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織田信光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田 信光
時代 戦国時代
生誕 永正13年(1516年
死没 弘治元年11月26日1556年1月7日
別名 津田信光、通称:孫三郎
戒名 梅岩[1] または梅厳
主君 信友信長
氏族 織田弾正忠家(勝幡織田氏)
父母 父:織田信定
母:織田良頼娘・いぬゐの方
兄弟 信秀信康信正信光信実信次松平信定正室、長栄寺殿おつやの方秋悦院
松平信定
信成信昌仙千代
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信光の居城だった稲葉地城址(名古屋市中村区の神明社)
信光の菩提寺である凌雲寺

織田 信光(おだ のぶみつ)は、戦国時代武将。津田豊前守信光とも。織田信定の子、信秀の弟。通称は孫三郎。愛知県西部にあたる尾張国の稲葉地城および守山城主。織田信長叔父にあたる。

生涯

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永正13年(1516年)、尾張国の織田弾正忠家の当主・織田信定の子として誕生。若年より武略に優れ、兄・信秀に従って小豆坂の戦いに出陣し武功を挙げ、『甫庵信長記』などによれば小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。

天文4年(1535年)、居城の守山城を松平清康に攻められるが、清康が重臣の阿部正豊に殺害されたことにより松平勢は撤収した(守山崩れ)。信秀の死後は、家督を継いだ甥の織田信長を支持し、萱津の戦い村木砦の戦いなどで活躍した。

信長公記』によると、信長と敵対する織田大和守家当主・織田信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、天文24年(1555年)4月19日に清洲城に入城。翌20日、信友を謀殺して清洲城を奪い、大膳は今川義元の下に逃れた。

信光は信長に清洲城を渡すと、自身は信長より譲られた那古野城に入ったが、弘治元年11月26日(1556年1月7日)に不慮の死を遂げた。『甫庵信長記』によると、近臣で北の方(信光夫人)と通じていた坂井孫八郎により殺害されたという。

系図

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織田信光
┣━━━┳━━━┓
信成  信昌 仙千代
┣━━━┓ 
正信 光徳院

演じた俳優

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脚注

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  1. ^ 『群書系図部集 織田系図』

参考文献

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  • 深田正韶 編 1898「禅宗臨済派・凌雲寺」『尾張志.5 愛知郡博文社(国立国会図書館デジタルコレクション)
    • 原典:尾張藩 編 1844「禅宗臨済派・凌雲寺」『尾張志 巻24』(愛知芸術文化センター愛知県図書館貴重和本ライブラリー)
  • 太田亮 編 1985『尾張國誌』(全 改定補)東海地方史学協会 ※初版1926年(大正15年)刊

外部リンク

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