小笠原長矩
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和10年1月24日(1624年3月13日) |
死没 | 延宝6年2月8日(1678年3月30日) |
改名 | 千勝丸(幼名)→長矩 |
別名 | 長頼 |
戒名 | 泰雲院殿宝峯正印大居士 |
墓所 | 愛知県豊橋市東田町坂上の臨済寺 |
官位 | 従五位下、山城守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行 |
藩 | 三河吉田藩主 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原忠知、母:多賀光定の娘 |
兄弟 | 長矩、長敦、長定、長秋 |
妻 | 正室:菅沼定芳の娘 |
子 | 長祐、長重 |
小笠原 長矩(おがさわら ながのり)は、三河吉田藩の第2代藩主。忠知系小笠原家2代。
生涯
[編集]元和10年(1624年)1月24日、初代藩主・小笠原忠知の長男として江戸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去により家督を継いで第2代藩主となる。このとき、弟の長定に3,000石、長秋に2,000石を分与したため、自らは4万石を領することになった。なお、家督相続と同時に奏者番に任じられた。
寛文6年(1666年)7月19日に寺社奉行に任じられ、延宝6年(1678年)2月6日まで務めた。藩政では新田開発に尽力している。また、龍拈寺・悟真寺とともに神宮寺を吉田三ヶ寺に定めた。延宝6年(1678年)2月8日に死去。享年55。跡を長男の長祐が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 菅沼定芳の娘
子女