コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「織田信長」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
125.12.136.116 (会話) による ID:69692118 の版を取り消し
タグ: 取り消し
桶狭間の戦いについては奇襲戦を否定する説の方が有力であり、近年では黒田日出男千田嘉博が奇襲戦説を改めて唱えているものの、概要節で奇襲戦だったと断定的に書くべきではないと考えます。
(33人の利用者による、間の96版が非表示)
1行目: 1行目:
{{otheruses|尾張の戦国大名|他の信長|信長|}}
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 織田信長
| 氏名 = 織田信長
5行目: 6行目:
| 画像説明 = 紙本著色織田信長像([[狩野元秀]]画、[[長興寺 (豊田市)|長興寺]]蔵){{Efn|name="Chokouji"|余語正勝が[[天正]]11年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1583年]][[7月20日]])に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。}}
| 画像説明 = 紙本著色織田信長像([[狩野元秀]]画、[[長興寺 (豊田市)|長興寺]]蔵){{Efn|name="Chokouji"|余語正勝が[[天正]]11年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1583年]][[7月20日]])に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。}}
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]([[室町時代]]後期) - [[安土桃山時代]]
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]([[室町時代]]後期) - [[安土桃山時代]]
| 生誕 =[[天文 (元号)|天文]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]([[1534年]][[6月23日]]){{Efn|『[[フロイス日本史]]』中の「信長は己の誕生日を祝わせた19日後に死亡した」の記述が正しければこの日付になるとして歴史研究家[[松田毅一]]が算出したもの<ref>『回想の織田信長』中公新書1973年</ref>。}}<br/> [[天文 (元号)|天文]]3年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]<ref>[[寒川辰清]]説「[[近江国與地史略]]」より。</ref>など諸説あり。
| 生誕 =[[天文 (元号)|天文]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]([[1534年]][[6月23日]])<br/> あるいは[[天文 (元号)|天文]]3年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]{{Efn|name="birthday"}}
| 死没 = [[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])
| 死没 = [[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])
| 改名 = 吉法師([[幼名]])、信長
| 改名 = 吉法師([[幼名]])、信長
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:三郎、上総守、上総介、右大将、右府<br/>渾名:第六天魔王{{refnest|name="dairoku"|『日本耶蘇会年報』より、[[ルイス・フロイス]]が1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から<ref group="注釈">武田信玄が[[西上作戦]]にあたって信長へ送った書状に「[[天台座主]]沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主[[覚恕法親王]]を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。</ref>。}}、大うつけ
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:三郎、上総守、上総介、右大将、右府<br/>渾名:第六天魔王{{Efn|name="dairoku"|『日本耶蘇会年報』より、[[ルイス・フロイス]]が1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から武田信玄が[[西上作戦]]にあたって信長へ送った書状に「[[天台座主]]沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主[[覚恕法親王]]を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。}}、大うつけ
| 神号 = 建勲
| 神号 = 建勲
| 戒名 = 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士<br />天徳院殿龍厳雲公大居士{{Efn|天正10年9月11日[[柴田勝家]]、[[お市の方|市]]夫妻が[[妙心寺]]で百ケ日法要を挙行したときの戒名。[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]][[清玉]]上人命名の流れをくむもの。}}<br />天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門{{Efn|name="Chokouji"}}
| 戒名 = 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士<br />天徳院殿龍厳雲公大居士{{Efn|天正10年9月11日[[柴田勝家]]、[[お市の方|市]]夫妻が[[妙心寺]]で百ケ日法要を挙行したときの戒名。[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]][[清玉]]上人命名の流れをくむもの。}}<br />天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門{{Efn|name="Chokouji"}}
| 墓所 = [[本能寺]]([[京都市]][[中京区]])<br />[[総見院 (京都市)|大徳寺総見院]](京都市[[北区 (京都市)|北区]])<br />[[妙心寺#山内塔頭|妙心寺玉鳳院]](京都市[[右京区]])<br>[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]](京都市[[上京区]]) [[#墓所・霊廟・寺社|他]]
| 墓所 = [[本能寺]]([[京都市]][[中京区]])<br />[[総見院 (京都市)|大徳寺総見院]](京都市[[北区 (京都市)|北区]])<br />[[妙心寺#山内塔頭|妙心寺玉鳳院]](京都市[[右京区]])<br>[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]](京都市[[上京区]]) [[#墓所・霊廟・寺社|他]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[弾正台|弾正少忠]]、[[正四位|正四位下]]・弾正大弼、[[従三位]]・[[参議]]、[[大納言|権大納言]]、[[近衛府|右近衛大将]]<br>[[正三位]]、[[内大臣]]、[[従二位]]、[[右大臣]]、[[正二位]]<br>贈[[従一位]]・[[太政大臣]]、贈[[正一位]]
| 官位 = [[従三位]]・[[大納言|権大納言]]、[[近衛府|右近衛大将]]<br>[[正三位]]、[[内大臣]]、[[従二位]]、[[右大臣]]、[[正二位]]<br>贈[[従一位]]・[[太政大臣]]、贈[[正一位]]
| 主君 = [[織田信友]]→[[斯波義銀]]→[[足利義昭]]
| 主君 = [[斯波義銀]]→[[足利義昭]]
| 氏族 = [[織田氏]]
| 氏族 = [[織田氏]]
| 父母 = 父:[[織田信秀]]、母:[[土田御前]]
| 父母 = 父:[[織田信秀]]、母:[[土田御前]]
| 兄弟 = [[織田信広|信広]]、'''信長'''、[[織田信行|信]]、[[織田信包|信包]]、[[織田信治|信治]]、[[織田信時|信時]]、[[織田信与 (戦国武将)|信与]]、[[織田秀孝|秀孝]]、[[織田秀成|秀成]]、[[織田信照|信照]]、[[織田長益|長益]]、[[織田長利|長利]]、[[お犬の方]]、[[お市の方]]
| 兄弟 = [[織田信広|信広]]、'''信長'''、[[織田信行|信]]、[[織田信包|信包]]、[[織田信治|信治]]、[[織田信時|信時]]、[[織田信与 (戦国武将)|信与]]、[[織田秀孝|秀孝]]、[[織田秀成|秀成]]、[[織田信照|信照]]、[[織田長益|長益]]、[[織田長利|長利]]、[[お犬の方]]、[[お市の方]]
| 妻 = 正室:'''[[濃姫|鷺山殿(濃姫)]]'''([[斎藤道三]]の娘)<br/>側室:[[生駒吉乃|生駒氏]]{{sfn|岡田|1999|p=162}}([[生駒家宗]]の娘)<br/>側室:[[坂氏 (人物)|坂氏]]の女<br/>側室:[[興雲院|於鍋の方]](高畑源十郎の娘)<br/>側室:[[養観院]](不明)<br/> 他の側室は[[#妻|下記]]を参照。
| 妻 = 正室:'''[[濃姫|鷺山殿(濃姫)]]'''([[斎藤道三]]の娘)<br/>側室:[[生駒吉乃|生駒氏]]{{sfn|岡田正人|1999|p=162}}([[生駒家宗]]の娘)<br/>側室:[[坂氏 (人物)|坂氏]]の女<br/>側室:[[興雲院|於鍋の方]](高畑源十郎の娘)<br/>側室:[[養観院]](不明)<br/> 他の側室は[[#妻|下記]]を参照。
| 子 = '''[[織田信忠|信忠]]'''、[[織田信雄|信雄]]、[[織田信孝|信孝]]<br/> 他の子女は[[#息子|下記]]を参照。
| 子 = '''[[織田信忠|信忠]]'''、[[織田信雄|信雄]]、[[織田信孝|信孝]]<br/> 他の子女は[[#息子|下記]]を参照。
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}
'''織田 信長'''(おだ のぶなが)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]・[[戦国大名]]。'''[[三英傑]]'''の一人
'''織田 信長'''(おだ のぶなが)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての武将[[戦国大名]][[天下人]]。


== 概要 ==
[[尾張国]](現在の[[愛知県]])の[[古渡城]]主・[[織田信秀]]の[[嫡男]]{{Efn|異母兄が2人いるとする説がある。この説は[[小和田哲男]]によるもので、『[[武功夜話]]』などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、[[織田氏]]研究者の間で議論になっている。}}。
織田信長は、[[清洲三奉行#弾正忠家|織田弾正忠家]]の当主・[[織田信秀]]の子に生まれ、[[尾張国|尾張]]([[愛知県]]西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張[[守護代]]の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の[[織田信行|織田信勝]]を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。


永禄3年(1560年)、信長は[[桶狭間の戦い]]において駿河の戦国大名・[[今川義元]]を撃破した。そして、三河の領主・[[徳川家康]](松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、[[犬山城]]の[[織田信清]]を破ることで尾張の統一を達成した。
尾張[[守護代]]の[[織田氏]]の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の[[斯波氏]](斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。[[足利義昭]]を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して[[室町幕府]]を事実上滅ぼして、[[畿内]]を中心に強力な[[中央集権]]的政権([[織田政権]])を確立して[[天下人]]となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。


一方で、[[室町幕府]]将軍[[足利義輝]]が殺害された([[永禄の政変]])後に、[[足利将軍家]]の[[足利義昭]]から[[室町幕府]]再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。[[美濃国]]の戦国大名・[[斉藤氏#美濃斎藤氏|斉藤氏]]([[一色氏#美濃一色氏|一色氏]])との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し([[稲葉山城の戦い]])、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。
しかし[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])、重臣・[[明智光秀]]に[[謀反]]を起こされ、[[本能寺]]で[[自殺|自害]]した。すでに家督を譲っていた嫡男・[[織田信忠]]も同日に[[二条城]]で自刃し、信長の政権は、[[豊臣秀吉]]による[[豊臣政権]]、[[徳川家康]]が開いた[[江戸幕府]]へと引き継がれていくことになる。

翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、[[三好三人衆]]などを撃破して、[[室町幕府]]の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した{{Efn|詳細は[[#信長の政権構想]]を参照。}}。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]・[[北近江 (曖昧さ回避)|北近江]]の[[浅井長政]]を姉川の戦いで破ることには成功したものの、[[三好三人衆]]や[[比叡山延暦寺]]、[[石山本願寺]]などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。

元亀2年(1571年)9月、[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山を焼き討ち]]する。しかし、その後も苦しい情勢は続き、[[三方ヶ原の戦い]]で織田・徳川連合軍が[[武田信玄]]に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した([[槇島城の戦い]])。

将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。元亀から[[天正]]への[[改元]]を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・[[三好義継]]を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。天正3年(1575年)には、[[長篠の戦い]]での武田氏に対して勝利するとともに、[[右近衛大将]]に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には[[安土城]]の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、[[松永久秀]]、[[別所長治]]、[[荒木村重]]らが次々と信長に叛いた。

天正8年(1580年)、長きにわたった[[石山合戦]](大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には[[京都]]で大規模な馬揃え([[京都御馬揃え]])を行い、その勢威を誇示している。

天正10年(1582年)に、[[甲州征伐]]を行い武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を[[太政大臣]]・[[関白]]・[[征夷大将軍]]のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている([[三職推任]])。そして、信長は[[四国攻め]]を決定し、自身も[[中国攻め|中国地方攻略]]に赴く準備を進めていた。しかし、6月2日、重臣の[[明智光秀]]の謀反によって自害に追い込まれた([[本能寺の変]])。

一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として[[鷹狩り]]・[[茶の湯]]・[[相撲]]などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる{{Efn|詳細は[[#人物]]を参照。}}。

政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた{{Efn|詳細は[[#信長の政権構想]]を参照。}}。[[天皇]]や[[朝廷]]に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている{{Efn|詳細は[[#朝廷政策]]を参照。}}。

江戸時代には、[[新井白石]]らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。

とはいえ、やがて信長は[[勤王|勤王家]]として称賛されるようになり、[[建勲神社|明治時代には神として祀られている]]{{Efn|詳細は[[#「凶逆の人」から勤王家へ]]を参照。}}。[[第二次世界大戦]]後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されるようになって、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる{{Efn|詳細は[[#革新者か否か]]を参照。}}。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
<small>※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。</small>
<small>※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。</small>


=== 少年期 ===
=== 尾張・美濃の平定 ===
==== 少年期 ====
[[ファイル:Nagoyajou1.JPG|thumb|那古野城跡(名古屋城二之丸)]]
[[ファイル:Shobata Castle Site.jpg|thumb|200px|信長誕生の地、勝幡城跡。]]
[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])5月12日、尾張国の戦国大名・[[織田信秀]]の嫡男として誕生。生まれは[[勝幡城]](現在の[[愛知県]]愛西市勝幡町〜[[稲沢市]][[平和町]]六輪)<ref>『[[尾州古城志]]』</ref>と[[那古野城]]<ref>[[吉川弘文館]]『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』織田信長の項目</ref>{{Efn|一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。}}(現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]])の二説があるが、近年研究者の間では勝幡城説が有力になってきている<ref>{{Cite news|title=信長生誕地「勝幡城説」。播磨中京大教授が愛西で講座|newspaper=中日新聞|date=2014-07-04|author=|url=http://edu.chunichi.co.jp/?action_kanren_detail=true&action=education&no=4757|accessdate=2015-05-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150508182752/http://edu.chunichi.co.jp/?action_kanren_detail=true&action=education&no=4757|archivedate=2015年5月8日}}</ref>。
[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])5月{{Efn|name="birthday"|信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、[[天野信景]]『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある{{Sfn|下村信博|2011b|p=241}}。}}、[[尾張国]]の戦国大名・[[織田信秀]]の嫡男{{Efn|異母兄として[[織田信広]]がおり{{Sfn|池上裕子|2012|p=2}}、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい{{Sfn|池上裕子|2012|p=2}}。これらは庶流の扱いとなる。{{see also|#兄弟}}}}として誕生。生まれた場所については[[勝幡城]]、[[那古野城]]、および[[古渡城]]の3説に分かれるが{{Sfn|下村信博|2011b|pp=241-242}}、勝幡城であるとする見解が有力である{{Sfn|下村信博|2011b|pp=241-242}}<ref>{{Cite news|title=信長生誕地「勝幡城説」。播磨中京大教授が愛西で講座|newspaper=中日新聞|date=2014-07-04|author=|url=http://edu.chunichi.co.jp/?action_kanren_detail=true&action=education&no=4757|accessdate=2015-05-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150508182752/http://edu.chunichi.co.jp/?action_kanren_detail=true&action=education&no=4757|archivedate=2015年5月8日}}</ref><ref>{{Cite web |author=[[小和田哲男]]|date=2018-08-16|url=https://shirobito.jp/article/435|title=戦国武将と城<織田信長と城>第1回 信長生誕地は那古野城か勝幡城か|work=城びと|publisher=公益財団法人[[日本城郭検定協会]]|accessdate=2018-09-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180902114248/https://shirobito.jp/article/435 |archivedate=2018-09-02}}</ref>。幼名は'''吉法師'''(きっぽうし){{Sfn|池上裕子|2012|p=2}}{{Sfn|下村信博|2011b|pp=241-242}}。
幼名は'''吉法師'''(きっぽうし)。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の[[守護代]]に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。


信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の[[守護代]]であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]という家柄であった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=6-9}}。当時、尾張国では、[[守護]]である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである{{Sfn|池上裕子|2012|pp=6-9}}。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・[[織田達勝]]らの支援を得て、[[今川氏豊]]から那古野城を奪う{{Sfn|下村信博|2011a|pp=209-239}}。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた{{Sfn|下村信博|2011a|pp=209-239}}。
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年期にかけて奇天烈な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた(『信長公記』)。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた<ref>『織田信長事典』116頁</ref>。


[[File:Site of Nagoya Castle.jpg|thumb|200px|最初に城主となった那古野城跡([[名古屋城]]二之丸)]]
まだ[[世子]]であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代(後の[[徳川家康]])と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている{{Efn|name="那古野城主"|那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある{{Sfn|下村信博|2011b|p=242}}。}}。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から'''大うつけ'''と呼ばれたという{{Sfn|池上裕子|2012|p=4}}。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた<ref>『織田信長事典』{{Full citation needed|date=2018年10月}}116頁</ref>。なお、人質となっていた松平竹千代(後の[[徳川家康]])と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない{{Sfn|谷口克広|2017|pp=126-127}}。


天文15年([[1546年]])、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''三郎信長'''と称する{{Sfn|池上裕子|2012|p=3}}{{Sfn|下村信博|2011b|pp=241-242}}。天文16年([[1547年]])には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった{{Sfn|下村信博|2011b|pp=242-243}}。
天文15年([[1546年]])、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年([[1548年]])、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、その証として道三の娘・[[濃姫]]と信長の間で政略結婚が交わされた{{refnest|group="注釈"|[[井原今朝男]]の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である[[甘露寺親長]]の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の[[口入]](仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され<ref>『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条</ref>、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される<ref>井原『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年)P203</ref>。}}。


天文17年([[1548年]])あるいは天文18年([[1549年]])頃、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、その証として道三の娘・[[濃姫]]と信長の間で政略結婚が交わされた{{refnest|group="注釈"|[[井原今朝男]]の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である[[甘露寺親長]]の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の[[口入]](仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され<ref>『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条</ref>、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される{{Sfn|井原今朝男|2014|p=203}}。}}。
天文18年([[1549年]])(異説では天文22年([[1553年]]))に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江国の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという(『国友鉄砲記』){{Efn|正徳寺での会見には、兵に弓・鉄砲500丁を持たせていったと『信長公記』にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。}}。


天文20年([[1551年]])、父・信秀が没したため、家督を継ぐ{{Efn|織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる<ref>柴辻俊六「戦国期織田政権の浦湊支配について」『三重県史研究』30号(2015年)/改題所収「織田政権の津湊支配」柴辻『織田政権の形成と地域支配』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-206-3 2016年・P117</ref>。}}{{Efn|信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたという逸話が残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀政治的利用した[[織田行|信行]]への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域出ていい。後年創作という意見もあるが、1次史料である信長公記まで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。}}。
斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった{{Sfn|下村信博|2011b|pp=242-243}}。そして、おそらく天文21年([[1552年]]){{Efn|この信秀の死没についてはその時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている{{Sfn|柴裕之|2011|p=30}}{{Sfn|村岡幹生|2011|p=22}}。}}3月に父・信秀が没したため、家督を継ぐこととなる{{Sfn|池上裕子|2012|p=3}}{{Sfn|下村信博|2011b|pp=242-243}}{{Efn|織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる{{Sfn|柴辻俊六|2016|p=117}}。}}{{Efn|『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたという逸話が記録されている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=3-4}}}}。信長は、家督継承「上総守長」称するようにる(ち「上総介信長変更){{Sfn|柴裕之|2011|p=32}}。


==== 家督継承 ====
天文22年([[1553年]])、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、[[沢彦]]を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年([[1554年]])には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破った。

=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===
[[ファイル:Kiyosujo2.JPG|thumb|清洲城]]
[[ファイル:Kiyosujo2.JPG|thumb|清洲城]]
家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった{{Sfn|下村信博|2011b|pp=243-245}}。そして、弾正忠家の外部には清須城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・[[織田信行|信勝]](信行){{Efn|一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である{{Sfn|下村信博|2011b|pp=243-245}}。以降、本文では「信勝」で統一。}}などの競争者がいたのである{{Sfn|下村信博|2011b|pp=243-245}}。
当時、尾張国は[[今川氏]]の侵攻により[[守護]]の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配する守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・信行の家督相続を支持して信長と敵対し、天文23年([[1554年]])に信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した信友は義統の嫡子・[[斯波義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。


天文21年8月、清須の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした{{Sfn|下村信博|2011b|pp=243-245}}。信長は清須方の武将と戦って勝利し、これ以後、清須方との戦いが続くこととなる{{Sfn|下村信博|2011b|pp=243-245}}。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして織田大和守家は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も[[弘治 (日本)|弘治]]元年11月26日([[1556年]]1月7日<!--旧暦11月のため新暦では越年-->)に死亡している{{Efn|『信長公記』では事故死としている{{Sfn|太田|中川|2013|loc=単行本p63, kindle版p39}}が、『[[甫庵信長記]]』では家臣[[坂井孫八郎]]により殺害されたとする<ref>{{Citation |和書| last1=高柳|first1=光寿 | last2=松平 | first2=年一 |year =1981| title =戦国人名辞典|publisher =吉川弘文館|page=54}}</ref>。}}。


ところが、天文22年([[1553年]])、信長の宿老である[[平手政秀]]が自害している{{Sfn|池上裕子|2012|p=6}}{{Sfn|下村信博|2011b|pp=245-246}}{{Efn|これは諌死であったとも、平手氏と信長の確執のためともされる。}}。信長は嘆き悲しみ、[[沢彦]]を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った{{Sfn|池上裕子|2012|p=6}}。一方、おそらく同年4月に、信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見した{{Sfn|下村信博|2011b|pp=245-247}}。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある{{Sfn|池上裕子|2012|pp=5-6}}。天文23年([[1554年]])には、[[村木砦の戦い|村木城の戦い]]で今川勢を破った{{Sfn|池上裕子|2012|p=13}}。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いで敗死([[長良川の戦い]])。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが[[殿 (軍事用語)|殿]]をしつつ退却した。


この年も、清須方との戦いは、信長に有利に展開していた{{Sfn|下村信博|2011b|pp=247-249}}。同年7月12日{{Efn|通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという{{Sfn|下村信博|2011b|pp=247-249}}。}}、尾張守護の[[斯波義統]]が、清須方の武将・[[坂井大膳]]らに殺害される事件が起きる{{Sfn|下村信博|2011b|pp=247-249}}。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の[[斯波義銀]]は信長を頼りに落ち延びた{{Sfn|下村信博|2011b|pp=247-249}}。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]](通勝)・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信行を擁立しようとした。これに対して信長には[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]・[[森可成]]らが味方し、両派は対立する。この出来事の前、信長が四弟・[[織田信時]]だけを供に秀貞の城へ出向いた際、通具は信長を捕らえて切腹させることを秀貞に進言したが、秀貞は「三代にわたって恩恵を受けた主君だから」と2人を帰した{{Sfn|太田|中川|2013|loc=単行本pp.66-67, kindle版pp.41-42}}。


こうして、信長は、清須の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた{{Sfn|下村信博|2011b|pp=247-249}}。そして、数日後には、長槍を用いる信長方の軍勢が、清須方に圧勝した{{Sfn|下村信博|2011b|pp=247-249}}。
道三の死去を好機と見た信行派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北([[稲生の戦い]])。その後、[[末盛城]]に籠もった信行を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信行・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の[[織田信広]]も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだために未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年([[1557年]])に信行は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信行を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている{{Efn|『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『甫庵信長記』では池田恒興が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。}}。


天文23年{{Efn|かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。}}、衰弱した清須の守護代家は、信長とその叔父・[[織田信光]]の策略によって清須城を奪われ、守護代・[[織田信友|織田彦五郎]]{{Efn|このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない{{Sfn|柴裕之|2011|pp=27-28}}。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している{{Sfn|柴裕之|2011|pp=27-28}}。}}も自害を余儀なくされた{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主・織田大和守家の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って([[浮野の戦い]])これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張国から追放した。こうして、[[永禄]]2年([[1559年]])までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。


他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。この死は暗殺によるものであったと考えられる{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという{{Sfn|下村信博|2011b|pp=250-251}}。
永禄2年([[1559年]])2月2日、信長は80~100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した{{Efn|『信長公記』によれば斉藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。}}。


=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===
==== 弟との戦い ====
{{main|織田信行}}
しかし、弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いで敗死([[長良川の戦い]]){{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-255}}。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが[[殿 (軍事用語)|殿]]をしつつ退却した。

最も有力な味方である道三を失った信長に対し、[[林秀貞]](通勝)・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する{{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-256}}。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた{{Sfn|下村信博|2011b|pp=244-245}}。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった{{Sfn|下村信博|2011b|pp=253-254}}。

同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった([[稲生の戦い]]){{Sfn|池上裕子|2012|p=14}}。信長は、[[末盛城]]などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した{{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-256}}。しかし、永禄元年([[1558年]])に信勝は再び謀反を企てる{{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-256}}。この時、柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した{{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-256}}{{Efn|『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。}}。

さらに同年7月、信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・[[織田信賢]]を[[浮野の戦い]]において撃破した{{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-256}}。そして、翌年には、信賢の本拠地・[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]を陥落させた{{Sfn|下村信博|2011b|pp=254-256}}。

永禄2年([[1559年]])2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した{{Sfn|村岡幹生|2011|pp=20}}{{Efn|『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。}}。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという{{Sfn|村岡幹生|2011|pp=20}}。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる{{Sfn|村岡幹生|2011|pp=20}}。一方天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる{{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=29-33}}{{Efn|天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている){{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=29-33}}。}}。

==== 桶狭間の戦い ====
{{Main|桶狭間の戦い|清洲同盟}}
{{Main|桶狭間の戦い|清洲同盟}}
翌・永禄3年([[1560年]])5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻する{{Sfn|池上裕子|2012|p=15}}。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]に加えて[[三河国]]をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった{{Sfn|池上裕子|2012|p=15}}{{Efn|池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる{{Sfn|池上裕子|2012|p=15}}。}}。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった{{Sfn|池上裕子|2012|p=16}}。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った{{Sfn|池上裕子|2012|p=16}}。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年([[1560年]])5月19日午後一時、[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後{{Efn|name="atsumori"|'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照)。}}、出陣した{{Sfn|平野明夫|2016|pp=11-12}}。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った{{Sfn|池上裕子|2012|pp=16-19}}{{Efn|この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた{{Sfn|平野明夫|2016|pp=3-5}}。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった{{Sfn|平野明夫|2016|pp=3-5}}。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに[[黒田日出男]]が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている{{Sfn|平野明夫|2016|pp=3-5}}。}}('''[[桶狭間の戦い]]''')。


桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる{{Efn|松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった{{Sfn|平野明夫|2014|pp=69-72}}。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている{{Sfn|平野明夫|2014|pp=69-72}}。}}。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる{{Sfn|池上裕子|2012|p=20}}。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた{{Sfn|池上裕子|2012|p=20}}(いわゆる[[清洲同盟]])。永禄6年([[1563年]])、美濃攻略のため本拠を[[小牧山城]]に移す{{Efn|このときは、はじめ、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言していたという。唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を[[小牧山]]に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の[[織田信清]]と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じたと伝えられる(『信長公記』首巻)。}}。
尾張国統一を果たした翌・永禄3年([[1560年]])5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。


永禄8年([[1565年]]){{Efn|犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており{{Sfn|横山住雄|2011}}、柴裕之もこれを支持している{{Sfn|柴裕之|2011|p=34}}。}}、信長は、犬山城の[[織田信清]]を下し、ついに尾張統一を達成した{{Sfn|柴裕之|2011|p=34}}。さらに、[[甲斐国]]の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・[[武田勝頼|勝頼]]に対して信長の養女([[龍勝院|龍勝寺殿]])を娶らせた{{Sfn|柴裕之|2017a|p=75}}。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年([[1560年]])5月19日午後一時、[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後{{Efn|name="atsumori"|'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照)。}}、昆布と勝ち栗を前に立ったまま[[湯漬け]](出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ義元を討ち取った。今川軍は、駿河国に退却した('''[[桶狭間の戦い]]''')。


桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があったため、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年([[1562年]])、同盟を結んで互いに背後を固めた('''[[清洲同盟]]''')。この同盟は信長死後あるいは[[小牧・長久手の戦い]]まで維持された。永禄6年([[1563年]])、美濃攻略のため本拠を[[小牧山城]]に移す(信長が築いた初めての城)。
<gallery widths="240px">
<gallery widths="240px">
File:Oda Nobunaga statue in Kiyosu park.jpg|織田信長 銅像<br />(愛知県[[清須市]]、清洲公園)
File:Oda Nobunaga statue in Kiyosu park.jpg|織田信長 銅像<br />(愛知県[[清須市]]、清洲公園)
80行目: 113行目:
</gallery>
</gallery>


=== 美濃攻略天下布武 ===
==== 美濃斉藤氏足利義昭 ====
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年([[1561年]])に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家優位立ち、斎藤氏家中分裂始ま。[[竹中重治]][[安藤守就]]が[[岐阜城|稲葉山城]]を占拠する反乱も勃発した永禄7年([[1564年]])には北[[近江国|近江]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年([[1565年]])より[[滝川一益]]の援軍依頼により[[伊勢国|伊勢]]方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏([[北勢四十八家]]を攻略)とも戦っている
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた{{Efn|なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、[[佐藤忠能]]の養子として[[加治田城]]主に命じ、領地と家臣団([[加治田衆]])を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある{{Sfn|富加町史編集委員会|1980|p=227}}。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である[[濃姫]]が[[養母]]となり二代目後継者[[織田信忠]]付き[[側近]](重臣)ともなっている{{Sfn|富加町史編集委員会|1980|p=229}}。}}。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年([[1561年]])に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する[[森部の戦い]])。同じ頃{{Efn|name=”婚儀”|浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたか正確には不明あり決定し難い、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である{{Sfn|金子拓|2017a|pp=20-23}}}}には北[[近江国|近江]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している{{Sfn|金子拓|2017a|pp=20-23}}。その際{{Efn|name=”婚儀”}}、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた{{Sfn|金子拓|2017a|pp=20-23}}


信長は永禄8年([[1565年]])より[[滝川一益]]の援軍依頼により[[伊勢国|伊勢]]方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]と戦い屈服させて、伊勢北部の多数の北勢地域豪族で形成された当地の諸氏を([[北勢四十八家]]の小規模城主の城を攻略した)を次々と降伏させている。
永禄9年([[1566年]])、信長は[[加治田城]]主・[[佐藤忠能]]と[[加治田衆]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れた([[堂洞合戦]]、[[関・加治田合戦]]、[[中濃攻略戦]])。さらに[[西美濃三人衆]]([[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年([[1567年]])、斎藤龍興を伊勢国[[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった([[稲葉山城の戦い]])。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称した(『[[信長公記]]』){{Efn|全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである<ref>[[服部英雄]]『地名の歴史学』(角川書店、2000年)226頁</ref>。}}。


一方、中央では、永禄8年([[1565年]])5月、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の[[三好義継]]・[[三好三人衆]]・[[松永久通]]らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した([[永禄の変]]){{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=54-60}}{{Efn|この際、義継らは[[足利義栄]]の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる{{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=54-60}}。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の[[篠原長房]]らであった{{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=70-72}}。}}。義輝の弟の[[足利義昭]](一乗院覚慶、足利義秋)は、[[松永久秀]]の保護を得ており、殺害を免れた{{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=60-61}}。義昭は奈良から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた{{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=66-67}}。
同年11月には沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており{{sfn|林屋|p=105}}、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが{{Efn|前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる<ref name="Fujii">[[藤井譲治]]『天皇と天下人』</ref>。}}、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった<ref name="Fujii"/>。


これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=254-258}}{{Efn|浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の[[和田惟政]]らによる構想とする説もある{{Sfn|久保尚文|2015|p=87}}。}}。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「[[麒麟]]」を意味する[[麟 (織田信長の花押)|「麟」字型の花押]]を使い始めている{{Sfn|池上裕子|2012|p=33}}。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斉藤氏との停戦を実現させた{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=254-258}}。こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=254-258}}。
=== 上洛と将軍擁立 ===
[[ファイル:Nobunaga_flag.png|thumb|200px|織田信長軍 [[永楽通宝|永楽銭(永楽通宝)]]の[[馬印|旗印]]]]


ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斉藤氏との戦闘を再開する{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=258-264}}。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、[[河野島の戦い]]で大敗を喫してしまう{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=258-264}}{{Efn|信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった[[米田求政]]の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。}}。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斉藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=258-264}}。
==== 中央の情勢 ====
中央では、永禄8年([[1565年]])、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]([[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]){{Sfn|天野|2014|p=}}が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を擁立する([[永禄の変]])。


そして、永禄9年([[1566年]])、信長は[[加治田城]]主・[[佐藤忠能]]と[[加治田衆]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れた([[堂洞合戦]]、[[関・加治田合戦]]、[[中濃攻略戦]])。さらに[[西美濃三人衆]]([[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年([[1567年]]){{Efn|稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという{{Sfn|池上裕子|2012|pp=20-25}}。}}、斎藤龍興を伊勢国[[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、美濃国平定を進めた([[稲葉山城の戦い]]){{Sfn|池上裕子|2012|pp=25-26}}。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称した(『[[信長公記]]』){{Efn|全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである{{Sfn|服部英雄|2000|p=226}}。}}
長逸らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(のち[[足利義昭]])の暗殺も謀った{{Sfn|天野|2014|p=}}が、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、近江国の和田(和田惟政の居城)、後に同国の矢島を拠点として近江国の守護であった[[六角義賢]]に協力を求めた。


同年11月には印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめている{{sfn|林屋辰三郎|2005|p=105}}{{Sfn|池上裕子|2012|pp=56-60}}。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、[[五畿内]]を意味すると考えられており{{Sfn|池上裕子|2012|pp=26-27}}{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=263-264}}、室町幕府再興の意志を込めたものであった{{Sfn|柴裕之|2017b|pp=263-264}}(→''[[#信長の政権構想]]'')。11月9日には、[[正親町天皇]]が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが{{Efn|これらは[[綸旨]]、[[女房奉書]]およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=19-24}}。}}、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=19-24}}。
足利義昭(当初の名前は義秋)は六角義賢や和田惟政とともに全国の諸大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力するよう働きかけた。ところが[[上杉謙信]]・[[武田信玄]]ら地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えていて動くことができなかった。そのため、比較的京都に近い大名を連合させて義昭を上洛させるという計画が立てられ、永禄の変の直後から和田惟政が尾張国を訪れて信長に上洛を要請した{{Efn|浅井長政とお市の婚姻も六角・和田らによる構想とする説もある<ref>久保尚文「和田惟政関係文書について」(初出:『京都市歴史資料館紀要』創刊号(1984年)/所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』 戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2</ref>。}}。信長は斎藤龍興の存在を理由に躊躇したが義昭側の働きかけに応じた龍興が信長との停戦に応じたため、信長は斎藤領である美濃国から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ることになった。ところが、永禄9年(1566年)8月に信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった[[米田求政]]の子孫の家から発見されている<ref>村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号(2014年)</ref>。斎藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭と信長の交渉は一時中断する<ref name="kuno-a">久野雅司「足利義昭政権の研究」(所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2)</ref>。


=== 二重政権 ===
六角氏の離反を知った義昭は近江国を脱出して、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年([[1568年]])7月には美濃国の信長との交渉が再開された。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。信長は和田惟政に[[村井貞勝]]や[[不破光治]]・[[島田秀満]]らを付けて越前国に派遣し、義昭は同月13日に[[一乗谷]]を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の[[立政寺]]にて信長と対面した<ref name="kuno-a"/>。
[[ファイル:Nobunaga_flag.png|thumb|200px|織田信長軍 [[永楽通宝|永楽銭(永楽通宝)]]の[[馬印|旗印]]]]
==== 織田信長の上洛戦 ====
一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた{{Sfn|久野雅司|2015a|p=17}}。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年([[1568年]])7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に[[村井貞勝]]や[[不破光治]]・[[島田秀満]]らを付けて越前国に派遣している{{Sfn|久野雅司|2015a|p=18}}。義昭は同月13日に[[一乗谷]]を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の[[立政寺]]にて信長と会見した{{Sfn|久野雅司|2015a|p=18}}。


永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した{{Sfn|池上裕子|2012|p=35}}。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた{{Sfn|天野忠幸|2016a|pp=86-89}}。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の[[観音寺城]]を放棄せざるを得なくなった{{Sfn|池上裕子|2012|p=35}}([[観音寺城の戦い]])。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した{{Efn|ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。}}。
==== 武田氏との同盟 ====
美濃攻略における時期において武田氏が東美濃の高野口([[瑞浪市]])に侵攻し、織田氏と武田氏との間には紛争が起きていた。この時は織田方の重臣の森可成や[[肥田忠政]]等が防戦した。その後、美濃国において領国を接することになった[[甲斐国]]の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼([[武田勝頼]])に養女([[龍勝院|遠山夫人]])を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。永禄12年(1569年)には、将軍・足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介した([[甲越和与]])。


更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、[[大和国]]に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城[[勝龍寺城]]に退却した[[岩成友通]]が降伏し{{Sfn|池上裕子|2012|p=36}}、30日に摂津[[芥川山城]]に退却した[[細川昭元]]・[[三好長逸]]が城を放棄、10月2日には[[篠原長房]]も摂津[[越水城]]を放棄し、[[阿波国]]へ落ち延びた。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。
==== 織田信長の上洛戦 ====
永禄11年(1568年)9月7日、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、12日に[[観音寺城]]が落城する([[観音寺城の戦い]])。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した{{Efn|ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。}}。


もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=20-21}}{{Sfn|久野雅司|2015b|p=251-252}}。
更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、[[大和国]]に遠征していた三好三人衆と三好氏の軍も崩壊する。29日に山城[[勝龍寺城]]に退却した[[岩成友通]]が降伏、30日に摂津[[芥川山城]]に退却した[[細川昭元]]・三好長逸が城を放棄、10月2日には[[篠原長房]]も摂津[[越水城]]を放棄し、[[阿波国]]へ落ち延びた。三好三人衆と対立していた[[松永久秀]]と[[三好義継]]は信長に臣従、唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。


足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる{{Efn|のちに、義昭は[[毛利輝元]]にも足利家の桐紋を与えている{{Sfn|村川浩平|2000|p=50}}。}}。
もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという<ref name="kuno-b">久野雅司「足利義昭政権論」(初出:『歴史評論』640号(2003年)/所収:久野 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2)</ref>。


==== 幕府再興 ====
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。のちに、義昭は[[毛利輝元]]にも足利家の桐紋を与えている<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、50頁。</ref>。


永禄12年([[1569年]])1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した{{Sfn|池上裕子|2012|p=38}}([[本圀寺の変]])。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた{{Sfn|池上裕子|2012|p=38}}{{Efn|『信長公記』によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。また、出発前において、[[馬借]]が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックしたという逸話がある(『信長公記』巻二{{Sfn|大田牛一|奥野高廣|岩沢愿彦|1969|pp=93-94}})。}}。もっとも、[[細川藤賢]]や[[明智光秀]]らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた{{Sfn|池上裕子|2012|p=38}}。これを機に信長は義昭の為に[[二条城|二条に大規模な御所]]を築いた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=39-40}}。
=== 本圀寺の変と畿内遠征、播磨侵攻 ===
永禄12年([[1569年]])1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した([[本圀寺の変]])。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた{{Efn|『信長公記』によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。}}。もっとも、[[細川幽斎|細川藤孝]]や三好義継、摂津国衆の[[伊丹親興]]・池田勝正・[[荒木村重]]、浅井長政、[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。これを機に信長は義昭の為に普請奉行となり[[二条城]]を築城、本圀寺から芸術品や[[藤戸#浮洲岩|藤戸石]]なども移された。


1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹親興と和田惟政の3人に統治させた([[摂津三守護]])。同日、信長は[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の[[会合衆]]は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹親興]]と和田惟政の3人に統治させた([[摂津三守護]])。同日、信長は[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の[[会合衆]]は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。


同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・[[今井宗久]]の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には[[松井友閑]]を堺政所として派遣、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた<ref>柴辻俊六「織田政権下の堺と今井宗久」『信濃』65巻8号(2013年)/所収:柴辻『織田政権の形成と地域支配』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-206-3 </ref>。
同年2月、堺が信長の使者である[[佐久間信盛]]らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・[[今井宗久]]の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には[[松井友閑]]を堺政所として派遣、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた<ref>柴辻俊六「織田政権下の堺と今井宗久」『信濃』65巻8号(2013年)/所収:柴辻『織田政権の形成と地域支配』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-206-3 </ref>。


1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある<ref name="usui">臼井進「室町幕府と織田政権との関係について -足利義昭宛の条書を素材として-」(初出:『史叢』54・55号(1995年)/所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2)</ref>
一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある{{Sfn|臼井進|2015|pp=206-211}}


同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した<ref name="Fujii"/>
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=36-37}}


同年8月、[[豊臣秀吉|木下秀吉]]に命じて[[但馬国]]を攻め、[[山名祐豊]]を破り、[[生野銀山]]などを制圧。祐豊は、今井宗久の仲介で信長に降伏した。
同年8月、[[豊臣秀吉|木下秀吉]]に命じて[[但馬国]]を攻め、[[山名祐豊]]を破り、[[生野銀山]]などを制圧。祐豊は、今井宗久の仲介で信長に降伏した。


==== 伊勢侵攻 ====
遡って同年2月、播磨の[[赤松政秀]]が信長に救援を要請。8月から9月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、[[別所安治]]が[[浦上宗景]]を攻める。同時に、密かに信長と内通していた[[宇喜多直家]]も浦上宗景に対して反旗を翻した。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の[[龍野城]]を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたのだが、まず永禄11年([[1568年]])北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を[[長野工藤氏|長野氏]]当主とした。


そして翌・永禄12年([[1569年]])8月20日に、岐阜を出陣し南伊勢に進攻し、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲{{Sfn|池上裕子|2012|pp=40-41}}。篭城戦の末10月に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ([[大河内城の戦い]]){{Sfn|池上裕子|2012|pp=40-41}}。後に北畠具教は[[天正]]4年([[1576年]])に[[三瀬の変]]によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、伊勢攻略を終える。
=== 伊勢侵攻と北畠家簒奪 ===
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年([[1568年]])北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を[[長野工藤氏|長野氏]]当主とした。


なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている{{Sfn|久野雅司|2015a|p=30}}。
そして翌・永禄12年([[1569年]])8月20日、滝川一益の調略によって北畠具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻し、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲。篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ([[大河内城の戦い]])。後に北畠具教は[[天正]]4年([[1576年]])に[[三瀬の変]]によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により伊勢攻略を終える。


==== 第一次信長包囲網 ====
なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている<ref name="kuno-a"/><ref name="kuno-b"/>。

=== 第一次信長包囲網 ===
{{Main|信長包囲網#第一次包囲網}}
{{Main|信長包囲網#第一次包囲網}}
[[ファイル:Map Japan Genki1.png|thumb|320px|1570年(元亀元年)の戦国大名勢力図]]
[[ファイル:Map Japan Genki1.png|thumb|320px|1570年(元亀元年)の戦国大名勢力図]]


[[元亀]]元年([[1570年]])4月、信長は度重る上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた([[金ヶ崎の戦い]])。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという。
[[元亀]]元年([[1570年]])4月、信長は自身に従わ朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍する{{Sfn|池上裕子|2012|pp=67-69}}。織田軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける{{Sfn|池上裕子|2012|pp=67-69}}。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=67-69}}([[金ヶ崎の戦い]])。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという{{Efn|このころ、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わったという。この善住坊は、[[天正]]元年(1573年)に捕らえられた。信長は善住坊の身体を土に埋め、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で[[鋸挽き|首を挽かせ]]、長期間激痛を与え続け[[処刑]]した(巻六){{Sfn|大田牛一|奥野高廣|岩沢愿彦|1969|pp=161-162}})。}}


6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した('''[[姉川の戦い]]''')。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙{{Sfn|池上裕子|2012|pp=70-72}}。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=70-72}}('''[[姉川の戦い]]''')。


8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、ついて石山本願寺が信長に対して挙兵した([[野田城・福島城の戦い]])。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣で信長の軍事動員に脅威感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=72-74}}([[野田城・福島城の戦い]])。しかも、浅井・朝倉連合軍3万が近江国[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する{{Sfn|池上裕子|2012|pp=72-74}}。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。


9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する([[志賀の陣]])。しかし、その間に[[石山本願寺]]の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢国の門徒が一揆を起こし([[長島一向一揆]])、信長の実弟・[[織田信与 (戦国武将)|織田信与(信興)]]を自害に追い込んだ。
9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還{{Sfn|池上裕子|2012|pp=74-75}}。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=74-75}}。信長はこれを受け、近江[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する([[志賀の陣]]){{Sfn|池上裕子|2012|pp=74-75}}。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし([[長島一向一揆]])、信長の実弟・[[織田信与 (戦国武将)|織田信与(信興)]]を自害に追い込んだ{{Sfn|池上裕子|2012|pp=74-75}}


11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した{{sfn|林屋|p=143}}。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し{{Efn|[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。}}、窮地を脱した{{Efn|ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし<ref>堀新「織田信長と勅命講和」(歴史学研究会 編『シリーズ歴史学の現在7 戦争と平和の中近世史』青木書店、2001年</ref>、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする<ref>片山正彦「「江濃越一和」と関白二条晴良」(初出:戦国史研究会 編『戦国史研究』53号(2007年)/所収:片山『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年)</ref>。}}。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した{{sfn|林屋辰三郎|2005|p=143}}。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し{{Efn|[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。}}、窮地を脱した{{Efn|ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし<ref>堀新「織田信長と勅命講和」(歴史学研究会 編『シリーズ歴史学の現在7 戦争と平和の中近世史』青木書店、2001年</ref>、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする<ref>片山正彦「「江濃越一和」と関白二条晴良」(初出:戦国史研究会 編『戦国史研究』53号(2007年)/所収:片山『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年)</ref>。}}。


=== 第二次信長包囲網 ===
==== 第二次信長包囲網 ====
{{Main|信長包囲網#第二次包囲網}}
{{Main|信長包囲網#第二次包囲網}}
[[ファイル:織田信長.jpg|thumb|170px|『織田信長 図像』(兵庫県[[氷上町]] 所蔵)]]
[[ファイル:織田信長.jpg|thumb|170px|『織田信長 図像』(兵庫県[[氷上町]] 所蔵)]]


元亀2年([[1571年]])2月、信長は浅井長政の配下の[[磯野員昌]]を降し、[[佐和山城]]を得た。
元亀2年([[1571年]])2月、信長は浅井長政の配下の[[磯野員昌]]を味方に引き入れ、[[佐和山城]]を得た{{Sfn|池上裕子|2012|pp=78-79}}

5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、[[氏家直元]]が討死した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=74-75}}。

同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、比叡山延暦寺を焼き討ちにした('''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''){{Sfn|池上裕子|2012|pp=74-75}}。

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や[[相模国]]の[[後北条氏]]、[[越後国]]の[[上杉氏]]と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との[[甲相同盟]]を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている{{Sfn|鴨川達夫|2007|pp=174-177}}<ref>柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007</ref>。

元亀3年([[1572年]])3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した{{Sfn|池上裕子|2012|p=83}}。

7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の[[織田信忠]])を[[初陣]]させた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=84-85}}。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=84-85}}。以後の戦況は織田軍有利に展開した。


11月14日、織田方であった[[岩村城]]が開城し、武田方に占拠された([[岩村城の戦い]]){{Sfn|池上裕子|2012|pp=86-87}}。病死した岩村城主・[[遠山景任]]の後家([[おつやの方|信長の叔母]])は、[[秋山虎繁]](信友)と婚姻し、武田方に転じた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=86-87}}。また、徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に敗退し、さらに遠江国の[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる([[二俣城の戦い]])。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=86-87}}。
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に殿軍が一揆勢の伏兵に襲撃され、柴田勝家が負傷し、[[氏家直元]]が討死した。


同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している{{Sfn|柴裕之|2016|pp=10-11}}。この異見書は、従来、『[[永禄以来年代記]]』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた{{Sfn|柴裕之|2016|pp=10-11}}。しかし、[[柴裕之]]によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い{{Sfn|柴裕之|2016|pp=10-11}}{{Efn|久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している{{Sfn|久野雅司|2017|pp=150-152}}。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている{{Sfn|平井上総|2017|p=20}}。}}。柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる{{Sfn|柴裕之|2016|pp=10-11}}。そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする{{Sfn|柴裕之|2016|pp=10-11}}。
同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした('''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]''')。


元亀4年([[1573年]])に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略する([[野田城の戦い]]){{Sfn|池上裕子|2012|pp=89-90d}}。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や[[相模国]]の[[後北条氏]]、[[越後国]]の[[上杉氏]]と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との[[甲相同盟]]を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた{{Efn|近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている<ref>鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007</ref>。}}。


こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した{{Sfn|柴裕之|2016|pp=2-4}}。信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=36-37}}。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=36-37}}。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。
元亀3年([[1572年]])、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。


なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている{{Efn|例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』{{Sfn|鴨川達夫|2007|pp=178-180}}、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。}}。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の[[織田信忠]])を[[初陣]]させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。以後の戦況は織田軍有利に展開した。


=== 室町幕府の「滅亡」 ===
10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は悪化する。
==== 足利義昭の没落 ====
武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所([[槇島城]])に立て籠もったが信長は義昭を破り追放した。


通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。このことにより、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている{{Sfn|神田千里|2013a}}{{Sfn|神田千里|2002}}。一方、義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経て[[備後国]][[鞆町|鞆]]へ移る。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある{{Sfn|鈴木眞哉|藤本正行|2006|pp=125-126}}。このことから、歴史学者の[[藤田達生]]は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており([[鞆幕府]]論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている{{Sfn|藤田達生|2010|pp=48-73}}{{Sfn|木下昌規|2014b|pp=26-28}}。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている{{Sfn|平井上総|2017|pp=23}}。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる{{Sfn|平井上総|2017|pp=23}}。
11月、武田氏の[[秋山虎繁]](信友)が、東美濃の[[岩村城]]を攻める。城主の[[遠山景任]]は防戦したが([[上村合戦]])、運悪く病死してしまう。遠山景任の後家・[[おつやの方]](信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の[[織田勝長]])を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。また、徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に敗退し、さらに遠江国の[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる([[二俣城の戦い]])。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した。


幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=37-42}}。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=37-42}}。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=37-42}}。
元亀4年([[1573年]])に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略する([[野田城の戦い]])。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した{{Efn|元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている<ref>鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など</ref>。}}。


同年7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた{{Efn|ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている<ref>『御湯殿上日記』</ref>。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある<ref>[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年。</ref>。}}。
=== 室町幕府の事実上の滅亡と「天下」の継承へ ===
武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所([[槇島城]])に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する{{Efn|室町幕府の事実上の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている<ref>[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002</ref>。}}
{{Efn|義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経て備後国[[鞆町|鞆]]へ移り、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出したが、次第に相手にされなくなり、天正8年(1580年)ごろには 号令を発することもほとんどなくなり、諦めている(なお、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことである)<ref>『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』鈴木眞哉、藤本正行 P.125-126 洋泉社新書y 2006年</ref>。}}。
幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの数名が義昭に同行するが、多くは京都に残り信長側に転じた<ref>『信長軍の司令官 武将たちの出世競争』谷口克広 P.94-95 中公新書 2005年</ref>。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた{{Efn|ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている<ref>『御湯殿上日記』</ref>。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある<ref>[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年</ref>。}}。


天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。


==== 朝倉・浅井氏の滅亡 ====
{{See|一乗谷城の戦い|小谷城の戦い}}
8月8日、浅井家の武将・[[阿閉貞征]]が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、[[小谷城]]の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]でも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、[[平泉寺白山神社|平泉寺]]の僧兵と一族の[[朝倉景鏡]]に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・[[朝倉愛王丸|愛王丸]]を探して殺害させ、義景の首は[[長谷川宗仁]]に命じて京で[[獄門]](梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。
8月8日、浅井家の武将・[[阿閉貞征]]が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、[[小谷城]]の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]でも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、[[平泉寺白山神社|平泉寺]]の僧兵と一族の[[朝倉景鏡]]に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・[[朝倉愛王丸|愛王丸]]を探して殺害させ、義景の首は[[長谷川宗仁]]に命じて京で[[獄門]](梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。


翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に[[浅井久政]]が自刃した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=96-97}}。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=96-97}}。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・[[浅井万福丸|万福丸]]を捜し出させ、関ヶ原で[[磔]]とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は[[藤掛永勝]]によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・[[織田信包]]に引き取らせた(当初は叔父の[[織田信次]]が預かったという)。
{{See|一乗谷城の戦い}}


9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、[[大湊 (伊勢市)|大湊]]に[[桑名市|桑名]]への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の[[林通政]]の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る{{Sfn|谷口克広|2002|pp=129-131}}。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、[[浅井久政]]や[[浅井惟安|浅井福寿庵]]らが自刃した。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、長政・[[赤尾清綱]]らも自害した。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・[[浅井万福丸|万福丸]]を捜し出させ、関ヶ原で[[磔]]とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は[[藤掛永勝]]によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・[[織田信包]]に引き取らせた(当初は叔父の[[織田信次]]が預かったという)。


11月に、足利義昭は、三好義継の居城・[[若江城]]を離れ、紀伊国へと退去した{{Sfn|池上裕子|2012|p=98}}。同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始した{{Sfn|池上裕子|2012|p=98}}。義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害する{{Sfn|池上裕子|2012|p=98}}。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した{{Sfn|池上裕子|2012|p=98}}。
{{See|小谷城の戦い}}


天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、[[地侍]]や本願寺[[門徒]]による反乱([[越前一向一揆]])が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた[[前波吉継|桂田長俊]]が一乗谷で殺された{{Sfn|池上裕子|2012|p=103}}。
9月、東大寺を戦乱に巻き込み乱暴狼藉を働く者に対して厳罰を科すと通達する書状を出した<ref>{{Cite news |title=「東大寺を戦乱に巻き込むな」…信長の書状発見 |newspaper=読売新聞 |date=2014-12-12 |author= |url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141212-OYT1T50102.html |accessdate=2014-12-16|deadlinkdate=2015-5}}</ref>。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、[[大湊 (伊勢市)|大湊]]に[[桑名市|桑名]]への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の[[林通政]]の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る{{sfn|谷口|pp=129-131}}。


さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる{{Sfn|池上裕子|2012|p=103}}。信長はこれを迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の[[明知城]]が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した{{Sfn|池上裕子|2012|p=103}}。
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏は滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。


また、信長は正親町天皇に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、天皇はこれを[[勅命]]をもって了承した{{Sfn|池上裕子|2012|p=103}}{{Efn|これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[陸奥国]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。}}。
=== 三位に叙され公卿となる ===
天正2年([[1574年]])1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、[[地侍]]や本願寺[[門徒]]による反乱([[越前一向一揆]])が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた[[前波吉継|桂田長俊]]が一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の[[明知城]]が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した([[岩村城の戦い]])。


==== 長島一向一揆の制圧 ====
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、天皇はこれを[[勅命]]をもって了承した{{Efn|これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[陸奥国]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。}}。

=== 長島一向一揆の制圧 ===
{{Main|長島一向一揆}}
{{Main|長島一向一揆}}
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・[[九鬼嘉隆]]の伊勢・[[志摩国|志摩]]水軍を率い、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、[[攻城戦#攻城戦の手法|兵糧攻め]]にした一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、[[大鳥居城]]から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、[[長島城]]の門徒は降伏し、船で[[大阪|大坂]]方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。この、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・[[織田秀成]]など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は[[中江城]]、[[屋長島城]]に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した(『信長公記』){{Efn|ちなみに『[[フロイス日本史]]』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。}}。
7月、信長・信忠織田信雄・滝川一益・[[九鬼嘉隆]]の伊勢・[[志摩国|志摩]]水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=105-108}}。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、[[大鳥居城]]から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=105-108}}。9月29日、[[長島城]]の門徒は降伏し、船で[[大阪|大坂]]方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=105-108}}。これは、信長「不意討ち」{{Sfn|金子拓|2017a|p=87}}と表現される事があるがこれは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある<ref>[[播磨良紀]]「織田信長の長島一向一揆攻めと「根切」」、[[新行紀一]]編『戦国期の真宗と一向一揆』吉川弘文館、2010年所収。</ref>。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・[[織田信広]]織田有力武将が討ち取られた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=105-108}}。

これを受けて信長は[[中江城]]、[[屋長島城]]に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=105-108}}。この戦によって長島を占領した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=105-108}}{{Efn|ちなみに『[[フロイス日本史]]』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。}}。


天正3年([[1575年]])3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万の大軍で出陣した([[高屋城の戦い]])。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた[[新堀城]]が落城すると、[[三好康長]]が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を[[破城]]とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。
天正3年([[1575年]])3月、[[荒木村重]]が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万の大軍で出陣した([[高屋城の戦い]])。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた[[新堀城]]が落城すると、[[三好康長]]が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を[[破城]]とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。


=== 長篠の戦い ===
==== 長篠の戦い ====
[[File:Nagashino Teppo-Ashigaru.jpg|thumb|left|200px|『長篠合戦図屏風』]]
{{Main|長篠の戦い}}
{{Main|長篠の戦い}}
信長包囲網の打破後、信長や家康は甲斐国の武田氏対しも反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年([[1575年]])4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
天正2年から天正3年かけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=108-109}}。天正3年([[1575年]])4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=108-109}}。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。


その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=109-112}}。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=109-112}}。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという{{Sfn|池上裕子|2012|pp=109-112}}。
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を布いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる('''長篠の戦い''')。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせるなどし{{refnest|『[[信長公記]]』による<ref group="注釈">佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。</ref>。}}、武田軍に勝利する{{Efn|この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。}}。


そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる('''長篠の戦い'''){{Sfn|池上裕子|2012|pp=109-112}}。信長は設楽原決戦においては[[佐々成政]]ら5人の武将に多くの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせた{{Sfn|長屋隆幸|2016|pp=93-94}}{{Efn|この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、[[藤本正行]]が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった{{Sfn|長屋隆幸|2016|pp=94-96}}。しかし、[[平山優]]が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている{{Sfn|長屋隆幸|2016|pp=94-96}}。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている{{Sfn|長屋隆幸|2016|pp=94-96}}。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い{{Sfn|長屋隆幸|2016|pp=106-107}}。}}。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した{{Sfn|池上裕子|2012|p=112}}。武田方は有力武将の多くを失う{{Sfn|池上裕子|2012|p=112}}。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている{{Sfn|池上裕子|2012|p=112}}。
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は[[天台宗]]と[[真言宗]]の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた([[絹衣相論]]を参照)。


6月27日、[[相国寺]]に上洛{{Efn|美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の[[関ケ原町]]山中)では、「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという(『信長公記』巻八{{Sfn|大田牛一|奥野高廣|岩沢愿彦|1969|pp=185-186}})。}}した信長は[[天台宗]]と[[真言宗]]の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた([[絹衣相論]]を参照)。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、[[武井夕庵]]に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、[[塙直政]]に原田備中守、[[丹羽長秀]]に惟住、荒木村重に摂津守、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に筑前守の官位と姓を与えた。


7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た{{Sfn|池上裕子|2012|p=113}}。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、[[武井夕庵]]に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、[[丹羽長秀]]に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた{{Sfn|池上裕子|2012|p=113}}。
=== 越前侵攻 ===
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。


==== 越前侵攻 ====
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された{{Efn|このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。}}{{Efn|このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。}}。
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した[[富田長繁]]ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。
越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。


信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=114-117}}。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された{{Efn|このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。}}{{Efn|このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。}}。
=== 右近衛大将就任・天下人公認・家督継承・安土城築城===

越前国は再び織田家の支配するところとなる。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆([[前田利家]]・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=117-118}}。また、信長は越前[[国掟]]九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=117-118}}。

==== 右近衛大将就任 ====
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]](安土城復元天主) 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]]]]
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]](安土城復元天主) 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]]]]


天正3年(1575年)11月4日、信長は[[大納言|権大納言]]に任じられる、また、11月7日には征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される[[近衛大将|右近衛大将]]を兼任する。信長は近衛大将就任にり、御所て公卿を集め、室町将軍家将軍就任倣った儀礼([[陣座]])させ。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた{{Efn|足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司といことになる}}。
天正3年(1575年)11月4日、信長は[[大納言|権大納言]]に任じられる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}。さらに11月7日には[[近衛大将|右近衛大将]]を兼任する{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職任じられ先例ならったもであるとも考えられるという{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}。官位就任ととも、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努め{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}。以後、信長はしばしば「上様」とされるようになる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}。


これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとみられる<ref>谷口克広『信長と家康―清須同盟の実体』(学研新書、 2012年、 P.201202)</ref>。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・[[足利義尋|義尋]]を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「[[倒幕]]」)へと転換したとする見方もある<ref>藤田達生『本能寺の変の群像』(雄山閣出版、 2001年、 P.68-72)</ref>。また、義昭の実父である[[足利義晴]]が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「[[大御所]]」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある{{refnest|group="注釈"|歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、[[後奈良天皇]]や[[近衛稙家]](義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した<ref>木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』戒光祥出版2017年、P.287-292・294-296)</ref>。}}<ref>木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(初出:『日本歴史』793号、2014年)/所収:木下昌規 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』(戒光祥出版、2017年)ISBN 978-4-86403-253-7)</ref>。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた<ref>木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』( 岩田書院、 2014年、P.357358)</ref>。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]([[鎮守府将軍]]になるための前)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとれる{{Sfn|谷口克広|2012|pp=201-202}}。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・[[足利義尋|義尋]]を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「[[倒幕]]」)へと転換したとする見方もある{{Sfn|藤田達生|2001|pp=68-72}}。また、義昭の実父である[[足利義晴]]が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「[[大御所]]」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある{{refnest|group="注釈"|歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、[[後奈良天皇]]や[[近衛稙家]](義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した<ref>木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』戒光祥出版2017年、P.287-292・294-296)</ref>。}}<ref>木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(初出:『日本歴史』793号、2014年)/所収:木下昌規 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』(戒光祥出版、2017年)ISBN 978-4-86403-253-7)</ref>。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた{{Sfn|木下昌規|2014a|pp=357-358}}。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]にし{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}、次男の信雄は左近衛中将に任官している。


11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠を正室・[[濃姫]]の養子とし、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直轄領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。
11月28日、信長は嫡男・信忠、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲った{{Sfn|池上裕子|2012|pp=120-122}}。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。


天正4年([[1576年]])1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]岸に[[安土城]]の築城を開始する{{refnest|group="注釈"|「安土」という地名は信長が命名したとも<ref>『細川家記』</ref>、元々あった地名だとも言われる。}}。安土城は天正7年([[1579年]])に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる
天正4年([[1576年]])1月、[[琵琶湖]]岸に[[安土城]]の築城を開始する{{refnest|group="注釈"|「安土」という地名は信長が命名したとも<ref>『細川家記』</ref>、元々あった地名だとも言われる。}}。安土城は天正7年([[1579年]])に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。


=== 第三次信長包囲網 ===
=== 天下人として ===
==== 第三次信長包囲網 ====
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。


4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀ら3万人の軍勢を大坂に派遣し、構築させた。しかし塙が本願寺勢雑賀衆の伏兵の襲撃に遭って、塙を含む1,000人以上が戦死した。織田軍は窮して[[天王寺]]砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。5月5日、救援要請を受けた信長は若江城に入って動員令を出したが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った([[天王寺の戦い (1576年)|天王寺砦の戦い]])。
4月、信長は[[塙直政]]・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺攻撃させた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}。しかし塙が本願寺勢撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}。織田軍は窮して[[天王寺]]砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}。2,700人余りを討ち取った{{Sfn|池上裕子|2012|pp=124-125}}([[天王寺の戦い (1576年)|天王寺砦の戦い]])。


この頃、従来は信長と協力関係にあった[[関東管領]]の上杉謙信との関係が悪化する{{Sfn|池上裕子|2012|pp=127-128}}{{Efn|信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、[[元亀]]3年([[1572年]])10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。}}。謙信は天正4年に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し、結託した。
その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた([[第一次木津川口の戦い]])。


天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し{{Sfn|池上裕子|2012|pp=125-126}}、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、本願寺の要請を受けて毛利輝元が派遣した[[毛利水軍]]など700~800隻程度が、石山本願寺の援軍に現れた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=125-126}}。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=125-126}}([[第一次木津川口の戦い]])。
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉謙信と信長との関係は悪化し{{Efn|信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、[[元亀]]3年([[1572年]])10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。}}、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。


このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=114-116}}。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=114-116}}。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=114-116}}。
=== 織田右府 ===
天正5年([[1577年]])2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣([[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]])するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ、形式的な和睦{{Efn|本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった}}を行い、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。


==== 織田右府 ====
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を攻め自刃させた([[信貴山城の戦い]])。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]](丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。
天正5年([[1577年]])2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣([[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]])し、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ、紀伊国から撤兵した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=155-156}}。


[[天正]]5年([[1577年]])8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した{{Sfn|中川貴皓|2017|pp=178-180}}。天正五年十月十一日付の[[下間頼廉]]の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという{{Sfn|中川貴皓|2017|pp=178-180}}。しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた{{Sfn|中川貴皓|2017|pp=178-180}}。
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻{{Efn|織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した([[手取川の戦い]])というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。}}。

その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。
久秀を討ったのと同じ月に、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]](丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。このとき、織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した([[手取川の戦い]])というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。


11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年([[1578年]])1月にはさらに正二位に昇叙されている。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年([[1578年]])1月にはさらに正二位に昇叙されている。
249行目: 295行目:
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた([[御館の乱]])。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻([[月岡野の戦い]])、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた([[御館の乱]])。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻([[月岡野の戦い]])、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。


天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治させ、周辺の攻略に当たらせた。
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え統治させ、周辺の攻略に当たらせた。


尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた<ref>藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫、40頁</ref>。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた{{Sfn|藤木久志|2005|p=40}}。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配置した。


上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配置した。
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団(天正元年結成)
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団(天正元年結成)
266行目: 313行目:
*(紀伊方面の抑え・[[織田信張]])
*(紀伊方面の抑え・[[織田信張]])


=== 中国侵攻 ===
==== 中国侵攻 ====
天正6年(1578年)3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反([[三木合戦]])が起こる。
天正6年(1578年)3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反([[三木合戦]])が起こる{{Sfn|池上裕子|2012|p=161}}

4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=134-136}}。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=134-136}}。

7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により見捨てられた[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される([[上月城の戦い]]){{Sfn|池上裕子|2012|pp=164-165}}。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する{{Sfn|池上裕子|2012|pp=167-168}}一方、同じく東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重に一時的に同調したものの{{Sfn|池上裕子|2012|pp=167-168}}、まもなく信長に帰順した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=169-170}}。

11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した{{Sfn|池上裕子|2012|p=169}}([[第二次木津川口の戦い]])。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した([[有岡城の戦い]]){{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=114-115}}。

天正7年([[1579年]])6月、明智光秀による[[八上城]]包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される{{Sfn|池上裕子|2012|p=171}}。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した{{Sfn|池上裕子|2012|pp=172-173}}。


一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=117-119}}{{Efn|従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=117-119}}。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=117-119}}。}}。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=118-121}}。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=117-119}}。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。


翌年の天正8年([[1580年]])1月、別所長治が切腹し、[[三木城]]が開城{{Sfn|池上裕子|2012|p=178}}。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した{{Sfn|池上裕子|2012|p=178}}。
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される([[上月城の戦い]])。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し([[有岡城の戦い]])、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。


==== 天正7年の政治状況 ====
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破([[第二次木津川口の戦い]])。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。
天正7年([[1579年]])9月、前年に伊勢国の出城・[[丸山城]]構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹していた信雄が独断で伊賀国に侵攻したが、信雄の[[家老]]・[[柘植保重]]が[[植田光次]]に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた([[天正伊賀の乱#第一次天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]])。


11月、信長は織田家の京屋敷を[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]として、[[皇太子]]である誠仁親王に進上した{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=136-138}}{{Efn|なお、[[多聞院日記]]によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=136-138}}。}}。
天正7年([[1579年]])夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。


この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=203-205}}。これは信康の乱行、信康生母・[[築山殿]]の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=203-205}}。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=205-211}}([[松平信康#信康自刃事件について]]の項を参照)。
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている{{Efn|『多聞院日記』より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである<ref name="Fujii"/>。}}。


==== 大坂本願寺との講和 ====
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、信康生母・[[築山殿]]の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている<ref>[[典厩五郎]]『家康、封印された過去』(PHP研究所 1998年)</ref><ref>[[盛本昌広]]『松平家忠日記』(角川選書 1999年)</ref>{{sfn|谷口『信長と消えた家臣たち』}}([[松平信康#信康自刃事件について]]の項を参照)。
天正8年([[1580年]])3月10日、関東の[[北条氏政]]から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した{{Sfn|丸島和洋|2013|p=243}}。


同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる[[勅命講和]]){{Sfn|堀新|2014|pp=36-40}}。ただし、本願寺側では[[教如]]が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている{{Sfn|堀新|2014|pp=36-40}}{{Sfn|池上裕子|2012|pp=183-184}}。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している{{Sfn|池上裕子|2012|pp=183-184}}。「天下のため」を標榜して信長が遂行した[[石山合戦|大坂本願寺戦争]]は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた{{Sfn|堀新|2014|pp=36-40}}。
また伊勢国の出城・[[丸山城]]構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し、[[家老]]の[[柘植保重]]が[[植田光次]]に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた([[天正伊賀の乱#第一次天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]])。


この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=74-75}}{{Sfn|池上裕子|2012|pp=182-183}}。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=99-100}}。この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある{{Sfn|池上裕子|2012|pp=182-183}}。
天正8年([[1580年]])1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。3月10日、関東の[[北条氏政]]から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した<ref>丸島和洋、「戦国大名の外交」、p.243、講談社、2013年。</ref>。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。


その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して、信長は折檻状を送り付けた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=184-186}}。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=184-186}}。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、[[安藤守就]]とその子・[[安藤定治|定治]]、[[丹羽氏勝]]らも追放の憂き目にあった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=184-186}}{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=124-128}}。
天正9年([[1581年]])には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢で[[伊賀十二人衆]]を倒して[[伊賀惣国一揆]]を滅ぼし、伊賀国は織田氏の領地となった([[天正伊賀の乱#第二次天正伊賀の乱|第二次天正伊賀の乱]])。


=== 京都御馬揃え左大臣推任 ===
=== 天下静謐 ===
==== 京都御馬揃え左大臣推任 ====
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した<ref name="Nishigaya205">{{Harvnb|西ヶ谷|p=205}}</ref>。この馬揃えは[[近衛前久]]ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の[[朝廷]]から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった<ref name="Nishigaya206">{{Harvnb|西ヶ谷|p=206}}</ref>。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる<ref name="Nishigaya206"/>。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による<ref name="Nishigaya206"/>。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった<ref name="Nishigaya206"/>。
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した<ref name="Nishigaya205">{{Harvnb|西ヶ谷恭弘|2000|p=205}}</ref>。この馬揃えは[[近衛前久]]ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の[[朝廷]]から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった<ref name="Nishigaya206">{{Harvnb|西ヶ谷恭弘|2000|p=206}}</ref>。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる<ref name="Nishigaya206"/>。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による<ref name="Nishigaya206"/>。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった<ref name="Nishigaya206"/>。


2月28日、京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的な馬揃えを行った([[京都御馬揃え]])<ref name="Nishigaya206"/>。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。
2月28日、京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的な馬揃えを行った([[京都御馬揃え]])<ref name="Nishigaya206"/>。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。


3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した<ref name="Nishigaya207">{{Harvnb|西ヶ谷|p=207}}</ref>。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり<ref name="Nishigaya206"/>、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという<ref name="Nishigaya207"/>。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した<ref name="Nishigaya207">{{Harvnb|西ヶ谷恭弘|2000|p=207}}</ref>。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり<ref name="Nishigaya206"/>、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという<ref name="Nishigaya207"/>。


3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足し。だが4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任{{Sfn|藤井譲治|pp=140-141}}。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した{{Sfn|藤井譲治|pp=140-141}}。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた{{Sfn|藤井譲治|pp=140-141}}。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している{{Sfn|藤井譲治|pp=140-141}}。だが4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった{{Sfn|藤井譲治|pp=140-141}}


8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった<ref name="Nishigaya207"/>。
8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった<ref name="Nishigaya207"/>。


=== 高野山包囲 ===
==== 高野山包囲 ====
天正9年([[1581年]])、[[高野山]]が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる<ref name="Nishigaya207"/>。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『[[高野春秋]]』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった[[高野聖]]らを捕縛し入牢あるいは殺害した<ref name="Nishigaya207"/>。このため天正9年(1581年)1月、[[根来寺]]と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した<ref name="Nishigaya207"/>。
天正9年([[1581年]])、[[高野山]]が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる<ref name="Nishigaya207"/>。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『[[高野春秋]]』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった[[高野聖]]らを捕縛し入牢あるいは殺害した<ref name="Nishigaya207"/>。このため天正9年(1581年)1月、[[根来寺]]と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した<ref name="Nishigaya207"/>。


信長は一族の[[和泉国|和泉]][[岸和田城]]主・[[織田信張]]を総大将に任命して高野山攻めを発令<ref name="Nishigaya207"/>。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都[[七条河原]]で処刑した<ref name="Nishigaya207"/>。10月2日、信長は[[堀秀政]]の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした<ref name="Nishigaya207"/>。10月5日には高野山七口から[[筒井順慶]]の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った<ref name="Nishigaya207"/>。
信長は一族の[[和泉国|和泉]][[岸和田城]]主・[[織田信張]]を総大将に任命して高野山攻めを発令<ref name="Nishigaya207"/>。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都[[七条河原]]で処刑した<ref name="Nishigaya207"/>。10月2日、信長は[[堀秀政]]の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした<ref name="Nishigaya207"/>。10月5日には高野山七口から[[筒井順慶]]の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った<ref name="Nishigaya207"/>。


天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した<ref name="Nishigaya207"/>。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した<ref name="Nishigaya207"/>。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた<ref name="Nishigaya208">{{Harvnb|西ヶ谷|p=208}}</ref>。
天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した<ref name="Nishigaya207"/>。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した<ref name="Nishigaya207"/>。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた<ref name="Nishigaya208">{{Harvnb|西ヶ谷恭弘|2000|p=208}}</ref>。


=== 甲州征伐 ===
==== 甲州征伐 ====
{{Main|甲州征伐}}
{{Main|甲州征伐}}
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中[[木舟城]]主の[[石黒成綱]]を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中[[願海寺城]]主・[[寺崎盛永]]へも切腹を命じた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中[[木舟城]]主の[[石黒成綱]]を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中[[願海寺城]]主・[[寺崎盛永]]へも切腹を命じた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。
311行目: 369行目:
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。


天正10年([[1582年]])2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る<ref name="Nishigaya210">{{Harvnb|西ヶ谷|p=210}}</ref>。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から[[北条氏直]]、飛騨国から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した<ref name="Nishigaya210"/>。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する<ref name="Nishigaya210"/>。
天正10年([[1582年]])2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る<ref name="Nishigaya210">{{Harvnb|西ヶ谷恭弘|2000|p=210}}</ref>。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から[[北条氏直]]、飛騨国から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した<ref name="Nishigaya210"/>。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する<ref name="Nishigaya210"/>。


武田軍では、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]が2月14日に織田軍に投降する<ref name="Nishigaya210"/>。さらに織田長益、[[織田信次]]、[[稲葉貞通]]ら織田軍が[[松本城|深志城]]の[[馬場昌房]]軍と戦い、これを開城させる<ref name="Nishigaya210"/>。駿河[[江尻城]]主・[[穴山信君]]も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する<ref name="Nishigaya210"/>。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは[[仁科盛信]]が籠もった信濃[[高遠城]]だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた<ref name="Nishigaya210"/>。
武田軍では、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]が2月14日に織田軍に投降する<ref name="Nishigaya210"/>。さらに織田長益、[[織田信次]]、[[稲葉貞通]]ら織田軍が[[松本城|深志城]]の[[馬場昌房]]軍と戦い、これを開城させる<ref name="Nishigaya210"/>。駿河[[江尻城]]主・[[穴山信君]]も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する<ref name="Nishigaya210"/>。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは[[仁科盛信]]が籠もった信濃[[高遠城]]だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた<ref name="Nishigaya210"/>。


この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る<ref name="Nishigaya210"/>。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って[[勝沼城]]に入った<ref name="Nishigaya210"/>。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した<ref name="Nishigaya210"/>。この時、俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた{{sfn|西ヶ谷|pp=210-211}}。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る<ref name="Nishigaya210"/>。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って[[勝沼城]]に入った<ref name="Nishigaya210"/>。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した<ref name="Nishigaya210"/>。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた{{Sfn|西ヶ谷|2000|pp=210-211}}。


信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する<ref name="Nishigaya211">{{Harvnb|西ヶ谷|p=211}}</ref>。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した<ref name="Nishigaya211"/>。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の[[上野国]]と信濃2郡を与え、[[関東管領]]{{Efn|name="taki"|滝川一益の任を関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『[[武家事紀]]』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる<ref>{{Harvnb|谷口|1995|ref=tani|loc=p.235}}</ref>。}}に任命して[[厩橋城]]に駐留させた<ref name="Nishigaya211"/>。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた<ref name="Nishigaya211"/>。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている<ref name="Nishigaya211"/>。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する<ref name="Nishigaya211">{{Harvnb|西ヶ谷恭弘|2000|p=211}}</ref>。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した<ref name="Nishigaya211"/>。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の[[上野国]]と信濃2郡を与え、[[関東管領]]{{Efn|name="taki"|滝川一益の任を関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『[[武家事紀]]』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる{{Sfn|谷口克広|1995|p=235}}。}}に任命して[[厩橋城]]に駐留させた<ref name="Nishigaya211"/>。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた<ref name="Nishigaya211"/>。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている<ref name="Nishigaya211"/>。


4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた<ref name="Nishigaya211"/>。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける<ref name="Nishigaya211"/>。さらに江尻城、4月14日に[[田中城]]に入城し、4月16日に[[浜松城]]に入城した<ref name="Nishigaya211"/>。浜松からは船で[[吉田城]]に至り、4月19日に清洲城に入城<ref name="Nishigaya211"/>。4月21日に安土城へ帰城した<ref name="Nishigaya211"/>。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた<ref name="Nishigaya211"/>。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける<ref name="Nishigaya211"/>。さらに江尻城、4月14日に[[田中城]]に入城し、4月16日に[[浜松城]]に入城した<ref name="Nishigaya211"/>。浜松からは船で[[吉田城]]に至り、4月19日に清洲城に入城<ref name="Nishigaya211"/>。4月21日に安土城へ帰城した<ref name="Nishigaya211"/>。


信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。[[蘆名氏]]は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った{{Sfn|遠藤|2015|p=88}}。また[[伊達輝宗]]の側近・[[遠藤基信]]が6月1日付けで[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど{{Sfn|遠藤|2015|p=260}}、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。[[蘆名氏]]は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った{{Sfn|遠藤ゆり子編|2015|p=88}}。また[[伊達輝宗]]の側近・[[遠藤基信]]が6月1日付けで[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど{{Sfn|遠藤ゆり子編|2015|p=260}}、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。


=== 三職推任 ===
==== 本能寺の変 ====
4月、正親町天皇は信長を[[太政大臣]]・[[関白]]・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた([[三職推任問題]])。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが{{Efn|「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条)
<ref>立花京子「信長権力と朝廷」</ref>}}、返答の内容は不明である。

=== 本能寺の変 ===
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』([[楊斎延一]]画、[[明治]]時代、[[名古屋市]]所蔵)]]
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』([[楊斎延一]]画、[[明治]]時代、[[名古屋市]]所蔵)]]
{{Main|本能寺の変}}
{{Main|本能寺の変}}
天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=141-144}}。そして、正月7日、[[勧修寺晴豊]]は、行幸のための鞍が完成したのでそれを[[正親町天皇]]に見せている(『晴豊公記』){{Sfn|藤井譲治|2011|pp=141-144}}。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる{{Sfn|藤井譲治|2011|pp=141-144}}。


4月、信長を[[太政大臣]]・[[関白]]・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と[[武家伝奏]]・[[勧修寺晴豊]]とのあいだで話し合われた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=208-211}}([[三職推任問題]])。このことは、晴豊が『[[天正十年夏記]]』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない{{Sfn|池上裕子|2012|pp=208-211}}。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある{{Sfn|池上裕子|2012|pp=208-211}}。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=208-211}}。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが{{Efn|「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条)<ref>立花京子「信長権力と朝廷」</ref>}}、返答の内容は不明である。
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。


また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃([[魚津城の戦い]])。上杉氏は北の[[新発田重家]]の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃([[魚津城の戦い]])。上杉氏は北の[[新発田重家]]の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。


こうしたなか、信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=211-213}}。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという{{Sfn|池上裕子|2012|pp=211-213}}。そして、長宗我部元親討伐後に[[讃岐国]]を信孝に、[[阿波国]]を三好康長に与えることを計画していた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=211-213}}。また、[[伊予国]]・[[土佐国]]に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=211-213}}。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた{{Sfn|木下昌規|2016|pp=193-194}}。
5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[高松城 (備中国)|備中高松城]]攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]](蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている{{Efn|この時の[[本膳料理]]の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される<ref>[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007</ref>。}}。


しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=211-213}}{{Sfn|木下昌規|2016|pp=193-194}}。
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『[[本城惣右衛門覚書]]』からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、[[自害]]して果てた。[[享年]]49(満48歳没)。


5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=213-214}}。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=213-214}}。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした{{Sfn|金子拓|2017a|pp=156-158}}。信長の光秀に対する信頼は深かった{{Sfn|金子拓|2017a|pp=176-177}}。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『[[フロイス日本史]]』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている{{Sfn|金子拓|2017a|pp=177-179}}{{Efn|この時の[[本膳料理]]の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される{{Sfn|江後迪子|2007|pp=24-37}}。}}。家康接待が続く中、信長は[[高松城 (備中国)|備中高松城]]攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた{{Sfn|金子拓|2017a|pp=156-158}}。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた{{Sfn|金子拓|2017a|pp=156-158}}{{Efn|一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる{{Sfn|金子拓|2017a|p=177}}。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる{{Sfn|金子拓|2017a|p=177}}。}}。
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまった、あるいは損傷が激しく誰の遺体か確認できなかったためと考えられる{{Efn|[[平成]]19年([[2007年]])に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、寺が城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。}}。

ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。本能寺の変では光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、色々な説が流れており、後者には徳川家康説、秀吉説、天皇説、堺の商人説などがある。
5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに[[小姓]]衆のみを率いて安土城から上洛し、[[本能寺]]に逗留していた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=213-214}}<ref name="ncP313">{{Harvnb|太田|中川|2013|loc=p.313}}</ref>。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]未明に本能寺を襲撃する{{Sfn|池上裕子|2012|pp=214-217}}。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『[[本城惣右衛門覚書]]』からわかる{{Sfn|池上裕子|2012|p=216}}。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や[[槍]]を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、[[自害]]して果てた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=214-217}}。[[享年]]49{{Sfn|池上裕子|2012|pp=214-217}}(満48歳没){{Efn|本能寺の変の後には、[[吉田兼見]]などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない{{Sfn|池上裕子|2012|p=219}}。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという{{Sfn|池上裕子|2012|p=219}}。}}。

信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる{{Sfn|呉座勇一|2018|pp=203-204}}{{Efn|[[平成]]19年([[2007年]])に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された<ref>{{Cite web |author=[[山本雅和]] |date=2008-04 |url=https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/231.pdf|format=pdf |title=「本能寺の変」を調査する |work=リーフレット京都 No.231 |publisher=[[京都市埋蔵文化財研究所]]・[[京都市考古資料館]] |accessdate=2018-09-22 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。}}。

この本能寺の変については、光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、様々な説があり、後者には、足利義昭説、朝廷説などがあるという{{Sfn|池上裕子|2012|p=222}}。


== 年表 ==
== 年表 ==
355行目: 415行目:
|1534年
|1534年
|5月12日
|5月12日
|[[那古野城]]で誕生。
|[[勝幡城]]で誕生。
|
|
|1歳
|1歳
|-
|-
|時期不明{{Efn|name="那古野城主"}}
|天文4年
|
|1535年
|
|
|那古野城主となる。
|那古野城主となる。
|
|
|
|2歳
|-
|-
|天文15年
|天文15年
373行目: 433行目:
|12歳
|12歳
|-
|-
|rowspan="2"|天文18年
|天文18年
|rowspan="2"|1549年
|1549年
|2月24日
|2月24日
|[[濃姫]]と結婚。
|[[濃姫]]と結婚。
|
|
|rowspan="2"|16歳
|16歳
|-
|
|上総介を自称する。
|
|-
|-
|天文20
|天文21
|1551
|1552
|
|
|父・[[織田信秀|信秀]]の死去により家督を相続。
|父・[[織田信秀|信秀]]の死去により家督を相続。
|
|
|18
|19
|-
|-
|天文23年
|天文23年
398行目: 454行目:
|21歳
|21歳
|-
|-
|[[弘治 (日本)|弘治]]3
|[[永禄]]
|1557
|1558
|11月2日
|11月2日
|弟・[[織田信行|信]]を暗殺。
|弟・[[織田信行|信]]を暗殺。
|
|
|24
|25
|-
|-
|[[永禄]]2年
|[[永禄]]2年
448行目: 504行目:
|-
|-
|10月28日
|10月28日
|従五位下弾正少忠
|従五位下弾正少忠{{Efn|name="官位"}}
|系図纂要
|系図纂要
|-
|-
454行目: 510行目:
|1570年
|1570年
|3月14日
|3月14日
|正四位下弾正大弼
|正四位下弾正大弼{{Efn|name="官位"}}
|系図纂要
|系図纂要
|rowspan="2"|37歳
|rowspan="2"|37歳
466行目: 522行目:
|1573年
|1573年
|7月26日
|7月26日
|義昭を畿内から追放、足利幕府は毛利家勢力範囲の備後へ遷る。
|義昭を畿内から追放、足利義昭は毛利家勢力範囲の備後へ遷る。
|
|
|40歳
|40歳
473行目: 529行目:
|rowspan="2"|1574年
|rowspan="2"|1574年
|3月18日
|3月18日
|正四位下[[参議]]{{Efn|name="官位"|実際には、信長は天正3年11月まで無位無官だったと考えられる{{Sfn|谷口克広|2013|p=103}}。天正2年に正四位下参議になったとされているのは、大納言任官の際に、いきなり高位高官に任じるというのは形式上問題があるため、さかのぼって任官されていたことにしたものである{{Sfn|谷口克広|2013|p=103}}。}}
|従三位[[参議]]
|公卿補任。し『[[歴名土代]]』は従五位下・同日昇殿とする。
|公卿補任。ただし『[[歴名土代]]』は従五位下・同日昇殿とする。
|rowspan="2"|41歳
|rowspan="2"|41歳
|-
|-
573行目: 629行目:
[[ファイル:Oda nobunaga (Kobe City Museum).jpg|thumb|right|200px|織田信長像 ([[神戸市立博物館]]蔵、重要文化財)]]
[[ファイル:Oda nobunaga (Kobe City Museum).jpg|thumb|right|200px|織田信長像 ([[神戸市立博物館]]蔵、重要文化財)]]


=== 人 ===
=== 人物評 ===
歴史学者の[[池上裕子]]は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師[[ルイス・フロイス]]のものであると述べている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=28-30}}。信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」<ref>完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)</ref>とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。
同時代人の証言から、その人物像や当時の評価がうかがえる。
* 宣教師[[ルイス・フロイス]]は次のように記述している。
**「彼(信長)は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール([[相撲]])をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」<ref>完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)</ref>
**「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない<ref>完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)</ref>」
**「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった<ref>完訳フロイス日本史2 34章(本来の第1部85章)</ref>」
**「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ<ref>完訳フロイス日本史2 36章(本来の第1部87章)</ref>」
**「王{{Efn|当時西洋人は日本の大名たちを王と呼んだ(豊後の王、薩摩の王など)。}}(信長)は例のごとく、親切だ」
**「信長は生来純粋で、説得することが容易である」
**「その葬儀は、信長という非常に王者の風格をもつ、優れた人物に相応しいものとなった」(『[[耶蘇会士日本通信]]』『[[フロイス日本史]]』)
* 尾張国の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆・[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます{{Efn|name="atsumori"}}。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた(信長公記・首巻)。
* [[英俊|多聞院英俊]] -「(信長は)一段と礼儀を尽くす人だった」(『[[多聞院日記]]』)
*『[[朝倉始末記]]』内「[[朝倉記]]」部分著者の言{{Efn|執筆者不明、おそらく越前の住人。}} -「吾々は徒党に加わらず、その上代々の国主に忠節を尽くしてきた(刃向かったり土地の押領などしなかった)ので、その振る舞いは誠に立派であるとして、信長公からお礼を言われた。信長公のご清意に励まされ、吾々は精進に励んだ。この時世に巡り会えたのは幸運である」
* [[津田宗及]] -「(茶器の)家宝を上様(信長)に召し上げられていたが、その理由を、上様は(使者を通して)一段と気を配ってお伝えになった。(私の素行に問題があったので)やがて返すべきと考えつつ、世間への戒めが必要なので延引しているとのことだった。そして家宝が返されたのは父の命日だった。この偶然の一致は(上様の配慮だろうか)ありがたいことだ」(『[[津田宗及茶湯日記]]』)
* [[吉田兼見]] -「我らは子々孫々まで、信長の尊霊拝むものなり」(『[[兼見卿記]]』)
* [[近衛前久]] -「(信長の死は)嘆いても名残の尽きない涙である なおも慕われる亡き面影(七回忌の今)睦まじかった昔の人に向かいあう 虚しき空の紫の雲・・・」{{Efn|原句:惣見院前右大臣東岳融泰(信長)の七廻(七回忌)に六字の名号を句ことのかしらにすへて(据えて)追善の和歌をよみけり 准三后龍山(近衛前久)
{{Quotation|なけきても名残つきせぬなみた哉 猶したはるるなきかおもかけ むつましきむかしの人やむかふらむ むなしき空のむらさきの雲 あたし世のあはれおもへは明くれに あめかなみたかあまるころもて みても猶みまくほしきはみのこして みねにかくるるみしかよの月 たつねてもたまのありかは玉ゆらも たもとの露にたれかやとさむ ふくるよのふしとあれつつふく風に ふたたひみえぬふるあとの夢|天正十六年六月二日}}}}
* 天正元年([[1573年]])11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公卿|公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。


{{Quotation|彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール([[相撲]])をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。|『フロイス日本史』より<ref>完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)</ref>}}
==== 人柄に関する逸話 ====
* 天正2年(1574年)の正月、『[[信長公記]]』によれば[[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の首([[頭蓋骨]])を{{読み仮名|薄濃|はくだみ}}{{Efn|[[漆]]でかためて[[金泥・銀泥|金泥]]などを塗ったもの。}}にしたものを「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した。信長は何かも思い通りになって誠にめでたいと上機嫌であった{{Sfn|太田|中川|2013|lpp=315-317}}と云う。[[桑田忠親]]はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している<ref>桑田忠親『淀君』(吉川弘文館、1958年)25頁</ref>。この桑田説に対して、[[宮本義己]]は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している<ref>宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)61-62頁</ref>。『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて[[髑髏杯|髑髏を杯にして]]家臣に飲ませたという話{{Efn|[[髑髏]]を薄濃にするというのは、「史記」に記載されているもので「戦で討ち取った敵に敬意を表してその勇気を自分に取り込む」という意図のもと死者への敬意を表す古代中国からの習慣であるとされる。}}になっている俗書があるが、一次史料にはない。
* 弟・信行の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信行も一度は許している上に彼の遺児([[津田信澄]])の養育を手配し、元服後は一門衆として重用している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子([[織田勝長]])までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の兄弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃して報復する([[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚いともされる。
* 信長の側から盟約・和睦を破ったことは一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
* 自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから)。
* 長女の[[徳姫]]([[松平信康]]の妻)を除くと、生前に縁組させた[[永姫]]らの娘達は家臣である[[前田利長]]、[[丹羽長重]]、[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、彼女たちは信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、女性に関する記録が少なかった当時にあって、織田家関連の女性たちの中には本名が正確に記録されている女性が多いため、信長は当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。
* 自分の妻を尾張国に残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
* 『信長公記』首巻に、ある年(1550年代後半の出来事と並んで記録されている)の12月中旬に起きた事件のあらましがある。[[海東郡]]大屋村に[[織田信房 (造酒丞)|織田信房]]の家来で、庄屋の甚兵衛がいた。隣の一色村に[[池田恒興]]の家来の佐介という者がいた。この二人は親しい間柄であったが、清州へ貢納に行った甚兵衛の留守に佐介が強盗に入り、甚兵衛の妻がこれに気付いて抵抗し、佐介の刀の鞘を奪い、清洲に訴え出た。しかし佐介は抗弁し双方言い分を譲らず、[[火起請]]で裁定を下す運びとなった。佐介は熱した鉄の斧を取り落として失敗したが、当時権勢を奢っていた恒興の配下達が異議を挟んで騒ぎになった。そこに鷹狩の帰りであった信長が通りがかり、これを見咎めた。信長は事情を知ると「どれほど熱したか」と再現させ、自ら熱した鉄の斧を掴んで三歩あるいて棚に置き、大声で「(この通りだ。)見ていたな」と言って火起請の裁定の正しさを証明して、佐介を成敗させたという。
*『信長公記』によると、無辺という旅僧が[[石馬寺]]の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと町人の間で評判となり、相応の謝礼を払えば丑時の秘法を授けるというので男女が門前に列をなす有様だった。信長も何度か無辺の噂を聞くことがあり、自分の目で確かめたいと言い出した。天正8年(1580年)3月20日、栄螺坊は無辺を連れて安土に出頭した。信長はすぐに厩まで来て無辺に引見した。信長が無辺に出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺は今度は事実を正直に答えて、実は営利目的の売僧であることが判明した。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は女子供を騙して金を巻き上げるとは「不届き千万」と怒って、無辺に恥をかかせよと命じ、無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した。その後、さらに人々に聞くと、無辺は子供ができない女や病気の女に丑時の秘法を授けると称して「臍くらべ(へそくらへ)」という紛い事を行っていたことが判明した。信長は憂いを断つとして無辺を捕らえるように手配し、糾弾して処刑させた。更に信長は無辺を泊まらせていた栄螺坊に「何故、あのような不届きな者を留めおいたのか」と質した。栄螺坊が「石馬寺の雨漏りを修繕したいと存じまして、[[勧進]]集めのために、しばらくの間と思い、留め置いたのです」と言うと、信長は栄螺坊に銀子三十枚を下賜した。これらのように信長は自ら不正を糺さずにはいられない性格であった。
* 『信長公記』によれば、美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の[[関ケ原町]]山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年([[1575年]])6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。信長は、自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であった一方、このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面もあった。
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
* 最大の同盟者である[[徳川家康]]に対しては特に気を使っている。[[佐久間信盛]]を懲戒するにあたっては、家康が[[武田信玄]]に敗北した[[三方ヶ原の戦い]]を引き合いに、家臣に戦死者も出さず撤退したことを激しく非難している。また、[[第一次高天神城の戦い]]では[[武田勝頼]]率いる武田勢の大軍に包囲された[[高天神城]]への増援が間に合わず奪われたが、2人がかりでなければ持ち上げることも出来ないほどの量の黄金を詰めた革袋を2つも家康に贈与して謝意を示している。天正10年(1582年)、武田氏滅亡後に信長は東海道から帰京しているが、その際に家康から[[富士山|富士]]見物や[[大井川]]の舟橋など巨費を投じた盛大な接待を受けており、本能寺の変直前の家康上洛の際には、街道の整備や通過地の大名に接待役を命じ、後述のように信長自ら食膳を用意するなど、盛大な接待を行っている。
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]](官兵衛)が帰還せず、同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したことから、孝高も政職に同調して裏切ったものと考え、孝高の息子・松壽丸(後の[[黒田長政]])の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていたことが判明した時には「官兵衛(孝高)に合わせる顔がない」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]](半兵衛)に匿われていたことが分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。
* 『信長公記』などの逸話によると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。
** 天正9年(1581年)7月15日のお盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませるといった行動をとっており、「言語道断面白き有様」と記述されている。
** 天正10年(1582年)の正月に安土城の内部を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を城内に招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき銭100文ずつ見物料を取り立てたという記録が伝わっている。
* 重要なことを他人に任せず自身で直接何かを行った逸話が多い。
** 桶狭間の戦いをはじめ、[[稲生の戦い]]では自ら敵将を討ち取り、[[長良川の戦い]]では殿軍をつとめ、[[一乗谷城の戦い]]、石山本願寺との[[天王寺の戦い (1576年)|天王寺砦の戦い]]では大将でありながら自らが先頭に立って奮戦している。通常、戦争において最も敵に狙われやすい最前線に大将が立つ事はほとんど有り得ない{{Efn|天王寺砦の戦いでは実際に銃創を負ってしまい、それを最後に信長も最前線には立たなくなった。}}中、部下たちを鼓舞するために危険を顧みず自ら最前線に出て戦っていた信長は異例であったと言える。無論、信長自身も常に万全の状態で戦いに臨むために普段から武術の訓練を怠ることはなかった。
** 自ら[[刈田狼藉|刈田]]を行った。([[高屋城の戦い]]<ref>信長公記・巻8</ref>)
** [[馬借]]が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックした([[本圀寺の変]]の出発前<ref>信長公記・巻2</ref>)。
** 客をもてなすために自らの手で食膳や茶皿を運んできた(ルイス・フロイス<ref>『完訳フロイス日本史2』第38章(本来の第1部89章)</ref>や[[フランシスコ・カブラル]]<ref>『完訳フロイス日本史2』第42章(本来の第1部95章)</ref>、徳川家康と穴山梅雪の一行<ref>信長公記 巻15 家康公 穴山梅雪、奈良境御見物の事</ref>に対して)。
* 当時武士たちの間で一般的であった[[衆道]]も嗜んでおり、男色相手として[[前田利家]]については本人の証言が残っている<ref>[{{NDLDC|953320}} 近代デジタルライブラリー「利家夜話三巻」pp.7]</ref>。


フロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う{{Sfn|池上裕子|2012|pp=28-30}}。他方、歴史学者の[[神田千里]]によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い{{Sfn|神田千里|2015|pp=49-50}}。{{see also|#信仰}}
=== 苛烈と云われる所業 ===
* 信長は宗教勢力が世俗の権力と一体化し、宗教としての意義を忘れていた事や僧侶の腐敗ぶりを厳しく批判した。この行為が後世苛烈と評されたが、当時は宗教勢力が自ら軍事力を持ち敵対勢力に対し軍事行動も取っていた時代であり、現に延暦寺も[[大谷廟堂|本願寺(大谷本願寺)]]を焼討ちにしている。信長と同時代の史料では「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また仏を信仰する事自体は禁止しておらず、武装解除した宗教勢力に対しては宗教としての本分を弁える様になったとして、信徒の信仰の自由を保障している。
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳首]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる([[武蔵坊弁慶|弁慶]]など)。
* 観内という[[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀([[長谷部国重]]作)は切れ味の良さから「[[へし切長谷部|圧切長谷部(へしきりはせべ)]]」<!--福岡市博物館での表記に合わせました-->と名づけられたという([[福岡市博物館]]蔵、[[国宝]])。
* [[元亀]]元年([[1570年]])5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続け[[処刑]]した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に<ref>フロイス日本史より</ref>、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている([[鋸挽き]])。
* 天正2年([[1574年]])の長島一向一揆の第三次討伐は、信長の「騙し討ち」と表現される事があるが<ref>谷口克広「織田信長 合戦全録」など</ref>、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある<ref>[[播磨良紀]]『織田信長の長島一向一揆攻めと「根切」』、吉川弘文館「戦国期の真宗と一向一揆」所収</ref>。
* 天正9年([[1581年]])、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が[[荒木村重]]の残党を匿ったり足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復だったという。また高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動だったともいわれている。
* 天正6年(1578年)12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
* 天正10年([[1582年]])4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは{{Efn|安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある}}、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したという(滋賀県[[近江八幡市]]浅小井町付近の「新開の森」か)。また侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、やはり殺されたという。ただし桑実寺の長老に関する記録が信長の死亡後に残っていることから、長老が殺されているわけがないと桑実寺の側は主張している。この逸話の典拠は『信長公記』だが、そこには信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが「殺した」とは書かれていない。当時「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある{{Efn|「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちのひとりかふたりは処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日にはひとりも生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」<ref>『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章</ref>}}。
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が天正5年([[1577年]])に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は[[串刺し]]、女は[[磔]])した行為(同年12月5日の秀吉書状)、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること([[ルイス・ソテロ]]等の日記)や敵方の女性を[[競売]]にかけたり([[小田井原の戦い]])といった行為もあり、戦国時代の道徳や常識の差異を念頭においてその行為を判断する必要がある。


=== 交友関係 ===
=== 残虐性 ===
池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った{{Sfn|池上裕子|2012|pp=29-30}}。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している{{Sfn|池上裕子|2012|pp=29-30}}。そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである{{Sfn|池上裕子|2012|pp=106-108}}。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=120-121}}。
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深く、特に昵近する公家衆もいた。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって一際仲が良かったようである。
* 天正3年([[1575年]])に京都[[相国寺]]で[[今川氏真]]と会見し、氏真に[[蹴鞠]]を所望し、披露してもらった。
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い。主に[[森成利]](蘭丸)の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている。


もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない{{Sfn|神田千里|2014|pp=163-164}}{{Efn|例えば、[[北条早雲]]は、敵対する[[関戸吉信]]方を女性・子供も含めて虐殺した{{Sfn|神田千里|2014|pp=163-164}}。伊達政宗も同様の行為をしている{{Sfn|神田千里|2014|pp=163-164}}。}}。また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の[[島原の乱]]における大虐殺との類似性が指摘されている{{Sfn|横田冬彦|2009|pp=375-377}}。[[横田冬彦]]によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない{{Sfn|横田冬彦|2009|pp=375-377}}。
=== 南蛮への関心 ===
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。
* 好奇心が強く、まだ鉄砲が一般的でなかった頃から[[火縄銃]]の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。そして[[長篠の戦い]]では3,000丁もの鉄砲を用いて[[武田勝頼]]の軍(特に騎馬軍団)に壊滅的な被害を与えたとされている。
* [[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であったアフリカ(現・[[モザンビーク]])出身の[[黒人]]に興味を示して譲り受け、「[[弥助]]」と名付けて側近にした。記録によると、この黒人は身長六[[尺]]二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称されるほどの怪力であったとされ、信長は好奇心だけでなく実戦の役に立つ兵としても重用していた。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは領地と城を与えて「殿(との、城主)」にするつもりであったが(『イエズス会日本年報』)、その計画は本能寺の変により頓挫する。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、[[二条城]]に危急を知らせて明智の軍勢を相手に最後まで奮戦したが捕縛され[[南蛮寺]]に送還されたと伝えられる。
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる(当時は地上が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際、家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い理解した)。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。信長は[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の[[屏風絵]]を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]](天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
* 南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから目覚まし時計を献上された際は扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。
*永禄年間、ポルトガルの宣教師に命じて[[伊吹山]]に広さ50町歩(約50[[ヘクタール]])、薬草の種類は3000種類の薬草園を作らせた<ref>[http://lakeland.jugem.jp/?eid=87 伊吹山に織田信長ゆかりの薬草園がありました]</ref><ref>[http://www.ibukiyama-driveway.jp/enjoy/herb/index.html 薬草の宝庫]</ref><ref>[http://www.e-yakusou.com/yakusou/re001.htm 「織田信長」 と 「薬草園」]</ref><ref>[http://www.forest.ac.jp/academy-archives/ibukiyama/ 伊吹山の薬草文化を伝え、新たな商品化に取り組む]</ref><ref>[http://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2017-10-04/10/7889/1800001/ 偉人たちの健康診断[新]「織田信長の隠れた病」]</ref><ref>[http://www002.upp.so-net.ne.jp/hiroecha/japon.html 日本で初めてハーブ・ガーデンを誕生させた功労者]</ref>{{要高次出典|date=2018年6月}}。


信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である{{Efn|なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年([[1581年]])4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、[[桑実寺]]に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四{{Sfn|大田牛一|奥野高廣|岩沢愿彦|1969|pp=351-352}})。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある<ref>『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章</ref>。}}。『[[信長公記]]』によれば[[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の首{{Efn|『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて[[髑髏杯|髑髏を杯にして]]家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。}}を{{読み仮名|薄濃|はくだみ}}{{Efn|[[漆]]でかためて[[金泥・銀泥|金泥]]などを塗ったもの。}}にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した。信長は非常に上機嫌であったという(『[[信長公記]]』巻七{{Sfn|太田牛一|奥野高廣|岩沢愿彦|pp=165}})。[[桑田忠親]]はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している{{Sfn|桑田忠親|1958|p=25}}。この桑田の見解に対して、[[宮本義己]]は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している{{Sfn|宮本義己|2010|pp=61-62}}。
=== 文化への関心 ===

* 当時の多くの戦国大名と同じく[[囲碁]]を愛好しており、囲碁の「[[名人 (囲碁)|名人]]」という言葉は信長発祥と言われている([[本因坊算砂]]の項を参照)。
=== 奇行 ===
* 幸若舞『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った{{Efn|name="atsumori"}}。
『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=3-4}}。異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという{{Sfn|池上裕子|2012|pp=3-4}}。さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=3-4}}。このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた{{Sfn|神田千里|2014|pp=217-219}}。

しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる{{Sfn|神田千里|2014|pp=217-219}}。足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える{{Sfn|神田千里|2014|pp=208-212}}。そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという{{Sfn|神田千里|2014|pp=217-219}}。

=== 家臣の扱い ===
明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した{{Efn|滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=265-268}}。}}{{Sfn|池上裕子|2012|pp=265-268}}。

これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している{{Sfn|池上裕子|2012|pp=265-268}}。池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=265-268}}{{Efn|その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=265-268}}{{Sfn|天野忠幸|2016b|pp=110-112}}。}}。

また、松永久秀、[[別所長治]]、[[荒木村重]]らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=256-259}}{{Sfn|池上裕子|2012|p=276}}。前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=28-30}}。

他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ{{Sfn|神田千里|2014|pp=203-207}}、また家臣の取扱いにも慎重だった{{Sfn|神田千里|2014|pp=215-216}}。前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している{{Sfn|神田千里|2014|pp=203-207}}。従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「[[越前国掟]]」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある{{Sfn|神田千里|2014|pp=203-207}}。そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している{{Sfn|神田千里|2014|pp=203-207}}。当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという{{Sfn|神田千里|2014|pp=207-208}}。

信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている{{Sfn|神田千里|2014|pp=211-212}}。例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している{{Sfn|池上裕子|2012|pp=184-186}}。しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与られていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという{{Sfn|神田千里|2014|pp=215-216}}。そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという{{Sfn|神田千里|2014|pp=215-216}}。

=== 信仰 ===
[[ファイル:Nobunagabei wall.jpg|200px|thumb|熱田神宮の信長塀([[名古屋市]][[熱田区]])]]
{{See also|#宗教政策}}
前述した『フロイス日本史』の記述(→''[[#人物評]]'')から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている{{Sfn|神田千里|2015|pp=50-54}}。しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている{{Sfn|神田千里|2015|pp=50-54}}。

熱田神宮のいわゆる「[[信長塀]]」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある{{Sfn|谷口克広|2013|pp=124-125}}。この熱田神宮や、[[津島神社]]、[[織田剣神社]]といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=124-125}}。

また、信長は、「[[南無妙法蓮華経]]」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという{{Sfn|神田千里|2015|pp=54-57}}。

このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの{{Sfn|脇田修|1987|pp=135-136}}、迷信による弊害を嫌った{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}。このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}(『信長公記』巻十三)。無辺は[[石馬寺]]の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}。信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}。さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという{{Sfn|脇田修|1987|pp=136-137}}。

=== 武芸 ===
前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、[[馬術]]の訓練を欠かさず、冬以外の季節は[[水泳]]に励んでいたという{{Sfn|池上裕子|2012|pp=4-5}}。さらに、[[平田三位]]などの専門家を師として、[[兵法]]や[[弓術]]、[[砲術]]といった事柄を修めた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=4-5}}。

信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに[[鷹狩]]が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる{{Sfn|脇田修|1987|p=129}}。

天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った{{Sfn|谷口克広|2009|p=214}}。天正7年(1579年)の2~3月には[[太田牛一]]が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。

前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている<ref>太田牛一『信長公記』、巻14。</ref>。

足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった{{Efn|中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった{{Sfn|高橋博|1992|p=25}}。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた{{Sfn|四宮美帆子|2013|p=177}}。}}。

* 天正元年(1572年)冬、陸奥の[[伊達輝宗]]から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした{{Sfn|原田正記|1991|pp=46-47}}。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した{{Sfn|遠藤ゆり子編|2015|p=256}}。
* 天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・[[小早川隆景]]が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた{{Sfn|本多博之|2015|p=69}}。
* 天正8年(1580年)3月9日、[[北条氏政]]は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した{{Sfn|原田正記|1991|p=47}}。
* 天正8年(1560年)6月26日には[[長宗我部元親]]が鷹16羽を信長に献上した<ref>『信長公記』、巻13。</ref>。

このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった{{Sfn|原田正記|1991|pp=47-48}}。

=== 趣味 ===
[[ファイル:Oda_Nobunaga_sumo.jpg|thumb|織田信長公相撲観覧之図 (両国国技館展示)]]
[[ファイル:Oda_Nobunaga_sumo.jpg|thumb|織田信長公相撲観覧之図 (両国国技館展示)]]
信長は[[茶の湯]]に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった{{Sfn|八尾嘉男|2017|pp=283-286}}。この名物狩りは、「[[東山御物]]」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという{{Sfn|八尾嘉男|2017|pp=287-288}}。
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』から散見される。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また[[青地与右衛門]]などのように織田家の家来として採用されることもあったという{{Efn|具体的な例として、天正6年([[1578年]])[[8月15日]]に行われた相撲大会には約1,500人が参加し、信長はその中から優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという。}}。
* [[和歌]]の教養もあり、上京した際に[[連歌|連歌師]]の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させたという(『信長記』)。
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについては、「堺の商人との交渉を有利にするため茶の湯を利用していた」「茶器を家臣への恩賞として利用する目的があった」などといった説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている(『信長公記』より)ことから、もともと信長自身が純粋に茶の湯を楽しんでいたようである。
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた<ref>『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。</ref>。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったとは考え難い。単なる嗜好の問題の可能性もある。


そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」){{Sfn|八尾嘉男|2017|pp=292-295}}。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、[[珠光小茄子]]という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは[[関東管領]]の称号{{Efn|name="taki"}}と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある{{Sfn|八尾嘉男|2017|pp=295-296}}。
=== 鷹と馬 ===
信長の趣味として茶の湯、相撲とともに[[鷹狩]]が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる<ref>脇田修『織田信長』、p.129、 中央公論社、1987年。</ref>。


ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである{{Sfn|八尾嘉男|2017|pp=292-295}}。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った<ref>谷口克広、『信長の天下所司代』、p.214、中央公論新社、2009年。</ref>。天正7年(1579年)の2~3月には[[太田牛一]]が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。


また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる{{Sfn|谷口克広|1998|pp=60-67}}。しかし、上洛以後は、[[相撲]]見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する{{Sfn|池上裕子|2012|p=30}}{{Sfn|谷口克広|1998|pp=60-67}}。
また信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている<ref>太田牛一『信長公記』、巻14。</ref>。


相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ{{Sfn|池上裕子|2012|p=30}}、また[[青地与右衛門]]などのように織田家の家来として採用されることもあったという{{Sfn|下谷内勝利|2011|pp=392-393}}。具体的な例として、天正6年([[1578年]])8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという{{Sfn|下谷内勝利|2011|pp=392-393}}。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった{{Efn|中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった<ref>高橋博「天正十年代の東国情勢をめぐる一考察 : 下野皆川氏を中心に」、p.25、弘前大学國史研究 93、弘前大学國史研究会、1992年。</ref>。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた<ref>四宮美帆子「豊臣政権下の鷹図」、p.177、早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊, 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 表象・メディア論 現代文芸 58、早稲田大学大学院文学研究科、2013年</ref>。}}。


[[幸若舞]]や[[小歌]]を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった{{Sfn|脇田修|1987|pp=134-135}}。その他、天正3年([[1575年]])3月に京都[[相国寺]]で[[今川氏真]]と会見し、氏真に[[蹴鞠]]を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある{{Sfn|脇田修|1987|p=130}}。
* 天正元年(1572年)冬、陸奥の[[伊達輝宗]]から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした{{Sfn|原田||1991|pp=46-47}}。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した{{Sfn|遠藤(編)|2015|p=256}}。
* 天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・[[小早川隆景]]が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた<ref>本多博之、「天下統一とシルバーラッシュ」、p69、吉川弘文館、2015年。</ref>。
* 天正8年(1580年)3月9日、[[北条氏政]]は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した{{Sfn|原田||1991|p=47}}。
* 天正8年(1560年)6月26日には[[長宗我部元親]]が鷹16羽を信長に献上した<ref>信長公記、巻13。</ref>。


=== 風流の精神 ===
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の統一政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった{{Sfn|原田||1991|pp=47-48}}。
信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした{{Sfn|脇田修|1987|pp=126-129}}。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている{{Sfn|脇田修|1987|pp=126-129}}。

例えば、正月に「[[左義長]]」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城や明かりを灯して楽しむといったことをしている{{Sfn|脇田修|1987|pp=126-129}}。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという{{Sfn|金子拓|2017b|pp=112-113}}。

信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた{{Sfn|金子拓|2017b|pp=106-111}}。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという{{Sfn|金子拓|2017b|pp=106-111}}。

=== 異国への関心 ===
[[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]など、西洋の科学技術に関心を持った{{Sfn|谷口克広|2013|pp=127-128}}。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという{{Sfn|高木洋|2011|p=38-40}}。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の[[松井友閑]]の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=127-128}}。

信長は宣教師の[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]に安土城を描いた[[屏風絵]]([[狩野永徳]]作「[[安土城図]]」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の[[1585年]](天正13年)に[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に献上されている{{Sfn|榊原悟|2010|pp=44-45}}。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる{{Sfn|榊原悟|2010|pp=44-45}}。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・[[モザンビーク]])出身の[[黒人]]に興味を示して譲り受け、「[[弥助]]」と名付けて側近にしたことも知られる。

南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある{{Sfn|谷口克広|2013|pp=132-133}}。[[宮上茂隆]]は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという{{Sfn|谷口克広|2013|pp=132-133}}。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では[[唐様]]建築が採用されたといい{{Sfn|岡垣頼和・浅川滋男|2010|p=42}}、また、信長の建てた[[摠見寺]]は中国の山水画の画題・[[瀟湘八景]]のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう{{Sfn|岡垣頼和・浅川滋男|2010|pp=34-35}}。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=132-133}}。

=== 女性観・男色 ===
信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい{{Sfn|勝俣鎮夫|2003|pp=1-3}}。近年では、歴史学者の[[勝俣鎮夫]]が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている{{Sfn|勝俣鎮夫|2003|pp=3-4}}。

なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・[[高台院|ねね]]に対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる<ref>宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号、1999年)</ref><ref>宮本義己「戦国時代の夫婦とは」(『歴史研究』488号、2002年)</ref>{{Efn|なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の[[楠木正虎|楠長諳]]の筆によるものである<ref>桑田忠親「豊臣秀吉の右筆と公文書に関する諸問題」」(『史学雑誌』52巻3・4号、1941年)</ref>}}。

信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある<ref>[{{NDLDC|953320}} 近代デジタルライブラリー「利家夜話三巻」pp.7]</ref>{{Sfn|谷口克広|1998|pp=49-50}}{{Efn|なお、後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』<!---利家夜話の別書名--->には、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている}}。

しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる{{Sfn|谷口克広|1998|pp=49-50}}。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる[[男色]]関係にあった可能性は非常に高い{{Sfn|谷口克広|1998|pp=49-50}}。
<!---足利将軍家に制度として [[昵懇衆]]がいたように、「昵近する公家衆」の存在が信長が公家と親しかったことの証拠になるかは怪しく、出典もないためコメントアウト。
=== 人々との関係 ===
{{複数の問題
|出典の明記=2018年8月29日 (水) 16:43 (UTC)
|section=1
}}
上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深く、特に昵近する公家衆もいた。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって一際仲が良かったようである。
--->


== 肖像 ==
== 肖像 ==
670行目: 739行目:
代表的な作品として、[[狩野永徳]]の弟・[[狩野宗秀|宗秀]]が信長一周忌に描いたとされる、愛知県[[豊田市]]の[[長興寺 (豊田市)|長興寺]]所蔵のもの([[重要文化財]])、同じく一周忌に描かれた[[蒲庵古渓|古渓宗陳]]讃をもつ[[衣冠束帯]]姿の[[神戸市立博物館]]本(重要文化財)<ref>文化庁オンラインに画像と解説あり[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=91490]</ref>、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた[[大徳寺]]の肖像{{refnest|山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ―修理で得られた知見を中心に―」、『[[京都国立博物館]]學叢』所収、2011年<ref group="注釈">なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。</ref>。}}、[[近衛前久]]が信長七回忌に描かせ、追善のため[[六字名号]]を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市[[上京区]]報恩寺所蔵のもの<ref>[[藤本正行]] 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』(洋泉社、2010年)口絵参照、ISBN 978-4-86248-638-7。また、これに忠実な模本が[[東京国立博物館]]に所蔵されている([http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0073506 画像])。</ref>、および兵庫県[[氷上町]]が所蔵する坐像(「[[#第一次信長包囲網]]」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。
代表的な作品として、[[狩野永徳]]の弟・[[狩野宗秀|宗秀]]が信長一周忌に描いたとされる、愛知県[[豊田市]]の[[長興寺 (豊田市)|長興寺]]所蔵のもの([[重要文化財]])、同じく一周忌に描かれた[[蒲庵古渓|古渓宗陳]]讃をもつ[[衣冠束帯]]姿の[[神戸市立博物館]]本(重要文化財)<ref>文化庁オンラインに画像と解説あり[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=91490]</ref>、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた[[大徳寺]]の肖像{{refnest|山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ―修理で得られた知見を中心に―」、『[[京都国立博物館]]學叢』所収、2011年<ref group="注釈">なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。</ref>。}}、[[近衛前久]]が信長七回忌に描かせ、追善のため[[六字名号]]を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市[[上京区]]報恩寺所蔵のもの<ref>[[藤本正行]] 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』(洋泉社、2010年)口絵参照、ISBN 978-4-86248-638-7。また、これに忠実な模本が[[東京国立博物館]]に所蔵されている([http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0073506 画像])。</ref>、および兵庫県[[氷上町]]が所蔵する坐像(「[[#第一次信長包囲網]]」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。


[[天童藩]]織田家の菩提寺であった[[三宝寺 (天童市)|三宝寺]]仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた[[髭]](ひげ)などが特徴である。平成4年(1992年)に作家の[[遠藤周作]]が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介して以来著名となった<ref name="yumura">[http://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/200601h/bookmarker2006.01-12-13.pdf 「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」] - 『中学校 歴史のしおり』2006年1月号([[帝国書院]])</ref>。
[[天童藩]]織田家の菩提寺であった[[三宝寺 (天童市)|三宝寺]]仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた[[髭]](ひげ)などが特徴である。平成4年(1992年)に作家の[[遠藤周作]]が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介して以来著名となった<ref name="yumura">[http://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/200601h/bookmarker2006.01-12-13.pdf 「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」] - 『中学校 歴史のしおり』2006年1月号([[帝国書院]])</ref>。遠藤は同書において、信長の死後に宣教師[[ジョバンニ・ニコラオ]]が描いた絵を、明治になってから複写したもので、[[宮内庁]]、[[織田信恒|織田宗家]]とともに分け持ったものであると解説している<ref name="yumura"/>。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・[[大武丈夫]]によって明治中期に撮影されたものとみられている<ref name="yumura"/>。
遠藤は同書において、信長の死後に宣教師[[ジョバンニ・ニコラオ]]が描いた絵を、明治になってから複写したもので、[[宮内庁]]、[[織田信恒|織田宗家]]とともに分け持ったものであると解説している<ref name="yumura"/>。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・[[大武丈夫]]によって明治中期に撮影されたものとみられている<ref name="yumura"/>。


== 政策 ==
== 政策 ==
{{Rellink|「[[織田政権]]」{{Efn|name="政権の名前"|信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。歴史学者の[[朝尾直弘]]は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。他方で、2000年には[[立花京子]]が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。2010年の[[戦国史研究会]]開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。[[平井上総]]によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない{{Sfn|平井上総|2017|pp=18-19}}。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。}}も参照}}
{{Main|織田政権}}


=== 天下布武 ===
=== 信長の政権構想 ===
[[ファイル:Tenkahubu.svg|150px|thumb|印]]
[[ファイル:Tenkahubu.svg|150px|thumb|印]]
信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=74-75}}。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=74-75}}。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=74-75}}。
{{see also|天下統一}}
信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から'''「天下布武」'''という[[印章]]を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で'''七徳の武'''{{efn|武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。}}という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている<ref>{{Citation|和書|last= |first= |author-link= |editor=矢部健太郎|title=超ビジュアル! 歴史人物伝 織田信長|year=2016|chapter= |publisher=西東社 |page=74|isbn=4791625005}}</ref>。


上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から'''「天下布武」'''という[[印章]]を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で'''七徳の武'''{{efn|武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。}}という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている{{Sfn|矢部健太郎編|2016|p=74}}。
従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され{{Sfn|谷口|p=58}}、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし2010年代の歴史学では、戦国時代の「天下」とは京都を中心とした[[畿内|五畿内]]([[山城国|山城]]、[[大和国|大和]]、[[河内国|河内]]、[[和泉国|和泉]]、[[摂津国|摂津]]の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを意味し<ref>神田千里、「織田信長」、p.108、筑摩書房、2014年。</ref>、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の治世を確立させることであり{{Sfn|金子|2014|p=110}}、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。


従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され{{Sfn|谷口克広|2002|p=58}}、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の<!--- 脇田修や朝尾直弘の頃から言われていたことで、それを神田千里が改めて強調したという流れだそうで「2010年代の歴史学」と言えるかは微妙なようです(金子拓 2014による)。--->歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした[[畿内|五畿内]]([[山城国|山城]]、[[大和国|大和]]、[[河内国|河内]]、[[和泉国|和泉]]、[[摂津国|摂津]]の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている{{Sfn|神田千里|2013b}}{{Sfn|神田千里|2014|p=103-111}}。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり{{Sfn|金子拓|2014|p=110}}、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
=== 宗教政策 ===

{{出典の明記|section=1||date=2017年4月}}
そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である{{Sfn|神田千里|2013a|}}{{Sfn|堀新|2014|pp=29-31}}。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した{{Sfn|神田千里|2013a}}。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている{{Sfn|神田千里|2013a}}。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・[[足利義教]]も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる{{Sfn|神田千里|2013a}}。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである{{Sfn|神田千里|2013a}}。
{{See|安土宗論}}

* 基本的に[[不輸の権 (日本)|不輸]]・[[不入の権 (日本)|不入の権]]などの特権を認めているが、敵対行為をとったり、罪人をかくまったりした寺社に対しては厳しい措置をとった。天正9年([[1581年]])には、和泉国の[[槙尾山]][[施福寺]]が[[検地]]の指出を拒否したため、焼き討ちにした。
幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の[[守護]][[遵行状]]・[[副状]]にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている{{Sfn|堀新|2014|pp=28-31}}{{Sfn|平井上総|2017|pp=19-20}}。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える{{Sfn|堀新|2014|pp=28-31}}{{Sfn|平井上総|2017|pp=19-20}}。
* 宗門は[[日蓮宗|法華宗]]を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に石[[地蔵菩薩|地蔵]]や墓石を用いたこと、[[ルイス・フロイス]]の記載などから[[唯物論]]的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や[[霊魂]]の不滅を信じることはなかったとされる。ただし、信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。

[[ファイル:Nobunagabei wall.jpg|200px|thumb|熱田神宮の信長塀([[名古屋市]][[熱田区]])]]
しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる{{Sfn|柴裕之|2016|pp=13-14}}{{Efn|従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる[[元亀争乱]])においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた{{Sfn|柴裕之|2016|pp=13-14}}。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている{{Sfn|柴裕之|2016|pp=13-14}}。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる{{Sfn|柴裕之|2016|pp=13-14}}。}}。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった{{Sfn|堀新|2014|pp=29-31}}。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった{{Sfn|金子拓|2014|pp=14-29}}。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた{{Sfn|金子拓|2014|pp=14-29}}。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという{{Sfn|金子拓|2014|pp=14-29}}。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった{{Sfn|柴裕之|2017a|pp=105-107}}。
* 桶狭間の合戦の際に途中で[[熱田神宮]]に立ち寄って必勝を祈願し、大勝したので、その御礼として奉納した塀が信長塀として今でも残っている。祈願自体が戦意高揚のための手段との説もあるが、戦勝の礼として塀を寄進しているのは信長自体が宗教を否定せず、少なからず神仏の信仰心がある証拠とも取れる。また荒廃していた[[石清水八幡宮]]の修復に巨費を投じたり、120年間途絶えていた[[伊勢神宮]]の[[式年遷宮]]を復活させるなど、神道復興への功績が大きい。

* 安土城天主内の天井、壁画に[[仏教]]、[[道教]]、[[儒教]]を題材とした[[絵画]]を使用した。
=== 領域支配 ===
* 軍事衝突し勝利した[[浄土真宗]][[本願寺の歴史|本願寺教団]]や[[天台宗]]山門派に対しても、宗教活動自体は禁止しなかった。軍事勢力として世俗権力を振るうことは熾烈な戦いを繰り返してまで阻止しようとしたが、宗教・信教の領域までは認めていたのである。
織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする[[一職支配]]論がある。
* あるキリシタンの家臣(馬廻)が愛人と同居していることを知ると、教えに従っていないことを指摘し、宣教師たちが彼を咎めたことを知ると非常に喜んだ。この家臣が再び愛人と同棲すると、俸禄を没収し追放した。(『フロイス日本史』)

* 元亀4年(1573年)、武田信玄と敵対した際に([[西上作戦]])、民衆は比叡山などを焼いたために[[罰#超自然的な罰|神仏の罰]]がくだったのだと噂したが、信長は「日本においては信長自身が生きた神仏であり、[[偶像|石や木]]は神仏ではない」と言ったという<ref>1573年4月20日付け、ルイス・フロイス書簡 「イエズス会日本報告集 第III期第4巻」所収</ref>。
この点に関連して、天正3年9月の越前[[国掟]]が重要な史料として存在する{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。
* [[総見寺|摠見寺]]、もしくは安土城内に信長に代わる「梵山」と称する大石を安置して[[神体|御神体]]とし、家臣や領民に礼拝するよう言ったと伝えられる(『フロイス日本史』)。

** これら自己神格化については、朝廷([[天照大神]])と仏教勢力への対抗や、後に秀吉や家康が自分を神として祀らせていることとの関連などの学説がある。
九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=117-118}}。まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=117-118}}。そして、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=117-118}}。

このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。しかし、この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。

通説に対し、歴史学者の[[丸島和洋]]は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。そして、明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。

こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。そして、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる{{Sfn|平井上総|2017|pp=22-23}}。

=== 外交 ===
天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった{{Sfn|平井上総|2017|pp=23-24}}。例えば、信長は天正7年に[[島津氏]]・[[大友氏]]に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している{{Sfn|平井上総|2017|pp=23-24}}。

しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった{{Sfn|平井上総|2017|pp=23-24}}。ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる{{Sfn|平井上総|2017|pp=23-24}}。

通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる{{Sfn|平野明夫|2014|pp=67-69}}。ここに、いわゆる「[[清洲同盟]]」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという{{Sfn|平野明夫|2014|pp=67-69}}。しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない{{Sfn|平野明夫|2014|pp=67-69}}。

実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる{{Sfn|平野明夫|2014|pp=67-69}}。両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった{{Sfn|平野明夫|2014|pp=75-82}}。しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、[[書札礼]]でも信長が家康に優越する立場となっている{{Sfn|平野明夫|2014|pp=75-82}}。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている{{Sfn|平野明夫|2014|pp=75-82}}{{Sfn|平井上総|2017|pp=23-24}}。こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという{{Sfn|平野明夫|2014|pp=75-82}}{{Sfn|平井上総|2017|pp=23-24}}{{Sfn|柴裕之|2017a|pp=107-108}}。

なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して[[明]](中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また[[堀杏庵]]の『朝鮮征伐記』では、[[豊臣秀吉]]が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。歴史学者の[[中村栄孝]]は信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り([[文禄・慶長の役]])は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている{{Sfn|中村栄孝|1935|pp=16-17}}。ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる{{Sfn|堀新|2014|pp=55-57}}。


=== 朝廷政策 ===
=== 朝廷政策 ===
上洛を果たした後、信長は、[[御料所]]の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた{{Sfn|谷口克広|2013|pp=102-103}}。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=102-103}}。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった{{Sfn|谷口克広|2013|pp=114-116}}。
信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。[[正親町天皇]]と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、[[1970年代]]より活発な論争が行われてきた。[[1990年代]]以降は、[[今谷明]]が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、[[桐野作人]]・[[立花京子]]らが[[本能寺の変]]「朝廷黒幕説」を提示するなど論争が活発になっている{{Efn|ただし、今谷は「朝廷黒幕説」については全面的に否定しており、桐野も「朝廷黒幕説」をのちに撤回している。}}。[[谷口克広]]は、各説を以下のように分類している{{sfn|谷口2007|pp=138-139}}。
* 対立説…[[秋田裕毅]]、[[朝尾直弘]]、[[池享]]、今谷明、[[奥野高廣]]、立花京子、[[藤木久志]]、[[藤田達生]]
* 融和説…桐野作人、谷口克広、[[橋本政宣]]、[[堀新 (歴史学者)|堀新]]、[[三鬼清一郎]]、[[山本博文]]、[[脇田修]]
以下、論点と双方の説について述べる<ref>谷口克広 『検証本能寺の変』 103-141頁。</ref>。


信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、[[1970年代]]より活発な論争が行われてきた{{Sfn|谷口克広|2013|pp=96-99}}。[[1990年代]]に[[今谷明]]が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』{{Efn|{{Cite book|和書|author=今谷明|year=1992|title=信長と天皇―中世的権威に挑む覇王|publisher=講談社|series=講談社現代新書|isbn=978-4061490963}}のち[[講談社学術文庫]]に再録、2002年 ISBN 978-4061595613。}}を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された{{Sfn|谷口克広|2013|pp=96-99}}。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。
==== 正親町天皇との譲位問題 ====
天正元年([[1573年]])12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受け入れた。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。
* 対立説の解釈では、信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立したとされる。また朝尾は、[[誠仁親王]]への譲位と[[足利義尋]]([[足利義昭]]の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶したとみている。
* 融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の経済的事情により実現しなかったとみている。これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった{{Efn|[[後花園天皇]]までの中世の歴代天皇は譲位して[[太上天皇|上皇]]ないしは[[法皇]]となり、[[治天の君]]として[[院政]]を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として[[関白]]に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。}}。天皇の譲位は、信長の経済的助成によりはじめて可能となる。天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられて、朝廷の内部資料である『[[お湯殿の上の日記]]』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『[[兼見卿記]]』4月1日には一転中止になったと記されている。


[[平井上総]]および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである{{Sfn|谷口克広|2007b|pp=138-139}}{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。
==== 天正9年京都御馬揃え ====
信長が天正9年([[1581年]])に行った[[京都御馬揃え]]について、
* 対立説では、織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であったとされる。朝尾、今谷らは、譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力とみ、立花は左大臣推任への圧力とする。
* 融和説では、正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには[[太閤]]・[[近衛前久]]ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があったとする。橋本は、織田家中の士気の高揚と畿内制覇を天下に誇示するためとし、堀は[[誠仁親王]]の生母である[[万里小路房子]]の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な[[左義長]]を再現したとみる。


{| class="wikitable" style="width:40%"
==== 信長と官職(三職推任問題) ====
|+ 信長と天皇・朝廷の関係
{{main|三職推任問題}}
! 対立・克服説 !! 融和・協調説
|-
|[[奥野高廣]]||[[脇田修]]
|-
| [[朝尾直弘]]||[[橋本政宣]]
|-
| [[藤木久志]]||[[三鬼清一郎]]
|-
|[[秋田裕毅]]||[[池享]]{{Efn|平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。}}
|-
| [[今谷明]]||[[堀新 (歴史学者)|堀新]]
|-
|[[立花京子]]||[[谷口克広]]
|-
|[[藤井譲治]]{{Efn|厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。}}||[[池上裕子]]
|-
|[[藤田達生]]||[[神田千里]]
|-
| ||[[桐野作人]]
|-
| ||[[山本博文]]
|-
| ||[[金子拓]]
|-
|}


信長が天皇を超越しようとしたかどうかについては、宣教師に対する信長の発言がしばしば注目される{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。ルイス・フロイスの書簡によれば、宣教師が天皇への謁見を求めた際、信長は「汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる{{Sfn|藤井譲治|2011|p=153}}。松田毅一が翻訳した『日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、[[松本和也]]はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる<ref>『歴史評論』680号所収、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」</ref>。
信長は尾張時代には上総介を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って官を得た父・信秀とは対照的である。信長は、将軍義昭の追放後、天正2年に参議に任官、のち従二位[[右大臣]]に昇進。しかし天正6年に右大臣兼[[右近衛大将]]を辞した後、[[官職]]に就かず[[散位]]のままであった。


この発言は天正9年京都馬揃えの直前になされた{{Sfn|堀新|2014|pp=61-62}}。このように、信長が自身を天皇・内裏であると述べたことについて、信長が天皇を超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。しかし、この説について平井上総は疑義を呈しており{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}、堀新も信長の皇位簒奪の意図を示すものではなく、融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇と信長の一体化を意味した発言だと述べる{{Sfn|堀新|2014|pp=61-62}}。
天正10年([[1582年]])5月、[[武家伝奏]]・[[勧修寺晴豊]]と京都所司代・[[村井貞勝]]の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が[[征夷大将軍]]・[[太政大臣]]・[[関白]]のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長の本心は不明である。
; 信長の官位奏請
: 信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、[[修理職|修理亮]](柴田勝家)や筑前守(羽柴秀吉)など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子・信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、[[徳川家康]]や[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。


信長と朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる[[三職推任]]問題をはじめ、正親町天皇の譲位問題、[[蘭奢待]]の切り取り、[[京都馬揃え]]、勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈が別れている{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}{{Sfn|谷口克広|2007b|pp=103-141}}{{Sfn|谷口克広|2013|pp=96-116}}。以下、代表的なものに絞って時系列順で見ていく。
==== その他史料で見る両者の関係 ====
*[[正親町天皇]]はある時、信長に対して[[左義長]](火祭り)を共に見物することを誘った。(『[[お湯殿の上の日記]]』)
* 正親町天皇は信長が行った馬揃えを照覧し、「今度のことは筆にも言葉にも尽くしがたく唐の国にもないでしょう」と仰せになり、信長は「忝ない」と御礼を言上した。この時、天皇の皇子・[[誠仁親王]]は、女房衆に紛れ、御忍びで馬揃えを見物した。(『[[立入左京亮入道隆佐記]]』)
* 誠仁親王は信長が死んだ際、自分も(信長の[[殉死|後を追って]])切腹するべきかどうかを、明智(光秀)に質問した。(『[[フロイス日本史]]』)
* 誠仁親王の子、[[後陽成天皇]]は、直筆で総見院(信長の法名)と書いた額を、信長を弔う仏殿に恩賜した。(『[[阿弥陀寺由緒之記録]]』)
* [[内裏]]で長年、[[御蔵職]]を務めた立入家は、その功績を評価しない徳川将軍に対し、「かつて信長公は、我家の天皇家への忠勤を高く評価して下された」と記し、不満を訴えた。(『[[立入家文書]]』)


足利義昭追放後の天正元年([[1573年]])12月、信長は正親町天皇に譲位の申し入れを行い、天皇もこれを了承した{{Sfn|谷口克広|2013|pp=107-110}}。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった{{Sfn|谷口克広|2013|pp=107-110}}。これについて、対立説の解釈では、信長は自身の言いなりとなる誠仁親王を即位させようとし、この動きに正親町天皇が抵抗したことで譲位が遅延したと考える{{Sfn|谷口克広|2013|pp=107-110}}。一方、融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の意向により実現しなかったとみている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=107-110}}。{{Efn|後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。[[後花園天皇]]までの中世の歴代天皇は譲位して[[太上天皇|上皇]]ないしは[[法皇]]となり、[[治天の君]]として[[院政]]を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として[[関白]]に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。}}。
=== 商業政策 ===
* [[楽市楽座]]は信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、[[近江国|近江]]南部の[[戦国大名]]であった[[六角定頼]](信長に滅ぼされた[[六角義賢]]の父)が最初に行った施策である。信長は楽市楽座令を出す一方、座に安堵状も出している。ただし座の安堵状の内容が「これまで通りの権利を認める」というものにとどまっているのに対し、楽市だった美濃・加納を楽市楽座に、安土は新しく楽市楽座にするなど、信長の政策はどちらかといえば「楽」寄りである<ref>「増訂 織田信長文書の研究」</ref>。
* 不必要な[[関所]]を撤廃して流通を活性化させたことで物資や情報の確保をした(当時は寺社も関所を持って税金を取り立てており、これが仏教勢力との対立にもつながっていると思われる)。
* 質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた[[撰銭令]]を発令し、経済の基盤を安定させた。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である<ref>鈴木公雄「銭の考古学」p.136</ref>。
* 日本の中央政権としては初めて金銀に貨幣価値を定め、高額品の取引には金銀を使うことを推奨した<ref>永禄十二年 上京宛て精銭追加条々。「増訂織田信長文書の研究」所収</ref>。その上で信長自身も茶器の購入や家臣への褒美に金銀を多用した。


信長が天正9年([[1581年]])に行った[[京都御馬揃え]]について、対立説では、朝廷への軍事的圧力・示威行動であったと見る{{Sfn|神田裕理|2017|pp=174-175}}。これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する{{Sfn|神田裕理|2017|pp=174-175}}。2017年現在では、朝廷に対する圧力というより、一種の娯楽行事であったとする見解が有力となっている{{Sfn|神田裕理|2017|pp=186-189}}。
=== 人事政策 ===

{{独自研究|section=1|date=2008年5月}}
天正10年([[1582年]])4月25日、[[武家伝奏]]・[[勧修寺晴豊]]と京都所司代・[[村井貞勝]]の間で信長の任官について話し合いが持たれた{{Sfn|谷口克広|2013|pp=104-107}}。この際、信長が[[征夷大将軍]]・[[太政大臣]]・[[関白]]のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された{{Sfn|谷口克広|2013|pp=104-107}}。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある([[三職推任]]問題){{Sfn|谷口克広|2013|pp=104-107}}。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような構想を持っていたか、正確なところは不明である。
* [[足軽]]出身の[[豊臣秀吉|木下藤吉郎(羽柴秀吉)]]、[[浪人|牢人]]になっていた[[明智光秀]]、[[忍者]]出身とされている[[滝川一益]]などを家柄にこだわらず登用したが身分を超えた抜擢ということは行っていない。武士階級出身者とそれ以下(小者、町人、農民等)、または文化人などはほぼ明確に分けて登用、運用している。相撲大会の勝者や強者を登用したのは有名だが、この際も武士出身者は武士として、それ以外は厩番などの武士ではない職に登用している。

* 譜代の重臣である[[佐久間信盛]]や[[林秀貞]]らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する[[柴田勝家]]などと比すと物足りないものがあった。謀反を起こしながらも長年、汚名返上の姿勢が見られない林と、重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間に対し、懲罰的粛清を断行した。佐久間信盛には[[佐久間信盛#信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)|19ヶ条の折檻状]]を出した。それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。佐久間信盛・信栄に関しては、信盛の死後、信忠付きでの信栄の帰参を許した。
=== 宗教政策 ===
* [[前田利家]]の復帰や、北陸戦線で柴田勝家と作戦で仲違いして戦線離脱した羽柴秀吉を許したり、[[松永久秀]]に対しては二度も反乱からの降伏を許しているように失敗を上回る功績を立てれば許したり、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。
{{See also|#信仰}}
* 本能寺の変の際、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。彼は光秀に捕らえられたものの後に放免、以降は消息不明となった。
織田政権は一向一揆と激しく争い{{Sfn|堀新|2014|pp=36}}{{Efn|研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている{{Sfn|堀新|2014|pp=36}}。}}、また、比叡山を焼き討ちした{{Sfn|堀新|2014|pp=40-41}}。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた{{Sfn|松本和也|2017|pp=192-208}}。例えば、仏教史研究者の[[末木文美士]]は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している{{Sfn|末木文美士|1996|pp=236-237}}。
* 天正8年(1580年)、信長は佐久間信盛の追放時に家老の林秀貞を昔の謀反の罪で追放した。これは、24年前の信長家督相続に対する罪を問うたものだが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。これは大きな知行と重い地位だけで役に立たないものは佐久間と同等して追放する決心をしたものらしい。この時は準譜代の[[安藤守就]]とその子・[[安藤定治|定治]](武田家への内通嫌疑)、尾張の国人・[[丹羽氏勝]]が同時追放されている{{Sfn|谷口『信長と消えた家臣たち』|pp=124-128}}。

* 当時流行した[[茶道|茶の湯]]を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった「名器と称される茶道具」を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、[[珠光小茄子]]という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは[[関東管領]]の称号{{Efn|name="taki"}}と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある(従来なら、土地の加増のほうが茶器よりもはるかに価値のあることのはずである)。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた{{Sfn|松本和也|2017|pp=192-208}}。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない{{Sfn|松本和也|2017|pp=192-208}}。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる{{Sfn|堀新|2014|pp=40-41}}。
* 人事においては厳しい一面があったとされるが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・[[高台院|ねね]]に対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っている<ref>宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号、1999年)</ref><ref>宮本義己「戦国時代の夫婦とは」(『歴史研究』488号、2002年)</ref>{{Efn|なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の[[楠木正虎|楠長諳]]の筆によるものである<ref>桑田忠親「豊臣秀吉の右筆と公文書に関する諸問題」」(『史学雑誌』52巻3・4号、1941年)</ref>}}。

* 信頼性の高い史料には「家臣が信長に提言し、信長がそれを受け入れた」という話はほとんどない。逆に「信長が1人で戦場を視察し、布陣や作戦を決めた」という話は『信長公記』に数多く書かれている。信長の家臣の中に[[参謀]]的な人物は史料では見当たらない。
信長の宗教政策上、天正7年の「[[安土宗論]]」が注目されてきた{{Sfn|堀新|2014|pp=40-41}}{{Sfn|神田千里|2015|p=57}}。この安土宗論は、信長の関与のもと、浄土宗と日蓮宗のあいだで宗論が行われたというものである{{Sfn|堀新|2014|pp=40-41}}。日蓮宗は宗論において敗北を認めさせられ、今後、他の宗派に論争を仕掛けないことを強いられた{{Sfn|堀新|2014|pp=40-41}}。一般的には、安土宗論は信長による日蓮宗に対する弾圧だと捉えられてきた。例えば、三鬼清一郎は、日蓮宗が「宗論の敗訴という形で、宗旨そのものに致命的打撃を与えることによって屈服させられた」と表現し、[[天文法華の乱]]のような都市民と日蓮宗の連携の危険を排除したと述べている{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=96-97}}。しかし、安土宗論の実際の目的は、日蓮宗弾圧というよりも、宗論を抑制することで宗教的秩序の維持を企図する点にあったと考えられるという議論もある{{Sfn|堀新|2014|pp=40-41}}{{Sfn|神田千里|2015|p=57}}。
* 信長はよく家臣の裏切りに遭遇しているが、(織田家譜代の臣ではないが)松永久秀、[[別所長治]]、[[荒木村重]]らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者がいる{{Sfn|谷口『信長と消えた家臣たち』|pp=256-259}}。ただし、柴田勝家や松永久秀の裏切りを許容するなど、むしろ寛大という面も存在する上、戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事ということも考慮する必要がある。譜代の家臣であるなしを問わず、自身や我が家を第一として情勢が有利な方につく者がいても当然の時代であり、心情などが原因ではなく、信長包囲網などの情勢を不利とみて状況判断から信長と敵対した(陣営を離反した)などの解釈も十分考えられる。

* [[二条城]]築城のとき、信長は自ら工事現場の監督を担当していた。このとき、人夫が女性にちょっかいを出していたのを見て、有無を言わさずこの人夫の首を刎ねた、と伝わる(『フロイス日本史』)。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた[[絹衣相論]]では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている{{Sfn|堀新|2014|pp=41-43}}。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された{{Sfn|堀新|2014|pp=41-43}}。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである{{Sfn|堀新|2014|pp=41-43}}。
* 信長は[[斎藤道三]]の婿に当たるため、道三の近親の斎藤利治を取り立て、[[佐藤忠能]]の養子として[[加治田城]]主に命じ、領地と家臣団([[加治田衆]])を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある<ref>{{Cite book |和書|last= |first= |author= 富加町史編集委員会|authorlink= |coauthors= |year= 1980|title= 富加町史|volume = 下巻 通史編||publisher= 富加町|location= |page= 227|chapter = 第二代加治田城主斎藤新五|id= |isbn= }}</ref>。正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である[[濃姫]]が[[養母]]となり二代目後継者[[織田信忠]]付き[[側近]](重臣)となる。<ref>富加町史編集委員会 1980, p.229</ref>。

*[[飛騨国]][[姉小路家]]とは、[[姉小路頼綱]]に斎藤道三の娘(濃姫の姉)が正室で嫁いでいる事と、斎藤利治・[[斎藤利堯]]が濃飛国境の[[加治田城]]を領地としている関係で[[同盟国]]であり、飛騨一国を統治する大名として認めている{{Efn|{{要出典範囲|天正3年(1575年)10月に信長は[[妙覚寺]]で茶会を催し、その席上で姉小路頼綱と引見している。また各手紙でも「姉小路殿」との気遣いもある|date=2018年6月}}。}}
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=100-102}}。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている{{Sfn|三鬼清一郎|1985|pp=100-102}}。

なお、同時代の宣教師ルイス・フロイスは、信長が自らを神格化しようとしたと述べている{{Sfn|松下浩|2017|pp=209-212}}。しかし、この自己神格化について、日本側の史料で記述したものは、まったく存在しない{{Sfn|松下浩|2017|pp=209-212}}。そのため、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがある{{Sfn|松下浩|2017|pp=209-212}}。肯定する論者には、例えば、朝尾直弘や今谷明などがいる{{Sfn|松下浩|2017|pp=212-221}}。朝尾は、一向一揆との対決という背景のもと、後の幕藩制国家につながる「将軍権力」の創出過程の一環として、信長の自己神格化を位置づける{{Sfn|松下浩|2017|pp=212-213}}。一方、神格化を否定する立場は、フロイスの記述はあくまでキリスト教側からの偏った観点によるものであり、信ずるに足るものではないとする脇田修や三鬼清一郎らの見解がある{{Sfn|松下浩|2017|pp=221-222}}。

=== 経済・都市政策 ===
いわゆる「[[楽市・楽座]]令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、[[近江国|近江]]南部の[[戦国大名]]であった[[六角氏]]が最初に行った施策である{{Sfn|長澤伸樹|2017|pp=30-31}}。この「楽市・楽座令」については評価が別れている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=232-235}}。かつて[[豊田武]]は、特権的な商工業者の団体である[[座]]を解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた{{Sfn|谷口克広|2013|pp=232-235}}。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、[[脇田修]]らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=232-235}}。

また、不必要な[[関所]]を撤廃して流通を活性化させ、都市の振興と経済の発展を図った{{Sfn|池上裕子|2012|pp=223-224}}。これについては他の戦国大名の行ったことのない革新的な政策であると考えられる{{Sfn|池上裕子|2012|pp=223-224}}。

関所撤廃とあわせて、天正2年(1574年)末から、信長は[[坂井利貞]]ら4人の奉行に道路整備を命じている{{Sfn|池上裕子|2012|pp=224-225}}。この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施された{{Sfn|池上裕子|2012|pp=224-225}}{{Efn|1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章}}。この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となった{{Sfn|池上裕子|2012|pp=224-225}}。

当時全国でばらばらであった[[枡]]の統一規格として、織田領国では[[京枡]]を統一採用したともされる。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった

そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた[[撰銭令]]を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である{{Sfn|鈴木公雄|2002|p=136}}。また、金銀の貨幣価値を定める規定{{Efn|「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。}}は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている{{Sfn|高木久史|2005|pp=24-25}}。ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=250-252}}。

<!----([[瀬田の唐橋]])。--->
さらに信長は石山本願寺と和睦したのち、[[大阪|大坂]]の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという{{Sfn|渡辺武ほか編|1983|p=113}}。


=== 軍事 ===
=== 軍事 ===
信長は、[[柴田勝家]]、[[滝川一益]]、[[羽柴秀吉]] [[明智光秀]]などの有力部将に地域ごとに軍団を率いさせるとともに、自身の直属部隊として馬廻などを組織していた<ref name=”日本大百科全書” />。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している{{Sfn|谷口克広|2002|pp=18-19}}。信長軍は機動力に優れており、[[本圀寺の変]]では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し{{Sfn|谷口克広|2002|p=276}}、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や[[賤ヶ岳の戦い]]などで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘もある{{Sfn|谷口克広|2002|p=281}}。
{{独自研究|section=1|date=2010年11月}}
* 馬廻(直属部隊)を組織していた。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している<ref>谷口克弘『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで』pp.18-19</ref>。
* 500人の長槍隊と500人の鉄砲隊という、武装の統一された直属部隊を組織していた。毛利家にも旗本鉄砲という直属の鉄砲隊がいたが、大名権力の問題で各地の国人などに分散して配備せざるを得なかった。信長のそれはある一ヵ所の戦場に集中して運用できたことに特徴があったといえる<ref>『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力 戦国最強の兵器図鑑』新人物往来社,2010</ref>
* 日本で初めて国産の大砲を鋳造し、船に搭載して使用した([[第二次木津川口の戦い]])。なお、陸上の戦いでも大砲を使用した形跡がある<ref name="Kirino">桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』</ref>。
* 多くの兵士を動員できるようになるにつれ、大量の付け城(砦)を築いて敵を包囲する、という方法を多くとるようになった。
* よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで、甲州征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
* 信長の軍団は機動力に優れており、例えば[[本圀寺の変]]では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し{{Sfn|谷口|p=276}}、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や[[賤ヶ岳の戦い]]などで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘も有る{{Sfn|谷口|p=281}}。
* 織田家の[[軍役]]は明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」<ref>池上裕子「織豊政権と江戸幕府」など</ref>とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」<ref name="Kirino"/>とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである。


また、信長は火器を重視した{{Sfn|桐野作人|2009|p=86}}。[[長篠の戦い]]における三段撃ちは架空のものであるとする見解が有力となっているとはいえ、信長が多数の鉄砲を運用していたことは確かである{{Sfn|桐野作人|2009|pp=101-104}}。特に、諸武将から鉄砲を徴発することで直属の旗本衆の鉄砲部隊を強化しており、一ヵ所の戦場に集中して鉄砲を運用することを可能にした点は信長の鉄砲運夜の特徴である{{Sfn|桐野作人|2009|pp=101-104}}。
=== 内政 ===
* 永禄6年(1563年)7月、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言した。唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を[[小牧山]]に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の[[織田信清]]と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じた(『信長公記』首巻)。
* 織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする[[一職支配]]論がある。
* 足利義昭と共に上洛した際、京の町で「銭一文でも掠奪した者は斬首する(一銭切り)」という厳正な取り締まりを行った。同時に当時荒れていた京の掃除などの整備も行っており、京の民衆はこれを歓迎したという。その後、元亀4年(1573年)の上京焼き討ちの際も同じことを命じている。
* 天正2年(1574年)から大規模な街道整備を行っている{{Efn|
* 天正2年(1574年)末、信長は坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛を御奉行として、諸国に道を作るよう朱印状で命じた。道の広さは三間半に定め、険しい道をならし、石を取り除いた。また、道の左右に松と柳を植え、その土地の人々に水をやり、掃除をするよう命じた。陸だけでなく、川・入り江には[[舟橋]]を作らせた。工事は翌天正3年(1575年)の正月中に完成した。これと以前から行っていた諸関・諸役の免除とが合わさり、旅の障害が無くなったので、人々は牛馬を使い、安心して行き来し、民の生活は安定した。皆「ありがたい事である」と両手を挙げて感謝し、信長が[[東方朔]]・[[西王母]]のように長寿で、[[スダッタ|須達]](しゅだつ)のように裕福になるようにと望んだ。(信長公記・巻8)安土の町から都まで陸路十四里の間に、彼は五、六畳の幅を持った唯一の道路を造らせ、平坦でまっすぐにし、夏には陰を投ずるように両側には樹木を植え、ところどころにホウキを掛け、近隣の村から人々が常に来て道路を清掃するように定めた。また彼は全道のりに渡り、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような観を呈せしめた。一定の間隔を置いて休息できる家があって、旅人はそこで売っている豊富な食料品を飲食して元気を回復した。そして以前その諸国では、少なくとも道連れのない一人旅の場合には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、彼の時代には、人々はことに夏には常に夜間旅をした。彼らはその荷物をかたわらに置き、路傍で眠り込んでも、他の人々が自宅においてそうできたほど安全となった。彼は道中のこの秩序と設備をその統治下の多数の諸国において実施させた。(フロイス日本史)
* (安土と京都の間にある比叡山の山岳を)全て手で切り通させ、以前には人々が苦労をし、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく険しい道をまったく平らにし、なんらの障害がないようにした。かくてそれは快適な道路、広大な通路となり、[[牛車]]も婦人の[[駕籠]]もなんらの困難なしに通行している。
* 近江の湖が狭くなり、激流と急流を伴う瀬田というところに、四、五千クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋を架けさせた(=[[瀬田の唐橋]])。それは四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、形は極めて完全であった。彼はそのほとんど中央の片側に一軒の非常に快適な休憩所を自分のために作り、そこを通行するとき休息できるようにした。(信長の)この好意と民衆の賛意のため、一般の人々はますます彼に心を惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。(同上)
* 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章}}。単に広く平らでまっすぐな道というだけでなく、一定間隔で飲食店が存在し、また工事範囲は織田家の領国全てと同盟者の徳川家康の領国にまで及ぶという画期的なものだった(征服した諸国にも順次敷設された)。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、また街道における治安が向上し人の往来が容易となり、結果として商業が活性化する、などといった効果をあげた。民衆には大好評だったらしい。反面、敵の行軍速度も速くなるという短所があったので、他国では限定的にしか為されていなかった(武田家の[[棒道]]など)。
* 当時全国でばらばらであった[[枡]]の統一規格として、織田領国では[[京枡]]を統一採用した。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった。また、地方地方でその地域の枡を認可していた商人や「座」(主に大商人の集団や寺社)の権益を奪い、弱体化させることに成功した。


[[大砲]]もすでに[[元亀]]年間から使用していた形跡があり、[[第二次木津川口の戦い]]などで船に搭載した他、[[神吉城]]攻め以降は攻城戦においても本格的に運用していた{{Sfn|桐野作人|2009|pp=104-106}}。いわゆる[[鉄甲船]]を作ったとも言われるが、根拠となる史料が『[[多聞院日記]]』天正六年七月八日条のみなので、その実在性については賛否両論がある{{Sfn|谷口克広|2013|pp=215-216}}。
=== 実現されなかった計画・構想 ===

信長が構想していた計画・予定が、関連諸史料や豊臣秀吉の行跡から読み取る事ができる。
なお、織田家では、明文化された[[軍役]]規定は、明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」{{Efn|池上裕子{{Sfn|池上裕子|2012|pp=264-265}}など。}}とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」<ref name="Kirino">桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』{{要ページ番号|date=2018年9月}}</ref>とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである。
; 幻の上洛計画
: 平成26年(2014年)、永禄11年(1568年)9月以前にも足利義昭を奉じて上洛する計画があった書状が見つかった<ref>{{Cite web|url=http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20141004-OYS1T50024.html|title=信長早くから野望 「幻の上洛計画」書状発見|publisher=読売新聞|accessdate=2014-10-4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150508211949/http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20141004-OYS1T50024.html|archivedate=2015年5月8日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
; 中国・九州平定計画
: 天正10年(1582年)5月17日に羽柴秀吉の援軍要請に応じて明智光秀や池田恒興、高山重友、中川清秀ら畿内の諸大名に動員令を出し、中国の[[毛利氏]]、九州の大名も屈服させる予定でいた(『信長公記』巻15)。
; 四国平定計画
: 三男の信孝を三好康長の養子にして四国に渡海させようとしていた([[顕如]]の右筆・宇野主水の日記)。5月7日付の信長の朱印状には、長宗我部元親討伐後に[[讃岐国]]を信孝に、[[阿波国]]を三好康長に与えようとしていた。[[伊予国]]・[[土佐国]]に関しては、信長は四国平定後に戦後処理として淡路まで赴き、その際に残り2カ国の仕置も決める予定であった<ref>「其儀、淡州([[淡路国]])に至れり時に申し出すべき事」(信長公記)</ref>。
; 安土行幸計画
: 天正10年(1582年)元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の御幸の間を見せている(『信長公記』巻15)。1月7日、[[勧修寺晴豊]]は、行幸のための鞍が完成したのでそれを[[正親町天皇]]に見せている(『晴豊公記』)。このため、天正10年かそれ以降に、天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。
; 大坂築城
: 信長は石山本願寺と和睦したのち、[[大阪|大坂]]の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという<ref>{{Citation |和書| last =| first =|author-link=|editor=渡辺武ほか|year=1983|title =大阪城ガイド|publisher =保育社|ISBN=4586506180|page=113}}</ref>。
; 大陸侵攻計画
: 『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して[[明]](中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また[[堀杏庵]]の『朝鮮征伐記』では、[[豊臣秀吉]]が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。[[中村栄孝]]は信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り([[文禄・慶長の役]])は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている<ref>{{Citation |和書| last =中村| first =栄孝 |author-link=中村栄孝|editor=国史研究会 |year=1935|volume=第6|chapter=文禄・慶長の役|title =岩波講座日本歴史|publisher =岩波書店|url={{NDLDC|1920813/77}} 国立国会図書館デジタルコレクション|pages=16-17}}</ref>。
; その他
: 信長は本能寺の変のほぼ1ヶ月前に[[征夷大将軍]]・[[太政大臣]]・[[関白]]の三職推任を受けている([[三職推任問題]])が、フロイスは「予(信長)がいる処では、汝等([[イエズス会]]宣教師ら)は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が(天)皇{{Efn|松田毅一が翻訳した「日本巡察記」(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、[[松本和也]]はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる<ref>『歴史評論』680号所収、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」</ref>。}}であり、内裏である<ref>1584年12月13日付け、ルイス・フロイス書簡。「フロイス日本史 五畿内編III」53章 脚注より</ref>」と発言したと記述している。


== 後世の評価 ==
== 後世の評価 ==
=== 「凶逆の人」から勤王家へ ===
江戸時代初期では次のような記録が残る。
江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『[[絵本太功記]]』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=251-254}}。儒学者の[[小瀬甫庵]]、[[新井白石]]、 [[太田錦城]]らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=251-254}}。例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった{{Sfn|新井白石|1936|pp=294-295}}。そして、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた{{Sfn|新井白石|1936|pp=294-295}}。民衆のあいだでも信長は不人気であり、[[歌舞伎]]や[[浄瑠璃]]などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=251-254}}。
* 「信長は勝って兜の緒を締める方で、余勢で一気に押さない方だった」「信長の因果は即座に現れ、岩村の城衆や甲州の高僧を焼殺したすぐ後に、自らも焼殺された」([[大久保忠教]]『[[三河物語]]』)
* 「信長は(光秀に)城を与えたら首を切られた」「与えれば破られる(裏切られる)ことを信長は知らなかった」([[竹中重門]]『[[豊鏡]]』)
* 「信長卿は非常に義理堅い人だった」([[神戸良政]]<ref name="seishu">『[[勢州軍記]]』</ref>)
* 「偉人信長の死は、彼の勇気、寛容、それに気がまえの気高さなどで、等しく全ての人々に惜しまれた」([[ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン]]『[[日本王国記]]』第4章)
* 初代[[加賀藩]]主・[[前田利長]]は[[泉野菅原神社]]を造営し、ひそかに信長を神として祀っており<ref>「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」北国新聞HP {{cite web |url=http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120313104.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2012年3月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120315220101/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120313104.htm |archivedate=2012年3月15日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>、[[熊本藩]]の[[細川忠興]](三斎)なども信長の菩提を弔うため、その法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんで[[泰巌寺]]を建立した<ref>「織田信長菩提所の泰巌寺廃寺跡(市指定)」八代市公式HP[http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=20707]</ref>。
しかし一般的には[[小瀬甫庵]]の『[[信長記]]』での酷評に代表されるように{{refnest|group="注釈"|ただし大久保忠教は「信長記は嘘が多い」と断じている<ref>『三河物語』</ref>。}}、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『[[絵本太功記]]』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。


このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、[[頼山陽]]である{{Sfn|谷口克広|2007a|pp=251-254}}。江戸時代後期の[[尊王攘夷|尊王運動]]に多大な影響力を有したことで知られる<ref>{{Cite web |author=[[石毛忠]] |date= |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%96%E5%8F%B2-110097 |title= 日本外史 |work= [[日本大百科全書]]|publisher=小学館・コトバンク |accessdate=2018-10-13 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』は、信長を「超世の才」として高く評価した{{Sfn|頼山陽|1938|pp=697-699}}。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する{{Sfn|頼山陽|1938|pp=697-699}}。そして、中国[[後周]]の名君・[[柴栄|世宗]]の偉業が[[趙匡胤]]の[[北宋]]樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる{{Sfn|頼山陽|1938|pp=697-699}}
そして江戸時代中期以降になると、批判の論調がより強まっていく。
* 「そのことは残忍なりと雖も、長く僧侶の凶悪を除けり。これもまた、天下の功有事の一つと成すべし」「すべてこの人(信長)、天性残忍にして、詐力をもって志を得られき。されば、その終りを 善くせられざりしこと、自ら取れる所なり。不幸にあらず。」([[新井白石]]『[[読史余論]]』)
* 「信長は猜忌、(源)頼朝とり勝れり、その残暴は、頼朝の為さざるところなり。局量の狭小なるは、遥かに諸将に劣れり。」([[太田錦城]]『[[梧窓漫筆]]』)
* 「(直接の部下であった豊臣秀吉の言葉という形式で)信長公は勇将なり。良将にあらず。剛の柔に克つことを知り給いて、柔の剛を制することを知られず。一度敵せる者は、その憤怒ついに解けずして、ことごとくその根を断ち、その葉を枯さんとせらる。故に降を誅し、服を戮せられ、寇讐絶することなし。これ量狭く器小なるが故なり。人のために憚らるれども、衆のために愛せられず。」(『[[名将言行録]]』)などと評し、狭量さにより人望を得られなかったとしている。
* また批判とは別にその人柄を表すとして ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥([[ホトトギス]])」'' という歌もある。これは江戸時代後期の平戸藩主・[[松浦清|松浦静山]]著の『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である<ref>[[q:時鳥#川柳]]</ref>。ちなみにこの歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判したものだった。


{{Quotation|夫れ[[応仁の乱|応仁]]以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府{{Efn|信長のこと。}}に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや。|頼山陽『日本外史』{{Sfn|頼山陽|1938|pp=697-699}}}}
[[明治]]になり[[勤皇]]思想が強まると、信長は御料所回復等を行っていたために勤皇家として評価され、明治2年([[1869年]])に[[明治政府]]が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年([[1870年]])、[[天童藩]](現在の[[山形県]][[天童市]])知事の[[織田信敏]]が東京の自邸内と、藩内にある[[舞鶴山]]に信長を祀る社を建立した。信長には[[明治天皇]]から'''建勲'''の[[神号]]が、社には[[神祇官]]から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年([[1880年]])には東京の[[建勲神社]]は、京都[[船岡山]]の山頂に移っている。[[大正]]6年([[1917年]])には正一位を追贈された{{Efn|正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている}}。


幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した{{Sfn|谷口克広|2013|pp=96-97}}。明治2年([[1869年]])になると、[[明治政府]]が織田信長を祀る神社の建立を指示した{{Sfn|白井英二編|1979|p=211}}。明治3年([[1870年]])、信長の次男・信雄の末裔である[[天童藩]](現在の[[山形県]][[天童市]])知事の[[織田信敏]]が、東京の自邸内と藩内にある[[舞鶴山]]に信長を祀る社を建立した{{Sfn|白井英二編|1979|p=211}}。信長には[[明治天皇]]から'''建勲'''の[[神号]]が、社には[[神祇官]]から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された{{Sfn|白井英二編|1979|p=211}}。その後、明治年間<!--- 白井英二編1979によれば、山頂に移ったのは明治43年、13年時点では船岡山だが山頂ではない --->には東京の[[建勲神社]]は、京都[[船岡山]]の山頂に移っている{{Sfn|白井英二編|1979|p=211}}。[[大正]]6年([[1917年]])には正一位を追贈された{{Efn|正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている}}。<!--- 関連文献:藤井貞文「明治維新と織田信長」『国学院雑誌』四九ー一一(四三) --->
[[第二次世界大戦]]の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。また『[[フロイス日本史]]』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に'''[[天魔|第六天魔王]]'''と記した」{{refnest|name="dairoku"}}という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘されている。信長は、宗教団体の政治介入を許さない日本の風土を作ったと言える。


こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた{{Sfn|平井上総|2017|p=20}}。
後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下{{Efn|家康とは当初は対等の同盟関係であったが、甲州征伐の後、家康は信長から賜る形で駿河国を与えられている。詳しくは[[清洲同盟]]の項目を参照。}}であったことからその影響は計り知れず、日本史上、極めて重要な人物である。また秀吉も家康も、後継者にそれぞれ織田氏の血を引く者を当てている。

=== 革新者か否か===
[[第二次世界大戦]]の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。歴史小説においては、すでに戦中の1944年に[[坂口安吾]]が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した<ref name="末國善己">{{Cite web |author=[[末國善己]] |date=2015-7-22 |url=https://books.bunshun.jp/articles/-/2946 |title=「冷酷」で「能力主義」な信長はいかにして生まれたのか? |work=文藝春秋books |publisher=[[文藝春秋]] |page=1 |accessdate=2018-09-23 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された[[司馬遼太郎]]『[[国盗り物語]]』、バブル期の[[津本陽]]『[[下天は夢か]]』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった<ref name="末國善己" />。

学術的には、1963年刊行の『[[岩波講座日本歴史]]』において、[[今井林太郎]]が信長を次のように評価している。信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」{{Sfn|今井林太郎|1985|pp=12-13}}人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」{{Sfn|今井林太郎|1985|pp=49-50}}と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。この頃には信長が[[天皇制]]を打倒しようとしていたという説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる{{Sfn|谷口克広|2013|p=97}}。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」{{Sfn|奥野高廣|岩沢愿彦|1969|p=476}}と評価されてきた。

新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った[[太閤検地]]こそが近世への転換点だという学説も有力であった{{Sfn|堀新|2014|p=27}}。[[朝尾直弘]]と[[脇田修]]は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である{{Sfn|金子|2014|p=23}}。朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者{{Efn|{{Cite book ja-jp |author=[[脇田修]]|year=1987|title=織田信長 中世最後の覇者|series=中公新書|publisher=中央公論社 |isbn=9784121008435}}。}}であると捉えていた{{Sfn|金子|2014|p=23}}。

その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている{{Sfn|立石了|2018|p=110}}{{Sfn|平井上総|2017|p-=18-25}}。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され{{Sfn|平井上総|2017|pp=19-20}}、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった{{Sfn|平井上総|2017|pp=20-22}}。「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった{{Sfn|長澤伸樹|2017|pp=11-13}}。また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある{{Sfn|神田千里|2015|pp=50-54}}。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている{{Sfn|平井上総|2017|p-=18-25}}{{Sfn|立石了|2018|p=110}}。


== 系譜 ==
== 系譜 ==
{{main|織田氏}}
{{main|織田氏}}
織田氏の発祥の地は[[越前国]][[織田荘]]であり、その荘官の立場にあったという{{Sfn|山崎布美|2016|pp=36-38}}。織田氏と思われる人物の史料上の初見は、[[劔神社]]に残された明徳4年(1393年)六月十七日付[[藤原信昌]]・[[藤原将広|兵庫助将広]]置文であるとされる{{Sfn|山崎布美|2016|pp=36-38}}。応永8年(1401年)には、織田名字を使用する「[[織田浄祐|織田与三]]」なる人物が初めて現れ、彼は管領[[斯波氏]]の家臣として重要な役割を果たしていた{{Sfn|山崎布美|2016|pp=38-39}}。その翌年には[[織田常松]]が尾張守護代に任じられている{{Sfn|山崎布美|2016|pp=38-39}}。
「織田は越前に在り。平氏の子孫、織田明神の神主となる」と江戸時代初期の史料には記されている<ref name="seishu"/>。これによると[[織田氏]]は[[平氏]]で、元来神社の宮司をしていたことが窺われ、[[福井県]]丹生郡[[越前町]]織田にある[[劔神社]]の関係から古代豪族の[[忌部氏]]とも考えられる。


尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた{{Sfn|池上裕子|2012|pp=6-9}}。そして、後者の大和守家の分家で、[[清洲三奉行]]家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である{{Sfn|池上裕子|2012|pp=6-9}}。
また[[織田氏]]は[[藤原氏]]も自称し、[[越前国|越前]]に地盤を築いた後、[[守護大名]][[斯波氏]]に従って尾張に派生した。[[朝倉氏]]とは当初からのライバル関係。祖父・信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。

信長の子孫としては、信忠の子である三法師([[織田秀信]])が、形式上、織田家の家督を継いだ{{Sfn|池上裕子|2012|p=282}}。秀信は豊臣政権下で岐阜で13万石程度の領地を持ったが、関ヶ原合戦の結果、所領を没収されてしまう{{Sfn|池上裕子|2012|p=282}}。秀信は数年後に病を得て世を去り、ここに嫡流は絶えることとなる{{Sfn|池上裕子|2012|p=282}}。

一方、次男の織田信雄は豊臣政権下で所領を失ったものの、[[大阪の陣]]後、大和宇陀郡などに五万石を与えられた{{Sfn|池上裕子|2012|p=282}}。信雄の子孫が、柏原藩、高畠藩、天童藩といった小規模な藩の藩主となり、江戸時代を通じて大名として続いている{{Sfn|池上裕子|2012|p=282}}。


=== 先祖 ===
=== 先祖 ===
819行目: 901行目:


=== 兄弟 ===
=== 兄弟 ===
兄弟のうち、秀俊(信時)および秀孝の出生順については議論がある。江戸時代の諸系図類では秀俊は、信秀の六男となっており、信長の弟とされる{{Sfn|谷口克広|2003|p=5}}。しかし、谷口克広によれば、『信長公記』の記述に基づく限り、秀俊は信秀の次男、すなわち信長の兄である{{Sfn|谷口克広|2003|p=5}}。同様に諸系図類では秀孝を信包の弟であるとするが、秀孝は信包の兄であるとも考えられる{{Sfn|谷口克広|2003|p=6}}。

{{col-begin}}
{{col-begin}}
{{col-3}}
{{col-3}}
* [[織田信広|織田信廣]](庶長兄)
* [[織田信広]](庶長兄)
* [[織田信行]]
* [[織田信行|織田信勝]](信行)
* [[織田信包]]
* [[織田信包]]
* [[織田信治]]
* [[織田信治]]
{{col-3}}
{{col-3}}
* [[織田信時]]
* [[織田信時|織田秀俊]](信時)
* [[織田信興]]
* [[織田信興]]
* [[織田秀孝]]
* [[織田秀孝]]
863行目: 947行目:
{{col-begin}}
{{col-begin}}
{{col-2}}
{{col-2}}
:* [[生駒吉乃|生駒氏]]{{sfn|岡田|1999|p=162}}([[生駒家宗]]の娘、織田信忠・信雄・徳姫の生母)
:* [[生駒吉乃|生駒氏]]{{sfn|岡田正人|1999|p=162}}([[生駒家宗]]の娘、織田信忠・信雄・徳姫の生母)
:* [[坂氏 (人物)|坂氏]](織田信孝の生母)
:* [[坂氏 (人物)|坂氏]](織田信孝の生母)
:* [[興雲院|於鍋の方]](高畑源十郎の娘、織田信吉・信高・於振の生母)
:* [[興雲院|於鍋の方]](高畑源十郎の娘、織田信吉・信高・於振の生母)
874行目: 958行目:
* [[あここの方]]([[三条西実枝]]の娘)
* [[あここの方]]([[三条西実枝]]の娘)
* [[原田直子|原田氏(直子)]]([[原田直政]]の妹、織田信正の生母)
* [[原田直子|原田氏(直子)]]([[原田直政]]の妹、織田信正の生母)
* 明智光秀の妹{{Sfn|勝俣鎮夫|2003|pp=3-4}}
{{col-end}}
{{col-end}}


894行目: 979行目:
{{col-end}}
{{col-end}}


=== 娘・養女 ===
=== 娘 ===
信長の娘については、事跡の詳細が不明な者がほとんどである{{Sfn|渡辺江美子|2016|p=309}}。その上、『[[寛永諸家系図伝]]』では娘が6人となっているのに対して、より後年の『[[寛政重修諸家譜]]』では12人となっていたりと、系図によって娘の人数も一定しない{{Sfn|渡辺江美子|2016|p=314}}。渡辺江美子によれば、『寛永諸家系図伝』はおおよそ正しく長幼の順に娘を挙げているものの、法華寺本・坪内本の『織田系図』にある通り、長女は松平信康室ではなく蒲生氏郷室を長女とするのが正しいと推定される{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=316-317}}{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=328-329}}。また、『寛永諸家系図伝』に載らない娘について、水野忠胤室は夫の不祥事のために意図的に省かれたと思われ、万里小路充房室・徳大寺実久室の2人は、公家と婚姻したためか織田信孝扶養であったためかのいずれかの理由で見落とされたと考えられる{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=328-329}}。
{{columns-list|2|
{{columns-list|1|
* [[徳姫|徳姫(五徳)]](見星院)(長女、[[松平信康]]室)
* [[相応院 (蒲生氏郷正室)|相応院]](二女、[[蒲生氏郷]]室
* [[相応院 (蒲生氏郷正室)|相応院]] - 長{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=316-317}}{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=328-329}}、[[蒲生氏郷]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=316-317}}。
* [[徳姫|徳姫(五徳)]](見星院) - 二女{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=328-329}}、[[松平信康]]室){{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=317-318}}。
* 秀子、または藤、のちに上野御方(日栄)(三女、[[筒井定次]]室)<ref>渡辺江美子「織田信長の息女について」(『国学院雑誌』89巻11号、1988年)</ref>
* 秀子、または藤、のちに上野御方(日栄) - [[筒井定次]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=317-319}}。[[鶴姫 (中川秀政正室)|鶴姫(鷺の方)]]([[中川秀政]]室)と同一人物であるとも考えられる{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=317-319}}{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=326-327}}。
* [[永姫]](玉泉院)(四女、[[前田利長]]室)
* [[永姫|玉泉院]] – [[前田利長]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=319-320}}。名前や母は明らかでない{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=319-320}}。
* [[報恩院 (人物)|報恩院]](五女、[[丹羽長重]]室)
* [[報恩院 (人物)|報恩院]] - [[丹羽長重]]室 {{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=320-322}}。
* [[於振]](六女、[[水野忠胤]]室・[[佐治一成]]継室)
* [[於振|振]] - [[水野忠胤]]室、[[佐治一成]]継室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=324-325}}。母は[[興雲院|小倉鍋]] {{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=324-325}}。
* [[源光院 (人物)|源光院]](七女、[[万里小路充房]]室)
* [[源光院 (人物)|某]] – [[万里小路充房]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=324-325}}。
* [[月明院]](八女、[[徳大寺実久]]室)
* [[三の丸殿]] - [[豊臣秀吉]]側室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=320-322}}。信忠生母を母とすると言われるが、もとは赤松氏の娘である信長養女の[[二条昭実]]室と法名が一致しており、詳細は不明な点が多い{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=320-322}}。
* [[三の丸殿]](九女、[[豊臣秀吉]]側室・[[二条昭実]]後室)
* [[月明院]] - [[徳大寺実久]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|p=327}}。信長の末娘であると考えられる{{Sfn|渡辺江美子|2016|p=327}}。
* [[鶴姫 (中川秀政正室)|鶴姫(鷺の方)]](十女、[[中川秀政]]室)
* [[慈眼院 (織田信長の娘)|慈眼院]](十一女また養女、[[北条氏直]]婚約者)
* [[足利夫人 (織田信長の娘)|足利夫人]] - 足利義昭側室{{Efn|name="hh"|詳細不明。娘でないともされる。}}
}}
* さこの方(養女、一説に[[赤松広秀]]の娘、[[二条昭実]]側室)

* [[細川ガラシャ|細川玉子]] (秀林院)(養女、[[明智光秀]]の娘、[[細川忠興]]正室)
=== 養女 ===
* [[桂峯院]](養女、[[織田信広]]の娘、[[丹羽長秀]]室)
{{columns-list|1|
* [[斎藤夫人 (畠山昭高正室)|某]](養女、[[斎藤道三]]の娘、[[畠山昭高]]正室)
* 某 – [[赤松氏]]の娘、[[二条昭実]]側室で、妙心寺に韶陽院を開く{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=322-323}}。法名を同じくする信長の実の娘、[[三の丸殿]]との関係は不詳である{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=320-322}}。
* [[龍勝院]](養女、[[遠山直廉]]の娘、[[武田勝頼]]室)
* [[桂峯院]] – [[織田信広]]の娘で、信長の養女になったともされる{{Sfn|渡辺江美子|2016|p=320}}。[[丹羽長秀]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|p=320}}。
* [[足利夫人 (織田信長の娘)|足利夫人]](養女か、足利義昭側室){{Efn|name="hh"|詳細不明。娘ではないともされる。}}
* [[斎藤夫人 (畠山昭高正室)|某]] - [[斎藤道三]]の娘、[[畠山昭高]]正室。
* [[龍勝院|龍勝寺殿]] – [[遠山直廉]]の娘で、信長の姪{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=327-328}}。[[武田勝頼]]室{{Sfn|渡辺江美子|2016|pp=327-328}}。
}}
}}


935行目: 1,022行目:
**[[織田信昌 (戦国武将)|織田信昌]]
**[[織田信昌 (戦国武将)|織田信昌]]
{{col-4}}
{{col-4}}
;織田信
;織田信
*[[津田信澄]]
*[[津田信澄]]
*[[織田信兼]]
*[[織田信兼]]
949行目: 1,036行目:
*[[織田信弌]]
*[[織田信弌]]
{{col-end}}
{{col-end}}

== 家臣 ==
* 重臣 :[[柴田勝家]]、[[佐久間信盛]]、[[森可成]]、[[坂井政尚]]、[[丹羽長秀]]、[[明智光秀]]、[[豊臣秀吉|木下秀吉]]、[[滝川一益]]、[[林秀貞]]、[[池田恒興]]、[[荒木村重]]、[[武藤舜秀]]、[[佐久間盛重]]、[[平手政秀]]
* [[京都所司代]] :[[村井貞勝]]
* 京都奉行 :村井貞勝、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉、[[松井友閑]]、[[島田秀満]]
* [[右筆]] :[[武井夕庵]]、[[楠木正虎]]
* 側近衆 :[[菅屋長頼]]、[[矢部家定]]、[[堀秀政]]、[[長谷川秀一]]、[[大津長昌]]、[[万見重元]]、[[長谷川宗仁]]、[[下石頼重]]、[[祝重正]]、[[平古種吉]]、[[竹中重矩]]
* [[小姓|小姓衆]] :[[森成利|森成利(乱丸)]]、[[森長隆|森坊丸]]、[[森長氏|森力丸]]、[[高橋虎松]]、[[小倉松寿]]
* [[黒母衣衆]] :[[佐々成政]]、[[毛利良勝]]、[[河尻秀隆]]、[[生駒勝助]]、[[水野帯刀左衛門尉]]、[[津田盛月]]、[[蜂屋頼隆]]、[[中川重政]]、[[松岡九郎二郎]]、[[平井久右衛門]]、[[伊東武兵衛]]
* [[赤母衣衆]] :[[前田利家]]、[[飯尾尚清]]、[[福富秀勝]]、[[塙直政]]、[[黒田次右衛門尉]]、[[毛利秀頼]]、[[野々村正成]]、[[猪子一時]]、[[浅井政貞]]、[[木下雅楽助]]、[[伊東長久]]、[[岩室重休]]、[[山口飛騨守]]、[[佐脇良之]]、[[金森長近]]、[[長谷川橋助]]、[[加藤弥三郎]]

他に有力重臣として[[九鬼嘉隆]]、[[細川幽斎|細川藤孝]]、[[佐久間盛政]]、[[池田勝正]]、[[松永久秀]]、[[筒井順慶]]、[[三好康長]]、[[織田信張]]、[[森長可]]、[[毛利秀頼]]、[[簗田広正]]、[[西美濃三人衆]]、[[不破光治]]、[[竹中重治]]などもいる。
<!--単に家臣の名前を列挙するだけではキリがないので、時代や史料を特定しながら挙げていくべきでしょう-->

重臣のうち、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀の四人を四天王、さらに羽柴秀吉を加えて五大将と呼ぶことがあるが、後世の呼称である。ちなみに清州会議では、すでに亡くなっていた明智光秀を除く四人で話し合う予定であったが、滝川一益がなかなか来なかったために、信長の乳母子である[[池田恒興]]を加えた四人となった。


== 墓所・霊廟・寺社 ==
== 墓所・霊廟・寺社 ==
972行目: 1,044行目:
</gallery>
</gallery>
* 「信長公廟」:[[京都市]][[中京区]]の[[本能寺]]{{Efn|本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。}}にある石造[[宝篋印塔]]と[[入母屋造]]の廟屋。
* 「信長公廟」:[[京都市]][[中京区]]の[[本能寺]]{{Efn|本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。}}にある石造[[宝篋印塔]]と[[入母屋造]]の廟屋。
* 「織田信長公本廟」:京都市[[上京区]]寺町の[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|蓮台山阿弥陀寺]]にある石碑。当時の住職・清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められており、信憑性が高い。信長の命日に当る毎年6月2日のみ公開されている。
* 「織田信長公本廟」:京都市[[上京区]]寺町の[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|蓮台山阿弥陀寺]]にある石碑。当時の住職・清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められたと。信長の命日に当る毎年6月2日のみ公開されている。
* 「織田信長墓所」:[[高野山]]奥の院の[[五輪塔]]。明治以後忘れ去られていたが、昭和45年([[1970年]])に再発見。
* 「織田信長墓所」:[[高野山]]奥の院の[[五輪塔]]。明治以後忘れ去られていたが、昭和45年([[1970年]])に再発見。
* 京都市[[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]塔頭の[[総見院 (京都市)|総見院]]の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」による。特別公開時期以外は非公開<ref name="asahi"/>。
* 京都市[[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]塔頭の[[総見院 (京都市)|総見院]]の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」による。特別公開時期以外は非公開<ref name="asahi"/>。
981行目: 1,053行目:
* 「織田信長供養塔」:[[愛知県]][[清須市]]の興聖山[[総見院 (清須市)|総見院]]。清洲越しで名古屋に移った34年後、[[総見寺 (名古屋市)|総見寺]]跡に再建立された寺院。
* 「織田信長供養塔」:[[愛知県]][[清須市]]の興聖山[[総見院 (清須市)|総見院]]。清洲越しで名古屋に移った34年後、[[総見寺 (名古屋市)|総見寺]]跡に再建立された寺院。
* 「織田信長信忠公供養塔」:[[大阪府]][[堺市]]の南宗寺本源院
* 「織田信長信忠公供養塔」:[[大阪府]][[堺市]]の南宗寺本源院
* 初代[[加賀藩]]主・[[前田利長]]は[[泉野菅原神社]]を造営し、ひそかに信長を神として祀っており<ref>「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」北国新聞HP {{cite web |url=http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120313104.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2012年3月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120315220101/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120313104.htm |archivedate=2012年3月15日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>、[[熊本藩]]の[[細川忠興]](三斎)なども信長の菩提を弔うため、その法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんで[[泰巌寺]]を建立した<ref>{{Cite web |author=[[八代市]]文化まちづくり課|date= |url=http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=20707 |title=織田信長菩提所の泰巌寺廃寺跡(市指定) |publisher=八代市 |accessdate=0000-00-00 |deadlinkdate=2018-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140224013551/http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=20707 |archivedate=2014-02-24}}</ref>。
* 明治時代には、信長を主宰神とする[[建勲神社]]が東京と天童に創建された。{{Main|建勲神社}}
* 明治時代には、信長を主宰神とする[[建勲神社]]が東京と天童に創建された。{{Main|建勲神社}}
* 「[[劔神社|越前二の宮 剣神社]]」:[[福井県]][[越前町]](旧・[[織田町]]):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神領を寄進し神社を保護した<ref>[http://tutuji.com/tsurugi/yuisyo.htm 越前二の宮 劔神社(剣神社)]</ref>。毎年10月19日の大祭には織田家当主が参列している<ref name="asahi">{{Cite web |url=http://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html |title=織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず |publisher=dot/週刊朝日 |accessdate=2014-11-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150508214227/http://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html |archivedate=2015年5月8日 }}</ref>。
* 「[[劔神社|越前二の宮 剣神社]]」:[[福井県]][[越前町]](旧・[[織田町]]):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神社を保護した{{Sfn|池上裕子|2012|p=7}}。毎年10月19日の大祭には織田家当主が参列している<ref name="asahi">{{Cite web |url=http://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html |title=織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず |publisher=dot/週刊朝日 |accessdate=2014-11-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150508214227/http://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html |archivedate=2015年5月8日 }}</ref>。
* [[岐阜市]]若宮町の[[橿森神社]]では、信長が美園で開いた[[楽市]][[楽座]]の[[市神]]が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
* [[岐阜市]]若宮町の[[橿森神社]]では、信長が美園で開いた[[楽市]][[楽座]]の[[市神]]が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
* [[愛知県]][[清須市]]清洲古城跡に信長を祀る[[神明造]]の小祠がある。
* [[愛知県]][[清須市]]清洲古城跡に信長を祀る[[神明造]]の小祠がある。
* 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある[[臨済宗]]大本山[[妙心寺]]の塔頭寺院、[[春光院]]所蔵。([[南蛮寺]]は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
* 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある[[臨済宗]]大本山[[妙心寺]]の塔頭寺院、[[春光院]]所蔵。([[南蛮寺]]は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
* 天正寺:[[山崎の戦い]]後、秀吉は信長を弔うため、京都[[船岡山]]に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年([[1588年]])、建立責任者の[[蒲庵古渓]]が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
* 天正寺:[[山崎の戦い]]後、秀吉は信長を弔うため、京都[[船岡山]]に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年([[1588年]])、建立責任者の[[蒲庵古渓]]が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
* 「織田信長の首塚」:[[静岡県]][[富士宮市]]の[[西山本門寺]]。西山本門寺18世・日順の父、原宗安(原志摩守)は、本因坊日海([[本因坊算砂]])の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊を植え首塚に葬ったという。推定樹齢450~500年とされ、年代的にも符合している
* 「織田信長の首塚」:[[静岡県]][[富士宮市]]の[[西山本門寺]]。西山本門寺18世・日順の父、原宗安(原志摩守)は、本因坊日海([[本因坊算砂]])の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊を植え首塚に葬ったという。


== 関連事項 ==
== 関連事項 ==
=== 史料 ===
=== 史料 ===
織豊期の史料は相対的に豊富とは言えず、また、代表的な史料すら、それぞれの信頼性がどの程度かという評価も固まっているとは言えない{{Sfn|堀新|2014|pp=27-28}}。

一般に、信長研究において最も重要な基本史料とされるのは、[[奥野高廣]]が集成した信長発給文書(『[[織田信長文書の研究]]』)および、同じく奥野高廣ら校注の角川文庫版『信長公記』である{{Sfn|堀新|2014|pp=27-28}}{{Sfn|池上裕子|2012|p=はしがき8}}。

ただし、堀新によれば、後者の『信長公記』については、角川文庫版が自筆本の翻刻ではなく、また、『信長公記』の写本間の異同・系統研究もいまだ十分ではないという課題があるという{{Sfn|堀新|2014|pp=27-28}}。文書についても、信長発給文書だけでなく、家臣団発給文書の収集・分析が必要であるという課題を指摘している{{Sfn|堀新|2014|pp=27-28}}。

{{columns-list|3|
{{columns-list|3|
* [[信長公記]]([[太田牛一]])
* [[信長公記]]([[太田牛一]])
1,026行目: 1,105行目:


=== 織田信長を題材とした作品 ===
=== 織田信長を題材とした作品 ===
<!--信長を主題とするものに限られる、[[Wikipedia:関連作品]]-->
==== 小説 ====
==== 小説 ====
* 『信長』[[坂口安吾]]、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
* 『信長』[[坂口安吾]]、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
1,043行目: 1,123行目:
* 『信長燃ゆ<上・下>』[[安部龍太郎]]、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
* 『信長燃ゆ<上・下>』[[安部龍太郎]]、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
* 『[[信長の棺]]』[[加藤廣]]、2005年。
* 『[[信長の棺]]』[[加藤廣]]、2005年。
*『戦国スナイパー』柳内たくみ、講談社〈講談社文庫〉、2014年。


==== 画 ====
==== 画 ====
* 『[[織田信長 (映画)|織田信長]]』(1940年 日活 監督:[[マキノ正博]] 演:[[片岡千恵蔵]])
* 『[[信長協奏曲]]』 [[石井あゆみ]]、2009年-
* 『[[紅顔の若武者 織田信長]]』(1955年 東映 監督:[[河野寿一]] 演:[[萬屋錦之介|中村錦之助]])
* 『[[風雲児 織田信長]]』(1959年 東映 監督:河野寿一 同演)
* 『[[若き日の信長]]』(1959年 大映 監督:[[森一生]] 演:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]])


==== メディア化 ====
==== テレビドラマ ====
1963年から2009年までのNHK[[大河ドラマ]]48作中、信長の登場作品は18作に及ぶが、この数字は豊臣秀吉と並び、他の歴史上の人物よりも遥かに多い{{Sfn|朴順愛|2010|pp=74-76}}。
織田信長が主人公として映画化された作品では、昭和期にかけて、日活から『[[織田信長 (映画)|織田信長]]』(1940年 日活 監督:[[マキノ正博]] 演:[[片岡千恵蔵]])、東映からは『[[紅顔の若武者 織田信長]]』(1955年 監督:[[河野寿一]] 演:[[萬屋錦之介|中村錦之助]])、『[[風雲児 織田信長]]』(1959年 監督:河野寿一 同演)、大映からは『[[若き日の信長]]』(1959年 監督:[[森一生]] 演:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]])が公開された。その他、[[黒澤明]]監督の『[[影武者 (映画)|影武者]]』(1980年、東宝)では主人公達に対峙するキャラクターとして登場するなど、多くの映画にて脇役、準主人公としても広く登場する。
*『[[若き日の信長#テレビドラマ|若き日の信長]]』(1961年・[[テレビ朝日|NET]] 演:[[市川團十郎 (11代目)|九代目 市川海老蔵]])
*『[[織田信長 (1962年のテレビドラマ)|織田信長]]』(1962年・[[朝日放送]] 演:[[林真一郎]])
*『若き日の信長』(1964年・[[フジテレビジョン|フジテレビ]] 演:[[市川猿翁 (2代目)|市川猿之助]])
*『[[国盗り物語]]』
**[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|NHK大河ドラマ]](1973年 演:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]])
**[[国盗り物語#新春ワイド時代劇版|新春ワイド時代劇版]](2005年 テレビ東京 演:[[伊藤英明]])
*『[[織田信長 (1989年のテレビドラマ)|織田信長]]』(1989年・[[TBS]] 演:[[渡辺謙]])
*『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』(1992年・NHK 演:[[緒形直人]])
*『[[織田信長 (1994年のテレビドラマ)|織田信長]]』(1994年・[[テレビ東京]]新春ワイド時代劇 演:高橋英樹)
*『[[織田信長 天下を取ったバカ]]』(1998年・TBS 演:[[木村拓哉]])
*『[[女信長]]』(2013年・フジテレビ 演:[[天海祐希]])


==== 漫画 ====
テレビドラマとしては、司馬遼太郎の『国盗り物語』を原作とした[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|NHK大河ドラマ]](1973年 演:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]])および[[国盗り物語#新春ワイド時代劇版|新春ワイド時代劇版]](2005年 テレビ東京 演:[[伊藤英明]])があるほか、昭和期にかけて『[[若き日の信長#テレビドラマ|若き日の信長]]』(1961年・[[テレビ朝日|NET]]、演:[[市川團十郎 (11代目)|九代目 市川海老蔵]])、『[[織田信長 (1962年のテレビドラマ)|織田信長]]』(1962年・[[朝日放送]] 演:[[林真一郎]])、『若き日の信長』(1964年・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[市川猿翁 (2代目)|市川猿之助]])、『[[織田信長 (1989年のテレビドラマ)|織田信長]]』(1989年・[[TBS]] 演:[[渡辺謙]])が製作された。平成に入ってからも、大河ドラマ『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』(1992年・NHK 演:[[緒形直人]])や新春ワイド時代劇『[[織田信長 (1994年のテレビドラマ)|織田信長]]』(1994年・[[テレビ東京]] 演:高橋英樹)を始めとして、脇役を含め数多の関連作品が制作された。
* 横山光輝『[[織田信長 (山岡荘八・横山光輝の漫画)|織田信長]]』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)


==== ゲーム ====
漫画化されたものでは昭和期に横山光輝『[[織田信長 (山岡荘八・横山光輝の漫画)|織田信長]]』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)等が刊行された。その他のメディア作品としては、『[[信長の野望シリーズ|信長の野望]]』シリーズ (1980年-、[[コーエー]])などがコンピューターゲームとして公開された。この他、信長が登場する作品には枚挙にいとまがなく、フィクション作品を含めれば膨大な数に登る。
<!--信長を主題とするものに限られる-->
* 『[[信長の野望シリーズ|信長の野望]]』シリーズ (1980年-、[[コーエー]])


== 脚注 ==
== 脚注 ==
1,061行目: 1,157行目:


=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2|refs=
<ref name=”日本大百科全書”>{{Cite web |author=[[脇田修]] |date= |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=31 |title=織田信長 |work=[[日本大百科全書]] |publisher=小学館・ジャパンナレッジ |accessdate=2018-10-04 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>
}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 1996年2月 ISBN 978-4-040-31900-1。
* [[桑田忠親]]『淀君』(吉川弘文館、1958年)
* {{Cite book ja-jp|author=[[天野忠幸]]|year=2014|title = 三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山|publisher = [[ミネルヴァ書房]]|series = ミネルヴァ日本評伝選|isbn = 978-4-623-07072-5|ref = {{SfnRef|天野忠幸|2014}}}}。
* {{Cite journal |和書 |author = [[原田正記]] |title = 織田権力の到達 : 天正十年“上様御礼之儀”をめぐって |year = 1991 |publisher =
* {{Cite book ja-jp|author=[[天野忠幸]]|year=2016a|title = 三好一族と織田信長|publisher = [[戒光祥出版]]|series = 中世武士選書|isbn = 978-4-86403-185-1|ref = {{SfnRef|天野忠幸|2016a}}}}。
|journal = 史苑 |volume = 51 |issue =
* {{Cite book ja-jp |author=[[天野忠幸]]|year=2016b|chapter=有岡城の戦い|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長軍の合戦史|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642082976|ref={{SfnRef|天野忠幸|2016b}}}}。
|naid =
* {{Cite book ja-jp|author=[[新井白石]]|others=村岡典嗣(校訂)||year=1936|title = 読史余論|publisher = [[岩波書店]]|series = 岩波文庫|isbn = 9784003021224|ref = {{SfnRef|新井白石]|1936}}}}。
|ref = {{SfnRef|原田|1991}}}}
* {{Cite book ja-jp |author=[[池上裕子]]|year=2012|title=織田信長|series=[[人物叢書]]|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642052658 |ref={{SfnRef|池上裕子|2012}}}}。
* [[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 1996年2月 ISBN 978-4-040-31900-1
* {{Citation |和書|last=岡田|first=正人|author-link=岡田正人|year=1999|title=織田信長総合事典|publisher=雄山閣出版|isbn=4639016328}}
* {{Cite book ja-jp |author=[[井原今朝男]]|year=2014|title=室町期廷臣社会論|publisher=塙書房 |isbn=9784827312669|ref={{SfnRef|井原今朝男|2014}}}}
* {{Cite book ja-jp |author=[[今井林太郎]]|year=1985|chapter=信長の出現と中世的権威の否定|editor2=[[藤木久志]]|title=織田政権の研究|series=戦国大名論集17 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=4642025979|ref={{SfnRef|今井林太郎|1985}}}}。初出:『[[岩波講座日本歴史]]』9近世1、1963年。
* {{Cite book|和書|author = 西ヶ谷恭弘|authorlink = 西ヶ谷恭弘|year = 2000|title = 考証、織田信長事典|publisher = 考証、織田信長事典|isbn = 978-4490105506|ref = {{SfnRef|西ヶ谷}} }}
* {{Cite book ja-jp |author=[[ 臼井進]]|year=2015|chapter=室町幕府と織田政権との関係について -足利義昭宛の条書を素材として-|editor2=[[久野雅司]]|title=足利義昭|series=シリーズ・室町幕府の研究 第二巻|publisher=[[戒光祥出版]] |isbn=978-4-86403-162-2|ref={{SfnRef|臼井進|2015}}}}。初出:『史叢』54・55号、1995年。
* [[服部英雄]]『地名の歴史学』(角川書店、2000年)
* {{Cite book|和書|author = 谷口克広|authorlink = 谷口克広|year = 2002|title = 織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公新書|isbn = 978-4121016256|ref = {{SfnRef|谷口}} }}
* {{Cite book ja-jp |author = [[江後迪子]]|year = 2007 |title = 信長のおもてなし 中世食べ物百科|publisher = [[吉川弘文館]]|series=歴史文化ライブラリー240 |isbn = 978-4642056403 |ref = {{SfnRef|江後迪子|2007}}}}
* {{Citation |和書 |last=谷口 |first=克広 |author2=[[高木昭作]](監修) |author-link=谷口克広 |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref=tani|pages=|chapter=}}
* {{Cite book ja-jp |editor = [[遠藤ゆり子]]|year = 2015 |title = 伊達氏と戦国争乱(東北の中世史) |publisher = [[吉川弘文館]] |isbn = 978-4642064958 |ref = {{SfnRef|遠藤ゆり子編|2015}}}}
* {{Cite book|和書|author = 林屋辰三郎|authorlink = 林屋辰三郎|year = 2005|title = 天下一統|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公文庫・日本の歴史12|isbn = 978-4122045224|ref = {{SfnRef|林屋}} }}
* {{Cite book ja-jp|author=[[太田牛一]]・著・[[奥野高廣]]・[[岩沢愿彦]]校注|year=1969|title =信長公記|publisher=[[角川書店]]|series=角川ソフィア文庫|isbn = 99784044037017|ref = {{SfnRef|大田牛一|奥野高廣|岩沢愿彦|1969}}}}。※第1刷は角川文庫。
** {{Citation |和書|last1=太田|first1=牛一|last2=中川|first2=太古|year=2013|author1-link=太田牛一|series=新人物文庫|publisher=[[中経出版]]|edition=[[Amazon Kindle|Kindle]]|title =現代語訳 信長公記}}{{ASIN|B00G6E8E7A}}
* {{Cite book|和書|author = 林屋辰三郎|authorlink = 林屋辰三郎|year = 2005|title = 天下一統|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公文庫・日本の歴史12|isbn = 978-4122045224|ref = {{SfnRef|林屋}} }}
* {{Cite book|和書|author = 谷口克広|year = 2007|title = 検証 本能寺の変|publisher = [[吉川弘文館]]|series = 歴史文化ライブラリー|isbn = 978-4642056328|ref = {{SfnRef|谷口2007}} }}
* {{Cite book ja-jp|author=岡田正人|author-link=岡田正人|year=1999|title=織田信長総合事典|publisher=雄山閣出版|isbn=4639016328|ref={{SfnRef|岡田正人|1999}}}}
* {{Cite journal ja-jp|author=[[岡垣頼和]]・[[浅川滋男]]|year=2010|title=仏を超えた信長—安土城摠見寺本堂の復元|journal= [[鳥取環境大学]]紀要|issue=8|publisher=|url=https://www.kankyo-u.ac.jp/f/845/1089.pdf|format=pdf|ref={{SfnRef|岡垣頼和・浅川滋男|2010}}}}。
* {{Cite book|和書|author = 谷口克広|year = 2007|title = 信長と消えた家臣たち - 失脚・粛清・謀反|publisher = 中央公論社|series = 中公新書|isbn = 978-4121019073|ref = {{SfnRef|谷口『信長と消えた家臣たち』}} }}
* {{Cite book ja-jp|author=[[奥野高廣]]・[[岩沢愿彦]]|chapter=解説|year=1969|title =信長公記|publisher=[[角川書店]]|series=角川ソフィア文庫|isbn = 99784044037017|ref = {{SfnRef|奥野高廣|岩沢愿彦|1969}}}}。
* [[宮本義己]]『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)
* {{Cite book ja-jp|author=[[奥野高廣]]|year=1988a|title =増訂 織田信長文書の研究 上|publisher = [[吉川弘文館]]|isbn=9784642025768|ref={{SfnRef|奥野高廣|1988a}}}}。
* {{Citation |和書|last1=太田|first1=牛一|last2=中川|first2=太古|year=2013|author1-link=太田牛一|series=新人物文庫|publisher=[[中経出版]]|edition=[[Amazon Kindle|Kindle]]|title =現代語訳 信長公記}}{{ASIN|B00G6E8E7A}}
* {{Cite book|和書|author = [[忠幸]]|year = 2014|title = 三好慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山|publisher = [[ミネルヴァ書房]]|series = ミネルヴァ日本評伝選|isbn = 978-4-623-07072-5|ref = {{SfnRef|野|2014}}}}
** {{Cite book ja-jp|author=[[高廣]]|year=1988b|title =増訂 織田信文書の研究 下|publisher = [[吉川弘文館]]|isbn=9784642025775|ref={{SfnRef|高廣|1988b}}}}
* {{Cite book|和書 |author = [[金子拓]] |year = 2014 |title = 織田信長 <天下人>実像 |publisher = [[講談社]] |series = 現代新書 |isbn = 978-4062882781 |ref = {{SfnRef|金子|2014}}}}
** {{Cite book ja-jp|author=[[奥野高廣]]|year=1988c|title =増訂 織田信長文書研究 補遺索引|publisher = [[吉川弘文館]]|isbn=9784642025782|ref={{SfnRef|奥野高廣|1988c}}}}
* 片山正彦「「江濃越一和」と関白二条晴良」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年。初出:戦国史研究会(編)『戦国史研究』53号、2007年。
* {{Cite book|和書 |author = [[遠藤ゆり子]](編) |year = 2015 |title = 伊達氏と戦国争乱(東北の中世史) |publisher = [[吉川弘文館]] |isbn = 978-4642064958 |ref = {{SfnRef|遠藤(編)|2015}}}}
* {{Cite book ja-jp |author = [[鴨川達夫]] |year = 2007|title = 武田信玄と勝頼 文書にみる戦国大名の実像|publisher = [[岩波書店]] |series = 岩波新書 |isbn = |ref = {{SfnRef|鴨川達夫|2007}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author = [[勝俣鎮夫]] |year = 2003|chapter=織田信長とその妻妾|title = 愛知県史のしおり|publisher = [[愛知県]] |series = 愛知県史 資料編11 |isbn = |ref = {{SfnRef|勝俣鎮夫|2003}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author = [[金子拓]] |year = 2014 |title = 織田信長 <天下人>の実像 |publisher = [[講談社]] |series = 講談社現代新書 |isbn = 9784062882781 |ref = {{SfnRef|金子拓|2014}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author = [[金子拓]] |year = 2017 |title = 織田信長 不器用すぎた天下人|publisher = [[河出書房新社]] |isbn = 9784473042026 |ref = {{SfnRef|金子拓a|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author = [[金子拓]] |year = 2017 |title = 戦国おもてなし時代 信長・秀吉の接待術 |publisher = [[淡交社]] |isbn = 9784473042026 |ref = {{SfnRef|金子拓b|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author = [[神田千里]] |year = 2002|title = 戦国乱世を生きる力|publisher = [[中央公論社]] |series = 日本の中世11|isbn =9784124902204 |ref = {{SfnRef|神田千里|2002}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[神田千里]]|year=2013a|chapter=織田政権の支配の論理|title=戦国時代の自力と秩序|publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=9784642029148|ref={{SfnRef|神田千里|2013a}}}}。初出:「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』史学科篇27号、2002年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[神田千里]]|year=2013b|chapter=中世末の「天下」について|title=戦国時代の自力と秩序|publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=9784642029148|ref={{SfnRef|神田千里|2013b}}}}。初出:「中世末の『天下』について-戦国末期の政治秩序を考える-」『武田氏研究』42号、2010年を改稿。
* {{Cite book ja-jp |author = [[神田千里]] |year = 2014|title = 織田信長|publisher = [[筑摩書房]] |series = ちくま新書1093 |isbn =9784480067890 |ref = {{SfnRef|神田千里|2014}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[神田千里]]|year=2015|title=ルイス・フロイスの描く織田信長像について|journal=東洋大学文学部紀要. 史学科篇|issue=41|publisher=東洋大学|url=https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=8167&item_no=1&page_id=13&block_id=17|ref={{SfnRef|神田千里|2015}}}}。
* 神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年。
* {{Cite book ja-jp |author = [[神田裕理]] |year = 2017 |chapter=「信長の馬揃え」は、朝廷への軍事圧力だったのか|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長研究の最前線2|publisher=洋泉社 |isbn=9784800313065|ref={{SfnRef|神田裕理|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author=[[木下昌規]]|year=2014a|title = 戦国期足利将軍家の権力構造|publisher = [[岩田書院]]|isbn = |ref = {{SfnRef|木下昌規|2014a}}}}。木下昌規 2014a。
* {{Cite book ja-jp |author=[[木下昌規]]|year=2014b|chapter=信長は将軍足利義昭を操っていたのか|editor2=[[日本史史料研究会]]|title=信長研究の最前線|publisher=洋泉社 |isbn=9784800305084|ref={{SfnRef|木下昌規|2014b}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[木下昌規]]|year=2016|chapter=本能寺の変|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長軍の合戦史|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642082976|ref={{SfnRef|木下昌規|2016}}}}。
* 木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」木下昌規編著『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』[[戒光祥出版]]、2017年。ISBN 9784864032537。初出:『日本歴史』793号、2014年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[桐野作人]]|year=2009|chapter=信長と合戦|editor2=[[堀新 (歴史学者)|堀新]]|title=信長公記を読む|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642071581|ref={{SfnRef|桐野作人|2009}}}}。
* [[桐野作人]]『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力 戦国最強の兵器図鑑』新人物往来社,2010年。
* 桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』 新人物文庫、KADOKAWA/中経出版、2014年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[久野雅司]]|year=2015a|chapter=足利義昭政権の研究|editor2=[[久野雅司]]|title=足利義昭|series=シリーズ・室町幕府の研究 第二巻|publisher=[[戒光祥出版]] |isbn=978-4-86403-162-2|ref={{SfnRef|久野雅司|2015a}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[久野雅司]]|year=2015b|chapter=足利義昭政権論|editor2=[[久野雅司]]|title=足利義昭|series=シリーズ・室町幕府の研究 第二巻|publisher=[[戒光祥出版]] |isbn=978-4-86403-162-2|ref={{SfnRef|久野雅司|2015b}}}}。初出:『歴史評論』640号、2003年。
* {{Cite book ja-jp |author= [[久野雅司]]|year=2017|title=足利義昭と織田信長|publisher=[[戎光祥出版]]|series=[[中世武士選書]]40|isbn=978-4864032599|ref={{SfnRef|久野雅司|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[久保尚文]]|year=2015|chapter=和田惟政関係文書について|editor2=[[久野雅司]]|title=足利義昭|series=シリーズ・室町幕府の研究 第二巻|publisher=[[戒光祥出版]] |isbn=978-4-86403-162-2|ref={{SfnRef|久保尚文|2015}}}}。初出:『京都市歴史資料館紀要』創刊号、1984年。
* {{Cite book ja-jp |author= [[桑田忠親]]|year=1958|title=淀君|publisher=[[吉川弘文館]]|series=[[人物叢書]]|isbn=|ref={{SfnRef|桑田忠親|1958}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author = [[呉座勇一]] |year = 2018|chapter=本能寺の変に黒幕はいたか |title = 陰謀の日本中世史 |publisher = [[KADOKAWA]]|series=角川新書K-196 |isbn = 9784040821221 |ref = {{SfnRef|呉座勇一|2018}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[榊原悟]] |year=2010 |title=海を渡った屏風たち |journal=家具道具室内史 |volume=|issue=2|publisher=家具道具室内史学会|url=http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481179_po_ART0009701117.pdf?contentNo=1&alternativeNo=|formatpdf|ref={{SfnRef|榊原悟|2010}}}}
* {{Cite journal ja-jp|author=[[四宮美帆子]]|year=2013|title=豊臣政権下の鷹図|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊, 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 表象・メディア論 現代文芸|volume=58|publisher=早稲田大学大学院文学研究科|ref={{SfnRef|四宮美帆子|2013}}}}。
* 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[柴裕之]]|year=2011|chapter=戦国期尾張織田氏の動向|editor2=[[柴裕之]]|title=尾張織田氏|series=論集 戦国大名と国衆6 |publisher=[[岩田書院]] |isbn=978487294715|ref={{SfnRef|柴裕之|2011}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[柴裕之]]|year=2016|month=6|title=足利義昭政権と武田信玄 : 元亀争乱の展開再考|journal=[[日本歴史]]|issue=817 |publisher=吉川弘文館|ref={{SfnRef|柴裕之|2016}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[柴裕之]]|year=2017a|title=徳川家康 境界の領主から天下人へ|publisher=[[平凡社]] |isbn=9784582477313|ref={{SfnRef|柴裕之|2017a}}}}。
*{{Cite book ja-jp|author= 柴裕之|year=2017b |chapter=足利義昭の「天下再興」と織田信長|editor2=戦国史研究会|others2=[[山田邦明]](代表委員)|title=戦国期政治史論集 西国編|publisher=岩田書院|isbn=9784866020136|ref={{SfnRef|柴裕之|2017b}}}}
* 柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009年。
* 柴辻俊六「織田政権下の堺と今井宗久」 『織田政権の形成と地域支配』戎光祥出版、2016年。初出:『信濃』65巻8号、2013年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[ 柴辻俊六]]|year=2016|chapter=戦国期織田政権の津湊支配|title=織田政権の形成と地域支配|publisher=[[戎光祥出版]] |isbn=9784864032063|ref={{SfnRef|柴辻俊六|2016}}}}。初出:「戦国期織田政権の津湊支配について」『三重県史研究』30号、2015年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[下村信博]]|year=2011|chapter=織田信秀の台頭|editor2=[[柴裕之]]|title=尾張織田氏|series=論集 戦国大名と国衆6 |publisher=[[岩田書院]] |isbn=978487294715|ref={{SfnRef|下村信博|2011a}}}}。下村信博 2011a。初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[下村信博]]|year=2011|chapter=織田信長の登場|editor2=[[柴裕之]]|title=尾張織田氏|series=論集 戦国大名と国衆6 |publisher=[[岩田書院]] |isbn=978487294715|ref={{SfnRef|下村信博|2011b}}}}。下村信博 2011b。初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[下谷内勝利]]|year=2011|title=中世の相撲に関する一考察 相撲節廃絶後の相撲人のゆくえ―|journal=駒沢大学教育学部紀要|issue=5|publisher=駒沢大学|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005391167|ref={{SfnRef|下谷内勝利|2011}}}}。
* {{Cite book ja-jp |editor=[[白井英二]]編|year=1979|title=神社辞典|publisher=[[東京堂出版]] ||ref={{SfnRef|白井英二編|1979}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[末木文美士]]|year=1996|title=日本仏教史 思想史としてのアプローチ|publisher=[[新潮社]] |series=新潮文庫|isbn=9784101489117|ref={{SfnRef|末木文美士|1996}}}}。単行本は1992年刊行。
* {{Cite book ja-jp|author=[[鈴木公雄]]|year =2002|title =銭の考古学|publisher =[[吉川弘文館]]|series=歴史文化ライブラリー|isbn=9784642055406|ref = {{SfnRef|鈴木公雄|2002}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author=[[鈴木眞哉]]|author2=[[藤本正行]]|year =2006|title =信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う|publisher =[[洋泉社]]|series=洋泉社新書y|isbn=9784896919950|ref = {{SfnRef|鈴木眞哉|藤本正行 |2006}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[高木久史]]|year=2005|title=信長期の金銀使用について|journal=[[福井県文書館]]研究紀要|volume=||issue=2 |publisher=[[福井県文書館]]|ref={{SfnRef|高木久史|2005}}}}。
* {{Cite book ja-jp|others=[[高木洋]](編著)|year =2011|title =宣教師が見た信長の戦国|publisher =[[風媒社]]||isbn=9784833105491|ref = {{SfnRef|高木洋|2011}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[高橋博]]|year=1992|title=天正十年代の東国情勢をめぐる一考察:下野皆川氏を中心に|journal=[[弘前大学國史研究]]|issue=93 |publisher=[[弘前大学國史研究会]]|ref={{SfnRef|高橋博|1992}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[立石了]]|year=2018|title=回顧と展望 織豊期|journal=[[史学雑誌]]|volume=127||issue=6 |publisher=[[史学会]]|ref={{SfnRef|立石了|2018}}}}。
* {{ Cite book ja-jp |author=[[谷口克広]] |others=[[高木昭作]](監修) |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref={{SfnRef|谷口克広|1995}}|pages=|chapter=}}
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|authorlink = 谷口克広|year = 1998|title = 信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公新書1453||isbn = 978-4121014535|ref = {{SfnRef|谷口克広|1998}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author = [[谷口克広]]|year = 2002|title = 織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公新書isbn = 978-4121016256|ref = {{SfnRef|谷口克広|2002}} }}
* {{Cite book ja-jp |author = [[谷口克広]] |year = 2003|chapter=織田信長の兄弟と息子の出生順|title = 愛知県史のしおり|publisher = [[愛知県]] |series = 愛知県史 資料編11 |isbn = |ref = {{SfnRef|谷口克広|2003}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|authorlink = 谷口克広|year = 2005|title = 信長軍の司令官 武将たちの出世競争|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公新書|isbn = 9784121017826|ref = {{SfnRef|谷口克広|2005}} }}
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|year = 2007a|title = 信長と消えた家臣たち- 失脚・粛清・謀反|publisher = 中央公論社|series = 中公新書|isbn = 978-4121019073|ref = {{SfnRef|谷口克広|2007a}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|year = 2007b|title = 検証 本能寺の変|publisher = [[吉川弘文館]]|series = 歴史文化ライブラリー232|isbn = 978-4642056328|ref = {{SfnRef|谷口克広|2007b}} }}
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|year = 2009|title =信長の天下所司代 筆頭吏僚村井貞勝|publisher = 中央公論新社|series=中公新書|isbn = 9784121020284|ref = {{SfnRef|谷口克広|2009}} }}
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|year = 2012|title =信長と家康―清須同盟の実体|publisher =[[学研出版]]|series=学研新書|isbn =9784054052130 |ref = {{SfnRef|谷口克広|2012}} }}
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|year = 2013|title =信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか|publisher =[[学研パブリッシング]]|isbn =9784054057104 |ref = {{SfnRef|谷口克広|2013}} }}
* {{Cite book ja-jp|author = 谷口克広|year = 2017|title =天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか|publisher =[[祥伝社]]|series=祥伝社新書|isbn =9784396115012 |ref = {{SfnRef|谷口克広|2017}} }}
*{{Cite book ja-jp|author= 富加町史編集委員会|authorlink= |coauthors= |year= 1980|title= 富加町史|volume = 下巻 通史編||publisher= 富加町|location= |chapter = 第二代加治田城主斎藤新五|id= |isbn=|ref={{SfnRef|富加町史編集委員会|1980}}}}。
* 田村英恵 「織田信長像をめぐる儀礼」黒田日出男(編)『肖像画を読む』 角川書店、1998年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[中川貴皓]]|chapter=松永久秀と信貴山城|year=2017|editor2=[[天野忠幸]]|title=松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像|publisher=[[宮帯出版社]]|isbn=978-4801600577|ref={{SfnRef|中川貴皓|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp| author=[[中村栄孝]]|editor2=国史研究会 |year=1935|volume=第6|chapter=文禄・慶長の役|title =岩波講座日本歴史|publisher =岩波書店|url={{NDLDC|1920813/77}} |ref={{SfnRef|中村栄孝|1935}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[長澤伸樹]]|year=2017|chapter=楽市楽座令研究の軌跡と課題|title=楽市楽座令の研究|publisher=[[思文閣出版]] |isbn=9784784219087|ref={{SfnRef|長澤伸樹|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[長屋隆幸]]|year=2016|chapter=長篠の戦い|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長軍の合戦史|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642082976|ref={{SfnRef|長屋隆幸|2016}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author = 西ヶ谷恭弘|authorlink = 西ヶ谷恭弘|year = 2000|title = 考証 織田信長事典|publisher = 東京堂出版|isbn = 978-4490105506|ref = {{SfnRef|西ヶ谷恭弘|2000}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[朴順愛]]|year=2010|chapter=日本における大衆文化のグローバル化と変容 NHK大河ドラマ分析を通じて|editor2=[[谷川建司]]・[[王向華]]・[[呉咏梅]]|title=サブカルで読むナショナリズム 可視化されるアイデンティティ|publisher=[[青弓社]] |isbn=978-4-7872-3322-6 |ref={{SfnRef|朴順愛|2010}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[服部英雄]]|year=2000|title=地名の歴史学|publisher=角川書店 |isbn=|ref={{SfnRef|服部英雄|2000}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author = 林屋辰三郎|authorlink = 林屋辰三郎|year = 2005|title = 天下一統|publisher = [[中央公論社]]|series = 中公文庫・日本の歴史12|isbn = 978-4122045224|ref = {{SfnRef|林屋辰三郎|2005}} }}改版。
* {{Cite journal ja-jp|author = [[原田正記]] |title = 織田権力の到達 : 天正十年“上様御礼之儀”をめぐって |year = 1991 |publisher = |journal = 史苑 |volume = 51 |issue = |naid = |ref = {{SfnRef|原田正記|1991}}}}。
* 播磨良紀「織田信長の長島一向一揆攻めと「根切」」、新行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』吉川弘文館、2010年。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[平井上総]]|year=2017|title=織田信長研究の現在|journal=[[歴史学研究会|歴史学研究]]|issue=955 |editor2=[[歴史学研究会]]|publisher=青木書店|ref={{SfnRef|平井上総|2017|}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[平野明夫]]|year=2014|chapter=織田・徳川同盟は強固だったのか|editor2=[[日本史史料研究会]]|title=信長研究の最前線|publisher=洋泉社 |isbn=9784800305084|ref={{SfnRef|平野明夫|2014}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[平野明夫]]|year=2016|chapter=桶狭間の戦い|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長軍の合戦史|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642082976|ref={{SfnRef|平野明夫|2016}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author =[[藤井譲治]]|year = 2011|title =天皇と天下人|series=天皇の歴史5|publisher = [[吉川弘文館]]|isbn = 9784062807357|ref = {{SfnRef|藤井譲治|2011}} }}
* {{Cite book ja-jp|author =[[藤木久志]]|year = 2005|title =天下統一と朝鮮侵略|publisher = [[講談社]]|series=講談社学術文庫|isbn = 9784061597273|ref = {{SfnRef|藤木久志|2005}} }}
* {{Cite book ja-jp|author =[[藤田達生]]|year = 2001|title=本能寺の変の群像 中世と近世の相剋|publisher=[[雄山閣出版]]|series=|isbn = 9784639017301|ref = {{SfnRef|藤田達生|2001}} }}
* {{Cite journal ja-jp|author=[[藤田達生]]|year=2010|title=「鞆幕府」論|journal=[[芸備地方史研究]]|issue=268・269 |publisher=芸備地方史研究会|ref={{SfnRef|藤田達生|2010}}}}。
* 堀新「織田信長と勅命講和」歴史学研究会(編) 『シリーズ歴史学の現在7 戦争と平和の中近世史』青木書店、2001年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[堀新]]|year=2014|chapter=織田政権論|editor2=[[藤井譲治]]他|title=近世1|series=[[岩波講座日本歴史]]10|publisher=岩波書店 |isbn=9784000113304|ref={{SfnRef|堀新|2014}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author =[[本多博之]]|year = 2015|title=天下統一とシルバーラッシュ|publisher=[[吉川弘文館]]|series=|isbn = |ref = {{SfnRef|本多博之|2015}} }}
* {{Cite book ja-jp |author=[[松下浩]]|year=2017|chapter=信長「神格化」の真偽を検証してみる|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長研究の最前線2|publisher=洋泉社 |isbn=9784800313065|ref={{SfnRef|松下浩|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[松本和也]]|year=2017|chapter=信長とイエズス会の本当の関係とは|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長研究の最前線2|publisher=洋泉社 |isbn=9784800313065|ref={{SfnRef|松本和也|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp|author =[[丸島和洋]]|year = 2010|title =戦国大名の外交|publisher =講談社|isbn = |ref = {{SfnRef|丸島和洋|2013}} }}
* {{Cite book ja-jp |author=[[三鬼清一郎]]|year=1985|chapter=織田政権の権力構造|editor2=[[藤木久志]]|title=織田政権の研究|series=戦国大名論集17 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=4642025979|ref={{SfnRef|三鬼清一郎|1985}}}}。初出:『幕藩制国家の成立』〈講座日本近世史1〉、1981年。
* {{Cite book ja-jp|author =[[宮本義己]]|year = 2010|title =誰も知らなかった江|publisher =毎日コミュニケーションズ|isbn = 9784839936211|ref = {{SfnRef|宮本義己|2010}} }}
* {{Cite journal ja-jp|author=[[村井祐樹]]|year=2014|title=幻の信長上洛作戦 出せなかった書状/新出「米田文書」の紹介をかねて|journal=[[古文書研究]]|issue=78 |publisher=[[日本古文書学会]]|ref={{SfnRef|村井祐樹|2014}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[村岡幹生]]|editor2=愛知県総務部法務文書課県史編さん室|year=2011|title=今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝|journal=愛知県史研究|issue=15 |publisher=愛知県|ref={{SfnRef|村岡幹生|2011}}|naid=110008138599|pages=1-23}}
* {{Cite book ja-jp |author=[[村川浩平]]|year=2000|title=日本近世武家政権論|publisher=[[近代文芸社]] |isbn=|ref={{SfnRef|村川浩平|2000}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[盛本昌広]]|year=1999|title=松平家忠日記|series=角川選書|publisher=角川書店 |isbn=9784047033047|ref={{SfnRef|盛本昌広]|1987}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[八尾嘉男]]|year=2017|chapter=「名物狩り」と「御茶湯御政道」の実像とは|editor2=[[渡辺大門]]|others2=[[日本史史料研究会]](監修)|title=信長研究の最前線2|publisher=洋泉社 |isbn=9784800313065|ref={{SfnRef|八尾嘉男|2017}}}}。
* {{Cite book ja-jp|editor=[[矢部健太郎]]|title=超ビジュアル! 歴史人物伝 織田信長|year=2016|chapter= |publisher=西東社|isbn=4791625005|ref={{SfnRef|矢部健太郎編|2016}}}}。
* {{Cite journal ja-jp|author=[[山崎布美]]|year=2016|title=織田氏の出現とその存在形態|journal=東京大学史料編纂所研究紀要|issue=817 |publisher=[[東京大学史料編纂所]]|url=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/kiyo0026.html|ref={{SfnRef|山崎布美|2016}}}}。
* 山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ―修理で得られた知見を中心に―」、『京都国立博物館學叢』所収、2011年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[横田冬彦]]|year=2009|chapter=学術文庫版あとがき|title=天下泰平|series=日本の歴史16|publisher=[[講談社]] |isbn=9784062919166|ref={{SfnRef|横田冬彦|2009}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[横山住雄]]|year=2011|chapter=犬山落城・永禄八年説|editor2=[[柴裕之]]|title=尾張織田氏|series=論集 戦国大名と国衆6 |publisher=[[岩田書院]] |isbn=978487294715|ref={{SfnRef|横山住雄|2011}}}}。初出:『郷土文化』40巻1号、1985年。
* {{Cite book ja-jp| author =[[頼山陽]]|editor2=[[池辺義象]]| year =1938|title =邦文日本外史 中巻|publisher =大洋社出版部|url={{NDLDC|1031314/2}}|ref={{SfnRef|頼山陽|1938}}}}。初出:[[1827年]]。
* [[ルイス・フロイス]]著/[[松田毅一]]・[[川崎桃太]]訳『完訳フロイス日本史』全12巻、[[中公文庫]]、2000年。
* {{Cite book ja-jp |author=[[脇田修]]|year=1987|title=織田信長 中世最後の覇者|series=中公新書|publisher=中央公論社 |isbn=9784121008435|ref={{SfnRef|脇田修|1987}}}}。
* {{Cite book ja-jp |author=[[渡辺江美子]]|year=2016|chapter=織田信長の息女について|editor2=[[柴裕之]]|title=織田氏一門|series=論集 戦国大名と国衆20 |publisher=[[岩田書院]] |isbn=978487294715|ref={{SfnRef|渡辺江美子|2016}}}}。初出:『国学院雑誌』89巻11号、1988年。
* {{Cite book ja-jp|editor=[[渡辺武]]ほか|year=1983|title =大阪城ガイド|publisher =保育社|ISBN=4586506180|ref={{SfnRef|渡辺武ほか編|1983}}}}。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
<!--- 本文埋め込み済みの内部リンクを除去(Wikipedia:関連項目)--->
{{columns-list|3|
{{columns-list|3|
* [[幸若舞]]、[[敦盛 (幸若舞)]]
* [[小牧山城]]
* [[那古野城]]
* [[岐阜城]]
* [[安土城]]
* [[萬松寺]]
* [[萬松寺]]
* [[蛇池神社]]
* [[蛇池神社]]
* [[母衣]]
* [[母衣#織田信長の母衣衆]]
* [[九十九髪茄子]]
* [[九十九髪茄子]]
* [[古天明平蜘蛛]]
* [[古天明平蜘蛛]]
1,100行目: 1,293行目:
* [[へし切長谷部]]
* [[へし切長谷部]]
* [[果心居士]]
* [[果心居士]]
* [[杉谷善住坊]]
* [[畿内・近国の戦国時代]]
* [[畿内・近国の戦国時代]]
}}
}}
1,109行目: 1,301行目:
*[http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=taiga004 特集 なつかしの番組 大河ドラマの“信長”-NHKアーカイブス]
*[http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=taiga004 特集 なつかしの番組 大河ドラマの“信長”-NHKアーカイブス]


{{織田政権}}
{{織田弾正忠家}}
{{織田弾正忠家}}
{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
1,123行目: 1,316行目:
[[Category:中部地方の歴史]]
[[Category:中部地方の歴史]]
[[Category:都市の建設者]]
[[Category:都市の建設者]]
[[Category:両性愛の人物]]
[[Category:安土桃山時代に戦死した人物]]
[[Category:安土桃山時代に戦死した人物]]
[[Category:1534年生]]
[[Category:1534年生]]

2018年11月28日 (水) 00:25時点における版

 
織田信長
紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)[注釈 1]
時代 戦国時代室町時代後期) - 安土桃山時代
生誕 天文3年5月12日1534年6月23日
あるいは天文3年5月28日[注釈 2]
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
改名 吉法師(幼名)、信長
別名 通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府
渾名:第六天魔王[注釈 3]、大うつけ
神号 建勲
戒名 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
天徳院殿龍厳雲公大居士[注釈 4]
天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門[注釈 1]
墓所 本能寺京都市中京区
大徳寺総見院(京都市北区
妙心寺玉鳳院(京都市右京区
阿弥陀寺(京都市上京区
官位 従三位権大納言右近衛大将
正三位内大臣従二位右大臣正二位
従一位太政大臣、贈正一位
主君 斯波義銀足利義昭
氏族 織田氏
父母 父:織田信秀、母:土田御前
兄弟 信広信長信勝信包信治信時信与秀孝秀成信照長益長利お犬の方お市の方
正室:鷺山殿(濃姫)斎藤道三の娘)
側室:生駒氏[1]生駒家宗の娘)
側室:坂氏の女
側室:於鍋の方(高畑源十郎の娘)
側室:養観院(不明)
 他の側室は下記を参照。
信忠信雄信孝
 他の子女は下記を参照。
テンプレートを表示

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名天下人

概要

織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信勝を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。

永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、犬山城織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。

一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。美濃国の戦国大名・斉藤氏一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。

翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した[注釈 5]。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前朝倉義景北近江浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆比叡山延暦寺石山本願寺などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。

元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。

将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀別所長治荒木村重らが次々と信長に叛いた。

天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。

天正10年(1582年)に、甲州征伐を行い武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を太政大臣関白征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。そして、信長は四国攻めを決定し、自身も中国地方攻略に赴く準備を進めていた。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって自害に追い込まれた(本能寺の変)。

一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り茶の湯相撲などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる[注釈 6]

政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた[注釈 7]天皇朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている[注釈 8]

江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。

とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている[注釈 9]第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されるようになって、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる[注釈 10]

生涯

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

尾張・美濃の平定

少年期

信長誕生の地、勝幡城跡。

天文3年(1534年)5月[注釈 2]尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男[注釈 11]として誕生。生まれた場所については勝幡城那古野城、および古渡城の3説に分かれるが[4]、勝幡城であるとする見解が有力である[4][5][6]。幼名は吉法師(きっぽうし)[3][4]

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった[7]。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである[7]。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う[8]。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた[8]

最初に城主となった那古野城跡(名古屋城二之丸)

信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている[注釈 12]。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から大うつけと呼ばれたという[10]。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた[11]。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない[12]

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する[13][4]。天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった[14]

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた[注釈 13]

斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった[14]。そして、おそらく天文21年(1552年[注釈 14]3月に父・信秀が没したため、家督を継ぐこととなる[13][14][注釈 15][注釈 16]。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)[21]

家督継承

清洲城

家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった[22]。そして、弾正忠家の外部には清須城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・信勝(信行)[注釈 17]などの競争者がいたのである[22]

天文21年8月、清須の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした[22]。信長は清須方の武将と戦って勝利し、これ以後、清須方との戦いが続くこととなる[22]

ところが、天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している[23][24][注釈 18]。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った[23]。一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した[25]。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある[26]。天文23年(1554年)には、村木城の戦いで今川勢を破った[27]

この年も、清須方との戦いは、信長に有利に展開していた[28]。同年7月12日[注釈 19]、尾張守護の斯波義統が、清須方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる[28]。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた[28]

こうして、信長は、清須の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた[28]。そして、数日後には、長槍を用いる信長方の軍勢が、清須方に圧勝した[28]

天文23年[注釈 20]、衰弱した清須の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清須城を奪われ、守護代・織田彦五郎[注釈 21]も自害を余儀なくされた[29]。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる[29]

他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している[29]。この死は暗殺によるものであったと考えられる[29]。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという[29]

弟との戦い

しかし、弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い[31]。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した。

最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する[32]。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた[33]。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった[34]

同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い[35]。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した[32]。しかし、永禄元年(1558年)に信勝は再び謀反を企てる[32]。この時、柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[32][注釈 22]

さらに同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢浮野の戦いにおいて撃破した[32]。そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた[32]

永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した[36][注釈 23]。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという[36]。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる[36]。一方天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる[37][注釈 24]

桶狭間の戦い

翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻する[38]駿河遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった[38][注釈 25]。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった[39]。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った[39]

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞敦盛』を舞った後[注釈 26]、出陣した[40]。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った[41][注釈 27]桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる[注釈 28]。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる[44]。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた[44](いわゆる清洲同盟)。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す[注釈 29]

永禄8年(1565年[注釈 30]、信長は、犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した[46]。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた[47]

美濃斉藤氏と足利義昭

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた[注釈 31]。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃[注釈 32]には北近江浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している[50]。その際[注釈 32]、信長は妹・お市を輿入れさせた[50]

信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛と戦い屈服させて、伊勢北部の多数の北勢地域豪族で形成された当地の諸氏を(北勢四十八家の小規模城主の城を攻略した)を次々と降伏させている。

一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねてを中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏三好義継三好三人衆松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変[51][注釈 33]。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[53]。義昭は奈良から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた[54]

これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した[55][注釈 34]。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている[57]。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斉藤氏との停戦を実現させた[55]。こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった[55]

ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斉藤氏との戦闘を再開する[58]。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、河野島の戦いで大敗を喫してしまう[58][注釈 35]。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斉藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる[58]

そして、永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦関・加治田合戦中濃攻略戦)。さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年[注釈 36]、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い[60]。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)[注釈 37]

同年11月には印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている[62][63]。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており[64][65]、室町幕府再興の意志を込めたものであった[65](→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 38]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[66]

二重政権

織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)旗印

織田信長の上洛戦

一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた[67]。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝不破光治島田秀満らを付けて越前国に派遣している[68]。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した[68]

永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した[69]。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた[70]。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった[69]観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注釈 39]

更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し[71]、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという[72][73]

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる[注釈 40]

幕府再興

永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した[75]本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[75][注釈 41]。もっとも、細川藤賢明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた[75]。これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所を築いた[77]

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹親興と和田惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長はに2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた[78]

一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある[79]

同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[80]

同年8月、木下秀吉に命じて但馬国を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。祐豊は、今井宗久の仲介で信長に降伏した。

伊勢侵攻

同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたのだが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包長野氏当主とした。

そして翌・永禄12年(1569年)8月20日に、岐阜を出陣し南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲[81]。篭城戦の末10月に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い[81]。後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、伊勢攻略を終える。

なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている[82]

第一次信長包囲網

1570年(元亀元年)の戦国大名勢力図

元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍する[83]。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける[83]。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた[83]金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという[注釈 42]

6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙[85]。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した[85]姉川の戦い)。

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した[86]野田城・福島城の戦い)。しかも、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する[86]。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還[87]。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した[87]。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣[87]。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信与(信興)を自害に追い込んだ[87]

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[88]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し[注釈 43]、窮地を脱した[注釈 44]

第二次信長包囲網

『織田信長 図像』(兵庫県氷上町 所蔵)

元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た[91]

5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した[87]

同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち[87]

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国後北条氏越後国上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[92][93]

元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した[94]

7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた[95]。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた[95]。以後の戦況は織田軍有利に展開した。

11月14日、織田方であった岩村城が開城し、武田方に占拠された(岩村城の戦い)[96]。病死した岩村城主・遠山景任の後家(信長の叔母)は、秋山虎繁(信友)と婚姻し、武田方に転じた[96]。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した[96]

同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している[97]。この異見書は、従来、『永禄以来年代記』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた[97]。しかし、柴裕之によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い[97][注釈 45]。柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる[97]。そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする[97]

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い[100]

こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した[101]。信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った[102]。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した[102]。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。

なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている[注釈 46]

室町幕府の「滅亡」

足利義昭の没落

武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放した。

通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている[104][105]。一方、義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経て備後国へ移る。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある[106]。このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている[107][108]。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている[109]。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる[109]

幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している[110]。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた[110]。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった[110]

同年7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[注釈 47]

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。

朝倉・浅井氏の滅亡

8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。

翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に浅井久政が自刃した[113]。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害した[113]。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原でとした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る[114]

11月に、足利義昭は、三好義継の居城・若江城を離れ、紀伊国へと退去した[115]。同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始した[115]。義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害する[115]。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した[115]

天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺された[116]

さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる[116]。信長はこれを迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した[116]

また、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[116][注釈 48]

長島一向一揆の制圧

7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した[117]。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる[117]。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた[117]。これは、信長の「不意討ち」[118]と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある[119]。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた[117]

これを受けて信長は中江城屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた[117]。この戦によって長島を占領した[117][注釈 49]

天正3年(1575年)3月、荒木村重大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

長篠の戦い

『長篠合戦図屏風』

天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた[120]。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた[120]。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。

その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた[121]。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した[121]。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという[121]

そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い[121]。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた[122][注釈 50]。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した[125]。武田方は有力武将の多くを失う[125]。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている[125]

6月27日、相国寺に上洛[注釈 51]した信長は天台宗真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。

7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た[127]。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた[127]

越前侵攻

この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した[128]。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[注釈 52][注釈 53]

越前国は再び織田家の支配するところとなる。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた[129]。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた[129]

右近衛大将就任

安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県近江八幡市安土町

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる[130]。さらに11月7日には右近衛大将を兼任する[130]。この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという[130]。官位就任とともに、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努めた[130]。以後、信長はしばしば「上様」と称されるようになる[130]

これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる[131]。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある[132]。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある[注釈 54][134]。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた[135]。同日、嫡子の信忠は秋田城介に任官し[130]、次男の信雄は左近衛中将に任官している。

11月28日、信長は嫡男・信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲った[130]。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、琵琶湖岸に安土城の築城を開始する[注釈 55]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。

天下人として

第三次信長包囲網

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた[137]。しかし、塙が本願寺勢方の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した[137]。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した[137]。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった[137]。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった[137]。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃[137]。2,700人余りを討ち取った[137]天王寺砦の戦い)。

この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する[138][注釈 56]。謙信は天正4年に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。

天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し[139]、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、本願寺の要請を受けて毛利輝元が派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、石山本願寺の援軍に現れた[139]。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた[139]第一次木津川口の戦い)。

このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった[140]。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという[140]。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった[140]

織田右府

天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した[141]

天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した[142]。天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという[142]。しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた[142]

久秀を討ったのと同じ月に、信長に抵抗していた丹波亀山城内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。このとき、織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。

11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。

天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子上杉景勝上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与えて統治させ、周辺の攻略に当たらせた。

尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[143]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配置した。

中国侵攻

天正6年(1578年)3月、播磨国別所長治の謀反(三木合戦)が起こる[144]

4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した[145]。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった[145]

7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い[146]。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する[147]一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀高山右近は村重に一時的に同調したものの[147]、まもなく信長に帰順した[148]

11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した[149]第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)[150]

天正7年(1579年)6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される[151]。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した[152]

一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った[153][注釈 57]。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した[154]。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した[153]

翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城[155]。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した[155]

天正7年の政治状況

天正7年(1579年)9月、前年に伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国国人に妨害されて立腹していた信雄が独断で伊賀国に侵攻したが、信雄の家老柘植保重植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。

11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した[156][注釈 58]

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる[157]。これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという[157]。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている[158]松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。

大坂本願寺との講和

天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した[159]

同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和[160]。ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている[160][161]。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している[161]。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた[160]

この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる[162][163]。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく[164]。この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある[163]

その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた[165]。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている[165]。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった[165][166]

天下静謐

京都御馬揃えと左大臣推任

天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[167]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった[168]。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる[168]。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による[168]。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった[168]

2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え[168]。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。

3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した[169]。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり[168]、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという[169]

3月7日、天皇は信長を左大臣に推任[170]。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した[170]。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた[170]。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している[170]。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった[170]

8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった[169]

高野山包囲

天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる[169]。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した[169]。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した[169]

信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令[169]。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した[169]。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした[169]。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った[169]

天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した[169]。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した[169]。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた[171]

甲州征伐

天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る[172]。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した[172]。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する[172]

武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する[172]。さらに織田長益、織田信次稲葉貞通ら織田軍が深志城馬場昌房軍と戦い、これを開城させる[172]。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する[172]。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた[172]

この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る[172]。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った[172]。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した[172]。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた[173]

信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する[174]。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した[174]。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領[注釈 59]に任命して厩橋城に駐留させた[174]。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた[174]。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている[174]

4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた[174]。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける[174]。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した[174]。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城[174]。4月21日に安土城へ帰城した[174]

信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った[176]。また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど[177]、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。

本能寺の変

『本能寺焼討之図』(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)

天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある[178]。そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)[178]。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる[178]

4月、信長を太政大臣関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた[179]三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない[179]。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある[179]。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた[179]。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが[注釈 60]、返答の内容は不明である。

この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

こうしたなか、信長は四国長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた[181]。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという[181]。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた[181]。また、伊予国土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった[181]。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた[182]

しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった[181][182]

5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた[183]。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる[183]。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした[184]。信長の光秀に対する信頼は深かった[185]。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている[186][注釈 61]。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた[184]。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた[184][注釈 62]

5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた[183][189]。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する[190]。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる[191]。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓やを手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた[190]享年49[190](満48歳没)[注釈 63]

信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる[193][注釈 64]

この本能寺の変については、光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、様々な説があり、後者には、足利義昭説、朝廷説などがあるという[195]

年表

和暦 西暦[注釈 65] 日付[注釈 66] 内容 出典 年齢[注釈 67]
天文3年 1534年 5月12日 勝幡城で誕生。 1歳
時期不明[注釈 12] 那古野城主となる。
天文15年 1546年 元服。三郎信長を名乗る。 12歳
天文18年 1549年 2月24日 濃姫と結婚。 16歳
天文21年 1552年 父・信秀の死去により家督を相続。 19歳
天文23年 1554年 本拠を清洲城に移転。 21歳
永禄元年 1558年 11月2日 弟・信勝を暗殺。 25歳
永禄2年 1559年 2月2日 初上洛、13代将軍足利義輝に謁見。 26歳
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦い今川義元を討つ。 27歳
永禄6年 1563年 本拠を小牧山城に移転。 30歳
永禄9年 1566年 尾張守を自称する。 33歳
永禄10年 1567年 8月15日 本拠を岐阜城に移転。 34歳
永禄11年 1568年 10月18日 義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛し将軍職就任を助ける。 35歳
10月28日 従五位下弾正少忠[注釈 68] 系図纂要
元亀元年 1570年 3月14日 正四位下弾正大弼[注釈 68] 系図纂要 37歳
1571年 12月13日 勅命により浅井氏朝倉氏六角氏と和睦。
元亀4年 1573年 7月26日 義昭を畿内から追放、足利義昭は毛利家勢力範囲の備後へ遷る。 40歳
天正2年 1574年 3月18日 正四位下参議[注釈 68] 公卿補任。ただし『歴名土代』は従五位下・同日昇殿とする。 41歳
3月28日 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。
天正3年 1575年 11月4日 権大納言 公卿補任 42歳
11月7日 嫡男織田信忠秋田城介に就任(征夷大将軍を望むも義昭が辞職せず)
11月7日 兼右近衛大将(義昭の官位を越える) 公卿補任
11月28日 岐阜城を本拠とする織田家の家督を、嫡男・信忠に譲る。
天正4年 1576年 近江に新たな拠点となる安土城を築く。 43歳
11月13日 正三位 公卿補任
11月21日 内大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正5年 1577年 11月16日 従二位 公卿補任 44歳
11月20日 右大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正6年 1578年 1月6日 正二位 公卿補任 45歳
4月9日 右大臣・右近衛大将を辞す[注釈 69] 公卿補任
天正8年 1580年 3月5日 勅命により石山本願寺と和睦。 47歳
天正9年 1581年 2月28日 京都内裏東で京都御馬揃えを催す。 48歳
天正10年 1582年 6月2日 本能寺の変にて自害。 49歳
10月9日 従一位太政大臣を贈位贈官。 大徳寺文書[注釈 70]
大正6年 1917年 11月17日 正一位を贈位。 官報(1590号) 大正6年11月19日付

人物

織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財)

人物評

歴史学者の池上裕子は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師ルイス・フロイスのものであると述べている[197]。信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」[198]とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。

彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。 — 『フロイス日本史』より[199]

フロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う[197]。他方、歴史学者の神田千里によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い[200]

残虐性

池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った[201]。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している[201]。そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである[202]。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している[203]

もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない[204][注釈 71]。また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている[205]横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない[205]

信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である[注釈 72]。『信長公記』によれば浅井久政長政父子と朝倉義景の3人の首[注釈 73]薄濃はくだみ[注釈 74]にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴のとして披露した。信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』巻七[208])。桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している[209]。この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している[210]

奇行

『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた[20]。異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという[20]。さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている[20]。このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた[211]

しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる[211]。足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える[212]。そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという[211]

家臣の扱い

明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した[注釈 75][213]

これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している[213]。池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている[213][注釈 76]

また、松永久秀、別所長治荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる[215][216]。前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる[197]

他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ[217]、また家臣の取扱いにも慎重だった[218]。前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している[217]。従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある[217]。そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している[217]。当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという[219]

信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている[220]。例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している[165]。しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与られていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという[218]。そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという[218]

信仰

熱田神宮の信長塀(名古屋市熱田区

前述した『フロイス日本史』の記述(→#人物評)から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている[221]。しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている[221]

熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある[222]。この熱田神宮や、津島神社織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている[222]

また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという[223]

このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの[224]、迷信による弊害を嫌った[225]。このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である[225](『信長公記』巻十三)。無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった[225]。信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした[225]。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた[225]。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した[225]。さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという[225]

武芸

前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという[226]。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法弓術砲術といった事柄を修めた[226]

信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[227]

天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[228]。天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。

前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[229]

足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 77]

  • 天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[232]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[233]
  • 天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[234]
  • 天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[235]
  • 天正8年(1560年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[236]

このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[237]

趣味

織田信長公相撲観覧之図 (両国国技館展示)

信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった[238]。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという[239]

そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)[240]。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 59]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある[241]

ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである[240]

また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる[242]。しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する[243][242]

相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[243]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[244]。具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという[244]

幸若舞小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった[245]。その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある[246]

風流の精神

信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした[247]。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている[247]

例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城や明かりを灯して楽しむといったことをしている[247]。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという[248]

信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた[249]。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという[249]

異国への関心

イエズス会の献上した地球儀時計など、西洋の科学技術に関心を持った[250]。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという[251]。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている[250]

信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている[252]。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる[252]。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。

南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある[253]宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという[253]。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい[254]、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう[255]。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている[253]

女性観・男色

信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい[256]。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている[257]

なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる[258][259][注釈 78]

信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある[261][262][注釈 79]

しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる[262]。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い[262]

肖像

信長死後にイエズス会画派セミナリオ教師、ジョバンニ・ニコラオによって描かれた信長の肖像画を写真撮影したもの。三宝寺所蔵。

信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている[263]

代表的な作品として、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)[264]、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像[265]近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの[266]、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。

天童藩織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた(ひげ)などが特徴である。平成4年(1992年)に作家の遠藤周作が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介して以来著名となった[267]。遠藤は同書において、信長の死後に宣教師ジョバンニ・ニコラオが描いた絵を、明治になってから複写したもので、宮内庁織田宗家とともに分け持ったものであると解説している[267]。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている[267]

政策

信長の政権構想

信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた[162]。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる[162]。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる[162]

上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で七徳の武[注釈 82]という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている[269]

従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され[270]、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内山城大和河内和泉摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている[271][272]。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり[273]、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。

そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である[104][274]。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した[104]。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている[104]。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる[104]。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである[104]

幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている[275][276]。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える[275][276]

しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる[277][注釈 83]。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった[274]。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった[278]。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた[278]。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという[278]。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった[279]

領域支配

織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。

この点に関連して、天正3年9月の越前国掟が重要な史料として存在する[280]。この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである[280]

九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった[129]。まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている[129]。そして、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている[129]

このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった[280]。しかし、この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。

通説に対し、歴史学者の丸島和洋は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた[280]。このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという[280]。そして、明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている[280]

こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した[280]。そして、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している[280]。この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる[280]

外交

天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった[281]。例えば、信長は天正7年に島津氏大友氏に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している[281]

しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった[281]。ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる[281]

通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる[282]。ここに、いわゆる「清洲同盟」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという[282]。しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない[282]

実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる[282]。両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった[283]。しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、書札礼でも信長が家康に優越する立場となっている[283]。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている[283][281]。こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという[283][281][284]

なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。歴史学者の中村栄孝は信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている[285]。ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる[286]

朝廷政策

上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた[287]。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている[287]。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった[288]

信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある[289]。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた[290]1990年代今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』[注釈 84]を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された[290]。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている[289]

平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである[291][289]

信長と天皇・朝廷の関係
対立・克服説 融和・協調説
奥野高廣 脇田修
朝尾直弘 橋本政宣
藤木久志 三鬼清一郎
秋田裕毅 池享[注釈 85]
今谷明 堀新
立花京子 谷口克広
藤井譲治[注釈 86] 池上裕子
藤田達生 神田千里
桐野作人
山本博文
金子拓

信長が天皇を超越しようとしたかどうかについては、宣教師に対する信長の発言がしばしば注目される[289]。ルイス・フロイスの書簡によれば、宣教師が天皇への謁見を求めた際、信長は「汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる[292]。松田毅一が翻訳した『日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる[293]

この発言は天正9年京都馬揃えの直前になされた[294]。このように、信長が自身を天皇・内裏であると述べたことについて、信長が天皇を超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる[289]。しかし、この説について平井上総は疑義を呈しており[289]、堀新も信長の皇位簒奪の意図を示すものではなく、融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇と信長の一体化を意味した発言だと述べる[294]

信長と朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる三職推任問題をはじめ、正親町天皇の譲位問題、蘭奢待の切り取り、京都馬揃え、勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈が別れている[289][295][296]。以下、代表的なものに絞って時系列順で見ていく。

足利義昭追放後の天正元年(1573年)12月、信長は正親町天皇に譲位の申し入れを行い、天皇もこれを了承した[297]。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった[297]。これについて、対立説の解釈では、信長は自身の言いなりとなる誠仁親王を即位させようとし、この動きに正親町天皇が抵抗したことで譲位が遅延したと考える[297]。一方、融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の意向により実現しなかったとみている[297][注釈 87]

信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、対立説では、朝廷への軍事的圧力・示威行動であったと見る[298]。これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する[298]。2017年現在では、朝廷に対する圧力というより、一種の娯楽行事であったとする見解が有力となっている[299]

天正10年(1582年)4月25日、武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた[300]。この際、信長が征夷大将軍太政大臣関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された[300]。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)[300]。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような構想を持っていたか、正確なところは不明である。

宗教政策

織田政権は一向一揆と激しく争い[301][注釈 88]、また、比叡山を焼き討ちした[302]。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた[303]。例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している[304]

しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた[303]。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない[303]。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる[302]

信長の宗教政策上、天正7年の「安土宗論」が注目されてきた[302][305]。この安土宗論は、信長の関与のもと、浄土宗と日蓮宗のあいだで宗論が行われたというものである[302]。日蓮宗は宗論において敗北を認めさせられ、今後、他の宗派に論争を仕掛けないことを強いられた[302]。一般的には、安土宗論は信長による日蓮宗に対する弾圧だと捉えられてきた。例えば、三鬼清一郎は、日蓮宗が「宗論の敗訴という形で、宗旨そのものに致命的打撃を与えることによって屈服させられた」と表現し、天文法華の乱のような都市民と日蓮宗の連携の危険を排除したと述べている[306]。しかし、安土宗論の実際の目的は、日蓮宗弾圧というよりも、宗論を抑制することで宗教的秩序の維持を企図する点にあったと考えられるという議論もある[302][305]

天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている[307]。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された[307]。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである[307]

神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した[308]。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている[308]

なお、同時代の宣教師ルイス・フロイスは、信長が自らを神格化しようとしたと述べている[309]。しかし、この自己神格化について、日本側の史料で記述したものは、まったく存在しない[309]。そのため、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがある[309]。肯定する論者には、例えば、朝尾直弘や今谷明などがいる[310]。朝尾は、一向一揆との対決という背景のもと、後の幕藩制国家につながる「将軍権力」の創出過程の一環として、信長の自己神格化を位置づける[311]。一方、神格化を否定する立場は、フロイスの記述はあくまでキリスト教側からの偏った観点によるものであり、信ずるに足るものではないとする脇田修や三鬼清一郎らの見解がある[312]

経済・都市政策

いわゆる「楽市・楽座令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角氏が最初に行った施策である[313]。この「楽市・楽座令」については評価が別れている[314]。かつて豊田武は、特権的な商工業者の団体であるを解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた[314]。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、脇田修らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている[314]

また、不必要な関所を撤廃して流通を活性化させ、都市の振興と経済の発展を図った[315]。これについては他の戦国大名の行ったことのない革新的な政策であると考えられる[315]

関所撤廃とあわせて、天正2年(1574年)末から、信長は坂井利貞ら4人の奉行に道路整備を命じている[316]。この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施された[316][注釈 89]。この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となった[316]

当時全国でばらばらであったの統一規格として、織田領国では京枡を統一採用したともされる。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった

そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である[317]。また、金銀の貨幣価値を定める規定[注釈 90]は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている[318]。ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている[319]

さらに信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという[320]

軍事

信長は、柴田勝家滝川一益羽柴秀吉 明智光秀などの有力部将に地域ごとに軍団を率いさせるとともに、自身の直属部隊として馬廻などを組織していた[321]。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している[322]。信長軍は機動力に優れており、本圀寺の変では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し[323]、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘もある[324]

また、信長は火器を重視した[325]長篠の戦いにおける三段撃ちは架空のものであるとする見解が有力となっているとはいえ、信長が多数の鉄砲を運用していたことは確かである[326]。特に、諸武将から鉄砲を徴発することで直属の旗本衆の鉄砲部隊を強化しており、一ヵ所の戦場に集中して鉄砲を運用することを可能にした点は信長の鉄砲運夜の特徴である[326]

大砲もすでに元亀年間から使用していた形跡があり、第二次木津川口の戦いなどで船に搭載した他、神吉城攻め以降は攻城戦においても本格的に運用していた[327]。いわゆる鉄甲船を作ったとも言われるが、根拠となる史料が『多聞院日記』天正六年七月八日条のみなので、その実在性については賛否両論がある[328]

なお、織田家では、明文化された軍役規定は、明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」[注釈 91]とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」[330]とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである。

後世の評価

「凶逆の人」から勤王家へ

江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった[331]。儒学者の小瀬甫庵新井白石太田錦城らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した[331]。例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった[332]。そして、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた[332]。民衆のあいだでも信長は不人気であり、歌舞伎浄瑠璃などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている[331]

このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、頼山陽である[331]。江戸時代後期の尊王運動に多大な影響力を有したことで知られる[333]頼山陽の『日本外史』は、信長を「超世の才」として高く評価した[334]。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する[334]。そして、中国後周の名君・世宗の偉業が趙匡胤北宋樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる[334]

夫れ応仁以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府[注釈 92]に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや。 — 頼山陽『日本外史』[334]

幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した[335]。明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した[336]。明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した[336]。信長には明治天皇から建勲神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された[336]。その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている[336]大正6年(1917年)には正一位を追贈された[注釈 93]

こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた[99]

革新者か否か

第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。歴史小説においては、すでに戦中の1944年に坂口安吾が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した[337]。合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された司馬遼太郎国盗り物語』、バブル期の津本陽下天は夢か』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった[337]

学術的には、1963年刊行の『岩波講座日本歴史』において、今井林太郎が信長を次のように評価している。信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」[338]人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」[339]と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。この頃には信長が天皇制を打倒しようとしていたという説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる[340]。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」[341]と評価されてきた。

新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った太閤検地こそが近世への転換点だという学説も有力であった[342]朝尾直弘脇田修は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である[343]。朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者[注釈 94]であると捉えていた[343]

その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている[344][345]。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され[276]、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった[289]。「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった[346]。また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある[221]。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている[345][344]

系譜

織田氏の発祥の地は越前国織田荘であり、その荘官の立場にあったという[347]。織田氏と思われる人物の史料上の初見は、劔神社に残された明徳4年(1393年)六月十七日付藤原信昌兵庫助将広置文であるとされる[347]。応永8年(1401年)には、織田名字を使用する「織田与三」なる人物が初めて現れ、彼は管領斯波氏の家臣として重要な役割を果たしていた[348]。その翌年には織田常松が尾張守護代に任じられている[348]

尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた[7]。そして、後者の大和守家の分家で、清洲三奉行家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である[7]

信長の子孫としては、信忠の子である三法師(織田秀信)が、形式上、織田家の家督を継いだ[349]。秀信は豊臣政権下で岐阜で13万石程度の領地を持ったが、関ヶ原合戦の結果、所領を没収されてしまう[349]。秀信は数年後に病を得て世を去り、ここに嫡流は絶えることとなる[349]

一方、次男の織田信雄は豊臣政権下で所領を失ったものの、大阪の陣後、大和宇陀郡などに五万石を与えられた[349]。信雄の子孫が、柏原藩、高畠藩、天童藩といった小規模な藩の藩主となり、江戸時代を通じて大名として続いている[349]

先祖

兄弟

兄弟のうち、秀俊(信時)および秀孝の出生順については議論がある。江戸時代の諸系図類では秀俊は、信秀の六男となっており、信長の弟とされる[350]。しかし、谷口克広によれば、『信長公記』の記述に基づく限り、秀俊は信秀の次男、すなわち信長の兄である[350]。同様に諸系図類では秀孝を信包の弟であるとするが、秀孝は信包の兄であるとも考えられる[351]

姉妹

息子

信長の娘については、事跡の詳細が不明な者がほとんどである[352]。その上、『寛永諸家系図伝』では娘が6人となっているのに対して、より後年の『寛政重修諸家譜』では12人となっていたりと、系図によって娘の人数も一定しない[353]。渡辺江美子によれば、『寛永諸家系図伝』はおおよそ正しく長幼の順に娘を挙げているものの、法華寺本・坪内本の『織田系図』にある通り、長女は松平信康室ではなく蒲生氏郷室を長女とするのが正しいと推定される[354][355]。また、『寛永諸家系図伝』に載らない娘について、水野忠胤室は夫の不祥事のために意図的に省かれたと思われ、万里小路充房室・徳大寺実久室の2人は、公家と婚姻したためか織田信孝扶養であったためかのいずれかの理由で見落とされたと考えられる[355]

養女

猶子

一門衆

墓所・霊廟・寺社

  • 「信長公廟」:京都市中京区本能寺[注釈 97]にある石造宝篋印塔入母屋造の廟屋。
  • 「織田信長公本廟」:京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある石碑。当時の住職・清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められたという。信長の命日に当る毎年6月2日のみ公開されている。
  • 「織田信長墓所」:高野山奥の院の五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、昭和45年(1970年)に再発見。
  • 京都市北区大徳寺塔頭の総見院の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」による。特別公開時期以外は非公開[366]
  • 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
  • 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある石造宝篋印塔。
  • 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。
  • 「信長公廟」:愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の石造宝篋印塔。織田信雄が清洲城下に菩提を弔うために立てた寺院。清洲越しにより名古屋に移る。
  • 「織田信長供養塔」:愛知県清須市の興聖山総見院。清洲越しで名古屋に移った34年後、総見寺跡に再建立された寺院。
  • 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
  • 初代加賀藩主・前田利長泉野菅原神社を造営し、ひそかに信長を神として祀っており[367]熊本藩細川忠興(三斎)なども信長の菩提を弔うため、その法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんで泰巌寺を建立した[368]
  • 明治時代には、信長を主宰神とする建勲神社が東京と天童に創建された。
  • 越前二の宮 剣神社」:福井県越前町(旧・織田町):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神社を保護した[369]。毎年10月19日の大祭には織田家当主が参列している[366]
  • 岐阜市若宮町の橿森神社では、信長が美園で開いた楽市楽座市神が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
  • 愛知県清須市清洲古城跡に信長を祀る神明造の小祠がある。
  • 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院所蔵。(南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
  • 天正寺:山崎の戦い後、秀吉は信長を弔うため、京都船岡山に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年(1588年)、建立責任者の蒲庵古渓が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
  • 「織田信長の首塚」:静岡県富士宮市西山本門寺。西山本門寺18世・日順の父、原宗安(原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊を植え首塚に葬ったという。

関連事項

史料

織豊期の史料は相対的に豊富とは言えず、また、代表的な史料すら、それぞれの信頼性がどの程度かという評価も固まっているとは言えない[370]

一般に、信長研究において最も重要な基本史料とされるのは、奥野高廣が集成した信長発給文書(『織田信長文書の研究』)および、同じく奥野高廣ら校注の角川文庫版『信長公記』である[370][371]

ただし、堀新によれば、後者の『信長公記』については、角川文庫版が自筆本の翻刻ではなく、また、『信長公記』の写本間の異同・系統研究もいまだ十分ではないという課題があるという[370]。文書についても、信長発給文書だけでなく、家臣団発給文書の収集・分析が必要であるという課題を指摘している[370]

行事、祭礼

織田信長を題材とした作品

小説

  • 『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
  • 「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
  • 『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
  • 『炎の柱 織田信長<上・下>』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
  • 国盗り物語司馬遼太郎、1967年。
  • 『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
  • 『安土往還記』辻邦生、筑摩書房1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
  • 『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉1975年。
  • 下天は夢か津本陽、1989年。
  • 『決戦の時』遠藤周作、講談社、〈講談社文庫〉、1991年。
  • 『織田信長<全六巻>』鷲尾雨工、富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年。
  • 『鬼と人と<上・下>』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
  • 『炎の人 信長<1 - 6>』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
  • 「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
  • 『信長燃ゆ<上・下>』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
  • 信長の棺加藤廣、2005年。

映画

テレビドラマ

1963年から2009年までのNHK大河ドラマ48作中、信長の登場作品は18作に及ぶが、この数字は豊臣秀吉と並び、他の歴史上の人物よりも遥かに多い[372]

漫画

  • 横山光輝『織田信長』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)

ゲーム

脚注

注釈

  1. ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
  2. ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[2]
  3. ^ 『日本耶蘇会年報』より、ルイス・フロイスが1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から。武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。
  4. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  5. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  6. ^ 詳細は#人物を参照。
  7. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  8. ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
  9. ^ 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
  10. ^ 詳細は#革新者か否かを参照。
  11. ^ 異母兄として織田信広がおり[3]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[3]。これらは庶流の扱いとなる。
  12. ^ a b 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[9]
  13. ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され[15]、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[16]
  14. ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[17][18]
  15. ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[19]
  16. ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[20]
  17. ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[22]。以降、本文では「信勝」で統一。
  18. ^ これは諌死であったとも、平手氏と信長の確執のためともされる。
  19. ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[28]
  20. ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[29]
  21. ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[30]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[29]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[30]
  22. ^ 『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。
  23. ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
  24. ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている)[37]
  25. ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[38]
  26. ^ 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)。
  27. ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[42]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[42]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[42]
  28. ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[43]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[43]
  29. ^ このときは、はじめ、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言していたという。唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を小牧山に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の織田信清と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じたと伝えられる(『信長公記』首巻)。
  30. ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[45]、柴裕之もこれを支持している[46]
  31. ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[48]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[49]
  32. ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[50]
  33. ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[51]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[52]
  34. ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[56]
  35. ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。
  36. ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[59]
  37. ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[61]
  38. ^ これらは綸旨女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[66]
  39. ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
  40. ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[74]
  41. ^ 『信長公記』によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。また、出発前において、馬借が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックしたという逸話がある(『信長公記』巻二[76])。
  42. ^ このころ、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わったという。この善住坊は、天正元年(1573年)に捕らえられた。信長は善住坊の身体を土に埋め、切れ味の悪い竹製の首を挽かせ、長期間激痛を与え続け処刑した(巻六)[84])。
  43. ^ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
  44. ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[89]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[90]
  45. ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[98]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[99]
  46. ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[103]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
  47. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[111]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[112]
  48. ^ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に陸奥国からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
  49. ^ ちなみに『フロイス日本史』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。
  50. ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[123]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[123]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[123]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[124]
  51. ^ 美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)では、「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという(『信長公記』巻八[126])。
  52. ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
  53. ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
  54. ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[133]
  55. ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも[136]、元々あった地名だとも言われる。
  56. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  57. ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[153]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[153]
  58. ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[156]
  59. ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[175]
  60. ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条)[180]
  61. ^ この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[187]
  62. ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[188]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[188]
  63. ^ 本能寺の変の後には、吉田兼見などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない[192]。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという[192]
  64. ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[194]
  65. ^ ユリウス暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
  66. ^ 宣明暦長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
  67. ^ 数え年
  68. ^ a b c 実際には、信長は天正3年11月まで無位無官だったと考えられる[196]。天正2年に正四位下参議になったとされているのは、大納言任官の際に、いきなり高位高官に任じるというのは形式上問題があるため、さかのぼって任官されていたことにしたものである[196]
  69. ^ このとき織田家の家督・信忠は従三位左近衛中将。
  70. ^
    天皇詔旨良万止、故右大臣正二位平朝臣信長爾、倍止勅命衆聞食宣、策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德須、允惟朝乃重臣、中興乃良士奈利止、志爾不量天運相極氐、性命空逝奴、旌旗輝東海志、晏駕馳西雲須、爰贈崇號氐、照冥路古止者、先王之令典、歷代之恆規多利、故是以重太政大臣從一位爾、上給天皇勅命乎、遠聞食 —  天正十年十月九日、織田信長贈太政大臣従一位宣命「総見院文書」
    (訓読文)
    天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故右大臣正二位平朝臣信長に詔(の)りたまへと勅命(のりたまふおほみこと)を衆(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、一人(ひとり)扶翼(ふよく)の功を策(はか)り、万邦鎮撫の徳を敷かす、允(まこと)に惟(これ)朝(みかど)の重臣、中興の良士なりと慮(おもほ)ししに、量(はか)らずに、天運相極(あひきはま)りて、性命(いのち)空しく逝(ゆ)きぬ、昨(むかし)は旌旗(はた)を東海に輝かし、今は晏駕(あんが)を西雲に馳(は)す、爰(ここ)に崇号を贈りて、冥路(めいろ)を照らすことは、先王の令典(れいてん)、歴代の恒規(こうき)たり、故是(かれここ)を以(も)て重ねて太政大臣従一位に上(のぼ)し給ひ賜ふ天皇が勅命(おほみこと)を遠(はろか)に聞食さへと宣る、天正10年(1582年)10月9日
  71. ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[204]。伊達政宗も同様の行為をしている[204]
  72. ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[206])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[207]
  73. ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
  74. ^ でかためて金泥などを塗ったもの。
  75. ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[213]
  76. ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[213][214]
  77. ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[230]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[231]
  78. ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[260]
  79. ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
  80. ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  81. ^ 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[268]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[268]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[268]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[268]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[268]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[268]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[268]平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[268]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
  82. ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
  83. ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[277]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[277]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[277]
  84. ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963 のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613
  85. ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
  86. ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[289]
  87. ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
  88. ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[301]
  89. ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
  90. ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
  91. ^ 池上裕子[329]など。
  92. ^ 信長のこと。
  93. ^ 正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
  94. ^ 脇田修、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121008435
  95. ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
  96. ^ 詳細不明。娘ではないともされる。
  97. ^ 本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。

出典

  1. ^ a b 岡田正人 1999, p. 162.
  2. ^ 下村信博 2011b, p. 241.
  3. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 2.
  4. ^ a b c d 下村信博 2011b, pp. 241–242.
  5. ^ “信長生誕地「勝幡城説」。播磨中京大教授が愛西で講座”. 中日新聞. (2014年7月4日). オリジナルの2015年5月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150508182752/http://edu.chunichi.co.jp/?action_kanren_detail=true&action=education&no=4757 2015年5月9日閲覧。 
  6. ^ 小和田哲男 (2018年8月16日). “戦国武将と城<織田信長と城>第1回 信長生誕地は那古野城か勝幡城か”. 城びと. 公益財団法人日本城郭検定協会. 2018年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月2日閲覧。
  7. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 6–9.
  8. ^ a b 下村信博 2011a, pp. 209–239.
  9. ^ 下村信博 2011b, p. 242.
  10. ^ 池上裕子 2012, p. 4.
  11. ^ 『織田信長事典』[要文献特定詳細情報]116頁
  12. ^ 谷口克広 2017, pp. 126–127.
  13. ^ a b 池上裕子 2012, p. 3.
  14. ^ a b c 下村信博 2011b, pp. 242–243.
  15. ^ 『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条
  16. ^ 井原今朝男 2014, p. 203.
  17. ^ 柴裕之 2011, p. 30.
  18. ^ 村岡幹生 2011, p. 22.
  19. ^ 柴辻俊六 2016, p. 117.
  20. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 3–4.
  21. ^ 柴裕之 2011, p. 32.
  22. ^ a b c d e 下村信博 2011b, pp. 243–245.
  23. ^ a b 池上裕子 2012, p. 6.
  24. ^ 下村信博 2011b, pp. 245–246.
  25. ^ 下村信博 2011b, pp. 245–247.
  26. ^ 池上裕子 2012, pp. 5–6.
  27. ^ 池上裕子 2012, p. 13.
  28. ^ a b c d e f 下村信博 2011b, pp. 247–249.
  29. ^ a b c d e f g 下村信博 2011b, pp. 250–251.
  30. ^ a b 柴裕之 2011, pp. 27–28.
  31. ^ 下村信博 2011b, pp. 254–255.
  32. ^ a b c d e f 下村信博 2011b, pp. 254–256.
  33. ^ 下村信博 2011b, pp. 244–245.
  34. ^ 下村信博 2011b, pp. 253–254.
  35. ^ 池上裕子 2012, p. 14.
  36. ^ a b c 村岡幹生 2011, pp. 20.
  37. ^ a b 天野忠幸 2016a, pp. 29–33.
  38. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 15.
  39. ^ a b 池上裕子 2012, p. 16.
  40. ^ 平野明夫 2016, pp. 11–12.
  41. ^ 池上裕子 2012, pp. 16–19.
  42. ^ a b c 平野明夫 2016, pp. 3–5.
  43. ^ a b 平野明夫 2014, pp. 69–72.
  44. ^ a b 池上裕子 2012, p. 20.
  45. ^ 横山住雄 2011.
  46. ^ a b 柴裕之 2011, p. 34.
  47. ^ 柴裕之 2017a, p. 75.
  48. ^ 富加町史編集委員会 1980, p. 227.
  49. ^ 富加町史編集委員会 1980, p. 229.
  50. ^ a b c 金子拓 2017a, pp. 20–23.
  51. ^ a b 天野忠幸 2016a, pp. 54–60.
  52. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 70–72.
  53. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 60–61.
  54. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 66–67.
  55. ^ a b c 柴裕之 2017b, pp. 254–258.
  56. ^ 久保尚文 2015, p. 87.
  57. ^ 池上裕子 2012, p. 33.
  58. ^ a b c 柴裕之 2017b, pp. 258–264.
  59. ^ 池上裕子 2012, pp. 20–25.
  60. ^ 池上裕子 2012, pp. 25–26.
  61. ^ 服部英雄 2000, p. 226.
  62. ^ 林屋辰三郎 2005, p. 105.
  63. ^ 池上裕子 2012, pp. 56–60.
  64. ^ 池上裕子 2012, pp. 26–27.
  65. ^ a b 柴裕之 2017b, pp. 263–264.
  66. ^ a b 藤井譲治 2011, pp. 19–24.
  67. ^ 久野雅司 2015a, p. 17.
  68. ^ a b 久野雅司 2015a, p. 18.
  69. ^ a b 池上裕子 2012, p. 35.
  70. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 86–89.
  71. ^ 池上裕子 2012, p. 36.
  72. ^ 久野雅司 2015a, pp. 20–21.
  73. ^ 久野雅司 2015b, p. 251-252.
  74. ^ 村川浩平 2000, p. 50.
  75. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 38.
  76. ^ 大田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, pp. 93–94.
  77. ^ 池上裕子 2012, pp. 39–40.
  78. ^ 柴辻俊六「織田政権下の堺と今井宗久」『信濃』65巻8号(2013年)/所収:柴辻『織田政権の形成と地域支配』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-206-3
  79. ^ 臼井進 2015, pp. 206–211.
  80. ^ 藤井譲治 2011, pp. 36–37.
  81. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 40–41.
  82. ^ 久野雅司 2015a, p. 30.
  83. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 67–69.
  84. ^ 大田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, pp. 161–162.
  85. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 70–72.
  86. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 72–74.
  87. ^ a b c d e f 池上裕子 2012, pp. 74–75.
  88. ^ 林屋辰三郎 2005, p. 143.
  89. ^ 堀新「織田信長と勅命講和」(歴史学研究会 編『シリーズ歴史学の現在7 戦争と平和の中近世史』青木書店、2001年
  90. ^ 片山正彦「「江濃越一和」と関白二条晴良」(初出:戦国史研究会 編『戦国史研究』53号(2007年)/所収:片山『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年)
  91. ^ 池上裕子 2012, pp. 78–79.
  92. ^ 鴨川達夫 2007, pp. 174–177.
  93. ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007
  94. ^ 池上裕子 2012, p. 83.
  95. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 84–85.
  96. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 86–87.
  97. ^ a b c d e 柴裕之 2016, pp. 10–11.
  98. ^ 久野雅司 2017, pp. 150–152.
  99. ^ a b 平井上総 2017, p. 20.
  100. ^ 池上裕子 2012, pp. 89-90d.
  101. ^ 柴裕之 2016, pp. 2–4.
  102. ^ a b 久野雅司 2015a, pp. 36–37.
  103. ^ 鴨川達夫 2007, pp. 178–180.
  104. ^ a b c d e f 神田千里 2013a.
  105. ^ 神田千里 2002.
  106. ^ 鈴木眞哉 & 藤本正行 2006, pp. 125–126.
  107. ^ 藤田達生 2010, pp. 48–73.
  108. ^ 木下昌規 2014b, pp. 26–28.
  109. ^ a b 平井上総 2017, pp. 23.
  110. ^ a b c 久野雅司 2015a, pp. 37–42.
  111. ^ 『御湯殿上日記』
  112. ^ 神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年。
  113. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 96–97.
  114. ^ 谷口克広 2002, pp. 129–131.
  115. ^ a b c d 池上裕子 2012, p. 98.
  116. ^ a b c d 池上裕子 2012, p. 103.
  117. ^ a b c d e f 池上裕子 2012, pp. 105–108.
  118. ^ 金子拓 2017a, p. 87.
  119. ^ 播磨良紀「織田信長の長島一向一揆攻めと「根切」」、新行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』吉川弘文館、2010年所収。
  120. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 108–109.
  121. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 109–112.
  122. ^ 長屋隆幸 2016, pp. 93–94.
  123. ^ a b c 長屋隆幸 2016, pp. 94–96.
  124. ^ 長屋隆幸 2016, pp. 106–107.
  125. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 112.
  126. ^ 大田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, pp. 185–186.
  127. ^ a b 池上裕子 2012, p. 113.
  128. ^ 池上裕子 2012, pp. 114–117.
  129. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 117–118.
  130. ^ a b c d e f g 池上裕子 2012, pp. 120–122.
  131. ^ 谷口克広 2012, pp. 201–202.
  132. ^ 藤田達生 2001, pp. 68–72.
  133. ^ 木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』戒光祥出版、2017年、P.287-292・294-296)
  134. ^ 木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(初出:『日本歴史』793号、2014年)/所収:木下昌規 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』(戒光祥出版、2017年)ISBN 978-4-86403-253-7
  135. ^ 木下昌規 2014a, pp. 357–358.
  136. ^ 『細川家記』
  137. ^ a b c d e f g 池上裕子 2012, pp. 124–125.
  138. ^ 池上裕子 2012, pp. 127–128.
  139. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 125–126.
  140. ^ a b c 藤井譲治 2011, pp. 114–116.
  141. ^ 池上裕子 2012, pp. 155–156.
  142. ^ a b c 中川貴皓 2017, pp. 178–180.
  143. ^ 藤木久志 2005, p. 40.
  144. ^ 池上裕子 2012, p. 161.
  145. ^ a b 藤井譲治 2011, pp. 134–136.
  146. ^ 池上裕子 2012, pp. 164–165.
  147. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 167–168.
  148. ^ 池上裕子 2012, pp. 169–170.
  149. ^ 池上裕子 2012, p. 169.
  150. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 114–115.
  151. ^ 池上裕子 2012, p. 171.
  152. ^ 池上裕子 2012, pp. 172–173.
  153. ^ a b c d 天野忠幸 2016b, pp. 117–119.
  154. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 118–121.
  155. ^ a b 池上裕子 2012, p. 178.
  156. ^ a b 藤井譲治 2011, pp. 136–138.
  157. ^ a b 谷口克広 2007a, pp. 203–205.
  158. ^ 谷口克広 2007a, pp. 205–211.
  159. ^ 丸島和洋 2013, p. 243.
  160. ^ a b c 堀新 2014, pp. 36–40.
  161. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 183–184.
  162. ^ a b c d 三鬼清一郎 1985, pp. 74–75.
  163. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 182–183.
  164. ^ 三鬼清一郎 1985, pp. 99–100.
  165. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 184–186.
  166. ^ 谷口克広 2007a, pp. 124–128.
  167. ^ 西ヶ谷恭弘 2000, p. 205
  168. ^ a b c d e f 西ヶ谷恭弘 2000, p. 206
  169. ^ a b c d e f g h i j k l 西ヶ谷恭弘 2000, p. 207
  170. ^ a b c d e 藤井譲治, pp. 140–141.
  171. ^ 西ヶ谷恭弘 2000, p. 208
  172. ^ a b c d e f g h i j 西ヶ谷恭弘 2000, p. 210
  173. ^ 西ヶ谷 2000, pp. 210–211.
  174. ^ a b c d e f g h i j 西ヶ谷恭弘 2000, p. 211
  175. ^ 谷口克広 1995, p. 235.
  176. ^ 遠藤ゆり子編 2015, p. 88.
  177. ^ 遠藤ゆり子編 2015, p. 260.
  178. ^ a b c 藤井譲治 2011, pp. 141–144.
  179. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 208–211.
  180. ^ 立花京子「信長権力と朝廷」
  181. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 211–213.
  182. ^ a b 木下昌規 2016, pp. 193–194.
  183. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 213–214.
  184. ^ a b c 金子拓 2017a, pp. 156–158.
  185. ^ 金子拓 2017a, pp. 176–177.
  186. ^ 金子拓 2017a, pp. 177–179.
  187. ^ 江後迪子 2007, pp. 24–37.
  188. ^ a b 金子拓 2017a, p. 177.
  189. ^ 太田 & 中川 2013, p.313
  190. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 214–217.
  191. ^ 池上裕子 2012, p. 216.
  192. ^ a b 池上裕子 2012, p. 219.
  193. ^ 呉座勇一 2018, pp. 203–204.
  194. ^ 山本雅和 (2008年4月). “「本能寺の変」を調査する” (pdf). リーフレット京都 No.231. 京都市埋蔵文化財研究所京都市考古資料館. 2018年9月22日閲覧。
  195. ^ 池上裕子 2012, p. 222.
  196. ^ a b 谷口克広 2013, p. 103.
  197. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 28–30.
  198. ^ 完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)
  199. ^ 完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)
  200. ^ 神田千里 2015, pp. 49–50.
  201. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 29–30.
  202. ^ 池上裕子 2012, pp. 106–108.
  203. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 120–121.
  204. ^ a b c 神田千里 2014, pp. 163–164.
  205. ^ a b 横田冬彦 2009, pp. 375–377.
  206. ^ 大田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, pp. 351–352.
  207. ^ 『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章
  208. ^ 太田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦, pp. 165.
  209. ^ 桑田忠親 1958, p. 25.
  210. ^ 宮本義己 2010, pp. 61–62.
  211. ^ a b c 神田千里 2014, pp. 217–219.
  212. ^ 神田千里 2014, pp. 208–212.
  213. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 265–268.
  214. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 110–112.
  215. ^ 谷口克広 2007a, pp. 256–259.
  216. ^ 池上裕子 2012, p. 276.
  217. ^ a b c d 神田千里 2014, pp. 203–207.
  218. ^ a b c 神田千里 2014, pp. 215–216.
  219. ^ 神田千里 2014, pp. 207–208.
  220. ^ 神田千里 2014, pp. 211–212.
  221. ^ a b c 神田千里 2015, pp. 50–54.
  222. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 124–125.
  223. ^ 神田千里 2015, pp. 54–57.
  224. ^ 脇田修 1987, pp. 135–136.
  225. ^ a b c d e f g 脇田修 1987, pp. 136–137.
  226. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 4–5.
  227. ^ 脇田修 1987, p. 129.
  228. ^ 谷口克広 2009, p. 214.
  229. ^ 太田牛一『信長公記』、巻14。
  230. ^ 高橋博 1992, p. 25.
  231. ^ 四宮美帆子 2013, p. 177.
  232. ^ 原田正記 1991, pp. 46–47.
  233. ^ 遠藤ゆり子編 2015, p. 256.
  234. ^ 本多博之 2015, p. 69.
  235. ^ 原田正記 1991, p. 47.
  236. ^ 『信長公記』、巻13。
  237. ^ 原田正記 1991, pp. 47–48.
  238. ^ 八尾嘉男 2017, pp. 283–286.
  239. ^ 八尾嘉男 2017, pp. 287–288.
  240. ^ a b 八尾嘉男 2017, pp. 292–295.
  241. ^ 八尾嘉男 2017, pp. 295–296.
  242. ^ a b 谷口克広 1998, pp. 60–67.
  243. ^ a b 池上裕子 2012, p. 30.
  244. ^ a b 下谷内勝利 2011, pp. 392–393.
  245. ^ 脇田修 1987, pp. 134–135.
  246. ^ 脇田修 1987, p. 130.
  247. ^ a b c 脇田修 1987, pp. 126–129.
  248. ^ 金子拓 2017b, pp. 112–113.
  249. ^ a b 金子拓 2017b, pp. 106–111.
  250. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 127–128.
  251. ^ 高木洋 2011, p. 38-40.
  252. ^ a b 榊原悟 2010, pp. 44–45.
  253. ^ a b c 谷口克広 2013, pp. 132–133.
  254. ^ 岡垣頼和・浅川滋男 2010, p. 42.
  255. ^ 岡垣頼和・浅川滋男 2010, pp. 34–35.
  256. ^ 勝俣鎮夫 2003, pp. 1–3.
  257. ^ a b 勝俣鎮夫 2003, pp. 3–4.
  258. ^ 宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号、1999年)
  259. ^ 宮本義己「戦国時代の夫婦とは」(『歴史研究』488号、2002年)
  260. ^ 桑田忠親「豊臣秀吉の右筆と公文書に関する諸問題」」(『史学雑誌』52巻3・4号、1941年)
  261. ^ 近代デジタルライブラリー「利家夜話三巻」pp.7
  262. ^ a b c 谷口克広 1998, pp. 49–50.
  263. ^ 田村英恵 「織田信長像をめぐる儀礼」黒田日出男編『肖像画を読む』 角川書店、1998年、176頁。ISBN 978-4-04-821057-7。ただし、その内訳や所蔵先などの記載はない。
  264. ^ 文化庁オンラインに画像と解説あり[1]
  265. ^ 山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ―修理で得られた知見を中心に―」、『京都国立博物館學叢』所収、2011年[注釈 80]
  266. ^ 藤本正行 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』(洋泉社、2010年)口絵参照、ISBN 978-4-86248-638-7。また、これに忠実な模本が東京国立博物館に所蔵されている(画像)。
  267. ^ a b c 「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」 - 『中学校 歴史のしおり』2006年1月号(帝国書院
  268. ^ a b c d e f g h 平井上総 2017, pp. 18–19.
  269. ^ 矢部健太郎編 2016, p. 74.
  270. ^ 谷口克広 2002, p. 58.
  271. ^ 神田千里 2013b.
  272. ^ 神田千里 2014, p. 103-111.
  273. ^ 金子拓 2014, p. 110.
  274. ^ a b 堀新 2014, pp. 29–31.
  275. ^ a b 堀新 2014, pp. 28–31.
  276. ^ a b c 平井上総 2017, pp. 19–20.
  277. ^ a b c d 柴裕之 2016, pp. 13–14.
  278. ^ a b c 金子拓 2014, pp. 14–29.
  279. ^ 柴裕之 2017a, pp. 105–107.
  280. ^ a b c d e f g h i 平井上総 2017, pp. 22–23.
  281. ^ a b c d e f 平井上総 2017, pp. 23–24.
  282. ^ a b c d 平野明夫 2014, pp. 67–69.
  283. ^ a b c d 平野明夫 2014, pp. 75–82.
  284. ^ 柴裕之 2017a, pp. 107–108.
  285. ^ 中村栄孝 1935, pp. 16–17.
  286. ^ 堀新 2014, pp. 55–57.
  287. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 102–103.
  288. ^ 谷口克広 2013, pp. 114–116.
  289. ^ a b c d e f g h i 平井上総 2017, pp. 20–22.
  290. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 96–99.
  291. ^ 谷口克広 2007b, pp. 138–139.
  292. ^ 藤井譲治 2011, p. 153.
  293. ^ 『歴史評論』680号所収、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」
  294. ^ a b 堀新 2014, pp. 61–62.
  295. ^ 谷口克広 2007b, pp. 103–141.
  296. ^ 谷口克広 2013, pp. 96–116.
  297. ^ a b c d 谷口克広 2013, pp. 107–110.
  298. ^ a b 神田裕理 2017, pp. 174–175.
  299. ^ 神田裕理 2017, pp. 186–189.
  300. ^ a b c 谷口克広 2013, pp. 104–107.
  301. ^ a b 堀新 2014, pp. 36.
  302. ^ a b c d e f 堀新 2014, pp. 40–41.
  303. ^ a b c 松本和也 2017, pp. 192–208.
  304. ^ 末木文美士 1996, pp. 236–237.
  305. ^ a b 神田千里 2015, p. 57.
  306. ^ 三鬼清一郎 1985, pp. 96–97.
  307. ^ a b c 堀新 2014, pp. 41–43.
  308. ^ a b 三鬼清一郎 1985, pp. 100–102.
  309. ^ a b c 松下浩 2017, pp. 209–212.
  310. ^ 松下浩 2017, pp. 212–221.
  311. ^ 松下浩 2017, pp. 212–213.
  312. ^ 松下浩 2017, pp. 221–222.
  313. ^ 長澤伸樹 2017, pp. 30–31.
  314. ^ a b c 谷口克広 2013, pp. 232–235.
  315. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 223–224.
  316. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 224–225.
  317. ^ 鈴木公雄 2002, p. 136.
  318. ^ 高木久史 2005, pp. 24–25.
  319. ^ 谷口克広 2013, pp. 250–252.
  320. ^ 渡辺武ほか編 1983, p. 113.
  321. ^ 脇田修. “織田信長”. 日本大百科全書. 小学館・ジャパンナレッジ. 2018年10月4日閲覧。
  322. ^ 谷口克広 2002, pp. 18–19.
  323. ^ 谷口克広 2002, p. 276.
  324. ^ 谷口克広 2002, p. 281.
  325. ^ 桐野作人 2009, p. 86.
  326. ^ a b 桐野作人 2009, pp. 101–104.
  327. ^ 桐野作人 2009, pp. 104–106.
  328. ^ 谷口克広 2013, pp. 215–216.
  329. ^ 池上裕子 2012, pp. 264–265.
  330. ^ 桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』[要ページ番号]
  331. ^ a b c d 谷口克広 2007a, pp. 251–254.
  332. ^ a b 新井白石 1936, pp. 294–295.
  333. ^ 石毛忠. “日本外史”. 日本大百科全書. 小学館・コトバンク. 2018年10月13日閲覧。
  334. ^ a b c d 頼山陽 1938, pp. 697–699.
  335. ^ 谷口克広 2013, pp. 96–97.
  336. ^ a b c d 白井英二編 1979, p. 211.
  337. ^ a b 末國善己 (2015年7月22日). “「冷酷」で「能力主義」な信長はいかにして生まれたのか?”. 文藝春秋books. 文藝春秋. p. 1. 2018年9月23日閲覧。
  338. ^ 今井林太郎 1985, pp. 12–13.
  339. ^ 今井林太郎 1985, pp. 49–50.
  340. ^ 谷口克広 2013, p. 97.
  341. ^ 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, p. 476.
  342. ^ 堀新 2014, p. 27.
  343. ^ a b 金子 2014, p. 23.
  344. ^ a b 立石了 2018, p. 110.
  345. ^ a b 平井上総 2017.
  346. ^ 長澤伸樹 2017, pp. 11–13.
  347. ^ a b 山崎布美 2016, pp. 36–38.
  348. ^ a b 山崎布美 2016, pp. 38–39.
  349. ^ a b c d e 池上裕子 2012, p. 282.
  350. ^ a b 谷口克広 2003, p. 5.
  351. ^ 谷口克広 2003, p. 6.
  352. ^ 渡辺江美子 2016, p. 309.
  353. ^ 渡辺江美子 2016, p. 314.
  354. ^ a b c 渡辺江美子 2016, pp. 316–317.
  355. ^ a b c d 渡辺江美子 2016, pp. 328–329.
  356. ^ 渡辺江美子 2016, pp. 317–318.
  357. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 317–319.
  358. ^ 渡辺江美子 2016, pp. 326–327.
  359. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 319–320.
  360. ^ a b c d 渡辺江美子 2016, pp. 320–322.
  361. ^ a b c 渡辺江美子 2016, pp. 324–325.
  362. ^ a b 渡辺江美子 2016, p. 327.
  363. ^ 渡辺江美子 2016, pp. 322–323.
  364. ^ a b 渡辺江美子 2016, p. 320.
  365. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 327–328.
  366. ^ a b 織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず”. dot/週刊朝日. 2015年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月21日閲覧。
  367. ^ 「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」北国新聞HP アーカイブされたコピー”. 2012年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月18日閲覧。
  368. ^ 八代市文化まちづくり課. “織田信長菩提所の泰巌寺廃寺跡(市指定)”. 八代市. 2014年2月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。0000-00-00閲覧。
  369. ^ 池上裕子 2012, p. 7.
  370. ^ a b c d 堀新 2014, pp. 27–28.
  371. ^ 池上裕子 2012, p. はしがき8.
  372. ^ 朴順愛 2010, pp. 74–76.

参考文献

関連項目

外部リンク