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小笠原貞孚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原貞孚
小笠原貞孚
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永3年11月4日1850年12月7日
死没 明治38年(1905年6月3日
改名 幸松丸(幼名)、貞孚
墓所 東京都練馬区桜台の円満山広徳寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
播磨安志藩
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原貞幹、母:不詳
兄弟 貞孚忠忱、きん、登代子
松平光則の娘
養子:長丕
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小笠原 貞孚(おがさわら さだざね/さだちか)は、播磨国安志藩7代(最後の)藩主。忠脩系小笠原家12代。

生涯

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嘉永3年(1850年)11月4日、6代藩主・小笠原貞幹の長男として生まれる。万延元年(1860年)11月6日、父・貞幹(忠幹と改名)が本家豊前小倉藩を継いだため、嫡男である貞孚が代わって安志藩主となる。

幕末期には本家とともに元治元年(1864年)の第一次長州征討慶応2年(1866年)の第二次長州征討に参加している。第二次長州征討では、小笠原忠忱小笠原貞正らとともに長州藩と戦うものの、敗れて肥後にまで撤退した。

慶応4年(1868年)1月17日、新政府に対し、病気のために重臣を上洛させることを願い、2月21日、重臣を上洛させる。同年4月26日、貞孚が上洛する。同年閏4月11日、従五位下・信濃守に叙任する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。明治17年(1884年)に子爵を授けられた。明治38年(1905年)6月3日、安志で死去した。享年56。墓所は東京都練馬区桜台の円満山広徳寺

系譜

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
安志小笠原家初代
1884年 - 1905年
次代
小笠原長丕