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セシル・フィルダー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セシル・フィルダー
Cecil Fielder
デトロイト・タイガースでの現役時代
(1996年7月7日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州ロサンゼルス
生年月日 (1963-09-21) 1963年9月21日(61歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
275 lb =約124.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1982年 MLBドラフト4巡目
初出場 MLB / 1985年7月20日
NPB / 1989年4月8日
最終出場 MLB / 1998年9月13日
NPB / 1989年9月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

セシル・グラント・フィルダーCecil Grant Fielder , 1963年9月21日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手内野手)。

長男は元メジャーリーガープリンス・フィルダー

来歴・人物

[編集]

1982年MLBドラフト4巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに指名され契約。1985年トロント・ブルージェイズメジャー初昇格。しかし、同時期のブルージェイズには、ウィリー・アップショー(後にダイエーでプレー)とフレッド・マグリフが、フィルダーと競合する一塁手とDHとして在籍していた。このためにフィルダーは左投手専門の要員で、なかなか出場機会に恵まれなかったため、日本を含めてレギュラーを確約できる球団を探していたところ、阪神タイガースから4番打者としてオファーがあったこともあり、初めてアメリカ国外でプレーすることとなる。

1989年に阪神に入団し、来日。そのスイングの豪快さから、「荒熊」というニックネームが付けられる(命名は日刊スポーツ[1])。春季キャンプで御子柴進の横手投げになすすべなく抑え込まれたことを契機に、石井晶打撃コーチとともにフォームを改造。スライダーやフォークに対応できるようになったことで、この年以降の本領発揮につながった[2]

特に、対大洋戦には滅法強く、横浜スタジアムでは1試合で場外本塁打を含む3打席連続本塁打を放つなど、対大洋戦だけで本塁打16本を記録する。逆に、対巨人戦は本塁打3本と少なかったが、うち1本は香田勲男から打った東京ドームの看板直撃の特大ホームランであった。

同年9月14日の対巨人戦(東京ドーム)で、水野雄仁から三振を喫した際に、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折[3]。そのままシーズンを棒に振り、本塁打王のタイトルを逃す。それでも、長打率.6276は、その年両リーグ最多の49本塁打を放ったラルフ・ブライアントの.6275を上回って両リーグ1位であった。オフは契約更新を望む阪神に対して、年俸の大幅アップと5年契約を要求するが、合意に達せず1年で退団となった。その後、デトロイト・タイガースと契約する。この退団に関しては、この年本塁打王を獲得したラリー・パリッシュヤクルトスワローズ)が、三振の多さを理由に解雇されたことも影響しており、フィルダーの代理人がパリッシュの解雇に激怒し、「日本の球団は理解できない」と5年契約の締結寸前に一方的に契約を破棄した。このことからパリッシュも責任を感じ、阪神へ移籍した。

メジャー復帰後1年目の1990年に、ジョージ・フォスターが1977年に記録して以来、メジャーにおいて13年ぶりとなる50本塁打以上を記録する。また、翌年の1991年とあわせて本塁打王打点王のタイトル二冠を2年連続で獲得する。1992年にも打点王を獲得し、ベーブ・ルース以来のアメリカンリーグにおける3年連続の打点王となる。MVP級の活躍であったが、1990年は、リッキー・ヘンダーソン(1位投票数28のうち14票、フィルダーは10票)に、1991年は、カル・リプケン・ジュニア(1位投票数28のうち15票、フィルダーは9票)に僅差で敗れ、それぞれ2位に終わっている。

当時のタイガースの監督であったスパーキー・アンダーソンは、同じく日本からの出戻り組のビル・ガリクソンがチームに在籍して活躍していたこともあって、「日本製品は素晴らしい!!」と形容したこともあった。また、タイガースの本拠地があるデトロイトでは、地元の新聞に「デトロイトが受け入れた唯一の日本製品」と称されたこともあった(当時は日米で貿易摩擦が問題となっており、デトロイトの主要産業である車が日本からの輸入車で苦戦を強いられていたため、特にデトロイトでは日本に対する反感が強かった)。

日本帰りであったことから、その肥満体型を揶揄してスモーレスラーなどと呼ばれることもあった。不振が続いた時のブーイングでは、必ずこの名称で呼ばれていた。阪神からメジャーに復帰した際にも、「なぜあのような肥満をとった?」とチーム関係者やファンからの非難があったが、本塁打を量産することによりそれらの声を打ち消した。その肥満体型故にメジャーリーグでも屈指の鈍足として知られた。1996年に初めて盗塁を成功させた際には、敵地にもかかわらずスタンディングオベーションが巻き起こり、フィルダーは二塁塁上でヘルメットをとり両手を挙げて応えた。また、その翌日には新聞の一面を飾ったほどである。初盗塁を決めるまでに1096試合も要しているが、これは盗塁を記録しなかったメジャー最多連続試合数である。また、この年はもう一つ盗塁を成功させているが、フィルダーが盗塁を成功させたのは後にも先にもこのシーズンだけである。

1992年には、ロブ・ディアー(後に阪神でプレー)およびミッキー・テトルトンと30発トリオを結成したが、それは同時に130三振トリオでもあり、打率が低くて三振が多く、しかも投手力が弱かったため、チームの成績は振るわなかった。

1996年途中にルーベン・シエラとのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、ワールドシリーズを制して世界一となった。1998年にはアナハイム・エンゼルスに移籍するもシーズン途中に解雇され、同シーズン中にクリーブランド・インディアンスへ移籍。同年引退。

引退後は、かねてから長距離砲として注目されていた、長男プリンス・フィルダー代理人に専念する。

2004年になって突然、「セシル・フィルダーがギャンブル癖で莫大な借金を抱えて自己破産した上に蒸発した」というニュースが流れた。妻とも離婚し、フロリダの豪邸はゴミが散らかり放題と悲惨な状況であった。プリンスは父に代わる新たな代理人を雇うこととなった。以後、プリンスとは疎遠となったが、その後フィルダーの消息は判明し、事なきを得た。そして社会復帰を果たし、2007年はアメリカ独立リーグサウス・コースト・リーグに加盟するシャーロット・カントリー・レッドフィッシュの監督を務め、2008年は当時アメリカ独立リーグのカナディアン・アメリカン・リーグに加盟していたアトランティックシティ・サーフの監督を務めた。 2011年には、独立リーグの相談役に就任。

2012年MLBオールスターゲームでは、プリンスと同席し、関係改善が明らかになった。

2015年現在は、リトルリーグの指導をしている[4]ほか、ヤンキースOBとして、球団の招待客を球場内で案内・接待するホストも務めている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1985 TOR 30 81 74 6 23 4 0 4 39 16 0 0 0 1 6 0 0 16 2 .311 .358 .527 .885
1986 34 90 83 7 13 2 0 4 27 13 0 0 0 0 6 0 1 27 3 .157 .222 .325 .548
1987 82 197 175 30 47 7 1 14 98 32 0 1 0 1 20 2 1 48 6 .269 .345 .560 .905
1988 74 190 174 24 40 6 1 9 75 23 0 1 0 1 14 0 1 53 6 .230 .289 .431 .721
1989 阪神 106 454 384 60 116 11 0 38 241 81 0 0 0 3 65 7 2 107 13 .302 .403 .628 1.031
1990 DET 159 673 573 104 159 25 1 51 339 132 0 1 0 5 90 11 5 182 15 .277 .377 .592 .969
1991 162 712 624 102 163 25 0 44 320 133 0 0 0 4 78 12 6 151 17 .261 .347 .513 .860
1992 155 676 594 80 145 22 0 35 272 124 0 0 0 7 73 8 2 151 14 .244 .325 .458 .783
1993 154 672 573 80 153 23 0 30 266 117 0 1 0 5 90 15 4 125 22 .267 .368 .464 .832
1994 109 481 425 67 110 16 2 28 214 90 0 0 0 4 50 4 2 110 17 .259 .337 .504 .840
1995 136 578 494 70 120 18 1 31 233 82 0 1 0 4 75 8 5 116 17 .243 .346 .472 .818
1996 107 460 391 55 97 12 0 26 187 80 2 0 0 3 63 8 3 91 11 .248 .354 .478 .833
NYY 53 228 200 30 52 8 0 13 99 37 0 0 0 2 24 4 2 48 7 .260 .342 .495 .837
'96計 160 688 591 85 149 20 0 39 286 117 2 0 0 5 87 12 5 139 18 .252 .350 .484 .834
1997 98 425 361 40 94 15 0 13 148 61 0 0 0 6 51 3 7 87 14 .260 .358 .410 .768
1998 ANA 103 439 381 48 92 16 1 17 161 68 0 1 0 3 52 1 3 98 17 .241 .335 .423 .757
CLE 14 37 35 1 5 1 0 0 6 0 0 0 0 0 1 0 1 13 1 .143 .189 .171 .361
'98計 117 476 416 49 97 17 1 17 167 68 0 1 0 3 53 1 4 111 18 .233 .324 .401 .725
MLB:13年 1470 5939 5157 744 1313 200 7 319 2484 1008 2 6 0 46 693 76 43 1316 169 .255 .345 .482 .827
NPB:1年 106 454 384 60 116 11 0 38 241 81 0 0 0 3 65 7 2 107 13 .302 .403 .628 1.031
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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内野守備


一塁(1B) 二塁(2B) 三塁(3B)




































1985 TOR 25 171 17 4 21 .979 - -
1986 7 37 3 0 3 1.000 - 2 0 1 1 0 .500
1987 16 98 6 0 12 1.000 - 2 0 0 0 0 ----
1988 17 99 10 1 10 .991 2 1 1 0 0 1.000 3 1 1 0 0 1.000
1989 阪神 106 870 90 7 62 .993 - -
1990 DET 143 1190 111 14 137 .989 - -
1991 122 1055 83 8 110 .993 - -
1992 114 957 92 10 98 .991 - -
1993 119 971 78 10 84 .991 - -
1994 102 887 108 7 73 .993 - -
1995 77 631 73 5 66 .993 - -
1996 71 589 59 7 51 .989 - -
NYY 9 74 4 0 8 1.000 - -
'96計 80 663 63 7 59 .990 - -
1997 8 59 6 0 8 1.000 - -
1998 ANA 72 550 39 2 60 .997 - -
CLE 3 12 2 1 1 .933 - -
'98計 75 562 41 3 61 .995 - -
MLB 905 7380 691 69 742 .992 2 1 1 0 0 1.000 7 1 2 1 0 .750
NPB 106 870 90 7 62 .993 - -
左翼守備


左翼(LF)












1986 TOR 1 0 0 0 0 ----
MLB 1 0 0 0 0 ----
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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MLB

表彰

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MLB
NPB

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 23 (1985年 - 1988年)
  • 44 (1989年)
  • 45 (1990年 - 1998年途中)[6]
  • 33 (1998年途中 - 同年終了)

脚注

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  1. ^ “【内匠宏幸】新外国人ミエセス「第2のフィルダー」になれるか 早くもなじんでいる適応力に期待”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2023年2月2日). https://www.nikkansports.com/baseball/column/takumi/news/202302020000023.html 2023年2月2日閲覧。 
  2. ^ 「鬼筆」越後屋のトラ漫遊記:4番候補・ロサリオに“フィルダー伝説”再現を!キャンプでは桑原や青柳との対決が試金石 産経ニュース、2018年1月28日
  3. ^ (1) 【中田翔】本人に直接聞いてみた「トレード?ある訳ないだろ!」ハムの4番はお前だけだ【高橋慶彦】【カープ】【日本ハム】 - YouTube
  4. ^ 「US SPORTS ONLINE」~米が認めた日本修行~ 樋口浩一著 東京新聞 2015年6月29日付 夕刊E版 4面
  5. ^ ベースボールレコードブック1990 p43
  6. ^ 1996年のヤンキース移籍直後の背番号は25だったが、すぐに45に変更

関連項目

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外部リンク

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