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湯浅芳彰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
湯浅 芳彰
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 1919年
没年月日 没年不明
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1946年
初出場 1946年5月5日
最終出場 1947年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

湯浅 芳彰(ゆあさ よしあき、1919年 - 没年不明)は、兵庫県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手

来歴・人物

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滝川中(現滝川中学校・高等学校)在学中には、1936年,1937年と1937年夏の甲子園に出場。1936年春ベスト8,1937年夏ベスト4に投手として貢献した。中学時代のチームメイトに三田政夫,田中成豪,伊東甚吉がいる。また南海巨人で大活躍した別所昭は、湯浅の2年後輩に当たる。中学卒業後、満州に渡り、鞍山昭和製鋼野球部に所属。1938年第12回都市対抗野球大会エースとして出場し、準々決勝まで進んだ(準々決勝で全京城〈京城府〉に5―10で敗れた)。

終戦後の1946年パシフィックの結成に参加。同年7月26日阪神戦(西宮球場)で阪神の渡辺誠太郎と投げ合い、1試合所要時間の最短記録となる55分で試合を終了させた。湯浅自身は93球を投げて被安打7・自責点1の好投だったものの、味方打線が渡辺に完封されて負け投手になった。10月13日ヴィクトル・スタルヒンが入団(正確には1944年巨人を解雇され、戦後の1946年に監督の藤本定義に誘われる形で球界復帰した)すると、背番号を17から15に変更させられた(背番号17はスタルヒンのトレードマークでもあった)。翌1947年シーズン終了後に引退した。以後の消息は不明。もし存命なら2021年の時点で100歳を超えている。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1946 パシフィック
太陽
24 17 11 1 0 3 12 -- -- .200 713 155.1 166 5 92 -- 2 40 2 1 85 62 3.58 1.66
1947 7 4 2 0 0 1 3 -- -- .250 205 43.1 58 0 25 -- 2 10 1 0 35 24 4.91 1.92
通算:2年 31 21 13 1 0 4 15 -- -- .211 918 198.2 224 5 117 -- 4 50 3 1 120 86 3.90 1.72

年度別打撃成績

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O
P
S
1946 パシフィック
太陽
37 82 76 7 9 2 1 0 13 2 0 0 0 -- 6 -- 0 16 -- .118 .183 .171 .354
1947 20 28 25 2 5 0 0 0 5 2 0 0 0 -- 3 -- 0 3 -- .200 .286 .200 .486
通算:2年 57 110 101 9 14 2 1 0 18 4 0 0 0 -- 9 -- 0 19 -- .139 .209 .178 .387

背番号

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  • 17 (1946年。10月12日まで着用)
  • 15 (1946年10月13日 - 1947年)

関連項目

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外部リンク

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