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異見十七ヶ条

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

異見十七ヶ条(いけんじゅうななかじょう)は、元亀3年(1572年)9月(一説には12月[1])に織田信長室町幕府将軍足利義昭に対して出した十七ヶ条の意見書。翌年2月に義昭が反信長の立場を明らかにしたことに伴い、将軍と敵対することになった信長が自らの正当性を主張するために流布したと考えられている。

内容

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信長公記』や『尋憲記』にほぼ同内容で十七ヶ条の全文が挙げられている。ただし『尋憲記』は元亀4年2月22日条にこれを記録しているため、現在に伝わるものは前年9月に示されたものとは内容に差異がある可能性が指摘されている[2]

一、足利義輝様は宮中への参内を怠りがちでした。それゆえ、神の加護も無しにあのような不幸な最期を遂げられました。信長は日頃から義昭様に参内を怠りなく勤められるようにと申し上げておりましたのに、義昭様は近年怠りがちのようで信長は遺憾に思っております。

一、諸国の大名に催促して、馬を献上させていることは聞こえが良くないので、再考なさったほうが良いでしょう。必要がある時には、信長に申し付けてくださればそのために奔走すると約束なさったではありませんか。このように信長に対して内密に事を進めるのは宜しくないと思います。

一、義昭様は幕府の忠臣に対しては恩賞を与えず、身分の低い新参者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となってしまいます。人聞こえも悪いでしょう。

一、最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっております。将軍家の家宝類をよそへお移しになった事は京の内外に知れ渡っております。これでは信長が苦労して建造して差し上げた邸宅も無駄になってしまいます。とても残念なことです。

一、賀茂神社の社領を没収して岩成友通にお与えになり、岩成に賀茂神社に対し経費の負担をするよう表向きは厳命なさり、裏では「それほど気にかけなくても良い」とお伝えになったそうですね。そもそも寺社領を召し上げるという行為は良いことではないと思っております。岩成がもし所領に困っているのであれば、私が都合のいいように取り計らったでしょうに。このように内密に行動されるのは良くないですね。

一、信長に対して友好的な者にはどんなに下位の身分のものであっても不当な扱いをなさるそうで、彼らは迷惑しているそうです。そのような扱いをするのには、どういった理由があるのですか。

一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広(かんぜ くにひろ)・古田可兵衛(ふるた かべえ)・上野豪為(うえの ひでため)のことです。

一、若狭国・安賀庄の代官の不行跡について、粟屋孫八郎が告訴しましたが、私も賛同して義昭様に進言いたしましたのに、音沙汰の無いまま今日に至っております。

一、小泉が妻の家に預けてあった刀や、質に入れてあった脇差までも没収なされたようですね。彼が謀反を企てたりしたのなら別ですが、彼は喧嘩で死んだだけです。この措置は法規的に処理されておらず、人々は義昭様を欲深い将軍だと考えるでしょう。

一、「元亀」の元号は不吉なので改元したほうがいいと、民意を参考に義昭様に意見を申し上げました。宮中からも催促があったようですが、改元のためのほんの少しの費用も義昭様が出費なされないものですから今も滞ったままです。

一、烏丸光康を懲戒された件ですが、その息子・光宣に対する処置は妥当と感じるものの、信長は光康を赦免なさったほうが良いと申し上げたはずです。どなたか存じ上げませんが、密使を光康へ遣わして金銀を受け取って再び出仕を許されたそうです。嘆かわしいことです。今や公家は彼らのような者が普通なのですから、このような処置はよろしくないと思います。

一、諸国から金銀を集めているにも関わらず宮中や幕府のためにお役立てにならないのは何故でしょうか。

一、明智光秀が徴収した金銀をその地の代官に預けておいたところ、その土地は延暦寺領だと言って差し押さえになったようですね。そのような行いは不当です。

一、昨年の夏、兵糧庫の米を売って金銀に変えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど前代未聞、聞いた事がありません。兵糧庫に兵糧がある状態こそ、世間の聞こえも良いのです。義昭様のやり方には驚いてしまいました。

一、幕府に仕えている武将たちは戦など眼中に無く、もっぱら金銀を蓄えているようで、これは浪人になった場合への対策と思われます。義昭様もいざとなれば御所から逃げ出してしまうものと見受けられます。そのために金銀を蓄えていらっしゃるのでしょう。「上に立つものは自らの行動を慎む」という教えを守ることは義昭様にとっても簡単なことでしょう。

一、世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。ですから、しがない農民でさえ義昭様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて足利義教様がそう呼ばれたように。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。

以上[3]

この送付の理由は、将軍である義昭と戦うには正義は信長にある事を、敵味方から世間に宣伝する必要があったとされている[4]。第2条の御内書に関することや第5条の寺社領を幕臣に与えること、第10条の朝廷の改元に関することなどは、2年前の永禄13年(1570年)に両者の間で約された五ヶ条の条書の内容と顕著な関連を有し、信長は義昭が以前の約定を違えたことを強調している[5]。それ以外の部分においても世間の風評を取り入れて世間一般から見ても義昭の非が認められることを主張しているものとみられる[5]。また、『当代記』に武田信玄も異見十七ヶ条を見たとの記述があることから、義昭の落ち度を示すことで自身の正当性を主張しようとした信長によって広く流布されたものと考えられる[5]

この異見十七ヶ条において注目すべき点は、第1条で足利義輝の名を、第17条で足利義教の名をそれぞれ出しているところである[6][7]。義輝は義昭の実兄、義教は僧侶から還俗して将軍に就いたという義昭と共通した経歴を持つ[7]。信長は殺害された将軍の名を挙げて、義昭に脅しを加えている[6]

脚注

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  1. ^ 久野雅司『足利義昭と織田信長』戎光祥出版〈中世武士選書40〉、2017年、P150-152.
  2. ^ 黒嶋 2020, p. 181.
  3. ^ 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 - 194ページ
  4. ^ 奥野 1996, pp. 192–194.
  5. ^ a b c 臼井進 (1995-12-25). “室町幕府と織田政権との関係について―足利義昭宛の条書を素材として―”. 史叢 (日本大学史学会) (54・55): 50-51. doi:10.11501/6067814. ISSN 0386-9423. (要登録)
  6. ^ a b 天野 2016, p. 118.
  7. ^ a b 黒嶋 2020, p. 185.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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