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仁科盛信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
仁科 盛信
仁科盛信甲冑像 (伊那市立高遠町歴史博物館蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治3年(1557年?)
死没 天正10年3月2日1582年3月25日
改名 武田晴清[1]→仁科盛信
別名 信盛、五郎(通称)[1]、薩摩守[1](受領名)
戒名 蒼龍院殿成巌建功大居士
放光院殿自剱宗知居士
墓所 桂泉院五郎山
主君 武田信玄勝頼
氏族 甲斐武田氏仁科氏
父母 父:武田信玄、母:油川夫人
養父:仁科盛政
兄弟 武田義信海野信親武田信之黄梅院北条氏政室)、見性院穴山梅雪室)、武田勝頼真竜院木曾義昌室)、盛信葛山信貞武田信清松姫菊姫上杉景勝室)
武田信繁の娘、武田信廉の娘、仁科盛政の娘?、福知新右衛門の娘
信基?、武田信貞?、晴正?、信久?、小督姫(玉田院)
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仁科 盛信(にしな もりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。家紋は、割り菱紋と丸に割り菱紋。

末期に織田信長甲州征伐に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城高遠城の戦い)において最後まで抵抗し、討死した。

は盛信のほか、近世の系図類・編纂物では「晴近」とする資料もあるが、父・晴信が将軍・足利義晴から授与された「晴」の偏を授与することは社会通念上ありえないことから、疑問視されている[2]。また、天正9年(1581年)5月7日付霊松寺宛禁制や『甲乱記』では「信盛」とする用例があり、天正9年2月から同年5月の間に、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている[2]長野県歌『信濃の国』でも「仁科の五郎信盛」と歌われている。

生涯

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信玄時代

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甲斐国戦国大名武田信玄の五男[1]として生まれる。母は油川信守の娘で側室の油川夫人。異母兄に武田義信勝頼、同母の弟妹に葛山信貞松姫織田信忠婚約者)・菊姫上杉景勝正室)がいる。信濃国安曇郡国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。武田氏は父・晴信期の天文年間から信濃侵攻を本格化し、信濃国人の被官化が進められていた。安曇郡を領する仁科氏は天文22年(1553年)に武田方に帰属し、安曇郡は仁科盛政支配期を経て直轄領化されている。晴信期の信濃支配では、征服した信濃名族と婚姻関係を結び親族衆に列することで懐柔させることが行われていたが、盛信も永禄4年(1561年)に父の意向で仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継ぎ、親族100騎持の大将となっている(『甲陽軍鑑』)。しかし、古文書からは永禄10年(1567年)までは養父とされる仁科盛政の活動が知られていること、その2年後の永禄12年(1569年)に仁科領が武田氏の直接支配下に置かれていることから、仁科氏相続は同年以降とする説もある[3]

また、盛信の仁科氏相続が永禄12年以降であった場合、武田義信の死後に信玄の後を継ぐ候補者として既に諏訪氏を継いでいた勝頼ではなく、他家を継ぐ予定が立てられていなかった盛信も上がっていたのではないか、とする説もある。黒田基樹は信玄の同母弟である信繁の娘が盛信の正室になっていることから、信玄の正室である三条夫人や一門衆は盛信と信繁の娘を娶せて信玄の後を継がせる構想を持っており、勝頼が正式な後継者に決定するのが遅れたのも一門衆の説得に時間がかかった(三条夫人はその間に死去)からであると推測している[4]。更に仁科盛政の娘を娶ったとする所伝についても、既に信繁の娘を妻とし、その死後に同じく信玄の弟である信廉の娘を妻とした盛信が仁科氏の娘を娶ったとは考えにくく、婿養子の形式は取られなかったとする説もある[5]

天正年間には仁科氏当主として諸役免許や知行安堵を行っており、武田領国と敵対する越後国との国境警備や交通路の掌握を、等々力治右衛門ら安曇郡の国衆に指揮している[6]。また同5年(1577年)には高野山遍照光院を仁科氏や安曇郡の国衆の高野詣の際の宿坊と定めた(『高野山遍照光院宛寄進状』)。

勝頼時代と最期

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信玄の死後は当主となった異母兄の勝頼に仕え、甲越同盟の締結後にも国境警備を務め、天正8年(1580年)には同盟に基づいて西浜(新潟県糸魚川市)の根知城に進駐している[7]。勝頼後期には織田・徳川勢力との敵対が激化し、天正9年(1581年)には対織田・徳川の軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国森城の他、高遠城主を兼任する(高遠入城時に仁科氏を離れ武田姓に戻り、信盛と改名したという説もある)[8]。盛信は信濃佐久郡内山城代の小山田昌成大学助兄弟と高遠城に籠城した。

天正10年(1582年)2月、織田信長の命により織田軍による甲州征伐が始まると、兵3,000(500とする説[9])が籠もる高遠城は信長の嫡男・信忠率いる5万の大軍に包囲された。このとき、信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は拒否。使いに来た僧侶の耳を削ぎ落として追い払ったとされる。

高遠城は3月2日早暁から織田軍の猛攻に晒され、盛信は奮闘した後、自刃した[9]享年26。約500名余りの家臣も共に討ち死に[9]して高遠城は陥落した。織田軍も300人の死者を出したという[9]

切腹後、首級は信忠のもとに届けられ、長谷川宗仁によって京の一条通の辻に武田勝頼・信勝信豊らと共に獄門にかけられたが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く葬られた。奇しくも生年と没年は信忠と同じである。江戸時代後期の天保2年(1831年)3月、高遠藩主・内藤頼寧は高遠城内の法堂院曲輪に盛信を祀り、3月1日を祭日と定めて新城神とした[9]

長野県県歌信濃の国」の歌詞でもうたわれており、墓所には現在でも献花が絶えないと言う。

系譜

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  • 長男:信基? - 3100石扶持の江戸幕府旗本。古文書によっては表記が違っており統一されていない。近年、架空人物説・非武田一族説が浮上している。この系統は江戸初期で断絶した。
  • 次男:信貞? - 350石扶持の江戸幕府旗本。
  • 三男:晴正? - 通称は播磨介、天正3年生まれ、寛永3年没[10]
  • 四男:信久?
  • 長女:小督姫 - 体が弱かったために嫁ぐことはなく出家し、玉田院、または生弌尼と号した。慶長13年(1608年7月29日に29歳で病死。

盛信の子には信貞(『寛政重修諸家譜』では 油川信次の子としている)がおり、戦国の世を生き抜いた。徳川家康との対面の際、敗将の子として罰せられるのを恐れたが、仁科氏の存続と盛信の家系を名乗ることを願い出て、それを許されている。その後、幕府旗本として江戸時代を乗り切った。子孫は武田氏に復し、現在も続いている。

子孫を名乗る家の伝に拠れば、また別に福知新右衛門の娘が生んだ武田(仁科)晴正が上総武田氏最後の当主武田豊信を頼り、上総国茂原に落ち延びたとされる。子孫は江戸時代には郷士として存続、現在も家系が続いている[11]

なお、『寛永諸家系図伝』には信久の系統である信道が見えるのみである。子孫は江戸幕府旗本。『寛政重修諸家譜』では信久の子孫と称する2家が掲載されているが、信基と名乗る人物とその子孫は掲載されておらず信基は存在しないとされている。

関連作品

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小説

・前田宗徳『武田最後の雄 仁科盛信』

  • 伊東潤「温もりいまだ冷めやらず」『戦国鬼譚 惨』。 (短編)
  • 仁志耕一郎『松姫はゆく』。 
楽曲
テレビドラマ

脚注

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  1. ^ a b c d 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年9月、596頁。ISBN 4-404-01752-9 
  2. ^ a b 丸島 2007.
  3. ^ 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』東京堂出版、2022年7月、122-124頁。ISBN 978-4-490-21069-9 
  4. ^ 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』東京堂出版、2022年7月、218-219・227-229頁。ISBN 978-4-490-21069-9 
  5. ^ 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』東京堂出版、2022年7月、123-124・227-229頁。ISBN 978-4-490-21069-9 
  6. ^ 須藤 2018, p. 207.
  7. ^ 小林 2019, p. 91.
  8. ^ 須藤 2018, p. 209.
  9. ^ a b c d e 長谷川正次『高遠藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2005年11月、12頁。ISBN 4-7684-7103-X 
  10. ^ 「安楽山長久寺二十五代性専院日専記」
  11. ^ 小林 2019, p. 242.

参考文献

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  • 須藤茂樹「信濃仁科氏の武田氏被官化と仁科盛信」『甲斐路』85号、1996年。 
  • 須藤茂樹『武田親類衆と武田氏権力』岩田書院、2018年。 
  • 丸島和洋 著「武田勝頼と一門」、柴辻俊六; 平山優 編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年。 
  • 小林茂喜『仁科盛信と武田氏』信州教育出版社、2019年。 
  • 丸島和洋編『武田信玄の子供たち』宮帯出版社、2022年。

外部リンク

[編集]
先代
仁科盛政
武田支流仁科家
初代:1561年 - 1582年
次代
仁科信基