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「小笠原氏」の版間の差分

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== 小笠原氏の始まり ==
== 小笠原氏の始まり ==

2020年7月6日 (月) 21:57時点における版

小笠原氏
家紋
三階菱さんかいびし
本姓 清和源氏義光流
甲斐源氏
家祖 小笠原長清
種別 武家
華族伯爵
出身地 甲斐国巨摩郡小笠原
主な根拠地 信濃国
豊前国 など
著名な人物 小笠原長清
小笠原貞宗
小笠原政康
小笠原長棟
小笠原長時
小笠原貞慶
小笠原秀政
小笠原忠真
小笠原長行
支流、分家 安志藩(子爵)
唐津藩(子爵)
千束藩(子爵)
勝山藩(子爵)
水上氏武家
伴野氏(武家)
跡部氏(武家)
三好氏(武家)
赤沢氏(武家)
林氏(武家)
浅羽氏(武家)
大井氏(武家)
長坂氏(武家)など
凡例 / Category:日本の氏族

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本氏族清和源氏河内源氏の流れをくみ、武家有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「」・「」・「」などである。家紋は三階菱

概要

小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧山小笠原荘があった現在の山梨県北杜市明野町小笠原と、原小笠原荘があった現在の山梨県南アルプス市小笠原に居館があったとされる。なお、今日の研究[1]では原小笠原荘が小笠原氏の本貫であったと考えられている。

甲斐源氏嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波備前備中石見三河遠江陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。

室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。これが今日に知られる小笠原流の起源である。煎茶道兵法などにも小笠原流があるが、その起源は多様である。

また、抹茶の茶道においては、江戸時代千利休三世の千宗旦の高弟で四天王と呼ばれた山田宗徧を迎えて宗徧流茶道を保護し、村田珠光の一の弟子と呼ばれた古市澄胤の後裔を迎えて小笠原家茶道古流を興した。

小笠原氏の始まり

小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場しており、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185年)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である(現在では遠光ゆかりの寺院のみが、三階菱の中に「王」の文字を入れた原型を用いている)。

なお、長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり#阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て#石見小笠原氏となる。

阿波小笠原氏

阿波小笠原氏総領 三好長慶

阿波小笠原氏の祖は小笠原長経の次男、長房である。承久3年(1221年)の承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となったとされる。ただし、今日の研究では実際には長房が長男で長忠は三男であったとする説があり、また長忠の系統は京都を活動の中心としていた可能性が高い[2]

文永4年(1267年)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡三好郡に26000町余りの所領が与えられ、岩倉城を拠点とした。

阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。代表的な例としては三好氏安宅氏一宮氏小笠原成助)、大西氏大西覚養)、赤沢氏赤沢宗伝)などが挙げられる(ただし、それぞれの出自には諸説ある)。阿波小笠原氏の子孫の三好氏などについては、それぞれの記事を参照。

その他の阿波小笠原氏の支流にも七条氏・高志氏などがある[3]

石見小笠原氏

石見小笠原氏
家紋
三階菱さんかいびし
本姓 清和源氏義光流
家祖 小笠原長房[要曖昧さ回避]
種別 武家
出身地 阿波国三好郡
主な根拠地 石見国
長門国
著名な人物 小笠原長房[要曖昧さ回避]
小笠原長胤
小笠原長雄
支流、分家 刺賀氏武家
高見氏(武家)
君谷氏(武家)
祖式氏(武家)
山中氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

阿波守護職となった小笠原長房[要曖昧さ回避]の子、長親弘安の役の軍功によって、石見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだ事に始まる。長親は地元の有力国人である益田氏当主兼時の息女を室に迎え、弘安の役の後の不安定な石見国周辺の海岸を警護した。南北朝時代当主小笠原長胤武家方に従って活動、川本温湯城を居城とした。戦国時代に入ると石見銀山の支配を巡って対立する大内氏尼子氏に挟まれ、当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。

天正20年(1592年)に国替えにより出雲国神門郡神西に移封されたことで石見国を去る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封の際には一度毛利氏を離れることとなるも後に帰参し、石見小笠原氏は長州藩士として明治を迎えた。

京都小笠原氏

小笠原氏には宗家貞宗の弟の貞長[4]の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の長高は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であったというが史実か疑わしい。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。

京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。6代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『大舘常興書札抄』)とされた。

なお従来は、将軍家の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が後醍醐天皇の師範、長高が足利尊氏の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時貞慶父子の時代になってからである[5]

なお、小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。

京都小笠原氏の一族は、嫡流は幕臣として続いたが、小笠原稙盛永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝とともに討死すると、稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、後に細川氏(後の熊本藩主細川氏)に仕えた(稙盛は永禄の変後に足利義栄に従ったため、足利義昭の時代に所領を没収されたとする説もある[6])。秀清は関ヶ原の戦いの際に細川ガラシャ介錯を務め殉死し、秀清の子孫は江戸時代には熊本藩家老を務めた。また、庶流の小笠原元続は将軍足利義澄の死去後に幕府を離れ、縁戚の後北条氏を頼った。元続の子の康広北条氏康の娘婿となった。小田原征伐後北条氏嫡流が滅亡すると、康広の子の長房徳川家康の家臣となり、子孫は旗本として存続し、江戸時代の歴代の当主は縫殿助を称した。

旗本となった小笠原長房の子孫は家禄780石余、縫殿助を称した当主が多いため縫殿助家とも呼ばれる。長房の曾孫の持広享保元年(1716年)に将軍徳川吉宗の命により家伝の書籍91部と源頼朝の鞢(ゆがけ)を台覧に供した。これは吉宗が射礼犬追物など弓馬の古式の復興に熱心で諸家の記録を調べていたためで、「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」旨の言葉があったという。後に吉宗は近侍の臣らを持広の弟子として射礼を学ばせている。持広は弓場始(的始め)の式に伺候するとともに、小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを上覧に入れるなどした。

子孫も同様な役を勤め、幕末には小笠原鍾次郎が講武所で弓術教授を勤めたが、この家は維新期に断絶する。つまり、室町幕府以来最も長く礼法を伝える家系は現代には続いておらず、縫殿助家と共に徳川幕府の師範家となっていた旗本小笠原平兵衛家(もと赤沢氏)が、現代では小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家となっている。

信濃小笠原氏

鎌倉時代

小笠原氏の惣領職は初代の小笠原長清から小笠原長経に受け継がれたが、比企能員の変連座して失脚し、庶流伴野時長に移った。長経は承久の乱の功績で阿波国の守護に任ぜられ、同地に根拠を移す。しかし時長の娘が安達泰盛の母であり、時長の孫・伴野長泰は泰盛の従兄弟として霜月騒動に巻き込まれ戦死したため、惣領は長経の曾孫にあたる小笠原長氏に戻った。長氏は承久の乱後に信濃国に帰国した長忠の孫とされているが、長忠の子で長氏の父にあたる長政は京都の六波羅探題評定衆を務めていたことが確認できるため、京都が拠点であった可能性が高い。また、長忠の拠点であったとされる信濃国伊賀良荘(現在の長野県飯田市)も実際には北条氏の滅亡後に討幕の恩賞で小笠原氏の所領として与えられたとみられるため、長経系の信濃小笠原氏の成立は惣領の移転よりも更に後の建武政権期に下る可能性もある(小笠原氏惣領の所領は長清の所領があった甲斐国巨摩郡にあったとみられるため)[2]宝治元年(1247年)の宝治合戦では小笠原七郎が三浦泰村に味方して敗北した。建治元年(1275年)5月の『造六条八幡新宮用途支配事』によれば、鎌倉中小笠原入道跡が百貫を納めている[7]

信濃国の室町時代

小笠原貞宗鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏に従い鎌倉の戦いに出陣し、建武元年(1334年)、建武政権より信濃守および信濃守護に任じられ、筑摩郡井川館を築いた。

室町時代にも小笠原一族は幕府の奉公衆等となって活躍し、南北朝時代には小笠原政長(貞宗の子)は北朝に属したものの伊那谷は北条時行の拠点であり、後に諏訪氏仁科氏等の南朝の拠点となった。対して貞宗の跡を継いだ小笠原長基は若年であったため、代わりに上杉氏斯波氏が信濃守護を任じられた。長基は正平10年/文和4年(1355年)4月の桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破り吉野へ駆逐するなど戦功を挙げ、信濃守護に任じられた。

しかし、応永7年(1400年)に足利義満に仕えばさらであった小笠原長秀(長基の次男)が信濃国守護に任じられて入国すると、村上氏仁科氏諏訪氏滋野氏高梨氏井上氏など、信濃国人の大半が反発して大塔合戦を起こし、これに大敗した長秀は京都に逐電し守護職を罷免された。信濃守護職は斯波氏を経て室町幕府の料国(直接統治)とされたが、信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康が応永32年(1425年)に信濃守護職に任命されてからは信濃小笠原氏の守護職の地位が安定化した。

信濃小笠原氏が度々守護職が外された理由としては、信濃小笠原氏の統治能力の問題だけではなく、信濃が室町幕府の勢力圏と鎌倉府の管轄地域の境目にあり、その管轄が幕府と鎌倉府の間で変更されたり、自立性の強い信濃国人が守護による統治を嫌って幕府の直接統治を望んだことなどがあげられる。それが、大塔合戦の背景の一つでもあり、また信濃小笠原氏も上杉氏や斯波氏の守護在任時代には反守護の信濃国人側に立っている。だが、応永年間末期に室町幕府と鎌倉府の対立の構図が明確になると信濃は幕府側の最前線として位置づけが固まったこと、信濃国人が幕府の意向に必ずしも忠実ではないことが明らかになったことで信濃有数の勢力を持って幕府に比較的忠実な小笠原氏を守護として鎌倉府に対峙させ、幕府がそれを支援する方針が固まってきたと考えられている。もっとも、小笠原氏の守護職復帰後も村上氏・諏訪氏ら信濃国人との間に封建的な主従関係を確立できたわけではなく、守護権力が弱体化した状態が続くことになる[8]

信濃小笠原氏の3家分立

信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康は、たびたび戦乱を起こしていた鎌倉公方への抑え役として足利義持から重用されて、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命され、信濃国内、甲斐国武蔵国を転戦し、庶流の跡部氏を甲斐に送り込んだ。しかし、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教が暗殺されると畠山持国が台頭し小笠原長将(長秀の兄)の子の小笠原持長が家督相続を主張して内乱を起こし、文安3年(1446年)に政康の子小笠原宗康漆田原の戦いで討ち取って南下し、国府を奪い府中小笠原氏を起こした。しかし、宗康は戦死前に伊那郡伊賀良荘松尾小笠原氏である弟の小笠原光康を後継者に定めており、府中小笠原氏に対向した。また、府中から光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)も鈴岡小笠原氏を起こし小笠原氏は3家に分裂した。

鈴岡小笠原氏の滅亡

鈴岡小笠原政秀は、寛正2年(1461年)の光康の死により小笠原家の惣領の家督を継承したと見られ、府中小笠原清宗(持長の子)から府中を奪い返して、小笠原3家を統一し、文明5年(1473年)には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、筑摩郡の国衆の支持を得られなかったため、政秀は更級郡牧之島城に逃れた府中小笠原長朝(清宗の子)と和睦し、明応元年(1492年)の幕府の近江遠征には(長享・延徳の乱)には長朝が出兵した。

松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は鈴岡小笠原政秀と共闘し、応仁の乱中の文明5年(1473年)、東軍の要請で木曽家豊と共に美濃国に遠征したが[9][10]、文明12年(1480年)に政秀と合戦となり戦死した。家長の子松尾小笠原定基は明応2年(1493年)に政秀を暗殺し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。

鈴岡小笠原氏の滅亡後も松尾・府中両小笠原氏の争いが続いた。ところが、駿河国の今川氏親が遠江国に侵攻すると、その対応に苦慮した遠江の守護職である斯波義寛は信濃小笠原氏への援軍を依頼した。ところが、松尾小笠原氏も府中小笠原氏も互いに自分への援軍要請を求めて争う始末であり、却って小笠原氏の内紛に巻き込まれる形となった斯波氏は両者の仲立ちを引き受けて和睦を図り、その後永正年間に入ると府中小笠原貞朝の娘が松尾小笠原貞忠の妻になることで一時的に和睦して斯波氏への援軍を送った。だが、遠江は今川氏の手に落ち、両者の和睦も長くは続かなかった[11]

松尾小笠原氏の流浪

松尾小笠原定基は、娘を木曽義在に嫁がせて木曽氏と婚姻関係となり東濃の領地を維持し[10]、府中小笠原長朝の侵攻を撃退し、三河国にも遠征したが、天文3年(1534年)、子の松尾小笠原貞忠が府中小笠原長棟(貞朝の子)や鈴岡小笠原氏の親族の下条氏に攻められて松尾城が落城し、甲斐国に落ち延びた。

天文23年(1554年)、松尾小笠原信貴(定基の子)・小笠原信嶺父子が武田氏の伊那侵攻で信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復した。小笠原信嶺はその後、織田信長の甲州征伐の時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、1万石ながら大名となった。

松尾小笠原氏の江戸時代

江戸時代には、小笠原信之(信嶺の婿養子)がそのまま譜代大名となり、この家系は本庄、古河、関宿、高須を経て、越前国勝山(現在の福井県勝山市)2万2000石に移った。元弘3年(1333年)の小笠原宗長宛て足利高氏の書状に始まり、天正3年(1575年)の小笠原信嶺宛て武田勝頼の書状まで、信濃守護小笠原氏が伝えた計185通の文書群『勝山小笠原文書』はこの家系に伝わり、のちに東京大学史料編纂所に所蔵された。

また小笠原長巨交代寄合旗本(伊那衆)となった。

明治時代になると、勝山藩主家は華族令により子爵に列せられた。

府中小笠原氏の流浪

府中小笠原氏は統一を果たした長棟の没後、その長男である長時の時代に甲斐国武田晴信(信玄)が信濃の領国化を開始し(信濃侵攻)、長時は小県郡の村上義清らと連携して抵抗するが、天文19年(1550年)には本拠の林城が陥落すると信濃から駆逐される(『高白斎記』)。

このころ中央では第13代将軍・足利義輝を推戴する三好長慶が勢力をもっていたが、三好氏は小笠原一族を称し長時を庇護し、長時と三男貞慶は三好氏や京都小笠原氏など同族間ネットワークをもつ京に滞在し在京奉公を行う。永禄4年(1561年)には北信豪族を庇護し武田氏川中島の戦いを繰り広げていた上杉謙信に長時の帰国支援が命じられるが、川中島合戦は永禄4年を境に収束し、長時の帰国は実現していない。

その後は将軍・義輝の没落と御館の乱により長時は会津へ逃れる。天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては長時の弟である小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、小笠原旧臣の助力を得て木曾義昌から深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、長時の3男の貞慶徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城を奪還する。

天正18年(1590年)には貞慶の長男・秀政下総古河(現在の茨城県古河市)3万石を与えられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、翌年の慶長6年(1601年)には信濃国飯田(現在の長野県飯田市)5万石に加増の上で転封となる。

府中小笠原氏の江戸時代

江戸時代には、府中小笠原氏からは四家が大名となった(いずれも譜代大名)。府中小笠原氏では小笠原秀政が松平信康の娘の登久姫と婚姻し、有力な譜代大名となった。秀政は下総国古河から信濃国飯田を経て、慶長18年(1613年)には父祖縁の地である信濃国松本(現在の長野県松本市)8万石に転封となる。秀政と長男の忠脩は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死し、忠脩の長男の長次は幼年であったため、秀政の次男の忠真が家督を相続した。忠真は元和3年(1617年)に播磨国明石(現在の兵庫県明石市)10万石に転封となり、寛永9年(1632年)に豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)15万石に転封となる。同時に秀政の三男の忠知には豊後国杵築(現在の大分県杵築市)4万石が、忠脩の長男の長次には豊前国中津(現在の大分県中津市)8万石が与えられた。また、寛文11年(1671年)には忠真の四男の真方が兄の忠雄から1万石を分与され小倉新田藩(千束藩)を立藩した。

忠真系は幕末まで小倉藩主として継続、忠知系は転封を重ねて最終的には肥前国唐津(現在の佐賀県唐津市)6万石に、長次系は悪政や無嗣による改易で最終的に播磨国安志(現在の兵庫県姫路市)1万石に移った。長次系の歴代当主は小笠原氏ゆかりの信濃守を称した。

明治時代になると、小倉藩主家は華族令により伯爵、分家の唐津・安志・千束藩主家はいずれも子爵に列せられた。

遠江小笠原氏

府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が小笠原氏の内紛を逃れて、やがて今川氏に仕え、遠江小笠原氏(高天神小笠原氏)となったとされる。江戸時代には紀州徳川家に仕えた。

その他の小笠原氏の一族

  • 霜月騒動で戦死した伴野長泰の孫である伴野泰房三河国太陽寺荘に逃れ、幡豆小笠原氏の祖となった。
  • 武田氏の混乱に乗じて一時甲斐を実効支配した跡部氏は小笠原氏の一族とされる。
  • 九戸氏の出自が小笠原氏という一説がある。
  • 小笠原貞頼徳川家康に命じられ、南方探検に出た際、文禄2年(1593年)に小笠原諸島を発見しているといわれている。しかし、小笠原氏の系図にはこの人物は存在しない。
  • 大浦氏の家臣(大浦三老)に小笠原信浄なる人物がいる。信浄は小笠原氏の一族とする説もあるが、無関係とする説もある。
  • 出羽楢岡氏は小笠原氏の庶流で戸沢氏の家臣である。
  • 傍流とされる林氏(三河林氏)は、徳川氏始祖とされる松平親氏の頃から三河の松平氏(徳川氏)に仕えていたとされ、江戸時代は幕府の大身旗本であったが、幕府後期の林忠英の代に将軍徳川家斉の寵臣として加増を重ね、貝淵藩(請西藩)1万石の大名となった。最後の藩主の林忠崇戊辰戦争において各地の戦いに幕府方として参加したため、大名として最後の例となる改易処分となり、当初、一族であることを理由に江戸の唐津藩邸(小笠原氏)にて幽閉された。このため林家は明治期に入っても旧大名家としての扱い、すなわち「華族」となれずにいたが、請西藩の旧家臣らの奔走により、明治26年にようやく家名復興となり華族・男爵となった。この家名復興運動の際、林家の旧臣らは一族である縁を頼りに元大名の小笠原氏の華族諸家に援助を依頼している。先ず明治2年に家名復興を嘆願した際は、小笠原長国(忠知系・唐津藩)が願主となっている。ただしこの際は(林家が大名であった期間も短いことから)「士族(東京士族)」としてしか認められていない。明治政府側は林家が華族となるための条件として「華族としての体裁を保てるだけの財産」すなわち当座の現金が必要だとしたため、旧家臣らは小笠原氏の元大名諸家に金策を嘆願したが、元はそれなりの大藩であったはずのどの家も「自分たちも金が無い」「自前で金策ができた後の嘆願書提出には協力する」としてこれに応じなかった。のち旧家臣らや旧領民らの援助により現金を用意することができたことにより、旧家臣らが政府に対する正式な嘆願を行う際は、小笠原一族として小笠原忠忱伯爵(本家・小倉藩)を名目上の主導者として、小笠原長育子爵(信嶺系・勝山藩)、小笠原貞孚子爵(忠脩系・安志藩)が名を連ね、華族制度を取り仕切る宮内大臣土方久元宛に嘆願書提出を行っている。

系譜

              

庶流

脚注

注釈

  1. ^ 系図の出典元は不明。

出典

  1. ^ 秋山敬「小笠原牧と小笠原荘-甲斐の荘園」網野善彦 編『馬の文化叢書 第三巻 中世』馬事文化財団、1995年(初出:1981年)
  2. ^ a b 花岡康隆「信濃小笠原氏の研究の軌跡と成果」(花岡編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』(戒光祥出版2016年ISBN 978-4-86403-183-7
  3. ^ ただし、東大史料編纂所所蔵の原蔵文書である「七条氏系図」、「七条氏家系考証」、「七条氏本支録」などの記載によると、鎌倉時代後期~南北朝時代初期あたりに、三好氏とともに分岐した同族の七条氏や高志氏がすでに、阿波に勃興しており、三好氏の先祖はその頃には阿波に入ったと述べており、三好氏の本姓は七条氏や高志氏とともに藤原氏とも久米氏とも称したという。
  4. ^ 寛政重修諸家譜』によれば弟、『尊卑分脈』では宗長(貞宗の父)の嫡男とする。
  5. ^ 二木謙一 「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』二木謙一、吉川弘文館1985年。に詳しい。ただし、信濃小笠原氏も弓馬師範ではなかったものの、乗馬に通じていることが広く知られていたことを指摘する村石正行の論文もある(「足利義材政権と小笠原氏」「小笠原長時の外交活動と同名氏族間交流」(いずれも花岡康隆 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』、戒光祥出版2016年。に所収)。
  6. ^ 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2))
  7. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390』
  8. ^ 湯本軍一「守護小笠原氏の分国支配」(初出:『信濃』24巻6号(1972年)/所収:花岡康隆 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-183-7
  9. ^ 『11月21日付小笠原左衛門佐宛細川政国書状』
  10. ^ a b 『中津川市史』p.579-595
  11. ^ 後藤芳孝「小笠原氏の内訌をめぐって」(初出:『松本市史研究』5号(1995年)/所収:花岡康隆 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-183-7

参考文献

  • 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003622
  • 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003630
  • 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003649
  • 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003657
  • 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003568
  • 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003576
  • 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003584
  • 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003592
  • 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003606
  • 花岡康隆 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』(戒光祥出版2016年ISBN 978-4-86403-183-7
  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001年

関連項目

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