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逸見光長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
逸見 光長
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 大治3年8月15日1128年9月11日
死没 不明
別名 太郎、逸見冠者
墓所 清光寺(現・山梨県北杜市
官位 上総介
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝
氏族 甲斐源氏逸見氏
父母 父:源清光、母:駿河国手越宿の遊女
兄弟 光長武田信義加賀美遠光安田義定二宮清隆河内義長田井光義曾禰厳尊奈胡義行浅利義遠八代信清利見義氏河内長義源道光源光賢
基義深津義長義俊保義飯富宗長[注 1]
養子:有義(武田信義庶長子)
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逸見 光長(へんみ みつなが)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将逸見氏、深津氏[注 2]、大桑氏などの祖[2][1]

生涯

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大治3年(1128年[注 3]8月15日新羅三郎義光の孫である源清光の長男として誕生。母は駿河国手越宿[注 4]の遊女とされる[要出典]武田信義双子の弟である[4][5][注 5]。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる[6]

逸見太郎を名乗り、逸見荘を領した[1]源頼朝が挙兵した際には鎌倉に馳せ参じた[1]元暦元年(1184年木曽義仲追討の功により、上総介に任ぜられた[7]

墓は清光寺(現・山梨県北杜市)にある[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 一説に飯富季貞の実子[要出典]
  2. ^ 野澤公次郎は「深決氏」としている[1]
  3. ^ 生年についての記録はないが、『吾妻鑑』にある弟・信義の没年から逆算し、信義とともに大治3年の生まれと推測される[3]
  4. ^ 現在の静岡県静岡市駿河区
  5. ^ 一説に信義とは異母兄弟であるという[要出典]

出典

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  1. ^ a b c d 野澤 1967, p. 22.
  2. ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 225.
  3. ^ 野澤 1967, pp. 36–37.
  4. ^ 野澤 1967, p. 24.
  5. ^ 野澤 1967, p. 36.
  6. ^ 尊卑分脈
  7. ^ 野澤 1967, p. 73.
  8. ^ 野澤 1967, p. 27.

参考文献

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  • 野澤公次郎『甲斐源氏と武田氏』東都山梨新聞社、1967年8月20日。NDLJP:2983761 (要登録)
  • 甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史』 通史編 第一巻《原始・古代・中世》、甲府市役所、1991年4月20日。NDLJP:9540836 (要登録)