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1973年3月26日、[[毎日大阪会館|大阪毎日ホール]]でデビュー1周年記念コンサート『[[西城秀樹オン・ステージ|ヒデキ・オン・ステージ]]』を開催。5月27日、[[ユネスコ村]]での「情熱の嵐」新曲発表会「燃えるヒデキ! ファンとの集い」で<ref name="週刊セブンティーン19730605">{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年6月5日号 | title = 西城秀樹が"情熱の嵐"の発表会を5月27日にユネスコ村に全員集合 | publisher = 集英社 | page = 60 }}</ref>、空から[[ヘリコプター]]でド派手に登場<ref name="tokyo15"/><ref name="週刊セブンティーン19730605"/><ref name="週刊読売1973616" >{{Cite news2|author=|title=カッコよく? 空から登場 『燃えるヒデキ』のPR演出|newspaper=[[週刊読売]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2008-04-18|page=36}}</ref><ref name="friday 20180525" >[https://friday.kodansha.ne.jp/entertainment/104313 貴重なカットを一挙公開 フライデーが目撃してきた素顔の西城秀樹1972 ~2018]</ref>。ヘリコプターから縄ばしごを伝ってはしごの下まで降り、片手で手を振った後、ステージに着地するという[[スタント・パーソン|スタントマン]]紛いの演出を行い話題をさらう<ref name="tokyo15"/><ref name="週刊読売1973616" /><ref name="週刊セブンティーン19740618">{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1974年6月18日号 | title = STスペシャル ーデビュー曲『恋する季節』から最新曲『激しい恋』までー 西城秀樹の曲とともに歩んだ青春を追う 歌って燃えてホップ、ステップ、ジャンプ! | publisher = 集英社 | pages = 38–43 }}</ref>。「このときのキャンペーンは、ぼくにとっても命がけだった」と話しており<ref name="週刊セブンティーン19740618"/>、今では許可はまず下りない<ref name="tokyo15"/>。ファン3万人の「ヒデキ、ヒデキ」の絶叫で、ヘリの爆音が消されたといわれる<ref name="週刊読売1973616" />。ヘリコプターによる演出は、同じ年の4月7日に同所で[[天地真理]]の「[[若葉のささやき]]」新曲発表会があり、天地が[[蒸気機関車|汽車ポッポ]]で会場入りしたことに対抗するもの<ref name="週刊読売1973616" />{{refnest|group=注|一部の文献に天地の観客動員を10万人とするものがあるが、天地と西城の観客動員は同じ3万人と当時の文献に書かれている<ref name="週刊読売1973616" />。}}。この曲で初めてベストテン入り(オリコン6位)。アクションもエスカレート。「(♪君が望むなら)ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入った<ref name="tokyo15"/>。1972年から1999年まで毎年8月に[[静岡県]][[静岡市]]の駿府公園(現・[[駿府城公園]])で行われた『[[フェスタしずおか]]』に1973年第二回から出演し、最終回まで最多出演。毎年歌謡ショーの[[クライマックス]]に登場し「ミスター・フェスタ」と呼ばれた<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2090261/full/ 18年ぶり復活『フェスタしずおか』 “ミスターフェスタ”西城秀樹の参戦決定]、[https://twitter.com/ShizushinSBS_PR/status/1000968210399744000/photo/1 西城秀樹さん。ありがとうございました...]、[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201812100000374.html 西城秀樹さんの企画展、1月4日からゆかりの静岡で]</ref>。8月26日、[[日劇ウエスタンカーニバル]]初ワンマンショー<ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年9月11日号 | title = 西城秀樹/「ちぎれた愛」に賭けた新たな飛躍への決意… 燃える愛の叫びを聞いてほしい! | publisher = 集英社 | pages = 32–35 }}{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年9月11日号 | title = 日劇ウエスタン・カーニバル "西城秀樹ワンマンショー"追跡ルポ ミュージカルへの大声援にヒデキが涙をみせた! | publisher = 集英社 | pages = 40–43 }}</ref>。 |
1973年3月26日、[[毎日大阪会館|大阪毎日ホール]]でデビュー1周年記念コンサート『[[西城秀樹オン・ステージ|ヒデキ・オン・ステージ]]』を開催。5月27日、[[ユネスコ村]]での「情熱の嵐」新曲発表会「燃えるヒデキ! ファンとの集い」で<ref name="週刊セブンティーン19730605">{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年6月5日号 | title = 西城秀樹が"情熱の嵐"の発表会を5月27日にユネスコ村に全員集合 | publisher = 集英社 | page = 60 }}</ref>、空から[[ヘリコプター]]でド派手に登場<ref name="tokyo15"/><ref name="週刊セブンティーン19730605"/><ref name="週刊読売1973616" >{{Cite news2|author=|title=カッコよく? 空から登場 『燃えるヒデキ』のPR演出|newspaper=[[週刊読売]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2008-04-18|page=36}}</ref><ref name="friday 20180525" >[https://friday.kodansha.ne.jp/entertainment/104313 貴重なカットを一挙公開 フライデーが目撃してきた素顔の西城秀樹1972 ~2018]</ref>。ヘリコプターから縄ばしごを伝ってはしごの下まで降り、片手で手を振った後、ステージに着地するという[[スタント・パーソン|スタントマン]]紛いの演出を行い話題をさらう<ref name="tokyo15"/><ref name="週刊読売1973616" /><ref name="週刊セブンティーン19740618">{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1974年6月18日号 | title = STスペシャル ーデビュー曲『恋する季節』から最新曲『激しい恋』までー 西城秀樹の曲とともに歩んだ青春を追う 歌って燃えてホップ、ステップ、ジャンプ! | publisher = 集英社 | pages = 38–43 }}</ref>。「このときのキャンペーンは、ぼくにとっても命がけだった」と話しており<ref name="週刊セブンティーン19740618"/>、今では許可はまず下りない<ref name="tokyo15"/>。ファン3万人の「ヒデキ、ヒデキ」の絶叫で、ヘリの爆音が消されたといわれる<ref name="週刊読売1973616" />。ヘリコプターによる演出は、同じ年の4月7日に同所で[[天地真理]]の「[[若葉のささやき]]」新曲発表会があり、天地が[[蒸気機関車|汽車ポッポ]]で会場入りしたことに対抗するもの<ref name="週刊読売1973616" />{{refnest|group=注|一部の文献に天地の観客動員を10万人とするものがあるが、天地と西城の観客動員は同じ3万人と当時の文献に書かれている<ref name="週刊読売1973616" />。}}。この曲で初めてベストテン入り(オリコン6位)。アクションもエスカレート。「(♪君が望むなら)ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入った<ref name="tokyo15"/>。1972年から1999年まで毎年8月に[[静岡県]][[静岡市]]の駿府公園(現・[[駿府城公園]])で行われた『[[フェスタしずおか]]』に1973年第二回から出演し、最終回まで最多出演。毎年歌謡ショーの[[クライマックス]]に登場し「ミスター・フェスタ」と呼ばれた<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2090261/full/ 18年ぶり復活『フェスタしずおか』 “ミスターフェスタ”西城秀樹の参戦決定]、[https://twitter.com/ShizushinSBS_PR/status/1000968210399744000/photo/1 西城秀樹さん。ありがとうございました...]、[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201812100000374.html 西城秀樹さんの企画展、1月4日からゆかりの静岡で]</ref>。8月26日、[[日劇ウエスタンカーニバル]]初ワンマンショー<ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年9月11日号 | title = 西城秀樹/「ちぎれた愛」に賭けた新たな飛躍への決意… 燃える愛の叫びを聞いてほしい! | publisher = 集英社 | pages = 32–35 }}{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年9月11日号 | title = 日劇ウエスタン・カーニバル "西城秀樹ワンマンショー"追跡ルポ ミュージカルへの大声援にヒデキが涙をみせた! | publisher = 集英社 | pages = 40–43 }}</ref>。 |
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新曲を発表するごとに人気が高まり<ref>{{Cite news|author=|title=〔ワイド特集 日本人と歌〕 『これが"アイドル歌手"のすべて』 麻丘めぐみ アグネス・チャン 野口五郎 浅田美代子 桜田淳子 西城秀樹 山口百恵 郷ひろみ|newspaper=週刊読売|publisher=読売新聞社|date=1973-10-6|pages=72-73}}</ref>、1973年9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得<ref name="nbs"/><ref name="natalieijinden"/><ref name="sv_56">「オリコンデータで見るヒットチャートの殿堂攻防史『走れコータロー』から『スニーカーぶる〜す』まで、首位曲の変遷」[[#sv]]、56-57頁</ref>。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった<ref name="sv_56"/>。急激な人気の上昇でレコードプレスが間に合わず、発売後10日間で50万枚をプレス<ref name="週刊セブンティーン19740618"/><ref name="月刊明星197911" />、レコード売上げの短期間最高記録といわれた<ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年10月9日号 | title = STニュース特集 発売日10日間でついに50万枚突破! 記録破りのヒデキの"ちぎれた愛" | publisher = 集英社 | page = 58 }}</ref>。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「[[ハウス食品|ハウス]] [[バーモントカレー]]」のテレビ広告が放送開始。11月7日、東京・郵便貯金ホールにて第2回コンサート『[[西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!]]』を開催。12月8日 - 12月9日、[[愛知県|愛知]][[名古屋市|名古屋]]・[[名鉄ホール]]にてコンサート『ヒデキ/世紀の絶唱』を開催。12月24日、「愛の十字架」も連続1位。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『[[第24回NHK紅白歌合戦]]』は落選<ref name="sponichi20110621" /><ref name="kayo.cdjournal">[https://kayo.cdjournal.jp/radio-guide/id19637/ > 歌謡ラジオ「午前0時の歌謡祭」> 第32回放送「西城秀樹 リクエスト特集 前篇」]、[https://kayo.cdjournal.jp/radio-guide/id19650/ 「西城秀樹 リクエスト特集 後篇」]</ref>。西城のように激しく動きまわりながら歌う歌手はそれまで存在せず<ref name="近代映画197312" /><ref name="nbs"/><ref name="konishi" >[http://to-ryo.com/menu01/2018/06/1019.html 新歩道橋1019回 - 新歩道橋 - 歌謡曲だよ人生は「酔々独歩」~小西良太郎オフィシャルサイト~]</ref>、西城自身もエスカレートするアクションに気を取られ、最初は歌が上手く歌えなかった<ref name="近代映画197312" />。日本にはもともと「歌はじっくり聞かせるものだ」といった考えが長い間支配していたため<ref name="近代映画197312" /><ref name="konishi" /><ref name="iza20180517" >[https://www.iza.ne.jp/kiji/entertainments/news/180517/ent18051722040034-n1.html?utm_source=yahoo%20news%20feed&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link 西城秀樹さん死去「人を励まし続けた存在だった」 音楽ジャーナリスト湯浅明さん]</ref>、西城の絶叫型の歌唱スタイルには、「歌が上手いのか[[未知数]]」などと評され<ref name="月刊セブンティーン19741" >{{cite journal | 和書 |author = {{small|飛世正次(『[[NHK紅白歌合戦]]』[[プロデューサー|チーフ・プロデューサー]])・結解博(『[[日本放送協会|NHK]]』番組広報部)・田中友正(『[[日本テレビ放送網|NTV]]』歌番組プロデューサー)・中村良男(NTVドラマプロデューサー)・[[ |
新曲を発表するごとに人気が高まり<ref>{{Cite news|author=|title=〔ワイド特集 日本人と歌〕 『これが"アイドル歌手"のすべて』 麻丘めぐみ アグネス・チャン 野口五郎 浅田美代子 桜田淳子 西城秀樹 山口百恵 郷ひろみ|newspaper=週刊読売|publisher=読売新聞社|date=1973-10-6|pages=72-73}}</ref>、1973年9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得<ref name="nbs"/><ref name="natalieijinden"/><ref name="sv_56">「オリコンデータで見るヒットチャートの殿堂攻防史『走れコータロー』から『スニーカーぶる〜す』まで、首位曲の変遷」[[#sv]]、56-57頁</ref>。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった<ref name="sv_56"/>。急激な人気の上昇でレコードプレスが間に合わず、発売後10日間で50万枚をプレス<ref name="週刊セブンティーン19740618"/><ref name="月刊明星197911" />、レコード売上げの短期間最高記録といわれた<ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1973年10月9日号 | title = STニュース特集 発売日10日間でついに50万枚突破! 記録破りのヒデキの"ちぎれた愛" | publisher = 集英社 | page = 58 }}</ref>。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「[[ハウス食品|ハウス]] [[バーモントカレー]]」のテレビ広告が放送開始。11月7日、東京・郵便貯金ホールにて第2回コンサート『[[西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!]]』を開催。12月8日 - 12月9日、[[愛知県|愛知]][[名古屋市|名古屋]]・[[名鉄ホール]]にてコンサート『ヒデキ/世紀の絶唱』を開催。12月24日、「愛の十字架」も連続1位。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『[[第24回NHK紅白歌合戦]]』は落選<ref name="sponichi20110621" /><ref name="kayo.cdjournal">[https://kayo.cdjournal.jp/radio-guide/id19637/ > 歌謡ラジオ「午前0時の歌謡祭」> 第32回放送「西城秀樹 リクエスト特集 前篇」]、[https://kayo.cdjournal.jp/radio-guide/id19650/ 「西城秀樹 リクエスト特集 後篇」]</ref>。西城のように激しく動きまわりながら歌う歌手はそれまで存在せず<ref name="近代映画197312" /><ref name="nbs"/><ref name="konishi" >[http://to-ryo.com/menu01/2018/06/1019.html 新歩道橋1019回 - 新歩道橋 - 歌謡曲だよ人生は「酔々独歩」~小西良太郎オフィシャルサイト~]</ref>、西城自身もエスカレートするアクションに気を取られ、最初は歌が上手く歌えなかった<ref name="近代映画197312" />。日本にはもともと「歌はじっくり聞かせるものだ」といった考えが長い間支配していたため<ref name="近代映画197312" /><ref name="konishi" /><ref name="iza20180517" >[https://www.iza.ne.jp/kiji/entertainments/news/180517/ent18051722040034-n1.html?utm_source=yahoo%20news%20feed&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link 西城秀樹さん死去「人を励まし続けた存在だった」 音楽ジャーナリスト湯浅明さん]</ref>、西城の絶叫型の歌唱スタイルには、「歌が上手いのか[[未知数]]」などと評され<ref name="月刊セブンティーン19741" >{{cite journal | 和書 |author = {{small|飛世正次(『[[NHK紅白歌合戦]]』[[プロデューサー|チーフ・プロデューサー]])・結解博(『[[日本放送協会|NHK]]』番組広報部)・田中友正(『[[日本テレビ放送網|NTV]]』歌番組プロデューサー)・中村良男(NTVドラマプロデューサー)・[[尾崎晌]]・下田文子([[TBSテレビ|TBS]]番組宣伝部)・三ッ井康([[フジテレビ]]広報部)・[[岩永惠]]([[テレビ朝日|NET]]広報部)}} | journal = [[Seventeen (日本の雑誌)|月刊セブンティーン]] | volume = 1974年1月号 | title = '73アイドル総決算 歌番組はヤング・アイドルで満員!? TVマンが語るおもてばなし、うらばなし | publisher = [[集英社]] | pages = 94 }}</ref>、激しいボディアクションに対しては「[[歌詞]]もろくに分からない」とか、大胆なステージ衣装には「奇抜すぎ」といった批判を浴び<ref name="近代映画197312" />、評価が定まらず<ref name="月刊セブンティーン19741" />、「聞かせる歌手ではなく見せる歌手だ」と言われ続けた<ref name="近代映画197312" />。西城のような体全体を使って歌い挙げるタイプの歌手は、なかなか馴染めず抵抗感があった<ref name="konishi" />。日本の歌謡界には西城のような歌手を受け入れ、育て上げてゆく伝統や土壌が乏しかった<ref name="近代映画197312" />。絶唱タイプと分類できるダイナミックなボーカルと、そこで生かされる絶妙な[[ビブラート]]やシャウト、そして持ち前のリズム感覚は、当時のNHKで放送するにはあまりにも規格外だったという見方もある<ref name="nbs"/><ref name="natalieijinden"/>。 |
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1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列[[テレビドラマ]]『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。2月25日発売の「薔薇の鎖」でのスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の「激しい恋」は売り上げ58.4万枚の大ヒット(年間シングルチャート第8位)。6月18日、[[TBSテレビ|TBS]]『[[火曜歌謡ビッグマッチ]]』で「新御三家」が初共演。衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められた<ref name="Official-music1970">[http://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/music/music1970.shtml 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」]</ref>。7月13日、初主演の[[松竹映画]]『愛と誠』公開。原作者である[[梶原一騎]]に西城自身が直談判して出演が決まった。 |
1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列[[テレビドラマ]]『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。2月25日発売の「薔薇の鎖」でのスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の「激しい恋」は売り上げ58.4万枚の大ヒット(年間シングルチャート第8位)。6月18日、[[TBSテレビ|TBS]]『[[火曜歌謡ビッグマッチ]]』で「新御三家」が初共演。衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められた<ref name="Official-music1970">[http://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/music/music1970.shtml 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」]</ref>。7月13日、初主演の[[松竹映画]]『愛と誠』公開。原作者である[[梶原一騎]]に西城自身が直談判して出演が決まった。 |
2020年9月25日 (金) 08:35時点における版
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西城 秀樹 Hideki Saijo | |
---|---|
出生名 | 木本 龍雄(きもと たつお) |
生誕 |
1955年4月13日 日本・広島県広島市 (現:東区)東蟹屋町 |
死没 |
2018年5月16日(63歳没) 日本・神奈川県横浜市 |
学歴 | 明治大学付属中野高等学校定時制 卒業 |
ジャンル | J-POP |
職業 |
歌手 俳優 |
活動期間 | 1972年 - 2018年 |
レーベル |
1972年 - 1975年: 「ビクター音楽産業」 1975年 - 1987年: 「RVC」 1987年 - 1999年: 「BMGビクター」 1999年: 「キングレコード」 1999年 - 2001年: 「ユニバーサル ポリドール」 2002年 - 2013年: 「ユニバーサルJ」 2015年 - 2018年: 「Battle Cry Sound」 |
事務所 | 芸映→アースコーポレーション |
公式サイト | 西城秀樹オフィシャルサイト |
西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年〈昭和30年〉4月13日 - 2018年〈平成30年〉5月16日[1] )は、日本の男性歌手、俳優。新御三家の1人。 本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市出身[2][3][4]。アースコーポレーション所属。身長181cm。血液型はAB型。既婚。
来歴
生い立ち
広島県広島市、広島駅近くの東蟹屋町(現:東区東蟹屋町)に生まれる[5][6][7]。最初の家は三宅一生の実家の斜め前にあった[8][9]。奥田民生の実家も近所である[8][10]。父親は事業家で家は裕福だった[11][12]。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み[13][14][15][16][17]、ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した[18][19][20]。当時、ロックをやりたければ、楽器を置いてあるのはジャズスクールしかなかった[18]。小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベックで[21][22][23]、「おませなガキ」でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした[14][21]。小学4年生の時に[24]、その兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成[25][26]。『月刊平凡』1974年2月号の自叙伝で「小学校に入ったばかりの頃、もうぼくはミュージシャンになりたいと思っていた。歌手ではない、ミュージシャンだ」と話している[24]。結構なワルで小さな頃は喧嘩ざんまい[27][28]。中学では縄張り争いを繰り広げ「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない」と豪語した[29]。自宅前の荒神陸橋によじ登ったり[12][30][注 1]、無免で単車を乗り回しお巡りさんに何度も油を搾られた[12][30]。一緒に単車を転がした友人は、西城がデビューした翌年単車事故で死んだ[12]。高一のときには、駅のトイレで他校生15人からリンチを受け、兄貴と仲間で仕返ししたこともある[12]。 広島市立尾長小学校在学中から小学生ドラマーとして活動し[31]、GS全盛期の1968年、兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校の文化祭でステージ演奏をし、学内の女生徒から大人気となる[24][32][33]。ボーカルに魅力を感じるようになったのはその頃から[24]。西城は世代的にすでに既成概念としてロックを認識していただけでなく、ビートルズは勿論、ビートルズ以降に生まれた多様なジャンルのロックを現在進行形で自然に吸収した[14][34]。歌謡曲は聴いていなかった[31]。ザ・ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、シカゴなどの洋楽に影響を受け[4][21][31][35][36]、上京直前の1971年9月27日に行われたレッド・ツェッペリン広島チャリティーコンサートもバンド仲間と鑑賞している[21][22][35]。ツェッペリンのメンバーはライブ後の打ち上げで、西城が歌のアルバイトをやっていた広島市内のナイトクラブ「インペリアル」[注 2]に飲みに来て突然演奏した[38]。西城はそれを見て涙を流し「絶対、ワシも(ツェッペリンみたいに)なるで!」と言っていたという[38]。中学以降もバンド活動を続け、米軍岩国基地や佐世保基地のライブハウスなどにも出演し[18][21]、1969年の『ウッドストック・フェスティバル』は、そこでテープを録ってもらった物を観た[21]。強い感銘を受け、それが後のスタジアムライヴにつながったと話している[31][39][40][41]。岩国基地が近辺にあったため、最新の洋楽の情報は東京より迅速であったと述べている[8][24][42][43]。こうした洋楽通ぶりがプロデビュー後、他のアイドルとは一線を画す個性となった[40][44][45][46][47]。西城が当時の歌謡曲で異彩を放ったのは、西城はハードロックに代表される70年代ロックのビートをドラムを通して学び、肉体化していて、歌謡曲という範疇の中で、ロックのビートを自然に表現できる歌手だったからである[45]。
兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[12][32][48]。このバンドでリードボーカルとなる[24]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し[48]、中国大会で優勝した[12][26][49]。山陽高等学校一年の1971年[28]、R&B喫茶「パンチ」から声がかかり[24]、店のレギュラーバンドになり[5][24]、店で歌唱していたところをスカウトされる[14][19][32][40][49][50]。誘い文句は「歌手にならないか」ではなく「バンドボーイから修行しないか」であった[51]。「パンチ」は旧天満屋八丁堀店(現・ヤマダ電機LABI広島)裏のえびす通り商店街にあり[5]、吉田拓郎が練習拠点にし[52]、就職が内定していたカワイ楽器広島店[52][注 3]の二軒隣り、パーラー高木屋の地下にあった[5][注 4]。年は大分違うが吉田のバンドと活動時期も重なっており[14][52][56][57]、吉田も西城を覚えていて『月刊明星』1975年11月号のインタビューで西城の話をしている[58][注 5]。これを切っ掛けとして後に楽曲提供を受けたのが1982年のシングル『聖・少女』[14][41][56]。本来、歌手には興味がなかったが[14]、当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じ、スカウトを承諾した[19]。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対[60]。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の1971年10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京[20][24]、10月4日朝、東京駅着。芸能事務所「芸映」に所属[61]。明大中野高等学校定時制へ転校する[62]。広島では12畳の部屋に一人で住んでいたが、3畳もない三角部屋にマネージャーと二人で住んだ[24][63][64]。
デビュー後
1972年3月25日、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。芸名は『女学生の友』の一般公募[65][66]。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」[67]。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる[47]。
1972年11月25日に発売された「チャンスは一度」で[68]、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるようになった[47][68][69][70]。
1973年6月25日、5枚目のシングル「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り[47]。以降、オリコンベストテンに11年連続、計33曲を送り込む[43]。「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。
1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露[71]。「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。
1976年の「君よ抱かれて熱くなれ」から1977年の「ボタンを外せ」までは、阿久悠の作詞、三木たかしの作曲のコンビによるヒット作品が続く。1976年の「ジャガー」、1978年の「炎」で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。
ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[20][72]、その後11年連続(通算12回)開催する。「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。
1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 6]。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する(史上5組目)[47][注 7][注 8]。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う[73]。
1983年1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立[74]、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる[69]。
『NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場(その後1994年に10年ぶりに出場後、1995年、1997年から2001年までの計7回出場した。総出場回数は通算18回)。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞(通算3度目)。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲ランクインした。『ザ・ベストテン』の放送開始はデビューから6年後だったが、通算ランクイン155回は番組史上6位、1970年代以前デビューの歌手では1位。放送開始時から数えた場合、8年連続ランクインは最多の連続年数出演である[43][75]。
2000年、「最後の愛」を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)から、ポリドールへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。
長らく独身であったが、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 9]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。
脳梗塞発症、新御三家還暦祝い
2001年秋に脳梗塞を発症(この時は「二次性多血症」と発表)[76]。
2003年6月21日につんく♂がプロデュースした85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」を発表した直後、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。
だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[77][78]。
2015年4月13日、満60歳の誕生日を迎える。翌2016年2月には、「新御三家」が3人揃っての還暦祝いを機に、「還暦鼎談」を開催した[79]。
文藝春秋・2016年12月号において、「3度目の人生」を題目に「2度の脳梗塞には感謝している」等とのメッセージを寄せている[80]。
晩年 闘病 死去
2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』に出演。前日に63歳の誕生日を迎えた事から、ステージ上で出演者からケーキで祝福された[81]。しかし、結果的にこのコンサートが西城にとって最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)の開催時、最後方の席で西城が座っている所に総合司会の歌手協会理事・合田道人から紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピールをしたが、これが最後の公の姿となった[82]。
この日から僅か6日後の2018年4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが[83]、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の病院で亡くなった[83][84][85]。63歳没。法名は「
西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[87]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。
死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[88]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[89]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[90]。その後、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。
逝去後
没後の11月、妻が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓。この中で、2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたことを公表した[91]。
年表
1972年 - 1975年
1972年3月25日発売のシングル「恋する季節」で歌手デビュー。オリコン42位。順風満帆なスタートとはいかなかった[47][92]。最初の頃のキャンペーンはジャンプスーツでリンゴ箱に乗り、パラパラのお客相手に歌った[93]。2枚目のシングル「恋の約束」は18位、徐々にファンを拡大。続く「チャンスは一度」で振付けが付く。アクション・ブームの始まり。8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。このアルバムのB面M3「母と子の絆」は西城が訳詞。デビューから4ヵ月強での初のワンマンライブは、アイドルとしては異例のスピードで[94][95]、ほとんどが外国曲(洋楽カバー)を20曲も歌えたのは勿論、アマチュア時代からのレパートリーを持っていたため[96][97]。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。
1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。5月27日、ユネスコ村での「情熱の嵐」新曲発表会「燃えるヒデキ! ファンとの集い」で[98]、空からヘリコプターでド派手に登場[92][98][99][100]。ヘリコプターから縄ばしごを伝ってはしごの下まで降り、片手で手を振った後、ステージに着地するというスタントマン紛いの演出を行い話題をさらう[92][99][101]。「このときのキャンペーンは、ぼくにとっても命がけだった」と話しており[101]、今では許可はまず下りない[92]。ファン3万人の「ヒデキ、ヒデキ」の絶叫で、ヘリの爆音が消されたといわれる[99]。ヘリコプターによる演出は、同じ年の4月7日に同所で天地真理の「若葉のささやき」新曲発表会があり、天地が汽車ポッポで会場入りしたことに対抗するもの[99][注 10]。この曲で初めてベストテン入り(オリコン6位)。アクションもエスカレート。「(♪君が望むなら)ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入った[92]。1972年から1999年まで毎年8月に静岡県静岡市の駿府公園(現・駿府城公園)で行われた『フェスタしずおか』に1973年第二回から出演し、最終回まで最多出演。毎年歌謡ショーのクライマックスに登場し「ミスター・フェスタ」と呼ばれた[102]。8月26日、日劇ウエスタンカーニバル初ワンマンショー[103]。
新曲を発表するごとに人気が高まり[104]、1973年9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得[40][47][105]。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった[105]。急激な人気の上昇でレコードプレスが間に合わず、発売後10日間で50万枚をプレス[101][106]、レコード売上げの短期間最高記録といわれた[107]。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「ハウス バーモントカレー」のテレビ広告が放送開始。11月7日、東京・郵便貯金ホールにて第2回コンサート『西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!』を開催。12月8日 - 12月9日、愛知名古屋・名鉄ホールにてコンサート『ヒデキ/世紀の絶唱』を開催。12月24日、「愛の十字架」も連続1位。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選[67][108]。西城のように激しく動きまわりながら歌う歌手はそれまで存在せず[26][40][109]、西城自身もエスカレートするアクションに気を取られ、最初は歌が上手く歌えなかった[26]。日本にはもともと「歌はじっくり聞かせるものだ」といった考えが長い間支配していたため[26][109][110]、西城の絶叫型の歌唱スタイルには、「歌が上手いのか未知数」などと評され[111]、激しいボディアクションに対しては「歌詞もろくに分からない」とか、大胆なステージ衣装には「奇抜すぎ」といった批判を浴び[26]、評価が定まらず[111]、「聞かせる歌手ではなく見せる歌手だ」と言われ続けた[26]。西城のような体全体を使って歌い挙げるタイプの歌手は、なかなか馴染めず抵抗感があった[109]。日本の歌謡界には西城のような歌手を受け入れ、育て上げてゆく伝統や土壌が乏しかった[26]。絶唱タイプと分類できるダイナミックなボーカルと、そこで生かされる絶妙なビブラートやシャウト、そして持ち前のリズム感覚は、当時のNHKで放送するにはあまりにも規格外だったという見方もある[40][47]。
1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。2月25日発売の「薔薇の鎖」でのスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の「激しい恋」は売り上げ58.4万枚の大ヒット(年間シングルチャート第8位)。6月18日、TBS『火曜歌謡ビッグマッチ』で「新御三家」が初共演。衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められた[112]。7月13日、初主演の松竹映画『愛と誠』公開。原作者である梶原一騎に西城自身が直談判して出演が決まった。
1974年8月3日、日本で初めてとなるスタジアムでのワンマン・コンサートを、大阪球場で (以降10年連続、後楽園球場では1978年から4年連続で) 開催。8月24日、福岡県飯塚市の芝居小屋・嘉穂劇場で単独リサイタル[113]。これを切っ掛けに以降多くのアイドルが当劇場のステージに立った。「絶対にスターになるまで広島には戻らない」と誓って、家出同然で東京に出て4年、10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート『バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ』を開催[114]。親戚から小中学校の先生、同級生ら大挙押しかける[114]。10月19日 - 10月20日、東京・郵便貯金ホールにて第3回コンサート『We Love Hideki'74/新しい愛への出発』を開催。12月31日、「傷だらけのローラ」で2年連続となる『第16回日本レコード大賞』歌唱賞を受賞。『第25回NHK紅白歌合戦』も今度は文句なくトップバッターとして初出場。
1975年1月30日、第12回『ゴールデン・アロー賞』で「写欲をそそる」という理由で[106]、グラフ賞を受賞[106]。2月15日、西城の初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」が、フランス、スイス、ベルギーで発売され、3月31日に発売されたカナダでは[115][116]、ヒットチャート第2位にランクされた[117][注 11]。5月、3月31日より放送開始の『寺内貫太郎一家2』で、番組名物小林亜星との乱闘シーンの撮影中、腕を骨折。6月6日 - 9月26日、TBS系列のテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月13日公開の松竹映画『おれの行く道』に主演。6月29日、『第4回東京音楽祭』国内大会に出場。「LOLA」を熱唱し、ゴールデン・スター賞を受賞。タバコを吸う写真をジャケットに起用した8月25日発売の『至上の愛』から、 西城自身は「アダルト志向開始」と話している[106]。
1975年7月20日、富士山麓緑の休暇村の特設ステージにて日本歌謡史上初の大規模野外コンサートを開催。これを皮切りに、『全国縦断コンサートツアー』をスタートさせる。8月24日、大阪スタヂアム(大阪球場)にてエンディング・フェスティバル。1975年10月10日、このツアーを追って撮影されたドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ(BLOW UP!HIDEKI)』が公開上映される[118]。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[20][100][119](以降1985年まで11年連続で開催)。この偉業は当時のマスメディアにはあまり取り上げられなかった[120]。「プロマイド」の年間総売上実績1位。以降1976年、1978年、1979年も男性歌手部門1位。歴代通算第1位獲得月数で新記録樹立。
1976年 - 1979年
1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用。この年発売した3曲「君よ抱かれて熱くなれ」、「ジャガー」、「若き獅子たち」は「青年(成年、盛年)の3部作」と呼んでいた。TBS『日曜スペシャル』で企画されたスタジオ・ライブ番組『セブンスターショー』(2月15日~3月28日)、2月29日放映回に出演し、24%を超える視聴率を獲得[121]。ハワイの日本人・日系人向け日本語AMラジオ局「KZOO」で「至上の愛」がリクエストNO.1になったことから[122]、ハワイの音楽関係者に熱心に招聘され[122]、3月19日 - 3月28日、ハワイで、初の海外コンサートを開催(ハワイ・ホノルル インターナショナルシアター)[122]。
1976年6月5日発売の「ジャガー」で着用した臀部の割れ目が見えそうなセクシーな衣装と、「抱いてやるー!」と絶叫するセリフが話題となる[47][106]。この衣装はアンルイスがアイデアを出したもの。この曲で6月27日に開催された『第5回東京音楽祭』世界大会に出場。8月14日、第3回大阪球場コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム'76 "情熱のファンキー・カーニバル"』を開催。10月19日、赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターにて初のディナーショーを開催[106]。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。阿久悠台本・作詩、三木たかし作曲、浅利慶太演出による劇団四季『わが青春の北壁』(日生劇場)に主演[123][124][125]。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHK『ビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。
1978年2月9日、元旦発売の「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。この曲の反響でライター・ボヤ事件起こる(後述)。
1978年2月14日、日比谷公会堂で行われた『バレンタインコンサート』では新日本フィルハーモニー交響楽団と共演。初共演アーティストは西城であった。[126][127]
指揮者は服部克久氏。6月18日、「炎」で『第7回東京音楽祭』世界大会に出場、外国審査員団賞受賞。
1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。以降1984年までツアー名が「BIG GAME」で統一される。11月3日、第5回日本武道館コンサート『永遠の愛7章』を開催。12月19日、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得した「ブルースカイブルー」で初の最優秀歌唱賞を受賞(『FNS歌謡祭'78』)。阿久悠と組んだ最後の曲。12月20日、収録の半分の6曲の作曲を手掛けたアルバム『ファースト・フライト/西城秀樹』発売[41][106]。12月31日、ピンク・レディー、沢田研二、山口百恵と並び『第20回日本レコード大賞』の最有力候補に挙げられるも逃す。
1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を唄い、「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露。2月21日に発売され売り上げ80.8万枚の大ヒット(年間シングルチャート第7位)。8月18日、第6回大阪球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。8月24日、第2回後楽園球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。11月4日、第6回日本武道館コンサートを開催。第8回『ベストドレッサー賞』受賞。年末の賞レースは『第21回日本レコード大賞』、第12回『日本有線大賞』を除き、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。『第21回日本レコード大賞』は、邦楽が審査対象とされたため、この年、社会現象までなった「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は外国人作曲のカバー曲という理由で審査対象から外れ「勇気があれば」でエントリー[128][129][130]。ジュディ・オング「魅せられて」との激しい大賞争いとなったが敗れた[109][128][129][131][132][133]。
1980年 - 1984年
1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月12日 - 4月28日、日生劇場での特別ロングラン・リサイタル『限りない明日を見つめて』を開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ『坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。1980年時、後援会会員数、野口五郎6万人、郷ひろみ10万人、西城秀樹13万人[134]。 山本寛斎のモデルとしても歌手として登場しコンサート衣装も採用している 1981年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月6日、「リトルガール」で30作目のベストテン入り(オリコン史上初)[135]。続く「セクシーガール」でシングルレコードのトータルセールスが1,000万枚を突破[135](オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成、ピンク・レディー(1979年)、森進一(1979年)、山口百恵(1980年)、沢田研二(1980年)に続く史上5人目)。「セクシーガール」の発売キャンペーンも兼ね『BIG SUNSHINE '81』と題した沖縄・ムーンビーチでのコンサートを開催。海から水上オートバイにて登場。 10月20日、『夜のヒットスタジオ』では、ポール・モーリア・グランド・オーケストラの演奏で「サンタマリアの祈り」を歌唱した。[136] 1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。とんねるずは度々西城の家に泊まりに来ていたという[137][138]。とんねるずが音楽活動をするようになったの切っ掛けは、この番組が音楽系のスタッフによって作られていたためで[139]、またとんねるずの『オールナイトフジ』(フジテレビ)抜擢も『モーニングサラダ』に出ていたとんねるずを見た秋元康が『オールナイトフジ』のディレクターだった港浩一に推薦したもの[140]。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。
1981年8月、第8回広島平和音楽祭が開催された。その際、広島県出身の西城はリトルガールを熱唱。またこの日の為に作られた楽曲「天と地の架け橋」も披露した。
1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として「南十字星」が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。
1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは「ギャランドゥ」。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。 1984年2月4日 - 3月25日、「低髄液圧症候群」という病名で東京女子医大病院に入院。松田聖子も見舞いに訪れたこともある[141]。4月1日、「Do You Know」で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。
1984年5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。共演は鳳蘭。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。20歳代最後のコンサートツアー『JUST RUN』は、コンピューターサウンドにレーザー光線、ターボサウンドスピーカーと当時のハイテクを駆使したステージ。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。
1984年秋に横浜の自宅スタジオから半径500mで聴取可能なFMミニ放送を行う[142]、深夜「こちらモモタロー」のコール・サインで始まり、「お待たせしました。今夜も横浜に住む女性だけに向けて、キャピキャピ放送をお聞かせしましょう。お相手は桃太郎です」と続き、即興風の音楽演奏や自身作曲の歌を歌ったり、物まねなどを流した。最初は毎日放送したが、家の周りに車が何十台も集まって近所迷惑になったため、西城が寝付かれない日、友人が集まって騒ぐ日など、放送日は西城の気まぐれで10日に一回程度になった[142]。
1985年 - 1994年
1985年1月19日、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -』を開催。今までのシングル50曲を全部歌った。2月、『つくば万博』開会式で、そのテーマ曲「一万光年の愛」を当時の皇太子明仁親王(現:明仁上皇)と礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[143]。
1985年9月7日 - 9月11日、SFX特殊メイクや西城と同一の顔のマスクを着用したダンサーが登場する『MISTY TOUR』を開き、香港・シンガポール公演でも話題になった。このツアーのメインアルバム『TWILIGHT MADE …』は西城本人がプロデュースを手掛けている。[144]岡村右は共働。角松敏生が楽曲提供で参加。ジャケ写に西城の姿を使わず、アーティスト色を出した。11月21日、「腕の中へ〜In Search of Love〜」でバリー・マニロウとのデュエットが実現(アーティスト名は「Hideki Saijo & Barry Manilow」)。
1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開。
1988年、NHKみんなのうた「陽光の中の僕たち」歌唱。同年、織田哲郎『DAY and NIGHT』に収録されている『Dreamer』を、西城がテレビの音楽番組でカバーして歌った。織田はこの事を知り、一時は諦めかけていた音楽家としての人生をやり直す気持ちになったという。後の『Rock Your Fire』や『MAD DOG』に繋がる。[145]
1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』の公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演を開始(以降3年連続)。
1990年、クイーン・エリザベス2世号(香港から日本へのクルージング)で船上ディナーショー。 1990年には地方興行のギャラが日本のポップス歌手で最高額になった[注 12]。
1991年4月、フジテレビ系のアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当。この曲は日本のスカ/レゲエ、初めてのヒット曲といわれる[147]。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD』を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で行う。この頃からロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートを観賞に訪れ、「ロック・アーティストの憧れのスターNo.1」と言われるようになる[注 13]。 1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』で時代劇ドラマ初主演。
1993年3月、『STOP AIDS CONCERT』(横浜文化体育館)出演・プロデュース。西城の呼び掛けでもんたよしのり、寺田恵子、沢田知可子、男闘呼組、海外からディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーチストが参加。
1994年、主演ミュージカル『ラヴ』の公演。12月31日、10年ぶりに『第45回NHK紅白歌合戦』に出場し、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌う。
1995年 - 1999年
1995年1月17日に発生した、阪神大震災の被災者のために数度神戸に足を運び、チャリティー募金も行なう。これが縁で神戸市民から「元気づけられたので是非」という要望があり、2年続けて『第46回NHK紅白歌合戦』で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌うことになった。
1995年3月9日、東京・渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日・6日、後述の通り桑田佳祐からの電話でのオファーを受け[148]、サザンオールスターズのコンサート『スーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行[149]。
1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル「round'n'round」で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。 1997年1月21日、25周年を記念して、デビューから現在までのヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。7月24日、子供の頃、ヒデキを見て育ったヒデキ大好きロックミュージシャンが結集して製作した『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!』が発売される(参加ミュージシャンは、THE HIGH-LOWS、Gackt、橘高文彦、松岡充、真矢、ROLLY、MILLENNIUM EVE、サンプラザ中野、ダイアモンド☆ユカイ、森重樹一など)[47]。
1997年8月6日、元X JAPANのYOSHIKIのプロデュースによる「moment」を発売。プライベートな飲み会の席でプロデュースを依頼したところ快く引き受けてくれたという。ロサンゼルスのYOSHIKI所有スタジオでレコーディング。
1998年4月、NHK総合『青春のポップス』(レギュラー司会)が始まる。
1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ・機動戦士ガンダムシリーズ『∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは「Bailamos〜Tonight we dance〜」(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。同年の第50回NHK紅白歌合戦 では、宝塚歌劇団月組をバックに同曲を歌う[150]。
2000年 - 2009年
2000年(平成12年)3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。シドニーオリンピック・サッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売の「時のきざはし」は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。
2001年(平成13年)3月、45歳のとき、芸能生活30周年を記念した独身最後の写真集 『H45』を発売[151][152]。"ギャランドゥ"全開ショットやヌードを含むセクシーでワイルドな秘蔵写真が満載[151][153]。6月30日、大阪府在住の一般女性と電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画『ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。
2002年(平成14年)4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場・梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。
2003年(平成15年)6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。9月1日 - 9月13日、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』出演。
2004年(平成16年)3月6日、NHKミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』に出演[154]。7月2日、当時西城が在住していた川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)2部(当時)の川崎フロンターレ - 横浜FC戦(川崎市等々力陸上競技場で開催)においてハーフタイムショーに出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱[155]。以後、2007年[注 14]を除き2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演[156]。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)を発売。
2005年(平成17年)7月1日、パチスロメーカー「オリンピア」からタイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリース。
2006年(平成18年)9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」を発売。
2008年(平成20年)5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子、早見優等と共に、東京・中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。
2009年(平成21年)3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。
2010年 - 2018年
2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。6月10日、NHK Eテレ『時々迷々』「ヒデキに会いたい!」が放送される[157]。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。
2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。
2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。
2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。
2015年4月11日、東京ビッグサイト(東京国際展示場・東6ホール)にて開催の、東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞[158]。 2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京都港区・赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした[159]。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園[160]。
2016年2月13日、西城が監修したソフトバンク「Y!mobile」の広告が放送開始[161]。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュース。川崎フロンターレの川崎市記念試合応援ハーフタイムショーは死去前年の2017年まで続けられており、亡くなった2018年は本人不在の等身大パネル及び過去の歌唱音源、映像での参加ながらもサポーターから熱く迎えられた。
作品
業績
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西城は「新御三家」の一人として、今日に繋がる男性アイドルの原型を作り上げ[15][17][20][43][73][162][163][164][165][166][167][168][169][170]、「歌謡曲の時代」を築いた人物の一人で[4][36][40][47][109][171][172][173][174][175][176][177]、日本のエンターテイメントを切り拓いたパイオニアである[13][31][178][179][180][181][182][183][184][185][186][187][注 15]。また、日本のロックヴォーカリストの先駆者でもある[22][35][47][45][173][182][189][190][191][192][193][194][195][196][197]。ヘヴィメタル誌『ヘドバン』は「ヒデキの絶唱を聴いてロックに目覚めた人、ヒデキの数々のカバーで洋楽に興味を持った人、グラハム・ボネットの「Night Games」のカバー「ナイトゲーム」を聴いてメタルに目覚めた人もいる。メタルがまだ世間という見えない敵と戦っていた時代に、僕らをメタルという重く閉ざされた門の前まで連れていってくれた“メタル歌謡”の生みの親」と評している[21][181][198][199]。 西城の功績として、日本の音楽史に於いてエンターテイメントの世界に、洋楽的、ロック的な方向性を取り入れたことがある[15][16][43][188][193][194][200][201][202][203]。西城自身、「それまでの人が演歌かムード歌謡だったから、今でいうJ-POPの原型を作ったという自負はある」と述べている[204]。
日本の男性アイドルの「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされ、西城は大きいだけであまり特長がないと見なされた[31][43]。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった[13][15][31][40][205]。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた[15][19][69][173][181][206]。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた[67][207]。派手でセクシーなアクションと長身かつ、長い脚が映えるビラビラコスチュームがそのイメージを決定づけた[26][31][111][208][209]。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた[31]。
オフィシャルサイト「Music」のファッション解説の充実でも分かるように[112]、西城は男性ファッションの於いても先駆者だった[162][169][193][210][211][212][213][214]。西城の母親は洋服の卸の店を経営していて[51]、子どもの頃から手伝いをさせられたため、服の生地などにも詳しく服が好きだった[51]。このためステージ衣装にも自身の意見を反映させることが出来た[26][210][215]。「自分のことを西城秀樹の一番熱心なプロデューサーだなって思うときがある」と話していた[211]。専属のスタイリストとデザイナーと西城で衣装を考えるが、西城の注文は難しくデザイナー泣かせだったといわれる[211]。ファッション雑誌から自分の気に入ったデザインや色合いの服を選んで[215]、それをさらに自分のオリジナル風に作り変えるスタイルで[211]、1973年の『情熱の嵐』の衣装は、エルメスのスカーフでブラウスを作らせ[216]、間奏で服を破く演出を自ら考案[93][216]、テレビで数回披露しインパクトは強かったものの[93]、経費がかかり過ぎると事務所に怒られ、本当に破るのではなくホック留めにして剥がす男っぽさを強調するアクションに変更した[93]。当時エルメスは女性ブランドのイメージで男性で愛用する人はほとんどいなかった[216]。このエルメスのブラウスを作った人は後にピンク・レディーの衣装を担当したデザイナーであった[216]。韓国サムスングループ創業者・李秉喆の孫でCJグループの副会長・李美敬(イ・ミギョン)[217] は、1970年代に録画してもらって観た『レッツゴーヤング』の西城のマフラー姿[169] に「これがアイドルか」と感動したと話している[218]。当時の韓国では10代が"同世代"と感じられる芸能人はいなかったという[218]。李美敬は2006年のインタビューで「日本の40代女性がヨン様にのめり込む理由は、アイドルを追いかけた少女期の感動体験が残っているから。私も実感したから分かるの」と述べている[218]。西城は1979年のベストドレッサー賞を受賞しており、プライベートでもよく一人で服を買いに行った[211]。1970年代半ばによく着用したMEN's BA-TSUは[112][211]、西城が原宿を散歩中に店の服を気に入り、自身でステージ衣装を発注したものであった[211]。またセーラーズや[219]、アルマーニを最初に着用した日本の芸能人で[211]、「ボクがデビューして5、6年は、ファッション界も個性派デザイナーが出始めたころだったから、刺激があって衣装選びも楽しかった」「アルマーニはボクが着てから芸能界に広まった」などと話している[211]。『BIG GAME'80 HIDEKI』のジャケット写真[220] に映るシルバーのジャンプスーツは、クイーン御用達のショップにオーダーしたもので、勿論フレディ・マーキュリーを意識したもの[13][221]。
歌手が楽曲に合わせた振り付けで歌唱をするようになったのは1970年代に入ってからで[222]、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアが、女性歌手では山本リンダ、男性歌手では西城であった[26][166][173][185][222]。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「どうにもとまらない」、西城に激しい振り付けが導入された「チャンスは一度」は、いずれも1972年[47][222]。この年はNHKのカラーテレビ契約数が、白黒テレビの契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた[222]。松永伍一は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"東海林太郎型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『見世物』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている[223]。塩沢実信は西城を「ダイナミックなアクションと絶叫型の唱法で、昭和四十年代から五十年代にかけて、著しい活動を見せた歌手」と評している[224]。西郷輝彦は、西城が間奏でいきなり上着を脱ぎ、ステージから客席に飛び降りた演出にマネージャーから「上着を脱いだらくるくる回して客席投げて、それから飛び降りろ」と怒られているのを見て、西城に専門の振付師がいて演出をしていることに大きなショックを受けた、自身のシングル「情熱」の後、秀樹の新曲が「情熱の嵐」で「ああ時代が変わるんだな」と思った瞬間だった、などと話している[225]。西城は音楽を「聴かせる」から「見せる」にシフトさせた歌手であった[179]。1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付き[101][226]、1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した[227]。また指さすアクションもたちまち大流行した[101]。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた[109][227]。1974年、「薔薇の鎖」でスタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れる[15][35][40][71]。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちがホウキを使ってこのアクションをよく真似した[45][31][162][181][228][229]。小っちゃい子までが振りをまねしたがるので、おもちゃのマイク・スタンドが売り出されたほど[230]。新御三家は女性から圧倒的な人気を得たが、西城だけは小学生の男子のファンも多かった[45]。ヒントにしたのはロッド・スチュワートとジェームス・ブラウン[21][71]。特にロッド・スチュワートがコンサートでアルミのマイクスタンドを使っていると知り、すぐに10本を特注[21][169]。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり[71]、翌年にはヤマハが生産するようになった[21]。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた[31][71][117][184]。最初はアルミ製スタンドにテレビ局のマイクをテープでぐるぐる巻いてスタンドに固定した[187]。このため、当時の生放送の歌番組で出番が近づいた歌手が、テープを剥がしているうちに、自分の歌の時間が来たり[187]、西城が生放送でマイク・アクション中、棒を折ったこともあった[187]。
一の宮はじめは『チャンスは一度』から振付を担当し[231]、「薔薇の鎖」までのアクションは一の宮の考案だったが[230]、次作品の「激しい恋」から、一の宮と西城に、西城のマネージャーを加えた三人でアクションをディスカッションするようになった[230][232]。「薔薇の鎖」が大受けした後だけに「いい加減なものは通用しない」、また「新しいものを作りださなくては!この曲を10代の記念碑にしたい」と西城の意気込みが凄まじく、自身でハンドマイクを使った激しいアクションを提案した[230][注 16]。「激しい恋」のアクションも話題となり、アクション・ブームを巻き起こした[178]。以後、新曲が出るたびに歌唱だけでなく、アクションや奇抜な衣装にも注目された[178][187]。脱ぎ捨てた上着がカメラにドパッと掛かり、生放送の画面がしばらく暗黒になったこともあった[187]。1973年12月に発売した『愛の十字架』あたりからテレビの音楽番組のディレクターから、「いままでの日本のポップスになかったものを売ってきている。すごい企画力、アイデアだ」[187]「デビューの頃から比べて、ぐっと良くなった。日本の歌手は、表現力が乏しいからアクションはあった方がいい」などと評価を上げた[187]。西城は派手な衣装や振り付けで視聴者を楽しませた「テレビで見せる音楽」の時代を象徴した歌手であった[166][186][208]。「魅せる歌手」が急増したのは"西城以降"である[26][110][185]。西城のブレイク直後にデビューした弾ともや(生沢佑一)は、最初から「西城秀樹を目指す」と標榜した[233]。
1974年の第25回NHK紅白歌合戦初出場では、白組の先頭打者として怪傑ゾロの衣装で上半身一部シースルー[167]、アイドルなのに顔を隠して登場するという前代未聞の演出を行い『傷だらけのローラ』を熱唱[112][179][182][234][235]。ステージ上で、日本のテレビ音楽番組として初めて『CO2ボンベでドライアイス・スモークを噴出させる』演出を行った[39][179][234][235]。これも西城自身のアイデアで[182]、アメリカのTVショウでティナ・ターナーがこの演出をやっているのを観て、急遽紅白に間に合うようにボンベをアメリカから取り寄せた。それまでのドライアイス演出は、雲海のように下に這わせて幻想的な画を作ることを目的としていた[236][237]。至近距離からドライアイスを噴射させる演出はこれが初めて[237]。翌、1975年11月3日に日本人ソロ歌手として初めて行った日本武道館公演で同じ演出を行い[119]、煙にまかれて窒息寸前となった[106]。
1978年1月1日に発売された「ブーツをぬいで朝食を」は、同年1月19日にスタートした『ザ・ベストテン』でピンク・レディーの「UFO」に続き、同年2月9日に1位を獲得した楽曲で、曲のイントロで西城がライターに火を点け、右頬にかざし、背徳の愛を表現するアクションが人気を呼んだが、3月に子供がそれを真似して火災事故を起こしたと伝えられたことから[204]、3月9日の『ザ・ベストテン』生放送で西城が涙を滲ませながら「僕はもうライターを使うにはやめました。皆さんも、どうか真似をするのはやめて下さい」と訴え、ライターアクションの封印を宣言し、以降、このアクションが披露されることはなかった[112][204][238]。これに続き1978年3月5日にリリースした「あなたと愛のために」でも間奏部分で手鏡を持ち、視聴者に光を反射させるアクションを準備していたが、このミラーアクションも中止になった[204][238]。
この時代のアイドルに最初からダンス、アクションが上手かったものはいなかったが[239]、しかし売れた人はみんな根性とセンスを持っていた[239]。西城もはじめは不器用で踊りもヘタだった。しかし人一倍根性があり、出来るまでやめようとせず、振り付けの一の宮はじめが「ヒデキもうやめよう」と泣きを入れるほど熱心だった[239]。1970年代後半には一の宮がおおまかな動きを考え、あとは西城が自身の創造力で振り付けを作った[239]。1977年に初めて主演したミュージカル『わが青春の北壁』では[124]、プロでも2年かかるといわれた二回転してその場でストップする動きを1ヵ月でマスターした[239]。当時の売れっ子振付師からも絶賛され、土居甫からは「ぼくはヒデキの振り付けをやってないけど、素晴らしいセンス。歌謡界じゃ、いまナンバーワン」、牛丸謙からは「ヒデキはほんとうに素晴らしい。まだ一度もヒデキの振り付けをやったことはないんだけど、ぜひ一度、ヒデキのステージを作ってみたい」などと評価された[239]。
歌唱
- 絶唱型
1973年9月にリリースされた6枚目のシングル「ちぎれた愛」は、曲中「僕の気持ちを信じて、君をはなすもんか、好きだ、好きだよ、好きなんだよー!」とインパクト絶大なセリフが挿入された最初の作品で[226]、喉の奥底からハスキーな歌声をしぼり出すように歌い上げ、初めてオリコン1位を獲得[26][40]。180cmを超える長身から発する歌声は圧倒的で[20][224]、その歌唱法は「絶唱型」[4][36]、のちに「絶叫型」といわれた[35][240]。理由については「単に恥ずかしく思い切って歌ったことと、やはりロッド・スチュワートやジョー・コッカーの影響はあると思う」と話している[21]。長身をくねらせ、長い髪を振り乱して、全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、激しいアクションとともに、それまでのアイドルに見られなかったもので[240]、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、女性ファンを熱狂させた[20][40][117][178][241]。「傷だらけのローラ」では、新人賞も紅白も出場できなかった前年の悔しさが募り、「早く自分のスタイルを確立したい」と焦り、アメリカで流行っていたシャウト唱法を加えたい」と意見した[93]。
西城秀樹ショーでは、西城が歌い始めると女性ファンは、その迫力に圧倒され、泣き叫び、興奮のあまり失神し、舞台に上がり西城に触ろうとして警備員に体当たりされたり、極度の興奮と緊張で過換気症候群に陥って失禁して、30分ほど経つとアンモニア臭が会場内に漂ったといわれる[242]。西城は行儀がよかった日本のアイドルシーンにあって、初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者だった[19][20][40][165][193][240][243][244][245]。根源的なビート感覚を携えてロックヴォーカルと歌謡曲の融合をごく自然に達成したのが西城だった[34]。広音域だが、音圧を充分に伴う実声で、高音でもシャウトでき、踊っても叫んでもリズムも音程も髪型も乱すことなく、8ビートを体現した新たなタイプのシンガー[16][34][165][207]、セクシー&ワイルド系アイドルであった[240]。
大活躍だった1974年の暮れに『週刊TVガイド』は西城の特集を組み、「新ご三家と騒がれた野口五郎、郷ひろみに、二歩も三歩もリードし、華麗なるアクション入り絶唱歌謡は、茶の間のチビッコからお年寄りまでのハートをキャッチ、歌謡界の大型台風になった」と評した[246]。「絶唱型」の楽曲には決まってセリフが入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた[247]。セリフ入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。
- 歌唱力の評価
西城の歌唱力は今日評価が高く[17][169][172][200][208][247][248]、所属事務所の後輩でもあった岩崎宏美は西城の特徴的な歌声について「誰にもまねできないでしょうね」と評した[249]。松任谷由実は「西城秀樹っていう人は圧倒的にスターだったと思う」と述べ、スター性の根源には「声の素晴らしさがある」と話し「歌手は声がその運命を100%以上決める」と持論を述べ、「斜のかかった強い少年声というのか..大好きな声です」と話している[250]。ミッツ・マングローブは「ヒデキは私にとって最初の"ヒーロー"でした。自分の本質とは真逆の、快活で社交的な男子性の塊みたいなヒデキに対し、それでも無抵抗に心躍ることができたのは、やはりその歌声と健やかな大衆性が圧倒的だったからに他なりません」と述べている[166]。三原じゅん子は西城を「アイドルを超えた歌唱力の持ち主」[165]、黒柳徹子は「『ザ・ベストテン』の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」[251]、鴨下信一は「歌唱力は同時代の誰よりもあった」と評している[252]。鴨下は「ヒデキのひとつ前の御三家の一人・舟木一夫は歌についてはなかなかの理論派だが、ヒデキについてこう語っている。"秀樹の強みは唄い方の構成力が優れているからだ。『YOUNG MAN』の成功はアクションだけではない。でなければ、あんな単純で、そのくせ全部唄うとひどく長い歌はモタないよ"。また、阿久悠に当時の歌番組が歌を短くしようとばかりすると指摘されグウの音も出ず。負け惜しみに『どうやってもカット出来ないような歌を作ればいいじゃない。『魔王』みたいな、ずーっと曲が展開し続けて切れないような。ああいうの書いたら』と言ったら阿久が『よし!たかし(三木たかし)に電話しよう。秀樹の新曲は『魔王』の形式でゆこう!』と長大複雑な『ジャガー』が出来た。皆が秀樹の歌唱力、特に歌の理解力と唄い方の組み立て、つまり構成力は天賦のものと理解していたことがよく分かる。この理解力と構成力こそ、彼がドラマに進出した時の武器でもあった」などと論じている[252]。
西城秀樹のハスキーな声でシャウトする歌唱が、後続の多くのミュージシャンに影響を与えた理由について[69][191][253]、宝泉薫は「ヒデキの声がロックのテイストにほどよく合っていた。一般にロックは"不良の音楽"などと言われるが、あまり"ドス"が効いていてはいけない。求められるのはあくまで少年ぽいワイルドさ。また毎日のようにテレビに出て歌いまくり、派手なアクションに独特のしゃがれ声でシャウトする姿が当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えたのだろう。ヒデキ後に売れたロックヴォーカリストは、みんなヒデキ的資質の持ち主なのである」などと論じている[196][254][255]。内田樹は「西城の歌唱法は、ポール・アンカの平尾昌晃的解釈による平尾の直接の後継者。以降は西城が原点。西城のあとはあの歌唱法がすごく多い、皆同じ」などと持論を述べている[256]。とりわけロック色が強い西城の豊かな声量と歌のうまさ、迫力は際立ち、ぐっと海外のポップスに近づけ、J-POPに繋がる流れを作ったとも評される[186]。
ファン参加型ライブ
- コールアンドレスポンス
ブラス・ロック要素を取り入れた5枚目のシングル「情熱の嵐」では、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」での掛け合いをヒントに、作曲の時点で、わざと隙間を作り「ヒデキー」コールを想定した[25][31][47][92][226]。これは西城自身が「ファンの子がキャーキャー騒ぐだけで歌を聴いてくれない。どうにかならないか」と作曲の鈴木邦彦に相談して取り入れられた[203]。予想通り「君が望むなら」「ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入り、舞台と客席が一体化する感触を自身でも感じ取った。女性ファンの圧倒的なパワーに曲のアレンジが変更を余儀なくされるケースもあり[176]、こうした歌手とファンによるコール&レスポンスのスタイルを本格的に歌謡曲に持ち込んだのも西城が最初[15][31][47][108][168][173][257]。コールアンドレスポンスは近代アイドルのライブにおけるミックスの原型とも言え、男性アイドルへの女性ファンの熱狂に、ひとつのスタイルを作り上げた[31][47]。
- 人文字振り付け
1979年「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーしたもので、同曲は西城自身が探し出した[31][40][132][169]。レコーディングに訪れたロスでカーラジオから流れる「Y.M.C.A.」に、「これはいい曲だぞ」と心を奪われた[245][258][259]。すごくノリがいいし、ステージでやってみたいと帰国後、試しにコンサートで「Y.M.C.A.」を原曲の英語で歌うと観客の反応も良かった[205][260]。しかしヴィレッジ・ピープルは同性愛(GAY)を象徴するバンドとして有名で、「Y.M.C.A.」はゲイの応援歌として認識されていた[260][261][262][263][264]。ヴィレッジ・ピープルが人気グループになったことでアメリカでもゲイが市民権を持つに至ったといわれた[263]。西城は「この曲をカバーして、シングルを出したい」と、レコード会社に直訴するが「アイドルがこんな歌を歌えるわけ無いだろう!」と、担当者は全く取り合ってくれなかった[265][注 17]。同性愛への偏見が大きかった時代背景もあり、70年代の歌謡界には「洋楽の日本語カバーはあたらない」というジンクスもあり[40]、売れっ子歌手がローテーションシングルとしてリリースするのはオリジナル曲に限られ[40]、洋楽カバーをシングルリリースするなど有り得ない時代[132]。レコード会社や所属事務所の力が圧倒的に強い時代でもあり、歌手本人の希望が通ることは少なかった。西城は絶対に諦めず、ゲイの歌と批判的な意見を「良い曲だから大丈夫。一生懸命歌えば、みんなわかってくれる」と周囲の反対を押し切り[132]、英語が堪能だった当時のマネージャー・あまがいりゅうじ(天下井隆二)に“若者に向けた応援歌(青春讃歌)”に歌詞を変えて[40][260]、アレンジも自身が歌いやすいように変更[259]。原曲のヴィレッジ・ピープルは振り付けがなかったが、"Y.M.C.A."の4文字を全身で表現するという人文字振り付けも西城自身が考案[31][261]。題名も「ヤングマン」として西城自ら何度もレコード会社に足を運び、その念願が叶って「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」として発売された[258][264]。リリース直後からたちまち火が付き大ヒットし、周りの態度も一変した[259]。
1977年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界的な大ヒットで、海外のトレンドになったディスコミュージックにいち早く目を付け[40][162][178][184][267]、日本の音楽文化に取り入れた西城独自のエンターテイメントに徹した観客参加型のパフォーマンスは社会現象にもなった[117][180][185][227][267][268][269]。自身最大のレコード・セールスを記録しただけでなく、『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の9999満点を2週にわたり獲得する[43][47][258][75]。それは初期から西城とそのスタッフが目指した"舞台と客席を一体化させる"参加型のライブが、究極の完成を見た瞬間であった[31][110][204][270]。客席とアーティストが一緒に踊って盛り上がる観客参加型のライブパフォーマンスは『ヤングマン』に端を発する[132]。青木はるみは「秀樹は大観衆がみんなで『ヤングマン』を歌って手を振り、初めて人間の手がこんなにもきれいなものだと知った、と言っていた。『ヤングマン』は新しい型の若者の曲であるとともに新しい喝采の方法を創り上げたのだと思う。手は単に拍手という消極的な意思表示にとどまらず、もっとアクチュアリティのある参加の表現となった。あの曲を完成させるのは動く手のマックスなのである」などと述べている[271]。ピンクレディーや海援隊、渋谷哲平[263]、布施明[263]、麻生よう子[263] などフォロワー作品も登場し[40][40][272]、ディスコカバーブーム[31][263]、及び、60年代前半以来久々の洋楽カバーブームの火付け役になった[273]。金子修介は1993年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をモチーフにした映画『卒業旅行 ニホンから来ました』を撮った[227]。昭和を代表するダンス・ミュージックとして[274]、平成、令和を通じて歌い継がれる国民的楽曲となった[132][260][261][265][267][275]。
「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」がヒットして以降は西城のいろいろな提案が通るようになり、自身も好きなことをやっていきたいと思うようになった契機にもなった。同じく観客参加型の応援歌・第2弾として発売された「ホップ・ステップ・ジャンプ」、バラード曲の「勇気があれば」も30万枚を超えるヒットを記録し、『第21回日本レコード大賞』は「外国人の作曲作品は審査対象外」となるルールもあって逃したが、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを受賞。さらに1980年には観客参加型の応援歌・第3弾として「俺たちの時代」を発売している。「みんなで何かをする、ファン参加型ライブの素晴らしさを実感した。」と、多くの場所(1979年の『ミュージックフェア』等)で語っていたように、西城自身の強い意思で行われ、それまでの歌謡界の固定観念を覆す先駆けとなった。
スタジアム・コンサート
21世紀突入後では一般的になった、スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城が最初であった[13][31][162][178][276][277]。1974年夏、日本で初めて野球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く(グループでの日本初は1968年のザ・タイガース)。「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した[19][35][40]。観客2万5000人[120]。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円[278]。1回にかかる費用は当時の金額で6000万円[278]。満員になっても儲けが出ることは無かった[278]。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や[31][180][276][279]、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し[35][178]、日本での初導入とされるレーザー光線や[36][38][117]、衣装に電飾を仕込む[38] 演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け[注 18]、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった[36][278]。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け[281]。豪雨のカーテンに包まれ、雷鳴が響きわたる中、稲妻に照らし出されて[106][131][282]、キング・クリムゾンの「エピタフ」を熱唱した1979年の後楽園球場では[45][23][108][117][131][283][284]、マイクからビリビリ感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」[13]、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている[285]。『月刊明星』は「両腕をかざしステージに立つ秀樹に"超人"を見た」と評した[106]。
大阪球場は1974年より1983年まで10年連続と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。「ペンライト」は西城のコンサートが発祥[20][43][162][180][278][286][287]。サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て[184]、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降「ペンライト」というものを、観客が用意するようになった[162][276][184]。3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」という記述が[280]、1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる[288]。
1975年に西城のマネージャーが阿久悠に「ヒデキを少年から青年にして下さい」と依頼したことから[108][177][203][289][290]、1976年に阿久悠作詞による3部作を含め、以降カバーも含めてシティ・ポップ/AOR風の楽曲にも取り組むが[47][56][106][188][195][220][291]、阿久は依頼に応えるため、1975年の大阪球場ライブを鑑賞した[290]。「グラウンドでは発煙筒が焚かれ、パイプで組立てられたステージにはイルミネーションが走りまわっていた。彼は何十メートルかのクレーンに吊るされて、サーカスの花形か、スーパーマンのように歌っていた。ぼくはそれを、脱新御三家の壮大な儀式だと思った。時代はまさに、華やかさのためにはあらゆる無駄を惜しまない傾向になっていて、一人の若い歌手の一夜のショーのために、市街戦ほどのエネルギーが費やされているのであった。それはバブルの花火であったかも知れない。興奮したぼくは、西城のマネージャーに、ナチス・ドイツの人心掌握術を広告技法の観点で書いた本を渡した。そしてテレビサイズからの脱出の意欲に燃えて、格闘家か体操選手のように応える西城秀樹に可能性を覚えたのである」などと感想を述べている[290]。
大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上に在るパークスガーデンには、大阪球場を本拠地にした南海ホークスの元選手たちの手形モニュメントが設置されているが、その中に難波及び大阪球場にゆかりのある人物のひとりとして西城秀樹の手形とサインが入ったモニュメントも設置されている[292][293][294]。
後楽園球場での初ライブ『BIG GAME'78 HIDEKI』は1978年7月22日[295]。ソロシンガーとしての初の開催で、以降、1981年まで毎年コンサートを行い計4回。後楽園球場の最多公演アーティストとなる(後楽園球場#コンサートを開催したミュージシャン)。マイケル・ジャクソンが1987年9月から初のワールドツアー(バッド・ワールド・ツアー)を日本から行う際、マイケルのスタッフが後楽園球場の演出に「西城のスタッフを借りたい」と申し出たといわれる[179]。1978年夏の全国縦断ツアーでは、5回目の大阪球場の他、三重県合歓の郷(7月9日)、千葉県九十九里浜特設ステージ(7月26日)で野外ライブを行った[295]。
惜しまれるのは1977年夏に"全国球場ツアー"の計画があったこと[125][280]。大阪球場は勿論、北は札幌から南は沖縄まで、6つの都市の球場を使ってコンサートをする予定だった[125][280]。当時の文献にも「全国6大都市の野球場でコンサート予定」と書かれている[125]。しかし越路吹雪の日生劇場でのリサイタルを観て感激したこともあり[125]、1977年夏は初めてのミュージカル『わが青春の北壁』を選んだ[123][124][125]。浅利慶太から「演出家としての目で西城を見れば、歌がうまいこと、そして身体全体で感情を表現できること、これは今の歌い手の中では抜群です」と評価されたが [296]、これが7月のほぼ丸一ヶ月の公演で、当然リハーサル期間もあり、準備面でも"全国球場ツアー"は断念したものと見られ、この年の球場コンサートは大阪球場だけに留まった。翌1978年からは東京の後楽園球場が加わり、大阪球場と合わせ東西での球場コンサートになったが、全国の球場ツアーはその後も実施されることはなかった。「舞台の発声法を会得し、すっかりノドが強くなった」と話しており[106]、ミュージカルで得たものも大きかったと思われるが、音楽史的には"全国球場ツアー"をやった方が良かったかもしれない[注 19]。
西城はこの時代のアイドルとしては珍しく毎年のようにライブ・アルバムを発売している[47]。
野外ライヴ
1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた[35][108][118][300][301][302]。観客3万人[303]。当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれており[301]、元祖夏フェスともいわれる[304]『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』より二週間早く、ソロでの観客数万人規模の野外ライヴとしては、最も早い事例と見られる。本コンサートを皮切りに同年8月30日まで続いた『全国縦断サマー・フェスティバル』の模様とステージを離れた西城のプライベートタイムを細大もらさずフィルムに収めようと松竹と日本テレビの二つの撮影クルーが社を挙げて追いかけた[303][305][注 20]。この松竹版がドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』で[118]、1960年代にGSのバンドなどを主役とする歌謡映画がよく作られたが、このようなアイドルのひと夏のツアーを追ったドキュメンタリー映画が全国ロードショーされるのは珍しく[307]、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評された[307]。日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で『西城秀樹日本縦断20歳の絶唱!』「35メートルの秀樹宙吊りの熱唱▽完全取材!北海道から沖縄まで秀樹魅力の全て▽告白!母が語る秀樹生い立ちの秘密▽秀樹オンステージ」というタイトルで放送した[305]。
鹿児島県最南端の島・与論島の海開きに合わせ、1979年3月31日に当地の海水浴場特設ステージでコンサート[308][309][310]。島外からのファン700人を含めた観客3000人[308]。発売間もない「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ステージを降り、砂浜でファン全員で西城の周りを囲み一緒に歌った[308]。「ホップ・ステップ・ジャンプ」のジャケット写真はこの時撮影されたもの[112]。
ロックバンド
1970年代のテレビの歌番組は基本的に生放送・生演奏で[311][312]、出演歌手は番組専属のオーケストラ (フルバンド)のバック演奏で歌っていたが、当時はよりロック色の強い路線だったこともあり、レコードよりもっとハードな音を出したいと[19]、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため[311]、早く自分のバンドを作りたいという希望があった[42][115][311]。1974年2月に日本武道館で挙行されたフェイセズの来日公演を鑑賞に行った際、その前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け[42][202]、自身のサポートバンドを要請[42][182][243][283][313]。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「SHOGUN」での活動が忙しくなった1979年まで『夜のヒットスタジオ』などのテレビの歌番組や西城のライブでバックバンドを務めた[41][42][193][202][243][314]。「藤丸BAND」という名称は(仮)の名前だった[115]。
西城はアマチュア時代と同様、最初からロックバンドをバックに歌うことが希望であったが[311]、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた[311]。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間とディスカッションしたい」という希望がようやく叶った[115]。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲もテンポ、リズム感が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた[311]。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、準備にも音合わせにも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた[311]。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという[311]。
1970年代前半にロックバンドが全国ネットのテレビ番組に出演することはないに等しい状況であったため[163][313]、「後の世良公則&ツイストやもんた&ブラザーズなど、ロックバンド確立の切っ掛けは、藤丸BANDや沢田研二さんの井上堯之バンドが作ったと思う」[311]「音作りなんかもボクや沢田さんが歌謡界を開拓したんじゃないかと思う」と語っている[311]。ダイアモンド☆ユカイは「西城さんは時代が違えば、ZIGGYやレッズみたいなバンドをやってたとおもうよ」、森重樹一は「ロックバンドという選択肢がない時代、プロとして歌うなら歌謡曲の歌手になるしかなかった。それで大きな成功をおさめたんだからね。今、そのすごさがわかるね」などと述べている[283]。
ロックヴォーカリスト先駆者
新御三家の活躍は、男性歌手による歌謡曲のあり方を大きく変えた[253]。長髪で、ロックと距離感の近い楽曲を激しいアクションで歌う彼らの佇まいは、それまで歌番組のメインだったスーツ姿で直立不動の歌手たちとは全く違う様相をしていた。彼らの存在は後の日本のロックにも多大な影響をもたらした[117][173][253]。ことに80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、新御三家や沢田研二にテレビで触れたことを"音楽のめざめ"とする者が多く、そこから洋楽を含めたロックへと嗜好を広げていったケースが少なくない[190][45][191][193][253][315]。メインストリームに於ける国産ロックヴォーカリストたちのスタイルは、新御三家と沢田研二の4人の要素を様々なバランスで成立させているのである。ことに幼少期から目や耳にしていた彼らの歌唱やステージングのスタイルが、自然に刷り込まれている。中でも西城のヴォーカルスタイルは、大音量で演奏するバンドサウンドに埋もれずに絶叫することを強いられる立場にある後続バンド世代にとっては、ロバート・プラントやイアン・ギランよりもずっと身近な手本であった。「薔薇の鎖」に代表されるマイクスタンドを駆使した派手なアクションに魅了された少年たちは、後にその向こう側にロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの姿を見つけたのである[253]。週に60本あったといわれる[70] 歌番組華やかなりし70年代から80年代前半にかけて、毎日のようにテレビに出て歌いまくった西城は[47]、"不良の音楽"だったロックを"青春歌謡"として定着させた[40][47][173][196]。自ら創始したマイクアクションに、独特のハスキーボイスでシャウトする姿は、当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えた[40][47][56][108][191][193][194][196][208][213][241][316][317][318]。女性ファンは勿論、チビッ子たちもヒデキを通じて“ロック”を無意識のうちに体感した[47]。さくらももこが『ちびまる子ちゃん』の中で西城を盛んに取り上げ、それが再評価にも繋がった[192][196]。90年代初頭にヒデキの再ブームがあり[18][188][286]、ヒデキを聴いて育った世代のロック・ミュージシャンが台頭してヒデキへのリスペクトを公表したり[47][286][319]、テレビ業界内にもヒデキを聴いて育った世代の混入率が高くなり[18]、またものまねの恰好のネタだったことから[286]、植木等、美川憲一、山本リンダと共に"復活四天王"とも呼ばれ"トレンドスター"になった[286]。現在のような"歌謡ロック"的評価はまだ浸透していなかったため『Asahi journal』では「僕がやってることは歌謡曲でもロックでもなく"西城秀樹"というジャンルなんだよ」と話し[286]、どんな曲でも絶叫型のヒデキ節にしてしまう自己完結的な高飛車な姿勢も、当時の「タカビー」という若者言葉に乗って大ウケした[286]。また『フライデー』のインタビューでは「俺には演歌が主流だった時代にいちばん新しいことをやったという誇りがある。一貫して"西城秀樹"をやり続けて、いまでも全然変わってない。もし今回のブームがなくてジリ貧になったとしても俺はずっと俺のロックをやり続けていたろうね」と話した[100]。
宝泉薫は「はっぴいえんどからYMOへという流れを重視したい人も、内田裕也とかキャロル、矢沢永吉や横浜銀蝿こそ"本物"だ等、色々な主張はあるにせよ、現実には、西城から影響を受けたアーティストたちが"Jロック"のメインで大量に活躍中であり、西城こそ日本のロックのパブリックイメージなのではないか」と論じている[196]。西城の曲を聞いて育った次世代のロック・アーティスト達による1997年の『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS' WANNA ROCK!』は[47][45][117][190][320]、トリビュート・アルバムのハシリであったが[321]、企画を聞かされた西城は、プロデューサーの大島暁美に「何でオレ?」と聞いたら、「日本のロックの元祖だから」と言われたという[317][320]。参加したサンプラザ中野くんは「ロック感覚あふれるシャウトを日本に持ち込んだ初のシンガーだと思う」と評している[322]。ダイアモンド☆ユカイは「"西城秀樹"というジャンルには根本にロックが流れていると思います。BOØWYが出てきたとき、氷室京介さんのボーカルを、みんな最初は"ヒデキさんみたいだ"と思ったはず。ロックを日本語で表現しようと試行錯誤してきたのはキャロルやサザンオールスターズ、Mr.Childrenといった流れがあるけど、ヒデキさんが原点だったんじゃないでしょうか」などと述べている[196][229]。小室哲哉は「うち(TM NETWORK)のヴォーカルのUTSU(宇都宮隆)と、氷室さんと、あと西城秀樹さんと、3人の声が有線で流れてきた時にたまに一瞬、分かんないときがあった」と話している[255]。怒髪天の増子直純は「日本人にとって同じように血の中にあるのは演歌・歌謡曲でしょう。みんな初めて買ったレコードは西城秀樹やピンク・レディーだったはず」と話している[323]。いとうせいこうは西城のファンであることを隠しているといわれる[18]。徳光和夫は「歌謡界にR&Bを持ってきたのがアッコちゃん(和田アキ子)なら、ロックを持ってきたのは西城秀樹ではないか」と評した[247]。1973年に西城が「ちぎれた愛」で新御三家で初のオリコン週間チャート1位を獲得し、『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、『NHK紅白歌合戦』出場が翌年まで持ち越されたのは、NHKから西城のロック色の強い部分が警戒されたためといわれた[227]。
洋楽カバー
"洋楽カバーの第一者"とも評され[35]、アマチュア時代からプロデビュー以降、晩年に至るまで一貫して洋楽カバーをやってきた[45][23]。所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり[21]、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーやバリー・マニロウらと交流し、積極的に洋楽カバーを行った[13][19][20][21][47][117][178][194][220]。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという[19]。小林亜星は「西城さんはロックミュージシャンとしても最高の知識と腕を持っていた」[200]、「海外の歌ぐらいじゃないと満足ができない、表現がしきれない歌手」と評している。
1970年から1980年代にかけて日本の音楽界はまだ事務所やレコード会社の力が強い時代であったが、デビュー二年目の1974年には年間二枚も洋楽カバー・アルバムを発売。西城が当時、自身が好きなように構成を組むことが出来たライブでは[13]、頭から10曲洋楽カバーを演ることも珍しくなく[21][324]、1973年~1974年の最初期のコンサート(リサイタル)では、持ち歌がまだ少ないこともあって前半が洋楽カバー、後半が持ち歌メドレーという構成で、洋楽カバーは「Try a Little Tenderness」「Dio, come ti amo」「Funky Stuff」「If You Go Away」「Just Like a Woman」「Roll Over Beethoven」「Spinning Wheel」「I Believe in Music」「Your Mama Don't Dance」「Love」「Jumpin' Jack Flash」など、ベース仕込みの選曲か、女性ファンは勿論、当時の洋楽ファンでも馴染みの薄いロックンロールやソウル、R&B、ファンク、フォーク、シャンソンなどを歌い[23][114][209][324]、後半の持ち歌メドレーでは『愛の十字架』の後、エンディングの「Que je t'aime」を歌い終えると古代ローマの遺跡のセットが崩れ、スモークの中、十字架に磔にされた西城が天に昇っていくという『ジーザス・クライスト・スーパースター』からヒントを得たと思われるロックコンサートの定番演出を行った[120][324][325]。
1978年にバリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど[21][22][174]、全曲自身でカバー曲の選定も行った[21]。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した[21]。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという[21]。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している[21]。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した[21]。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」[21]、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」[285] などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している[21][181]。
アジア進出
1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[326]。20分のゲスト出演だったが[327]、番組視聴率は90%を超えた[58][328][329]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[329]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[327]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[327]。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[47][134][326]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変なプレッシャーの中で歌い切り[329]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[330]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[331]。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[3][35][39][73][163][170][195][285][286][332][333][334][335][336]。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[337]。
1982年9月22日 - 9月24日の3日間[338]、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[333][338]。当時の香港は教科書問題で揺れ[338][339]、同時期コンサートを予定していたさだまさしと三原順子は中止を余儀なくされたが[328]、西城だけは特別扱い[328]。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された[338]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[328][338]。
日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく[328]、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色[328]。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[328]。アジアでは圧倒的に男性客が多かった[18]。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[328]。アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[58][337][340][341]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[337]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[342][注 21]。ジャッキー・チェンやサミュエル・ホイ、ジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた[329][331][333]。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た[327]。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた[327]。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係[18]。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした[18][327]。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった[18]。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日に琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った[327]。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった[331]。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[343]。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[18]。
1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演[344]。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[344]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[344]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[345]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので[328]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[58][328]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[326][346]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバム『Strangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した[347]。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[344]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった[134]。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[327]。
1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京・首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[20][335][348][349]。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ[349]、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[58][348]。香港の流行は中国にも伝わった[327]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[20][349]。当時の中国の労働者の平均月収は約120元(約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[349]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[349]。廣州に初めてレーザー光線を運び込み[349]、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した[349]。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った[349]。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した[349]。3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[333]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。
1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う[20]。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[20][170][333][350][351][注 22]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された[58][174]。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジル・サンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる[170]。
1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。
1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[352]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた[352]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。
1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[353]。
1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[20][73][241]。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[332]。
1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHK『NHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演[354]。
2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[333][355][356]。9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を観客約8万人に披露[357][358]。この模様は10月13日、中国全土に放映された。
2012年9月16日、ブラジル・サンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。
サザンオールスターズとの共演
1995年春、西城の事務所に大阪球場での公演をビデオで見た一人であった桑田佳祐から夏に横浜・みなとみらいで行われるサザンオールスターズのライブ(『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』。西城はイーグルスの楽曲「ホテル・カリフォルニア」をもじったこのライブのタイトルを、「さすが、桑田さん」と評している[149])への出演と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の歌唱を依頼する内容の電話がかかった。当時は戦後50年を迎える年であり、数々の番組やイベントから同曲を歌唱する依頼があり、当の西城は「全て引き受けたら両脇が「Y」の字に固まってしまう」と心配していた[148]。
サザンのマネージャーから桑田の意向を聞くよう促され、同年7月21日には桑田を始めとしたサザンのメンバーと初めてミーティングをし、オープニングでサザンのメンバーに扮して「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱するといった内容と、星条旗の衣装を着て、グレート・ムタのように覆面をかぶって登場する事を指示される。西城は桑田に「このコンサートでぼくの役目は何なの?」と尋ねたところ、「お客さんの度肝を抜き、徹底的に楽しませてほしいんです!!」と返答され、この発言を受け出演を決意している。また、後に桑田から前述の電話の経緯を聞かされ、当初はサザンのみで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をやろうという話だったが[注 23]、酒を飲むにつれて、本人が出てくれないかと盛り上がり、ダメもとでこのような形でのオファーになった事が語られている[148]。
リハーサルの段階でサザンのメンバーの演奏を聴き「完璧」と感じ、嬉しくなった旨を語っている。また、前述した衣装と覆面を見た際は曰く「十秒くらい後悔した」が、着用してみると「妙に似合う」と感じたといい、「こ、ここまで計算していたのか、桑田さんは!!」と思った旨を語っている[148]。なお、衣装に関しては西城曰く「衣装がピッチリ出来過ぎていて、暑さで呼吸困難状態」になるほどだったといい、本番では「金魚のように口をパクパクさせながら」歌い切ったという[149]。
8月5日・6日、『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』に出演。西城はこのライブでサザンのファンから「帰れコール」やブーイングが飛ぶ事を危惧していたが、サザンの所属事務所アミューズの会長の大里洋吉が「サザンのファンは暖かいから、ヒデキさんは絶対、大歓迎されますよ」と説得している。西城の不安は杞憂に終わり、実際のライブでも2日間で合計16万人が座っている客席は大盛り上がりで、遠くのスタンド席やアリーナ席に座っている観客も「Y.M.C.A.」の振りをやっていた[149]。
出番の後、西城はこのライブを客席で楽しんでおり、「桑田さんも、メンバーも、ファンも本当にステキだった」と語っている。特に桑田がライブで客席に向かって発した「ありがとよ」という言葉に関しては「決してサービスコメントではない」「デビュー以来一七年間、心から応援してくれたファンへの心からの『ありがとう』だと思った」と評している。また、終盤では『ホタル・カリフォルニア』のロゴマークがあしらわれた浴衣を着用して再びステージに登場しており、西城が桑田を肩車する一幕もあった[149]。桑田はエンディングで西城を「素晴らしいエンターテイナー、ロッカー」と称え、「西城秀樹とそのグループでしたぁ! サザンだぁ!!」と西城をメインに出して名前を叫び、花火が打ち上がる中、出演者全員で繋いだ手を高く上げてステージを退場した[362]。
西城の訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年5月20日放送の自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)で、西城を追悼するコメントを述べ、ライブでのエピソードや西城の人柄を語ったうえで、生歌のコーナーで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱した[363]。
2018年5月26日に行われた西城の告別式では「ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。ご遺族の方のお気持ちを思いますと、心が本当に痛みます。その旅立ちが安らかなものでありますよう、心よりお祈り申し上げます」という弔電がサザンオールスターズ名義で届けられた[364]。
映画・テレビ・CM 他
- 夜のヒットスタジオ
フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード[注 24]、見せ場を提供した。
1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。
- 8時だョ!全員集合
『8時だョ!全員集合』は、1972年10月2日放送回に初出演し[365]、以降番組の常連となり[366][367]、ゲスト出演は小柳ルミ子に次いで73回で2位[367][368]。歌手がコントをやり始めたのはこの番組といわれており[367]、西城も「単にゲストとしてという意識ではなく、レギュラーのような気持ちで出演させてもらった」と述べている[367]。小柳の1位は、同番組の企画が小柳の所属していた渡辺プロダクションだった関係があると見られるが、西城の2位は、鴨下信一によれば、西城の所属した芸映が最初はTBSのまだ大きくなかった社屋の狭い道を挟んだ向かいのビルの二階の一室に事務所を構えていて、当時は世の中も牧歌的。お向かいのプロダクションに素晴らしい新人が広島から入ったと、TBSの演出部員はその日のうちに知っていて「ぼくらにとってヒデキはお向かいの家の坊や」だったと述べており、TBSの関係者に早くから可愛がられたことが原因かも知れない[252]。男性最多ゲストの西城は、同番組"二大事件"とも[369]"三大事件"ともいわれる(8時だョ!全員集合の歴史#トラブル史)、「火災」と「停電」放送回のゲストでもあった[367][370][371]。1977年5月14日の「火災事件」は「探検隊コント」の途中、小道具のヘビにピストルの火花が着火し炎上したものであったが、西城もこのコントに参加し、ヘビに向けて発泡したのは西城であった[369][371]。「停電事件」があった1984年6月16日の放送回では、停電で場内真暗闇で混乱する中、タイムキーパー用の懐中電灯を渡され、いかりや長介の顔に最初に光を当て番組の進行に貢献した[369]。
- バーモントカレーのCM
1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!"など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る[117][285][372][373]。 ハウスは西城と独占契約し、西城は13年間、ほかのCMには一切出演せずバーモントカレーの顔であり続けた[372]。材料にリンゴと蜂蜜を使っているという商品の特徴は、西城の歌うCMソングを通じて広く浸透し[372]、同製品の知名度を一気に高め[114]、カレーライスの国民食押し上げに貢献した[3][174][372][374]。"ヒデキ、感激!!"の右手で頬を2回たたくアクションは、撮影見学に訪れていた小さな子どもが西城を見て喜んだ時の仕草を取り入れ、西城自ら考案したもの[375][376]。季節に応じて3か月周期でCMの撮影が行われ、その中で西城が発するフレーズもさまざまだったが、特に"ヒデキ、感激!!"という初期の頃のフレーズは、いまだにマスメディアで西城の記事が掲載される際によく見出しとして登場する[43]。
2001年に結婚した際には、夫人とのツーショット写真と「超甘口」「Happy Wedding」の文字を配した特製パッケージのバーモントカレー甘口が披露宴の引き出物として配られ、2015年に行われた還暦記念ライブでは、「ヒデキ、カンレキィ〜!」の文字を配した還暦お祝いパッケージのバーモントカレーが来場者に記念品として配られた。なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のテレビ広告に起用されたことを喜んでいた。
2018年に西城が逝去した際には、ハウス食品グループ本社から「(西城出演の)バーモントカレーのCMで、カレーが国民食となり愛されることとなった」など感謝を込めた追悼メッセージが発せられた[372][377]。また、西城の通夜では参列者に会葬御礼としてバーモントカレーが用意され、関係者によって配られた[378]。
他に酒井法子が流行らせた「のりピー語」の一つ「いただきマンモス」は[379]、「ヒデキ、感激!!」ほど流行らなかったが、1983年に西城がバーモントカレーCMで使用したセリフである[380]。
- 寺内貫太郎一家
西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーのCMで見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[285][381]『寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった[31][382]。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる[117][226][383][384][385]。当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している[285]。小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている[384]。
- ∀ガンダム
後に小林がアニメ『∀ガンダム』(フジテレビ)の前期オープニングテーマ『ターンAターン』を担当した際、歌手として西城を指名し、作曲者と歌手という形ながら、久々にコンビの復活となった[181][385] [386]。西城はガンダムを知らず、「おれ、ガッチャマンの曲歌うんだろ?」と勘違いしていたといい、周囲が「絶対に断っちゃダメ」と後押してオファーを受けた[43]。「走れ正直者」と合わせ、西城のようなエンターテイナーがアニソンに十分フィットすることが実証された[47]。『ガンダムシリーズ』は中国でも絶大な人気があり「80后」で「ターンAターン」を歌った西城を知らない者はいないという[332]。
- 愛と誠
"ヤンキー漫画"の先駆けともいわれる[387]『愛と誠』の1974年松竹映画化『愛と誠』製作にあたり[388]、『少年マガジン』連載中から漫画を読んでいた西城が映画化されると聞いて原作の梶原一騎に直談判し、主役の"太賀誠"役を勝ち取った[31][117][389]。人気絶頂の西城の相手役募集には4万人応募があり[390]、西城の推薦により[391][392]、役名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた[393][394]。
- あこがれ共同隊
1975年6月から9月まで放送されたTBSのテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子と共演[395][396][397]。第1話のゲストに山口百恵が友情出演し[395]、不完全ながら「新御三家」と「高2トリオ(当時)」の合体が実現した[395][397]。テレビの歌番組では毎日のように顔を合わせていたが、テレビドラマ・映画では唯一の共演作となった[397]。西城と桜田は恋人という設定で[395][396]、キスシーンがあると告知され、桜田も「秀樹クンのファンってコワイ」と怖気づいた[396]。ドラマは原宿・表参道(竹下通りは出ない)が舞台で、当時の原宿は新たな流行の発信地として注目されていた[397][398]。また、吉田拓郎が「ペニーレインでバーボン」を唄ったことで一躍有名になった原宿のバー「ペニーレイン」が登場し[395][399][注 25]、劇中でも主題歌「風の街」を歌った山田パンダがレギュラー出演した他、吉田拓郎や南こうせつ、かまやつひろしらが店の客としてゲスト出演した[395]。
- 幻のNHK大河ドラマ主演
西城は1987年度のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の主演(伊達政宗役)のオファーをNHKから受けていたという。西城本人も乗り気であったとのことだが、西城のマネージャーを務めた天下井隆二によれば「(芸映プロダクションから)独立して新事務所(アース・コーポレーション)を立ち上げたばかりであったため、新会社の経営状況を考慮してこれを断った」という(実際の主演は渡辺謙が務めた)[401]。天下井は西城が逝去した際に「借金をしてでもこのオファーを受けた方が良かったかな」と心残りであったことを語っている[401]。
なお、郷ひろみはデビュー作『新・平家物語』(1972年)をはじめ、4作品の大河ドラマの出演しており、野口五郎もこの後『八代将軍吉宗』(1995年、脚本は奇しくも『独眼竜政宗』と同じジェームス三木)と『功名が辻』(2006年)に出演したが、西城は生前大河ドラマに出演することは一度もなかった。
- ブロマイド
かつて「マルベル堂でブロマイドを撮影し出版すること」がスターへの登竜門で「月間ブロマイド売り上げランキングに載る」ことが人気のバロメーターだった時代があり[70][402]、西城は月間売上第1位獲得最多記録で歴代1位の46回[402]、年間では1975年、1976年と二年連続で1位を獲得した[43][403]。また大量に撮影したためポーズがワンパターンになり、唯一目を閉じたブロマイド販売したが、これが売れに売れた[402][404]。
- オールスター運動会・水泳大会
中学3年の時、広島県の中学水泳大会で優勝したこともあり[26][405]、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会・水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳、走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)[20][165][405][406]。フジテレビの「紅白スター対抗水泳大会」が番組最高視聴率28.9%を獲ったのは1978年2月7日放送回であったが[407]、このときも白組キャプテンを務めた(紅組キャプテン・郷ひろみ)[407]。プールサイドで「キャーキャー」いっていた女性陣は心から西城を応援していたといわれる[165]。郷との対決は番組のハイライトだったが[40]、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。また西城の幅の狭いブーメランパンツから覗く剛毛は"ギャランドゥ"と呼ばれた[25][40][47][153][175][210][250][408][409]。岩井志麻子は「ヒデキの出現が自身の性のめざめの時期と重なった。"ギャランドゥ"は、いつしか胸毛から下まで体毛がつながっている男性を指す隠語となって定着した。曲名が一般俗語となって広く知られた――。すごい」などと述べている[318]。陸上をやっていたつんく♂は、芸能人運動会で西城秀樹を第3コーナーで抜くことが子どもの頃の夢で[410]、中学二年で走り高跳びで165cmくらい跳んでたとき、西城がレコード会社対抗運動会で、走り高跳びで150cm跳んで優勝したのをテレビで観て「この運動会出たら、オレ1位になれる」と思ったことが将来の目標を"芸能人"と決めた切っ掛けと言う[411]。
- ザ・ベストテン
『ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し[270]、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した[75][36][259][270]。オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ[270]。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し[270]、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している[270]。
- ウォークマン
1979年7月1日に発売されたソニーの初代「ウォークマン」は、当初はあまり売れなかったが、西城が上半身裸、短パンでウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が『月刊明星』1979年9月号(発売は7月末)の見開きページに掲載されたのを機に[412]、各雑誌で取り上げられ、8月に入り各店舗で品切れが続出し、その後の大ヒットに繋がったといわれる[413][414]。
- 西城とちびまる子ちゃん
さくらももこの漫画、ちびまる子ちゃんでは、主人公まる子の姉さきこが大の西城ファンという設定があり、漫画・アニメ問わずしばしば西城に因んだ話が登場している。また、作者のさくら自身も西城のファンであった事から、さくら側が西城に依頼する形で、同作のテレビアニメ第1期後半のエンディングテーマ「走れ正直者」の歌唱を担当した[415]。その後、2007年から2008年に放送された同作のテレビドラマ版まるまるちびまる子ちゃんでは、第20回の2時間スペシャルに西城が魚屋の主人「魚辰の辰」役で出演。劇中ではまる子の為に、辰が西城のモノマネで「傷だらけのローラ」を歌うという設定で『西城秀樹がドラマの中で演じたキャラクターで西城秀樹のモノマネをする』という難しいシチュエーションを熱演した。西城の訃報が報じられた際には、さくらはブログで追悼のコメントを記した[416] が、その僅か3ヶ月後に、さくら自身も乳がんの為この世を去った。
- がきデカ/マカロニほうれん荘
漫画/アニメの西城といえば、取り分け『ちびまる子ちゃん』が有名であるが[417]、1970年後半に『週刊少年チャンピオン』に連載され、一世を風靡した山上たつひこの漫画『がきデカ』の主人公・こまわり君のほぼ相方格だった西城ヨシオこと「西城くん」のモデルは西城である[418]。ほぼ常識人の「西城くん」がこまわり君のボケにツッコミを入れる担当であった[418]。『がきデカ』は他に常識人扱いで、それぞれ名前をもじった山口百恵がモデルの木の内モモ子こと「モモちゃん」、あべ静江がモデルのあべ美智子こと「あべ先生」と、天然少女・風吹ジュンがモデルの木の内ジュンこと「ジュンちゃん」が登場する[418]。西城くんのガールフレンドは「モモちゃん」であった。また同じ『少年チャンピオン』の連載・鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』で最も有名なギャグで[419][420]、主人公の一人・膝方歳三の決めゼリフ「トシちゃんかんげきーっ!!」は、西城の「ヒデキ、感激!!」をもじったものであった[420]。
- 後進タレントの発掘
芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト[195]、無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか[421]、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子と石川秀美がデビューした[163][422]。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった[204]。また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした[423]。
人物・逸話
- スポーツマン・夏男
スポーツマンで、小学校の時は柔道を習い、学生時代の部活動は水泳部でマリンスポーツが得意。先述した「水泳大会」や「運動会」の他、『新春かくし芸大会』や[424]、『8時だョ!全員集合』の体操コーナーなどでも活躍。趣味はスキューバダイビング(1983年頃より・指導員資格所有)やゴルフ、サーフィンもやっていた。
「情熱の嵐」以降、夏をイメージさせるヒット曲が多いこと。その激しく歌い踊る姿や真夏のスタジアムコンサートの熱い印象。『芸能人水泳大会』での活躍、長髪で日焼けした精悍なイメージから「夏男」との異名をとった。また夏に野外で派手に新曲発表会を行うことが多かった[注 26]。
- デビュー当時
デビュー当時、才能を認められ、先輩の歌手として兄のように慕っていたのは布施明だった[21]。布施は初期の西城のコンサートのプロデュースに加わっていたこともあった。
西城をスカウトした上条英男との関係から、芸映に所属する前に暫くの間、上条の事務所「ジュエム・カンパニー」に所属した[57][63][188]。西城秀樹という芸名もその時付けられ、西城のサインは同じ事務所にいた五十嵐淳子が考えた[57]。
デビューして半年後の1972年9月22日に『週刊セブンティーン』の企画で[425][426]、東京北区滝野川の女子高の前でヒデキグッズ(サイン入りノート)1500冊を配った[425][426][427]。同誌で告知もしたため、他校の生徒まで押しかけ女子高の門前でヒデキグッズの奪い合いが始まり大騒ぎになってパトカーが出動する事態になった[425]。10月17日に今度は市ヶ谷から飯田橋付近の公園に出現すると告知し、再びノートを配った[95][426]。
若い頃はケンカっ早く、和田アキ子と取っ組み合い(寸前)のケンカをしたことがあると和田の著書に記述されている[428]。この一件で仲良くなり、以降は姉弟のように付き合った[429][430]。
- 西城のファン
女性ファンのみならず、山口百恵や岩崎宏美など同世代の女性アイドルにもファンが多く、『第18回日本レコード大賞』で西城が歌唱賞を受賞した際に、彼女らは同じ壇上にいて自分のことのように号泣した[431]。この時代のエピソードとして、元テレビ・ディレクターのテリー伊藤が西城秀樹の死後に明かした秘話(還暦となった西城秀樹から直接打ち明けられたとされる昔の思い出話)によれば、西城秀樹は人気絶頂の若い頃、山口百恵からラブレターをもらったことがあるという[432][433]。山口からもらった手紙の話は西城の著書にも書かれている他[434]、山口が西城のファンだったことは、山口の新人時代の『月刊明星』や『月刊平凡』に書かれている[435][436][437][438]。
岩崎宏美は「17歳のとき、秀樹さんの前座で歌って、そのあと照明の横からステージの秀樹さんを観ていました。生は初めてでしたが、とても輝いていました。そのときからずっと印象は変わりません。本当にカッコいい歌手でした」と述べた[38]。
西城は大人の女性からもよくモテて[409]、十朱幸代と付き合いがあったことは双方認めている[43][195][439]。特に外国人女性は感情をストレートに表現するため、1978年の第7回東京音楽祭に出演したエモーションズにモテモテで大変困惑し[440]、同年7月22日、ソロシンガーとして初めて後楽園球場で行ったコンサートで共演した黒人ダンサーに「ワタシハアナタガスキデス」とたどたどしい日本語で告白された[440]。ダイアナ・ロスにホテルの部屋に誘われたともいわれ[441]、1984年4月、共に来日していたシルヴィー・バルタンとアリ・マッグローには追いかけ回された[442]。アリは1984年の第13回東京音楽祭にゲスト審査員に招かれた際に、歌唱した西城を「これまであんなセクシーな若い男の子見たことない」と一目惚れし、スティーブ・マックイーンの前の夫であるロバート・エヴァンスとの間にできた息子を連れての来日だったが[442]、そんなのお構いなしで、女性週刊誌から当時交際していると噂された作曲家との仲を聞かれると、「もうターゲットは日本人に変えたわ」と答えるほど西城に熱を入れ上げた[442]。西城の海外進出の切っ掛けも外国人女性が関係している。1980年代に香港を皮切りにアジア公演をプロデュースしたのは「オールプロデュース」という企画会社だったが、この会社の社長の娘が当時、アメリカンスクールに通っていて、その娘から「ヒデキはアメリカ人のスクール生からウケがいい」と聞かされた「オールプロデュース」の六車暢志が「そういわれればヒデキは上背もあるし、熱唱型。ひょっとしたらいけるかもしれない。まず、手近な国際都市・香港で試してみよう」と思いついたのを始まりとしている[328]。
オウム真理教の元代表・教祖である故麻原彰晃は西城の大ファンで[443]、『情熱の嵐』がとりわけ好きで[444]、盲学校時代に寄宿生らを集め、西城のレパートリーを歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催し盲学校生を困らせた[443]。
- 広島出身
広島東洋カープのファン[445]。また広島のお好み焼きは、学校帰りや部活、バンド練習の帰りなど、何かと仲間とつるんで食べた青春の味、ソウルフード[37][312][446]。「最後の晩餐」にもお好み焼きを選んだほど[312]。広島の実家では4、5軒隣りがお好み焼き屋だったが[5]、1970~80年代の東京都内では広島のお好み焼き店は数軒、10数軒だったため[312]、都内を探しまわり渋谷の「マコ」や千駄ヶ谷の「お多福」などでよく食べた(両店舗とも現在は閉店)[112][447]。年350回通ったこともあり[447]、海外から帰国すると家にも帰らず直行した[309]。お好み焼き好きが高じて1980年代前半に原宿にレナウンから店を借りて友人に譲り、お好み焼き店をオープンしたこともある[57]。その店で働いていた人が渋谷の宮益坂を昇りきった左側の青山セブンハイツ1階に1984年「MAO」という広島のお好み焼き店を始めたため、この店の常連でもあった(現在は閉店)[57][312]。知名度が今よりずっと低かった時代から、テレビ番組等でよく広島のお好み焼きを紹介し、やはり1980年代に都内で広島のお好み焼き店を6店舗経営していた島田洋七とともに広島のお好み焼き普及者の一人であった[57][312]。
- 「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のエピソード
西城は1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をシングルとして発売するが、この曲は当初シングル化する予定がなくファンからの要望で急遽発売することになったため、神奈川県内のビクターレコード工場では生産が追いつかない状況となった。それを知った西城自らが工場へ出向き、従業員を前に「残業させてしまいますが、お願い申し上げます」と呼びかけて自ら激励の意志を込めて「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をミカン箱の上から歌唱して工場を激励したという[401][448]。
- 脳梗塞からの復帰
2001年秋、仕事から帰宅した際、妻に「ふらつく」「しゃべり辛い」と不調を訴える。病院で検査をすると脳梗塞が確認され緊急入院。この時は一週間ほどで退院した。疾患は軽度で再発はないと思い、また、周囲に過度な心配をかけぬために対外的に「二次性多血症で入院」と発表した[76]。
2003年、ディナーショーのため訪れていた韓国で2度目の脳梗塞を発症。朝に症状がありながら、その夜のディナーショーをやり通して、さらに空路帰国して入院。懸命のリハビリにより1か月で復帰会見に臨んだが、実は一部声帯の神経が損傷しており、歌手にとっては致命的ともいえる歌どころか言葉自体を正確に発することができない構音障害を発症しており、引退を発表するつもりだったという。しかし「すぐに結論を出さずゆっくり治していけば」という夫人の言葉で、芸能活動を継続しながら回復に励む道を選ぶ。その年『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』に出演するも、「ボロボロだった。」と振り返っている。 2004年、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)発売。自分の闘病体験が同じ病気を患った人たちへの役に立てればと、医療関係のシンポジウムなどでの講演も積極的に行う。無くした声帯の神経の周辺の神経を刺激し鍛えるボイストレーニング法に取り組み、2006年、脳梗塞発症以来3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」発売。その後も徐々に回復傾向に向かい、年々コンサート本数も増えていた。 しかし、2011年に脳梗塞が再発していることが判明、東京都内の病院で入院した。右半身麻痺の後遺症が残ったが、リハビリに水中運動を取り入れ、筋力をつけることで立つことには支障が無くなり、再びステージに立つまでに回復した。ステージ復帰後、最晩年まで週に4回ほどのペースでリハビリを続け、自宅で意識不明となる2018年4月25日の日中もリハビリを受けていた事が死去後明らかにされている[449]。
なお、2003年の発症時、及び2011年の再発時も、2001年の脳梗塞発症の事実は伏せられたままだった為、西城が生前脳梗塞を発症したのは、対外的には公表した2回とされていた。更に、西城の死後出版された妻の著書では、公表した2回と伏せられていた最初の発症以外にも複数回脳梗塞を発症しており、軽度のものを含め実際の発症回数は8回に及んだ事、西城が度々発症した脳梗塞が『ラクナ梗塞』と呼ばれる隠れ脳梗塞だった事が明かされている[450]。 同書ではこの他にも、西城が脳梗塞の他に小脳の機能に障害を及ぼす多系統萎縮症を発症していると診断されていた事も記述されており、一度は回復しつつあった歩行状態や発声が、晩年にかけ再び悪化していったことが、この病気によって引き起こされた自律神経障害に起因するものだったことが明かされている[451]。
2018年4月25日、自宅で家族と団らん中に倒れ、神奈川・横浜市の病院に救急搬送された。その後、3週間ほど入院していたが、その間意識が戻ることはなかった。また、通夜・葬儀の司会を務めた徳光和夫は自身のラジオ番組で、家族から聞いた話として、治療に当たった医師と家族との間で延命治療についての話があったことを明かしており、その時の容態について「仮に延命治療をしても意識が戻るわけではなく、そのまま生涯を終える」状態であったと話している。最終的に西城の子供達の意見を受けて、延命治療はしない事となった[452]。そして、2018年5月16日、午後11時53分、家族にみとられながら息を引き取った。
脚注
注釈
- ^ 上京直前まで住んだ荒神陸橋袂の家は、持ち主は代わったが2018年も建物はそのまま現存している。
- ^ 楽器代を稼ぐためアルバイトをさせてもらっていた西城の親戚が支配人を務める店[12][32][37]。
- ^ 2015年紙屋町に移転[53]。これ以前は長く堀川町えびす通り商店街にあった[54]。この旧店舗の西側中央通りを挟んだビルの地下に2018年現在も営業を続ける「朝日珈琲サロン」があり、広島フォーク村はこの店で結成された[55]。同店は半世紀を経た現在も当時とあまり変わらない。
- ^ ビルは建て替えられており、現在は堀川町タカタアレービル。
- ^ 「西城秀樹、アレいいよ。このごろ。昔は大キライだったけどここんとこ上手くなったし、何でも歌えるようになったしな。あの暴力的な感じ出せるヤツ、珍しいよ。アイツ、年をサバよんでんじゃないかな。あの年であれだけの色気とフィーリング持ってるってちょっとスゴイと思うんだ。若手のチャラチャラしてる連中の中では最高よ。広島のころから木本ってあいつの本名知ってたよ。『ベガーズ』ってグループを作ってて、兄貴といっしょにやってた。ドラムを叩いてたな。前にオレの『たどりついたらいつも雨ふり』の盗作っぽい曲を自分のLPに入れてたりしたから、いい気分じゃなかったけどな。西城の曲なら作ってみたい気もするな。ここんとこ、やたら曲の依頼が多くって、うんざりだよ。みんな断ってるんだ。自分の仕事が出来なくなっちゃうし」[59]。
- ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
- ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
- ^ オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成する。
- ^ 同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。
- ^ 一部の文献に天地の観客動員を10万人とするものがあるが、天地と西城の観客動員は同じ3万人と当時の文献に書かれている[99]。
- ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
- ^ 1位は大差で五木ひろし1500万円。2位、森進一、北島三郎、チョー・ヨンピル760万円、3位、石川さゆり750万円、4位、小林旭、小林幸子660万円、5位、細川たかし、パティ・キム650万円、6位、西城秀樹、八代亜紀、和田アキ子、小柳ルミ子、桂銀淑、川中美幸、ジュディ・オング、島倉千代子、大月みやこ500万円[146]。いづれも日建て料金で、昼の部と夜の部の二回公演[146]。入場料金一人平均1万円として、昼の部で1000人、夜の部で1500人集まれば、2500万円の興収となり、あご足代(旅費、食費)、会場費、宣伝費を払っても400~500万円の利益が出る[146]。ディナーショーの場合は200人程度しか集められないため、高額料金を設定しても興収は上がらず、ギャラは公演の三分の一以下になる[146]。ギャラは公定でないため、ヒット曲がなかったり、テレビ出演が減ると相場もすぐに変動するが、事務所がいくら強くても買い手がつかなければ地方興行主から呼ばれないため、歌手の真の人気と実力を表すデータともいえる[146]。ニューミュージック系は興行師が仕切らないためこのデータに入らない[146]。
- ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1990〜1999」⇒「67.もいちど」の項を参照
- ^ 同年は川崎麻世が出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。
- ^ 西城の先駆者としての業績は、大阪球場、後楽園球場での野外コンサートはその草分けとして有名だが、ゴンドラや軽量スタンドマイク、ペンライト、白煙噴出などのステージパフォーマンスを最初に導入するなど多岐に渡り[18][39][179]、現在のライブシーンに欠かせないアイテムの多くは西城が先駆けたものである[18][179][188]。さらに特筆すべき大きな業績としてアジア市場への進出がある。1981年の香港でのコンサートを皮切りにアジア各地で活動を続け絶大な人気を博した[47]。当時は現在とは違い日本人のアジア市場への関心度は0であると言っても過言ではない時代で、日本のマスコミも賞賛する論調がほとんど無かったが、長年続ける事によって後進に道を切り開いた[39]。
- ^ 「激しい恋」の「♪やめろと言われても」の直後に両手を上げるアクションは、親しいおばさん同士がスーパーなどでたまたま会った時に見かける、両手を上げるような親しみやすい身振り手振りからヒントを得て一の宮が考えたという『日めくりタイムトラベル』の昭和49年の特集(2008年10月11日放送分)にて紹介。
- ^ 当時は"カバー"という言葉はまだ使われず[266]、西城は当時のインタビューで「日本だとみんなオリジナルでレコードを出すけど、外国じゃ、いろんな人が一つの歌に挑戦することはよくあるよね」と述べている[266]。
- ^ この他、「オートバイ」、「CAR」、トラック野郎の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からのダイブ」、おなじみ「スペースイーグル」、「バルーン」、「空中ブランコ」、「E.T.自転車」、「レーザー光線」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など[39][280]。
- ^ 球場ツアーの歴史の詳細は分からないが『週刊現代』1979年5月10日号に「この夏は、人気歌手の"野球場ジャック"が大流行。まず、ニッポン放送が開局15周年記念「'80ジャンボ」で7月22日、松山千春、原田真二、サザンオールスターズ、円広志らニューミュージックの人気者を一堂に集め、新装オープンの西武球場を乗っ取る計画を発表すれば、ピンク・レディーは「ピンク・レディー、ビッグファイト'79」で、7月28日西武球場、8月12日ナゴヤ球場、8月24日西宮球場とプロ野球顔負けの大転戦。矢沢永吉が8月7日ナゴヤ球場、沢田研二が8月10日やはりナゴヤ球場を占拠すれば、西城秀樹は8月18日大阪球場、8月24日後楽園球場と二球場に。球場ジャックは人気歌手の証明らしいが、ま、野球に負けずガンバッテください」という記事が載る[297]。ピンク・レディーの三ヶ所の球場コンサートは実際に行われた。『週刊セブンティーン』1979年6月12日号には、「矢沢永吉が札幌円山球場、大阪球場、ナゴヤ球場、福岡・平和台球場と、日本縦断球場コンサートを予定している」と書かれているが[298]、許可が降りなかったものと見られ、1979年はナゴヤ球場のみで球場コンサートが行われた[299]。
- ^ 松竹はスタッフ40人、劇場用カメラ5台、レンズ40本、ヘリコプター1機、バス2台、ワゴン車2台と松竹大船撮影所の機材を7割方運び込み[303]、おりからスタジオで撮影中だった『男はつらいよ 葛飾立志篇』の撮影に支障をきたした[303]。これに対抗して日本テレビは東京からビデオカーを繰り出し、21歳の西城の内面をキメ細かく追ったが、松竹と日本テレビの撮影クルーが現場でしばしばぶつかった[305]。松竹が1975年9月20日から全国公開すると発表すると日本テレビが激怒[305]、日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で放送することを決めていたため「放送前に先に松竹に公開されては番組の商品価値が半減する。番組を作るときの契約ではテレビが優先だった」と西城の所属する芸映を突き上げ、「ご無理、ごもっとも」と芸映、松竹とも日本テレビに平伏[303][306]。『ブロウアップ ヒデキ』は同年10月10日に公開延期を余儀なくされた[305]。この醜態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、三嶋与四治企画本部長のクビが飛び、81歳の城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰、第一線で指揮を執ることになった[305][306]。
- ^ 1984年『ヤングアジア歌謡祭』[337]。
- ^ これより一ヶ月前の1988年8月18日、少女隊が韓国側の放送局の了解なしに日本語で歌う[350]。
- ^ 後に桑田は2012年のソロライブ「I LOVE YOU -now & forever-」や[359]、2014年のイベント「桑田佳祐のやさしい夜遊び~夏にサザンないの!? いいかげんに1000回!! ファンやめたるわ!! 生歌ライブ〜」[360]、2018年のアクト・アゲインスト・エイズイベント『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』[361] で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をカバーしている。
- ^ 1982年の放送で、「漂流者たち」を涙を浮かべながら歌っているのを見て心配したファンから投書や電話が殺到。西城によれば、故郷広島から不安と期待を胸に抱え、家出同然で上京した旅立ちの日とオーバーラップしたとのこと。
- ^ ペニーレインは表参道キデイランド原宿店の裏にあり、フォーク、ニューミュージック系のミュージシャンやアイドル、音楽・ファッション関係者など、業界人の溜まり場となって、修学旅行生の観光コースにもなっていた[399][400]。
- ^ 1973年、「情熱の嵐」の発売時のユネスコ村にファンを集めての新曲キャンペーンライブは、空からアクション・スターのようにヘリコプターにつかまりド派手に登場して話題をさらった[92][99]。1976年、「ジャガー」のユネスコ村・新曲発表会では、アンコールで興奮してギターを叩き割るパフォーマンス。このギターは芳野藤丸からの貰い物であったため、のちのちまで後悔することになった。1980年、「エンドレス・サマー」の時は、完成したばかりの新宿アルタのベランダで行われ、アルタ前の歩道や広場が1万人(新宿警察発表)以上の人で埋めつくされた。1981年、「セクシーガール」発売キャンペーンもかねた『BIG SUNSHINE '81』と釘打った沖縄ムーンビーチでのコンサートでは、海から水上オートバイで現れ、特設ステージに登場した。
出典
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関連項目
- アイドル#男性アイドル史
- 1972年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手
- 年代別プロマイド(ブロマイド)売上ベスト10 - 1973年 - 1981年。特に、1975年と1976年は男性1位。