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小笠原秀政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 秀政
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄12年3月21日1569年4月7日
死没 慶長20年5月7日1615年6月3日
改名 幸松丸(幼名)→貞政(初名)[1]→秀政
戒名 両選院殿義捜宗玄大居士
墓所 長野県松本市埋橋の埋橋剣塚
長野県松本市里山辺の広沢寺
官位 従五位下[1]信濃守[1]上野介[1]、兵部大輔[1]
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠
下総古河藩主→信濃飯田藩主→松本藩
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原貞慶[1]
母:日野輝資の養女(高畠長成の娘)
正室:登久姫峯高院松平信康の娘)
側室:新田氏
忠脩[1]忠真氏姫蜂須賀至鎮室)、千代姫(保寿院細川忠利正室)、忠知[1]松平重直忠慶長俊溝口政房原昌行
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小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名信濃守護小笠原氏の末裔。下総古河藩主、信濃飯田藩主を経て、信濃松本藩主となる。小笠原宗家初代。

生涯

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永禄12年(1569年)3月21日、小笠原貞慶の長男として山城国宇治田原で生まれた。この頃の小笠原氏は武田信玄信濃国を追われて流浪していたため、このような場所で生まれたものと思われる。天正10年(1582年)6月の本能寺の変織田信長が死去すると、父の貞慶は徳川家康の家臣となるため、長男の貞政を人質として差し出し、貞政は石川数正に預けられた。

天正13年(1585年)、石川数正が貞政を引き連れて豊臣秀吉のもとへ出奔すると、貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった[注釈 1]。貞政は秀吉より偏諱を与えられ、秀政と名乗った。天正17年(1589年)1月、父から家督を譲られて小笠原家の当主となった。8月には秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘の登久姫信康の娘)を娶ることを許された。

天正18年(1590年)、小田原征伐で軍功を挙げた。しかし父が秀吉の怒りを買って改易されると、父と共に再び家康に仕え、家康から下総国古河に3万石を与えられた。

文禄4年(1595年)3月20日、従五位下・上野介に任じられ、豊臣姓を与えられた[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき宇都宮城守備に功を挙げ、翌年(1601年)に信濃国飯田5万石に加増移封された。慶長12年(1607年)、出家して家督を長男の忠脩に譲った[疑問点]。慶長18年(1613年)に父祖の地である信濃国松本8万石に加増移封された。

慶長20年(1615年)の大坂冬の陣の際は忠脩が小笠原軍を率いて出陣し、秀政は松本城の留守居であった。大坂夏の陣には秀政が参陣し忠脩が留守居を勤める予定であったが、忠脩は勝手に国元を出て従軍した。これは重大な軍令違反に相当するが、家康はこれを許したため、小笠原父子の軍は隣藩の諏訪忠恒らと共に榊原康勝軍に従って参戦した。しかし天王寺口の戦い本多忠朝を救援した際、大坂方[注釈 2]の猛攻を受けて忠脩は戦死し、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱するが、間もなく戦傷により死去したとされる[注釈 3]。享年47[1]。この激戦において本多忠朝も戦死し、榊原康勝も持病が悪化するのを構わず踏みとどまって戦い、それが原因で戦後すぐに病死している。

跡を次男の忠真が継いだ[疑問点]。なお、このときの秀政父子の戦死が、後世の小笠原家が改易の危機に見舞われた際、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成した。

逸話

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  • 死ぬ前に、家康に対して「信濃は……」と言い残したと伝わる。続きは不明。後継者に関するものだと思われる。
  • 織田信孝と同じ「弌剣平天下」の印判を用いていた[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 貞慶が秀吉と内通したために、数正も秀吉のもとへ出奔せざるを得なくなったとする柴裕之の説もある[2]。 しかし『三河物語』や『松平記』からは数正が天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのがわかり、やはり数正の出奔が貞慶の徳川氏離反の直接の原因と考えられる。
  2. ^ 毛利勝永隊、毛利隊を追随してきた木村宗明らなど諸説ある。
  3. ^ 大坂夏の陣のときに死去したのは家康で、その後の1年間は秀政が家康の影武者として存命を偽装したという説がある。徳川家康の影武者説#その他の影武者説を参照。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 今井尭 1984, p. 273.
  2. ^ 柴裕之「石川康輝(数正)出奔の政治背景」『戦国史研究』60号、2010年。 /所収:『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-884-4 
  3. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年、120頁。 
  4. ^ 成就院古文書』。※慶長寅が1641年と書いてあるが、1614年の誤り。

参考文献

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