コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「牧野隆守」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
詳細化
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
87行目: 87行目:
[[福井県]][[坂井郡]][[丸岡町]](現・[[坂井市]])出身。[[福井県立藤島高等学校|福井中学]]などを経て、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]入学。東大在学中に[[高等文官試験]]司法科(現在の[[旧司法試験|司法試験]])合格。卒業後、1949年に旧[[商工省]](のちの[[経済産業省|通産省]])に入省。同期には藤原一郎(通産事務次官)、[[平松守彦]]、大永勇作(中小企業信用保険公庫総裁)、井川博(経済企画事務次官)、織田季明(官房審議官)、小泉孝夫(通産省工業検査所所長)などがいた。
[[福井県]][[坂井郡]][[丸岡町]](現・[[坂井市]])出身。[[福井県立藤島高等学校|福井中学]]などを経て、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]入学。東大在学中に[[高等文官試験]]司法科(現在の[[旧司法試験|司法試験]])合格。卒業後、1949年に旧[[商工省]](のちの[[経済産業省|通産省]])に入省。同期には藤原一郎(通産事務次官)、[[平松守彦]]、大永勇作(中小企業信用保険公庫総裁)、井川博(経済企画事務次官)、織田季明(官房審議官)、小泉孝夫(通産省工業検査所所長)などがいた。


[[ニューヨーク]]駐在・在[[ドイツ]]日本国大使館一等書記官などを経て、[[1974年]]8月に大阪通産局長で退官後、[[1979年]]の[[第35回衆議院議員総選挙]]で初当選(当選同期に[[佐藤信二]]・[[保利耕輔]]・[[畑英次郎]]・[[麻生太郎]]・[[岸田文武]]・[[白川勝彦]]・[[丹羽雄哉]]・[[亀井静香]]・[[吹田あきら]]・[[宮下創平]]・[[亀井善之]]・[[船田元]]など)。所属派閥は[[中曽根康弘|中曽根]]→[[渡辺美智雄|渡辺]]派を経て[[志帥会]]([[江藤隆美|江藤]]・亀井派)旗揚げに参加。戦跡は6勝3敗(中選挙区時代は[[福井県全県区]]、小選挙区制導入で[[福井県第2区|福井2区]]。
[[ニューヨーク]]駐在・在[[ドイツ]]日本国大使館一等書記官などを経て、[[1974年]]8月に大阪通産局長で退官後、[[1979年]]の[[第35回衆議院議員総選挙]]で初当選(当選同期に[[佐藤信二]]・[[保利耕輔]]・[[畑英次郎]]・[[麻生太郎]]・[[岸田文武]]・[[白川勝彦]]・[[丹羽雄哉]]・[[亀井静香]]・[[吹田]]・[[宮下創平]]・[[亀井善之]]・[[船田元]]など)。所属派閥は[[中曽根康弘|中曽根]]→[[渡辺美智雄|渡辺]]派を経て[[志帥会]]([[江藤隆美|江藤]]・亀井派)旗揚げに参加。戦跡は6勝3敗(中選挙区時代は[[福井県全県区]]、小選挙区制導入で[[福井県第2区|福井2区]]。


[[宇野内閣]]で[[内閣官房副長官]]、[[小渕内閣第2次改造内閣|第2次小渕改造内閣]]・[[第1次森内閣]]で[[労働省|労働大臣]]を歴任。その後[[自由民主党行政改革推進本部|自民党行政改革推進本部]]顧問を務めるが、かねてからの体調不良のため、[[2003年]]に政界から勇退した。座右の銘は「随処在主」与えられたポスト、現在ある立場でベストを尽くすことの意。
[[宇野内閣]]で[[内閣官房副長官]]、[[小渕内閣第2次改造内閣|第2次小渕改造内閣]]・[[第1次森内閣]]で[[労働省|労働大臣]]を歴任。その後[[自由民主党行政改革推進本部|自民党行政改革推進本部]]顧問を務めるが、かねてからの体調不良のため、[[2003年]]に政界から勇退した。座右の銘は「随処在主」与えられたポスト、現在ある立場でベストを尽くすことの意。

2020年7月25日 (土) 04:15時点における版

牧野 隆守
まきの たかもり
生年月日 1926年1月14日
出生地 福井県坂井郡丸岡町
没年月日 (2008-01-11) 2008年1月11日(81歳没)
出身校 東京大学法学部卒業
前職 大阪通産局局長
所属政党 自由民主党
称号 従三位
旭日大綬章
法学士(東京大学・1949年

日本の旗 第66-67代 労働大臣
内閣 小渕第2次改造内閣
第1次森内閣
在任期間 1999年10月5日 - 2000年7月4日

選挙区福井県全県区→)
福井2区
当選回数 6回
在任期間 1979年 - 2003年
テンプレートを表示

牧野 隆守(まきの たかもり、1926年1月14日 - 2008年1月11日)は、日本政治家位階従三位勲等旭日大綬章

衆議院議員(6期)、政務官房副長官(宇野宗佑内閣)、労働大臣第2次小渕改造内閣第1次森内閣)を歴任。

来歴・人物

福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。福井中学などを経て、東京大学法学部入学。東大在学中に高等文官試験司法科(現在の司法試験)合格。卒業後、1949年に旧商工省(のちの通産省)に入省。同期には藤原一郎(通産事務次官)、平松守彦、大永勇作(中小企業信用保険公庫総裁)、井川博(経済企画事務次官)、織田季明(官房審議官)、小泉孝夫(通産省工業検査所所長)などがいた。

ニューヨーク駐在・在ドイツ日本国大使館一等書記官などを経て、1974年8月に大阪通産局長で退官後、1979年第35回衆議院議員総選挙で初当選(当選同期に佐藤信二保利耕輔畑英次郎麻生太郎岸田文武白川勝彦丹羽雄哉亀井静香吹田愰宮下創平亀井善之船田元など)。所属派閥は中曽根渡辺派を経て志帥会江藤・亀井派)旗揚げに参加。戦跡は6勝3敗(中選挙区時代は福井県全県区、小選挙区制導入で福井2区

宇野内閣内閣官房副長官第2次小渕改造内閣第1次森内閣労働大臣を歴任。その後自民党行政改革推進本部顧問を務めるが、かねてからの体調不良のため、2003年に政界から勇退した。座右の銘は「随処在主」与えられたポスト、現在ある立場でベストを尽くすことの意。

2003年旭日大綬章受章。

2008年1月11日、心不全のため死去。81歳没。叙従三位

家族・親族