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1959年の日本シリーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
NPB 1959年の日本シリーズ
ゲームデータ
日本一
南海ホークス
初優勝
4勝0敗
試合日程 1959年10月24日-10月29日
最高殊勲選手 杉浦忠
敢闘賞選手 土屋正孝
チームデータ
南海ホークス()
監督 鶴岡一人
シーズン成績 88勝42敗4分(シーズン1位) 
読売ジャイアンツ()
監督 水原円裕
シーズン成績 77勝48敗5分(シーズン1位)
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1959年の日本シリーズ(1959ねんのにっぽんシリーズ、1959ねんのにほんシリーズ)は、1959年10月24日から10月29日まで行われた第10回プロ野球日本選手権シリーズである。当時のセントラル・リーグ新記録となる5連覇を飾った水原円裕監督率いる読売ジャイアンツ(巨人)とパシフィック・リーグ1955年以来4年ぶりに制した鶴岡一人監督率いる南海ホークス(南海)による4年ぶり、通算5回目の対戦となった。

概要

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朝日新聞のプロ野球担当記者3人によるシリーズ予想記事(10月22日付)では、2人が南海優勝を予想(勝敗はそれぞれ4-1、4-2。残る1名は4-3で巨人。記事の見出しは「結論的には南海?」)。読売新聞の展望記事(10月22日付)は「しいていえば投打ともに南海やや有利だが、三遊間の(引用者注:守備の)差がこれを割り引いて互角というところか」と記し、互角に近いながらもやや南海有利という見方であった。

ただ、監督の鶴岡は、これまで日本シリーズで巨人に敗れ続けているが、戦力の充実ぶりなどから、この年だけは負ける気がしなかったと、自著で振り返っている[1]

日本シリーズでストレート4連勝完全優勝を決めたのはこの南海が史上初。引き分けを挟んでの4勝負けなしというのを含めると、1957年西鉄ライオンズが1引き分けを挟みながら4勝負けなしを達成して以来2チーム目の偉業となった。

負けた巨人はこれで1956年(西鉄戦)以来4年連続してシリーズ敗退を喫し、1958年(西鉄戦 この時は3連勝した後に4連敗を喫した)からシリーズ8連敗となった。とりわけこのシリーズでは史上初のストレート4連敗(1957年は1つ引き分けを挟む)であった[2]

初めて南海が日本シリーズで巨人と対戦してから8年、5回目の挑戦で勝ち取った日本一に大阪市民は熱狂、シリーズ終了翌々日の10月31日に秋晴れの下でおこなわれた大阪市内の優勝パレードには沿道に20万人が集まり、「御堂筋パレード」と呼ばれた[3][注 1][注 2]

試合結果

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1959年 日本シリーズ
日付 試合 ビジター球団(先攻) スコア ホーム球団(後攻) 開催球場
10月24日(土) 第1戦 読売ジャイアンツ 7 - 10 南海ホークス 大阪球場
10月25日(日) 第2戦 読売ジャイアンツ 3 - 6 南海ホークス
10月26日(月) 移動日
10月27日(火) 第3戦 南海ホークス 3 - 2 読売ジャイアンツ 後楽園球場
10月28日(水) 第4戦 雨天中止
10月29日(木) 南海ホークス 3 - 0 読売ジャイアンツ
優勝:南海ホークス(11年ぶり3回目)

第1戦

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10月24日:大阪球場(入場者:30,038人)
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
巨人 0 0 0 0 0 1 2 0 4 7 14 1
南海 5 0 1 0 1 0 3 0 X 10 19 0
  1. 巨:義原(0回1/3)、別所(5回2/3)、伊藤(1回1/3)、木戸(0回2/3)
  2. 南:杉浦(8回)、祓川(0回0/3)、皆川(1回)
  3. 勝利:杉浦(1勝)  
  4. 敗戦:義原(1敗)  
  5. 本塁打
    南:岡本1号(3回ソロ・別所)、岡本2号(5回ソロ・別所)
  6. 審判
    [球審]二出川
    [塁審]円城寺・横沢三・
    [外審]川瀬・瀧野
  7. 試合時間:3時間13分
巨人
打順守備選手
1[遊]広岡達朗
2[二]土屋正孝
3[一]与那嶺要
4[三]長嶋茂雄
5[左]坂崎一彦
6[右]宮本敏雄
打右国松彰
7[中]藤尾茂
8[捕]森昌彦
9[投]義原武敏
別所毅彦
加倉井実
伊藤芳明
木戸美摸
王貞治
河野正
十時啓視
南海
打順守備選手
1[左]穴吹義雄
2[三]半田春夫
走三森下整鎮
3[遊]広瀬叔功
4[右]杉山光平
5[中]長谷川繁雄
打中大沢昌芳
6[捕]野村克也
7[二]岡本伊三美
8[一]寺田陽介
9[投]杉浦忠
島原輝夫
祓川正敏
皆川睦男

第1戦の先発投手について、南海はエースの杉浦忠であったが、巨人はエースの藤田元司でなく義原武敏であったことが、着目される[6](藤田がシリーズ開幕直前に足に打球を受けた影響への不安があったという[3])。南海は、1回に、この義原や途中から登板の別所毅彦を攻めて5点を挙げ、その後、一時は7点差をつけた。

杉浦は7回に指のマメをつぶしたといい、8回を3失点で降板した[1]。巨人は、杉浦降板後の9回に4点を返して追い上げたが、チャンスで最後は、代打十時啓視が倒れた。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第2戦

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10月25日:大阪球場(入場者:30,288人)
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
巨人 2 0 0 0 0 0 1 0 0 3 7 0
南海 0 0 0 4 0 2 0 0 X 6 10 1
  1. 巨:藤田(6回)、木戸(0回2/3)、義原(0回1/3)、安原(1回)
  2. 南:田沢(1回0/3)、三浦(3回)、杉浦(5回)
  3. 勝利:杉浦(2勝)  
  4. 敗戦:藤田(1敗)  
  5. 本塁打
    巨:長嶋1号(1回2ラン・田沢)
  6. 審判
    [球審]筒井
    [塁審]横沢三・瀧野・川瀬
    [外審]円城寺・浜崎
  7. 試合時間:2時間33分
巨人
打順守備選手
1[遊]広岡達朗
2[二]土屋正孝
3[左]与那嶺要
4[三]長嶋茂雄
5[中]坂崎一彦
6[右]国松彰
7[一]王貞治
8[捕]森昌彦
9[投]藤田元司
加倉井実
木戸美摸
義原武敏
安原達佳
藤尾茂
南海
打順守備選手
1[左]穴吹義雄
2[三]森下整鎮
3[遊]広瀬叔功
4[右]杉山光平
5[中]長谷川繁雄
大沢昌芳
6[捕]野村克也
7[二]岡本伊三美
8[一]寺田陽介
9[投]田沢芳夫
三浦清弘
島原輝夫
杉浦忠

巨人は、1回に長嶋茂雄の2ラン本塁打で先制したが、2回に藤田のスクイズが失敗に終わって、試合の流れが変わったとみられる[6]。南海は、4回に巨人先発投手の藤田に対して4安打1四球を集めて4点をあげて逆転し、6回にも2点を奪った。5回から登板の杉浦が、1失点で最後まで投げ切って、チーム、杉浦ともに連勝となった。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第3戦

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10月27日:後楽園球場(入場者:32,056人)
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 R H E
南海 0 2 0 0 0 0 0 0 0 1 3 4 1
巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 2 10 0
  1. 南:杉浦(10回)
  2. 巨:藤田(8回)、別所(1回)、義原(1回)
  3. 勝利:杉浦(3勝)  
  4. 敗戦:義原(2敗)  
  5. 本塁打
    南:野村1号(2回2ラン・藤田)
    巨:坂崎1号(9回ソロ・杉浦)
  6. 審判
    [球審]浜崎
    [塁審]島・二出川・瀧野
    [外審]川瀬・筒井
  7. 試合時間:2時間47分
南海
打順守備選手
1[左]穴吹義雄
2[三]森下整鎮
3[遊]広瀬叔功
4[右]杉山光平
5[中]長谷川繁雄
大沢昌芳
6[捕]野村克也
7[二]岡本伊三美
8[一]寺田陽介
9[投]杉浦忠
巨人
打順守備選手
1[左]一与那嶺要
2[二]土屋正孝
3[捕]藤尾茂
4[三]長嶋茂雄
5[中]左坂崎一彦
6[右]国松彰
7[遊]広岡達朗
8[一]王貞治
加倉井実
9[投]藤田元司
宮本敏雄
河野正
別所毅彦
森昌彦
義原武敏

後楽園球場に舞台を移しての第3戦は、中堅手として途中出場の大沢昌芳による攻守が注目されている。特に、2-2の同点で迎えた9回裏の巨人の攻撃における森昌彦の左中間寄りの浅いライナーを、前進守備で捕り、タッグアップから本塁に向かった三塁走者広岡達朗も刺して、サヨナラ負けのピンチを脱したという場面があげられる[6]。このプレーは打者が左打者にもかかわらず左中間の浅い位置に守備位置を取った大沢の好判断によるものだった[7]。一方、走者の広岡は、スライディングも体当たりもせずに刺された形となり(広岡が捕手野村にタッチされたのは本塁3メートルくらい手前で、スライディングや体当たりもできなかったとも言えるが[8])、ファイトという面から批判的な意見も出され、シリーズ終了直後の南海側の座談会でも同様な話がなされている[6]

9回の杉浦は、鶴岡監督の目には、同点に追いつかれた上にピンチを迎えて自信を失い、自分から交代を申し出そうな状態であったが、鶴岡は、杉浦に運命を託し、それを杉浦に伝えるため、他の選手のお守りを一つマウンドに持たせたという[5]

南海は、10回表、寺田陽介の適時二塁打で勝ち越し、先発投手の杉浦が10回を142球完投勝利で3連勝となり、日本一に王手をかけた。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第4戦

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10月29日:後楽園球場(入場者:32,266人)
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
南海 0 0 1 0 0 0 2 0 0 3 6 0
巨人 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 5 1
  1. 南:杉浦(9回)
  2. 巨:藤田(8回)、安原(1回)
  3. 勝利:杉浦(4勝)  
  4. 敗戦:藤田(2敗)  
  5. 審判
    [球審]島
    [塁審]横沢三・筒井・二出川
    [外審]円城寺・浜崎
  6. 試合時間:2時間23分
南海
打順守備選手
1[左]穴吹義雄
2[三]森下整鎮
3[遊]広瀬叔功
4[右]杉山光平
5[中]長谷川繁雄
大沢昌芳
6[捕]野村克也
7[二]岡本伊三美
8[一]寺田陽介
9[投]杉浦忠
巨人
打順守備選手
1[二]土屋正孝
2[右]国松彰
3[左]坂崎一彦
4[三]長嶋茂雄
5[一]与那嶺要
6[中]加倉井実
7[遊]広岡達朗
8[捕]藤尾茂
宮本敏雄
安原達佳
9[投]藤田元司
打捕森昌彦

雨天のため1日順延して行われた第4戦、巨人藤田、南海杉浦がともに連続先発(鶴岡監督は、雨天順延になったため、杉浦先発としたという[1])。南海は3回、杉山の適時二塁打で先制、7回に巨人遊撃手広岡の適時失策森下整鎮の犠飛で計2点を追加した。4連投の杉浦は、巨人打線を完封し、MVPに選出となった。杉浦は「一人になって泣きたい」の文句を残した[9]

公式記録関係(日本野球機構ページ)

表彰選手

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テレビ・ラジオ中継

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テレビ中継

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この年の日本シリーズは後楽園球場の日本シリーズが日本テレビ以外の民放テレビ局で中継放送された初めてのシリーズである[10]。この年の2月27日、毎日放送は南海球団と大阪球場開催試合独占中継契約を結んだ[11]。ところが日本テレビは1957年の西鉄・巨人戦以来続いてきたシリーズ全試合中継(テレビ西日本からのネット受けを含む)をこの年も目論んで、大阪球場にカメラを持ち込み南海ホームゲームをも自社中継しようと企てた。当然毎日側との係争が生起したが、妥協案が成立し、大阪球場開催試合は毎日放送の中継によみうりテレビも制作協力させ、毎日放送系列3局(NET・MBS・九州朝日放送)に加え日本テレビ系列22局も同一画面で中継することになった。一方、後楽園での開催試合については制作局は日本テレビのみとしたものの、日本テレビ系のみならず毎日放送系列3局でも日本テレビが制作した画面で同一中継を行うことになったのであった[10]

ラジオ中継

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参考文献

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  • 鶴岡一人『御堂筋の凱歌―栄光と血涙のプロ野球史』ベースボール・マガジン社、1983年。ISBN 978-4583023465 
  • 鶴岡一人、他『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』日本経済新聞出版社、2007年。ISBN 978-4-532-19386-7 
  • ベースボールマガジン社『南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988』ベースボールマガジン社、2012年。ISBN 978-4583618876 
  • ベースボールマガジン社『日本プロ野球80年史』ベースボールマガジン社、2014年。ISBN 978-4583106687 

脚注

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注釈

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  1. ^ 上記のような苦節を経たことに加え、鶴岡監督が2年前に先立たれた先妻の位牌を携えてパレードにのぞんだり[4]、重い病の床にあった南海前オーナーが鶴岡の日本一の報告に涙を流して喜んだという[1]逸話があることから[5]、「涙の御堂筋パレード」とも呼ばれる。
  2. ^ 南海が1964年の日本シリーズを制したときは、交通事情のためパレードはできなかったという[1]

出典

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  1. ^ a b c d e 鶴岡『私の履歴書』p.p.98 - 102
  2. ^ 巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.38 巨人側は、「その屈辱をバネにV9へと向かった」と主張している。
  3. ^ a b 日本プロ野球80年史p.p.338~339
  4. ^ 【10月31日】1959年(昭34) 打倒巨人成る!鶴岡南海涙の御堂筋パレード”. 2015年5月23日閲覧。[リンク切れ]アーカイブ[1]
  5. ^ a b 鶴岡『御堂筋の凱歌』p.p.307 - 329
  6. ^ a b c d 南海ホークス栄光の歴史p.p.58~65
  7. ^ この守備位置変更については、スコアラー尾張久次が巨人を分析した「尾張メモ」の存在が指摘されることがあるが、大沢は自分の勘で動いたとしている。また、後に公開されたメモの内容と大沢の守備を照合して、メモとは異なる判断を下していたことも明らかにされている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモ職業野球人・大沢啓二、2015年7月20日閲覧)
  8. ^ 職業野球人・大沢啓二6.洞察力と決断力(野球)職業野球人・大沢啓二、2015年7月20日閲覧
  9. ^ 文藝春秋サイト[2]2015年7月12日閲覧
  10. ^ a b 『電通広告年鑑 昭和35年版』株式会社 電通、254-255頁。 
  11. ^ 毎日放送50年史編纂委員会事務局『毎日放送50年史』株式会社 毎日放送、2001年9月1日、476頁

外部リンク

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