小笠原秀清
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文16年(1547年)[注釈 1] |
死没 | 慶長5年7月17日(1600年8月25日) |
改名 | 秀清(諱)、少斎(法名) |
別名 | 又六、加々美小左衛門、小笠原少斎 |
戒名 | 隆心院殿前備州功巌道忠大居士[1] |
墓所 | 常楽寺跡(熊本市黒髪5丁目23-33) |
官位 | 備前守・民部少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義輝→細川藤孝→忠興 |
藩 | 細川家家老 |
氏族 | 小笠原氏(京都小笠原氏) |
父母 | 父:小笠原稙盛、母:不詳 |
妻 | 松寿院(北野天満宮宮寺・松梅院祠官(菅原氏)息女) |
子 | 長元、長良、長定(玄也) |
小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士・故実家。室町幕府幕臣・細川氏(後の肥後藩主家)家臣。一般には小笠原 少斎[注釈 2](おがさわら しょうさい)の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。
生涯
[編集]室町幕府幕臣期
[編集]天文16年(1547年)出生[注釈 1]。永禄元年(1559年)11月27日、12歳で将軍足利義輝に初の目見え[2][3]。
生家の小笠原備前守家は京都小笠原氏の嫡流で、元来奉公衆の一員であったが、将軍義輝のもとで申次衆に編入されていた[3]。「永禄六年諸役人付」では、申次に父稙盛(備前守・民部少輔)とともに小笠原又六(秀清)が記載されている[4]。永禄8年(1565年)5月19日の永禄の変で稙盛は義輝と共に討死したともされるが[5]、変の後も活動が見られることから生存しており[注釈 3]、天正年間に没した[7]。
秀清は永禄の変後に浪人となり、京都深草に住し加々美少左衛門と名をあらためていた[8]。永禄12年(1569年)7月には美濃国岐阜の近辺に居住しており[9]、元亀3年(1572年)正月までには京に戻っている。天正元年(1573年)以前に家督を相続し、天正元年4月には幕臣としての活動が見られることから幕府に再出仕したと見られるが、これ以降幕臣としての活動は見られなくなる。[10]
織田政権期、細川氏家臣期
[編集]天正元年(1573年)7月の足利義昭の没落に秀清は随行せず、以後は織田氏政権との関係が見られる[11]。天正9年2月28日の京都馬揃えには、旧幕府関係者と共に秀清も参加したとの指摘もある[注釈 4]。 天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉から知行地を横領され、丹後国の細川藤孝の元に下向[12][13]、客分となり500石(600石とも)を給された[8]。後に剃髪して少斎と号したが、その時期は藤孝と同時の天正10年(1582年)[14]とも、慶長元年(1596年)[5]ともいう。
最期
[編集]慶長5年(1600年)6月、細川忠興が会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、川北一成[注釈 5]・稲富祐直(一夢)らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。7月16日、忠興の正室の玉子(ガラシャ)の大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。ガラシャと相談の上、重ねて要求のあったときには自害すると決定した。17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。この後、秀清は屋敷に火をかけて、川北一成らと共に自害した。享年54[1]。秀清の家臣三名もこれに殉じた[1]。
稲富祐直は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。
武家故実
[編集]生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕え、6代将軍足利義教以降、代々将軍の弓馬師範を務める家柄であり、武家故実の中心的存在であった[16]。秀清も武家故実に関与しており、蜷川家文書の武家故実に関するものには秀清の口伝本を書写したものがある[17]。また弓術の日置流雪荷派の伝書などには、始祖の吉田雪荷は秀清から故実を伝授されたとの記述がある[18]。
秀清の子孫は江戸時代を通じ故実を伝えていたが、明治15年、当主小笠原宥(小笠原長厚)の代で出水神社(水前寺公園)に小笠原流の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた[注釈 6]。
系譜
[編集]秀清の子孫は、細川忠興の近親などと縁戚を結び、細川家の重職を歴任した。
- 嫡男・長元(長貞・長基、備前)には、細川忠興の姪で吉田兼治の息女たま(生母は細川幽斎の娘の伊也)が嫁した。子孫は知行六千石。藩主一門と婚姻を重ね、備頭・家老などの要職に就いた。[5]長元の次男の長昌・三男の長義が分家したが、長義は寛文9年(1669年)、陽明学徒追放により藩を離れた[19]。
- 次男・長良(宮内少)には、細川幽斎の息女で長岡孝以室であった千が再嫁した。知行六百石。子はなく一代で断絶[20]。キリシタンであったが棄教した。
- 三男・長定(与三郎・刑部入道玄也)には、細川家重臣の加賀山興良の息女みやが嫁した。興良はキリシタンで、元和5年(1619年)10月15日小倉で殉教[21]。長定一家もキリシタンであり棄教を迫られ続けたものの、その後も長らく秘匿されていた。細川家の移封に従い熊本に移るが、長崎奉行への密告があって幕府に露見したため、寛永12年12月22日[22](1636年1月30日[21])、熊本禅定寺において家族・従者と共に殉教した。平成19年(2007年)6月1日、家族・従者ともに福者に列せられることが決定し(ペトロ岐部と187殉教者)[23]、平成20年(2008年)11月24日に長崎県長崎市の長崎県営野球場で列福式が執り行われた[24]。
- 小笠原家は、秀清-長元-長之-長英-長知-長衡(長軌)-長栄-長頭-長視-長洪-長厚(宥)と続く[25]。なお、秀清が介錯したガラシャの嫡孫にあたる長岡忠春の正室には、秀清の孫にあたる長之の娘の三が嫁した。また、第6代当主・小笠原備前長軌(ながのり)は、細川宣紀の娘の津與姫を妻に迎えている。
演者
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 享年からの逆算。
- ^ 勝斎、松斎、尚斎などの表記も見られる。
- ^ 木下は、父の稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられた永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書が残されており、稙盛・秀清父子は永禄の変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測している[6]
- ^ 水野による[11]。出典の信長公記天正九年二月二十八日条においては「小笠原」とのみ記されている。
- ^ もと明智氏家臣。ガラシャ輿入れに従い細川家に。ガラシャの味土野幽閉にも供した。子の代で河喜多と改姓[15]。
- ^ 『明治十五年に至り、時の当主小笠原長厚の代で、旧細川氏の守護神である出水神社(水前寺公園)に小笠原流最後の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた。 しかし、その装束・伝書故実等は、現在鎌倉の武田流司家に保存維持されている。』(「武田流弓馬道」の旧ウェブサイト より引用。)
出典
[編集]- ^ a b c 常楽寺跡 「小笠原家累代之墓所 小笠原尚斎之墓」 案内板
- ^ 『後鑑』永禄元年11月27日条「伊勢貞助記」。 経済雑誌社 編『続国史大系』 第八巻、経済雑誌社、1904年7月25日。NDLJP:991115 。
- ^ a b 水野, p. 7.
- ^ 永禄六年諸役人付.
- ^ a b c 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原七郎の項
- ^ 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2。(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年)
- ^ 水野, p. 3.
- ^ a b 「小笠原家のこと」.
- ^ 『言継卿記』永禄12年7月13日条
- ^ 水野, pp. 9–10.
- ^ a b 水野, pp. 17.
- ^ 『兼見卿記』天正10年11月16日条
- ^ 水野, p. 19.
- ^ ありのままの熊本アーカイブス 熊本県地域文化発信サイト > 小笠原少斎の墓 熊本市(Internet Archive、2016年3月4日) - 旧サイト [リンク切れ]
- ^ *“治部左衛門家「先祖附」にみる河喜多家”. 津々堂のたわごと日録. 2022年1月29日閲覧。
- ^ 二木謙一「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、1985年5月1日。ISBN 9784642025324。
- ^ 東京大学史料編纂所 編「附録四九 射禮私記」『蜷川家文書之四』 大日本古文書 家わけ第二十一、東京大学出版会、1992年9月8日、360頁。ISBN 978-4-13-091234-1 。など
- ^ 今村嘉雄、小笠原清信、岸野雄三 編『弓術・馬術』 第3巻、人物往来社〈日本武道全集〉、1966年。doi:10.11501/2466847。ISBN 978-4-13-091234-1 。
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原夫五郎、小笠原勘助長義の項
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原宮内少の項
- ^ a b カトリック中央協議会 2007b, p. 2.
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原玄也の項
- ^ “ペトロ岐部と187殉教者の列福、正式に決定”. カトリック中央協議会. 宗教法人 カトリック中央協議会 (2007年6月1日). 2022年1月29日閲覧。
- ^ “列福式のお礼とご報告”. カトリック中央協議会. 宗教法人 カトリック中央協議会 (2009年3月12日). 2022年1月29日閲覧。
- ^ 『肥後読史総覧』「小笠原備前家」.
参考文献
[編集]- 『国立国会図書館デジタルコレクション 肥後読史総覧』 上巻、鶴屋百貨店、1983年。doi:10.11501/9774527 。2023年12月9日閲覧。
- 橋本博 編「永禄六年諸役人付」『国立国会図書館デジタルコレクション 大武鑑』 巻之1、大洽社、1935年。doi:10.11501/1015270。 NCID BN12769227 。2022年1月29日閲覧。
- 水野哲雄「室町幕府武家故実家京都小笠原氏の展開」『九州史学』第142号、九州史学研究会、2005年8月、1-24頁、CRID 1520009407035628032。
- 「常楽寺跡 小笠原少斎の墓(熊本市中央区)」 『ぶらり歴史旅一期一会』 -2022年1月29日閲覧
- “新・肥後細川藩侍帳”. 肥後細川藩拾遺. 2007年12月24日閲覧。
- “霜女覚書”. 肥後細川藩拾遺. 2007年12月24日閲覧。
- “ガラシャ夫人御生害・5(小笠原家のこと)”. 津々堂のたわごと日録. 2017年7月16日閲覧。
- 「武田流弓馬道」> 流鏑馬の歴史 > 六、備前小笠原氏(小笠原流弓馬術宗家)(Internet Archive、2005年9月16日) - 旧サイト [リンク切れ]
- “日本188殉教者名簿” (pdf). カトリック中央協議会. 宗教法人 カトリック中央協議会. p. 2 (2007年8月27日). 2022年1月29日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 我が姫垣-細川ガラシャ - ガラシャ自害時の資料など。