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運営法人は株式会社阪神タイガース。[[親会社]]は[[阪神電気鉄道]]([[阪急阪神ホールディングス]]傘下)。 |
運営法人は株式会社阪神タイガース。[[親会社]]は[[阪神電気鉄道]]([[阪急阪神ホールディングス]]傘下)。 |
2019年6月8日 (土) 05:44時点における版
阪神タイガース | |
---|---|
会社名 | 株式会社阪神タイガース |
創設 | 1935年 |
今シーズン | |
2024年の阪神タイガース | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
セントラル・リーグ | |
歴代チーム名 | |
本拠地 | |
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市) | |
収容人員 | 47,808人(阪神甲子園球場) |
永久欠番 | |
| |
獲得タイトル | |
日本一(1回) | |
1985 | |
リーグ優勝(9回) | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(6回) (太字は勝利した年) | |
クライマックスシリーズ出場(7回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝6敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 藤原崇起(阪神電気鉄道代表取締役会長) |
運営母体 |
阪神電気鉄道 (阪急阪神ホールディングス傘下) |
監督 | 矢野燿大 |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | 阪神、タイガース |
本社所在地 |
日本 〒663-8151 兵庫県西宮市甲子園町2番33号 |
設立 |
1935年12月10日 (株式会社大阪野球倶楽部) |
業種 | サービス業 |
事業内容 | プロ野球球団運営、プロ野球興行事業など |
代表者 |
代表取締役会長兼オーナー 藤原崇起 代表取締役社長 揚塩健治 |
純利益 | 9億65百万円(2018年3月期)[1] |
純資産 |
56億700万円 (2013年3月31日現在) |
総資産 |
178億39百万円 (2018年3月31日現在) |
決算期 | 3月末日 |
主要株主 | 阪神電気鉄道 100% |
関係する人物 | 掛布雅之 |
外部リンク | https://hanshintigers.jp/ |
特記事項:1961年4月1日に現商号へ商号変更。 阪急阪神ホールディングスの連結子会社 |
阪神タイガース(はんしんタイガース、英語: Hanshin Tigers)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。本拠地は兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場。日本に現存するプロ野球12球団の中では読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長い。ウンコマンズに所属する。
運営法人は株式会社阪神タイガース。親会社は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。
球団の歴史
戦前
1934年末に大日本東京野球倶楽部・球団名「東京巨人軍」が創立された。東京巨人軍の親会社である読売新聞社は、数球団で職業野球リーグを結成したいと考えていた。特に東京市・大阪市・名古屋市の三大都市圏で試合を行うことを目指していた。誘いを受けた阪神電気鉄道が、当時日本最大の球場だった甲子園球場を本拠地とした球団を設立することとなった。
1935年、10月22日の門前眞佐人との入団契約[2]を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった中等野球のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に商号「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさかタイガース、Osaka Tigers)が発足した。
1936年、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志、2月28日に立教大学の景浦將など有力選手と契約し、4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には日本職業野球連盟が結成された[注釈 1]。
1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場、宝塚球場にて3大会が行われた[3]。東京巨人軍がアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しておらず、名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。
夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった[4]。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京巨人軍と並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した[5]。
1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の2シーズン連続の優勝を達成した。更にこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破り、年間優勝2連覇を達成した[6]。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前から戦中は常に東京巨人軍と優勝争いを繰り広げる強豪チームだった。
1939年、この年は2位になったにもかかわらず、日本プロ野球史上初めて全球団に勝ち越しながら優勝を逃すという初めてのケースとなった。
1940年9月25日、日米および日英関係の悪化に伴う日本野球連盟の方針により、敵性語とされた英語の使用自粛のため球団名を阪神軍(はんしんぐん)に改称した。日中戦争・太平洋戦争の激化に伴う徴集および召集拡大化により選手数が不足する苦しい状況となる。1944年、監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた[7]。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に猛虎(阪神と産業の合同チーム)の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
戦後 - 1940年代
第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。
1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞 (MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「(初代)ミスタータイガース」と称された。1948年、藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。
1949年には、チーム順位が6位にも関わらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。更に遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。
セ・リーグ加盟
1950年、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。
一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。
この間、松木は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。助監督だった藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2か月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。
1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。
1955年、2軍チーム(阪神ジャガーズ)結成。ウエスタン・リーグに加盟。
6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。 4年連続の2位に終わる。〈1959年は中日と同率の2位[注釈 2]〉。
1960年代
藤本勝巳が最多本塁打・最多得点の二冠を獲得したものの、チームは3位に終わる。
フランチャイズ制度の導入に伴い保護区域を兵庫県と定められた関係で、チーム名から「大阪」を外し、4月1日に商号を株式会社阪神タイガース、球団名も阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)と変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。この年は、4位に終わる。
藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初、通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果、2勝4敗1分で敗退した[8]。
巨人と中日の首位争いに加わることができず、3位に終わる。
エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で、最後に9連勝し公式戦最終日の9月30日に逆転で6回目の優勝。しかし日本シリーズでは、リーグ優勝決定の翌日から開催という強行日程になり、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫するなどして、3勝4敗で敗れている。
1965年から1967年まで3年連続の3位。1968年と1969年は、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも、結果はいずれも巨人が優勝で、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。
第1次村山監督時代
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手がそろったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→1971年・5位→1972年・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。
第2次金田監督時代
金田が正式な監督に就任して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。
田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。
第1次吉田監督時代
吉田義男が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀・島野育夫らとのトレードで南海へ放出。
当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンやマイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。
序盤は好調だったが、4月には6連勝のあと6連敗、6月には6連敗のあと8連勝と、大型連勝と大型連敗を何度も繰り返すなどチームの調子が安定せず、特に対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。この年のオフに吉田は監督を辞任。
第2次後藤監督時代
後藤が2度目の監督に就任したが球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで解任[9]。オフに小津正次郎が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー・金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。
ブレイザー監督時代
ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣の対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に広島東洋カープに離されて4位に終わる。
中西監督時代
新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。後任には中西太が就任したが、5位に終わる。
優勝した巨人と8ゲーム差の3位。江本孟紀が「ベンチがアホやから野球ができへん」と首脳陣批判をして退団したのがこの年。
安藤監督時代
安藤統男が監督に就任。優勝した中日と4.5ゲーム差、2位の巨人と3ゲーム差で2年連続の3位(但し勝利数では優勝した中日を上回った)。山本和行がストッパーに転向したり、6月に11連勝する話題もあったが、一方でこの年は島野育夫・柴田猛の両コーチが審判に暴行を加えて(横浜スタジアム審判集団暴行事件)無期限出場禁止処分を下されたり(翌年解除)、若菜嘉晴がスキャンダル問題で退団するなどトラブルも相次いだ。
ランディ・バースが加わった打線は抜群の破壊力を見せつけたものの、投手陣はいまいち伸び悩み、特に1984年は昨年限りで引退した小林繁の穴を、ルーキー池田親興の躍進、南海から移籍の山内新一の活躍でも埋めきれず2年続けての4位。1984年オフ、安藤は監督を辞任、吉田義男が二度目の監督就任。
第2次吉田監督時代
開幕投手を2年目の池田に任せるを得ないほどに、昨年から大きな弱点であった先発投手陣の手薄さという大きな弱点が改善されず、開幕当初はファンの間でも優勝への期待は薄かった。しかし主に1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(「第二次ダイナマイト打線」)が先発投手陣の手薄さを補って余りある大活躍をし、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛己からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し[注釈 3]。夏場まで首位を快走していた。しかし、8月12日に発生した日本航空123便墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり[注釈 4]、阪神タイガースのナインたちもこの事故機(JA8119)に直前のフライト(福岡発羽田行日本航空366便)で搭乗していたため[注釈 5][注釈 6]、選手たちは大きな衝撃を受けて一時は大型連敗を喫して首位陥落した。しかし、強力打線に加えて中西清起、福間納、山本和行らのリリーフ投手陣も1年を通して大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定[10]。バースが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初の日本一達成となる。
バースがシーズン打率.389、シーズン長打率.777、7試合連続本塁打、13試合連続打点の日本新記録をマーク、2年連続三冠王を獲得し、ルーキーの遠山昭治が8勝を挙げ台頭したが、掛布と池田親興の負傷による長期戦線離脱、更に岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島と巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。この年、川藤幸三が引退。
投手陣は新外国人のマット・キーオが孤軍奮闘したものの、先発ローテーションの池田、仲田幸司らが不振で大きく負け越し、山本和行、中西清起らリリーフも失敗が目立った。バースは無冠ながら好調を維持し打線を支えたが、掛布の負傷及び不振、岡田の不振などが響き最下位となり、吉田は監督を辞任、村山実が監督就任。勝率.331は球団史上最低勝率である。
第2次村山監督時代
「少年隊トリオ」と呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど世代交代を進めたが、バースが長男の病気問題で退団、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。
セシル・フィルダーが本塁打王争いをするが、シーズン途中に三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。5位に終わり、村山が監督を辞任、中村勝広が監督に就任。
中村監督時代
前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調で、特にパリッシュは8月まで本塁打王を狙える位置にいたが8月末に怪我を理由に突然の引退退団をしてしまった。投手陣は年間通して不振に終わり、主にロングリリーフを務めた3年目の野田浩司がチームトップの11勝(12敗)を挙げたが、エースのマット・キーオが中村勝広監督とそりが合わず怪我もあり不振。オフには自由契約になる。結局は、先発陣で規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという結果に終わる。チームは2年ぶりの最下位。
開幕5連敗、6月に球団ワースト新記録の10連敗(それまで当時の12球団で唯一、2桁連敗がなかった)を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗で、2年連続の最下位となった。しかし、終盤戦で猪俣・葛西稔といった若手投手の台頭で、5連続先発投手完投勝利を収めた。
この年は、ヤクルト、巨人、広島との四つ巴の優勝争いとなる。衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績の無い亀山努、新庄剛志の両外野手に加え、和田、八木裕、山田勝彦、入団2年目のトーマス・オマリー、大洋から移籍してきたジム・パチョレック、新人王に輝いた久慈照嘉ら若手・中堅が活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。また、甲子園のラッキーゾーンを撤去して外野が広くなった事が功を奏し、6月にノーヒットノーランを達成した湯舟敏郎の他、中込伸、野田や14勝を挙げ勝ち頭となった仲田の先発陣や、中継ぎのルーキー弓長起浩、抑えの田村勤らこちらも若い投手陣が軸となり、リーグトップ防御率2点台を記録するなど、一時は首位と成るも終盤に投手陣の駒不足に遭いヤクルトとの優勝争いで競り負け、巨人と同率ながら2位となった。オフ、野田浩司とオリックス・ブルーウェーブの松永浩美が交換トレード。
4位。オマリーが首位打者になる。松永浩美は3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立、しかし怪我での離脱が多く80試合の出場に終わり、オフにはFAで福岡ダイエーホークスへ移籍。前年最多安打・最多勝利打点だったパチョレックが途中退団。また岡田は自由契約を言い渡されオリックスに移籍した。一方、バルセロナオリンピック銀メダリスト郭李建夫がこの年に入団。オフには、新人として藪恵市、FAでオリックス石嶺和彦が加入し、MLB通算226本塁打のロブ・ディアーを年俸2億7000万円で獲得。
2年連続の4位(ヤクルトと同率タイ)。藪恵市がチームトップの9勝を挙げ新人王を獲得。新外国人のディアーは極度の不振で8月に退団。同年オフ、オマリーが長打力不足などを理由に解雇され、ヤクルトへ移籍。
最下位。球団ワースト記録となる84敗を喫した。チーム本塁打は88本で4年連続セ・リーグ最下位であった。中村が7月23日限りで休養(その後、辞任)。藤田平に監督を代行させる状況であった。同年オフ、真弓が引退し、代行の藤田がそのまま監督に正式就任。新庄が藤田との確執などが原因で引退を宣言するが、すぐ撤回。
藤田監督時代
2年連続最下位。5月終了時点で既に借金15に達していた。個人としては、桧山進次郎がチームトップの22本塁打を記録。2年目の川尻哲郎が13勝、3年目の藪が初の二桁勝利を挙げる。しかし、藪と湯舟が二年連続でリーグ最多敗戦ともなる。藤田は9月12日に監督解任を通告され(藤田が監督解任を受け入れたのは翌13日)[11]、チーフ兼バッテリーコーチの柴田猛が後任を務め、シーズンオフには、吉田義男が3度目の監督に就任。中西と木戸が引退。新人として今岡誠が入団。観客動員は200万人を割り、28年ぶりの赤字となった[11]。
第3次吉田監督時代
5位。打撃陣の主力として期待していた新外国人のマイク・グリーンウェルがわずか数試合で故障・「引退しなさいという神のお告げを聞いた」と突然退団・帰国。和田が開幕戦からの連続安打日本記録(24試合連続安打)を樹立。オフに久慈照嘉、関川浩一を大豊泰昭、矢野輝弘との交換トレードで中日に放出。新人として坪井智哉、井川慶が入団。
同年の吉田監督は大砲にこだわりすぎたことを疑問視され、そのためか盗塁数が28と極めて少なかった。8月には球団ワーストとなる12連敗を記録するなどし、最下位。個人としては、5月26日に川尻が対中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成、シーズンも2年ぶりの二桁勝利を記録。藪も二桁勝利しプロ入りシーズン初の勝ち越しを達成。坪井智哉は2リーグ制分立後の新人最高打率(.327)を記録。坪井は中日の川上憲伸、巨人の高橋由伸、広島の小林幹英と新人王を争う。新人王は川上憲伸が獲得したが、川上以外の3人は新人王に値する活躍と評価され、3名とも新人特別賞を受賞している。この年では横浜が38年ぶりの優勝を果たしたため、阪神は1998年から2002年までセ・リーグの中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。シーズン後に吉田は監督を辞任し、後任にこの年までヤクルトの監督を務めた野村克也が就任した。
野村監督時代
チームは6月には一時首位に立ったが、最終的に最下位。9月には2年連続で球団ワーストの12連敗を喫した。二軍がファーム日本選手権を制し初の日本一となった。個人としては、前年テスト入団で復帰した遠山奬志がカムバック賞を受賞。シーズン前には、新人として福原忍が、西武から佐々木誠が加入。シーズンオフには、オリックスから星野伸之がFAで入団。巨人から広澤克実、ヤクルトからカツノリを獲得。
球団初の3年連続の最下位。4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛、西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。オフには新庄がFAでMLBのニューヨーク・メッツへ、大豊が契約交渉の決裂で中日に移籍。佐々木誠、フランクリンらが退団。チーム本塁打1位から3位(1位新庄28本・2位大豊24本・3位タラスコ19本)が全員退団する事態となった。湯舟敏郎・山崎一玄・北川博敏と近鉄酒井弘樹・面出哲志・平下晃司にて3対3トレードのトレードが行われた。新人として赤星憲広、沖原佳典、藤本敦士が加入。その他エドワード・ペレス、イバン・クルーズを獲得。
4年連続の最下位。長打力が大幅に弱体化した打線を、走力で補うため俊足の若手を重用。個人としては、井川慶が福原と並びチーム最多の9勝を挙げ防御率はリーグ2位を記録、ルーキーの赤星憲広が退団した新庄に代わりセンターのレギュラーになり盗塁王、新人王を獲得、前年ロッテからテスト入団した成本年秀がクローザーとして復活しカムバック賞を受賞、桧山がここ数年の不振を脱却し4番に定着し初のシーズン打率3割を達成した。シーズン途中、交換トレードで西武から谷中真二、新外国人トム・エバンスを獲得し谷中は7勝を挙げ伊藤と並びチーム最多タイの貯金4つを記録した。しかし、この年のチーム最多本塁打はクルーズの14本という状況で更に投手陣も新しい選手が台頭した一方で藪や川尻等今まで低迷期を支えてたベテラン勢が軒並み大不振で全く戦力にならなかった。シーズン後に吉田剛、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出。オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史、交換トレードでオリックスから斉藤秀光、デリック・ホワイトらの外国人選手が加入。12月5日、野村は成績不振に加えて夫人の野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取る形で監督辞任。後任はこの年まで中日の監督を務めた星野仙一が就任。
星野監督時代
12年ぶりに開幕戦を勝利で飾るなど開幕7連勝でスタートし、巨人と首位争いを繰り広げていたものの、レギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。特に赤星・矢野の離脱が致命的でセンターラインを失ったチームは徐々に失速。最終的には4位に終わり、主力と控えの戦力差に課題を残した。しかしチームとしては5年ぶりに最下位を脱出した。シーズン中にエバンスと西武の橋本武広の交換トレードを行い、オフには広島からFAで金本知憲、日本ハムから下柳剛、野口寿浩らが同じくトレードで加入。さらにジェフ・ウィリアムス、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝が加入。
「第三次ダイナマイト打線」と称された強力打線を擁し開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させる。マジック点灯以降は故障者が続出したことで対中日戦で同一カード7連敗や2度の5連敗などを喫し、やや失速するも9月15日に18年ぶりリーグ優勝。20勝を挙げた井川慶がMVPに。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームを全てものにする一方で、福岡でのゲームを全て落とし、3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、星野が監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男、西本聖は退団した。岡田彰布が後任の監督に就任[12]。
岡田監督時代
球団成績は4位。10月4日、井川慶がノーヒットノーランを達成。シーズン前に自由獲得枠で鳥谷敬を獲得、シーズン後は藪恵壹がFAでMLB・オークランド・アスレチックスへ移籍、伊良部、アリアスが戦力外、リガン、八木裕が引退。オフに広島からアンディ・シーツが移籍。
リーグ優勝。チーム防御率もリーグ1位となった。ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之のリリーフ投手3人を「勝利の方程式」として抜擢。驚異的な成績を残し、やがて3人の名前の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた。この年から導入された交流戦を経て首位に立つと、首位を明け渡すことなく優勝。赤星が5年連続の盗塁王を獲得、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝、今岡が球団新記録の147打点を挙げて打点王、金本がMVPを獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは史上初の3試合連続2桁失点を喫し、4試合で33失点と投手陣が大炎上。打線も1イニングもリードを奪えず、0勝4敗と史上5チーム目の[13]ストレート4連敗で敗退。
夏場の苦戦が響いて中日にマジック点灯を許すが、一時戦線離脱していた藤川球児が復帰第一戦の8月27日の巨人戦で好投して連敗を止めてからは怒濤の反撃に転じ、結果的には2位に終わるも優勝した中日を最後まで苦しめた。片岡篤史が引退。オフに井川がポスティングシステムでMLB・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、同じくMLBからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得。
最終的に3位。4月から5月にかけて9連敗し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。借金は最大で9となった。7月を15勝6敗、8月を12勝8敗1分で勝ち越し、9月中旬には首位に立つこともあった。中日とのクライマックスシリーズ第1ステージを0勝2敗で敗退。この年は、規定投球回数に到達した投手がいなかった。更に打率・得点も12球団中最下位だった。上園啓史が新人王を獲得。シーズン終了後にアンディ・シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一、日本ハムから金村曉、MLBからルー・フォードが加入。
最終的に2位。4月12日に金本知憲が通算2000本安打を達成。5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成。開幕から好調で、7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させる。しかし、北京オリンピックに新井、藤川ら主力メンバーを派遣した後半戦から下降線をたどるようになり、8月29日を最後に巨人相手に全く勝てなくなる。9月21日の直接対決での3連敗で巨人に同率首位に並ばれ、10月8日の直接対決の最終戦で敗れ、巨人に単独首位を明け渡し、10月10日の横浜戦(横浜)での逆転負けにより巨人が優勝した。クライマックスシリーズ第1ステージでは京セラドーム大阪[注釈 7]で中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。シーズン後、岡田は優勝を逃した責任をとり監督を辞任。真弓明信が後任となった。野口寿浩がFAで横浜に移籍。
真弓監督時代
WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかったことや、藤川の不調もあり前半戦は低迷。6月に途中加入したクレイグ・ブラゼルや、開幕前にロッテから移籍した久保康友、7月以降ローテーションに定着した能見篤史らの活躍もあって、後半戦では8カード連続で勝ち越しを決めるなど巻き返すも、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、CS進出を初めて逃す。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしであった。3賞で受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいない状態であった。オフにシアトル・マリナーズから城島健司、コロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得。一方で、9年間チームに在籍した赤星が引退、藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。また駐米スカウトのオマリーを解任し、シーツが後任となった。
1試合22得点(球団記録更新)挙げるなど、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率.290、3割打者と90打点以上達成者が5人ずつ、という記録を残すなど爆発的な破壊力を誇る打線は「第四次ダイナマイト打線」と称された。9月に一時的にマジックが点灯したこともあった。しかし最終的には、ナゴヤドームでの中日戦での大幅負け越しなどが響き、首位中日と1ゲーム差の2位。初めて甲子園で行われたクライマックスシリーズの第1ステージの対巨人戦は、先制しながらも0勝2敗で敗退。個人記録としては、鳥谷の遊撃手としてのシーズン104打点はプロ野球記録となったが、開幕前に負傷した金本は、フルイニング出場が途切れた。オフにはFAで小林宏之と藤井彰人を獲得。一方で、矢野が引退、星野仙一シニアディレクターが、楽天の監督に就任するため退団。
3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦。これを7-4で制し、40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。投手では、先発のランディ・メッセンジャーが、能見と並ぶ12勝を上げる。月間成績は6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には2位になる。しかし、9月に入ると首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなどし、4位で終わった。シーズン後、真弓監督は辞任、後任の監督には和田豊一軍打撃コーチが就任した。この年、下柳、桜井広大、葛城育郎らが退団。
和田監督時代
阪神球団設立以来初めてキャプテン制度(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)を導入。野手に鳥谷敬、投手に藤川球児がそれぞれ就任した[15]。開幕9試合の4月10日に5勝2敗2分で首位となるなど、4月は勝ち越したものの5月以降はすべての月間で負け越した。交流戦に入り5連敗で勝率5割を切ると、以降は勝率5割以上になることがなく、前半戦を借金10の5位でターン[16]。後半戦直後に7連敗[17]、8月11日に対広島戦に敗れ8連敗でクライマックスシリーズ自力進出が消滅し[18]、9月25日の対ヤクルト戦(神宮)で敗れてBクラスが確定[19]、首位巨人と31.5ゲーム差、3位ヤクルトと11.5ゲーム差の5位に終わる[20]。411得点、58本塁打はリーグ最少、24無得点試合はリーグ新記録で、規定打席到達者の最高打率が鳥谷の.262[注釈 8]など貧打線に苦しんだシーズンとなった。巨人とは途中9連敗[21]、東京ドームでは開幕から2分けを挟んで8連敗[注釈 9]するなど1勝9敗2分に終わり[22]、シーズン通しては5勝15敗4分に終わる。2位の中日にもナゴヤドームで開幕から1分を挟んで8連敗するなど[23]、シーズン通して7勝15敗2分に終わり、上位2球団とドーム球場の試合で大きく負け越す結果となった。なお、この年は城島と金本が現役を引退した[24]。オフには、藤川が海外FA権を行使し、メジャーリーグのシカゴ・カブスへ移籍した[25]。元メジャーリーガーの西岡剛[26]と福留孝介[27]を獲得し、FAでオリックスの日高剛を獲得している[28]。ドラフトでは、大阪桐蔭高校の藤浪晋太郎を1位指名でオリックス、ヤクルト、ロッテとの4球団競合の末に獲得している[29]。
開幕から巨人と首位争いをしていたが、6月2日に阪神が今季初の首位に立つものの、6月13日に巨人が首位に返り咲くと以降は首位に立つことができないまま[30]、巨人と5ゲーム差で迎えた8月27日からの3連戦で3連敗したことも響き[31]、9月22日に阪神が対ヤクルト戦(甲子園)に6対7で敗れたことで巨人のリーグ優勝が決定した[32]。9月23日の同戦に2対0で勝利し、3年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定[33]し、10月3日の対DeNA戦(横浜)で7対3で勝利し、3年ぶりのシーズン勝ち越しと、2位を確定させた[34]。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は2連敗で敗退した[35]。この年、桧山進次郎が引退した[36]。なお、同年10月より球団OBの掛布雅之が新設のゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任[37]。
前年に続き巨人と広島との優勝争いとなり、8月には一時は首位の巨人と0.5ゲーム差となるものの長期ロード明け以降に阪神が失速し、9月26日に巨人の優勝が決定するが[38]、翌27日の対ヤクルト戦(甲子園)に勝利し2年連続でクライマックスシリーズへの進出が決定[39]し、10月6日に2年連続2位が決定した[40]。マートンが首位打者、マウロ・ゴメスが打点王、メッセンジャーが最多勝と最多奪三振、呉昇桓が最多セーブを獲得するなど、NPB史上初めて1シーズン4人の外国人選手がタイトルを獲得した[41]。また福原忍の最優秀中継ぎ投手と合わせて、1シーズンで5人、6部門のタイトル獲得はそれぞれ球団タイ記録[42]。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は第2戦で延長12回表に0対0とした時点で2位の阪神の勝ち上がりが決定し、1勝1分で球団初のファイナルステージに進出[43]。巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)は、ファイナルステージ史上初の4連勝で、初めてCSを勝ち抜いての日本シリーズ進出となった[44]。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズは甲子園での最初の2戦を1勝1敗で終えたのち、前回ホークスと対決した2003年の日本シリーズと同様に敵地福岡での全試合で敗れ、1勝4敗で敗退した[45]。2004年以降のポストシーズン制導入後、レギュラーシーズン2位以下で日本シリーズに進出して日本一になれなかったのは阪神が初であった[注釈 10]。
球団創設80周年を迎えた。5月28日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で球団通算5000勝目を達成し[46][47](巨人に次いで12球団中2番目の早さでの達成[48])。交流戦では、セ・リーグ球団で唯一10勝8敗で勝ち越し、総合順位では6位に終わるが、セ・リーグ球団ではトップの成績だった[49]。6月19日にネルソン・ペレスを獲得。6月15日の前半戦終了段階で3位[50]。7月3日の対横浜DeNAベイスターズ戦で、プロ野球史上初の通算1万試合を達成した[51][52]。後半戦は、9月27日の対広島戦の逆転負けで、リーグ優勝の可能性が完全消滅[53]。最終的にリーグ戦3位。クライマックスシリーズのファーストステージでシーズン2位の巨人と対戦し、結果1勝2敗で敗退となった。本塁打はリーグワースト2位、盗塁も48はダントツのワースト[54]。得点リーグ最下位、チーム打率4位、チーム防御率も5位と低迷した。シーズン終了後、関本賢太郎[55]・藤井彰人[56]、渡辺亮が現役を引退。呉昇桓がセントルイス・カージナルスに移籍。リーグ優勝を逃した責任を取り、和田監督が退任となった[57]。週刊ベースボールでは生え抜きの日本人選手が育たない分、外国人への依存度が高まったと指摘され、チーム総得点リーグワースト、チーム防御率も五位と低迷した[58]。投手コーチの中西清起・山口高志、打撃コーチの関川浩一・高橋光信、守備走塁コーチの山脇光治・風岡尚幸、2軍バッテリーコーチの吉田康夫、2軍打撃コーチの八木裕の8コーチが解任された[59]。後任の監督に球団OBの金本知憲が就任した[60]。球団本部付育成&打撃コーディネーターの掛布雅之が二軍監督に就任[61]。一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大、一軍打撃コーチの片岡篤史と濱中治、二軍打撃兼野手総合コーチの今岡誠、二軍内野守備走塁コーチの藤本敦士といった2003年・2005年に金本とともに優勝に貢献したメンバーが顔をそろえた[62]。また、新外国人のマット・ヘイグ、マルコス・マテオ、ラファエル・ドリス、FAでは中日から髙橋聡文が加入し、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスに所属していた藤川球児が復帰した。
金本監督時代
3月、読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題に絡み、巨人同様円陣の声だしで金銭の授受[63]や高校野球を対象としたくじ等[64]が発覚。
「超変革」をスローガンに、髙山俊、横田慎太郎、北條史也、江越大賀ら若手を積極的に起用したが、西岡らベテラン戦力と噛み合わず、なかなか結果が出ないことが多かった。交流戦を7勝11敗で負け越し、前半戦終了時点で5位。夏場には最下位に転落することもあったが、結果的に4位で4年ぶりのBクラスに終わる。シーズン終了後、福原忍、鶴岡一成が現役を引退。シーズンオフには、平野恵一がファーム守備走塁コーチから1軍打撃コーチに就任、濱中治が1軍打撃コーチからファーム打撃コーチに就任、筒井壮がファーム打撃コーチからファーム守備走塁コーチに就任、新たに藤井彰人がファーム育成コーチに就任することが発表された。FAでオリックスの糸井嘉男を獲得。2016年のセリーグ新人王に髙山俊が選出された。
開幕から鳥谷、福留、糸井、上本博紀、糸原健斗などが高い出塁率を残しチームの好調を支えた。シーズン終盤には、俊介が規定打席には届かずとも3割を超える高い打率を残した。5月6日、球団史上初となる9点差からの逆転勝利を達成し(阪神12-9広島、8回戦、阪神5勝3敗、甲子園)、首位に浮上するが[65]、5月28日に再び広島と順位が入れ替わり2位に転落し[66]、以後は7月27日から翌日までの1日間のみ3位に落ちたほかはシーズン終了まで2位にあった。最終的に首位広島と10ゲーム差でのシーズン2位となり、クライマックスシリーズでは1stステージにおいて3位DeNAに1勝2敗で敗退した。特にリリーフ投手陣の働きが光り、桑原謙太朗、マテオ、ドリス、高橋聡文、岩崎優の5名はそれぞれ60試合以上の登板数を記録、さらに52試合に登板した藤川を加えた6名が50を超える試合に登板した。1チームで5名が60試合以上登板するのと、6名が50試合以上登板するのはどちらもプロ野球史上初の出来事であった[67][68]。安藤優也、新井良太、狩野恵輔が引退。大和がDeNAへFA移籍。掛布二軍監督が退任。記録では鳥谷が通算2000安打を達成。
打線の主軸として期待されたウィリン・ロサリオ、大山悠輔、中谷将大らが開幕から揃って不振を極めた。糸原、梅野隆太郎らがレギュラーに定着するも打線の繋がりを欠いたことから得点力不足に陥りチームも低迷[69]。5月29日には同じく開幕から不振が続いていた鳥谷の連続試合出場が1939試合で途切れた[70]。投手陣では小野泰己、才木浩人、望月惇志らが一軍に定着した一方で藤浪、秋山拓巳、高橋聡文、マテオらが不調や故障により離脱する時期もあった。2位から最下位までが僅差の「団子状態」にあったセ・リーグの中で激しく順位変動を繰り返しながらも、中盤から雨天中止が相次いだ影響で過密日程を余儀なくされた終盤にかけて徐々にBクラスに定着し、最終盤での糸井、北條、原口文仁らの故障離脱なども響いて10月8日には2001年以来17年振りのシーズン最下位が決定した。この年は特に本拠地である甲子園球場で勝つことができず、球団史上ワーストとなるシーズン39敗を喫した[71]。シーズン最下位の責任を取る形で金本監督、片岡ヘッド兼打撃コーチが退任。また、記録では鳥谷が藤田平の保持する球団歴代最多安打記録(通算2064安打)を更新した[72]。二軍監督の矢野燿大が一軍監督に、新たに清水雅治がヘッドコーチに就任した他、一軍と二軍の首脳陣を大幅に入れ替えた。FAでオリックスの西勇輝を獲得、新外国人としてオネルキ・ガルシア、ピアース・ジョンソン、ジェフリー・マルテを獲得。
矢野監督時代
昨年、阪神タイガースは17年振りの最下位となり、その責任をとって、金本知憲前監督が辞任。次の監督は2軍監督の矢野燿大監督が就任。4月9日、阪神の正捕手梅野隆太郎捕手が平成最後のサイクルヒットを打った。5月1日、阪神、令和最初のホームランは新外国人のマルテが打った。
所属選手・監督・コーチ
永久欠番
永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績はそれぞれの項目を参照のこと。
歴代監督
- 1936年春 - 1936年夏 : 森茂雄
- 1936年秋 - 1939年 : 石本秀一
- 1940年 - 1941年 : 松木謙治郎(第1次)[※ 1]
- 1942年 - 1944年 : 若林忠志(第1次)
- 1946年 : 藤村富美男(第1次)[※ 2]
- 1947年 - 1949年 : 若林忠志(第2次)
- 1950年 - 1954年 : 松木謙治郎(第2次)
- 1955年 : 岸一郎[※ 3]
- 1956年 - 1957年 : 藤村富美男(第2次)
- 1958年 - 1959年 : 田中義雄
- 1960年 - 1961年 : 金田正泰(第1次)[※ 4][※ 5]
- 1962年 - 1965年 : 藤本定義(第1次)
- 1966年 : 杉下茂[※ 6]
- 1967年 - 1968年 : 藤本定義(第2次)
- 1969年 : 後藤次男(第1次)
- 1970年 - 1972年 : 村山実(第1次)[※ 7]
- 1973年 - 1974年 : 金田正泰(第2次)
- 1975年 - 1977年 : 吉田義男(第1次)
- 1978年 : 後藤次男(第2次)
- 1979年 - 1980年 : ドン・ブレイザー[※ 8]
- 1981年 : 中西太
- 1982年 - 1984年 : 安藤統男[※ 9]
- 1985年 - 1987年 : 吉田義男(第2次)
- 1988年 - 1989年 : 村山実(第2次)
- 1990年 - 1995年 : 中村勝広[※ 10]
- 1996年 : 藤田平[※ 11]
- 1997年 - 1998年 : 吉田義男(第3次)
- 1999年 - 2001年 : 野村克也
- 2002年 - 2003年 : 星野仙一
- 2004年 - 2008年 : 岡田彰布
- 2009年 - 2011年 : 真弓明信
- 2012年 - 2015年 : 和田豊
- 2016年 - 2018年 :金本知憲
- 2019年 - : 矢野燿大
※太字は優勝達成監督
チーム成績・記録
- リーグ優勝:9回
- 1リーグ時代:4回(1937年秋、1938年春、1944年、1947年)
- 2リーグ制後:5回(1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
- 日本シリーズ優勝:1回(1985年)
- クライマックスシリーズ優勝:1回(2014年)
- 年間王者:2回(1937年 - 1938年)
- Aクラス:51回
- 1リーグ時代:12回(1936年秋 - 1940年、1942年 - 1948年)
- 2リーグ制後:39回(1950年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年 - 1973年、1975年 - 1976年、1981年 - 1982年、1985年 - 1986年、1992年、2003年、2005年 - 2008年、2010年、2013年 - 2015年、2017年)
- Bクラス:32回
- 1リーグ時代:2回(1941年、1949年)
- 2リーグ制後:30回(1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年 - 1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年、2009年、2011年 - 2012年、2016年、2018年)
- 連続Aクラス入り最長記録:11年(1950年 - 1960年)
- 連続Bクラス最長記録:10年(1993年 - 2002年)
- 最多勝利:87勝(2003年、2005年)
- 最多敗戦:84敗(1995年)
- 最多引分:13分(1976年)
- 最高勝率:.829(1938年春)
- 最低勝率:.331(1987年)
- 最多連勝:14連勝(1937年秋、1946年)
- 最多連敗:12連敗(1998年、1999年)
- 最小ゲーム差:0.5ゲーム(1937年春、1973年)
- 最大ゲーム差:37.5ゲーム(1987年)
その他の記録
- シーズン最多安打 1458安打 (2010年) - セ・リーグ記録
- シーズン最多本塁打 219本 (1985年)
- シーズン最少本塁打 1本 (1944年)
- シーズン最多奪三振 1208奪三振 (2005年) - セ・リーグ記録
- シーズン最多完封負け 24回 (1963年、2012年)
- シーズン最高打率 .345 (1936年夏)
- シーズン最低打率 .197 (1941年)
- シーズン最高防御率 1.53 (1944年)
- シーズン最低防御率 4.79 (1978年)
- シーズン連続2ケタ安打 10試合 (2008年)
- シーズン連続イニング安打 27 (2014年)
- シーズン連続完封試合 4試合 (2013年)
- シーズン連続イニング無失点 52 (1942年) - 日本プロ野球記録[注釈 11]
- シーズン連続試合無本塁打 15試合 (2012年)
- ゲーム最多得点 22得点 (2010年8月25日対広島東洋カープ)
ノーヒットノーラン達成投手
阪神ではこれまでに球団史上9人の投手がノーヒットノーランを達成している。
年月日 | 投手名 | スコア | 対戦相手 | 野球場 |
---|---|---|---|---|
1940年8月3日 | 三輪八郎 | 1-0 | 東京巨人軍 | 大連 |
1946年6月16日 | 呉昌征 | 11-0 | セネタース | 西宮 |
1948年8月24日 | 梶岡忠義 | 3-0 | 南海ホークス | 神宮 |
1952年5月7日 | 真田重男 | 12-0 | 広島カープ | 甲子園 |
1965年6月28日 | ジーン・バッキー | 7-0 | 読売ジャイアンツ | 甲子園 |
1973年8月30日 | 江夏豊 | 1-0 | 中日ドラゴンズ | 甲子園 |
1992年6月14日 | 湯舟敏郎 | 6-0 | 広島東洋カープ | 甲子園 |
1998年5月26日 | 川尻哲郎 | 2-0 | 中日ドラゴンズ | 倉敷 |
2004年10月4日 | 井川慶 | 1-0 | 広島東洋カープ | 広島 |
特に江夏のケースは、延長11回裏に自らサヨナラ本塁打を放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となり、延長戦でのノーヒットノーラン達成はこれが日本プロ野球で史上唯一の記録である。なお、完全試合達成者は球団創立から現在に至るまで一切いないが、参考記録として準完全試合は2人が記録している。ひとりは田宮謙次郎が1950年3月16日に国鉄スワローズ戦で9回2死までを完全に抑え、もうひとりは小山正明が1956年6月6日に大洋ホエールズ戦で先頭打者に安打を許しその後の打者を完全に抑えた試合であった。
チームの特徴
伝統
プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームは世界的にも極めて少ない。また、ユニフォームや球団シンボル・ロゴなどのデザインについても球団創設時より大幅な変更が為されないまま現在に受け継がれている(デザインの項を参照)。
幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である[73]。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。
その一方で、2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスと並び、未だに日本一となった回数は最少タイ(1回)の球団である。また、1985年の日本一においては日本シリーズMVPを獲得したのはランディ・バースであり、セ・パ12球団では唯一日本人選手の日本シリーズMVP獲得者がいない球団でもある。
球団名称
ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪と同様に工業都市であったアメリカ合衆国のデトロイトを本拠地とするデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中で英語が使えず「阪神軍」を称していた時期を除き、一貫して使われてきた。
このニックネームについては、英語表記「Tigers」の発音は「タイガーズ」のほうが近いが、正式名称は日本語の固有名詞なので、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった[注釈 12]。
球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県の定める地域区分において、同県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた「阪神間」に位置していることとの2つの意味を併せ持つ。設立当初は、球団事務所を大阪市に置き、「大阪タイガース」という球団名であったが、球団事務所を甲子園球場内に移転したことに前後して1961年より正式名称となった。
ただし、改称以前から略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた[注釈 13]。
現在の略称について英字は「T」、漢字で略す場合は頭文字の「阪」でなく「神」になる。これは阪急ブレーブスとの重複を避けるため(阪急は「急」)であったが、阪急が球団を手放した後も(保護地域である兵庫県の県庁所在地に由来する)「神」を継続している。
関西代表球団への過程
阪神タイガースは、現在セントラル・リーグでは唯一近畿地方に本拠地をおく球団であり、関西圏において圧倒的な人気を誇る。しかし、その人気は始めから不動のものという訳ではなかった。
- 群雄割拠の関西球団
- かつての関西においては、南海ホークスもタイガースと同様に多くの人気を集める球団であった。特に1950年代前半頃、甲子園球場へのナイター設備の設置(1956年完了)が大阪スタヂアムより遅れたことで観客動員を減少させた阪神は、南海の観客動員を上回ることができず、ナイター設置後も1959年からは3年続けて南海を下回っていた[75]。また、テレビ中継でも、南海ホークスは毎日放送、近鉄バファローズは朝日放送、阪急ブレーブスは関西テレビ放送などと、球団 - 放送局間で優先的な放送契約を結んでいたこともあり、阪神以外の関西球団への注目度が比較的高い状況であった。
- 関西球団の中継数減少
- しかし、1960年代中盤に差し掛かると読売ジャイアンツが黄金期を迎え、在京キー局との関係からも、他地方と同じく関西でも次第に巨人の試合の中継数が優位となっていった。特に、関西テレビは巨人中心の方針を強め、阪急が好調でも「阪急のカードを押し出すことは容易な業ではなかった」ことから[76][77]、以前は年間約30試合ほどあった阪急戦の中継が1966年には8試合にまで減少。毎日放送でも、1960年代こそ南海戦の中継放送が事業として欠かせない存在だったが、1970年代には阪神・巨人戦の中継を確保することに必死となっていた[注釈 14][注釈 15]。
- 阪神戦の「露出増加」から「一極集中化」
- このように、関西でも巨人戦が中心的に中継されるようになったことで、同一リーグに所属するチームとして巨人と年間を通して対戦するタイガースのマスコミへの露出が他の関西球団と比して増加。さらに、時を同じくして神戸市を拠点とする放送局サンテレビが開局(1969年)、その直後から編成の目玉としてタイガース戦の完全中継枠『サンテレビボックス席』の放送を開始した。同局の視聴可能エリアは大阪府下の相当な地域を含む阪神地区全域を含んでおり、またその後関西圏の独立UHF各局へのネットも開始されたことで、関西全域において身近にタイガース戦をテレビ観戦できる環境が整った[79]。
- それに伴うタイガース人気向上に従って、元来阪神・巨人戦のみを放送していた上記の大手在阪テレビ局も積極的にタイガースを中心とした中継放送を増加させるようになり、関西でのプロ野球放送はタイガース戦への一極集中化が進んだのである[注釈 16]。
- 1985年10月16日に関西テレビが中継した、阪神が21年ぶりの優勝を決めた対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)は関西地区で視聴率56.7%を記録(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率記録である。
六甲颪
球団歌は「阪神タイガースの歌」である。歌詞の冒頭をとって「六甲颪(ろっこうおろし)」とも呼ばれる。球団結成時に「大阪タイガースの歌」として作られたものが、歌詞中の「大阪」を「阪神」に変更したものである。
試合開催地・活動拠点
本拠地
球団設立当初から、親会社が所有する阪神甲子園球場を使用しており、現在の日本プロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である(ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった)。1948年のフランチャイズ制仮導入以来一貫して専用球場としており、専用球場を変更していないのは、2005年から新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを除けば阪神だけである。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、阪神甲子園球場以外に後楽園球場・阪急西宮スタジアムなどの中から日程上都合のいい球場を選んで開催していた。
阪神甲子園球場は元々高校野球開催のため、またそれ以外にも多目的にスポーツ行事で使用されることを前提に造られた球場であるため、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会の日程が最優先される[注釈 18]。特に後者の大会の開催期間は2週間以上にわたるため、この時期の1ヶ月程度[注釈 19]にも及ぶ長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし、昔と比べて交通機関の発達で移動時間が短くなったこと[注釈 20]や宿泊施設のグレードが上がったこと[注釈 21]、特に1990年代以降は長期遠征中でもほっともっとフィールド神戸や空調完備の京セラドーム大阪といった甲子園の近場の球場でも試合が組まれているため、それも死語になりつつある[注釈 22]。また、プロ野球の開幕を本拠地で迎える基準はセ・リーグはAクラスを確保したその年の2年後、パ・リーグはAクラスを確保したその年の3年後[注釈 23]となっているため、Aクラスを確保しても本拠地開幕権を放棄するケースもある。
二軍の本拠地は、1950年代は神戸市民運動場野球場を、1979年から1993年までは阪神浜田球場を使っていたが、現在は阪神鳴尾浜球場を使っている。甲子園と鳴尾浜は同じ西宮市内にあり、12球団の中でも一軍の本拠地と二軍の本拠地に於ける間の距離は埼玉西武ライオンズに次いで近い。
実数発表となった2005年以降、2010年までは2008年を除き毎年公式戦での年間観客動員数は300万人以上を動員し続けてきたが、2011年以降は300万人に達しておらず、概ね260万 - 280万人台で推移している[81]。ただ、2017年は最終的に2位となるなど好調な成績であったため、10月10日の公式戦最終戦で3万人の観客を集めて7年ぶりに年間観客動員数が300万人を超えた。
地方開催
主に近畿地方を中心に、西日本で開催されることが特徴である。
年間試合数が144試合制であった2014年までのうち、2013年までは主催試合72試合のうち本拠地の阪神甲子園球場で60試合・大阪ドーム(京セラドーム大阪)を含む地方開催で12試合が組まれていた。なお、阪神としては大阪ドームは地方球場の扱いとなっている。この地方開催の内訳については、京セラドーム大阪での3カード・8 - 9試合と、倉敷マスカットスタジアム(それ以前は岡山県野球場)での1試合の計9 - 10試合は毎年必ず開催されており、他にほっともっとフィールド神戸を含むそれ以外の地方球場で毎年2 - 3試合が開催されていた。ただ、2014年は京セラドーム大阪での3カード・9試合と倉敷マスカットスタジアム1試合の計10試合のみでその他の地方球場での開催はなかった。他球団が地方開催を減らす中で、年間試合数が143試合制となった2015年以降も2014年と同様、主催71ないし72試合[注釈 24]のうち地方開催を9ないし10試合行っており、現状では試合数ベースでは阪神がセ・リーグで最も地方開催を行っている。但し、その内訳は京セラドーム大阪が殆どで他に倉敷マスカットスタジアムが1試合のみであるため、開催する球場数ベースで言えば巨人が最も多い。
かつては京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1 - 6試合を行っていたが、2005年の対西武ライオンズ戦を最後に主催試合はない[注釈 25]。それ以外では、1999年には香川県営野球場で、2005・2006・2012年にはそれぞれ2試合ずつを松山坊っちゃんスタジアムで行った。2013年は沖縄セルラースタジアム那覇にて初めて公式戦2試合を開催した。この他、2014年にはアメリカで公式戦を開催する計画があったものの、その後断念した。
京セラドームについては1997年の開場以来使用しているが、2005 - 2007年の3年間は兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、京セラドーム大阪を準本拠地として使うことが認められていた。現在は甲子園での春・夏の高校野球の開催期間中における、開幕カードあるいはその直後の1カード・3試合と夏の長期ロードの間の2カード・5 - 6試合の計8 - 9試合の開催が基本であるが、梅雨時などにも行われたことがあった[注釈 26]。
また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園の改修工事の影響から、2008年には雨天中止分の1試合がスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージが京セラドーム大阪で開催されている。2011年は当初予定されていた試合(京セラの中日3連戦と甲子園のヤクルト3連戦)が東日本大震災による日程延期によって、その日程の補填として10月にヤクルト3連戦が京セラドームで行われた。
夏季の長期遠征中は、基本的にビジターで概ね2 - 3カードこなしてから京セラドームで3連戦を組むというローテーションを繰り返しとなっているが、年度によっては旧盆(8月15日前後)の1週間に京セラドームで2カード・5 - 6試合連続開催とする場合もある。
ほっともっとフィールド神戸では後述する夏の長期ロードの時に開催していた時期もあったが、当時オリックスがフランチャイズとしていた関係もあって1994年を最後に暫く途絶えた。その後は地元自治体からの要望もあり、オープン戦ながら2007年に開催が復活し、以降公式戦では2008年には雨天中止による代替試合1試合(甲子園が改修工事で使用不可のため)を、2010年には2試合を、2012年には1試合をそれぞれ開催した[注釈 27]。ただ、2013年以降は開催がなく、同球場からは再び撤退している。
夏の高校野球の開催期間中で甲子園が使えない期間の主催球場は1997年より京セラドームを使っているが、それ以前は京都市西京極総合運動公園野球場(1965年 - 1979年)、岡山県野球場(1973年 - 1979年)、平和台野球場(1980年 - 1988年)、グリーンスタジアム神戸(1988年 - 1994年)、阪急西宮スタジアム(1991年 - 1996年)を使っていた。特に、1980年から1987年までは、甲子園が高校野球で使用できない期間、関西地方ではほかの球団(阪急=西宮球場、南海=大阪スタヂアム、近鉄=日本生命球場・近鉄藤井寺球場)の本拠地はその球団の試合に日程が抑えられており、使用許可が下りなかったのと、それ以外の球場もナイター設備や施設スペックなどの問題で開催することが事実上難しかったため、この間2試合を平和台球場で主催しながら、ほぼ3週間関西を離れざるを得なくなる「死のロード」という状態になっていた。
また過去には、甲子園にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪スタヂアムでナイターを行うことがあった。その他、岩手県営野球場、郡山市営開成山野球場、県営宮城球場、藤崎台県営野球場(いずれも1975年)でも試合を行っている。
主催ゲームの開幕戦
前述のように甲子園での選抜高等学校野球大会の開催のため、阪神は前々年(2001年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないケースが多い。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セ・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。これにより阪神は21世紀になってからは通常の公式戦日程で本拠地での公式戦開幕を12球団では唯一行っていない[注釈 28]。
選抜開幕前に開幕戦を甲子園で行われた年は1956年、1964年の2回であり、選抜終了後に開幕戦を甲子園で行われた年は1952年、1959年、1961年、1963年、1969年、1973年、1983年、1987年、1993年、2011年の10回である。このうち、2011年は当初日程であれば明治神宮野球場での対ヤクルト戦だったが、東日本大震災の影響で開幕日が4月12日に順延されたことから、甲子園での対広島戦が開幕戦となった[82][注釈 29]。
かつては選抜開幕前もしくは終了後に甲子園で開幕戦が設定されたというケースもあったが、2007年のクライマックスシリーズ導入後は日程面から選抜終了後に開幕が設定されておらず、今後も終了後に設定される可能性は少ない。なお、甲子園で開催できない場合の対処として以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降。大阪ドームでの開幕は除く)。
- 前年ないし前々年(2003年以降)Bクラス球団の本拠地で開幕を迎える
- 前年ないし前々年(2003年以降)Aクラス球団の本拠地で開幕を迎える
- 地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
- 地方球場でのビジターゲームで開幕を迎える
大阪ドームの完成後は、大阪ドームを本拠地とするパシフィック・リーグ球団が当年の本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになった。大阪ドームでの主催ゲームで開幕を迎えたのは、以下の年次が該当する。
- 2005年・2009年・2019年:対ヤクルトスワローズ戦(2005年)/東京ヤクルトスワローズ戦(2009年・2019年)
- 2007年:対広島東洋カープ戦
- 2008年・2010年・2012年:対横浜ベイスターズ戦(2008年・2010年)/横浜DeNAベイスターズ戦(2012年)
- 2015年・2016年:対中日ドラゴンズ戦
なお、2010年と2017年は大阪ドームを本拠地とするオリックスも当年の開幕権を持っていたため、セ・パ両リーグで折衝した結果、2010年はパ・リーグが変則日程[注釈 30]とし、2017年は阪神が開幕権を返上する[注釈 31]ことで決着した。
プロ野球の試合数については2000年以後140試合以上と増えたこと、また選抜大会も1997年に雨天中止が頻発したことなどから、プロ野球の日程に支障をきたすこともあるため、現在は何れも開幕時期を大幅に繰り上げている(選抜が概ね春分の日(3月20日か3月21日)前後、プロ野球は3月最終金曜日に制定されていることが多い。選抜は2003年以後現在の時期で開催)。そのため、現在では阪神が開幕戦主催権を獲得した場合は大阪ドームでの開催が常となっている。また2年前のシーズン(2003年以後)Bクラスにより開幕戦主催権を逃した場合であっても、大阪ドーム完成後は開幕2カード目、ないしは3カード目のいわゆる「ホーム開幕シリーズ」を同球場に割り当てることが多い(大阪ドーム完成前までは、選抜の大会日程が終了するまではビジターでの遠征が続いていた)。
主なキャンプ地
現在使用しているキャンプ地
過去に使用されていたキャンプ地
デザイン
タイガースは、デザインに関して歴史的に一貫したスタイルを持っている球団であり、球団旗に始まり各種ロゴやマーク、ユニフォームに至るまで、球団創設当初にデザインされた基本型を現在も守り続けている。このような一貫性を保持していることは珍しく、特に日本球界ではタイガースのみである[84]。これらのデザインを手掛けたのは当時阪神電気鉄道の宣伝課デザイン室に勤務していたデザイナー・早川源一(1906年 - 1976年)[85]。阪神球団には、本人の手によると思われるデザインの原画が数点残っている[84]。
シンボルマーク
- 球団旗・ユニフォーム・ペットマークなどに、右を向いた虎の似顔絵(虎マーク)が使われている。
- 1980年代前半頃[注釈 32]より、虎マークが入った赤円を黒の輪で囲んだデザイン(黒の輪の上部に「HANSHIN」、下部に「Tigers」のロゴがそれぞれ白文字で入っていた)のペットマーク(丸虎マーク)が採用され、出版物や映像作品などで使われている[87]。
- 虎マークはユニフォームにも採用されており、球団創設当時からユニフォームの左袖にあしらわれている(詳細後述)。なお、ユニフォームにあしらわれている虎マークは顔が左向きとなっている。
球団旗
- 球団旗は、黒と黄色の横じま(上から、黒四本・黄色3本交互に構成)をバックに、左上にはペットマークにも使用されている赤円の中に右向きの虎マークが入ったデザインを基本としている。
- 初期の赤円は若干薄い色であった。その後、1950年代から1960年代頃には、虎マークの囲み円が褐色に染められたものや、黄色に黒線で囲まれた円形に正面に向いた虎の絵(ペットマークのデザインとは異なる)が描かれたマークの入ったデザインが存在した(選手名鑑に掲載されたり、1966年のオールスターゲームのポスターにも描かれた)。
- その後、1970年代後半頃には、虎マークなどが現在の形にまで整い[89]、1978年の小林繁の入団発表でバックに掛けられた旗もこのデザインである(このときの写真が『阪神タイガース70年史』57ページに掲載されている)、1984年10月には、一番下の黄色ラインの右寄り部分に黒色で「HANSHIN Tigers」のロゴが入ったデザインが正式採用された[90]。ただし、正式採用より数年前から使われている[91]。
ロゴ
先述の球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれる「Tigers」ロゴの書体は1960年に細部が変更されたのみで、創設以来一貫して使われ続けている。
また「Tigers」ロゴは、「HANSHIN」ロゴと合わせて、1962年6月15日には商標登録されている[92][注釈 33]。1982年には、ユニフォームのマークと同じように、整ったロゴが登録されている[93]。日本語表記の「阪神タイガース」ロゴは、1981年4月25日に商標登録出願、1983年10月27日に登録されている[94]。
ユニフォーム
タイガースのユニフォームは、一部の期間を除いて球団創設当初から現在に至るまでピンストライプに左袖の虎マーク・「Tigers」ロゴというデザインパターンが採用されている。
最大の特徴であるユニフォームのピンストライプは、球団の愛称・虎のイメージから「縦縞(タテジマ)」とも呼ばれ、「縦縞ユニフォーム」はタイガースの代名詞となっている。もっとも、創設当初は薄いグレー色のピンストライプであったが、マイナーチェンジを経て徐々に色は濃く、線も太いものとなり、現在では一般的なピンストライプとは一線を画す「縦縞」としてのデザインが確立されている。
ユニフォームの変遷
- 1936年 - 1940年
- 「Tigers」ロゴが2種類、「OSAKA」ロゴが1種類の3種類のユニフォームを使用。帽子も、3種類のユニフォームとそれぞれデザインを合わせた3種類があり、マークは黒字の「O」。ストッキングは黒地に黄と赤の2本ラインのものと、グレー地にダークグレーの4本ラインのものの2種類。
- 「Tigers」ロゴのものは白地にライトグレーのストライプのものと、グレー地にダークグレーのストライプのもので、共に襟付きであり、ロゴ・背番号の縁取り、前立て、袖などに黒と黄のパイピングというデザイン。なお、縦縞のデザインを使用した理由は諸説あるが、当時のデトロイト・タイガースのデザインを参考にしたのが有力とされる。
- 「OSAKA」ロゴのものはグレー無地にロゴ・背番号の縁取りとラインに黄のパイピングというデザインで、襟付き、左袖に虎マークのワッペンが貼られている。
- 1940年 - 1943年
- 連盟の指示により球団名を「阪神」に改称したことに伴い、基本デザインはそのままにロゴを漢字の「阪神」(左胸に縦書き。「神」は旧字体の「示へんに申」)に変更し、帽子のOマークを廃止。
- 1945年
- 再び「大阪タイガース」に改称するも、生地の不足により「Tigers」ロゴ無しのグレー地に黒のストライプのユニフォームであった。ストッキングはグレー地にダークグレーのストライプのものが主に使用された。帽子のOマークは復活していた。
- 1946年 - 1948年
- 胸ロゴが復活。しかし、グレー地のユニフォームは生地の耐用期間が短く、わずか3年間で廃止された。
- 1947年 - 1951年
- 物資不足の影響から、縦縞の無い白色無地で前立てラインのユニフォームを採用。前立てラインが2本のものと1本のものの2種類が存在した。「Tigers」ロゴ縁取りやラインは黄色。アンダーシャツは選手によってバラバラであり、白や紺、黒、あずき色などが使用された他、帽子は白地に黒字のOマーク、ツバ紺色であり、1938年 - 1940年に使用された白地のストッキングが復活した。特に、1本ラインのものは2リーグ分裂後も使われ、1951年までホーム用として使用された。
- 1948年 - 1949年
- 「黒のユニフォーム」と呼ばれる濃紺の生地を使用したユニフォームを着用。主に遠征用として用いられていた。上下濃紺に白字に黄色の縁取りの「Tigers」ロゴで、帽子も濃紺に白字のOマークであった。ストッキングは従来の白地のものに加えブルーグレー地に紺のラインのものと黄色地に紺のラインのものを使用した。このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったことや21世紀に入ってから復刻版ユニフォーム(詳しくは後述。)として使われたこともあって、老若男女問わずファンの認知度は高い。
- 1950年 - 1951年オールスター前
- 2リーグ分裂に伴い、遠征用ユニフォームを濃紺のユニフォームから薄めのグレーを基調とした「OSAKA」ロゴのユニフォームへ変更。1936年 - 1940年に使用されていた「OSAKA」ロゴのユニフォームを踏襲したデザインであり、戦後初めて左袖に虎マークが復活。このユニフォーム専用として帽子マークが「T」の帽子が登場、黒地に白字のTマークというデザインであった。
- 1951年オールスター後 - 1953年
- オールスターを境に、遠征用ユニフォームの「OSAKA」ロゴを「Tigers」ロゴに変更した上で、前立てラインを廃しビジター用として使用。「OSAKA」ロゴは虎マークの代わりに左袖に移動した。ストッキングは黄地に白、黒、赤のラインが入ったもの。襟を廃止。
- 1952年
- このシーズンのみ、白地にラインなしのホーム用を使用。地色以外は前年から使用していたビジター用と共通のデザインであった。ストッキングは従来の白地に黄、赤のラインが入ったもの。また、ビジター用帽子のマークがTマークからOマークに戻った。
- 1953年 - 1957年
- 伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活、1938年 - 1940年のデザインをほとんどそのまま踏襲したデザインとなった。
- 1954年 - 1957年
- ビジター用のロゴが再び「OSAKA」となる。胸ロゴと背番号が明朝体をモチーフとした新たな書体となり、左袖の虎マークも復活。ストッキングは黒地に黄の2本ライン。
- 1958年 - 1959年
- ホーム・ビジターともに、胸ロゴの黄色の縁取りがなくなる。また、ホーム用の白地の縦縞帽子とストッキングを廃し、ビジター用と同じものに統一。
- 1960年
- ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体がブラッシュアップされると共に、胸番号を採用。創設から使われてきた帽子のマークを「O」から「To」に変更。
- 1961年 - 1965年
- 球団名が「阪神タイガース」となるに伴い、ビジター用の胸ロゴを「HANSHIN」に変更。現在ではチームの象徴ともいえる帽子の「HT」マークが登場する。
- 1962年後期
- ビジター用の胸番号が背番号と同じ丸い書体になる。
- 1965年 - 1973年
- 基本のデザインはそのままに、襟・腕・パンツ脇に太いラインが採用された。背番号書体がホーム用はゴシックに近い書体、ビジター用は角書体、胸番号がホーム・ビジターともに角書体になる。ただし、ホーム用胸番号は背番号と書体が異なる上、さらにビジター用とも異なるいわゆる「高校野球型」書体である。ホーム用の左袖に「OSAKA」が復活、ビジター用は従来通り猛虎マーク。
- 1970年 - 1973年
- 猛虎マークが僅かに変更され刺繍となった他、背番号の上にローマ字で背ネームが入ったため背番号が小さくなった。オ段の長音は原則として「H」を使用しているが、1977年シーズン途中から1985年頃まで略していた選手が多かった(川藤幸三は「KAWATOH」ではなく「KAWATO」、遠井吾郎は「TOHI」ではなく「TOI」、大倉英貴は「OHKURA」ではなく「OKURA」)。
- 1972年 - 1973年
- 帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白となり、トップボタンが白、空気穴が黄色となった。
- 1974年 - 1975年
- ダブルニット素材がユニフォームの素材として採用されたことを機に、帽子のツバ、胸ロゴ、背番号、袖・首・パンツの線などに、それまでの黒に加えてチームカラーの黄色が入る。また、ホーム用の縦縞の色がグレーから黒となった。
- 1975年 - 1978年
- まず1975年にビジター用のユニフォームのみ変更され、地色がグレーからスカイブルーになり、袖、パンツの線がギザギザ模様のラインになる。このラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。由来には「虎の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。首のライン上に第1ボタンがついている珍しい様式で、ホーム用とビジター用でボタンの素材が異なり、ホーム用は地色と同じプラスチック製、ビジター用は半透明のプラスチック製ボタンだった。
- 1976年 - 1978年
- ホーム用もギザギザラインになり、左袖の「OSAKA」のロゴが消え、虎マークになる。
- 1979年 - 1983年
- 1984年 - 1987年
- ホーム用の背番号の書体がゴシックに近い書体からビジター用と同様の角型となる。胸番号は従来通りの高校野球型書体。また、ホーム用に2年遅れて、ビジター用を大幅にモデルチェンジ。ホーム用同様に黄色の首と袖のラインを廃してグレー地に黒の縦縞となり、左袖の虎マークが復活。また、帽子が黒地に白のHTマークとなり、ビジター用の胸番号の書体が背番号と同一になる。
- 1988年 - 1990年
- 基本的なデザインは変更されないまま、プルオーバー式からボタン式になる。また、ビジター用帽子のHTマークが白から銀に変更されるとともに、ビジター用スパイクが黒地に白線から、ホーム用と同様の白地に黒線となる。
- 1991年 - 2000年
- 1985年の日本一にあやかり、再びプルオーバー式が復活。1984年 - 1987年に使用されていたデザインがほぼ完全に踏襲された。
- 2000年
- 当時の監督・野村克也の提案により、ホーム用に使われていた縦縞帽子が廃止となり、ビジター用の黒い帽子をホームゲームでも使用するようになる。また、スパイクが黒地に銀のラインとなる。
- 2001年 - 2006年
- ホーム用は、基本デザインを変更しないまま再びボタン式を採用(実際はボタン付きプルオーバータイプ〔ボタンが外れるのは上から数個までで、残りは飾りというもの〕)、背番号・胸番号の書体を高校野球型へ変更した。ビジター用はデザインを大きく一新。縦縞を廃し、グレー地に黒白のラケットラインと袖ラインが入り、左袖の虎マークがモノトーンカラーに変更された。また、「HANSHIN」の胸ロゴが黒字に白の縁取りのピッツバーグ・パイレーツ型の字体になり、ホーム用同様に背番号と胸番号の書体が高校野球型へ変更、ニューヨーク・ヤンキースを模して背ネーム無しのスタイルとなった。
- 2007年 - 2011年
- 大幅モデルチェンジ。ホーム用は25年ぶりの大幅変更となった。監督の岡田彰布の要望により、チームカラーの黄色が1981年以来久々に取り入れられ、「Tigers」ロゴや背番号等が黄色で縁取られる。黄色と黒色の袖ライン+パンツ脇ラインが加わり、わき腹の部分には黒色を配したデザインとなった。帽子も1974年 - 1981年に使われていたもの(帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白)に変わる。ビジター用は、ラケットラインを廃し「HANSHIN」ロゴを2000年以前の書体を再び採用、ホーム用と同じくわき腹部分に黒色のカッティングを配したデザインとなる。帽子は従来の黒帽子に、ツバのふちが白線が入りHTマークが銀色から白色へ戻る。また、ホーム・ビジター共に背番号・胸番号の書体が1962年夏 - 1965年まで使われた欧州系の書体を彷彿させるデザインとなった。
- 2012年 - 2014年
- 新たにミズノとサプライヤー契約したことによりモデルチェンジ。コンセプトは「伝統と改革の融合」。白、黒、黄色と縦縞の伝統は守りながらも、昨季のデザインと比べて黄色の部分が少なく、よりたくましいイメージとなっている。ホーム・ビジターともに基本のデザインは統一され、ホーム用は上下白地に黒の縦縞という従来のスタイルながら縦縞は昨季までのデザインより太くし「力強さ」を表現、「Tigers」ロゴ及び背番号・胸番号は黒字に白の縁取りとなった。ビジター用は藤川球児の提案から、シャツは黒、ズボンは白が基調のツートンカラーに一新し(ツートンカラーは、唯一阪神だけ採用していなかったが、このデザイン変更により全12球団が採用することとなった)、新たにシャドーストライプを配して伝統の縦縞を継承した他、「HANSHIN」ロゴをパイレーツ型をモチーフとした角張ったデザインへ変更、背番号・胸番号とともに白字にグレーの縁取りとした。シャツの肩とわき腹部分及びパンツの脇と裾部分に「牙」をイメージし虎の「勇猛さ」をアピールするとして配したシャープな切り返しデザインは、ホーム用は黒に黄色の縁取り、ビジター用は白にグレーの縁取りという配色となった。帽子のつばはホーム・ビジターともに黒となり、ツバのふちにホーム用は黄色、ビジター用は白のラインが入る(ヘルメットも同様)。HTマークについては、ホーム用はTが白でHが黄、ビジター用はTが白でHがグレーとなった。胸番号、背番号は、中日ドラゴンズが1996年から2011年まで使用したユニフォームと同じ書体に変更、背番号の角のある字体は力強さと同時に「優美さ」を表現している。キャプテン制導入(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)に伴い、藤川球児と鳥谷敬の左胸にはキャプテンのCマーク(黒地に「C」の白文字のワッペン)が入った。
- 2015年 - 2017年
- 球団創設80周年を機にモデルチェンジ。「歴史・伝統・新しさ」をコンセプトに、ホーム用は白、ビジター用はグレーを基調にシンプルな縦縞のデザインとなった。ビジター用の「HANSHIN」ロゴが従来のデザインへ復活。ホーム・ビジターともに肩やわき腹部分の切り返しなどを廃し、白色と黒色の腕ライン+ラケットラインが入る。帽子はホーム・ビジター共通のデザインとなり、黒地に白字でHTマークが入った。ヘルメットは艶消しのタイプとなる。
- 2018年 -
- ホーム・ビジター共にモデルチェンジ。ホーム用は、伝統の縦縞にチームカラーであるイエローを加え、「伝統」とチーム・ファンとの「一体感」を表現。前年まで使用されたモデルの胸ロゴ、背番号、胸番号、背ネーム、ラインそれぞれの縁取りを白色から黄色にマイナーチェンジした形である。帽子も1974年 - 1981年、2007年 - 2011年に使われたもの(HTマークの「H」が黄色「T」が白色、ツバが黄色)を基にトップボタンと空気穴が黄色としたものに変わる。ビジター用は、ブラックを基調にイエローを加えることで「力強さ」と「一体感」を表現している。黒地に黄色と黒色のラケットライン+袖ライン、「HANSHIN」ロゴ、背番号、胸番号、背ネームは黄色に白の縁取りとなった。2014年以来4年ぶりにシャツが黒、パンツが白のツートンスタイルが復活。帽子は前年に引き続き黒一色であるがHTマークは白文字から黄文字+白縁取りに変更。なお、上新電機株式会社との契約により、ホームユニフォームは前年までのヘルメット及び右袖に加え、2018年より新たに帽子(左側)とユニフォームパンツ(左足付け根付近)に「Joshin」のロゴが掲出さることとなった[95]。
交流戦専用ユニフォーム
2005年から開始されたセ・パ交流戦では2011年まで毎年、交流戦期間中の専用ユニフォームが作られた。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たること、また、綱島理友が1999年から2004年まで『週刊ベースボール』で連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。なお、選手が実際に使った交流戦専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークションで落札者にプレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。2012年以降は、交流戦専用ユニフォームの企画は行われていない。
- 2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた復刻版ユニフォームを専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年から1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着用せず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。この復刻版ユニフォームは好評で、その後他球団へも波及していった。
- 2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使った復刻版ユニフォームをビジターの試合で着用。ホームでは逆に、同時期(1979年 - 1983年)にビジターで着ていた水色地のモデルを使用した。従って、東北楽天ゴールデンイーグルスの協力でホームゲームでは結果的に「ビジター対ビジター」、ビジターゲームでは「ホーム対ホーム」という趣で行われた[96]。
- 2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーのコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることのなかった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号はかつてコシノが手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字は黄色で、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺球場時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色の線が配されていた。
- 2008年は“リアルタイガー”をコンセプトに、プロ野球界で初めて従来はアップリケだった胸のロゴや袖のマーク・背番号を生地に印字することで、これまでよりも100グラム軽い約400グラムに軽量化。より“虎”をイメージしたデザイン面は、伝統のタテジマの幅を倍の5ミリにしてグラデーション加工を施し、場所によってシマの濃さが変わる。さらに「流線形」でスピード感を表すように、すそや胸のロゴに向かって色が薄くなっている。帽子はホーム用は空気穴とトップのボタンを黄色にした交流戦限定型で、ビジター用はホーム用の黄色の部分全てにグレーが用いられた。なお、このユニフォームはキャンプ中に岡田監督が自ら提案した。
- 2009年は3年ぶりに復刻版ユニフォームを使うことになり、1985年にタイガースが日本一になった当時のユニフォームが選ばれた。デザインは「ユニフォーム」の1984年-を参照のこと。なお、2009年の復刻版ユニフォームは当時と同じくプルオーバータイプとなっている(2005年・2006年に使用した復刻版ユニフォームではプルオーバーを再現せずボタンありのものを作成しており、当時のものとは微妙に異なる)。一方、ホーム用のスパイクは当時は白だったが、2009年は通常のユニフォーム同様、黒だった。
- 2010年は「輝流ライン」入りの復刻版ユニフォームを採用する。デザインは「ユニフォーム」の1975年 - 1978年を参照のこと。
- 2011年は前年夏に開催された『「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜』でも使用した「黒のユニフォーム」の復刻版ユニフォームを採用する。なおストッキングは「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では「紺色・灰色」だったものを今回は「黄色・紺色」とした。デザインは「ユニフォーム」の1948年-1949年を参照の事。着用は主催ゲームのみである(ビジターゲームでは通常のリーグ戦のビジター用を着用した)。
交流戦以外の専用ユニフォーム
「GREAT CENTRAL」
2010年、2012年にセントラル・リーグ主催で行われた期間限定プロジェクト。セ・リーグ6球団がそれぞれ歴代のユニフォームの中から選んだものを復刻ユニフォームとして着用。
- 2010年8月、『「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜』と銘打ち、1リーグ時代の「黒のユニフォーム」が復刻された。デザインは「ユニフォーム」の1948年 - 1949年を参照のこと。
- 2012年8〜9月、『「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜』において、大阪タイガース時代の1937年の秋に球団史上初の優勝を飾った当時のユニフォームを復刻し、ホーム用とビジター用の2種類を用意した。ホーム用は、ソックスのストッキングが黒・黄色・赤のラインが入ったもの。ビジター用は、ストッキングが黒一色のもの。
「ウル虎の夏」
2013年より、夏イベントとして開催。毎年「ウル虎の夏(西暦)」と銘打たれ、期間中の阪神主催試合では期間限定ユニフォームが使用される。また、イベント開始前にユニフォームのお披露目としてゴールデンウィーク期間にも着用する。
- 2013年度は、従来の縦じまユニホームに黄色と黒のラケットラインを施し、左胸にタイガースのHTマークをあしらった[97]。ユニフォームデザインにTHマークが使用されたのは球団史上初。また、交流戦およびセ・リーグ主管のオールドユニフォームシリーズ以外での季節限定特別ユニフォームの採用も初めての出来事であった。
- 2014年度は、甲子園球場の開場90周年を記念し、蔦や芝生など甲子園球場を象徴する緑色とタイガースを象徴する黄色をベースとした「ウル虎グリーン」をテーマカラーとして採用した[98]。胸の限定ロゴは、躍動感のある猛虎をイメージし、強く、そして戦う姿勢を前面に押し出したデザイン。グリーン地に脇に黄色、ズボンは白地に横に黄色、帽子はグリーン地につばとHTマークが黄色。
- 2015年度は、球団創設80周年記念イベント「Yellow Magicプロジェクト」の一環として、本拠地・甲子園球場での主催9試合でチームカラーの黄色を基調としたユニホームを着用[99]。黄色をベースに白と黒のラケットライン、パンツは白地に黄と黒の脇ライン。
- 2016年度は、前年同様黄色を基調とし、新たに肩や袖口に黒をあしらい力強さを表現した[100]。また、この年より「ウル虎の夏」ユニフォームの名称を「ウル虎イエローユニフォーム」とした。
- 2017年度は、前年のモデルを踏襲した基本デザインを採用。新たに前身頃部に縦じま模様を加え、肩・袖口部の他に背面にも黒色を配し、帽子のツバにも縦じまのストライプが加わった[101]。
- 2018年度は、ユニフォーム全体に黄と濃黄による虎柄模様をあしらい、2015年度以来採用されていたラケットラインを廃して腕ラインは黄と黒。また、胸番号と背番号に「ウル虎の夏」のイベントロゴを模した炎のデザインを取り入れた。帽子は黄色をベースにツバとTHマークを黒とし、ツバにはユニフォーム同様虎柄模様があしらわれている[102]。
- 2019年度は、2015年度採用のモデルをベースに、黒字に黄縁の「Tigers」ロゴ・背番号・胸番号・背ネーム、黄と黒のラケットライン・腕ライン。ユニフォーム全体には「ウル虎の夏」ロゴの炎柄があしらわれている。帽子はホーム用帽子をベースとして、ツバにユニフォームと同様の炎柄を配した[103]。
「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」
2016年から始まった阪神・巨人による相互展開プロジェクト。詳細は「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」の項を参照。
- 2016年は第1ラウンド(4月26日〜28日)にて、1970年代の「輝流ライン」ユニフォームを2016年版にリメイクした期間限定ユニフォームを着用[104]。
- 2017年、5月23〜25日の甲子園・対巨人3連戦で1948年から1949年の「大阪タイガース」時代に着用されたユニフォーム(通称:ブラックユニホーム)を2017年バージョンとしてリメイクしたものを着用(帽子のマークを「O」から「TH」に変更、背ネームを追加)[105]。
- 2018年、5月25日〜27日の対巨人3連戦(甲子園)にて、1975年から78年に着用された「輝流ラインユニフォーム」のビジター用をベースに、胸ロゴを「HANSHIN」から「Tigers」に変えホーム用にリメークした「輝流ラインユニフォーム2018」を着用。
マスコット
球団マスコットは次の3体である。詳しくは、それぞれの項目を参照。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。
ちなみに、マスコットガールは1978年を除き2013年まで保有していなかったが、2014年から新たに「タイガースガールズ」として保有することとなった。(詳細は当該項目を参照)
主な歴代の球団歌・応援歌
公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:「六甲颪」[注釈 34])のみであるが、その他に球団応援歌も多数ある。
- タイガース音頭/進め!タイガース(歌:中村鋭一 朝日放送アナウンサー)
- トラトラマーチ(歌:植草貞夫 朝日放送アナウンサー)
- 阪神タイガース数え歌(歌:道上洋三 朝日放送アナウンサー)
- トラトラ阪神応援歌(同上)
- タイガースよ永遠に/今日も勝ったよタイガース(歌:平田勝男、吉竹春樹、池田親興=1985年タイガース所属選手)
- 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち(戦争を知らない子供たちのパロディー替え歌。歌:リリアン、板東英二、やしきたかじん、桂雀々)
- WIN!WIN!タイガース(歌:JK21)
- 負ける気せんね/ハイハイ敗 (歌:辛坊治郎・森たけし=読売テレビアナウンサー)
- 他多数
チームスローガン
- 1985年 - 1998年 3F(フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チーム)
- 1999年 - 2001年 TOP野球
- 2002年 - 2005年 NEVER NEVER NEVER SURRENDER
- 2006年 - 2008年 Be the Best For the Fans
- 2009年 - 2011年 Focus on this play,this moment!!
- 2012年 - 2014年 Go for the Top 熱くなれ!!
- 2015年 Go for The Top as One
- 2016年 超変革 Fighting Spirit
- 2017年 挑む Tigers Change
- 2018年 執念 Tigers Change 2018
- 2019年 ぶち破れ! オレがヤル 2019
スポンサー
ユニフォームスポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
- ユニフォーム右袖 Joshin(2004年 - )
- ヘルメット Joshin(2004年 - )
- 帽子(左側)Joshin(2018年 - )[106]
- ユニフォームパンツ(左足付け根付近)Joshin(2018年 - )[106]
- ※2002年には、あしなが育英会のマークが入っていたが、これはスポンサーではなく、球団がボランティアで掲載したものである。
オフィシャルスポンサー
企業・団体名 | 業種 | 締結年度 | 備考 |
---|---|---|---|
上新電機株式会社 | 家電量販店 | 2013 - | ホームゲーム用ユニフォームの袖・ヘルメットスポンサー |
ミズノ株式会社 | スポーツ用具・スポーツアパレル | 阪神タイガースユニフォームサプライヤー | |
株式会社ローソン | コンビニエンスストアチェーン | 2014 - | |
アサヒビール株式会社 | ビールメーカー | 2018 - |
2013年から上新電機株式会社と、ユニフォームサプライを担当するミズノ株式会社の2社が阪神球団史上初となる「球団オフィシャルスポンサー」として正式に締結[107]された(2014年度からは株式会社ローソン[108]、2018年度からはアサヒビール[109]も加わり計4社となった)。
球団オフィシャルスポンサーは、タイガースの球団経営の趣旨に賛同する企業・公益法人などの各種団体を対象として、球団と各団体が相互に成長していくことを目指すとしており、それらを象徴するシンボルとして、協賛スポンサー団体と球団のそれぞれのロゴマークが並列して描かれた「球団公認コンポジットロゴマーク」を広告やホームページなどに掲出できる[107]。
キーワード
ミスタータイガース
タイガースの中心選手にファンが与える称号である。本来は藤村富美男の呼称であったが、藤村の引退後に村山実、田淵幸一、掛布雅之らが後継者として同様の称号で呼ばれた。
ダイナマイト打線
タイガース打線の代名詞。
バックスクリーン3連発
いろは順背番号とポジション順背番号
1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エースの若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。
背番号11にまつわるエピソード
村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。
11を最初につけたのは藤井勇(1935年 - 1939年、1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度も召集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一(1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更する。3代目の御園生崇男(1950年)は15からの変更だったが、前年に悪化していた体調がさらに悪化したため翌年元に戻す。4代目の三船正俊(1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博(1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘(1957年)も40から変更した途端に退団している。
大学で村山の先輩にあたる御園生は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。
代打の神様
試合展開を左右する局面で勝負強さを発揮する打者について、主にファンやメディアなどで「代打の神様」と表現されることが多い[110]。
そのように称されるきっかけになったのは、八木裕である(1997年に代打成功率4割超を記録するなどした)[111][112]。その後、この「代打の神様」の称号は、桧山進次郎[113][114]、関本賢太郎[115]へといつしか継承されていくこととなった。直近(2017年シーズン)は、狩野恵輔[110]がこの称号で呼ばれることがあった。
なお、八木の活躍以前にも、複数年にわたり代打として活躍した選手は複数存在しており、遠井吾郎、川藤幸三[112]、真弓明信[110]などが挙げられる。
伝統の一戦
主にメディアなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。2016年からは巨人との共同プロジェクトとして同カードを「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」と銘打ち相互展開を図っている。
年度優勝決定戦と太平洋ホームラン
1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。大阪タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位・東京巨人軍の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急軍が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。
12月に洲崎球場での年度優勝決定戦では1勝2敗で惜敗したものの、景浦が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。
1936年秋の優勝決定戦では敗れたものの、1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チームの巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗り4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。
なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。
世紀の落球とV9
1973年には、8連覇中の巨人との間で、激しい優勝争いを展開していた。8月5日の対巨人戦(甲子園)9回表2死で、中堅を守っていた池田純一が黒江透修の平凡な飛球を追った際に、当時十分に整備されていなかった外野の天然芝に足を取られて転倒。転倒の間に塁上の走者が全員生還したことから、勝利目前だった阪神は逆転負けを喫した。実際には池田が転倒しただけで飛球を落としていないにもかかわらず、阪神が後述する結果でシーズンを終えたことから、このプレーは後年まで「世紀の落球」と呼ばれた。当の池田は、心ないファンから「戦犯」と決め付けられるなどの嫌がらせに苛まれたあげく、球界を離れた後の2005年に逝去している。
8月30日の対中日戦(甲子園)では、先発の江夏がノーヒットノーランを継続したまま、延長10回裏の打席でサヨナラ本塁打。中日による優勝の可能性を消滅させたが、翌31日には巨人が首位に立った。10月10日の対巨人戦(後楽園)では、田淵幸一が倉田誠から逆転満塁本塁打を放ち、江夏が抑えて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌日は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。
残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまで迫っていた10月20日の対中日戦(中日球場)では、中日キラー・上田の先発が予想されたが、金田正泰は先発にチーム最多勝の江夏を指名[注釈 35]。しかし、これが裏目に出て木俣達彦に本塁打を打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一に抑え込まれて2-4で敗戦した[注釈 36]。一方、江夏は自伝『左腕の誇り』(構成:波多野勝、草思社、2001年)の中で、「フロントから19日に球団事務所に呼び出され、『残りの2試合には勝ってくれるな』と言われた」と述べている[116]。
この対中日戦の終了間際、球場近くを通る東海道新幹線を巨人選手を乗せた列車が通過したという逸話があり、実際にこの時の試合映像が現存している。選手の1人は車内からスコアボードを見ようとしたが果たせず、名古屋駅到着時にファンが試合経過を知らせ、それを聞いた選手達はムードが明るくなったと伝えられている[注釈 37]。
こうして、10月22日(本来は21日だったが雨天で順延)の対巨人戦(最終戦、デーゲーム)で、その試合に勝ったチームが優勝ということになった[注釈 38]。しかし、約48,000人の大観衆を集めたこの試合も0-9で大敗し、巨人のV9をあっさり許した。16時19分、最終打者のウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦とV9を許した不甲斐ない阪神に怒ったファン約1500人が暴徒と化し、一塁側スタンドやアルプススタンドからグラウンドに乱入、両軍ベンチに向かった。阪神の選手・スタッフは試合終了とともにロッカールームに引き上げて難を逃れたが、巨人の選手はすぐにベンチに退散したものの、王は殴られてベンチ前で倒れ、森はキャッチャーマスクをとられるなど選手・コーチを含む七人に、殴る蹴るの暴行が加えられた。巨人の関係者はベンチ裏から脱出して、胴上げもせずに芦屋市の宿舎「竹園」に引き上げた。選手の退出を知った阪神ファンは、三塁側スタンドの巨人ファンに「帰れ、帰れ」と怒声をあげながらグラウンドの土や座布団、空き缶などを投げ合って応酬。「やめとけ」とグラウンドに降りた巨人ファンを阪神ファンが取り囲んで乱闘になり、兵庫県警機動隊員や甲子園警察署員の約180人が出動する事態となった[117][118]。
また、場外でも16時40分頃に阪神球団関係者の乗った車をファン約500人が取り囲み「あの試合は何だ!」と車体を揺さぶるなどした[注釈 39]。甲子園警察署が設置した警備本部も投石された[119]。
この試合は、よみうりテレビ(実況:佐藤忠功、解説:村山実)[120]が日本テレビ系列の全国ネットで中継しており[121]、近畿広域圏ローカルでは朝日放送(実況:植草貞夫、解説:根本陸夫、ゲスト:中村鋭一)[121]やサンテレビ(実況:西澤あきら、解説:後藤次男。近畿放送も同時ネット)[120]も含めた3局が同時にテレビ中継。ラジオも朝日放送(実況:黒田昭夫、解説:皆川睦雄、中国放送にもネット。自社ではパ・リーグ優勝決定戦、阪急対南海〈解説:花井悠〉と二元)・毎日放送(解説:杉浦忠、阪急対南海〈解説:永井正義 他〉と二元)・TBSラジオ(解説:水原茂、実況:山田二郎。山陽放送にもネット)・ニッポン放送(解説:関根潤三)・文化放送(解説:別所毅彦)・ラジオ関東がそれぞれ中継していたが[122]、よみうりテレビと朝日放送の放送席には途中から危険物などが投げ込まれ、選手の退出後には200人ほどの暴徒が襲い掛かってきた[118]。
朝日放送のテレビ放送席では、暴徒の連中に「放送をやめろ」と植草と根本らに対して怒鳴りつけたり、空き缶を投げつけたりした。植草は暴徒ではない阪神ファンの一人が頭の上にかざしてくれた座布団で防ぎながら放送を続けたが、放送終了(16時38分30秒)までの30秒間は音声が途絶え、画面だけが流された[118]。しかし、当時は『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(阪神の熱狂的なファンである中村鋭一が朝日放送ラジオで担当していた生ワイド番組)が絶大な人気を博していたことから、同番組のリスナーと思われる阪神ファンが「ここは鋭ちゃん[注釈 40]のとこ(朝日放送のテレビ放送席)やから勘弁したれ」と絶叫[123]。さらに、良心的な阪神ファンが暴徒を説得したことによって、放送席と機材への襲撃は免れた[124]。
暴徒はよみうりテレビの放送席も襲撃して「巨人の肩ばかり持つな」とテレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材を破壊するなど大暴れ。止めに入った解説の村山にも「阪神選手やったのによみうりテレビの解説をしやがって」と殴りかかった。機動隊員約30人が3局の放送席を取り囲んで暴徒を遠ざけるが、甲子園警察署の調べでは、よみうりテレビの損害は約1千万円にも及んでいた[125]。この暴挙のため、優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。
しかしその一方で、サンテレビの放送席と機材は朝日放送と同様に「サンテレビは俺たちの味方や」とファンはおろか暴徒にも守られたことで難を逃れた[124]。また、朝日放送とは異なり、実況中の暴徒による妨害行為も発生しなかった。
通常の試合では警察官100人、球場職員30人の警備態勢だが、この日の試合では警察官200人、阪神電鉄社員80人、アルバイト120人、ガードマン50人の計450人を待機させる特別態勢を敷いていたものの、この騒ぎを鎮めることができなかった。このため兵庫県警の機動隊70人が16時50分に出動[118]。追い散らされたファンは機動隊を遠巻きにして「帰れ!」コールを浴びせた。ファンの殆どは17時過ぎに球場外へ出たが、それでも興奮が収まらない阪神ファンと群集約800人は甲子園球場の指定席券売場前に集まって「阪神の責任者にわびをさせろ」と騒ぎ、「阪神タイガースの歌」を合唱して気勢を挙げた。県警からの要請で18時過ぎに阪神監督の金田がユニホーム姿で場外に現れ、携帯マイクを使って「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」とファンへのお詫びとお礼を呼びかけた[126]。これを受けて、19時にファンは引き上げたが、警備本部への投石で警官1名が負傷、ファン6名がケガをした[118][注釈 41]ほか、よみうりテレビの放送機器を壊した疑いなどで数名が警察に検挙されている[127]。
阪神は優勝を想定して、田淵幸一を起用した日本シリーズ用のポスター[注釈 42]と「優勝記念」と書かれたマッチを製作したが、両方ともお蔵入りとなり、マッチ[128]は阪神電鉄の保養所で使われていた[注釈 43]。
史上最短試合と史上最長試合
1946年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間がわずか55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。
逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分という試合時間を記録した。この試合では3 - 3の同点で迎えた9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスの水平ラバー部、その上の金網フェンスへと当たりスタンドに入ったため一旦はサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正された。だが阪神側もこの判定に抗議して(既にロッカーへ引き上げていた選手、コーチがいたため)、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)を戦いそのまま3 - 3で引き分けた。なお、サンテレビがこの試合の中継を試合終了まで行っており、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。当時日本にて視聴率調査を行っていたニールセンによると、試合当日の平均視聴率は28.0%、瞬間最高視聴率は50.0%を記録した。また、試合が中断したことでサンテレビの技術スタッフが熱くなりすぎて中継時に掲示するボールカウント表示器のスイッチを壊してしまい、その後は試合終了まで手動に切り替えてしのいだというエピソードも残っている[129]。
2018年9月20日に行われた、対広島21回戦(マツダスタジアム、5-4で勝利)では、試合終了が翌21日の深夜0時3分であった。過去、二日がかりの試合としては、上記のプロ野球史上最長試合も含めて13度あったが、いずれも延長戦にもつれたものであり、9回で決着がついた試合としては史上最も遅い試合終了時刻となった。当日は試合開始前から雨模様で、試合開始が1時間9分遅れの19時9分となっただけでなく、2回裏終了時に雨脚が強くなり1時間2分中断し、さらに5回裏終了後も同様に12分中断したことで、試合時間としては中断時間も含めて4時間54分であったが、試合終了時点では日付が変わっていた。中止ないしノーゲームにしてもおかしくない状況であったが、当年の阪神タイガースは前半から中盤にかけて中止が相次ぎ試合消化のペースが例年より遅く、これ以上の中止は全日程消化させる上で更なるスケジュールのタイト化が懸念されたため、強行したという事情がある。なお、当年のセ・リーグは8月28日から「連盟管理節」に入っており、試合挙行の可否や試合開始の時刻の変更などを、セ・リーグ統括または当該試合の球審が代行することになっていた[130]。
投手の偵察メンバー第1号
偵察メンバーを多用した監督としては三原脩が有名だが、プロ野球で初めて考案したのは藤村富美男で、助監督兼内野手だった藤村の助言を受け松木謙治郎監督が初めて試合で使用した[131]。1950年4月22日に熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発が左腕の清水秀雄か右腕の服部受弘か迷ったため、1番左翼手を投手の干場一夫とした[131]。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7 - 9で敗れた。
2度の放棄試合
1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪スタヂアム)と、1967年9月23日の対大洋ホエールズ戦(甲子園)で行われている。いずれも阪神の負け試合となっている。
村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合
村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、さらに牧田俊洋球団社長も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。
2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。
経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングスとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。
この他、かつては株主優待として、阪神電鉄の株式を9月30日時点で5,000株以上保有する株主に対して、翌年度の阪神甲子園球場でのタイガース主催試合のうち1試合2名を内野席(アイビーシート)に無料招待していたが、経営統合による阪神電鉄の上場廃止でこの無料招待も廃止された。
放送・メディア
主催ゲーム・ロードゲームの中継制作局・番組
- NHK大阪放送局
- 毎日放送
- 朝日放送ラジオ(ABCラジオ)
- 朝日放送テレビ(ABCテレビ)
- 『スーパーベースボール 虎バン主義。』(放映権は雨天延期試合以外、水・日曜日固定)
- 関西テレビ
- 読売テレビ
- テレビ大阪
- 『ナマ虎スタジアム』
- サンテレビ
- 『サンテレビボックス席』(水・日曜日に限らず朝日放送テレビとの共同制作日あり。)
主催ゲームのみの中継制作メディア
- GAORA(MBS)ほぼTigers-ai制作中継。極稀にMBS、サンテレビ制作分放送。
- スカイA(ABC)ほぼTigers-ai制作中継。極稀にABC、サンテレビ制作分放送。
- フジテレビONE(関西テレビ制作 巨人戦のみ)ヤクルトのホームゲームと重なる場合はフジテレビTWOに移して中継しているが、TWOで西武のホームゲームとも重なった場合の実績は2016年は日程の関係上発生していない。地上波でデーゲームをフジテレビとの2局ネットまたはナイターをフジテレビ系列全国放送時はフジテレビも制作に加わる。
- 日テレジータス(読売テレビ 巨人戦のみ)※日本テレビ系列全国放送時は日本テレビも制作に加わる。
- Tigers-ai(阪神コンテンツリンクが制作している阪神戦の中継)
主催ゲームの制作放送を行う無料BS放送メディア
- BS朝日 - 対巨人戦がテレビ朝日系列地上波全国放送時は、水曜ナイターはトップ&リレー中継、日曜デーゲームはリレー中継のみ実施し、何れも地上波中継と同じメンバーが担当。関西ローカルで対巨人戦や巨人戦以外の試合を地上波と並列放送する場合はテレビ朝日・BS朝日制作著作・朝日放送テレビ制作協力で朝日放送テレビが地上波とは実況・解説を別に用意して放送する。BS単独放送や地上波がサンテレビ・朝日放送テレビとの共同制作かつサンテレビでの放送時はTigers-aiの映像も使用。同局ではセ・パ交流戦でのパ・リーグ球団主催の阪神戦もテレビ朝日制作で放送。
- BS-TBS - 対巨人戦がTBS系列全国放送時は平日ナイターはトップ&リレー中継で放送するが、トップ中継はTBSテレビのアナウンサー・解説者がオフチューブで中継し、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する、デーゲーム開催時はリレー中継のみ実施し、毎日放送のみ16時以降も中継かつ関西ローカルと同時放送するが地上波は17:30までの放送となり17:30以降は裏送りで放送。地上波が関西ローカルでの録画中継時は毎日放送からの裏送りで中継。対巨人戦以外の試合は、TBSテレビ・Tigers-ai制作でTBSテレビのアナウンサー・解説者で放送。同局ではTBSテレビ制作でDeNAや交流戦でのパ・リーグ球団主催の阪神戦も放送。
- BS日テレ - 2017年から対巨人戦が日本テレビ系列全国放送時は平日ナイターはトップ&リレー中継、土曜・祝日デーゲームは地上波同時放送。関西ローカルでの録画放送時は読売テレビからの裏送りで生中継。
- BSフジ - 2017年9月9日に阪神対DeNA戦を関西テレビ制作で放送。当初は関西ローカルの録画放送を前提に放映権を獲得していたのが、同日に『FNS27時間テレビ にほんのれきし』が編成されたためBSフジでの全国放送となった。年度によりヤクルト主催の阪神戦をフジテレビ制作で1試合放送することがある。
地元ケーブルテレビ局
- ベイ・コミュニケーションズ(オリジナル番組制作)
関連番組
テレビ
- 虎バン(ABCテレビ)
- 猛虎ファイル(MBSテレビ)
- 週刊トラトラタイガース(読売テレビ)
- 熱血!!タイガース党(サンテレビ)
- 虎辞書なる!!(サンテレビ)
- サン虎検定(サンテレビ)
- BRAVO!(読売テレビ)
ラジオ
- with Tigers MBSベースボールパーク みんなでホームイン!(MBSラジオ)
- 清水次郎の虎たま!(ABCラジオ)
- 福本豊の虎たまデラックス!(ABCラジオ)
- ガチ虎!(ABCラジオ)
阪神タイガースをテーマとした作品
漫画・アニメ
阪神タイガースに所属する(していた)野球漫画の登場人物
- 花形満 - 『巨人の星』に登場する阪神の選手。
- 浪花球太 - 『リトル巨人くん』に登場する阪神の選手。
- 通天閣虎夫 - 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に登場する阪神の選手。
- 藤村甲子園 - 『男どアホウ甲子園』の主人公。1974年入団、1976年に故障で現役引退。
小説
映画
ゲーム
関連書籍
- 松木謙治郎 編 編『大阪タイガース球団史 1985年度版』恒文社、1985年。ISBN 4-7704-0634-7。
- 井上章一『阪神タイガースの正体』太田出版、2001年。ISBN 4872335651。
脚注
注釈
- ^ 日本職業野球連盟は現在の日本野球機構の源流に当る組織である。
- ^ この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。
- ^ 2004年に巨人が更新
- ^ 同行していた電鉄本社常務取締役の石田一雄も犠牲となったが、これは同事故当日に運輸省(現・国土交通省)で行われた民鉄協の会議に出席し帰阪のために同事故の便に搭乗したものであるが、当初この会議には球団オーナーで電鉄本社社長の久万俊二郎が出席し同便で帰阪する予定だったが、久万が私用で出席できなくなったことで中埜・石田の両名が代理で出席し同便に搭乗し同事故の犠牲となった。
- ^ 8月10日と11日に福岡市の平和台野球場で阪神対中日戦(地方主催試合)が行われ、事故日は13日から後楽園球場で行われる巨人対阪神戦に備えての移動日であった。犠牲になった中埜も事故前々日に応援のため平和台野球場を訪れていた。
- ^ この366便に搭乗していた選手の一員である木戸克彦の妻は当該事故便の123便に搭乗予定だったが直前にキャンセルし難を逃れた。
- ^ この当時、甲子園は改装工事中で使用できなかったため、京セラドーム大阪で試合を行った。
- ^ 最高打率が.270以下だったのはチームでは44年ぶり。
- ^ 前シーズンから通算すると10連敗。
- ^ パ・リーグでは前身のプレーオフで2004年2位の西武、2005年2位のロッテ(当時のプレーオフはパシフィック・リーグのみに先行導入され、プレーオフを勝ち抜いたチームがリーグ優勝というルールだった)、CS導入後の2007年2位の中日、2010年3位のロッテはいずれも日本一になっている。
- ^ 2011年の北海道日本ハムファイターズと並ぶ。
- ^ 本来の英語では複数形のsを「ス」と発音するのは、単数形の語尾が無声音の場合だけであるが、戦前の日本の球団名ではタイガースのほかにイーグルス・セネタースがやはりあえて清音としている。戦後の命名ではセネタース・阪急ブレーブス・松竹ロビンス・近鉄パールス・東北楽天ゴールデンイーグルスがこれに該当する。
- ^ 1950年の開幕前に甲子園球場で開催されたオープン戦「大阪市長杯」で全チームが参加した入場行進の写真に「阪神タイガース」のプラカードが写っているのが確認できる[74]
- ^ 1961年に刊行した『毎日放送十年史』では南海との契約が営業に貢献したと記したが、1991年に刊行した『毎日放送の四〇年』の中では1971年に甲子園の阪神・巨人戦の中継枠2試合を確保したことを「"虎の子"の二試合、スポーツ担当だけでなく、全社あげて晴天を祈る気持ちだった。」と記すほど状況は変化していた[78]。
- ^ 南海と毎日放送との契約は、1960年に南海が契約額を引き上げたことから、1961年にはプロ野球中継自体を大幅に削減していた。
- ^ 『毎日放送の四〇年』には1970年代の関西地区のプロ野球ファンについて「圧倒的に阪神タイガースのファンが多く、次いで巨人、さらに間をおいて南海、阪急、近鉄である」と記し、その対応として同局が「ナイター中継は阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪3球団のカードを交え…選ぶのが基本姿勢」との記述がある[80]。
- ^ その一方、読売新聞系の「スポーツ報知」は、スポーツ新聞として唯一、球団発行のタイガース公式イヤーブックに広告が掲載されていない。ただし、同じく読売系列の讀賣テレビ放送の広告は掲載されている
- ^ 1975年には全国高等学校野球選手権大会の日程が雨天順延が相次いで5日延びたため、甲子園で行う予定だった阪神の試合が雨天中止に準じた扱いで予備日に振替開催されたこともある。
- ^ 現状では7月末から8月末までの1ヶ月程度に及んでいる。
- ^ 新幹線や飛行機を使うまでは、在来線の夜行列車などで長時間移動したりした。
- ^ かつては旅館の大部屋で雑魚寝ということもあったが、今はシティホテルの個室である。
- ^ 実際には、巨人も毎年7月中旬 - 下旬の都市対抗野球開催期間中に阪神ほどではないが長期遠征を行っている。
- ^ 2012年からこの制度になった。
- ^ 2015年以降、阪神の主催試合は奇数年が72試合、偶数年が71試合となっている。
- ^ 2006年も1試合を予定していたが、同球場の設備の老朽化を理由に甲子園に振り替えとなり、2007年以降はオープン戦すら行っていない。なお、それ以降はオリックスと巨人が公式戦を開催した実績がある。
- ^ 交流戦が開催されている2005年以後は梅雨時の開催は行っていなかったが、2009年は交流戦2試合を開催した。
- ^ 2011年も1試合を開催予定であったが、雨天中止となり甲子園での開催に振り替えられた。
- ^ 2011年の公式戦開幕は東日本大震災の影響で日程が順延されたことによるもので、当初の予定ではビジターでの開幕だった。
- ^ なお、その次の主催ゲーム開幕シリーズ扱いとなる京セラドームの中日戦も中止となったため、延期日程補填の観点から10月にヤクルト3連戦を京セラドームで開催している
- ^ 当初、セ・パ両リーグで同時開幕を前提としていたため大阪ドーム以外での開催も検討されたが、パ・リーグがセ・リーグよりも一週間早く3月20日(土曜日)に開幕し、かつ開幕カードから3日間空けて26日(金曜日)から次カードを行うという日程を組んだ。なお、セ・リーグは26日に開幕した[83]。もし同時開催であれば、かつてオリックスが本拠地としていた保護地域の兵庫県内にあるスカイマークスタジアムの利用も示唆されていた。
- ^ 当年はWBCとの兼ね合いで2010年のように開幕をずらすなどの日程の調整が難しかったことなどで、阪神が返上した。
- ^ 綱島理友監修の書籍『スポーツマスコット図鑑』では「1984年ごろ」と記述[86]
- ^ なお、特許電子図書館ウェブサイトでも確認できる商標画像は、手書きでなされたものである。
- ^ 書籍「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズでは、原則各球団の球団歌を記載しているが、「阪神タイガースの歌」は通称の方で明記されている。
- ^ この時、オーダー表提出係を担っていた岡本伊三美は、先発投手に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田に念押ししている。
- ^ 星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、カチカチになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。
- ^ 山際淳司のドキュメント小説では、新幹線内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日の勝利が決まった途端に王貞治が嬉しさの余り叫んだ、と描写されている。この時の情景は、翌年放映のテレビアニメ『侍ジャイアンツ』第38話に取り入れられている。
- ^ この試合はプロ野球の公式戦初となる「勝った方が優勝」となる事実上の優勝決定戦だった。
- ^ この際、タクシー1台が騒ぎに巻き込まれて車体に損傷を受けている。試合告知の看板への損傷などもあった(上記読売新聞記事による)。
- ^ 中村の愛称。当日もテレビ中継のゲストで出演していた。
- ^ 後藤和昭は「阪神選手は翌日までロッカールームに缶詰めにされた」と語っているが「19時にファンが引きあげた」という当時の報道とは食い違いを見せている。
- ^ 制作時点ではパシフィック・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神 - パ・リーグ優勝チーム」という表記だった。
- ^ 『関西の私鉄』には「(阪神百貨店の)祝優勝のペナント、店員用ワッペンは「その日」のために、倉庫で眠っている」とあるが、これが1985年に使われたかどうかは不明。
出典
- ^ 第84期決算公告、2018年(平成30年)7月3日付「官報」(号外第144号)93頁。
- ^ 球団史 1985, p. 43.
- ^ 球団史 1985, pp. 79–85.
- ^ 球団史 1985, pp. 97–101.
- ^ 球団史 1985, pp. 142–149.
- ^ 球団史 1985, pp. 195–198, 208–212.
- ^ 球団史 1985, pp. 261–262.
- ^ 球団史 1985, p. 383.
- ^ 阪神、初の最下位転落時の監督・後藤次男さん キャッチフレーズは「みんな仲良くボチボチと」産経
- ^ NHK特集 エースなき優勝〜阪神21年目の栄冠〜 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- ^ a b 野崎勝義著ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年、2011年、朝日新聞社、P34-39
- ^ “王ダイエー日本一 星野監督勇退”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1. (2003年10月28日)
- ^ 1959年と1990年の巨人、1960年の大毎、2002年の西武
- ^ この年の記述の出典は特記無い場合『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2012年12月10日、70頁。
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- ^ ここまでの記述の出典は産経新聞2014年9月27日付スポーツ面とする。
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- ^ 1973年10月22日の朝日新聞(東京版)、テレビ・ラジオ欄、産経新聞(岡山版)、14ページ、ラジオ欄、中国新聞、8ページ、テレビ欄。
- ^ 中村鋭一さん虎党に愛され…甲子園暴動もABC放送席だけ無被害(『デイリースポーツ』2017年11月8日付記事)を参照。
- ^ a b 西澤あきら『阪神戦・実況32年。甲子園の放送席から見たタイガースの真実』講談社、2014年、第2章第11節「73年最終戦、甲子園で阪神が敗れ暴動が発生。そのとき放送席は!?」(pp.113-117)。
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- ^ 連載コラム『伝説』野球放送の裏側〜名勝負の演出者たち(10) - 日刊スポーツ大阪版2010年9月25日付
- ^ “0時3分…阪神2日がかり9回勝ち初 15連戦回避”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2018年9月21日) 2018年9月23日閲覧。
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関連項目
- 阪神タイガース主催試合の地方球場一覧
- 阪神ファン
- 月刊タイガース:月刊の球団情報誌。
- 阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝
- タイガース検定:12球団初の球団公認の検定試験。
- 尼崎中央・三和・出屋敷商店街:タイガースの応援で知られる尼崎市の商店街。開幕時から優勝マジックを掲示している。
- 阪神タイガース (小惑星):阪神タイガースにちなみ命名された小惑星
- 県民百貨店:熊本県熊本市中央区にあった百貨店(2015年2月末閉店)。阪神百貨店と提携し「くまもと阪神」を名乗っていた時代より九州で唯一の阪神タイガースショップが設置されていた。
- 京王百貨店:新宿店(東京都新宿区)に阪神タイガースショップが設置されている。
- カーネル・サンダースの呪い
- ヒッティングマーチ委員会
- 阪神タイガースの応援団
- 日本航空123便墜落事故
- 暗黒時代:日本ではスポーツチームの成績が長期にわたって低迷した時期を指して使われることがあり、特に本球団の1987〜2001年の低迷期を表すことが多い。
外部リンク
- 阪神タイガース公式サイト
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