コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小笠原春義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 春義
生誕 未詳
死没 元亀3年5月14日1572年6月24日
改名 長氏→春義
別名 春茂、春儀
通称:豊千代、彦太郎、與八郎
官途名:左京大夫
主君 今川氏親
氏族 遠江小笠原氏
父母 父:小笠原長高
今川氏親の娘?
氏興福島綱氏福島基綱養子)、清広義頼
テンプレートを表示

小笠原 春義(おがさわら はるよし)は、戦国時代の武将。

生涯

[編集]
華嚴院への寄進状(『小笠原春茂寺領寄進狀』天文11年10月26日、華嚴院蔵)[1]

小笠原長高の長男。子に小笠原氏興福島綱氏福島基綱の養子となる)、小笠原清広(庶子のため別家を興す)、小笠原義頼(氏興の子信興の跡を相続)がいる。清広、義頼の家系は共に紀州徳川家の家臣となった。

大永元年(1521年)、当時の高天神城主であった福島正成が今川氏親に離反した際にこれを討伐し、入れ替わりに高天神城主となる。

妻は今川氏親の娘とされるが、同時代の史料で確認出来ない上、『寛永諸家系図伝』に記載されていないのは不自然であるとして、後世の創作説もある[2]。ただし、春義の子が今川氏の一門で家中でも最上位に属する「御一家衆」にしか許されていなかった「氏」の偏諱を与えられていることから、母親である春義の妻が御一家衆の出身でこれによって春義も今川氏一門に准じた扱いを受けた可能性は高いとみられる[3]

脚注

[編集]
  1. ^ 『靜岡縣史料』4輯、靜岡縣、1938年、256-257頁。
  2. ^ 黒田基樹 『北条氏康の妻 瑞渓院』 平凡社、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8 pp. 53-55.
  3. ^ 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年、P88-89.

参考文献

[編集]