松平光行
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 明和6年3月28日(1769年5月4日)[1] |
死没 | 天保10年12月14日(1840年1月18日) |
改名 | 牛之助(幼名)→光信(初名)→光行 |
別名 | 弘裕斎 |
戒名 | 瑞光院祥厳道鱗 |
墓所 | 長野県松本市県の戸田家廟園 |
官位 | 従五位下、弾正少弼、河内守、丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 信濃松本藩主 |
氏族 | 戸田氏→戸田松平家 |
父母 |
父:戸田光為、母:和田氏 養父:松平光悌 |
妻 | 錠姫(松平光悌の娘) |
子 |
定宝、戸田光逸、光庸、 甲斐庄正道(四男)、浜(牧野貞幹正室のち今城定章室)、寿(南部信経正室)、 鉚(小笠原長武正室)、娘(青木一咸正室) 養子:光年 |
松平 光行(まつだいら みつゆき)は、信濃松本藩の第6代藩主。戸田松平家11代。別名は弘裕斎[2]。
生涯
[編集]松本藩分家で美濃国北方5000石を領する大身旗本・戸田光為(松平光熙の四男戸田光清の子)の四男として生まれる。天明6年(1786年)8月14日、5代藩主・松平光悌が死去したため、その末期養子として家督を相続する。同年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。天明7年(1787年)12月18日、従五位下・弾正少弼に叙任される。
寛政2年(1790年)、城下に溜牢を設置し、軽罪人の収容先とする。寛政5年(1793年)、藩校崇教館を設立した。
寛政12年(1800年)2月23日、隠居し、養子の光年(光悌の長男)に家督を譲る。文政12年(1829年)8月5日、剃髪して竹翁と称する。また同年、藩儒の多湖安元に命じて、『弘裕斎撰語』を出版した[3]。
天保10年12月14日(1840年1月18日)に麻布白銀邸で死去した。享年71。
系譜
[編集]父母
正室
- 錠姫 ー 松平光悌の娘
側室
- 岡村氏
- 酒井氏
- 北川氏
- 小崎氏
子女
- 松平定宝、生母は酒井氏(側室)
- 戸田光逸、生母は酒井氏(側室)
- 松平光庸(三男)生母は錠姫(正室)
- 甲斐庄正道(四男)生母は錠姫(正室)
- 浜 ー 牧野貞幹正室のち今城定章室、生母は岡村氏(側室)
- 寿 ー 南部信経正室、生母は錠姫(正室)
- 鉚 ー 小笠原長武正室、生母は北川氏(側室)
- 青木一咸正室
養子
系図
[編集]松平光煕5 | |||||||||||||||||||||||||||||||
松平光慈6 | 戸田光清 | 松平光雄7 | |||||||||||||||||||||||||||||
戸田光為 | 松平光徳8 | 松平光和9 | 松平光悌10 | ||||||||||||||||||||||||||||
松平光行11 | 錠姫 | 松平光年12 | |||||||||||||||||||||||||||||
松平光庸13 | 松平光領 | ||||||||||||||||||||||||||||||
松平光則14 | |||||||||||||||||||||||||||||||