式に属する。[[倉敷市]][[大原美術館]]蔵?<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C4f2.html|title=作品紹介 コレクションリスト 東洋の美術|accessdate=2021-02-26|publisher=[[大原美術館]]|language=ja}}</ref>|左]]

==== 渤海 ====
7世紀、高句麗の遺民や[[靺鞨|靺鞨人]]によって[[渤海 (国)|渤海]]が建てられる。この国は、現在の沿海州、黒龍江省、および北朝鮮にあたる地域まで国土を拡げ、唐をして「海東の盛国」と呼ばしめた。新羅と友好関係を結んだ8世紀の末からは、唐・新羅の文化を取り込み、現代にまで伝わる仏教美術を遺した。渤海では多宗派が受け入れられていたが、そのなかでもとりわけ五台山の教え、特に華厳密教が盛んであったようである{{Sfn|朴|2016|345}}。しかしながら、被支配層にどれだけ仏教が浸透していたかは明らかではない。

仏教美術に関する主な出土品は五京に限られており、特に[[上京龍泉府]]と[[中京顕徳府]]、[[東京龍原府]]に偏っている。また、仏像の様式も対新羅外交の変化の結果、高句麗文化のまだ色濃い前期と唐・新羅の様式を取り込んだ後期に分けられる。


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==== 高麗 ====
統一新羅が混乱の末に衰亡し、[[936年]]に'''[[高麗]]'''が朝鮮統一を果たす。初代国王の[[太祖 (高麗王)|太祖]]が公布した「訓要十条」に見られるように、仏教は高麗王室によって厚く保護された。こういった状況を背景に、仏教美術も活発に行われた。

[[高麗仏画]]は、来世と現世の救済を願う浄土信仰を奉ずる貴族層や豪族たちの求めに応じて発展した。また、[[華厳経|華厳]]思想に基づいた、蒙古撃退と国家安泰を願う「五百羅漢図」のような作品もみられる。

また、宗教的営為としての[[写経]]が流行した。統一新羅のころには写経はすでに行われていたが、これらの時代には、写経は修行・研究のためだけでなく、行為そのものが功徳を積む手段であると考えられるようになった<ref>{{Cite journal|author=権熹耕|year=2016|title=高麗写経—様式的特徴と思想的背景—|url=http://id.nii.ac.jp/1219/00000541/|journal=人間文化研究所年報|volume=27|page=284|accessdate=2021-03-16}}</ref>。これら写経のうち、豪奢な作りのものは[[装飾経]]と呼ばれ、紺紙に金泥・銀泥で描いたものが多く遺されている。 また、[[木版印刷]]でも写経は行われた。[[モンゴルの高麗侵攻|モンゴルの朝鮮侵入]]を機に[[13世紀]]に彫刻された[[高麗八万大蔵経]]は、その刻字の美しさから美術工芸品としての価値も名高い。

仏像美術においては、俗に「弥勒仏」と呼ばれる巨大な石仏が各地に作られた{{Sfn|朴|2016|p=353}}。菩薩立像は、その大きさ(10メートル以上)から顔の造形や衣紋の衣装は適度な[[デフォルメ]]が施されており、また、屋外に安置されることが多く頭部に宝蓋を頂いているのが一般的である。これらの石仏は[[風水|風水思想]]や[[巫俗|土俗信仰]]とも結びついたものだった。高麗時代末期には、モンゴルの侵攻によって仏像彫刻は大幅に衰退するが、元代仏像の流れをくむ密教系の金銅仏が作られた。<gallery mode="nolines">
Goryeo-Kshitigarbha (Chijang)-late.14c.jpg|[[地蔵菩薩]]図 高麗末期([[14世紀]]末) [[メトロポリタン美術館]]蔵
Goryeo Seopum.jpg|観経曼荼羅図 絹本 高麗末期(14世紀) [[福井県]][[西福寺 (敦賀市)|西福寺]]蔵<ref>{{Cite web|url=http://www.saifukuji.jp/profile3.html|title=書画・工芸品|accessdate=2021-03-16|publisher=[[西福寺 (敦賀市)]]}}</ref> 李氏朝鮮の時代に仏教弾圧政策が行われ、結果として多くの文化財が国外へと流出した<ref name="uegaki">[http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/55/kami/kami.htm 朝鮮半島から見た日本] 帝塚山学院大学教授 [[上垣外憲一]] 2004年2月10日、社団法人如水会。</ref>。
Korea-Goryeo-Suweol.Gwaneumdo-Guimet.jpg|水月観音図 13世紀から14世紀 [[ギメ東洋美術館]]蔵
Goryeo-Illustrated manuscript of the Lotus Sutra c.1340.jpg|『[[妙法蓮華経]]』第二巻 装飾経 高麗後期([[1340年代]]頃) メトロポリタン美術館蔵
Goryeo-Avatamsaka Sutra.vo.12-mid.14c.Leeum.Museum.jpg|『[[華厳経|大方広仏華厳経]]』第十二巻 装飾経 高麗後期(14世紀中頃) [[湖巌美術館]]蔵
Goryeo Pagoda.jpg|敬天寺十層石塔 高麗時代 [[国立中央博物館]]蔵
Mireuk2.jpg|{{仮リンク|論山市灌燭寺菩薩立像|ko|논산 관촉사 석조미륵보살입상|label=菩薩立像}}(右) 石造 高麗時代([[968年]]頃) [[忠清南道]][[論山市]]灌燭寺 [[韓国]]最大の石仏。
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==== 李氏朝鮮 ====
[[李氏朝鮮]]時代は、最初期こそ仏教が保護されたものの、儒教の国教化を背景に、[[1406年]]、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、[[1549年]]、[[文定王后]]のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。

朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった{{Sfn|朴|2016|362}}。

仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、[[施餓鬼|施食会]]に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる{{Sfn|朴|2016|358}}。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも大衆向けに作られていた。これらは、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった<ref>{{Cite journal|author=[[野村伸一]]|year=2003|title=朝鮮時代の仏画にみる女性生活像|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032394-20030331-0063|journal=慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション|volume=30|page=63|language=ja|accessdate=2021-04-17}}</ref>。<gallery>
Gathering of Four Buddhas - Google Art Project.jpg|{{仮リンク|咸昌上院寺四仏会幀|ko|함창 상원사 사불회탱}} [[大韓民国指定国宝]]1326号 1562年 [[国立中央博物館]]蔵
Dalmado.jpg|[[達磨]]図 {{仮リンク|金明國|en|Gim Myeong-guk}}筆 [[仁祖]]時代 [[1636年]]~1637年、あるいは[[1643年]]
Hanging Painting (for Outdoor Rite) of Nosana Buddha at Sinwonsa temple in Gongju, Korea.jpg|alt=公州 新元寺 盧舍那佛掛佛幀 大韓民国指定国宝299号 1664年 新元寺蔵|{{仮リンク|新元寺盧舎那仏掛仏幀|ko|공주 신원사 노사나불괘불탱|label=公州新元寺盧舎那仏掛仏幀}} 大韓民国指定国宝299号 1664年 {{仮リンク|新元寺|en|Sinwonsa|ko|신원사 (사찰)}}蔵
Pressapochista16.jpg|青谷寺霊山会掛仏幀 [[大韓民国指定国宝]]302号 慶尚南道[[晋州市 (慶尚南道)|晋州市]]{{仮リンク|青谷寺大雄殿 (晋州市)|ko|진주 청곡사 대웅전|label=青谷寺}} 麻布着色 1772年 青谷寺文化博物館蔵
Jeseokcheon (Indra), Beomcheon (Brahma), and Witaecheon (Skanda) with Guardians and Attendants.jpg|護法神図 [[高宗 (朝鮮)|高宗]]28年([[1891年]]) [[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵 [[帝釈天]]、[[梵天]]、[[韋駄天]]の他、護法神や侍従が描かれている。
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=== 日本 ===
=== 日本 ===
{{see also|日本の仏教|日本美術|日本美術史|日本の仏教美術}}
{{see also|日本の仏教|日本美術|日本美術史|:en:Japanese Buddhist architecture|:en:Buddhist art in Japan}}
[[シルクロード]]の終着点に位置する日本は、仏教がインドで衰微し、中央アジアと中国で他の宗教や[[世俗国家|世俗勢力]]による抑圧が行われた時代にあっても、仏教のさまざまな側面を保持することができていた{{Sfn|松長|1991|p=34}}。日本の仏教彫刻の創造性は[[奈良時代]]、[[平安時代]]、そして[[鎌倉時代]]と、[[8世紀]]から[[13世紀]]にかけて特に豊かであった。近代に入り、日本の仏教美術は信仰対象から鑑賞対象にシフトした。仏教と習合して伝わったヒンドゥー教やタントラ、道教の要素や、在来の[[神道]]とも混淆・相互に影響が及ぼされたことも見逃せない。
[[File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|左|サムネイル|179x179ピクセル|[[阿修羅|阿修羅像]] [[興福寺]]、奈良(734)]]
[[ファイル:Horyuji Monastery Sakya Trinity of Kondo (178).jpg|サムネイル|[[法隆寺金堂釈迦三尊像]] 銘[[推古天皇|推古]]31年([[623年]]) 伝[[鞍作止利]]作 北魏様式の流れを汲む。造像したとされる鞍作止利は[[司馬達等]]の孫で、渡来系であった。]]
仏教が導入される前は[[日本]]は10500年頃からの土着の新石器時代の[[縄文時代|縄文]]の抽象的な線状の装飾芸術から、さまざまな文化的(および芸術的)影響がありBCE300から[[弥生時代]]と古墳時代の芸術、[[埴輪]]芸術などの発展がみられた。


==== 飛鳥時代 ====
日本は韓国、中国、中央アジア、そして最終的にはインドを通じて仏教を受けたため、インドと日本の間の文化交流は直接的ではなかったが日本人は6世紀に伝道僧が旅行したときに数多くの経典や芸術作品とともに仏教を発見し仏教の思想と美学の採用によるインド薬局文明と日本の文化的接触は次の世紀の国家文化秩序の発展に貢献 <ref>{{Cite book|title=Indian Influence on the Art of Japan|last=Sampa Biswas|publisher=Northern Book Centre|year=2010|isbn=978-8172112691|url=https://books.google.com/books?id=fLjcMfMGP10C&printsec=frontcover&dq=Buddhist+art+of+Japan&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwisg5jQrPrVAhWKMo8KHXxoBpEQ6AEIJjAA#v=onepage&q=Buddhist%20art%20of%20Japan&f=false}}</ref>。仏教は次世紀に国家によって採用されていく。日本は地理的に[[シルクロード]]終わりにあるため、仏教がインドで消滅し中央アジアと中国で抑圧された当時にあっても多くの側面を保持することができていた。
{{Seealso|飛鳥文化|白鳳文化}}
[[File:Bodhidarma.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Bodhidarma.jpg|サムネイル|278x278ピクセル|[[達磨]]の書道「禅は人間の心を直接指し、あなたの自然を見て仏になります」、[[白隠慧鶴|白隠絵鶴]](1686〜1769)]]
[[538年]]もしくは[[552年]]に、百済からの使者によって仏教が紹介される([[仏教公伝]])。その後、[[法興寺]](のちの[[飛鳥寺]])や[[四天王寺]]が建立されるなど、[[国家仏教]]化が推し進められた{{Sfn|辻|2005|pp=39、42}}。
711年から、[[パゴダ|五重塔]]、法隆寺金堂、[[興福寺]]など[[奈良市|奈良]]の首都に数多くの寺院や修道院が建てらたが多くの場合政府の支援の下無数の絵画と彫刻が制作されインド、ヘレニズム、中国、韓国の芸術的影響が、リアリズムと優雅さを特徴とするオリジナルのスタイルに融合。日本の仏教美術の創造性は[[奈良時代|奈良]]、[[平安時代|平安]]、[[鎌倉時代|鎌倉]]時代と8世紀から13世紀にかけて特に豊かであり非常に豊かな芸術を開発したが[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]と[[神道]]の影響も組み合わせていく。こうしたアートシーンは非常に多様で、創造的で大胆である。
[[File:Seitaka_Doji_by_Unkei_(Koyasan_Reihōkan).jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seitaka_Doji_by_Unkei_(Koyasan_Reih%C5%8Dkan).jpg|左|サムネイル|244x244ピクセル|''童子''清隆 by [[運慶]]、[[鎌倉時代]]、1197、[[金剛寺]]]]
12、13世紀からさらに発展したのは[[禅]]の芸術であり、中国から帰国した[[道元]]と[[明菴栄西|栄西]]らが信仰を導入した後に[[室町時代]]黄金時代に直面。禅アートは主にオリジナルの絵画( [[水墨画|墨絵]]など)と詩(特に[[俳句]] )によって特徴付けられ、印象的で装飾のない「非二元的」表現を通して世界の真の本質を表現しようと努めていく。「現時点」での啓発の探求は、[[茶道|茶の湯]]茶道や[[華道|生け花の生け花]]芸術など、他の重要な派生芸術の開発にもつながり、この進化はほとんどすべての人間の活動をまず最初に何よりも戦闘技術( [[格闘技|武道]] )に関連する活動において、これらを強い精神的および美的内容を持つ芸術と見なして極限まで進行していった。


日本国内で仏像制作が始められたのも飛鳥時代である。577年には、百済から仏師が渡来した(『日本書紀』巻第二十){{Sfn|坂本ほか|1965|pp=140-141}}<ref>{{Cite journal|author=[[大橋一章]]|year=2007|title=救世観音像の原所在とその後の安置場所|url=https://hdl.handle.net/2065/27649|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要|volume=52|page=109|accessdate=2021-03-20|ISSN=1341-7533}}</ref>。『[[日本書紀]]』は、百済の使者によって初めて日本にもたらされた仏の美しさを「相貌端厳(みかおきらきらし)」と伝えている{{Sfn|岩崎|2010|p=48}}。この仏像は金銅仏であったが、[[法隆寺]]の釈迦三尊像や[[飛鳥寺]]の釈迦如来像といった飛鳥時代を代表する仏像もまた金銅仏が多かった。また、[[法隆寺夢殿]]の[[救世観世音菩薩|救世観音像]]や[[百済観音]]といった、金箔で[[荘厳]]された木造仏も作られた。さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だで主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる{{Sfn|辻|2005|pp=45-56}}。飛鳥時代の仏像の特徴としては、奥行きが浅く、[[左右対称]]であることが挙げられる。これは、[[曼荼羅#種類(形態)|立体曼荼羅]]などにみられる奈良時代以降の仏像と異なり、正面から鑑賞することを前提としていたためであった{{Sfn|岩崎|2010|p=48}}{{要検証|date=2021年6月}}。
仏教は今でも日本で非常に活発であり、現在約80,000の仏教寺院が保存されているが それらの多くは木材で、定期的に修復されている。


仏教を日本に定着させるうえで重要な役割を担ったのが、[[推古天皇]]の甥で、[[摂政]]であった[[聖徳太子]]である{{Sfn|松尾|1999|p=84}}。聖徳太子は深く仏教に帰依し、薨去ののちも[[太子信仰]]というかたちで崇拝の対象と芸術の題材{{Refnest|group="注釈"|著名なものでは[[聖護院]]の国宝「摂政像」(平安時代)、[[飛鳥園]]の「七歳像」(平安時代、[[円快]]作)、[[東京国立博物館]]の「二歳像」(鎌倉時代)などがある{{Sfn|高田|2010|p=28}}。}}となったが、聖徳太子自身も生前、建設者でありパトロンであった。上述の四天王寺や飛鳥寺の建立を主導したほか、止利様式の仏像の制作に関与した{{Sfn|高田|2010|p=30}}。また、聖徳太子の妃、橘大郎女が織らせた「[[天寿国繍帳]]」は、日本に現存する最古の[[刺繍]]美術であり、仏教伝来最初期に描かれた[[浄土]]表現である{{Sfn|松尾|1999|p=85}}{{Sfn|高田|2010|p=29}}<ref name="寺宝 聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ">{{Cite web|和書|url=http://www.chuguji.jp/oldest-embroidery/|title=寺宝 聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ|accessdate=2021-06-07|publisher=[[中宮寺]]|language=ja|archivedate=2021-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210408060910/http://www.chuguji.jp/oldest-embroidery/}}</ref>。<gallery mode="nolines">
=== チベットとブータン ===
GUZE Kannon Horyuji.JPG|[[救世観世音菩薩|救世観音]]立像 国宝 飛鳥時代前期(7世紀) 現存最古の木彫仏{{Sfn|高橋|2010|p=35}}。[[聖徳太子]]の肖像とも(太子信仰)。金箔が施され、金銅仏のように見える<ref>{{Cite journal|author=[[大橋一章]]|year=2007|title=救世観音像の原所在とその後の安置場所|url=https://hdl.handle.net/2065/27649|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要|volume=52|page=107|accessdate=2021-03-20|ISSN=1341-7533}}</ref>。
{{See also|ブータンの文化|チベット仏教|チベットの歴史}}[[密教|タントラ仏教]]は、5世紀または6世紀頃に東インドでの動きとして始まり タントラ仏教の実践の多くは、[[ヴェーダの宗教|ブラフマニズム]] ( [[マントラ]]、[[ヨーガ|ヨガ]]、または犠牲の捧げ物の燃焼)に由来。タントリズムは、8世紀から[[チベット]]の仏教の支配的な形になりアジアの地理的中心性により、チベット仏教美術はインド、[[ネパール]]、グレコ仏教、中国美術の影響を受けた。[[ファイル:Yama_tibet.jpg|左|サムネイル| ヤマ 18世紀、チベット]]チベット仏教芸術の最も特徴的な作品の1つは[[曼荼羅|マンダラ]]、正方形を囲む円で作られた「神殿」の図でその目的は瞑想を通して仏教の信者が注意を集中し仏のイメージ中心への道をたどることを支援することで 芸術的には仏教の[[グプタ朝|グプタ]]芸術とヒンドゥー教の芸術はチベット芸術の2つの最も強いインスピレーションである傾向がある。
Tenjyukoku embroidery.jpg|「天寿国繍帳」 国宝 622年 聖徳太子の妃である橘大郎女が太子を偲んで制作させたもの<ref name="寺宝 聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ"/>。
Tamamushi Shrine.JPG|[[玉虫厨子]] 国宝 7世紀 [[法隆寺]]蔵 仏教建築と[[金工]]、[[漆工]]の技術の集合体であり、{{読み|宮殿|くうでん}}部(上部)と須弥座(中段)は四面が絵画で構成されている{{Sfn|長谷川|2010|p=88}}。
Tamamushi Shrine (lower left).jpg|玉虫厨子部分 須弥座(左図下段)の右面 {{仮リンク|薩埵王子|en|Prince Sattva|label=捨身飼虎}}図(『[[金光明経]]』から、[[ジャータカ]]の一遍)が、異時同図法を用いて表現されている{{Sfn|長谷川|2010|p=97}}。
Tamamushi Shrine (right doors).jpg|玉虫厨子部分 宮殿部向かって左面扉絵{{Sfn|長谷川|2011|p=96}} [[菩薩]]立像
Horyu-ji48n4350.jpg|[[法隆寺]]西院五重塔<ref name="東京国立博物館">{{Cite web|url=https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4966|title=東京国立博物館 - 展示 日本美術(本館) 国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図|accessdate=2021-06-12|publisher=[[東京国立博物館]]}}</ref> 国宝 7世紀 日本最古の木造五重塔。また、初層には、塔本四面具と呼ばれる、711年([[和銅]]4年)に完成した[[法隆寺の仏像#五重塔塑像群|塑像群]]が安置されている。東面では[[維摩経]]の場面が、北面では[[入滅|釈迦入滅]]の様子が表されている{{Sfn|高田|2010|p=33}}。
</gallery>


==== 奈良時代 ====
10世紀から11世紀にかけて、北インドの[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]の[[タボ寺|タボ修道院]] (当時は西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の仲介者として重要な役割を果たしていた。タボのチベット仏教芸術の顕著な例は、その絶妙なフレスコ画 <ref>{{Cite book|title=Tabo: a lamp for the kingdom : early Indo Tibetan Buddhist art in the western Himalaya, Archeologia, arte primitiva e orientale|last=Deborah E. Klimburg-Salter|last2=Christian Luczanits|publisher=Skira|year=1997|url=https://books.google.com/books?id=-zLqAAAAMAAJ&q=Tibetan+buddhist+art&dq=Tibetan+buddhist+art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjM3OCm1_vVAhUVSo8KHTjrCpwQ6AEIRTAG}}</ref>
{{Seealso|聖武天皇#仏教政策について}}
[[710年]]に[[藤原京]]から[[平城京]]への遷都が行われると、[[薬師寺]]、[[興福寺]]などに代表される、数多くの寺院が建てられた{{Sfn|辻|2005|pp=62-65}}。この時代では、国家が仏教美術の後援者であった。しかしながら、[[遁世僧]]であった[[行基]]の協力によって[[東大寺盧舎那仏像]]が建立されたように、仏教とその芸術が徐々に庶民層へ浸透していった{{Sfn|松尾|1991|pp=89-92}}。また、[[唐招提寺]]や[[葛井寺]]の[[千手観音]]像や、東大寺[[不空羂索観音]]立像といった密教像の制作が始まった{{Sfn|辻|2005|pp=67-68、71-72}}。『[[正倉院文書]]』にも密教経典が残る{{Sfn|松長|1991|p=41}}{{Sfn|内田|2008|p=100|ps=佐々木登美子「密教法具」}}。
{{Clear}}<gallery mode="nolines">
20100716 Nara Todaiji Daibutsu 2292.jpg|東大寺盧舎那仏像 752年([[天平勝宝]]4年)に開眼供養が行われた。「奈良の大仏」とも。度重なる戦災と補修により、建造初期から残っている箇所はわずかである。
Vajirapani Shukongoshin Todaiji2.JPG|[[執金剛神]]像 塑像  東大寺、[[法華堂]] [[天平|天平時代]]、[[8世紀]] 右手指修理前の写真 [[1952年]]撮影
[[File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|サムネイル|[[阿修羅|興福寺阿修羅像]]、734年([[天平]]6年) [[興福寺]]]]
</gallery>


=== ベトナム ===
==== 平安時代 ====
{{Seealso|浄土教#平安時代末期}}
[[ファイル:National_Museum_Vietnamese_History_35_(cropped).jpg|サムネイル| 蓮から立ち上がった少年仏。深紅色と金色の木材、Trần-HVietnam王朝、ベトナム、14〜15世紀]]中国の影響力は、北部の支配的だった[[ベトナム]]第一と第九世紀の間(トンキン)、および[[儒教]]と大乗仏教が普及。全体として、ベトナムの芸術は、中国の仏教芸術の影響を強く受けている。
[[ファイル:Heikenoukyou.jpg|サムネイル|『[[平家納経]]』1164年([[長寛]]2年)。[[平清盛]]一門が[[厳島神社]]に奉納した[[装飾経]]の群。当時の工芸技術の結晶であり、日本における[[法華経]]の受容例であり、[[大和絵]]の史料でもある。]]
日本では、平安時代初期から「密教美術」と呼ばれる[[密教]]に関する仏教美術が発達した<ref>{{Kotobank|密教美術}}</ref>{{efn|密教美術以外の仏教美術(釈迦仏関係の美術、[[浄土教美術]]、法華経美術、禅宗美術など)を総称して「顕教美術」と呼ぶ<ref>{{Kotobank|顕教美術}}</ref>。}}。


9世紀はじめ、唐から密教の奥義を持ち帰った[[空海]]が、[[曼荼羅]]、[[法具]]、[[空海#書家として|書道]]をもたらした{{Sfn|辻|2005|pp=86-94、104-106}}。
南部では [[チャンパ王国|チャンパ]]王国が繁栄(後に北部からベトナム人が追い越される前)。[[チャンパ王国|チャンパ]]は近隣の[[カンボジア]]と同じように強くインド化された芸術を持ちその彫像の多くは豊かな身体装飾によって特徴付けられた。チャンパ王国の首都は1471年にベトナムによって併合され1720年代に完全に崩壊したが、[[チャム族|チャムの人々]]は少数派だが[[東南アジア]]全体に豊富に分布。


東大寺盧舎那仏建立に際し、[[宇佐]][[八幡神]]が建立を支持して以降、[[神仏習合]]が形成され、[[東寺]][[八幡宮]]・[[松尾大社]]等に、仏像の影響で生まれた[[神像]]が祀られた{{Sfn|丸山|2013|pp=241-242}}{{Sfn|清水|2015|pp=193-194}}。また[[山岳信仰]]との融合から[[修験道]]が生まれ、[[蔵王権現]]と[[役行者]]が図像化された{{Sfn|田中|2014|pp=193-194}}。
== 南部仏教美術 ==
[[ファイル:CambodianBuddha.JPG|サムネイル| カンボジアの仏、14世紀]]
[[ファイル:Buddha_Mendut.jpg|左|サムネイル| Dhyani仏像[[大日如来]]、[[聖観音|観音菩薩]]、及び執金剛神内側Mendutの寺院。]]南仏教としても知られる正統派の仏教はスリランカ、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ラオス、カンボジアでまだ実践され 西暦1世紀、シルクロードの貿易は、ローマ人が非常に裕福になり、アジアの贅沢品に対する需要が高まっていたように、[[ローマ帝国|ローマ]]の未敵の敵である[[中東]]の[[パルティア]]帝国の台頭によって制限される傾向があり この需要により [[地中海]]と中国の間の海のつながりが復活しインドが選択の仲介者となる。その時から貿易接続、商業的解決さらには政治的介入を通じてインドは[[東南アジア]]諸国に強く影響を与え始め 貿易ルートはインドを[[ミャンマー|ビルマ]]南部、[[タイ王国|シャム]]中部および南部、[[カンボジア]]南部および[[ベトナム]]南部と結び付け、多くの都市化された沿岸集落がそこに設立された。


1052年(永承7年)が、釈迦入滅1000年による[[末法]]の世と見なされ、[[源信 (僧侶)|源信]]『[[往生要集]]』に[[六道]]の様子が記されると、[[地獄絵]]を含む[[六道絵]]の典拠となった{{Sfn|松尾|1999|pp=105-108}}{{Sfn|辻|2005|pp=114-115}}。
したがって千年以上にわたりインドの影響は地域のさまざまな国に一定レベルの文化的統一をもたらし [[パーリ語|パーリ]]や[[サンスクリット|サンスクリット語]]の言語とインドのスクリプトは、一緒になって[[大乗仏教|大乗]]と[[上座部仏教|上座部]]仏教、[[ヴェーダの宗教|バラモン教]]や[[ヒンドゥー教]]、直接の接触からとのような神聖なテキストやインドの文学を透過し、[[ラーマーヤナ]]と[[マハーバーラタ]] などの拡大はこれらの国々で仏教美術が発展するための芸術的背景を提供しその後、独自の特徴を発展させた。


11世紀半ば、[[関白]][[藤原頼通]]は、現世の[[浄土思想|浄土]]として[[宇治市|宇治]][[平等院]]に[[鳳凰堂]]を建立した。本尊の[[阿弥陀如来]]坐像は[[定朝様|定朝]]制作とされ、[[寄木造]]の技法が生まれることにより、木造で[[丈六像|丈六仏]]と呼ばれる高さ3メートル程度の仏像を作れるようになった。この技法は後の[[慶派]]らに活用される{{Sfn|辻|2005|pp=116-117}}。
1世紀から8世紀にかけて、いくつかの王国がこの地域の影響を競い合い(特にカンボジアの[[扶南国|フナン]]、そしてビルマの[[モン族 (Mon)|モン]]王国)主にインドの[[グプタ朝|グプタ]]スタイルに由来するさまざまな芸術的特徴をもたらし ヒンズー教の影響が広がり仏教の画像、奉納の碑文、サンスクリット語の碑文がこの地域全体に見られる。8世紀から12世紀にかけて [[パーラ朝|パラ王朝]]の後援の下仏教とヒンドゥー教の芸術と思想が共同開発されますます相互に絡み合うが <ref name="richardblurton2022">T. Richard Blurton (1994), Hindu Art, Harvard University Press, {{ISBN2|978-0674391895}}, pp. 202–204, Quote: "Buddhism flourished in this part of India throughout the first millennium AD, especially under the patronage of Pala kings of the eighth and twelfth centuries. Towards the end of this period, popular Buddhism and Hinduism became increasingly intermeshed. However, when Muslim invaders from further west sacked the monasteries in the twelfth century, Buddhism collapsed as a major force in India."</ref> しかし、インドのイスラム教徒の侵略と修道院の解任によりリチャード・ブラトンは「仏教はインドの主要な勢力として崩壊した」と述べている<ref name="richardblurton2022" />。


前代からの密教思想と浄土思想に則った、[[涅槃図]]に源信が考案した[[来迎図]]、[[平清盛]]らの[[奉納]]による[[平家納経]]に代表される[[装飾経]]が、極楽往生を願う天皇や貴族らによって盛んに制作された{{Sfn|辻|2005|pp=124-128、146-147}}{{Sfn|泉|2015b|pp=176-177}}。
8世紀から9世紀までに、[[シャイレーンドラ朝]]仏教芸術はインドネシアの[[中部ジャワ州|中央ジャワ]]の[[古マタラム王国|メダンマタラム]]王国で発展し栄え この期間は、[[カラサン]]、[[セウ|マンジュスリグラ]]、[[メンドゥット]]、[[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]の石[[メンドゥット]]など、数多くの絶妙なモニュメントが建設されたため、ジャワの仏教美術の[[セウ|復興]]を[[メンドゥット|記念]]するものとなり その伝統は13世紀の東ジャワの[[シンガサリ王国|シンガサリ]]仏教芸術まで続いた。


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9世紀から13世紀にかけて東南アジアには非常に強力な帝国があり仏教の建築と芸術の創造において非常に活発になる。[[シュリーヴィジャヤ王国]]南に帝国と[[クメール王朝|クメール帝国]]など競って北へ、どちらも大乗仏教の信奉者だったが、彼らの芸術は豊富な[[菩薩]] 大乗パンテオン表現で [[上座部仏教|パーリカノン]]の上座仏教は[[スリランカ]]から13世紀頃に地域に導入され、新しく設立された[[タイ族|タイ]]王国[[スコータイ王朝|スコータイ]]で採用がみられるが 当時の上座部仏教では修道院は通常町の信徒が指導を受ける中心的な場所であり、僧らによって紛争を仲裁されて発展した寺院の複合体建設は東南アジアの芸術的表現において特に重要な役割を果たした。
大日如来2, Vairocana, Heian period.jpg|木造[[大日如来]]坐像 重要文化財 木造、漆箔 [[11世紀]]から[[12世紀]] [[東京国立博物館]]蔵 寄木造り。身体造形や凹凸の穏やかな衣文に平安時代後期の仏像の特徴が見られる<ref>{{Cite web|url=https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100424&content_part_id=0&content_pict_id=0|title=e國寶 - 大日如来坐像|accessdate=2021-04-04|publisher=[[国立文化財機構]]}}</ref>。
Extermination of Evil Tenkeisei.jpg|紙本著色[[辟邪絵]]「天刑星」 [[12世紀]] [[奈良国立博物館]]蔵 天啓星が、疫病神の[[牛頭天王]]をはじめとする疫鬼を食べている。現在は5点の掛軸となっているが、[[戦後70年千の証言スペシャル|戦後]]に切断される以前は一巻の[[絵巻物]]であった。
AmidaRaigo.jpg|国宝 [[阿弥陀聖衆来迎図#高野山の阿弥陀聖衆来迎図|阿弥陀聖衆来迎図]] 12世紀 和歌山県、[[高野山霊宝館]]蔵
Jeweled pagoda mandala, Sovereign Kings of the Golden Light Sutra, Heian period.jpg|国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図<ref name="東京国立博物館"/> 12世紀(平安時代) [[岩手県]]、大長壽院蔵
Phoenix Hall.jpg|[[平等院]]、鳳凰堂と[[浄土式庭園]] [[国宝]] 1052年([[永承]]7年)創建 京都府[[宇治市]] 関白[[藤原道長]]の別荘だった宇治殿を、[[末法の世]]への危機感から、長男の藤原頼通が寺院に改めた{{Sfn|宮治|1999|p=24}}。[[2012年]]から2年に渡り大規模な修復が行われた。
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==== 鎌倉・室町時代 ====
14世紀以降[[イスラム教]]が東南アジアの海域に広がり [[マレーシア]]、[[インドネシア]]、[[ミンダナオ島|南フィリピン]]に至るまでのほとんどの島々を圧倒したが 大陸地域では上座部仏教はビルマ、[[ラオス]]、カンボジアに拡大し続けた。
民衆層へ仏教が広まるとともに、[[臨済宗]]・[[曹洞宗]]新仏教([[鎌倉仏教]])が興り、仏教美術では「[[禅]]」が多くの比重を占めることとなる{{Refnest|group="注釈"|[[鎌倉幕府]]は禅を保護するも、政治上は[[顕密体制]]と呼ばれる、[[南都六宗]]と[[平安二宗]]を重んじる方針をとった{{Cite journal|author=[[平雅行]]|year=2019|title=鎌倉幕府の東国仏教政策|url=https://doi.org/10.20558/00001317|journal=京都学園大学総合研究所所報|volume=20|page=60 - 69|ISSN=1347-4200}}。}}。<!--[[北条時宗]]の代前後においては禅宗が積極的に保護されたが、[[元寇]]を経て顕密は再び隆盛した{{Refnest|元軍の撃退に[[加持祈祷]]が影響が与えたと考えられたことと、禅を重んじていた南宋が滅亡したことが、情勢に変化をもたらした<ref name = "Taira-2019"/>。|group=注釈}}。-->

仏像では慶派らによる寄木造が主流となり、高さ{{convert|8.4|m|ft}}の[[東大寺南大門]]の[[金剛力士像]]を寄木造によって完成させた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403035_00000|title=東大寺南大門 金剛力士像|accessdate=2021-03-19|publisher=[[NHK]]}}</ref>。
<!--禅美術の実践者たちは、印象主義的で虚飾を排した「{{仮リンク|非二元論|en|Non duality}}的」表現を通じ、世界の本質を表そうと努めた。「いま、この瞬間」の悟りへの探求は、仏教と共に日本へと伝わった[[茶道]]や[[華道]]や同時代に成立した[[能楽]]など、他の派生的な芸術の発展にもつながった{{Sfn|久松|1939|p=73}}。このような禅芸術の展開は、主に[[武道]]をして人間の一挙手一投足を精神的・美的な要素を持つ芸術と見いださせるに至った{{Sfn|古田|1996|p=17}}。また、宋における禅美術と同じく、頂相や禅機図も制作された{{Sfn|村野|2011|p=12}}。-->

[[室町時代]]では、禅の美術が大きな比重を占めることとなる{{Sfn|岡本|2011|p=88}}。禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた{{Sfn|岡本|2011|p=90}}。[[足利将軍家]]は梁楷・牧谿といった宋元の書画や文物を「唐物」と呼び、崇敬をもってこれらを迎えたが、実際に収集に携わっていたのも禅僧であった{{Sfn|中島|1991|p=24}}。こうして宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容がはかられていくなかで、水墨画、枯山水、茶道、華道が受け入れられた。[[相国寺]]からは、[[如拙]]、[[周文]]、[[雪舟]]ら[[画僧]]が輩出された。また、禅僧と公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たし、寺院に付属する[[書院造|書院]]や庭園美術が発達した。この分野では、[[臨済宗]]の[[夢窓疎石]]が大きな役割を果たす{{Sfn|小黒|2011|p=80}}。

13世紀、武家の中心地であった鎌倉では、中国との活発な交易と、当時まだ仏像の伝統が確立されていなかったことを背景に「宋風」、「宋元風」と呼ばれる中国趣味が室町時代に至るまで流行・主流をなした{{Sfn|薄井|2011|p=62}}。[[神奈川県立歴史博物館]]学芸部長(当時)の[[薄井和夫]]によれば、「宋風仏像の造形に共通する特徴として、立像・坐像を問わず猫背の体勢、頭髪では渦高い宝髻や扁平な螺髪、低い肉髻。面貌では菩薩像の卵型で女性的な顔立ちや、如来像の鼻梁の太い人間くさい面相、着衣では菩薩でありながら衲衣を着ける服制、だらりと袖・裾丈の長い着衣、細かく複雑に変化したり、あるいは大きくうねる衣文など、全体にかなり癖のつよい造形を見ることができる{{Sfn|薄井|2011|p=63}}」としている。観音菩薩の{{仮リンク|遊戯坐|en|Lalitasana|label=遊戯坐像}}や法衣垂下形式の表現は、日本においてはこの時代を中心に見られる。宋風仏像は、室町時代に入ると[[院吉]]・院広らによってより形式化した[[唐様]]の仏像へと受け継がれていった{{Sfn|薄井|2011|p=63}}。一方、京都ではこれらの新様式は受け容れられず{{Sfn|薄井|2011|p=66}}、また本来的には仏像を必要としない禅宗の始めとした新仏教の流行によって、室町時代の仏像美は鎌倉以前の様式を踏襲したものとなった。しかし、前述の頂相の一分野としての肖像彫刻は多数つくられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kihon/jidai/muromachi.html|title=時代の特徴 8. 室町時代|accessdate=2021-03-21|publisher=日々是古仏愛好|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210320152617/https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kihon/jidai/muromachi.html|archivedate=2021-03-21}}</ref>
<!--13世紀、[[叡尊]]が興したことになる[[真言律宗]]は、真言密教と[[戒律]]両者を取り入れ、[[西大寺]]を復興した。{{Sfn|中村ほか|2002|p=569}}密教美術・仏画制作にも携わった。-->

また、縁起絵巻や高僧絵伝が多く作られた。[[観音菩薩|観世音菩薩]]の功徳を説く『[[石山寺縁起絵巻]]』や、室町将軍の正統性の為、[[薬師如来]]の霊験にすがろうとした『[[桑実寺縁起絵巻]]』に、新羅の僧、[[義湘]]と[[元暁]]のを題材にした『[[華厳宗]]祖師絵伝』、[[遊行]]の生涯を、日本各地の景観と貴賤の人々と共に描いた『[[一遍聖絵]]』等があげられる{{Sfn|辻|2005|pp=208-211、251}}{{Sfn|サントリー|2017|pp=209-210、224-225、232-233}}。<gallery mode="nolines">
Ippen Biography 3.jpg|『[[一遍聖絵]]』第7巻 四条釈迦堂 国宝 [[円伊]]筆 1299年([[正安]]元年) 宋画と[[大和絵]]が融合した[[絵巻物|絵巻]]作品。[[一遍]]の遷化後ほどなくして取材・制作された経緯から、資料的価値も高い。
AMIDA-Chionin.jpg|『[[阿弥陀]]二十五菩薩[[来迎図]]』通称「早来迎」<ref>{{Cite web|url=chion-in.or.jp/highlight/treasure.php|title=知恩院の宝物|accessdate=2021-04-03|publisher=[[知恩院]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210227045449/https://www.chion-in.or.jp/highlight/treasure.php|archivedate=2021-02-27}}</ref> 国宝 京都市[[知恩院]] 初期浄土宗美術の代表作。[[九品]]と呼ばれる、[[極楽浄土]]に[[往生]]する9つのランクの中でも最高の階位が上品上生である。本図は、往生者の佇まいや遠景に描かれた宝楼閣から、上品上生図を意図した作品と考えられている<ref>{{Cite web|url=https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/butsuga/item06.html|title=阿弥陀二十五菩薩来迎図(あみだにじゅうごぼさつらいごうず) (早来迎〈はやらいごう〉)|accessdate=2021-04-03|publisher=[[京都国立博物館]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210403074932/https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/butsuga/item06.html|archivedate=2021-04-03}}</ref>。
Fudō Myōō.jpg|絹本著色五大尊像([[不動明王]]) 国宝 絹本著色 鎌倉時代 京都市[[醍醐寺]]
Aizen Mandala (Nezu Museum).jpg|[[愛染明王|愛染]]曼荼羅図 絹本著色 鎌倉時代前期(13世紀頃)<ref>{{Cite web|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/209836|title=愛染曼陀羅|website=[[文化遺産オンライン]]|accessdate=2021-04-03|publisher=[[文化庁]]}}</ref> [[根津美術館]]蔵
Andō Ene (Nara National Museum).jpg|[[安東円恵]]像 1330年([[元徳]]2年) [[重要文化財]] [[奈良国立博物館]]蔵 [[武将]]であり、のちに出家して臨済宗の僧となった安東円恵の頂相。
Detail of Japanese Kasuga Mandala, Nambokucho period, ink colors and gold on silk.jpg|春日宮曼荼羅(一部) [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]  春日宮(現在の[[春日大社]])とは、[[神仏習合]]の神である春日権現を祀る神社で、[[興福寺]]の影響に置かれていた。南面する春日社本殿に四所明神(一殿から四殿)と若宮の[[本地仏]]が描かれている。背景は[[春日山 (奈良県)|春日山]]。
Hyônen zu by Josetsu.jpg|『[[瓢鮎図]]』(部分) 国宝 [[如拙]]筆 1415年以前 禅の修行者に与えられる問題、[[公案]]を題材とした絵{{Sfn|小笠原|2011|p=186}}。南宋[[南画|南宗画]]の強い影響が随所に見ることができる作品。
Engakuji-Buddha.jpg|宝冠釈迦如来坐像<ref>{{Cite web|url=https://www.engakuji.or.jp/grounds/|title=境内案内|臨済宗大本山 円覚寺|accessdate=2021-06-18|publisher=[[円覚寺]]}}</ref> [[円覚寺]] 華厳の盧遮那仏とも。左右から法衣の裾を蓮台から垂らす法衣垂下形式。
Kare-sansui zen garden, Ryōan-ji, Kyoto 20190416 1.jpg|方丈庭園 「龍安寺の石庭」([[枯山水]]) 16世紀([[室町時代]])に現在の形になった。
</gallery><!-- === 戦国時代・安土桃山時代 === -->

==== 江戸時代 ====
[[徳川幕府]]によって、[[檀家制度]]が確立され、ほぼすべての民衆は寺と紐づけられた{{Sfn|松尾|1999|p=156}}。江戸時代初期において仏教美術は、幕府・諸藩の援助を受け、盛んに制作された。17世紀半ば、[[明清交替|明末清初]]の混乱に伴い、[[隠元隆琦]]、[[逸然性融]]ら渡来僧によって中国の仏教美術と[[長江デルタ|江南地方]]の文化が[[江戸時代]]の日本にもたらされる。彼ら、[[唐絵]]などの[[黄檗美術]]や{{Sfn|成澤|2011|p=28}}、高僧の[[頂相]]、[[日本の書流#唐様|唐様]](書体)といった、「宋元風」とは異なった新しい表現をもたらした{{Sfn|辻|2005|pp305-307}}{{Sfn|成澤|2011|p=96}}。

一方で、江戸期には[[寺請制度]]によって寺院と庶民層が接近したことと、庶民が貨幣経済を背景に社会へと進出したことで、仏教美術の大衆化が進んだ。[[勧進]]によって、町人からの寄進によって寺社の建設費が賄われることが増え{{Sfn|松尾|1999|p=172}}、諸尊の仏像が彼らの要望に応えるかたちで建立され{{Sfn|山本|1988|p=18}}、[[円空]]や[[木喰]]ら、武家の庇護をうけない僧が現れた{{Sfn|辻|2005|pp305-307}}。
また、[[白隠慧鶴]]や[[仙厓義梵]]らによる、既存の画派に染まらない独自の禅画や[[地獄絵]]がうまれた{{Sfn|内田|2011|p=33}}。[[良寛]]の書も同様である{{Sfn|山下|2019|p=49}}。<gallery mode="nolines">
Portrait of Ingen Ryūki by Kita Genki.jpg|『[[隠元隆琦|隠元和尚]]』像 [[喜多元規]]筆 [[1671年]]([[寛文]]11年) 京都・[[萬福寺|万福寺]]蔵 正面から描き、陰影が強調された頂相は、黄檗宗に独特のもの{{Sfn|成澤|2011|p=96}}。画像にはないが、肖像上部にある[[画賛|賛]]は隠元直筆。
Enku Buddha Tokyo.JPG|如来立像 [[円空]]作 檜 [[東京国立博物館]]蔵 17世紀に活躍した仏師、円空は、蝦夷から奈良に至るまで[[行脚]]し、生涯に約12万体にのぼる[[木彫刻|木彫]]の仏像([[円空仏]])を遺したといわれる。
Bodhidarma.jpg|『[[達磨]]図』 [[白隠慧鶴]]筆 「直指人心(じきしにんしん)、見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」─「自身の本性・[[仏心]]を凝視し、[[覚者]]になり切って真実の人間となる<ref>{{Cite web|url=http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060501.html|title=禅語「直指人心 見性成仏」|accessdate=2021-03-31|publisher=臨黄ネット([[臨済宗]]、[[黄檗宗]])|website=臨黄ネット|date=2006-05-01}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=白馬芦花に入る―禅語に学ぶ生き方|publisher=柏樹社|page=274|author=細川景一|authorlink=細川景一|date=1987-7-1}}</ref>」
Sengai 3.jpg|alt=「○△□」 仙厓義梵筆 出光美術館蔵 臨済宗の僧、仙厓義梵は11歳で出家したが、絵筆を取ったのは40代に入ってからだった。描いた禅画の主題は仏から動植物、抽象的なものにまで及んだ。この作品は宇宙を表すとされ、解釈には諸説ある。|『[[○△□ (絵画)|○△□]]』 [[仙厓義梵]]筆 [[出光美術館]]蔵 臨済宗の僧、仙厓義梵は11歳で[[出家]]したが、絵筆を取ったのは40代に入ってからだった。描いた禅画の主題は仏から動植物、抽象的なものにまで及んだ。この作品は宇宙を表すとされ、解釈には諸説ある<ref>{{Cite web|url=http://idemitsu-museum.or.jp/collection/sengai/sengai/03.php|title=◯△□|accessdate=2021-03-31|publisher=[[出光美術館]]}}</ref>。
Wind-God-Fujin-and-Thunder-God-Raijin-by-Tawaraya-Sotatsu.png|『[[風神雷神図屏風]]』 俵屋宗達筆 17世紀前半、[[寛永]]年間頃?
The Three Laughers of Tiger Ravine, Soga Shohaku - Indianapolis Museum of Art - DSC00768.JPG|『虎渓三笑図』 [[18世紀]]中頃 [[曾我蕭白]]筆
Kiyomizu-dera - Main Hall 2.JPG|[[清水寺]]本堂 1633年([[寛永]]10年)再建 [[国宝]] 建物の前半部分は山の斜面に切り出すように建てられており([[懸造]])、支柱はケヤキを用いている。釘を一切使わずに建設された。
Zuiryuji Temple 2010-08-29 02.jpg|[[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]]、[[仏殿]] 国宝 1659年(万治2年)竣工 瑞龍寺は、[[富山県]][[高岡市]]の[[曹洞宗]]の仏教寺院。禅宗様建築の典型例。
Sazaedou Aidu Japan01.jpg|[[栄螺堂#会津さざえ堂|旧正宗寺三匝堂]](会津さざえ堂) 重要文化財 1796年([[寛政]]8年)建立 栄螺堂とは、江戸時代末から建てられた、関東から東北にかけてみられる螺旋状の仏堂。この会津さざえ堂は、内部に[[二重螺旋構造]]の階段を有する{{Sfn|山下|2019|p=36}}。
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==== 明治時代以降 ====
[[ファイル:Tsukiji Honganji 200902.jpg|サムネイル|[[築地本願寺#本堂|築地本願寺本堂]] 東京都[[中央区 (東京都)|中央区]] [[伊東忠太]]設計]]
近代に入り、「美術」概念が西洋から日本へともたらされた。これにより、「仏教美術」をはじめ日本にそれまで存在していた造形物は、新しい用語である「美術」、またはその[[下位概念]]であるところの「絵画」・「彫刻」・「工芸」として捉えられ、分類がすすめられるようになった{{sfn|君島|2023|p=166}}。この流れのなかで、仏教を題材とする絵画の中心は信仰対象としてのものから鑑賞対象としてのものへとシフトした。この時代の日本の芸術家たちは、(それまで行くことの叶わなかった)インドでの取材と、西洋からもたらされた[[仏教学]]・[[歴史画]]・[[キリスト教美術史|キリスト教絵画]]からの影響を背景として、仏教的主題の[[日本画]]を制作した。[[アジア主義|汎アジア的]]な性格を得たこの芸術の流れは、昭和初期には[[大東亜共栄圏]]のイメージの一翼を担いつつ、第二次世界大戦後には[[日展]]・[[院展]]に引き継がれ、[[平山郁夫]]らによって受け継がれていくこととなる{{sfn|君島|2023|p=168}}。一方で、仏像に関わった明治期の彫刻家たちは、日本画家以上に寺院との関わりが深かった。近代彫刻としての仏像は、信仰対象としてのものと鑑賞対象のものとしての製作が並行して行われていた。後者の、いわゆる美術作品としての仏像の流れは、屋外に設置された大型のモニュメント像としての仏像を生み、第二次世界大戦後には日本各地で慰霊を目的として建立された「平和観音」などに受け継がれていく{{sfn|君島|2023|p=169}}。

維新政府は、江戸時代末期の[[国学]]思想を基に、1868年(慶応4年)に[[神仏分離令]]を発するが、それが各地で拡大解釈され、仏像・仏具、そして伽藍の破却、僧の還俗に波及する([[廃仏毀釈]])。そして1871年(明治4年)の[[上知令]]によって寺の収入が断たれ、経営が成り立たなくなった{{Sfn|東博|1973|p=37}}{{Sfn|松尾|1999|pp=173-174}}。その為、[[法隆寺]]は、寺宝の一部を皇室に献納し、資金を下賜された{{Sfn|東博|1973|pp=159-160、753}}。

廃仏毀釈のあおりは、仏教美術に携わっていた仏師や人形師、[[宮大工]]の仕事にまで及んだ{{Sfn|田中|2001|p=183}}が、彼らの流れ{{Refnest|group=注釈|田中紋阿・文弥父子や高村東雲・光雲師弟、新海竹太郎など{{Sfn|田中|2001|p=183}}。}}はその後の日本の近代彫刻の礎となった。[[高村光雲]]は、神仏分離令によって仏像や仏塔が破却されるのを目の当たりにし、仕事が無い現状を脱するため、西洋美術の「写生」を取り入れ、近代以前には無い「彫刻」を創造する様を語っている{{Sfn|高村|1995|pp=152-165、169-172}}。また、自らも仏師の子で高村光雲に師事した[[新海竹太郎]]は、[[新仏教同志会|新仏教運動]]を主導した[[高嶋米峰]]の影響で、仏教を題材とした彫刻を制作した{{Sfn|田中|2001|p=183}}。

南天棒としても知られる臨済僧の[[中原鄧州]]は、白隠らの制作姿勢を範として明治から大正にかけて多くの作品を残し、日本国外における禅美術の評価の一翼を担った{{Sfn|内田|2011|p=34}}<ref>{{Cite web|url=https://www.finedoor.org/articles/visions-from-the-zen-mind-zen-paintings-and-calligraphy-at-the-los-angeles-county-museum-of-art/|title=VISIONS FROM THE ZEN MIND:
ZEN PAINTINGS AND CALLIGRAPHY AT THE LOS ANGELES COUNTY MUSEUM OF ART|accessdate=2021-06-19|publisher=Buddhistdoor|language=en|last=McArthur|first=Meher|date=2016-08-11}}</ref>。

建築において、[[伊東忠太]]設計の[[築地本願寺]]は、外観に古代インドの要素を取り入れる一方で、内装は和洋折衷が図られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.yamagata.jp/documents/4922/05_tokyonoyamagata2019010.pdf|title=伊東忠太氏 設計による建築物
(築地本願寺・湯島聖堂・靖国神社)|accessdate=2021-03-28|publisher=[[山形県]]|year=2019}}</ref>。また、[[第二次世界大戦]]以降、[[巨大仏]]と呼ばれる、高さ{{Convert|40|m|ft}}以上の仏像が国内各地に建立された{{Sfn|田中|2001|p=184}}。

平山郁夫は「[[西遊記]]」を読んで[[玄奘|三蔵法師(玄奘)]]を描いたことから、仏教伝来を探る旅と作画を続け、[[敦煌]]([[#魏晋南北朝時代]])・[[バーミヤーン|バーミヤン]]([[#アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ)]])・[[アンコール・ワット]]([[#カンボジア]])等の仏教遺跡・遺物保全に関わることとなる{{Sfn|平山|1992|pp=24-28、50-53、75-83、139-140}}{{Sfn|前田|2011|pp=166-168}}{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|和書|url=
https://www.adachi-museum.or.jp/archives/collection/hirayama_ikuo|title=コレクション 平山郁夫「祇園精舎」|publisher=[[足立美術館]]|accessdate=2021-06-29}}}}。

19世紀以降、新しい表現媒体として発展を遂げた[[日本の漫画|漫画]]において、[[手塚治虫]]は、[[劇画]]の手法を取り入れストーリー漫画、漫画『[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]』を[[1970年代]]から発表した。この作品は一種の仏生譚として{{Sfn|秋山|1983|p=62}}、[[釈迦]]の生涯を中心としながら[[ジャータカ]]や冒険物語を描いている{{Sfn|秋山|1983|p=66}}。

21世紀の作例として、[[村上隆]]の[[村上隆#代表作|五百羅漢図]](2012年){{Sfn|辻・村上|2014|pp=136-175}}{{Sfn|山下|2016|pp=226-227|ps=椹木野衣「五百羅漢図」}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mori.art.museum/contents/tm500/|title=村上隆の五百羅漢図展|publisher=[[森美術館]]|accessdate=2021-06-17}}</ref>、[[中島潔]]の地獄心音図があげられる{{Sfn|西所|2015|pp=5-16}}{{Sfn|山下|2016|pp=302-303}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nakashimakiyoshi.com/%E5%BF%83%E9%9F%B3%E5%9B%B3/|title=心音図|publisher=[中島潔公式ホームページ|accessdate=2021-06-18}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Kanō Hōgai - Hibo kannon (Avalokitesvara as a Merciful Mother).jpg|『悲母観音』[[狩野芳崖]]筆 [[1888年]](明治21年) [[東京芸術大学]]蔵 重要文化財
ファイル:Statue of Buddhist Risshou surrounded by banners preaching wisdoms. Fukuoka, Japan, East Asia.jpg|「日蓮聖人銅像」{{Sfn|君島|2023|p=169}} [[1904年]](明治37年) [[竹内久一]]製作 福岡市[[博多区]][[東公園 (福岡市)|東公園]]
ファイル:Ushiku Daibutsu.jpg|牛久阿弥陀大佛(通称:[[牛久大仏]]) 茨城県[[牛久市]] [[平成]]5年([[1993年]]) 高さ{{Convert|120.0|m|ft}}
ファイル:Nakahara Nantembo - Staff.jpg|南天棒([[警策]])<ref>{{Cite web|url=https://collections.lacma.org/node/213260|title=Staff {{!}} LACMA Collections|accessdate=2021-06-19|publisher=ロサンゼルス・カウンティ美術館|language=en}}</ref> 212.41×48.26cm 20世紀初頭 [[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵
</gallery>{{Clear}}


=== チベット ===
[[ファイル:Yama_tibet.jpg|左|サムネイル| [[閻魔]]図 [[ゲルク派]] [[18世紀]]前半 [[チベット]] 中央に大きく描かれる閻魔の上方に描かれた[[ラマ (チベット)|ラマ]]は、向かって左が[[パンチェン・ラマ]]、右が[[アティーシャ]]と推定されている<ref>{{Cite web|url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/37807|title=Yamantaka, Destroyer of the God of Death|accessdate=2021-04-14|publisher=メトロポリタン美術館}}</ref>。]]
チベットに仏法が伝えられたのは、7世紀前半、[[吐蕃]]をうち建てた[[ソンツェン・ガンポ]]の許に、唐と[[ネパール]]から妃を嫁がせ、彼女らが仏像を持参したことに由来するとされる{{Sfn|森|2014|pp=145-146}}{{Sfn|朴|2016|pp=84-85|ps=[[田中公明]]「チベット」}}。7世紀半ばには、[[ティソン・デツェン]]王が仏教国教化を宣言する。当時、インド由来の大乗仏教と、唐からの禅が流入していたが、ティソン・デツェンが両者の論を聞き、前者を公認した([[サムイェー寺#サムイェー寺の宗論|サムイェー寺の宗論]]){{Sfn|森|2014|pp=146}}{{Sfn|中村ほか|2002|p=702}}。吐蕃は9世紀半ばに分裂し、廃仏運動が起きた{{Sfn|立川|1999|p=232}}{{Sfn|森|2014|pp=12、146}}。

しかし、チベット高原西部まで逃れた吐蕃の王族の一部が建国した[[グゲ王国]]によって、仏教はふたたび息を吹き返した。以降チベットでは、カシミール地方の影響がみられる「リンチェンサンポ様式」と呼ばれる仏教美術が栄えた{{Sfn|朴|2016|pp=87-88}}。また、同時期にはチベット化が進行していた[[ラダック]]でチベット仏教が盛んになった。カシミール地方とラダック地方を結ぶ街道沿いの村、ムルベク(Mulbekh)には、8世紀から9世紀に彫られた高さ約10メートルの四臂の弥勒菩薩の磨崖仏が現存している{{Sfn|宮治|1999|p=226}}。これは、インド文化圏の辺境地帯で建立された巨大仏の流れを汲むものであった。

10世紀から11世紀にかけて、北インドの[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]の{{仮リンク|タボ僧院|en|Tabo Monastery}} (当時の西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の分野において、仲介者として重要な役割を担っていた。タボにおける特筆すべきチベット仏教芸術には、同寺院に描かれたフレスコ画が挙げられる<ref>{{Cite book|title=Tabo: a lamp for the kingdom : early Indo Tibetan Buddhist art in the western Himalaya, Archeologia, arte primitiva e orientale|last=Deborah E. Klimburg-Salter|last2=Christian Luczanits|publisher=Skira|year=1997|url=https://books.google.com/books?id=-zLqAAAAMAAJ&q=Tibetan+buddhist+art&dq=Tibetan+buddhist+art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjM3OCm1_vVAhUVSo8KHTjrCpwQ6AEIRTAG}}</ref>。

13世紀には、チベットはユーラシア大陸全体を席巻したモンゴル帝国と国境を接する。これをうけ、外交官として西涼まで赴いたチベット仏教[[サキャ派]]の僧、[[サキャ・パンディタ]]がモンゴルの貴族たちに布教を行った。さらに、その甥にあたる[[パクパ]]は元朝初代皇帝[[クビライ]]と親交が篤かったことにより、帝師として[[大都]]に招聘された。結果として、中国においても大都を中心にチベット・ネパール由来の仏教美術と仏教建築が大いに発展した。

14世紀に入ると、[[ゲルク派]]の祖、[[ツォンカパ]]がチベット仏教を改革。17世紀の[[ダライ・ラマ]]政権樹立への礎を築いた。15世紀には、チベット仏教美術の主たる流派の2つ、メンリ派とキェンツェ派が成立する。メンリ派側はダライ・ラマの[[宮廷画家|宮廷絵師]]としての地位を得てチベット仏教美術の主流派を形成した一方、圧されたキェンツェ派側はしだいにメンリ派に吸収された{{Sfn|朴|2016|p=89}}。これらの学派では、各尊格ごとに異なった身体比率、様相、着衣、姿態が定められ、厳密なアイコノメトリーが定義された{{Sfn|朴|2016|p=90}}。
[[ファイル:Yamantaka statue from Tibet, 19th century, gilt bronze, Honolulu Museum of Art.JPG|左|サムネイル|[[ヤマーンタカ]](大威徳明王)像 19世紀 金銅仏 [[ホノルル美術館]]]]
15世紀から16世紀にかけ、カギュ派内部の一派であった[[カギュ派|カルマ派]]が、[[カルマパ]]と呼ばれる[[化身ラマ|転生ラマ]]制度をチベット史最初に導入した。カルマパは代々仏教美術を愛好・保護し、カルマ・ガルディ派と呼ばれる画工集団を重用した。17世紀、{{仮リンク|カルマパ10世|en|Chöying Dorje, 10th Karmapa|label=カルマパ10世チューイン・ドルジェ}}が[[ダライ・ラマ5世]]との政争に破れ、チベット東部での漂泊生活を強いられる。その過程で、彼と彼に随行した画工達は中国絵画の要素を吸収し、18世紀に至りカルマ派が東チベットに定着したのちも、カルマ・ガルディ派の絵画様式はこれを下敷きとして発展を続けた{{Sfn|朴|2016|p=90}}。

1949年の[[中華人民共和国]]成立後、チベットは中国の一部と宣言され、1959年、[[ダライ・ラマ14世]]らはインドへ亡命した([[チベット動乱]]){{Sfn|森|2014|pp=、148}}。また1970年代の[[文化大革命]]では、多数の[[タンガ]]や仏像が破壊された。しかし亡命者によって、画家ら後進育成がなされた{{Sfn|朴|2016|p=92}}。

仏教絵画では尊像や仏伝、[[曼荼羅]]が描かれた。[[タンカ]]と呼ばれる、布地に描かれた[[軸装]]が多用された。仏像はもっぱら金工で、鋳造の他に、金属板からの打ちだし技法が用いられた{{Sfn|森|2014|pp=149}}。

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Bodhisattva, wall painting in the Dukhang, Tabo monastery, Spiti. ca. 1st half of the 11 century, possibly 1040s..jpg|[[菩薩]]像 伽藍内部の壁画 11世紀前半([[1040年代]]?) タボ僧院 インド、[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]
Initiation Card (Tsakalis), Maitreya. 13-14th century, Metmuseum.jpg|{{仮リンク|ツァカリ|en|Tibetan tsakli}}(小絵片) 13世紀から14世紀 [[メトロポリタン美術館]]蔵 ツァカリとは[[細密画]]の一種で、一葉に一尊、あるいは一組の尊格が描かれ、6枚から100枚で一セットとされる。[[モンゴル国|モンゴル]]でも同様のものが作られた。修行や儀式だけでなく、寺院の建設時にも用いられた。
Tibetan, Central Tibet, Tsang (Ngor Monastery), Sakya order - Four Mandalas of the Vajravali Series - Google Art Project.jpg|「ヴァジュラ―ヴァリー(vajrāvalī)の四種のマンダラ」{{Sfn|松長|2021|pp=187-190}} ゴル僧院<!-- Ngor Éwam Chöden, 鄂尔艾旺却丹寺, Ngor Monastery -->([[サキャ派]]) [[1429年]]から[[1456年]]頃 中央チベット、[[ツァン|ツァン地方]] [[キンベル美術館]]蔵 この僧院を開いたゴルチェン・クンガ・サンポの依頼によって制作された。左上に{{仮リンク|パンチャラクシャー|en|Pañcarakṣā}}(五守護[[陀羅尼]])が、右上に[[ヴァスダーラー]](持世菩薩)が、右下には[[尊勝仏頂|ヴィキラノーシュニーシャ]](仏頂尊勝)が{{Sfn|松長|2021|p=188}}、左下のマンダラ右上隅にはバガヴァティマハーヴィディヤー([[多羅菩薩]])が描かれている<ref>{{Cite web|url=https://www.kimbellart.org/collection/ap-200001|title=Four Mandalas of the Vajravali Series, c. 1429–56 {{!}} Kimbell Art Museum|accessdate=2021-04-13|publisher=[[キンベル美術館]]}}</ref>。ただし、[[森雅秀]]によれば「ヴァジュラ―ヴァリー」にはパンチャラクシャー以外の記述はない{{Sfn|松長|2021|p=180}}{{Sfn|松長|2021|p=190}}。
15th-century paintings from Tibet, Central Tibetan - Mahakala, Protector of the Tent - Google Art Project (cropped).jpg|[[大黒天]]([[マハーカーラ]])図 [[15世紀]]前半 中央チベット [[フィラデルフィア美術館]]蔵
Guge-householder-yasa.jpg|[[耶舎]]出家図 {{仮リンク|トリン・ゴンパ|en|Tholing Monastery}}(托林寺)、迦薩殿内部 グゲ王国時代([[15世紀]]) チベット自治区[[ガリ地区]]
Dakini Tibet Guimet 21107.jpg|[[荼枳尼天]]像 金銅仏 [[18世紀]] ギメ美術館蔵
Scene from the Buddha’s life story, Tenth Karmapa, Choying Dorje.jpg|仏伝図 {{仮リンク|カルマパ10世|en|Chöying Dorje, 10th Karmapa|label=カルマパ10世チューイン・ドルジェ}}筆<ref>{{Cite web|title=Shakyamuni Buddha - Life Story (Himalayan Art)|url=https://www.himalayanart.org/items/51832|website=www.himalayanart.org|accessdate=2021-05-31|language=en}}</ref> 17世紀 [[ネパール]]、{{仮リンク|シェチェン僧院|en|Shechen Monastery}}蔵
KagyuRefugeTree.jpg|[[カギュ派]]の{{仮リンク|集会樹|en|Refuge Tree}}([[チベット語|蔵]]:ツォクシン)<ref>{{Cite journal|author=[[森雅秀]]|date=1998-12-20|title=集会樹の造型と儀礼|url=https://doi.org/10.4259/ibk.47.317|journal=印度學佛教學研究|volume=47|issue=1|pages=317-311}}</ref> [[20世紀]] ウィキコモンズのページでは、対応する[[ラマ (チベット)|ラマ]]・尊格についての説明を閲覧できる。
Bhutanese painted thanka of Milarepa (1052-1135), Late 19th-early 20th Century, Dhodeydrag Gonpa, Thimphu, Bhutan.jpg|[[ミラレパ]]図 [[19世紀]]から[[20世紀]]初頭 [[ブータン]] ミラレパは、チベットの代表的な仏教実践者で、[[カギュ派]]の宗祖。
Samye32.JPG|[[サムイェー寺]]のチョルテン([[仏塔]]の一種) [[チベット自治区]][[山南市]]
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=== ベトナム ===
{{Seealso|ベトナム#歴史|}}
[[前漢]]がベトナム北部に[[交趾郡|交趾]]を置いて以来、10世紀に至るまで、ベトナム北部は中国の支配下にあった。インドから渡海した[[康僧会]]が[[呉 (三国)|呉]]に行き、仏教を広めたと伝えられることから、3世紀にはベトナムに仏教が伝わったとされるが、それ以前に[[後漢]]から交趾を訪れた[[牟子理惑論|牟子]]によって仏法が伝えられたとする説もある{{Sfn|中村ほか|2002|p=897}}{{Sfn|朴|2016|p=152}}。[[隋]]・[[唐]]期の中国からは[[禅]]が伝わり、15世紀の[[黎朝]]では[[浄土教]]との[[習合]]が起こった{{Sfn|中村ほか|2002|p=897}}{{Sfn|伊東|2007|p=130}}。

ベトナムの仏教建築として特筆すべき例としては、11世紀[[李朝]]に建立された、石柱一柱に仏堂をのせる木造寺院の「一柱寺」や、17世紀[[黎朝]]の{{仮リンク|神光寺(ベトナム)|en|Keo Pagoda|label=神光寺}}の[[鐘楼]]などがあげられる{{Sfn|伊東|2007|pp=131, 136}}{{Sfn|朴|2016|pp=154-155}}。陳朝の時代を通じ、各地にチュア([[パーリ語|巴語]]:ストゥーパから)とトゥ([[中国語]]:寺から)と呼ばれる仏教寺院が建立された{{Sfn|朴|2016|154}}。

一方、南部では、2世紀に[[チャンパ王国|チャンパ]]が興る。北部と異なりインドの影響が強かったこの地域では、仏教とヒンドゥー教が信奉された。また[[クメール]]やインドネシアの影響も受けていた。9世紀末の{{仮リンク|ドン・ジュオン遺跡|ru|Донгзыонг}}の仏倚像は、[[仏伝]]浮彫りがなされた[[台座#仏座|須弥座]]が付属する{{Sfn|伊東|2007|pp=123-124, 126}}{{Sfn|朴|2016|pp=149-150}}。

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Chua Mot Cot.jpg|一柱寺(Chua Mot Cot)、[[ハノイ]]。
DD European Buddha from Đồng Dương.jpg|仏倚像及び須弥座、ドン・ジュオン遺跡。
Amitabha of Phat Tich pagoda (reproduction), Bac Ninh province, 1057 AD DSC04838.JPG|[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]像 佛跡(ファット・チック)寺 [[バクニン省]] [[龍瑞太平]]4年([[1057年]])ハノイ、{{仮リンク|ベトナム国立歴史博物館|en|National Museum of Vietnamese History}}蔵
Buddha entering Nirvana, view 1, Bac Ninh province, 17th century AD, lacquered wood - Vietnam National Museum of Fine Arts - Hanoi, Vietnam - DSC04973.JPG|[[涅槃仏]] バクニン省 [[莫朝]]?([[17世紀]])
[[ファイル:National_Museum_Vietnamese_History_35_(cropped).jpg|蓮から立ち上がる少年仏 木像 [[陳朝]] [[14世紀]]から[[15世紀]] {{仮リンク|ベトナム国立歴史博物館|en|National Museum of Vietnamese History}}蔵]]
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== 南伝仏教美術 ==
南伝仏教は、インドから、スリランカ・ミャンマー(ビルマ)・タイ・[[ラオス]]・カンボジアなどに伝わった。12世紀以前にインドシナ半島へ南伝した仏教は大乗仏教、とりわけ密教であった。また、12世紀までの東南アジアにおける仏教は、ヒンドゥー教や在地の信仰に対して絶対的優位に立つことはなく、それゆえ仏教美術は常に他の宗教美術と融合したものであった<ref>{{Cite journal|author=宇治谷顕|date=2004-03-31|title=アンコール王都とマンダラ観 : 特にバイヨン像を中心にして (曼荼羅のシステムと造形)|journal=名古屋造形芸術大学名古屋造形芸術大学短期大学部紀要|volume=10|page=237|ISSN=13410997|NAID=40006313768}}</ref>。13世紀に至り、東南アジア全体へと上座部仏教の普及が本格化すると、密教や菩薩信仰に基づく美術に代わって釈迦像を中心とした芸術が作られるようになった。21世紀初頭においては、これらの地域のほとんどが[[上座部仏教]]圏となっている{{Sfn|林|2011|p=22}}。この地域に共通して見られる仏教美術としては、[[貝葉|貝葉経]]とその経櫃がある{{Sfn|原田|2017|pp=186-187}}。

上座部仏教は、釈迦入滅から約100年後、教義の違いから大乗仏教が分離することにより、生まれた。大乗仏教との違いとして、
#[[パーリ仏典|パーリ語]]による[[三蔵]]とその注釈書による[[大蔵経]]を備える。
#釈迦像のみを拝し、[[菩薩]]などを認めない。
#出家者と在家の立場が明確に異なる。前者は世俗の労働をせず、後者は前者を[[布施]]で支える。
等が挙げられる。そのうち、仏教美術として形に現れるのは、主に2.である{{Sfn|中村ほか|2002|pp=780-782}}{{Sfn|馬場|2011|p=140}}。

11世紀以降、[[イスラーム]]が[[海域東南アジア]]に広がり、21世紀初頭における [[マレーシア]]・[[インドネシア]]・[[ミンダナオ島|南フィリピン]]に至るまで、ほとんどの島嶼に浸透したが 、大陸域においては、上座部仏教が定着している{{Sfn|林|2011|pp=20-25}}。


=== スリランカ ===
=== スリランカ ===
[[File:SL Anuradhapura asv2020-01 img34 Thuparamaya Stupa.jpg|thumb|マハーヴィハーラのトゥーパーマーラ塔 紀元前3世紀創建 アヌラーダプラ{{Sfn|小泉|2008|p=24}}]]
[[ファイル:Sri_lanka_aukana_buddha_statue.jpg|左|サムネイル| スリランカの仏像。]]伝承によると仏教はティラの指導の下インドの宣教師によって紀元前3世紀にスリランカに導入された[[マヒンダ]]で、これはMauryanの皇帝の息子[[アショーカ王|アショカ]]によるとする。仏教が拡大する前スリランカの先住民は迷信に満ちたアニミスティックな世界に生きていたが 仏教の様々な信仰の同化と回心はゆっくりとしたプロセスで浸透、これは農村人口の間で足場を築くために仏教は様々な種類の霊や他の超自然的な信念を同化する必要があったことからで {{要出典|date=March 2017}} 最も早い修道院の複合体は [[アヌラーダプラ|Devānampiyatissa]]によって設立され、Mahinda Theraに提示された[[デーワー・ナンピヤティッサ|Anurādhapura]]の[[マハーヴィハーラ|Mahāvihāra]]で [[アバヤギリ・ダーガバ|マハーヴィハーラ]]は正統派のテラヴァダー教義の中心となり、その最高の位置は、西暦前89年ごろに[[アヌラーダプラのヴァラガンバ|ヴァシャガーマー]]によって[[アヌラーダプラのヴァラガンバ|アバハギリ]] [[アバヤギリ・ダーガバ|ヴィハーラ]]が設立されるまで不変のままであった。
[[ファイル:Sri_lanka_aukana_buddha_statue.jpg|左|サムネイル|{{仮リンク|アウカナ仏|en|Avukana Buddha statue}} 8-9世紀 約12メートル高 [[花崗岩]] アウカナ{{Sfn|肥塚・石黒|p=198、397}}{{Sfn|小泉|2008|p=41}}]]
{{See also|スリランカの仏教}}
紀元前3世紀、アショーカ王が王子[[マヒンダ]]らをスリランカに派遣し、仏教を伝えたと史書『[[ディーパワンサ|ディーパヴァンサ]]』と[[叙事詩]]『[[マハーワンサ|マハーヴァンサ]]』に記されるが{{Sfn|石黒|1999|p=198}}{{Sfn|中村ほか|2002|pp=730、957-958}}{{Refnest|group=注釈|『マハーヴァンサ』10章101節には、釈迦在命中に仏教思想が伝わってたと記述される{{Sfn|デ・シルワ|2008|p=170}}。}}、考古学的な検証によれば紀元前6世紀には遡るとされるおいては更に遡るとされる<ref name="asian">{{Cite journal|author={{仮リンク|ローズ・マーフィ (地理学者)|label=ローズ・マーフィ|en|Rhoads Murphey}}|date=1957-02|title=The Ruin of Ancient Ceylon|journal=The Journal of Asian Studies|volume=16|pages=181-200|language=en}}</ref>{{Sfn|Blaze|1933|p=6}}<ref>{{cite web|title=Ancient graves during pre-Wijeya era found|url=http://www.dailymirror.lk/91681/ancient-graves-wijeya-era-found|website=dailymirror.lk|access-date=20 October 2015}}</ref>。{{仮リンク|デーワー・ナンピヤティッサ|en|Devanampiya Tissa}}王は首都[[アヌラーダプラ]]に僧院[[マハーヴィハーラ]]を建立し、以降この僧院が[[上座部仏教]]の中心地となる{{Sfn|石黒|1999|p=397}}{{Sfn|中村ほか|2002|pp=730、957-958}}。僧院内には、舎利を納めるストゥーパ、[[サンガ]]の為の諸施設が建てられ、マヒンダの妹{{仮リンク|サンガミッター|en|Sanghamitta}}に齎されたとされる[[菩提樹]]が植えられた{{Sfn|デ・シルワ|2008|pp=170-172}}。


スリランカでの造像開始は、3-4世紀とされる{{Sfn|小泉|2008|p=192}}{{Refnest|group=注釈|『マハーヴァンサ』36章128節には、紀元前3世紀に造像されたと記される{{Sfn|小泉|2008|p=192}}。チャンドラ・ウィクラマガマゲは、アヌラーダプタ出土のマウリヤ様式からスリランカ様式に移行中の座像を紀元前3世紀制作と見なす{{Sfn|ウィクラマガマゲ|2008|p=178-179}}。}}。大部分が釈迦([[如来]])像である{{Sfn|前田|2012|p=80|ps=平岡三保子「スリランカの美術」}}。9世紀ころから[[磨崖仏]]が作られるようになる{{Sfn|石黒|1999|p=201}}。
AbhayagiriVihāraは改革されたMahāyāna教義の座になるが MahāvihāraとAbhayagiriの僧侶の間の競争はさらに分割しての基盤に[[ジェータワナ・ラーマヤ|Jetavanarama]] Mahāvihāra近くでつながっていく。シンハラ仏教の主な特徴は ''アヌラーダプラ''の3つの主要な僧院の複合体にちなんで名付けられた3つの主要なグループまたは''nikāyas''に分割されたことでありマハーヴィハーラー、アバハギリ、ジェタヴァナーラーマーなどこれらは懲戒規則''(ビナヤ)''と教義上の紛争からの逸脱結果で スリランカの他のすべての修道院3つのうちの1つに教会の忠誠を負っていった。スリランカでは石で作られ青銅合金で鋳造された仏像の彫刻が有名である <ref>von Schroeder, Ulrich. 1990. ''Buddhist Sculptures of Sri Lanka''. First comprehensive monograph on the stylistic and iconographic development of the Buddhist sculptures of Sri Lanka. 752 pages with 1620 illustrations (20 colour and 1445 half-tone illustrations; 144 drawings and 5 maps. (Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd.). von Schroeder, Ulrich. 1992. ''The Golden Age of Sculpture in Sri Lanka – Masterpieces of Buddhist and Hindu Bronzes from Museums in Sri Lanka'', [catalogue of the exhibition held at the Arthur M. Sackler Gallery, Washington, D.C., 1 November 1992 – 26 September 1993]. (Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd.).</ref>。

{{Clear}}
[[File:Lankatilaka temple 02.jpg|thumb|ランカーティラカ堂 12世紀 レンガ・漆喰 ポロンナールワ、アーラーハナ・パリヴェーナ寺{{Sfn|石黒|1999|p=397}}]]

11世紀はじめ、南インドのヒンドゥー教勢力、[[チョーラ朝]]が侵攻し、アヌラーダプラ王国を滅ぼし、一時仏教は衰退する。しかし、同世紀半ば、[[ウィジャヤバーフ1世]]がスリランカからヒンドゥー勢力を駆逐し、[[ポロンナルワ]]を衰亡したアヌラーダプラにかわって都と定め、新たに[[ポロンナルワ王国]]を建てた。ウィジャヤバーフ1世はまた、ビルマから上座部指導者を招聘して仏教復興が図った{{Sfn|石黒|1999|p=202}}。[[ランカティラカ寺院|ランカーティラカ堂]]は約12.5メートルの仏立像を祀る[[煉瓦|レンガ]]造りの堂宇で、当初はドームがあったとされる。レンガの上に[[漆喰]]を厚く塗り、尊像を彫り出した{{Sfn|石黒|1999|p=397}}。

13世紀、ポロンナルワ王国はヒンドゥー系のジャフナ王国の攻撃を受けて滅亡する。その後も、数百年単位で続いた戦乱の結果、遷都が繰り返された。[[16世紀]]には、インド洋まで進出してきた[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]も抗争に加わったことで、スリランカはいよいよ混迷を極めたが、ポルトガル勢力相手に苦戦を強いられた{{仮リンク|ヴィマラダルマスリヤ1世 (キャンディ王国)|en|Vimaladharmasuriya I of Kandy|label=ヴィマラダルマスリヤ1世}}によって[[ダラダー・マーリガーワ寺院]]が整備されたのもこの時代であった。<gallery>
Gal Viharaya 03.jpg|伝[[アーナンダ]]像 花崗岩 12世紀 像高7m [[ガル・ヴィハーラ]] スリランカの仏立像は(上掲のアウカナ仏のように)概して正面性・シンメトリーが強調されているものが多いが、この像は例外的に[[コントラポスト]]をとっており、ポーズや半眼の相貌などにもほぼ類例が見られない{{Sfn|朴|2016|80}}。
Satmahal Prasada.jpg|{{仮リンク|サトゥマハル・プラサダ|en|Satmahal Prasada}}(七重の塔) 12世紀 [[ポロンナルワ]] 『[[マハーヴァンサ|マハーワンサ]]』は{{仮リンク|パラクラマバフ1世|en|Parakramabahu I}}が七重の仏塔を建てたと伝えるが、この仏塔だと裏付ける史料は見つかっていない<ref>{{Cite web|title=Pannel number 51 of the archaeological site|url=https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Satmahal_Prasadaya_04.JPG|access-date=2019-04-14}}</ref>。建築様式が[[タイ北部]]の[[ワット・チャーマテーウィー]]と類似しているため、タイの工人によって建てられたとされる<ref>{{Cite web|title=Satmahal Prasada(サトゥマハルプラサダ)の意味 - goo国語辞書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B5%E3%83%80/|website=goo辞書|accessdate=2021-05-31|language=ja}}</ref>。
SL Kandy asv2020-01 img33 Sacred Tooth Temple.jpg|[[ダラダー・マーリガーワ寺院]](佛歯寺) [[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]] 現在の建物は14世紀創建、16世紀末に隣接する[[キャンディ王宮]]とともに整備 [[キャンディ王国]]
</gallery>{{Clear}}


=== ミャンマー ===
=== ミャンマー ===
{{See also|:en:Burmese pagoda}}[[ファイル:Bodleian_MS._Burm._a._12_Life_of_the_Buddha_15-18.jpg|左|サムネイル| 布施を受ける釈迦仏と弟子たち 18世紀 水彩画 パラバイク(parabeik)と呼ばれる、ミャンマーの伝統的な絵本から。]]
インドの隣国である[[ミャンマー]] (ビルマ)は、当然インド領土の東部の影響を強く受けて ビルマ南部の[[モン族 (Mon)|月]]は約200仏教に変換されたと言われており&nbsp;インドの王の改宗下BCE[[アショーカ王|アショカ]]時代の分裂前、[[大乗仏教|大乗]]と[[小乗]]仏教 が成る。[[ファイル:Bodleian_MS._Burm._a._12_Life_of_the_Buddha_15-18.jpg|左|サムネイル| 18世紀のビルマの水彩画における仏の生活のシーン]]ミャンマー中部のベイクタノなど1世紀から5世紀にかけての初期の仏教寺院があり モンスの仏教芸術は、特にインドの[[グプタ朝|グプタ]]とグプタ後期の芸術の影響を受け、5世紀から8世紀にかけてのモン帝国の拡大に伴い、そのマニエリスム様式は東南アジアに広く広まった。
2020年時点での[[ミャンマー]](ビルマ)領域に仏法をもたらしたのは、紀元前3世紀、[[マウリヤ朝]][[アショーカ王]]による使者であると、スリランカの史書『[[ディーパヴァンサ]]』『[[マハーヴァンサ]]』及びミャンマーの仏教史書『{{仮リンク|サーサナヴァンサ|en|Sāsanavaṃsa}}』から読み取れる{{Sfn|秋山|2001|p=194}}。
その地は現在のモン族の拠点であった[[タトン]]とみなされる{{Sfn|伊東|2003|pp=64-65}}。
[[ピュー|ピュー族]]の[[ピュー#世界遺産|シュリ・クシェトラ遺跡]]から、[[カダンバ文字]]で刻された『分別論』・『大般涅槃経』の一部が発掘され、5・6世紀には仏教が受容されていたと分かる{{Sfn|朴|2016|p=116}}。
現存する最古の建築物として、7世紀のピューによる[[ボーボージーパゴダ]]があげられる{{Sfn|伊東|2003|pp=70-71}}{{Sfn|朴|2016|p=116-117}}


[[ファイル:Ananda temple.jpg|左|サムネイル|{{仮リンク|アーナンダ寺院|en|Ananda Temple|label=アーナンダ・パト―}} 1091年{{Sfn|朴|2016|p=119}}/1105年<ref name="Temple">{{Cite web|url=http://www.ancientbagan.com/ananda-temple.htm|title=Ananda Temple|access-date=2021-05-30|publisher=Ancient Bagan|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20100719155335/http://ancientbagan.com/ananda-temple.htm|archive-date=2010-07-19}}</ref> 創建 煉瓦造り [[バガン]] パガン期建築の白眉であり、パト―の代表例でもある。]]
後に11世紀から13世紀にかけて首都の[[バガン]]に数千の仏教寺院が建てられ約2,000の寺院がまだ立っているが 当時の宝石のような美しい仏像が残っている。1287年に[[モンゴル系民族|モンゴル人]]によって都市が押収されたにもかかわらず、なんとか創造は続いていったのである。


11世紀に入ると、[[上ビルマ]]へと南下した[[ビルマ族]]が[[パガン王朝|パガン朝]]を興し、{{仮リンク|タトゥン王国|en|Thaton Kingdom}}を滅ぼす。ビルマ族は先んじて征服していた[[ピュー族]]から仏教を初めとした文化を受容していたと推察され{{Sfn|小泉|2008|p=145}}、また征服したモン族の文化も受け入れることで、建国初期に建立された[[バガン]]の[[シュエズィーゴン・パゴダ]]に見られるような、諸民族の建築様式を融合させたスタイルが確立されることとなった。パガン王朝は「建寺王朝」の異称を持つほどに仏教寺院の建立に対して熱心であった。また、実際の寺院の建築に携わったのはパガン朝に征服された側であったモン族の職人たちであった。都がおかれたバガンでは、13世紀に至るまで盛んに寺院の建設が繰り広げられ、そのうちのおよそ2000宇ほどが現在でも残っている。寺塔建築<ref group="注釈">ビルマにおけるパゴダ、あるいはパヤー(paya)は、在家信者にとっての信仰の場であり、僧侶の修行の場である寺院とは区別される。</ref> は主に高塔形式のものが築かれたが、それらも仏塔形式と寺堂形式にふたつに大別される{{Sfn|朴|2016|p=118}}。仏塔形式は[[ビルマ語]]でゼ―ディ(zedi、ゼディとも)<ref group="注釈">[[パーリ語]]のチャイティヤから。またゼーティは目的別に4種類に分けられ、このうち経典や仏像を備えたゼ―ティがよく建てられた。</ref><ref name="HARDIMAN">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=n7oMAAAAIAAJ|title=Gazetteer of Upper Burma and the Shan States|last=Hardiman|first=John Percy|publisher=Superintendent, Government printing, Burma|year=1900|language=en}}</ref>、内部空間を置かず{{Sfn|前田|2012|p=100}}、パガン朝初期にはスリランカ風の円錐形[[相輪]]を、後期には細長い{{仮リンク|ティ|en|Hti}}(傘蓋などの飾り)が頂上に取り付けられた{{Sfn|朴|2016|p=119}}。一方の、ビルマ語でパトー<ref group="注釈">パト―は内部に[[僧房]]や居住空間を備えず、運営・管理も在家信者によって行われてきた。</ref>(phato)と呼ばれる寺堂形式は12世紀から登場し、建物内部に仏を祀る祠堂を備える。これらの寺塔はいずれの場合でももっぱら煉瓦を用いて作られたが<ref>{{Cite web|和書|title=パゴダは寺院ではない―パゴダと寺院の違い―  『中小企業診断士 都築 治』 - 一般社団法人 日本ミャンマー友好協会|url=http://jmfa-main.com/myanmarsituation/religion/20160628.html|website=jmfa-main.com|accessdate=2021-05-30|publisher=日本ミャンマー友好協会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190913154143/http://jmfa-main.com/myanmarsituation/religion/20160628.html|archivedate=2019-09-13|author=都築治}}</ref>、仏教建築全体で見れば木造の多層塔や僧院も少なくなかった。仏像美術においてはインドの[[ビハール]]・パーラ朝の影響が薄い法衣や衣文線の表現にみられる。その一方で、密教系尊像はほとんど作られず、上座部仏教の釈迦仏、[[過去七仏|過去四仏]]<ref group="注釈">過去七仏のうち、迦葉仏・拘楼孫仏(倶留孫仏)・拘那含牟尼仏・釈迦牟尼仏の四仏。</ref><ref>{{Cite journal|author=竹本寿光|year=1978|title=過去四仏について|url=https://doi.org/10.4259/ibk.28.297|journal=印度學佛教學研究|volume=28|pages=297-299|accessdate=2021-05-30|ISSN=00194344}}</ref>、またこの時代の仏像の制作方法は多岐にわたり、金、青銅、木材、石、レンガと漆喰など様々な素材が用いられた。仏教絵画においては、インドよりもむしろチベット絵画の流れを汲むものが多く見られるが、主題の多くは仏伝図や本生譚であり、こちらも大乗仏教・密教由来のものは限られている{{Sfn|朴|2016|p=121}}。また、当時制作された壁画の現存例が少ないことで、パガン朝期の仏教絵画の体系的な把握を難しくしている。[[1287年]]、[[モンゴルのビルマ侵攻]]によってバガンは[[元 (王朝)|元軍]]の略奪を受けたが、その後もパゴダと仏像の補修・新造は続けられた{{Sfn|前田|2012|p=102}}<ref name="niu">{{Cite web|url=http://www.seasite.niu.edu/burmese/cooler/Chapter_4/Part1/post_pagan_period__part_1.htm|title=The Post Pagan Period – Part 1|publisher=seasite.niu.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref>。[[ファイル:Buddha_00004.JPG|サムネイル| [[ヤンゴン]]、[[シュエダゴン・パゴダ]]内部に安置されたマンダレー仏]]
<ref name="niu">{{Cite web|url=http://www.seasite.niu.edu/burmese/cooler/Chapter_4/Part1/post_pagan_period__part_1.htm|title=The Post Pagan Period – Part 1|publisher=seasite.niu.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref>

14世紀から16世紀まで栄えた[[アヴァ王朝|アヴァ王国]]のもとで、アヴァ(インワ)様式の仏像が成った。大きな立ち耳と[[耳朶]]、長く上向きに弧を引いた眉、[[禅定]]を表す半目、口角の上がった唇と天を指すような単髻をもち、通常は[[印相|触地印]]で表現されることが特徴である<ref name="niu2">{{cite web|url=http://www.seasite.niu.edu/burmese/cooler/Chapter_4/Part1/post_pagan_period__part_1.htm|title=The Post Pagan Period – Part 1|publisher=seasite.niu.edu|access-date=2014-12-11}}</ref>。

18世紀まで続いたコンバウン朝では、今日まで制作が行われているマンダレー様式ができた<ref name="niu2"/>。様式はインワ様式をもって範としたものではあるものの、よりいっそう自然な表現が追求されている。マンダレー様式はインワ様式より自然で肉づきのよい相貌をもち、吊り目でより厚い唇、そして丸みがかった単髻で表される。また、触地印以外の坐像や立像、臥像も作られた<ref name="buddhaartgallery">{{cite web|url=http://www.buddhaartgallery.com/mandalay_buddha_statues.html|title=buddhaartgallery.com|publisher=buddhaartgallery.com|access-date=2014-12-11}}</ref>。マンダレー仏の法衣は、流麗な表現で表されることも特徴。

また、ミャンマー東部の丘陵地帯に住む[[シャン族]]はシャン様式を生み出した。シャン仏は細面で痩身、大きく角張った鼻、タイの仏像に似た肉髻と螺髪、そして小さく薄い口を持つ<ref name="buddhaartgallery2">{{cite web|url=http://www.buddhaartgallery.com/shan_buddha_statues.html|title=buddhaartgallery.com|publisher=buddhaartgallery.com|access-date=2014-12-11}}</ref>。<gallery>
20160810 Bawbawgyi Pogoda Sri Ksetra Pyay Myanmar 9252.jpg|[[ボーボージーパゴダ]] タイェーキッタヤー({{仮リンク|シュリ・クシェトラ王国|en|Sri Ksetra Kingdom}}) [[5世紀]] [[ピュー|ピュー族]]によって建てられた。
Shwedagon Pagoda 2017.jpg|[[シュエダゴン・パゴダ]] 15世紀頃創建、[[1775年]]に{{仮リンク|シンビューシン|en|Hsinbyushin|label=シンビューシン王}}による大規模な改修 [[ヤンゴン]] 代表的なゼディ。塔の外周を歩く僧侶から、塔そのものの巨大さが窺える。
20160729 Nanmyaebonthar Sannandawya Sandamuni Pagoda 5932.jpg|{{仮リンク|サンダムニ・パゴタ|en|Sandamuni Pagoda}} 1874年創建 [[コンバウン王朝|コンバウン朝]]末期
Burma, c. 9th Century - Standing Buddha - 1973.159 - Cleveland Museum of Art.jpg|仏陀立像 9世紀 [[クリーブランド美術館]]蔵
Shakyamuni Buddha, Burma, Ave period, 17th century AD, alabaster with traces of pigments and gilding - Östasiatiska museet, Stockholm - DSC09289.JPG|降魔釈迦像 アヴァ王国 [[17世紀]] [[ストックホルム]]、{{仮リンク|東洋博物館 (ストックホルム)|en|Museum of Far Eastern Antiquities, Stockholm|label=東洋博物館}}蔵
Buddha from Sagaing, Burma.jpg|降魔釈迦像 [[サガイン]]伝来 17世紀 [[ファウラー美術館]]蔵
</gallery>{{Clear}}


14世紀から16世紀までの[[アヴァ王朝|Ava時代]]には仏像のAva(Innwa)スタイルが人気となり このスタイルでは、仏には大きな突出した耳、上向きに曲がった誇張された眉毛、半分閉じた目、細い唇、および通常は肩甲骨ムードラに描かれた髪の毛が上部に向けられている。18世紀末の[[コンバウン王朝]]の間に仏像のマンダレースタイルが出現したがこのスタイルは今日でも人気があり <ref name="niu2">{{Cite web|url=http://www.seasite.niu.edu/burmese/cooler/Chapter_4/Part3/post_pagan_period__part_3.htm|title=The Post Pagan Period – Part 3|publisher=seasite.niu.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref> Innwaスタイルからの著しい逸脱があって仏の顔ははるかに自然で肉厚で、自然に斜めになった眉毛、わずかに斜めの目、より太い唇、上部に丸い髪のバンが特徴で このスタイルの仏像は横たわっているか、立っているか、座っているかがわかり <ref name="buddhaartgallery">{{Cite web|url=http://www.buddhaartgallery.com/mandalay_buddha_statues.html|title=buddhaartgallery.com|publisher=buddhaartgallery.com|accessdate=2014-12-11}}</ref> マンダレースタイルの仏は、流れるようなドレープのローブを着ている。<br />仏像のもう1つの一般的なスタイルはミャンマーの高地に住む[[シャン族]]のシャンスタイルで このスタイルでは仏は角のある特徴、大きくて尖った鼻、タイのスタイルと同様に結ばれた髪の束、小さな細い口で描かれている。<ref name="buddhaartgallery2">{{Cite web|url=http://www.buddhaartgallery.com/shan_buddha_statues.html|title=buddhaartgallery.com|publisher=buddhaartgallery.com|accessdate=2014-12-11}}</ref>{{Clear}}[[ファイル:Buddha_00004.JPG|サムネイル| マンダレー様式の仏像]]
=== カンボジア ===
=== カンボジア ===
{{See|:en:Khmer art|:en:Khmer sculpture|:en:Angkor#Terms and phrases}}
{{See|Khmer art|Khmer sculpture}}[[カンボジア]]は[[扶南国|フン]]王国の中心であり、3世紀から6世紀にかけてビルマとマレーシアの南端まで拡大しその影響は本質的に政治的なものであり、文化的影響のほとんどはインドから直接もたらされたようである。
[[ファイル:Cambodian_-_Eight-armed_Avalokiteshvara_-_Walters_542726.jpg|左|サムネイル|[[那羅延天]]像([[レプリカ]]) [[ウォルターズ美術館]]蔵 元となった仏像は、[[1191年]]にジャヤヴァルマン7世の命令によって父、[[ダーラニンドラヴァルマン2世]]を称えるために23体制作され、国中に送られた像の内の1つ。 ]]
現代のカンボジアの領土は、クメール人が建てた古代王国、[[扶南国]]の中心的な領土でもある。扶南国は、1世紀末から7世紀にかけて勢力圏を東南アジア全体に拡大させ、西は現在のビルマから南はマレーシアに至るまでを支配した。カンボジアは、政治的には影響力を及ぼす立場であったものの、文化的にはインドからの強い影響を受けた。特に、[[オケオ|オケオ遺跡]]の出土品のなかに[[クシャーナ朝]]ガンダーラで作られた青銅製の仏頭<ref>{{Cite book|和書|ISBN=4-12-101372-7|title=物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム|author=小倉貞男|authorlink=小倉紀蔵#家族|series=中公新書|pages=149-150}}</ref> や北魏風の青銅製仏立像{{Sfn|朴|2016|p=124}}が見られるように、5世紀以降には仏教とヒンドゥー教を受容していた{{Sfn|朴|2016|p=123}}。また、6世紀から7世紀に制作されたと考えられるワット・ロムロク(Wat Romlok)出土の仏像はグプタ朝や南インドの影響が著しく{{Sfn|朴|2016|p=124}}、装束においては[[根本説一切有部]]の戒律が根付いていたことが窺える<ref>{{Cite journal|author=Nancy Dowling|year=2000|title=New Light on Early Cambodian Buddhism|url=http://www.siamese-heritage.org/jsspdf/1991/JSS_088_0n_Dowling_NewLightOnEarlyCambodianBuddhism.pdf|journal=Journal of the Siam Society|volume=88|pages=122-155|language=en}}</ref>。扶南国最後の王、{{仮リンク|ルドラヴァルマン (扶南)|en|Rudravarman|label=ルドラヴァルマン}}の頃には仏教はいよいよ盛んになった。考古学的な研究によれば、この時代、[[アンコール・ボレイとプノン・ダ]]で木製や青銅製、石造の仏像が作られたことが判明している<ref name=":02">{{Cite journal|author=藤吉慈海|year=1969|title=カンボジアの仏教(<特集>岩村忍教授退官記念号)|url=https://hdl.handle.net/2433/55550|journal=東南アジア研究|volume=6|issue=4|page=857}}</ref>。


ユーラシアの東西貿易が崩壊し、交易で成り立っていた扶南国が衰えると、6世紀に興った[[真臘国]]がこれに代わってクメールの支配者となる。ヒンドゥー教を重んじた真臘は、仏教に対して弾圧が行っていたわけではないようだが、義浄による『南海寄帰内法伝』によれば、7世紀の末には仏教が一時衰えていたようで<ref name=":02" />、それゆえか仏教美術の作例は少ない。しかしながら、6世紀から7世紀は大乗仏教がインドから流入した時代でもあった。この時代に真臘によって遺された碑文では、[[菩薩]]や[[天部]]の像が建てられた旨について触れている。さらに、彫刻美術そのものは真臘が分裂状態にあった時代でも健在であった。後の仏教美術の礎となる、プレ・アンコール様式と呼ばれる様式が、同時代にカンボジアへと侵入したインドネシアの[[シュリーヴィジャヤ王国]]の芸術をも取り込みながら成立した{{Sfn|朴|2016|p=126}}。
その後、9世紀から13世紀にかけて、大乗仏教とヒンドゥー教の[[クメール王朝|クメール帝国]]が東南アジア半島の広大な部分を支配し、その影響はこの地域の仏教美術の発展において最も重要で クメールの下でカンボジアと近隣のタイとラオスに900以上の寺院が建てられた。クメール仏教美術の王室の愛顧はアンコールトム''ドヴァラス'' (ゲート)と''プラサート''タワー[[バイヨン]]の[[聖観音|ロケシュヴァラ]]の笑顔で飾られた、[[アンコール・トム]]の城壁都市を建てた仏教の王[[ジャヤーヴァルマン7世|ジャヤヴァルマン7世]]の後援により新たな高みに達したが <ref>{{Cite book|title=Buddhist Monuments and Temples of Cambodia and Laos|last=W. Vivian De Thabrew|publisher=Author House|year=2014|isbn=978-1496998972|url=https://books.google.com/books?id=PRnWBQAAQBAJ&pg=PP36&dq=Angkor+Thom+Buddhist+Art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiqqenx7vfVAhVCPI8KHe3nAds4ChDoAQhsMAk#v=onepage&q=Angkor%20Thom%20Buddhist%20Art&f=false|page=33}}</ref> [[アンコール遺跡|アンコール]]はこの開発の中心であり、仏教寺院の複合体と都市組織が約1をサポートでき &nbsp;百万人の都市居住者がいて カンボジアの仏教彫刻の多くはアンコールに保存されている。しかし、組織的な略奪は、全国の多くのサイトに大きな影響を及ぼしました。多くの場合クメール芸術はその備の特徴と細い線にもかかわらず、神聖に輝く表現を通して強烈な精神性を表現することができているといわれる。[[ファイル:Bodhisattva_Lokesvara_statue.jpg|サムネイル| 12世紀の[[カンボジア]]、[[聖観音|ロケスバラBo]]。]]

その後、9世紀初頭から13世紀にかけて、大乗仏教とヒンドゥー教を奉じた[[クメール王朝|クメール帝国]]が[[インドシナ半島]]のほぼ全域を支配し、同地の仏教美術の発展に大きな影響を遺した。クメールの下で、現在のカンボジアとその隣国[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]に、900以上の寺院が建てられた。クメール王室の仏教美術に対する支援は、同王朝初の仏教徒の国王として即位した[[12世紀]]の国王、[[ジャヤーヴァルマン7世]]によって最盛期を迎えた。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世が、東の[[チャンパ王国]]によるアンコール陥落によって生じた宗教的・精神的危機感と、かれらにに対する勝利を動機として、[[アンコール・トム]]のドヴァラ(門)や、プラサート・タワー・[[バイヨン]]に[[聖観音|ロケシュヴァラ]](聖観音)の「クメールの微笑み」と呼ばれる微笑みをあしらった、アンコール・トムの城壁都市が建設された<ref>{{Cite book|title=Buddhist Monuments and Temples of Cambodia and Laos|last=W. Vivian De Thabrew|publisher=Author House|year=2014|isbn=978-1496998972|url=https://books.google.com/books?id=PRnWBQAAQBAJ&pg=PP36&dq=Angkor+Thom+Buddhist+Art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiqqenx7vfVAhVCPI8KHe3nAds4ChDoAQhsMAk#v=onepage&q=Angkor%20Thom%20Buddhist%20Art&f=false|page=33}}</ref>{{Sfn|前田|2012|p=110}}。 [[アンコール遺跡]]は当時、これらの開発の中心として機能し、仏教寺院群と約100万人の都市民の生活を支える都市機構を有していた。 カンボジアの仏教彫刻の多くはアンコールに遺されている。しかし、15世紀のアユタヤ朝による侵略を鏑矢とする{{仮リンク|カンボジアの暗黒時代|en|Post-Angkor Period}}と、20世紀の[[カンボジア内戦]]中と戦後に行われた組織的な略奪、そして[[自然災害|天災]]によって、カンボジア国内の多くの遺跡・遺構に爪痕が残った{{Sfn|Coedès|1943|p=30}}<ref>{{cite news|date=2005-05-21|title=Siem Reap Journal; A Cruel Race to Loot the Splendor That Was Angkor|work=[[The New York Times]]|url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E06E3DA1E3CF932A15750C0A9639C8B63&sec=&spon=&pagewanted=1|accessdate=2021-06-12|author=Perlez, Jane.|language=en}}</ref>。

19世紀中頃までは、カンボジア全域が[[タイ王国]]の影響下に組み込まれていたことで、宮廷文化と仏教文化の双方においてタイ化が進行していた{{Sfn|笹川|2019|p=3}}。20世紀初頭、[[ノロドム]]王の治世末期に建設された[[プノンペン]]の王宮寺院、ヴォアット・プレアハ・カエウ・モロコットは、その名称から、バンコクの王宮である[[ワット・シーラッタナーサーサダーラーム|ワット・プラケーオ]]に倣ったものであった。

カンボジア内戦をはじめとする近年の戦火はまた<ref>Ang, SamSam. (March 2, 2010). [http://www.culturalsurvival.org/publications/cultural-survival-quarterly/cambodia/preserving-cultural-tradition-ten-years-after-khme ''Preserving a Cultural Tradition: Ten Years After the Khmer Rouge.''] Cultural Survival. Retrieved 30 August 2012.</ref><ref>Wubin, Zhuang .[http://www.aaa.org.hk/Diaaalogue/Details/1144 ''Mekong Spring: Cambodian Photography in the Last Decade''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130609063926/http://www.aaa.org.hk/Diaaalogue/Details/1144|date=2013-06-09}} Asia Art Archive. Retrieved 30 August 2012.</ref>、カンボジア国内における歴史的な[[ワット (宗教施設)|ワット]]の壁画美術の大半をも破壊した。しかしながら、幸い、1960年代に美術史家のガイ・ナフィリヤンとジャクリーン・ナフィリヤンによってこれら19世紀の壁画美術の記録が遺されていた<ref>{{Cite journal|author=Nafilyan, Guy.|year=1969|title=Angkor Vat, description graphique du temple [par] Guy Nafilyan. Avec la collaboration de Alex Turletti, Mey Than, Dy Proeung, Vong Von ..|journal=Publications de l'Ecole française d'Extrême-Orient. Mémoire archéologique|volume=4|publisher=[[パリ|Paris]]|language=fr|ISBN=9782855394046}}</ref>。現在においても歴史的壁画を有する寺院としては、[[プノンペン]]の{{仮リンク|シルバーパゴダ|en|Silver Pagoda}}、[[シェムリアップ]]のワット・ボー、[[コンポンチャム州]]の{{仮リンク|ワット・カンポン・トラック・ルー|de|Wat Kampong Tralach Loeu}}がある。1990年代から壁画の制作が再び行われるようになったが、一般的に、戦災を逃れた壁画の方がより洗練され、細部まで描かれている。
[[ファイル:Bodhisattva_Lokesvara_statue.jpg|サムネイル|[[観世音菩薩]]、あるいは[[聖観音]]像 12世紀 パリ、ギメ美術館蔵]]
クメール美術は、柔和で薄い顔立ちと細い線をもちながら、神々しいまでの表情で強烈な精神性を表現していることに特徴づけられている。<gallery heights="160">
Cambogia, da angkor borei, bodhisattva avalokiteshvara, 600-700.JPG|聖観音像 アンコール・ボレイ出土 7世紀頃から8世紀頃 [[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵
Guimet IMG 6009 Jayavarman7.JPG|[[ジャヤーヴァルマン7世]]頭部像 バイヨン期様式 12世紀 [[アンコール遺跡|アンコール遺跡群]]、[[タ・プローム]]出土? [[ギメ東洋美術館]]蔵 アンコール時代には、国王自身が信奉する宗教の最高神(仏教においては仏教尊格)の化身であり、死後は帰一するというデーヴァ・ラージャ(神王信仰)が行われた{{Sfn|朴|2016|p=128}}。
Le Bayon (Angkor) (6550614425).jpg|[[バイヨン]]寺院の四面塔、[[アンコール・トム]]付近 13世紀初期完成{{Sfn|前田|2012|p=110}} 現在173存在する尊顔は、多数の職人たちによる分業で造営が進められた<ref>{{Cite journal|author=鎌倉真音、大石岳史、高松淳、[[池内 克史]]|year=2005-12-16|date=2005-12-16|title=カンボジアバイヨン寺院尊顔の分類から見た尊顔制作背景|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00100485/|journal=じんもんこん2005論文集|volume=2005|pages=55-61|accessdate=2021-06-12}}</ref>。従来は、建立後にヒンドゥー教寺院として作り変えられたと考えられていたが、今世紀の研究では、「超宗教」的な護国的複合寺院として計画されたとするものもある{{Sfn|前田|2012|p=224}}。
2016 Phnom Penh, Pałac Królewski, Malowidła przedstawiające sceny z Reamker (35).jpg|シルバーパゴダ内、{{仮リンク|リームケー|en|Reamker}}(本生譚)を描いた壁画 [[1900年代]]初頭<ref>{{Cite news|title=MY PHNOM PENH: Borany Mam|date=2016-04-01|author=Wilson, Audrey.|newspaper=[[:en:The Phnom Penh Post|The Phnom Penh Post]]|url=https://www.phnompenhpost.com/post-weekend/my-phnom-penh-borany-mam|accessdate=2021-06-12|language=en}}</ref> カンボジア王国([[フランス領インドシナ]])
</gallery>{{Clear}}


=== タイ ===
=== タイ ===
{{See|:en:Thai art|:en:Buddha images in Thailand||:en:Thai temple art and architecture}}
{{See|Thai art|Buddha images in Thailand}}タイの仏教芸術はタイの前の文化であるDvaravatiとSrivijayaから、タイの最初の首都である13世紀のスコータイまでタイ王国のアユタヤとラッタナコシンまで数千年以上の期間を網羅している。<ref name="Thai Buddhist Art2">{{Cite book|title=Thai Buddhist Art: Discover Thai Art|last=Dawn F. Rooney|publisher=River Books|year=2016|isbn=978-6167339696|url=https://books.google.com/books?id=ugvEjgEACAAJ&dq=Thai+Buddhist+Art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwi63vTr7ffVAhUIpo8KHdBzBkwQ6AEINTAC}}</ref> [[ファイル:Wat_Si_Chum_in_Sukhothai.jpg|左|サムネイル| プラ・アチャナ・[[スコータイ歴史公園|ワット・シー・チュム]]、[[スコータイ県]]、[[タイ王国|タイ]]]]1世紀から7世紀にかけて [[タイ王国|タイ]]の仏教美術はインドの商人との直接的な接触と[[モン族 (Mon)|モン]]王国の拡大に最初に影響を受け[[グプタ朝|グプタ]]の伝統からインスピレーションを受けたヒンドゥー教と仏教美術の創造につながる。9世紀以降、タイ芸術のさまざまな学校は大乗信仰の両方で北のカンボジア[[クメール王朝|クメール]]芸術と南の[[シュリーヴィジャヤ王国|スリヴィジャヤ]]芸術の影響を強く受け その間に仏教美術は[[大乗仏教|大乗]]の複数の作品とパンテオン[[菩薩]]など表現に明確な主題をもつ特徴があるされているが 13世紀からは [[上座部仏教|上座部]]仏教は同時期にスリランカから導入された[[タイ族|民族のタイ]]の王国[[スコータイ王朝|スコータイが]]設立され <ref name="Thai Buddhist Art3">{{Cite book|title=Thai Buddhist Art: Discover Thai Art|last=Dawn F. Rooney|publisher=River Books|year=2016|isbn=978-6167339696|url=https://books.google.com/books?id=ugvEjgEACAAJ&dq=Thai+Buddhist+Art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwi63vTr7ffVAhUIpo8KHdBzBkwQ6AEINTAC}}</ref> 新しい信仰はタイ仏教の非常に様式化されたイメージに影響を与えられた。
13世紀以降のタイ民族系王国期と、それ以前の「プレ・タイ期」{{Sfn|浅井|2001|p=174}}に分けて述べる{{Sfn|淺湫|2001|p=181}}{{Sfn|伊東|2007|p=55}}{{Sfn|原田|2008|pp=12-17}}。


==== プレ・タイ人系期 ====
[[アユタヤ王朝|アユタヤ]]時代(14世紀から18世紀)に仏像はよりスタイリッシュな様式で、豪華な衣服と宝石で飾られた装飾品で表されるようになり 以降多くのタイの彫刻や寺院は[[箔押し|金メッキ]]される傾向があり、時にはインレイで豊かになる。
現在のタイにあたる地域に仏教がもたらされたのはおよそ5世紀である{{Sfn|原田|2008|p=24}}。インド及びスリランカで制作された仏像が発掘されている{{Sfn|浅井|2001|p=174}}{{Sfn|原田|2017|pp=12}}。


6世紀後半以降、[[モン族 (Mon)|モン人]]による、[[チャオプラヤー川]]中・下流域の[[ドヴァーラヴァティー王国]]では、[[グプタ朝]]及びそれ以降のインド美術、それにスリランカ・[[アヌラーダプラ]]期の影響を受けた釈迦像が作られた{{Sfn|原田|2017|pp=13-14}}{{Sfn|前田|2012|p=111}}。仏教関連の碑文は殆どが[[パーリ語]]であり、上座部仏教が信奉されていたと分かるが、[[義浄]]の{{仮リンク|『南海寄帰内法伝』|en|A Record of Buddhist Practices Sent Home from the Southern Sea}}には、「南海は全体として小乗であるが、ほかの地域は大乗と小乗が混在している。[[菩薩]]を礼拝し、[[仏典#漢訳仏典|大乗経]]を読むのであれば大乗であり、それをしないのであれば小乗と呼ぶだけのことである。」と、明確な線引きが出来ない状況を記す{{Sfn|原田|2017|p=14}}。
[[トンブリー王朝|トンブリ]]と[[ラッタナコシン王国|ラタナコシン王国]]のその後の期間はタイ仏教美術のさらなる発展を見たが <ref name="Thai Buddhist Art4">{{Cite book|title=Thai Buddhist Art: Discover Thai Art|last=Dawn F. Rooney|publisher=River Books|year=2016|isbn=978-6167339696|url=https://books.google.com/books?id=ugvEjgEACAAJ&dq=Thai+Buddhist+Art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwi63vTr7ffVAhUIpo8KHdBzBkwQ6AEINTAC}}</ref> 18世紀までに [[バンコク]]は[[タイ王国|サイアム]]王国の王室の中心地として設立され その後タイの統治者は仏教の尊厳を示し、その権威を示すために、堂々とした仏教のモニュメントで都市を満たした。その中には[[エメラルド仏|エメラルドブッダ]]を主催する有名な[[ワット・シーラッタナーサーサダーラーム|ワットプラケオ]]があるが バンコクの他の仏教寺院は [[ワット・アルンラーチャワラーラーム|ワット・アルン]] と[[ワット・プラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム|ワットポー]]などからの有名なイメージと[[涅槃仏|菩提]] ''仏塔''風の塔を持つ。{{Clear}}


11世紀頃、ヒンドゥー教を奉じる[[クメール王朝|アンコール王朝]]の伸張によって、チャオプラヤー川流域は、[[クメール人]]の、またマレー半島は[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]の支配下におかれた{{Sfn|原田|2017|p=15}}。この時期の仏像様式として、[[ナーガ]]上の仏坐像があげられる。[[竜王#インド仏教における龍王|龍王]]と同一視されるナーガ7頭が光背に放射状に並び、[[結跏趺坐]]の下にもとぐろを巻いたナーガがブッダを支えている。ブッダが瞑想する間、ナーガが頭上を覆って風雨から護ったという仏伝に基づく。ナーガ上の仏坐像は南インドから東南アジアまで広範囲にみられるが、クメール美術の影響が及んだ地域では特に人気のテーマであった{{Sfn|原田|2017|pp=203-204}}。
=== インドネシア ===
{{see also|w:Buddhism in Indonesia}}他の東南アジアと同様に [[インドネシア]]は西暦1世紀からインドの影響を最も強く受けていたようで 西インドネシアの[[スマトラ島]]と[[ジャワ島]]は、海の力で東南アジア半島周辺の大部分を支配するようになった[[シュリーヴィジャヤ王国|スリ・ヴィジャヤ]] ( [[シュリーヴィジャヤ王国|8〜13]]世紀)の帝国の所在地であり スリランカビジャヤン帝国は支配者[[シャイレーンドラ朝]]の下に大乗仏教とVajrayanaを採用。シャイイレンドラは熱心な寺院建築家であり、ジャワの仏教の献身的な後援者で <ref name="Buddhist Art in India, Ceylon, and Java2">{{Cite book|title=Buddhist Art in India, Ceylon, and Java|last=Jean Philippe Vogel|last2=Adriaan Jacob Barnouw|publisher=Asian Educational Services|year=1936|isbn=978-8120612259|url=https://books.google.com/books?id=wQ2x0cbZkn0C&printsec=frontcover&dq=Buddhist+art+of+Java&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjLm_6o6PfVAhXKo48KHUc_DuEQ6AEIJjAA#v=onepage&q=Buddhist%20art%20of%20Java&f=false|pages=90–92}}</ref> スリ・ヴィジャヤは東南アジア半島への拡大中に大乗仏教美術を広めた。大乗の数多くの仏像[[菩薩]]この時期からは非常に強力な洗練と高度な技術によって特徴付けられ、そして各地域で発見されていく。ジャワで最も古い仏教の碑文の1つである778年の[[カラサン碑文|カラサンの碑文]]には、女神[[多羅菩薩|タラ]]の[[カラサン|寺院]]の建設について言及されている <ref name="Buddhist Art in India, Ceylon, and Java2" />。[[ファイル:Prajnaparamita_Java_Side_Detail.JPG|サムネイル| ロータスの玉座にある東ジャワのシンハサリのプラニャパーラミターの像。]][[ファイル:Borobudur-perfect-buddha.jpg|左|サムネイル| [[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]の仏。]]非常に豊かで洗練された建築遺物はジャワとスマトラにあるが 最も壮大なのは [[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]寺院(780-850年頃に建てられた世界最大の仏教建造物)で、サイレンドラスによって建てられた <ref name="Buddhist Art in India, Ceylon, and Java3">{{Cite book|title=Buddhist Art in India, Ceylon, and Java|last=Jean Philippe Vogel|last2=Adriaan Jacob Barnouw|publisher=Asian Educational Services|year=1936|isbn=978-8120612259|url=https://books.google.com/books?id=wQ2x0cbZkn0C&printsec=frontcover&dq=Buddhist+art+of+Java&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjLm_6o6PfVAhXKo48KHUc_DuEQ6AEIJjAA#v=onepage&q=Buddhist%20art%20of%20Java&f=false|pages=90–92}}</ref> この寺院は仏教の宇宙の概念、着座仏の505枚の画像を数える[[曼荼羅|マンダラ]]および仏像を含む独特の鐘形の仏塔をモデルにしており ボロブドゥールには仏教の聖典をナレーションしたレリーフの長いシリーズも飾られている <ref>{{Cite book|title=Borobudur: Golden Tales of the Buddhas|last=John Miksic|publisher=Tuttle Publishing|year=2012|isbn=978-1462909100|url=https://books.google.com/books?id=jwzQAgAAQBAJ&printsec=frontcover&dq=borobudur+golden+tales+of+the+buddhas&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjP45O7r_rVAhWJtY8KHcpuAfYQ6AEIKTAA#v=onepage&q=buddhist%20art&f=false}}</ref>。インドネシアで最も古い仏教建造物はおそらく西ジャワのカラワンにある[[バトゥジャヤ遺跡|バトゥジャヤ]]の仏塔で、4世紀頃とされ この寺院は、漆喰で覆われたレンガの仏塔である。しかしインドネシアの仏教美術は、ジャワ島の[[シャイレーンドラ朝|サイレンドラ]]王朝時代に黄金時代に達した。浅浮き彫りや彫像[[菩薩]]、[[多羅菩薩|タラ]] と[[緊那羅]]で見つかった[[カラサン|Kalasan]] [[チャンディ・セウ|セウ]]、[[チャンディ・サリ|サリ]]および[[チャンディ・プラオサン|Plaosan]]の寺らは穏やかな表現と非常に優雅である一方[[メンドゥット|Mendut]]のボロブドゥール近くの寺院は[[大日如来]]、[[聖観音|観音菩薩]]及び[[ヴァジュラパニ|執金剛神]] など巨大な彫像を収容する。


==== タイ人系王朝 ====
[[スマトラ島]]でスリ・ヴィジャヤはおそらくムアラ・タクスの神殿と[[ムアロジャンビテンプルコンパウンド|ムアロ・ジャンビ]]を建てたとされるが、ジャワの古典仏教美術の最も美しい例は [[シンガサリ王国|シンハサリ]]王国からの超越的な知恵の女神である[[般若経|プラナパラミタ]] (国立博物館ジャカルタのコレクション)の穏やかで繊細な像で <ref name="VCM2">{{Cite web|title=Prajnaparamita|publisher=Virtual Collections of Asian Masterpieces|url=http://masterpieces.asemus.museum/masterpiece/detail.nhn?objectId=12147|accessdate=27 August 2017}}</ref> インドネシアの仏教スリ・ヴィジャヤ帝国はインドの[[チョーラ朝|チョーラ]]の支配者との対立により衰退し、その後[[マジャパヒト王国|マジャパヒト]]帝国が続いた。{{Clear}}
[[13世紀]]は、「[[タイ族]]の沸騰の時代」であった{{Sfn|原田|2017|p=83}}。[[チャオプラヤー川]]流域に進出したタイ人によって、初の民族国家[[スコータイ王朝|スコータイ朝]]が打ち立てられたほか、タイ人固有の文字やタイ仏教文化の基礎が形作られた。スコータイ朝の立国当初は上座部・大乗仏教・ヒンドゥー教が併存していたが、3代王[[ラームカムヘーン]]が上座部僧に帰依することによって、同派の国内での優占を決定づけ、上座部仏教がタイに浸透することなった{{Sfn|原田|2017|pp=16-17}}{{Sfn|森|2011|pp=82-83}}{{Sfn|村上|2011|pp=217-218}}。スコータイの仏教美術は、クメールやハリプンチャイ、パガン、そしてスリランカから影響を受けて発達した{{Sfn|原田|2008|p=27}}。


この時代に生まれた仏像の型として、釈迦[[遊行]]像があげられる。左ひじを上げ、掌を見せる[[印相#主な印相|施無畏印]]を示し、左足に重心を乗せ、右足を前に踏み出そうとする姿をとる。この様式は、亡くなった[[摩耶夫人]]へ説法するため、釈迦が[[梵天]]・[[帝釈天]]とともに[[忉利天]]から[[サンカーシャ]]([[パーリ語|巴]]:サンカッサとも{{Sfn|原田|2017|p=236}})へと降りてくる仏伝を表したとされる{{Sfn|原田|2017|p=211|ps=小泉惠英「仏陀遊行像」}}{{Sfn|浅井|2001|p=384|ps=淺湫毅「遊行仏」}}。建築においては、[[ワット・マハータート (スコータイ)|ワット・マハータート]]があげられる。中心にストゥーパ、その前に仏堂を置き、スリランカの影響がうかがえる{{Sfn|成田|2001|pp=168-169}}{{Sfn|原田|2008|p=27}}。
== 現代仏教美術 ==
[[ファイル:Buddha_and_the_gospel_of_Buddhism_(1916)_(14779469804).jpg|右|サムネイル| 本「仏と仏教の福音」(1916年)のイラスト。]]
多くの現代アーティストが仏教のテーマを利用しています。注目すべき例は、ビデオインスタレーションの[[ビル・ヴィオラ|Bill Viola]]、<ref>Buddha Mind in Contemporary Art, University of California Press, 2004</ref>彫刻のJohn Connell<ref>ARTlines, April 1983</ref>、マルチメディアの "Time is Memory"のAllan Grahamです。<ref>The Brooklyn Rail, December 2007</ref>


同時期の[[タイ北部]]では、スコータイ王朝やアユタヤ王朝に加え、[[ラーンナー王国]]が興った。ラーンナー美術は、初期にはハリプンチャイ美術の、後にはパーラ朝美術の流れを汲むパガン美術の影響を受けていた{{Sfn|原田|2008|p=28-29}}。この王国は19世紀末まで存続し、[[チエンセーン郡|チェンセーン]]のワット・チェディ・ルアントット・パサック、[[ムアンチエンラーイ郡|チェンライ]]の{{仮リンク|ワット・プラケーオ (チェンライ)|en|Wat Phra Kaew, Chiang Rai|label=ワット・プラケーオ}}、[[ムアンチエンマイ郡|チェンマイ]]に[[ワット・チェーディールワン|ワット・チェディ・ルアン]]といった優れた仏教遺跡を遺したほか、チェンセン様式と呼ばれる美術を確立させた{{Sfn|前田|2012|p=113}}。
英国では、仏教組織のネットワークは、すべての芸術にわたって仏教の実践者を特定することに関心を持っています。2005年、英国全体の仏教芸術祭「花の蓮」をコーディネートしました。<ref>a poster advertising one of the events is archived here – http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050824213345/http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf#|date=24 August 2005}}</ref> 2009年、2日間の芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援しました。<ref name="blogspot">{{Cite web|url=http://fwbo-news.blogspot.com/2009/07/report-from-buddha-mind-creative-mind.html|title=Triratna Buddhist Community News: Report from ‘Buddha Mind – Creative Mind?' conference|author=Lokabandhu|publisher=fwbo-news.blogspot.com|accessdate=2014-12-11}}</ref> 後者の結果として、仏教芸術家の協会が結成されました。<ref name="ning">{{Cite web|url=http://dharmaarts.ning.com/|title=Dharma Arts Network – Launched at Buddha Mind – Creative Mind ?|publisher=dharmaarts.ning.com|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101010000408/http://dharmaarts.ning.com/#|archivedate=10 October 2010}}</ref>


14世紀半ばに興った[[アユタヤ王朝|アユタヤ朝]]は、15世紀半ばにはアンコール朝とスコータイ朝を退ける。スコータイ同様、上座部を最重要視したが、アンコール朝下での[[バラモン]]司祭を重用した{{Sfn|村上|2011|pp=220}}。仏像においては、スコータイ様式とクメール様式を踏襲した{{Sfn|淺湫|2001|pp=183-184}}{{Sfn|サクチャイ|2017|pp=29-30}}。17世紀初頭から18世紀中頃は既存の仏像の修復が主となり、この時期に制作された仏像は稀である。また、このような事情から、アユタヤ様式の造形美術は途絶してしまう{{Sfn|原田|2008|p=31}}。
== 関連項目 ==


[[ファイル:The_Emerald_Buddha_adorned_with_three_seasons_regalia.jpg|サムネイル|エメラルド仏(プラ・ケオ) 15世紀 [[ラーンナー]]伝来? バンコク、[[ワット・シーラッタナーサーサダーラーム|ワット・プラケーオ]]この仏像は季節ごとに異なった装飾が施される。左から[[夏|夏季]]、[[安居]]、[[冬季]]の装い。]]
* [[仏教]]
* 仏教建築
* [[仏教音楽]]
* 仏教の象徴
* [[仏像|ブッダルパ]]
* [[大仏]]
* [[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]
* [[東洋美術史]]
* シュッサン・シャカ


1782年、[[バンコク]]が新たな首都として拓かれた。2021年時点での王朝でもある[[チャクリー王朝|ラタナコーシン朝]]である。18世紀末に即位した初代国王[[ラーマ1世]]はアユタヤーの都の再興を目指し、[[ワット・シーラッタナーサーサダーラーム|ワット・プラケーオ]]や[[涅槃仏]][[ワット・プラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム|ワットポー]]等、造寺造仏に励んだ{{Sfn|原田|2017|pp=21-22}}{{Sfn|成田|2001|p=173}}。後を継いだ[[ラーマ2世]]は、[[詩人]]・[[彫刻家]]でもあり、仏教美術の御作が現代にも伝わっている{{Sfn|原田|2017|p=157}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}


{{Clear}}<gallery>
=== 注釈 ===
Bodhisattava Avalokiteshvara, Chaiya Art พระอวโลกิเตศวรโพธิสัตว์ ศิลปะไชยา 01.jpg|観音菩薩(パドマパーニ)像 [[9世紀]] シュリーヴィジャヤ王国(中部ジャワ)美術 銅像銀象嵌 高63.0cm タイ族南下以前に創建された大乗仏教の寺院、[[ワット・プラボーロマタートチャイヤー]]伝来。タイ、チャイヤ出土
{{Reflist|group="注釈"}}
201312141027b HL ps Sukothai, Wat Sa Si.jpg|釈迦遊行像 14世紀 [[ワット・サシー]] ウォーキング・ブッダ([[英語|英]]:Walking Buddha - [[:en:Leela attitude|Leela attitude]])とも。典拠となった『摩訶摩耶経』は、宋代の中国や平安時代の日本でも仏教美術の題材となった。
2013 Phra Buddha Chinnarat 01.jpg|プラプッタチンナラート(「勝利の王」) 15世紀前半 スコータイ仏 [[ピッサヌローク県|ピッサロヌーク]]、[[ワット・プラシーラッタナーマハータート (ピッサヌローク)|ワット・プラシーラッタナーマハータート]]蔵 [[マハータンマラーチャー4世]]の時代に鋳造{{Sfn|伊東|2007|pp=64-65}}。
Reclining Budha's Head - panoramio.jpg|ワット・ポーの[[涅槃仏]]
Phra Prang Sam Yod (I).jpg|[[プラーン・サームヨート|プラーン・サム・ヨート]]
015-Temple of the Emerald Buddha.jpg|ワット・プラケーオ外観
</gallery>


{{Clear}}
=== 参考文献 ===
'''書籍'''
*von Schroeder, Ulrich. (1990). ''Buddhist Sculptures of Sri Lanka''. (752 p.; 1620 illustrations). Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd. {{ISBN|962-7049-05-0}}
*von Schroeder, Ulrich. (1992). ''The Golden Age of Sculpture in Sri Lanka - Masterpieces of Buddhist and Hindu Bronzes from Museums in Sri Lanka'', [catalogue of the exhibition held at the Arthur M. Sackler Gallery, Washington, D. C., 1 November 1992 – 26 September 1993]. Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd. {{ISBN|962-7049-06-9}}


=== 出典 ===
=== インドネシア ===
{{see also|w:Buddhism in Indonesia}}
中国大陸の僧が、仏法を学ぶため、釈迦の出生地を目指すものが現れた。その過程において、この地の記録が残された。5世紀初頭、インドからの帰路にて[[ジャワ]]も
しくは[[スマトラ]]を訪れた[[仏国記|法顕]]は、「外道婆羅門が興盛し、仏法は言うに足らず」と記した。ヒンドゥー教ほど隆盛してはいないが、仏教も伝わっていたことが分かる{{Sfn|長沢|1971|pp=149-150}}{{Sfn|青山|2011|p=262}}。7世紀末、義浄([[#プレ・タイ人系期]])は、[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]にて計7年間を過ごし、仏教研究が進んでいると述べ、インドに行く前に当地で学ぶことを勧めている{{Sfn|肥塚|2001b|p=244}}{{Sfn|岩本|1973|p=261}}。当地にて辿れる最古の文字史料は、[[スマトラ島]]で発見された684年の{{仮リンク|タラン=トゥオゥ碑文|en|Talang Tuo inscription}}で、大乗仏教及び密教用語が見られる{{Sfn|岩本|1973|p=261}}。


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{{Reflist|2}}
Panoramic views of Borobudur.jpg|ボロブドゥール俯瞰図。
<!-- 以下は、翻訳元の段階で、本文中でグループ化されていなかった書籍情報です。 -->
Stupa Borobudur.jpg|ボロブドゥール、大小ストゥーパと仏座像。
* {{Cite book|title=Korea: A Religious History|first=James Huntley|last=Grayson|isbn=0-7007-1605-X|publisher=Routledge|year=2002|location=UK}}
Borobudur 21.jpg|ボロブドゥール第1回廊浮彫より、[[苦行]]を続けても[[解脱]]が得られず、[[沐浴]]をする釈迦{{Sfn|肥塚|2001a|p=405}}。
* {{Cite book|last=Gibson|first=Agnes C. (Tr. from the 'Handbook' of Prof. Albert Grunwedel)|others=Revised and Enlarged by Jas. Burgess|title=Buddhist Art in India|url=https://archive.org/stream/buddhistartinind00gruoft#page/n5/mode/2up|year=1901|publisher=Bernard Quaritc|location=London}}
</gallery>


[[シャイレーンドラ朝]]支配下の中部[[ジャワ島]]で、8世紀後半から9世紀前半にかけて[[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]が建立された。基部が約120メートル四方、基壇と方形5層に小ストゥーパと円形3層を重ねた階段状[[安山岩]]積みのこの建造物は、その上に大ストゥーパを戴いている。ストゥーパ内には計504躯の仏座像が祀られる。方形層の回廊には計1460面の仏伝・[[ジャータカ]]などに基づく浮彫が右回りに掲示される。[[五智如来]]で[[曼荼羅]]を表した、シャイレーンドラ家の墳墓と見なされている{{Sfn|小野|2001|pp=239-240、404}}{{Sfn|肥塚|2001|pp=405-406}}{{Sfn|中村ほか|2002|pp=935-936}}{{Sfn|伊東|2007|pp=7-9}}。
=== 関連文献 ===
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*{{cite book|title=Along the ancient silk routes: Central Asian art from the West Berlin State Museums|url=http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/33392/rec/2|location=New York|publisher=The Metropolitan Museum of Art|year=1982|isbn=978-0870993008}}

* {{cite book|title=Arts of Korea|url=http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/46962/rec/1|location=New York|publisher=The Metropolitan Museum of Art|year=1998|isbn=0870998501}}
== 現代仏教美術 ==
* {{cite book|author=Foltz, Richard C.|authorlink=Richard Foltz|title=Religions of the Silk Road: Premodern Patterns of Globalization|location=New York|publisher=Palgrave Macmillan|year=2010|isbn=978-0-230-62125-1}}
[[ファイル:Buddha_and_the_gospel_of_Buddhism_(1916)_(14779469804).jpg|右|サムネイル| 『仏陀と仏教の福音』({{仮リンク|アーナンダ・クーマラスワミ|en|Ananda Coomaraswamy}}著[[1916年|、1916年]])の挿絵]]
20世紀以降、アジアにおける仏教美術は西洋美術との接触・結びつきの中で新しい展開を迎えた。そのなかには、旧来の様式から離れて発展したものもあれば、伝統に軸足をおいたまま発展したものもある。

大乗仏教が主流な地域における現代仏教美術としては、[[大韓民国]]の王智源による仏像彫刻<ref>{{Cite web|url=https://www.mmca.go.kr/eng/artStudio/artistResume.do?menuId=7040000000&cinArtistId=201311100000758|title=Zi Won Wang, Korea|accessdate=2021-05-09|publisher=[[国立現代美術館 (韓国)|国立現代美術館]]}}</ref>、ネパール出身でチベット・[[ニャラム県]]にルーツを持つツェリン・シェルパによる絵画作品<ref>{{Cite web|url=https://rubinmuseum.org/page/ang-tsherin-sherpa|title=ANG TSHERIN SHERPA|accessdate=2021-05-09|publisher=ルービン美術館}}</ref> が挙げられる。仏教建築の分野で、台湾南部、[[高雄市]]の[[佛光山佛陀記念館]]が挙げられるだろう。この文化施設・宗教施設を兼ねる記念館は21世紀に入ってから建設され、仏塔やストゥーパ、大仏が建立されている。<!-- 小倉尚人、馬場崎研二 -->

また、上座部仏教が主流な地域でも、伝統美術の側からの近代的なアプローチは行われている。神秘家で彫刻家の{{仮リンク|バンルーリナット・スーリナット|en|Luang Pu Bunleua Sulilat}}は20世紀中盤にカンボジアとタイで活躍し、{{仮リンク|サラケオク公園|en|Sala Keoku}}や{{仮リンク|ブッダ・パーク|en|Buddha Park}}といった、大規模なコンクリート仏教彫刻群を造営した。さらに、1997年に開山したタイの[[ワット・ロンクン]]は、タイの伝統的な仏教建築と[[超現実主義]]が図られている<ref>{{cite news|last1=Sawyer|first1=Mitch|title=In Thailand, a Buddhist Artist Is Building the Bizarre Temple of His Dreams|url=https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-thailand-buddhist-artist-building-bizarre-temple-dreams|access-date=8 July 2017|work=Artsy|date=2017-07-07|format=Editorial}}</ref>。タイではさらに、いわゆる「地獄寺」としてカテゴライズされる、立体像を用いて屋外に設置されている空間が同国の農村部においてよく見られる。タイ全土およそ70ヶ所に点在する地獄寺は{{Sfn|椋橋|2018|pp=54-55}}、在家信者の教化を目的に制作されており、『三界経』<ref group="注釈">''Traiphum Phra Ruang'' [[スコータイ王朝]]第6代の王、[[リタイ]]によって1345年に著された。人間界、[[欲界]]、地獄について具体的に説く。</ref>や『{{仮リンク|プラ・マーライ|en|Phra Malai}}』で説かれた地獄をもとにしている{{Sfn|椋橋|2018|pp=21-32}}。これらは1970年代以降に大々的に作られるようになったが、1973年の[[血の日曜日事件 (1973年)|血の日曜日事件]]などの動乱によって政治的意識をもった「開発僧」と呼ばれる僧侶らが、その主な担い手となった{{Sfn|椋橋|2018|pp=66-77}}。

一方、[[アメリカ大陸]]や[[ヨーロッパ]]といった、近代に入ってから仏教が広まった地域では、少なくない現代アーティストが仏教をアートの主題として取り扱っている。注目すべき例としては、[[ビル・ヴィオラ]]による[[ビデオ・インスタレーション]]<ref>Buddha Mind in Contemporary Art, University of California Press, 2004</ref>、{{仮リンク|ジョン・コンネル|en|John Connell (artist)}}が手掛けた彫刻作品、 {{仮リンク|アラン・グラハム|en|Allan Graham}}による[[インスタレーション|インスタレーション作品]]、"Time is Memory"などがある<ref>The Brooklyn Rail, December 2007</ref>。

[[イギリス]]の{{仮リンク|仏教団体ネットワーク|en|Network of Buddhist Organisations}}は、アートに携わる仏教実践者を識別することに意欲的である。この組織は、2005年に全国的な仏教芸術祭、「花の蓮」("A Lotus in Flower")を企画<ref>a poster advertising one of the events is archived here – http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050824213345/http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf#|date=24 August 2005}}</ref> したほか、 2009年には2日間に渡る芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援した<ref name="blogspot">{{Cite web|url=http://fwbo-news.blogspot.com/2009/07/report-from-buddha-mind-creative-mind.html|title=Triratna Buddhist Community News: Report from ‘Buddha Mind – Creative Mind?' conference|author=Lokabandhu|publisher=fwbo-news.blogspot.com|accessdate=2014-12-11}}</ref>。「ブッダマインド、クリエイティブ」の閉会後に仏教芸術家の協会が結成され、組織としての努力が実を結ぶこととなった<ref name="ning">{{Cite web|url=http://dharmaarts.ning.com/|title=Dharma Arts Network – Launched at Buddha Mind – Creative Mind ?|publisher=dharmaarts.ning.com|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101010000408/http://dharmaarts.ning.com/#|archivedate=10 October 2010}}</ref>。<gallery>
Full view of the Buddha Memorial Center.jpg|[[佛光山佛陀記念館]] パゴダと大仏
Wat Rong Khun-pano-2.jpg|[[ワット・ロンクン]]
Sala Keoku.JPG|タイ、サラケオク公園の仏像群
The central area of Wang Saen Suk, featuring the Pretas and tortured souls, June 2013.jpg|タイ、[[チョンブリー県]]、{{仮リンク|ワット・セーンスック|en|Wang Saen Suk}}の地獄寺{{Sfn|椋橋|2018|pp=58-59}} プレタ([[餓鬼]])と亡者、獄卒の像
Xieng Khuan.JPG|[[ラオス]]、ブッダ・パークの仏像群
</gallery>

==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|2}}
===出典===
{{Reflist|20em|refs=
<!--
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|author=鎌田茂雄
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|pages=1-55
|naid=120005326598
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<ref name = "道教と仙学">{{Cite web
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|title=东汉六朝钱树研究
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-->
}}

== 参考文献 ==

=== 他言語文献<!-- 姓アルファベット順 --> ===
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**{{Cite book|和書 |title=増補改訂 近代仏教スタディーズ 仏教からみたもうひとつの近代 |date=2023-04-25 |publisher=法蔵館 |pages=166-169 |ref={{SfnRef|君島|2023}} |author=君島彩子 |chapter=第3章「よくわかる近代仏教の世界」第8節 新たな研究領域を探求する 5 仏像と仏画}}
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*{{Cite book|和書|author=小泉惠英|authorlink=小泉惠英|editor1=東京国立博物館|editor1-link=東京国立博物館|editor2=読売新聞社|editor2-link=読売新聞社|date=2008-9-17|title=スリランカ-輝く島の美に出会う|ref={{SfnRef|小泉|2008}}}}
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*{{Cite book|和書|author=肥塚隆|editor=肥塚隆|date=2019-2-15|title=アジア仏教美術論集 東南アジア|chapter=東南アジアの古代中世美術|pages=3-59|publisher=[[中央公論美術出版]]|isbn=978-4-8055-1129-9|ref={{SfnRef|肥塚|2019}}}}
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*{{Cite book|和書|author=定金計次|authorlink=定金計次|editor=宮治昭・福山泰子|date=2020-2-28|title=アジア仏教美術論集 南アジアI|chapter=クシャーン朝マトゥラーにおける石製仏像の形式展開|pages=225-258|ref={{SfnRef|定金|2020}}}}
*{{Cite book|和書|editor=サントリー美術館|editor-link=サントリー美術館|date=2017-3-29|title=絵巻マニア列伝|ref={{SfnRef|サントリー|2017}}}}
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*{{Cite book|和書|title=マンダラ ─ 心と身体|date=2006-07-05|year=2006|publisher=財団法人千里文化財団|editor=立川武蔵|ref={{SfnRef|立川|2006}}|author1=立川武蔵|authorlink1=立川武蔵|author2=山口しのぶ|author3=森雅秀|authorlink3=森雅秀|author4=正木晃|authorlink4=正木晃|isbn=<!-- N/A -->}}<!-- 公益財団法人千里文化財団のウェブサイトで取り扱い有り。 -->
**立川武蔵「マンダラとは何か」3-21頁。
**山口しのぶ「密教の仏たち」23-49頁。
**森雅秀「マンダラの表現方法とその意味」51-72頁。
**立川武蔵「空海の思想」73-88頁。
**正木晃「『マンダラ塗り絵』の可能性 ――色とかたちに心を映す」89-113頁。
**立川武蔵「現代的な意義」115-129頁。
*{{Cite book|和書|author=田中利典|authorlink=田中利典|editor1=大阪市立美術館|editor1-link=大阪市立美術館|editor2=毎日新聞社|editor2-link=毎日新聞社|date=2014-4-8|title=山の神仏-吉野・熊野・高野|chapter=吉野大峯の神仏|pages=193-197|ref={{SfnRef|田中|2014}}}}
*{{Cite book|和書|author=辻惟雄|authorlink=辻惟雄|date=2005-12-9|title=日本美術の歴史|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=4-13-082086-9|ref={{SfnRef|辻|2005}}}}
*{{Cite book|和書|editor=東京国立博物館|editor-link=東京国立博物館|date=1973-3-25|title=東京国立博物館100年史|ref={{SfnRef|東博|1973}}}}
*{{Cite book|和書|editor=東京国立博物館ほか|editor-link=東京国立博物館|date=2011-1-18|title=仏教伝来の道-平山郁夫と文化財保護|ref={{SfnRef|東博ほか|2011}}}}
**{{Cite book|和書|author=前田耕作|editor=東京国立博物館ほか|date=2011-1-18|chapter=平山郁夫と文化遺産保護|title=仏教伝来の道-平山郁夫と文化財保護|pages=166-168|ref={{SfnRef|前田|2011}}}}
*{{Cite web|和書|url=http://kegonsotei.nobody.jp/sotei/yulinku.htm|title=瓜洲(安西) 楡林窟|accessdate=2021-05-13|publisher=吉田叡禮|website=華厳祖庭}}
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*{{Cite journal|author=[[高田修]]|year=1962|title=マウリヤ時代の神像彫刻|url=http://id.nii.ac.jp/1440/00006854/|journal=美術研究|volume=219|language=ja|accessdate=2021-06-17|ref={{SfnRef|高田|year=1962}}}}
*{{Cite journal|editor=高橋伸幸|date=2010-5-10|journal=[[一個人]] 特別編集 仏像入門 永久保存版|publisher=[[KKベストセラーズ]]}}
**{{Cite journal|editor=|date=2010-5-10|journal=[[一個人]] 特別編集 仏像入門 永久保存版|publisher=[[KKベストセラーズ]]|author=岩崎和子<!-- 旧姓金丸 芸術学修士(東京教育大学) -->|title=日本の仏像の歴史|pages=48-51|ref={{SfnRef|岩崎|2010}}}}
**{{Cite journal|editor=高橋伸幸|date=2010-5-10|journal=[[一個人]] 特別編集 仏像入門 永久保存版|publisher=[[KKベストセラーズ]]|author=[[高田良信]]<!-- 仏教学者・歴史学者 -->|title=世界遺産の寺宝が語る法隆寺の謎|pages=26-36|ref={{SfnRef|高田|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=塚本啓祥|authorlink=塚本啓祥|title=[[アショーカ王碑文]](Kindle版)|date=2013-03-20|publisher=[[第三文明社]]|pages=1183/3116|edition=初版|ASIN=B00OQ4QQR2|chapter=「碑文」, 1-14}}
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*{{Cite book|和書|author=中島純司|authorlink=吉野光|title=14‐16世紀の美術 清浄世界への憧憬|date=1991-05-08|publisher=岩波書店|ISBN=4000084542|ref={{SfnRef|中島|1991}}}}
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*{{Cite book|和書|author=西所正道|authorlink=西所正道|date=2015-5-15|title=絵描き 中島潔 地獄絵1000日|publisher=[[エイチアンドアイ]]|isbn=978-4-908110-02-3|ref={{SfnRef|西所|2015}}}}
*{{Cite book|和書|editor=中村元ほか|editor-link=中村元 (哲学者)|date=2002-10-30|title=岩波仏教辞典第2版|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-080205-4|ref={{SfnRef|中村ほか|2002}}}}
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*{{Cite book|和書 |title=東洋美術史 |date=2016-04-01 |publisher=精興社 |isbn=978-4-86463-048-1 |author=朴享國ほか |editor=朴享國監修 |ref={{SfnRef|朴|2016}}}}
*{{Cite journal|和書|author=長谷川智治|year=2010|date=2010-03-01|title=法隆寺・玉虫厨子絵 : 捨身飼虎図を中心に|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_DB003800003066|journal=佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇|volume=38|pages=95-112|ISSN=18833985|ref={{SfnRef|長谷川|2010}}}}
*{{Cite journal|和書|author=長谷川智治|year=2011|date=2011-03ー25|title=法隆寺 玉虫厨子考 : 舎利供養図を中心に|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_SK001800002394|journal=佛教大学総合研究所紀要|volume=18|pages=87-121|accessdate=2021-06-12|ISSN=13405942|ref={{SfnRef|長谷川|2011}}}}
*{{Cite journal|和書|author=長谷川智治|date=2014-03-25|title=敦煌莫高窟壁画にみるモティーフの関連性 : 第二八五・二四九窟について|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_SK002100007663|journal=佛教大学総合研究所紀要|volume=21|pages=101-119|accessdate=2021-06-12|ISSN=13405942|ref={{SfnRef|長谷川|2010}}}}
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*{{Cite book|和書|author=原田あゆみ|authorlink=原田あゆみ|editors=[[九州国立博物館]]・[[東京国立博物館]]・[[日本経済新聞社]]文化事業部|date=2017-4-11|title=タイ ~仏の国の輝き~|ref={{SfnRef|原田|2008}}|publisher=日本経済新聞社|NCID=BB23836864}}
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***{{Cite book|和書|author=サクチャイ・サーイシン|authorlink=サクチャイ・サーイシン|others=[[高田知仁]]訳||editors=[[九州国立博物館]]・[[東京国立博物館]]・[[日本経済新聞社]]文化事業部|date=2017-4-11|title=タイ ~仏の国の輝き~|chapter=仏教美術:仏像の変遷|pages=24-32|ref={{SfnRef|サクチャイ|2017}}|publisher=日本経済新聞社}}
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*{{Cite journal|author=[[蓑輪顕量]]|year=2012|title=韓国における仏教と神信仰の関係 神仏の併存と分離について|url=https://doi.org/10.20769/jpbs.26.0_169|journal=パーリ学仏教文化学|volume=26|page=169-192|doi=10.20769/jpbs.26.0_169|naid=110009586369}}
*{{Cite book|和書|title=仏教美術のイコノロジー|date=1999-02-01|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=9784642079006|author=宮治昭|authorlink=宮治昭|ref={{SfnRef|宮治|1999}}}}
*{{Cite book|和書|title=NHKスペシャルセレクション シルクロード キジル大紀行|date=2000-01-20|publisher=[[NHK出版]]|author=宮治昭|isbn=4140804106|ref={{SfnRef|宮治|2000a}}}}
*{{Cite book|和書|author=宮治昭|editor1=肥塚隆|editor1-link=肥塚隆|editor2=宮治昭|date=2000-6-20|title=世界美術大全集東洋編13 インド(1)|chapter=豊饒と寂静のインド古代美術|pages=9-16|publisher=[[小学館]]|isbn=4-09-601063-4|ref={{SfnRef|宮治|2000b}}}}
*{{Cite book|和書|title=仏像学入門 ほとけたちのルーツを探る 〈増補版〉|date=2013-05-20|year=2013|publisher=[[春秋社]]|author=宮治昭|isbn=9784393119068|ref={{SfnRef|宮治|2013}}}}
*{{Cite book|和書|author1=宮治昭|editor=福山泰子|editor-link=福山泰子|date=2020-2-28|title=アジア仏教美術論集 南アジアI|publisher=[[中央公論美術出版]]|isbn=978-4-8055-1125-1|ref={{SfnRef|宮治・福山|2020a}}}}
**{{Cite book|和書|author1=宮治昭|author2=福山泰子|editor=宮治昭・福山泰子|date=2020-2-28|title=アジア仏教美術論集 南アジアI|chapter=総論 南アジアの古代仏教美術|pages=3-58|ref={{SfnRef|宮治・福山|2020b}}}}
*{{Cite journal|author=[[森雅秀]]|year=2001|title=仏教学と図像研究|url=http://nbra.jp/publications/66/|journal=日本佛敎學會年報|volume=66|accessdate=2021-05-13}}
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* {{Cite web|url=http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/yichan/200407/yichan.htm|date=2004-07|title=宝頂山と石門山 生活感あふれ、人間みある彫像群|accessdate=2021-05-13|author = 劉世昭|publisher=[[人民中国]]}}
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* {{Cite journal|author=[[山下裕二]]|editor=吉田晃子、庄司美樹|year=2019|title=奇想の日本美術史|journal=[[芸術新潮]]|volume=70|issue=2|page=49|publisher=[[新潮社]]|ref={{SfnRef|山下|2019}}|ASIN=B07MT1W9DP}}


== 関連項目 ==
* [[DMOZ|Curlie]]による[https://curlie.org/ja/%E7%A4%BE%E4%BC%9A/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%83%BB%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E4%B8%96%E7%95%8C/%E4%BB%8F%E6%95%99/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88 仏教美術] {{en icon}}
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* [https://web.archive.org/web/20100130185156/http://www.pem.org/library/collections/offen [[ピーボディ・エセックス博物館]]フィリップス図書館のハーバート・オッフェン研究コレクション] {{en icon}}
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* [[仏像]]
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* [https://web.archive.org/web/20100130185156/http://www.pem.org/library/collections/offen] {{en icon}}
* [http://srilankaclassicart.com 先史時代からのスリランカの古典芸術について] {{en icon}}
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* [https://www.narahaku.go.jp/collection/ 奈良国立博物館収蔵品データベース] - 日本語
* [https://artsandculture.google.com/story/HwUBzXY2ACYDrw ”Cosmic Buddha” Google Arts & Culture(「宇宙仏[毘盧遮那仏]」) - 英語(日訳付)フーリア美術館によって制作された、石仏のレリーフについての解説。


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2024年11月8日 (金) 11:38時点における最新版

仏教美術
如来立像英語版 ガンダーラ出土 クシャーナ朝 2-3世紀 東京国立博物館[1]

仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)は、仏教信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための美術の総称である[注釈 1]。これらには、仏陀菩薩、実在・伝説上の尊格や尊者、祖師、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、曼荼羅や修行のための図像、さらに、ストゥーパや塔門、寺院などの建築や、金剛杵などの仏具が挙げられる[2]。本項においては、仏教に関する芸術のうち、おもに視覚的なものについて解説する。

仏教美術は、釈迦入滅以降のインド亜大陸で興り、仏法(ダルマ)と僧伽(サンガ)が拡がるのと同様、仏教が伝来したアジア各地で発展した(#インド仏教美術)。インド北部から中央アジアを経由して、東アジアへと至り、北伝仏教美術が生まれた一方(#北伝仏教美術)、東南アジアでは主に南伝仏教の美術が生まれた(#南伝仏教美術)。インドでは、先行するバラモン教の理論を取り入れ[3]ヒンドゥー教ジャイナ教とともに洞窟寺院をつくったように、各地でも、在来宗教を取り込み、独自の発展をした[4][5]

日本語においては、明治期の日本で行われた欧米的な美術教育において「美術」の概念、およびその下位概念である「絵画」・「彫刻」・「工芸」が新たに輸入・導入されたことにより、仏像・仏画・仏具が日本美術のなかで仏教美術として捉えられるようになった(日本美術史[6]

インド仏教美術

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仏足石 クシャーナ朝 2世紀頃 コネチカット州イェール大学美術館英語版

無仏像時代(紀元前5世紀 - 紀元前1世紀)

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なぜ仏像は作られなかったのか?

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最初期の仏教において、釈迦は人間の形で表されることはなく(不表現、英:aniconism)、仏教のシンボル英語版によって描写された[7]。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる[8]

  1. 仏教以前に主流であったバラモン教が偶像を必要としなかったので[注釈 2]、造像の発想自体が無かった[9]
  2. 反偶像主義英語版 - 釈迦入滅後数百年間は、「眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
  3. 涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった[注釈 3][10]
  4. 三十二相八十種好に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため[注釈 4]

仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにもかかわらずである)[13]。この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。

紀元前3世紀に石像が登場する以前、木像や金属像があったとの仮説もある[14]

スジャーターの乳粥供養(左)と降魔成道(右) 1世紀 サータヴァーハナ朝 サーンチー第1塔北門欄楯 釈迦は左端に彫られている菩提樹によって暗示されている[15]

仏像以前の仏教美術

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初期仏教の時代は、建築や装飾美術において、後代の造像につながる様式が確立された。ストゥーパは、釈迦の墓であり、ダルマの象徴であり、涅槃へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ[注釈 5])であった[17][16]

インド亜大陸の大部分を版図に治めたマウリヤ朝の第3代アショーカ王(紀元前3世紀半ば)は、戦いでの傷心から仏に帰依し、入滅時に8基のストゥーパに分けられた舎利を分配し、8万4千ものストゥーパと、象・牡牛・馬・獅子を頂に抱いた石柱を築いたとされる[18][19][20]。釈迦の彫刻は作られなかったものの、仏教由来でない、ヤクシャ、ヤクシーといった夜叉・善神像が制作された[21][22][23][24][注釈 6]

紀元前2世紀、マウリヤ朝はシュンガ朝によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また紀元前1世紀にかけて、釈迦の人生と説法を描いた仏伝図や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる[25]奉納を目的として石板やフリーズに彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としてはサーンチー第1塔塔門浮彫サータヴァーハナ朝)とバールフットの欄楯が挙げられる。

インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。ブッダガヤマハーボディー寺院は、ビルマインドネシアで同様の構造の寺院が建造された。スリランカシギリヤのフレスコ画は、制作年代においてアジャンタ洞窟のものよりも遡るとされている [26]

仏像時代(紀元1世紀 - 現在)

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カニシカ王金貨 2世紀 裏面には仏陀の肖像とギリシャ語で"ΒΟΔΔΟ"(ボッド、すなわち仏陀)と刻印されている。

2020年時点で、最古の仏像は、ガンダーラかマトゥラー産か、結論が出ていないが[27]イラン系の王朝、クシャーナ朝カニシカ王(在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。カラチ博物館所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう[28]。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、北インドのマトゥラーと南東インドのアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた[29]

なお、初期仏教の末期に成立したとされる『増一阿含経』には造仏像の功徳を説く記述が存在する(優填王造仏像伝説)[30]。ただし、これに対応するパーリ語経典『増支部』には、この記述は存在しない。

『仏陀苦行像』 カイバル・パクトゥンクワ州シクリ(Sikri)出土 ラホール博物館英語版[31]

ヘレニズム文化は、紀元前4世紀アレクサンドロス大王の征服によってガンダーラにもたらされた。 マウリヤ帝国の建国者であるチャンドラグプタ(在位紀元前321298年)は、4世紀末のセレウコス・マウリヤ戦争英語版でインド北西部のマケドニア領(サトラップ)を征服した。そのチャンドラプタの孫であるアショーカ王(在位紀元前268-232年)はインド亜大陸に覇を唱えたが、カリンガ戦争の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している:

……同様にして、ここ王の領土において、〔すなわち〕 ヨーナカギリシャ人)、 カンボージャ、ナーバカ、ナーバパンティ、ボージャ、 ピティニカ、アンドラ、パーリンダにおいて、到る処で、〔人びとは〕天愛のの教誡に従っている。[32]

アショーカ王の時代には過去仏信仰がすでに始まっていた[33]。初期の仏像美術において、歴史的な仏陀も過去七仏の一つである釈迦牟尼仏も(大乗仏教成立以降は阿弥陀仏も)、瞑想する仏陀として同様の表現方法が行われた。それゆえに、仏陀の周囲に施された装飾が文脈を理解し、どの仏陀であるか判別する上の鍵となる[34]

ガンダーラ(クシャーナ朝以前)

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紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝がシュンガ朝によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であったグレコ・バクトリア王国やそれに続くインド・グリーク朝の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、ギリシャ式仏教美術英語版がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、メナンドロス1世(ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには出家して阿羅漢果[注釈 7] を得たという[35]

また、この時代、紀元前1世紀には、上座部から分裂し教勢を増しつつあった説一切有部が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた[36]。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。

紀元1世紀、北インドを統一したクシャーナ朝は、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現代のパキスタン、ペシャワール)を都と定め、第3回仏典結集を主催し、この頃すでに盛んになっていた大乗仏教菩薩信仰を保護した。

初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現においてヘレニズムがインド美術に及ぼした影響英語版をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪やコントラポスト、通肩[注釈 8]、靴、サンダルアカンサスによる装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや古代オリエント由来のものである。

2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた[37]。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ(観音)信仰やマイトレーヤ(弥勒)が始まると、現世利益のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる[38]

マトゥラー様式英語版の仏像 北クシャトラパ英語版インド・スキタイ王国) 1世紀末頃[39]

マトゥラー

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紀元前から紀元後1世紀のマトゥラーは、宗教都市であると同時に、ガンジス川の支流ヤムナー川に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀にはシュンガ朝プシュヤミトラの支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが [40]、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式についてはヘレニズム由来ではなく、同地におけるマウリヤ朝以来の他宗派の芸術(ヤクシャ像ヤクシー像[バラモン教]・ジナ像[ジャイナ教])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている[29]。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の肉髻)、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。白毫相(白い毛房)、耳朶の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは三十二相八十種好で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである[注釈 9]

『守門神(蓮華手菩薩)』アジャンター石窟第1窟 5世紀 アジャンターの石窟に描かれた壁画は、総体としてはこのような尊像よりも、説話図や装飾画の方が割合としては大きい。

後期石窟寺院美術

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インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、アジャンター石窟の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している[42]。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、バラモン教からの民衆化・世俗化が進展しつつあったヒンドゥー教の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。

インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。グプタ時代(4世紀から6世紀)には、マトゥラーの赤色砂岩彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。この時期には、マトゥラー様式の影響が及んだサールナートで白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方[43]、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。この時代の傑作、「初転法輪仏坐像」に見られるように、サールナート様式はマトゥラー様式と比べて相貌が穏やかになり、装飾もより一層繊細なものになった[43]。サールナート様式は、後期石窟美術やナーランダーの仏像美術にも影響を与えた点でも重要といえる。

サールナート初転法輪仏坐像英語版 サールナート 砂岩 5世紀末 サールナート考古博物館英語版

グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は南アジアのなかではヒマラヤ地域でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、ラダックの芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。

密教の登場

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八千頌般若経 パーラ朝末期 1119年 貝葉 ヴィクラマシーラ大学(超戒寺)で制作 クリーブランド美術館
聖観音(アヴァローキテーシュヴァラ)像 9世紀 パーラ朝 北東インド、ビハール州ナーランダ県出土

6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝[44] の北インド統一と[注釈 10][45]ローマ帝国の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置くヒンドゥー教の影響力を相対的に増加させることとなった[46]。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教やベンガル地方で勃興しつつあったタントラ、あるいはその他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。密教の成立によって、インドにおける仏教美術は曼荼羅や動的な仏像を生み出した。インドにおける密教美術は、この地へのイスラーム勢力の侵攻が決定的となった13世紀初頭まで続いた[注釈 11]

密教が体系化されていくにあたって、儀礼の採用(護摩真言曼荼羅印契)が図られた。その中で、密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。4世紀から6世紀頃までは、北方系と南方系、いずれの仏教においても、除災招福を目的とした日常的な儀礼・慣習としての呪術は行われていた[注釈 12][49]。しかし、これらの儀式はあくまで悟りの追求とは目的を別としていた。ところが、6世紀から7世紀にかけて、これらの呪術の目的は現世利益的なものから正しい悟り・成仏(解脱)へと焦点が移される[50][注釈 13]。また、4世紀から5世紀頃、ガンダーラの僧、世親が『倶舎論』の一章、世間品のなかで須弥山と宇宙について説いたことで、仏教においても宇宙観について議論が行われるようになった[51]。これらの要因を背景として、瑜伽観法が成立し、また宇宙に充満する仏・菩薩・明王・諸天・鬼神にいたるまでをパンテオンとして視覚的に表した曼荼羅が登場したのである[52]。なお、曼荼羅をはじめとした密教における「視覚芸術」は、布教や美的感覚を満足させるために制作されたわけではなく、色や形を通じて宇宙の本質性を表すことを目的に作られたことに留意しなければならない[53]。中国や日本の密教においてはこの関係性は顧みられなくなったものの[注釈 14][55]、その後のインド仏教やチベット密教においては引き続き重視された[56][53]8世紀に入ると、インドにおいては『大日経』系密教にかわって『金剛頂経』系の密教が主流となり[57]、したがって、曼荼羅においても胎蔵界曼荼羅の作例は途絶え、金剛界曼荼羅[58]、さらにこれを踏まえた無上瑜伽密教系の曼荼羅が制作されるようになった[59][60]。インドやチベットで作られた、膨大なバリエーションを持つ無上瑜伽系の曼荼羅はいくつかの系統に大別することができるが[注釈 15]、芸術・聖像学的な視点で見た場合、以下のような特徴をあげられる[59]

  • ヤブユム(男女合体像)
  • 忿怒形
  • 多面多臂像[62]
  • ヒンドゥーの神格[63]
  • 構成において方形ではなく円形の多用、また三角形の登場[64]

仏教彫刻においても密教化は進んだ。6世紀中頃に造営が始まったアウランガーバード石窟英語版では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる[65]。これは、彫刻史においても変化を意味した。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったのは、古典的で内省・均整が特徴的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった[66]

11世紀末から始まったセーナ朝の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに制作された最後の時代であった。1203年ゴール朝の軍勢によってヴィクラマシーラ大学が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術は終焉を迎えた。

11世紀に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや大スンダ列島、チベットといった、インドの周辺地域で隆盛した。特にチベット仏教とその美術は、モンゴル系民族や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。

アジア全体での仏教の拡大。黒の矢印は初期仏教の展開を示す。また、赤が大乗仏教の、緑が上座部仏教の、青が密教の伝来経路を示している。

釈迦入滅後、仏教がインド亜大陸内外にひろまるにつれ、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国のあいだで仏教美術の発展的差異が生じていった[68]

中央アジアネパールチベットブータンスマトラ島ジャワ島中国韓国日本ベトナムなど。

北伝仏教美術

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『阿弥陀仏極楽浄土図』18世紀 チベット メトロポリタン美術館

北伝仏教の美術は、大乗仏教の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な阿含経に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、初期仏教が修行の到達点としていた阿羅漢[注釈 18] ではなく、そこからさらに菩薩の境地をめざすことを重要視していた。般若経(大乗仏教の経典群)において、仏陀は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は菩提六波羅蜜、知恵の完成(般若波羅蜜多、Prajñāpāramitā)、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する菩薩たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な成仏(過去七仏)や如来、菩薩や天部(韋駄天帝釈天)に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と結びつくことで新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった[注釈 19]

中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る仏教シルクロードを介した伝播は、後漢明帝によって西方へと派遣された甘英ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、クシャーナ朝(仏教の庇護者であった)の西域への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。支婁迦讖のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、パルティア人月氏ソグド人またはトハラ人とされる。

北伝仏教の美術と東方への影響

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アジアにおける風神像の変遷
左:ヘレニズムの風神/2世紀ハッダにて、ガンダーラ美術の下で作られた像。風を蓄えた袋を背負っている。

中:キジル石窟の風神/7世紀タリム盆地で造営された仏教石窟寺院壁画に見られる風神の図。風袋を背負ってはいるが、ここではよりアジア的な、インド文化の影響の色濃い精霊の姿に変わっている。

右:日本の風神/17世紀日本の絵師・俵屋宗達が描いた風神図(風神雷神図屏風右隻の部分)。風袋を背負う様式を踏襲しながらも、姿は大きく変容し、青い鬼神になっている。

シルクロードを通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の新疆ウイグル自治区にあたるタリム盆地で2世紀から11世紀にかけて栄えた東トルキスタンの美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合ガンダーラ地方で、インドやギリシャ、ローマの影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。また、ヘレニズム仏教美術は、大乗仏教の教えを伝えたのみならず、古代ギリシャやローマ、ペルシャ、北西インドの文化・風俗・身体表現・装飾を伝える役割をも担い[69][70][71][72]、近くは南インド、遠くは日本にまで今日まで至る文化的な影響をのこした。それらは、建築の紋様宝相華文連珠文)や聖像、仏画、仏像、神道水天鬼子母神)に見ることができる。

図像的なディーテールにおいても、ヘレニズム文化から仏教美術への影響が及ぼされた[73][74]。翻波式衣文といった衣紋の表現や、フリーズにおける植物や幾何学パターンにおいて顕著であるが、聖像表現においてもそれは例外ではなかった。例えば、尊格の装束においてはディアデーマがある。ディアデーマ(:διάδημα)とは、ペルシャやヘレニズム国家の王が身につけた冠であり、王権の象徴でもある。ディアデーマは仏教美術にそのまま尊格の表現として採り込まれると、中国の莫高窟の壁画や日本の来迎図などに登場する菩薩や飛天の表現様式とともに定着した。

また、ガンダーラおよび中央アジアにおいて仏教彫刻が成立していくなかで、ギリシャ神話の神々やゾロアスター教の神々、そして他のインドの神々が取り込まれていった。これらの地域で制作された仏教彫刻にのみ作例がのこるアトラース神[注釈 20]トーリトーン神アフロディーテー神ポセイドーン神のような神格もあれば、美術様式の一端となって東アジアまで伝わった、ミスラ神と習合したヘーリオス神クベーラと習合したディオニューソス神ニュクス神エロース神などの神格、後代には天部として仏教において信仰対象になったヘーラクレース神執金剛神)やスーリヤ日天)、ハリーティー神と習合したテュケー神(鬼子母神)、クベーラと習合して食厨の神としての大黒天を形作ったファッロ―神(後述)などがいた[76]。20世紀に入ってからの美術史における研究で、仏教美術に取り込まれた神格が、本来ギリシャに源流を持つことが明らかになった例もある。ガンダーラ、敦煌にも作例が残る風神と雷神は、本来はギリシャ神話のボレアース神に図像的な起源を持つことが研究によって指摘された[77]。さらに、日本の宗教美術史家である田辺勝美は、「武装した毘沙門天」という図像の成立過程に関する研究を通じて、天部のひとつである毘沙門天が、ギリシャのヘルメース、ローマのメルクリウスに源流をもつ、クシャーナ人に信仰された福神、ファッロ―(バクトリア語:Pharro、アヴェスター語:クワルナフ)を基に成立したことを明らかにした[78][79]

ギリシャ仏教美術の展開と伝播
年代 北東アジア&西域 中央アジア ガンダーラ インド 東南アジア
紀元前5世紀 仏教の誕生

紀元前4世紀 アレクサンドロス大王による支配紀元前330年

紀元前3世紀から2世紀 セレウコス朝

(紀元前300-250年)

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グレコ・バクトリア王国

(紀元前250-125年)

(ヘレニズム文化)

マウリヤ帝国

(紀元前321-185年)

(Aniconic art)

ミャンマーに仏教が拡がる
紀元前2世紀から1世紀 中国、前漢

西域における仏教と仏像についての言及

(紀元前120年)

インド・グリーク朝

(前200年-後80年)

仏教の拡がりとシンボルの確立

自立仏

シュンガ朝(紀元前185-73年)

紀元前1世紀 月氏

遊牧民族であったがギリシャ化し、仏教に改宗した

インド・スキタイ王国(前80年-後20年)

1世紀 中国における仏教公伝 インド・パルティア王国

マトゥラーの美術

1世紀から3世紀 確認されている中国最古の仏像 (後漢200年頃)

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ミーラン遺跡

ガンダーラ(ハッダ遺跡):クシャーナ朝

北インド:クシャーナ朝

(10年-350年)

南インド:サータヴァーハナ朝(-3世紀初頭)

4世紀から6世紀 タリム盆地(東トルキスタン)

南北朝時代

キジル石窟莫高窟

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朝鮮、日本への仏教伝来

エフタル グプタ朝(320年-550年)

大乗仏教

現在のタイカンボジア

ベトナムに伝わる

7世紀から

13世紀

吐蕃(チベット)への仏教伝来

(8世紀頃)

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日本

ウマイヤ朝 イスラーム教勢力による支配 パーラ朝(11世紀)

インドシナ半島

 

11世紀、スリランカから上座部仏教が拡まる


アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ)

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バクトリア地方(現在のアフガニスタン)の仏教美術は、7世紀イスラーム勢力がこの地に拡大するまで数世紀にわたって存続した。また、この地では、紀元1世紀頃に人の姿をした仏陀(仏像)が初めて制作された。湿潤高温であるインドとは異なり、天空の神秘が重んじられた結果、弥勒信仰や兜率天信仰に由来する美術が多くつくられ、それまでになかったドーム窟が盛んに造営された。これはインドではほとんど作例のないものである。また、それに続いて釈迦菩薩弥勒菩薩などの菩薩像や、仏伝図[注釈 21] を物語る、仏塔や寺院の内部を装飾するための浮彫が作られるようになる[24]。この時代の空気をうかがえる代表的な例としては、カニシカ王の舎利容器が挙げられる。

3世紀前半、クシャーナ朝はゾロアスター教を奉じるサーサーン朝によって滅ぼされた。しかし、ガンダーラ美術の命脈は途絶えなかったどころか、ペルシャや北インドの意匠を取り込みながら発展していったのである。バーミヤンでは、4世紀から6世紀にかけて、2体の大仏をはじめとする多くの石仏や、石窟壁画が作られた[注釈 22]。バーミヤンの石窟美術においては、インドで見られる本生図や仏伝図はモチーフとして見られない一方、幾何学的な構成で弥勒菩薩と無数の仏たちを描く千仏構図が登場した[84]。他にも、スタッコ片岩または粘土でも仏教美術が制作された。これらの作品は、インドのグプタ朝以降の様式主義ギリシャ美術ヘレニズム美術英語版、ことによってはそれに引き続いたローマ美術をも要素として取り入れながら、非常に強く融合させている。

イスラムの支配は、他の「啓典」の宗教にはいくぶんか寛容だったが、「偶像崇拝」に依っていると見做された仏教にはほとんど寛容さを示さなかった。したがって、その芸術形態もイスラム教の支配下においては禁止された。8世紀以降も、アッバース朝の支配やそれに伴う戦乱で多くの寺院や石仏が破壊された。近代以降も仏教美術はたびたび被害に遭い、体系的な破壊はタリバン政権時代に頂点に達した。バーミヤンの仏像、ハッダの彫刻、アフガニスタン国立博物館英語版に残っている多くの遺物が破壊・流出させられた。

1980年代以降、長く続いたアフガニスタン紛争による混乱は、仏教に関連する文化財の流出と、国際市場への転売を狙った組織的な遺跡への略奪を引き起こした。しかし、2000年代に入ってから、国外に流失した仏教美術の作品を含む多くの文化財がアフガニスタンへと返還された。日本からは、平山郁夫らの主導による返還事業が行われた[85]

トルキスタン(中央アジア)

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『シャンカチャルヤ・アヴァダーナ』ジャータカ、瞑想する仏陀に両脇にアプサラスが控える。仏陀の螺髪の上には鳥が巣を作っている[86]。現在の新疆ウイグル自治区トムシュク市出土 6~7世紀 ギメ美術館蔵。

中央アジアは長い間、ペルシャ、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。紀元前2世紀ごろ、前漢による西域への影響力の拡大は、中国文明へ西アジアのヘレニズム国家、特にグレコ・バクトリア王国とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも紀元前1世紀頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、イラン系クシャーナ朝の王、カニシカ1世による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。

これらの動きは、タクラマカン砂漠の周縁に栄えたオアシス諸都市に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。シルクロードの一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。

西トルキスタンパミール高原以西、現在のカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンウズベキスタン

6世紀、玄奘がソグディアナを訪れた際には、この地に住んでいたソグド人は主にゾロアスター教を信仰していた。しかし、のちにソ連によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している[87]。8世紀に入ると、アッバース朝による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。

良質な石材に乏しかった中央アジアでは、粘土は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった[88]

東トルキスタン (特に( タリム盆地新疆ウイグル自治区 ))

以降千年ほど、エフタル西突厥東突厥ウイグルと支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも西域様式(西域美術とも)を展開させていき、10世紀カラハン朝の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた[89]

ドイツの東洋学者で、アルベルト・グリュンヴェーデルの調査隊に随行したエルンスト・ヴァルトシュミット英語版によって提起された年代観に依れば、西域北道における仏教壁画美術、西域様式は、おおまかに三段階に分けられる[90]。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式(500年頃)、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式(600年頃と600年から650年の間、それに650年以降の3段階)、漢民族の強い影響を受けた第3様式である[注釈 23][91]。第2様式とそれ以前のスタイルの違いとして、第1様式と比べてより対比的な彩色とパターンの多用があるが、これは技術的な要因としてラピスラズリが新たに登場したことと、イラン的な要素が強まったことが原因であると考えられている[92]。クチャのキジル石窟は西方からの影響が大きい第1様式と第2様式の壁画から成るのに対して、同じくクチャのクムトラ石窟では第3様式も見られる[90]

中国

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1世紀、仏教は中国へと至り、この国の美術、とりわけ塑像の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった[94]

中国における仏教の受容において、漢訳仏典教相判釈が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来サンスクリットパーリ語で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で偽経と呼ばれる、原典にはない経典[注釈 24] も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、征服王朝である14世紀の元と17世紀以降の清の時代には特に、チベット仏教とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった[95]

朝鮮

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朝鮮における仏教美術は一般として、他国から渡来した仏教の影響と朝鮮独自の文化の交流を反映している。また、初期の朝鮮仏教芸術は新羅王冠英語版や角帯(ベルト)のバックル、短剣、ゴゴク英語版勾玉の一種)などの工芸品や埋葬品に見られるように、シベリアスキタイなどの草原文化の美術様式からも影響を受けていた [96][97][98]。 この土着的な美術様式は、幾何学的かつ抽象的で、 海洋文化や騎馬民族文化、シャーマニズムの伝統で豊かに彩られている。周辺諸国からの影響も強かったが、朝鮮仏教美術は「落ち着いて、抑制が効き、抽象的ではあるが不思議なほど現代的なセンスに合致している」(Pierre Cambon、Arts asiatiques-Guimet ' )などと評されている。この国における仏教とその美術は、李氏朝鮮の初期をのぞいて組織だった破壊行為や徹底的な抑圧に晒されることはなかった、それゆえに、現代においても体系だった研究が行われている。

金銅弥勒菩薩半跏像英語版弥勒菩薩半跏思惟像の代表的な作例。大韓民国指定国宝第83号 7世紀頃 新羅 ソウル特別市国立中央博物館蔵。

朝鮮三国時代

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3世紀から4世紀頃にかけて、朝鮮半島各地に散らばっていた多種多様な部族連合が、徐々に国としてまとまりを見せ始める。朝鮮半島北部から東北三省の一部まで版図を拡げた高句麗、南部から西南にかけての百済、東南部の洛東江下流の伽倻諸国、そして東南・慶州盆地英語版の(のちに朝鮮を統一する)新羅が成り、抗争を繰り広げる、いわゆる朝鮮三国時代が始まった。

372年、これらの国のうち高句麗が最初に仏教を受容する [99]。 しかし、中国側の記録と高句麗の壁画に描かれた仏教的なモチーフで確認できるように、この年代よりも早い時期に仏教が伝わっていたようである [100]。 384年、続いて百済に仏教が伝わる [99]535年[注釈 25]、両国に100年以上遅れて新羅王国が仏教を受容する [101][注釈 26]。高句麗と百済では中原から公的に伝来したのに対し、新羅への伝道は民衆への浸透が先行し、おそらく布教に対して迫害が行われていたようである[102]

仏教の導入は、職人には崇敬のための図像制作を、建築家には寺院の建築を、学者には経典を渇望させ、そして朝鮮の文明を一変せしめた。これら朝鮮の諸王国に洗練された美術様式を伝えたのは「夷狄」であった拓跋氏北魏様式であった[注釈 27]。北魏、それに続く北斉の仏教美術は、これら三国に大きな影響を与えた。百済は後に、中国南朝と高句麗、そして百済特有の美意識とともに作り上げられた仏像美術を日本に伝えることとなる[103]

6世紀後半以降、百済では石仏の造立がいち早く始まった[104]印相・持物・装束といったディテールには北魏様式を保っているものの、造形的な印象は、外見的には静謐さがありながらも芯が強い溌剌としているという、百済仏らしさがより顕著になっている。

新羅では、6世紀には高句麗の影響によって金銅仏の制作が、7世紀ごろにはおそらく百済の影響によって石仏や磨崖仏の制作が始まる[105]。この時代の新羅石仏美術は、百済のものに比して体躯の表現にまだ稚拙さがうかがえるものの、重厚さという点ですでに独立した美術様式を芽生えさせていた。朝鮮の仏師たちは、各々の様式を作り上げるために優れた審美眼を発揮し、さまざまな他地域のスタイルを取り入れ融合させた[106][107]

高句麗はおもに、華北由来の仏教の影響下にあった[108]。仏教美術においては、まず五胡十六国時代の古式金銅仏の様式が取り入れられた。7世紀に入ると、北朝の仏教美術と連動するかたちで発展した。2021年現在確認されている朝鮮最古の仏像、「延嘉七年」銘金銅仏立像もこの時代に制作された[109]。高句麗の仏像は主に金銅と塑造で、厚い通肩の法衣や火炎紋の光背、微かな笑みが特徴である。

百済の微笑と半跏思惟菩薩像
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このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった [110]。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には百済の微笑英語版と呼ばれている、神秘的で穏やかなアルカイックスマイルを浮かべているものが少なくない[111]。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて半跏思惟菩薩像が盛んに作られた[104]。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の広隆寺伝来の宝冠菩薩にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた[112][113][注釈 28]。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)渡来人が携わっていたからであると考えられている[114]。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである[115]

また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の益山には彌勒寺英語版が、新羅の慶州には皇龍寺が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、奈良法華寺 (飛鳥寺)や法隆寺などの建設を行った [116]

阿閦如来座像 石窟庵 恵恭王の時代、大暦9年(775年)完成 1909年に偶然再発見された。現在、大韓民国国宝第24号されているほか、世界遺産にも登録されている。

統一新羅

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7世紀後半、新羅が百済、高句麗を併呑し、唐の勢力を朝鮮半島から排除することに成功、統一新羅時代が始まった。統一新羅初期の仏教美術は、新羅の様式と百済の様式が融合したものであった。8世紀には、慶州石窟庵の本尊如来坐像に見られるように、人体像の把握が進み、身体の量感や肢体の伸びやかさが巧みに表現された、石仏の名品が多く作られた。また、朝鮮半島の統一後、唐との外交関係が好転し冊封体制に復帰したことで、国際色の色濃い唐の仏教美術の影響も大きく受けることとなった。

また、統一新羅の時代には、数は少ないながらも密教美術の作例を確認することができ、金剛界大日如来十一面観音千手観音明王といった尊格の仏像が作られた[117]

9世紀後半、中央集権政的な体制が崩壊し、地方分権化と貴族層・花郎の台頭が進んだ。こういった社会制度の変化に応じるように、鉄造の金銅仏が作られるようになった。

咸和四年銘仏龕』(834年)時期としては渤海後期様式に属する。倉敷市大原美術館蔵?[120]

渤海

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7世紀、高句麗の遺民や靺鞨人によって渤海が建てられる。この国は、現在の沿海州、黒龍江省、および北朝鮮にあたる地域まで国土を拡げ、唐をして「海東の盛国」と呼ばしめた。新羅と友好関係を結んだ8世紀の末からは、唐・新羅の文化を取り込み、現代にまで伝わる仏教美術を遺した。渤海では多宗派が受け入れられていたが、そのなかでもとりわけ五台山の教え、特に華厳密教が盛んであったようである[121]。しかしながら、被支配層にどれだけ仏教が浸透していたかは明らかではない。

仏教美術に関する主な出土品は五京に限られており、特に上京龍泉府中京顕徳府東京龍原府に偏っている。また、仏像の様式も対新羅外交の変化の結果、高句麗文化のまだ色濃い前期と唐・新羅の様式を取り込んだ後期に分けられる。

高麗

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統一新羅が混乱の末に衰亡し、936年高麗が朝鮮統一を果たす。初代国王の太祖が公布した「訓要十条」に見られるように、仏教は高麗王室によって厚く保護された。こういった状況を背景に、仏教美術も活発に行われた。

高麗仏画は、来世と現世の救済を願う浄土信仰を奉ずる貴族層や豪族たちの求めに応じて発展した。また、華厳思想に基づいた、蒙古撃退と国家安泰を願う「五百羅漢図」のような作品もみられる。

また、宗教的営為としての写経が流行した。統一新羅のころには写経はすでに行われていたが、これらの時代には、写経は修行・研究のためだけでなく、行為そのものが功徳を積む手段であると考えられるようになった[122]。これら写経のうち、豪奢な作りのものは装飾経と呼ばれ、紺紙に金泥・銀泥で描いたものが多く遺されている。 また、木版印刷でも写経は行われた。モンゴルの朝鮮侵入を機に13世紀に彫刻された高麗八万大蔵経は、その刻字の美しさから美術工芸品としての価値も名高い。

仏像美術においては、俗に「弥勒仏」と呼ばれる巨大な石仏が各地に作られた[123]。菩薩立像は、その大きさ(10メートル以上)から顔の造形や衣紋の衣装は適度なデフォルメが施されており、また、屋外に安置されることが多く頭部に宝蓋を頂いているのが一般的である。これらの石仏は風水思想土俗信仰とも結びついたものだった。高麗時代末期には、モンゴルの侵攻によって仏像彫刻は大幅に衰退するが、元代仏像の流れをくむ密教系の金銅仏が作られた。

李氏朝鮮

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李氏朝鮮時代は、最初期こそ仏教が保護されたものの、儒教の国教化を背景に、1406年太宗の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、1549年文定王后のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。

朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった[126]

仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、施食会に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる[127]。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも大衆向けに作られていた。これらは、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった[128]

日本

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シルクロードの終着点に位置する日本は、仏教がインドで衰微し、中央アジアと中国で他の宗教や世俗勢力による抑圧が行われた時代にあっても、仏教のさまざまな側面を保持することができていた[129]。日本の仏教彫刻の創造性は奈良時代平安時代、そして鎌倉時代と、8世紀から13世紀にかけて特に豊かであった。近代に入り、日本の仏教美術は信仰対象から鑑賞対象にシフトした。仏教と習合して伝わったヒンドゥー教やタントラ、道教の要素や、在来の神道とも混淆・相互に影響が及ぼされたことも見逃せない。

法隆寺金堂釈迦三尊像 銘推古31年(623年) 伝鞍作止利作 北魏様式の流れを汲む。造像したとされる鞍作止利は司馬達等の孫で、渡来系であった。

飛鳥時代

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538年もしくは552年に、百済からの使者によって仏教が紹介される(仏教公伝)。その後、法興寺(のちの飛鳥寺)や四天王寺が建立されるなど、国家仏教化が推し進められた[130]

日本国内で仏像制作が始められたのも飛鳥時代である。577年には、百済から仏師が渡来した(『日本書紀』巻第二十)[131][132]。『日本書紀』は、百済の使者によって初めて日本にもたらされた仏の美しさを「相貌端厳(みかおきらきらし)」と伝えている[133]。この仏像は金銅仏であったが、法隆寺の釈迦三尊像や飛鳥寺の釈迦如来像といった飛鳥時代を代表する仏像もまた金銅仏が多かった。また、法隆寺夢殿救世観音像百済観音といった、金箔で荘厳された木造仏も作られた。さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だで主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる[134]。飛鳥時代の仏像の特徴としては、奥行きが浅く、左右対称であることが挙げられる。これは、立体曼荼羅などにみられる奈良時代以降の仏像と異なり、正面から鑑賞することを前提としていたためであった[133][要検証]

仏教を日本に定着させるうえで重要な役割を担ったのが、推古天皇の甥で、摂政であった聖徳太子である[135]。聖徳太子は深く仏教に帰依し、薨去ののちも太子信仰というかたちで崇拝の対象と芸術の題材[注釈 29]となったが、聖徳太子自身も生前、建設者でありパトロンであった。上述の四天王寺や飛鳥寺の建立を主導したほか、止利様式の仏像の制作に関与した[137]。また、聖徳太子の妃、橘大郎女が織らせた「天寿国繍帳」は、日本に現存する最古の刺繍美術であり、仏教伝来最初期に描かれた浄土表現である[138][139][140]

奈良時代

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710年藤原京から平城京への遷都が行われると、薬師寺興福寺などに代表される、数多くの寺院が建てられた[148]。この時代では、国家が仏教美術の後援者であった。しかしながら、遁世僧であった行基の協力によって東大寺盧舎那仏像が建立されたように、仏教とその芸術が徐々に庶民層へ浸透していった[149]。また、唐招提寺葛井寺千手観音像や、東大寺不空羂索観音立像といった密教像の制作が始まった[150]。『正倉院文書』にも密教経典が残る[151][152]

平安時代

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平家納経』1164年(長寛2年)。平清盛一門が厳島神社に奉納した装飾経の群。当時の工芸技術の結晶であり、日本における法華経の受容例であり、大和絵の史料でもある。

日本では、平安時代初期から「密教美術」と呼ばれる密教に関する仏教美術が発達した[153][注釈 30]

9世紀はじめ、唐から密教の奥義を持ち帰った空海が、曼荼羅法具書道をもたらした[155]

東大寺盧舎那仏建立に際し、宇佐八幡神が建立を支持して以降、神仏習合が形成され、東寺八幡宮松尾大社等に、仏像の影響で生まれた神像が祀られた[156][157]。また山岳信仰との融合から修験道が生まれ、蔵王権現役行者が図像化された[158]

1052年(永承7年)が、釈迦入滅1000年による末法の世と見なされ、源信往生要集』に六道の様子が記されると、地獄絵を含む六道絵の典拠となった[159][160]

11世紀半ば、関白藤原頼通は、現世の浄土として宇治平等院鳳凰堂を建立した。本尊の阿弥陀如来坐像は定朝制作とされ、寄木造の技法が生まれることにより、木造で丈六仏と呼ばれる高さ3メートル程度の仏像を作れるようになった。この技法は後の慶派らに活用される[161]

前代からの密教思想と浄土思想に則った、涅槃図に源信が考案した来迎図平清盛らの奉納による平家納経に代表される装飾経が、極楽往生を願う天皇や貴族らによって盛んに制作された[162][163]

鎌倉・室町時代

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民衆層へ仏教が広まるとともに、臨済宗曹洞宗新仏教(鎌倉仏教)が興り、仏教美術では「」が多くの比重を占めることとなる[注釈 31]

仏像では慶派らによる寄木造が主流となり、高さ8.4メートル (28 ft)の東大寺南大門金剛力士像を寄木造によって完成させた[166]

室町時代では、禅の美術が大きな比重を占めることとなる[167]。禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた[168]足利将軍家は梁楷・牧谿といった宋元の書画や文物を「唐物」と呼び、崇敬をもってこれらを迎えたが、実際に収集に携わっていたのも禅僧であった[169]。こうして宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容がはかられていくなかで、水墨画、枯山水、茶道、華道が受け入れられた。相国寺からは、如拙周文雪舟画僧が輩出された。また、禅僧と公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たし、寺院に付属する書院や庭園美術が発達した。この分野では、臨済宗夢窓疎石が大きな役割を果たす[170]

13世紀、武家の中心地であった鎌倉では、中国との活発な交易と、当時まだ仏像の伝統が確立されていなかったことを背景に「宋風」、「宋元風」と呼ばれる中国趣味が室町時代に至るまで流行・主流をなした[171]神奈川県立歴史博物館学芸部長(当時)の薄井和夫によれば、「宋風仏像の造形に共通する特徴として、立像・坐像を問わず猫背の体勢、頭髪では渦高い宝髻や扁平な螺髪、低い肉髻。面貌では菩薩像の卵型で女性的な顔立ちや、如来像の鼻梁の太い人間くさい面相、着衣では菩薩でありながら衲衣を着ける服制、だらりと袖・裾丈の長い着衣、細かく複雑に変化したり、あるいは大きくうねる衣文など、全体にかなり癖のつよい造形を見ることができる[172]」としている。観音菩薩の遊戯坐像英語版や法衣垂下形式の表現は、日本においてはこの時代を中心に見られる。宋風仏像は、室町時代に入ると院吉・院広らによってより形式化した唐様の仏像へと受け継がれていった[172]。一方、京都ではこれらの新様式は受け容れられず[173]、また本来的には仏像を必要としない禅宗の始めとした新仏教の流行によって、室町時代の仏像美は鎌倉以前の様式を踏襲したものとなった。しかし、前述の頂相の一分野としての肖像彫刻は多数つくられた[174]

また、縁起絵巻や高僧絵伝が多く作られた。観世音菩薩の功徳を説く『石山寺縁起絵巻』や、室町将軍の正統性の為、薬師如来の霊験にすがろうとした『桑実寺縁起絵巻』に、新羅の僧、義湘元暁のを題材にした『華厳宗祖師絵伝』、遊行の生涯を、日本各地の景観と貴賤の人々と共に描いた『一遍聖絵』等があげられる[175][176]

江戸時代

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徳川幕府によって、檀家制度が確立され、ほぼすべての民衆は寺と紐づけられた[182]。江戸時代初期において仏教美術は、幕府・諸藩の援助を受け、盛んに制作された。17世紀半ば、明末清初の混乱に伴い、隠元隆琦逸然性融ら渡来僧によって中国の仏教美術と江南地方の文化が江戸時代の日本にもたらされる。彼ら、唐絵などの黄檗美術[183]、高僧の頂相唐様(書体)といった、「宋元風」とは異なった新しい表現をもたらした[184][185]

一方で、江戸期には寺請制度によって寺院と庶民層が接近したことと、庶民が貨幣経済を背景に社会へと進出したことで、仏教美術の大衆化が進んだ。勧進によって、町人からの寄進によって寺社の建設費が賄われることが増え[186]、諸尊の仏像が彼らの要望に応えるかたちで建立され[187]円空木喰ら、武家の庇護をうけない僧が現れた[184]

また、白隠慧鶴仙厓義梵らによる、既存の画派に染まらない独自の禅画や地獄絵がうまれた[188]良寛の書も同様である[189]

明治時代以降

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築地本願寺本堂 東京都中央区 伊東忠太設計

近代に入り、「美術」概念が西洋から日本へともたらされた。これにより、「仏教美術」をはじめ日本にそれまで存在していた造形物は、新しい用語である「美術」、またはその下位概念であるところの「絵画」・「彫刻」・「工芸」として捉えられ、分類がすすめられるようになった[6]。この流れのなかで、仏教を題材とする絵画の中心は信仰対象としてのものから鑑賞対象としてのものへとシフトした。この時代の日本の芸術家たちは、(それまで行くことの叶わなかった)インドでの取材と、西洋からもたらされた仏教学歴史画キリスト教絵画からの影響を背景として、仏教的主題の日本画を制作した。汎アジア的な性格を得たこの芸術の流れは、昭和初期には大東亜共栄圏のイメージの一翼を担いつつ、第二次世界大戦後には日展院展に引き継がれ、平山郁夫らによって受け継がれていくこととなる[194]。一方で、仏像に関わった明治期の彫刻家たちは、日本画家以上に寺院との関わりが深かった。近代彫刻としての仏像は、信仰対象としてのものと鑑賞対象のものとしての製作が並行して行われていた。後者の、いわゆる美術作品としての仏像の流れは、屋外に設置された大型のモニュメント像としての仏像を生み、第二次世界大戦後には日本各地で慰霊を目的として建立された「平和観音」などに受け継がれていく[195]

維新政府は、江戸時代末期の国学思想を基に、1868年(慶応4年)に神仏分離令を発するが、それが各地で拡大解釈され、仏像・仏具、そして伽藍の破却、僧の還俗に波及する(廃仏毀釈)。そして1871年(明治4年)の上知令によって寺の収入が断たれ、経営が成り立たなくなった[196][197]。その為、法隆寺は、寺宝の一部を皇室に献納し、資金を下賜された[198]

廃仏毀釈のあおりは、仏教美術に携わっていた仏師や人形師、宮大工の仕事にまで及んだ[199]が、彼らの流れ[注釈 32]はその後の日本の近代彫刻の礎となった。高村光雲は、神仏分離令によって仏像や仏塔が破却されるのを目の当たりにし、仕事が無い現状を脱するため、西洋美術の「写生」を取り入れ、近代以前には無い「彫刻」を創造する様を語っている[200]。また、自らも仏師の子で高村光雲に師事した新海竹太郎は、新仏教運動を主導した高嶋米峰の影響で、仏教を題材とした彫刻を制作した[199]

南天棒としても知られる臨済僧の中原鄧州は、白隠らの制作姿勢を範として明治から大正にかけて多くの作品を残し、日本国外における禅美術の評価の一翼を担った[201][202]

建築において、伊東忠太設計の築地本願寺は、外観に古代インドの要素を取り入れる一方で、内装は和洋折衷が図られた[203]。また、第二次世界大戦以降、巨大仏と呼ばれる、高さ40メートル (130 ft)以上の仏像が国内各地に建立された[204]

平山郁夫は「西遊記」を読んで三蔵法師(玄奘)を描いたことから、仏教伝来を探る旅と作画を続け、敦煌#魏晋南北朝時代)・バーミヤン#アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ))・アンコール・ワット#カンボジア)等の仏教遺跡・遺物保全に関わることとなる[205][206][注釈 33]

19世紀以降、新しい表現媒体として発展を遂げた漫画において、手塚治虫は、劇画の手法を取り入れストーリー漫画、漫画『ブッダ』を1970年代から発表した。この作品は一種の仏生譚として[207]釈迦の生涯を中心としながらジャータカや冒険物語を描いている[208]

21世紀の作例として、村上隆五百羅漢図(2012年)[209][210][211]中島潔の地獄心音図があげられる[212][213][214]


チベット

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閻魔図 ゲルク派 18世紀前半 チベット 中央に大きく描かれる閻魔の上方に描かれたラマは、向かって左がパンチェン・ラマ、右がアティーシャと推定されている[216]

チベットに仏法が伝えられたのは、7世紀前半、吐蕃をうち建てたソンツェン・ガンポの許に、唐とネパールから妃を嫁がせ、彼女らが仏像を持参したことに由来するとされる[217][218]。7世紀半ばには、ティソン・デツェン王が仏教国教化を宣言する。当時、インド由来の大乗仏教と、唐からの禅が流入していたが、ティソン・デツェンが両者の論を聞き、前者を公認した(サムイェー寺の宗論[219][220]。吐蕃は9世紀半ばに分裂し、廃仏運動が起きた[221][222]

しかし、チベット高原西部まで逃れた吐蕃の王族の一部が建国したグゲ王国によって、仏教はふたたび息を吹き返した。以降チベットでは、カシミール地方の影響がみられる「リンチェンサンポ様式」と呼ばれる仏教美術が栄えた[223]。また、同時期にはチベット化が進行していたラダックでチベット仏教が盛んになった。カシミール地方とラダック地方を結ぶ街道沿いの村、ムルベク(Mulbekh)には、8世紀から9世紀に彫られた高さ約10メートルの四臂の弥勒菩薩の磨崖仏が現存している[224]。これは、インド文化圏の辺境地帯で建立された巨大仏の流れを汲むものであった。

10世紀から11世紀にかけて、北インドのヒマーチャル・プラデーシュ州タボ僧院英語版 (当時の西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の分野において、仲介者として重要な役割を担っていた。タボにおける特筆すべきチベット仏教芸術には、同寺院に描かれたフレスコ画が挙げられる[225]

13世紀には、チベットはユーラシア大陸全体を席巻したモンゴル帝国と国境を接する。これをうけ、外交官として西涼まで赴いたチベット仏教サキャ派の僧、サキャ・パンディタがモンゴルの貴族たちに布教を行った。さらに、その甥にあたるパクパは元朝初代皇帝クビライと親交が篤かったことにより、帝師として大都に招聘された。結果として、中国においても大都を中心にチベット・ネパール由来の仏教美術と仏教建築が大いに発展した。

14世紀に入ると、ゲルク派の祖、ツォンカパがチベット仏教を改革。17世紀のダライ・ラマ政権樹立への礎を築いた。15世紀には、チベット仏教美術の主たる流派の2つ、メンリ派とキェンツェ派が成立する。メンリ派側はダライ・ラマの宮廷絵師としての地位を得てチベット仏教美術の主流派を形成した一方、圧されたキェンツェ派側はしだいにメンリ派に吸収された[226]。これらの学派では、各尊格ごとに異なった身体比率、様相、着衣、姿態が定められ、厳密なアイコノメトリーが定義された[227]

ヤマーンタカ(大威徳明王)像 19世紀 金銅仏 ホノルル美術館

15世紀から16世紀にかけ、カギュ派内部の一派であったカルマ派が、カルマパと呼ばれる転生ラマ制度をチベット史最初に導入した。カルマパは代々仏教美術を愛好・保護し、カルマ・ガルディ派と呼ばれる画工集団を重用した。17世紀、カルマパ10世チューイン・ドルジェ英語版ダライ・ラマ5世との政争に破れ、チベット東部での漂泊生活を強いられる。その過程で、彼と彼に随行した画工達は中国絵画の要素を吸収し、18世紀に至りカルマ派が東チベットに定着したのちも、カルマ・ガルディ派の絵画様式はこれを下敷きとして発展を続けた[227]

1949年の中華人民共和国成立後、チベットは中国の一部と宣言され、1959年、ダライ・ラマ14世らはインドへ亡命した(チベット動乱[228]。また1970年代の文化大革命では、多数のタンガや仏像が破壊された。しかし亡命者によって、画家ら後進育成がなされた[229]

仏教絵画では尊像や仏伝、曼荼羅が描かれた。タンカと呼ばれる、布地に描かれた軸装が多用された。仏像はもっぱら金工で、鋳造の他に、金属板からの打ちだし技法が用いられた[230]

ベトナム

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前漢がベトナム北部に交趾を置いて以来、10世紀に至るまで、ベトナム北部は中国の支配下にあった。インドから渡海した康僧会に行き、仏教を広めたと伝えられることから、3世紀にはベトナムに仏教が伝わったとされるが、それ以前に後漢から交趾を訪れた牟子によって仏法が伝えられたとする説もある[238][239]期の中国からはが伝わり、15世紀の黎朝では浄土教との習合が起こった[238][240]

ベトナムの仏教建築として特筆すべき例としては、11世紀李朝に建立された、石柱一柱に仏堂をのせる木造寺院の「一柱寺」や、17世紀黎朝神光寺英語版鐘楼などがあげられる[241][242]。陳朝の時代を通じ、各地にチュア(巴語:ストゥーパから)とトゥ(中国語:寺から)と呼ばれる仏教寺院が建立された[243]

一方、南部では、2世紀にチャンパが興る。北部と異なりインドの影響が強かったこの地域では、仏教とヒンドゥー教が信奉された。またクメールやインドネシアの影響も受けていた。9世紀末のドン・ジュオン遺跡ロシア語版の仏倚像は、仏伝浮彫りがなされた須弥座が付属する[244][245]

南伝仏教美術

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南伝仏教は、インドから、スリランカ・ミャンマー(ビルマ)・タイ・ラオス・カンボジアなどに伝わった。12世紀以前にインドシナ半島へ南伝した仏教は大乗仏教、とりわけ密教であった。また、12世紀までの東南アジアにおける仏教は、ヒンドゥー教や在地の信仰に対して絶対的優位に立つことはなく、それゆえ仏教美術は常に他の宗教美術と融合したものであった[246]。13世紀に至り、東南アジア全体へと上座部仏教の普及が本格化すると、密教や菩薩信仰に基づく美術に代わって釈迦像を中心とした芸術が作られるようになった。21世紀初頭においては、これらの地域のほとんどが上座部仏教圏となっている[247]。この地域に共通して見られる仏教美術としては、貝葉経とその経櫃がある[248]

上座部仏教は、釈迦入滅から約100年後、教義の違いから大乗仏教が分離することにより、生まれた。大乗仏教との違いとして、

  1. パーリ語による三蔵とその注釈書による大蔵経を備える。
  2. 釈迦像のみを拝し、菩薩などを認めない。
  3. 出家者と在家の立場が明確に異なる。前者は世俗の労働をせず、後者は前者を布施で支える。

等が挙げられる。そのうち、仏教美術として形に現れるのは、主に2.である[249][250]

11世紀以降、イスラーム海域東南アジアに広がり、21世紀初頭における マレーシアインドネシア南フィリピンに至るまで、ほとんどの島嶼に浸透したが 、大陸域においては、上座部仏教が定着している[251]

スリランカ

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マハーヴィハーラのトゥーパーマーラ塔 紀元前3世紀創建 アヌラーダプラ[252]
アウカナ仏英語版 8-9世紀 約12メートル高 花崗岩 アウカナ[253][254]

紀元前3世紀、アショーカ王が王子マヒンダらをスリランカに派遣し、仏教を伝えたと史書『ディーパヴァンサ』と叙事詩マハーヴァンサ』に記されるが[255][256][注釈 34]、考古学的な検証によれば紀元前6世紀には遡るとされるおいては更に遡るとされる[258][259][260]デーワー・ナンピヤティッサ英語版王は首都アヌラーダプラに僧院マハーヴィハーラを建立し、以降この僧院が上座部仏教の中心地となる[261][256]。僧院内には、舎利を納めるストゥーパ、サンガの為の諸施設が建てられ、マヒンダの妹サンガミッター英語版に齎されたとされる菩提樹が植えられた[262]

スリランカでの造像開始は、3-4世紀とされる[263][注釈 35]。大部分が釈迦(如来)像である[265]。9世紀ころから磨崖仏が作られるようになる[266]

ランカーティラカ堂 12世紀 レンガ・漆喰 ポロンナールワ、アーラーハナ・パリヴェーナ寺[261]

11世紀はじめ、南インドのヒンドゥー教勢力、チョーラ朝が侵攻し、アヌラーダプラ王国を滅ぼし、一時仏教は衰退する。しかし、同世紀半ば、ウィジャヤバーフ1世がスリランカからヒンドゥー勢力を駆逐し、ポロンナルワを衰亡したアヌラーダプラにかわって都と定め、新たにポロンナルワ王国を建てた。ウィジャヤバーフ1世はまた、ビルマから上座部指導者を招聘して仏教復興が図った[267]ランカーティラカ堂は約12.5メートルの仏立像を祀るレンガ造りの堂宇で、当初はドームがあったとされる。レンガの上に漆喰を厚く塗り、尊像を彫り出した[261]

13世紀、ポロンナルワ王国はヒンドゥー系のジャフナ王国の攻撃を受けて滅亡する。その後も、数百年単位で続いた戦乱の結果、遷都が繰り返された。16世紀には、インド洋まで進出してきたポルトガルも抗争に加わったことで、スリランカはいよいよ混迷を極めたが、ポルトガル勢力相手に苦戦を強いられたヴィマラダルマスリヤ1世英語版によってダラダー・マーリガーワ寺院が整備されたのもこの時代であった。

ミャンマー

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布施を受ける釈迦仏と弟子たち 18世紀 水彩画 パラバイク(parabeik)と呼ばれる、ミャンマーの伝統的な絵本から。

2020年時点でのミャンマー(ビルマ)領域に仏法をもたらしたのは、紀元前3世紀、マウリヤ朝アショーカ王による使者であると、スリランカの史書『ディーパヴァンサ』『マハーヴァンサ』及びミャンマーの仏教史書『サーサナヴァンサ英語版』から読み取れる[271]。 その地は現在のモン族の拠点であったタトンとみなされる[272]ピュー族シュリ・クシェトラ遺跡から、カダンバ文字で刻された『分別論』・『大般涅槃経』の一部が発掘され、5・6世紀には仏教が受容されていたと分かる[273]。 現存する最古の建築物として、7世紀のピューによるボーボージーパゴダがあげられる[274][275]

アーナンダ・パト―英語版 1091年[276]/1105年[277] 創建 煉瓦造り バガン パガン期建築の白眉であり、パト―の代表例でもある。

11世紀に入ると、上ビルマへと南下したビルマ族パガン朝を興し、タトゥン王国英語版を滅ぼす。ビルマ族は先んじて征服していたピュー族から仏教を初めとした文化を受容していたと推察され[278]、また征服したモン族の文化も受け入れることで、建国初期に建立されたバガンシュエズィーゴン・パゴダに見られるような、諸民族の建築様式を融合させたスタイルが確立されることとなった。パガン王朝は「建寺王朝」の異称を持つほどに仏教寺院の建立に対して熱心であった。また、実際の寺院の建築に携わったのはパガン朝に征服された側であったモン族の職人たちであった。都がおかれたバガンでは、13世紀に至るまで盛んに寺院の建設が繰り広げられ、そのうちのおよそ2000宇ほどが現在でも残っている。寺塔建築[注釈 36] は主に高塔形式のものが築かれたが、それらも仏塔形式と寺堂形式にふたつに大別される[279]。仏塔形式はビルマ語でゼ―ディ(zedi、ゼディとも)[注釈 37][280]、内部空間を置かず[281]、パガン朝初期にはスリランカ風の円錐形相輪を、後期には細長いティ英語版(傘蓋などの飾り)が頂上に取り付けられた[276]。一方の、ビルマ語でパトー[注釈 38](phato)と呼ばれる寺堂形式は12世紀から登場し、建物内部に仏を祀る祠堂を備える。これらの寺塔はいずれの場合でももっぱら煉瓦を用いて作られたが[282]、仏教建築全体で見れば木造の多層塔や僧院も少なくなかった。仏像美術においてはインドのビハール・パーラ朝の影響が薄い法衣や衣文線の表現にみられる。その一方で、密教系尊像はほとんど作られず、上座部仏教の釈迦仏、過去四仏[注釈 39][283]、またこの時代の仏像の制作方法は多岐にわたり、金、青銅、木材、石、レンガと漆喰など様々な素材が用いられた。仏教絵画においては、インドよりもむしろチベット絵画の流れを汲むものが多く見られるが、主題の多くは仏伝図や本生譚であり、こちらも大乗仏教・密教由来のものは限られている[284]。また、当時制作された壁画の現存例が少ないことで、パガン朝期の仏教絵画の体系的な把握を難しくしている。1287年モンゴルのビルマ侵攻によってバガンは元軍の略奪を受けたが、その後もパゴダと仏像の補修・新造は続けられた[285][286]

ヤンゴンシュエダゴン・パゴダ内部に安置されたマンダレー仏

14世紀から16世紀まで栄えたアヴァ王国のもとで、アヴァ(インワ)様式の仏像が成った。大きな立ち耳と耳朶、長く上向きに弧を引いた眉、禅定を表す半目、口角の上がった唇と天を指すような単髻をもち、通常は触地印で表現されることが特徴である[287]

18世紀まで続いたコンバウン朝では、今日まで制作が行われているマンダレー様式ができた[287]。様式はインワ様式をもって範としたものではあるものの、よりいっそう自然な表現が追求されている。マンダレー様式はインワ様式より自然で肉づきのよい相貌をもち、吊り目でより厚い唇、そして丸みがかった単髻で表される。また、触地印以外の坐像や立像、臥像も作られた[288]。マンダレー仏の法衣は、流麗な表現で表されることも特徴。

また、ミャンマー東部の丘陵地帯に住むシャン族はシャン様式を生み出した。シャン仏は細面で痩身、大きく角張った鼻、タイの仏像に似た肉髻と螺髪、そして小さく薄い口を持つ[289]

カンボジア

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那羅延天像(レプリカ) ウォルターズ美術館蔵 元となった仏像は、1191年にジャヤヴァルマン7世の命令によって父、ダーラニンドラヴァルマン2世を称えるために23体制作され、国中に送られた像の内の1つ。 

現代のカンボジアの領土は、クメール人が建てた古代王国、扶南国の中心的な領土でもある。扶南国は、1世紀末から7世紀にかけて勢力圏を東南アジア全体に拡大させ、西は現在のビルマから南はマレーシアに至るまでを支配した。カンボジアは、政治的には影響力を及ぼす立場であったものの、文化的にはインドからの強い影響を受けた。特に、オケオ遺跡の出土品のなかにクシャーナ朝ガンダーラで作られた青銅製の仏頭[290] や北魏風の青銅製仏立像[291]が見られるように、5世紀以降には仏教とヒンドゥー教を受容していた[292]。また、6世紀から7世紀に制作されたと考えられるワット・ロムロク(Wat Romlok)出土の仏像はグプタ朝や南インドの影響が著しく[291]、装束においては根本説一切有部の戒律が根付いていたことが窺える[293]。扶南国最後の王、ルドラヴァルマン英語版の頃には仏教はいよいよ盛んになった。考古学的な研究によれば、この時代、アンコール・ボレイとプノン・ダで木製や青銅製、石造の仏像が作られたことが判明している[294]

ユーラシアの東西貿易が崩壊し、交易で成り立っていた扶南国が衰えると、6世紀に興った真臘国がこれに代わってクメールの支配者となる。ヒンドゥー教を重んじた真臘は、仏教に対して弾圧が行っていたわけではないようだが、義浄による『南海寄帰内法伝』によれば、7世紀の末には仏教が一時衰えていたようで[294]、それゆえか仏教美術の作例は少ない。しかしながら、6世紀から7世紀は大乗仏教がインドから流入した時代でもあった。この時代に真臘によって遺された碑文では、菩薩天部の像が建てられた旨について触れている。さらに、彫刻美術そのものは真臘が分裂状態にあった時代でも健在であった。後の仏教美術の礎となる、プレ・アンコール様式と呼ばれる様式が、同時代にカンボジアへと侵入したインドネシアのシュリーヴィジャヤ王国の芸術をも取り込みながら成立した[295]

その後、9世紀初頭から13世紀にかけて、大乗仏教とヒンドゥー教を奉じたクメール帝国インドシナ半島のほぼ全域を支配し、同地の仏教美術の発展に大きな影響を遺した。クメールの下で、現在のカンボジアとその隣国タイラオスに、900以上の寺院が建てられた。クメール王室の仏教美術に対する支援は、同王朝初の仏教徒の国王として即位した12世紀の国王、ジャヤーヴァルマン7世によって最盛期を迎えた。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世が、東のチャンパ王国によるアンコール陥落によって生じた宗教的・精神的危機感と、かれらにに対する勝利を動機として、アンコール・トムのドヴァラ(門)や、プラサート・タワー・バイヨンロケシュヴァラ(聖観音)の「クメールの微笑み」と呼ばれる微笑みをあしらった、アンコール・トムの城壁都市が建設された[296][297]アンコール遺跡は当時、これらの開発の中心として機能し、仏教寺院群と約100万人の都市民の生活を支える都市機構を有していた。 カンボジアの仏教彫刻の多くはアンコールに遺されている。しかし、15世紀のアユタヤ朝による侵略を鏑矢とするカンボジアの暗黒時代英語版と、20世紀のカンボジア内戦中と戦後に行われた組織的な略奪、そして天災によって、カンボジア国内の多くの遺跡・遺構に爪痕が残った[298][299]

19世紀中頃までは、カンボジア全域がタイ王国の影響下に組み込まれていたことで、宮廷文化と仏教文化の双方においてタイ化が進行していた[300]。20世紀初頭、ノロドム王の治世末期に建設されたプノンペンの王宮寺院、ヴォアット・プレアハ・カエウ・モロコットは、その名称から、バンコクの王宮であるワット・プラケーオに倣ったものであった。

カンボジア内戦をはじめとする近年の戦火はまた[301][302]、カンボジア国内における歴史的なワットの壁画美術の大半をも破壊した。しかしながら、幸い、1960年代に美術史家のガイ・ナフィリヤンとジャクリーン・ナフィリヤンによってこれら19世紀の壁画美術の記録が遺されていた[303]。現在においても歴史的壁画を有する寺院としては、プノンペンシルバーパゴダ英語版シェムリアップのワット・ボー、コンポンチャム州ワット・カンポン・トラック・ルードイツ語版がある。1990年代から壁画の制作が再び行われるようになったが、一般的に、戦災を逃れた壁画の方がより洗練され、細部まで描かれている。

観世音菩薩、あるいは聖観音像 12世紀 パリ、ギメ美術館蔵

クメール美術は、柔和で薄い顔立ちと細い線をもちながら、神々しいまでの表情で強烈な精神性を表現していることに特徴づけられている。

タイ

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13世紀以降のタイ民族系王国期と、それ以前の「プレ・タイ期」[308]に分けて述べる[309][310][311]

プレ・タイ人系期

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現在のタイにあたる地域に仏教がもたらされたのはおよそ5世紀である[312]。インド及びスリランカで制作された仏像が発掘されている[308][313]

6世紀後半以降、モン人による、チャオプラヤー川中・下流域のドヴァーラヴァティー王国では、グプタ朝及びそれ以降のインド美術、それにスリランカ・アヌラーダプラ期の影響を受けた釈迦像が作られた[314][315]。仏教関連の碑文は殆どがパーリ語であり、上座部仏教が信奉されていたと分かるが、義浄『南海寄帰内法伝』英語版には、「南海は全体として小乗であるが、ほかの地域は大乗と小乗が混在している。菩薩を礼拝し、大乗経を読むのであれば大乗であり、それをしないのであれば小乗と呼ぶだけのことである。」と、明確な線引きが出来ない状況を記す[316]

11世紀頃、ヒンドゥー教を奉じるアンコール王朝の伸張によって、チャオプラヤー川流域は、クメール人の、またマレー半島はシュリーヴィジャヤの支配下におかれた[317]。この時期の仏像様式として、ナーガ上の仏坐像があげられる。龍王と同一視されるナーガ7頭が光背に放射状に並び、結跏趺坐の下にもとぐろを巻いたナーガがブッダを支えている。ブッダが瞑想する間、ナーガが頭上を覆って風雨から護ったという仏伝に基づく。ナーガ上の仏坐像は南インドから東南アジアまで広範囲にみられるが、クメール美術の影響が及んだ地域では特に人気のテーマであった[318]

タイ人系王朝

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13世紀は、「タイ族の沸騰の時代」であった[319]チャオプラヤー川流域に進出したタイ人によって、初の民族国家スコータイ朝が打ち立てられたほか、タイ人固有の文字やタイ仏教文化の基礎が形作られた。スコータイ朝の立国当初は上座部・大乗仏教・ヒンドゥー教が併存していたが、3代王ラームカムヘーンが上座部僧に帰依することによって、同派の国内での優占を決定づけ、上座部仏教がタイに浸透することなった[320][321][322]。スコータイの仏教美術は、クメールやハリプンチャイ、パガン、そしてスリランカから影響を受けて発達した[323]

この時代に生まれた仏像の型として、釈迦遊行像があげられる。左ひじを上げ、掌を見せる施無畏印を示し、左足に重心を乗せ、右足を前に踏み出そうとする姿をとる。この様式は、亡くなった摩耶夫人へ説法するため、釈迦が梵天帝釈天とともに忉利天からサンカーシャ:サンカッサとも[324])へと降りてくる仏伝を表したとされる[325][326]。建築においては、ワット・マハータートがあげられる。中心にストゥーパ、その前に仏堂を置き、スリランカの影響がうかがえる[327][323]

同時期のタイ北部では、スコータイ王朝やアユタヤ王朝に加え、ラーンナー王国が興った。ラーンナー美術は、初期にはハリプンチャイ美術の、後にはパーラ朝美術の流れを汲むパガン美術の影響を受けていた[328]。この王国は19世紀末まで存続し、チェンセーンのワット・チェディ・ルアントット・パサック、チェンライワット・プラケーオ英語版チェンマイワット・チェディ・ルアンといった優れた仏教遺跡を遺したほか、チェンセン様式と呼ばれる美術を確立させた[329]

14世紀半ばに興ったアユタヤ朝は、15世紀半ばにはアンコール朝とスコータイ朝を退ける。スコータイ同様、上座部を最重要視したが、アンコール朝下でのバラモン司祭を重用した[330]。仏像においては、スコータイ様式とクメール様式を踏襲した[331][332]。17世紀初頭から18世紀中頃は既存の仏像の修復が主となり、この時期に制作された仏像は稀である。また、このような事情から、アユタヤ様式の造形美術は途絶してしまう[333]

エメラルド仏(プラ・ケオ) 15世紀 ラーンナー伝来? バンコク、ワット・プラケーオこの仏像は季節ごとに異なった装飾が施される。左から夏季安居冬季の装い。

1782年、バンコクが新たな首都として拓かれた。2021年時点での王朝でもあるラタナコーシン朝である。18世紀末に即位した初代国王ラーマ1世はアユタヤーの都の再興を目指し、ワット・プラケーオ涅槃仏ワットポー等、造寺造仏に励んだ[334][335]。後を継いだラーマ2世は、詩人彫刻家でもあり、仏教美術の御作が現代にも伝わっている[336]

インドネシア

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中国大陸の僧が、仏法を学ぶため、釈迦の出生地を目指すものが現れた。その過程において、この地の記録が残された。5世紀初頭、インドからの帰路にてジャワも しくはスマトラを訪れた法顕は、「外道婆羅門が興盛し、仏法は言うに足らず」と記した。ヒンドゥー教ほど隆盛してはいないが、仏教も伝わっていたことが分かる[338][339]。7世紀末、義浄(#プレ・タイ人系期)は、シュリーヴィジャヤにて計7年間を過ごし、仏教研究が進んでいると述べ、インドに行く前に当地で学ぶことを勧めている[340][341]。当地にて辿れる最古の文字史料は、スマトラ島で発見された684年のタラン=トゥオゥ碑文英語版で、大乗仏教及び密教用語が見られる[341]

シャイレーンドラ朝支配下の中部ジャワ島で、8世紀後半から9世紀前半にかけてボロブドゥールが建立された。基部が約120メートル四方、基壇と方形5層に小ストゥーパと円形3層を重ねた階段状安山岩積みのこの建造物は、その上に大ストゥーパを戴いている。ストゥーパ内には計504躯の仏座像が祀られる。方形層の回廊には計1460面の仏伝・ジャータカなどに基づく浮彫が右回りに掲示される。五智如来曼荼羅を表した、シャイレーンドラ家の墳墓と見なされている[343][344][345][346]

現代仏教美術

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『仏陀と仏教の福音』(アーナンダ・クーマラスワミ英語版、1916年)の挿絵

20世紀以降、アジアにおける仏教美術は西洋美術との接触・結びつきの中で新しい展開を迎えた。そのなかには、旧来の様式から離れて発展したものもあれば、伝統に軸足をおいたまま発展したものもある。

大乗仏教が主流な地域における現代仏教美術としては、大韓民国の王智源による仏像彫刻[347]、ネパール出身でチベット・ニャラム県にルーツを持つツェリン・シェルパによる絵画作品[348] が挙げられる。仏教建築の分野で、台湾南部、高雄市佛光山佛陀記念館が挙げられるだろう。この文化施設・宗教施設を兼ねる記念館は21世紀に入ってから建設され、仏塔やストゥーパ、大仏が建立されている。

また、上座部仏教が主流な地域でも、伝統美術の側からの近代的なアプローチは行われている。神秘家で彫刻家のバンルーリナット・スーリナット英語版は20世紀中盤にカンボジアとタイで活躍し、サラケオク公園英語版ブッダ・パーク英語版といった、大規模なコンクリート仏教彫刻群を造営した。さらに、1997年に開山したタイのワット・ロンクンは、タイの伝統的な仏教建築と超現実主義が図られている[349]。タイではさらに、いわゆる「地獄寺」としてカテゴライズされる、立体像を用いて屋外に設置されている空間が同国の農村部においてよく見られる。タイ全土およそ70ヶ所に点在する地獄寺は[350]、在家信者の教化を目的に制作されており、『三界経』[注釈 40]や『プラ・マーライ英語版』で説かれた地獄をもとにしている[351]。これらは1970年代以降に大々的に作られるようになったが、1973年の血の日曜日事件などの動乱によって政治的意識をもった「開発僧」と呼ばれる僧侶らが、その主な担い手となった[352]

一方、アメリカ大陸ヨーロッパといった、近代に入ってから仏教が広まった地域では、少なくない現代アーティストが仏教をアートの主題として取り扱っている。注目すべき例としては、ビル・ヴィオラによるビデオ・インスタレーション[353]ジョン・コンネル英語版が手掛けた彫刻作品、 アラン・グラハム英語版によるインスタレーション作品、"Time is Memory"などがある[354]

イギリス仏教団体ネットワーク英語版は、アートに携わる仏教実践者を識別することに意欲的である。この組織は、2005年に全国的な仏教芸術祭、「花の蓮」("A Lotus in Flower")を企画[355] したほか、 2009年には2日間に渡る芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援した[356]。「ブッダマインド、クリエイティブ」の閉会後に仏教芸術家の協会が結成され、組織としての努力が実を結ぶこととなった[357]

脚注

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注釈

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  1. ^ 英語において対応する"Buddhist Art"など、他の言語においては視覚芸術以外の芸術も含まれうる。
  2. ^ 儀式と哲学が発達したバラモン教においては、火を通じて神々に供物を捧げることはあっても、偶像に対して崇拝を行うことはなかったA. Foucher, Alfred; Thomas, Frederick William; Thomas, L. A. (英語). Beginnings of Buddhist art, and other essays in Indian and Central-Asian archæology. LCCN 51-762. https://digital.soas.ac.uk/AA00000883/00001 2021年6月9日閲覧。 。ゆえに、ヴェーダ時代の宗教建築や神像はほぼ遺されていない。なお、「バラモン教」という呼称はヨーロッパ人によって付けられたものである。
  3. ^ 当時の仏教徒は、ブッダが悟りを開いたことで人間を超越した存在(不可視)になったと考えていたようである。
  4. ^ ただし、三十二相八十種好のうちのいくつかはジャイナ教と共有されている[11] 一方で、この様式が一揃いのものとして確立したのは4世紀から5世紀にかけてのことである[12]
  5. ^ チャイティヤは本来、ヤクシャやラクシャスが棲む聖樹であり、一種の依代であったが、ストゥーパ信仰と融合した[16]
  6. ^ 仏陀に先んじて夜叉などの民間信仰に由来する神々が仏教美術に登場したのは、パトロンであった仏教徒や制作に携わった職人たちが、仏陀の教えと矛盾することなくこれら諸神を信仰していたという背景がある[23]。なお、ヤクシー・ヤクシャはいずれもヴェーダの神々とは異なった出自を持っている。
  7. ^ 阿羅漢果とは、四向四果という仏教における修行の8段階のひとつで、すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位のこと。
  8. ^ 袈裟を両肩にのせる着衣法。
  9. ^ 三十ニ相の内容は、経典によって差異が認められる。したがって、インド大陸各地方での造像の展開に伴って、段階的に整理されていったと考えられる[41]
  10. ^ ただし、グプタ朝は仏教を積極的に弾圧したわけではない。
  11. ^ インドにおける仏教の実質的な滅亡は、13世紀はじめ頃のナーランダ僧院ヴィクラマシーラ大学の破壊とされる。インドにおける仏教の再興は、20世紀のダルマパーラアンベードカルらの登場を待たねばならなかった[47][48]
  12. ^ 初期仏教においては、バラモン教が実践していたことから儀式を執り行うことは禁じられ、また、悟りとは関係のない形而上学的な事柄・宇宙観については説かなかった。紀元後に成立した中観派もまた、宇宙観・世界の構造は本質的にであるとした[49]
  13. ^ 大日経』、『金剛頂経
  14. ^ ただし、800年前後に活躍した日本の空海は『声字実相義』において、物質を顕色()、形色(長短、高低などの形)、表色(身体を動かす運動)の三種に分けて論じている[54]
  15. ^ 父(ふ)タントラ系(秘密集会タントラなど)、母(も)タントラ系(サンヴァラ曼荼羅など)、不二(ふに)タントラ系(時輪タントラなど)[61]
  16. ^ 7世紀から13世紀にかけて、インドでは新興のヒンドゥー教との対立のなかで密教が成立した。中国へは、善無畏金剛智らによって7世紀(唐代)に伝わっていた。 9世紀、空海によって日本にも中国から中期密教がもたらされた。 一方、チベットは、8世紀後半に仏教を国教とすると、インドから直接密教を取り入れ続けた。それゆえに、『無上瑜伽タントラ』が実践されるなど後期密教の特徴を強く残している。
  17. ^ インド洋以東には上座部仏教と同時に大乗仏教も広まった。例えば、ボロブドゥール寺院遺跡群を建設したシャイレーンドラ王家は、大乗仏教を信奉していた。
  18. ^ 部派仏教(後代の上座部)においては、阿羅漢とは仏陀以外の修行者の達しうる最高の境地であり、苦しみからの解放された状態であった。
  19. ^ 例えば、インドの中期密教以降ではヒンドゥー教と、南北朝時代以降の中国では道教と、新羅以後の朝鮮半島では巫俗と、飛鳥時代以後の日本では神道怨霊信仰と結びついた。 一方で、その受容の過程にも国によって差異があった。インドではヒンドゥー教への対抗上仏教側が積極的に神格を取り入れたが、朝鮮では仏教側が既存の巫俗信仰を容認する形で取り込んでいった。
  20. ^ なお、アトラ―スに関しては、6世紀(東魏末から北斉初期)の中国で仏教彫刻に類似の図像がみることができ、ガンダーラ美術からの影響を唱える説もある(大阪市立美術館収蔵の仏三尊像碑など)[75]
  21. ^ 仏伝図とは、釈迦の生涯、つまり出生直前の出来事から涅槃までを描いたもの。
  22. ^ 建設当時、両大仏が建てられたのは交通の要衝であったが、こういった場所に摩崖のレリーフを彫るのはペルシャの伝統であった。また、壁画の色彩感覚や身体表現にササン朝美術の影響を見ることができる[83]
  23. ^ 北京大学の考古学者、宿白による石窟形式と炭素14に基づく見解によれば、キジル石窟が造営された時期はもう100年ほど遡る4世紀後半から始められた。
  24. ^ 儒教の価値観を色濃く反映した『仏説父母恩重難報経』など。
  25. ^ 528年とも。
  26. ^ 新羅は立地上、中国大陸への海路・陸路を確立できなかったためであった。5世紀初頭には高句麗の僧侶を通じこの新しい教えの存在を認知していたようである。
  27. ^ 386年鮮卑族の一派であった拓跋氏は、華北に北魏を建てた。
  28. ^ なお、宝冠菩薩の制作地については、百済説、新羅説、日本説、渡来人制作説があり、用材にアカマツクスノキが使われていたことから、結論は出ていない。
  29. ^ 著名なものでは聖護院の国宝「摂政像」(平安時代)、飛鳥園の「七歳像」(平安時代、円快作)、東京国立博物館の「二歳像」(鎌倉時代)などがある[136]
  30. ^ 密教美術以外の仏教美術(釈迦仏関係の美術、浄土教美術、法華経美術、禅宗美術など)を総称して「顕教美術」と呼ぶ[154]
  31. ^ 鎌倉幕府は禅を保護するも、政治上は顕密体制と呼ばれる、南都六宗平安二宗を重んじる方針をとった平雅行 (2019). “鎌倉幕府の東国仏教政策”. 京都学園大学総合研究所所報 20: 60 - 69. ISSN 1347-4200. https://doi.org/10.20558/00001317. 
  32. ^ 田中紋阿・文弥父子や高村東雲・光雲師弟、新海竹太郎など[199]
  33. ^ コレクション 平山郁夫「祇園精舎」”. 足立美術館. 2021年6月29日閲覧。
  34. ^ 『マハーヴァンサ』10章101節には、釈迦在命中に仏教思想が伝わってたと記述される[257]
  35. ^ 『マハーヴァンサ』36章128節には、紀元前3世紀に造像されたと記される[263]。チャンドラ・ウィクラマガマゲは、アヌラーダプタ出土のマウリヤ様式からスリランカ様式に移行中の座像を紀元前3世紀制作と見なす[264]
  36. ^ ビルマにおけるパゴダ、あるいはパヤー(paya)は、在家信者にとっての信仰の場であり、僧侶の修行の場である寺院とは区別される。
  37. ^ パーリ語のチャイティヤから。またゼーティは目的別に4種類に分けられ、このうち経典や仏像を備えたゼ―ティがよく建てられた。
  38. ^ パト―は内部に僧房や居住空間を備えず、運営・管理も在家信者によって行われてきた。
  39. ^ 過去七仏のうち、迦葉仏・拘楼孫仏(倶留孫仏)・拘那含牟尼仏・釈迦牟尼仏の四仏。
  40. ^ Traiphum Phra Ruang スコータイ王朝第6代の王、リタイによって1345年に著された。人間界、欲界、地獄について具体的に説く。

出典

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参考文献

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他言語文献

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日本語文献

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関連項目

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外部リンク

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