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{{記事統合|日本史詳説|日本の歴史]]、若しくは[[ノート:日本史詳説}} |
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{{Redirect|日本史}} |
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'''日本史'''('''にほんし''') |
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{{日本の歴史|KaiIchiranzu1806.jpg}} |
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#[[日本]]の[[歴史]]。より詳しい記述は「[[日本史詳説]]」あるいは各時代の記事を参考。 |
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この項目では'''日本の歴史'''(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。 |
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#[[ルイス・フロイス]]作の歴史書。 |
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== 時代区分 == |
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[[日本]]の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。[[原始]]・[[古代]]・[[中世]]・[[近世]]・[[近代]]・[[現代 (時代区分)|現代]]とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。 |
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日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の[[日本列島]]ができあがった。 |
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古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、[[3世紀]]説、[[5世紀]]説、[[7世紀]]説があり、研究者の間で'''七五三論争'''と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180324-SNTXE7QUEBP2HBLOQGMCDMNTBI/ |title=古代史の七五三論争 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治 |access-date=2022-01-19 |publisher=[[産経新聞社]] |website=産経ニュース |date=2018-03-24}}</ref>。中世については、中世を通じての社会経済体制であった[[荘園公領制]]が時代の指標とされ、始期は[[11世紀]]後半〜[[12世紀]]の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した[[16世紀]]後半の[[太閤検地]]にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、[[明治維新]]前後に終わるとされる。近代の始期は一般に[[幕末]]期〜明治維新期とされるが、[[18世紀]]前半の[[家内制手工業]]の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は[[冷戦]]構造が崩壊して、[[バブル崩壊]]で右肩上がりの[[経済成長]]が終わった[[1990年]]前後に変更すべきという意見もある。{{誰|date=2020年1月5日}}(以上の詳細→'''[[古代]]'''、'''[[中世#日本|中世]]'''、'''[[近世#日本|近世]]'''、'''[[近代#日本|近代]]'''、'''[[現代 (時代区分)#アジア|現代]]''') |
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== 旧石器時代 == |
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上記のような時代区分論は、[[発展段階史観]]の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える'''「時代移行論」'''を提唱する研究者も現れ始めている。 |
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''詳細は、[[日本の旧石器時代]]を参照のこと。'' |
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一般によく知られている[[時代区分]]は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献[[史料]]がなく[[考古資料]]が残る時代は、[[考古学]]上の時代区分に従い、'''[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]'''・'''[[縄文時代]]'''と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、'''[[弥生時代]]'''後期〜'''[[古墳時代]] '''([[大阪市]])・'''[[飛鳥時代]]'''([[明日香村]])・'''[[奈良時代]]'''([[奈良市]])・'''[[平安時代]]'''([[京都市]])・'''[[鎌倉時代]]'''([[鎌倉市]])・'''[[室町時代]]'''(京都市)・'''[[安土桃山時代]]'''([[近江八幡市]]・京都市[[伏見区]])・'''[[江戸時代]]'''([[東京23区]]・旧[[東京市]])と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため弥生時代後期から飛鳥時代前期に'''[[大和時代]]'''、鎌倉時代の後に'''[[建武の新政]]'''、室町時代前期に'''[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]'''、室町時代後期に'''[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]'''、江戸時代後期に'''[[幕末]]'''という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は[[中国の歴史]]の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間([[一世一元の制]])に従って'''[[明治時代]]'''([[明治天皇]])・'''[[大正時代]]'''([[大正天皇]])・'''[[昭和時代]]'''([[昭和天皇]])・'''[[平成時代]]'''([[明仁]])・'''[[令和時代]]'''([[徳仁]])と呼ばれている。これらのうち、[[明治維新]]から[[1947年]](昭和22年)[[5月2日]]までの時代(明治時代・大正時代・[[戦前]]昭和時代)を「'''[[大日本帝国]]時代'''」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある<ref>[[由井正臣]]著、岩波ジュニア新書『大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉』</ref>。また、[[北海道]]・[[北東北]]、[[南西諸島]]などの周縁部については、→'''[[日本史時代区分表]]''')。 |
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[[日本列島]]への人類の居住は、[[旧石器時代]]のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった[[氷河期]]には、人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。旧石器時代の人類は、[[打製石器]]を用い、大型哺乳類を狩って生活していた。 |
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また、文化面に着目して、[[縄文文化]]・[[弥生文化]]・[[古墳文化]]・[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]・[[天平文化]]・[[弘仁・貞観文化]]・[[国風文化]]・[[院政期文化]]・[[鎌倉文化]]・[[北山文化]]・[[東山文化]]・[[桃山文化]]・[[元禄文化]]・[[化政文化]]などが用いられる。 |
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== 縄文時代 == |
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== 原始 == |
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''詳細は、[[縄文時代]]を参照のこと。'' |
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=== 旧石器時代 === |
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{{main|日本列島の旧石器時代}} |
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[[ファイル:Japan glaciation.png|right|thumb|約2万年前の[[氷期]]最後の[[更新世]]後期の日本の高度地図 |
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{{legend|darkorange|海面上の地域}} |
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{{legend|white|植物の生息していない地域}} |
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{{legend|aqua|海}} |
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黒線は現代の海岸線を示す]] |
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[[ファイル:岩宿I石器文化.JPG|thumb|220px|right|[[群馬県]][[みどり市]]の[[岩宿遺跡]]第1文化層出土の[[石器]]([[明治大学博物館]])。]] |
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[[File:田名向原遺跡旧石器時代建物復元模型1.jpg|thumb|220px|right|[[神奈川県]][[相模原市]]、[[田名向原遺跡]]の旧石器時代[[平地建物]]の復元模型([[旧石器ハテナ館]])]] |
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[[日本列島]]における[[人類]]史の始まり、つまり日本列島に初めて人類が到達した年代については、現在も多くの議論が行われている。5万年前、あるいは8-9万年前に遡るとされる[[岩手県]][[遠野市]]の[[金取遺跡]]出土石器や、[[島根県]][[出雲市]]の[[砂原遺跡]]出土石器の分析結果から、12万年前に遡るとする見解もあれば<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG06054_X00C13A6CR0000/|title=島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正|accessdate=2023-05-04|publisher=日本経済新聞|date=2013-06-07}}</ref>{{Sfn|松藤|2014}}<ref group="注">[[現生人類]](ホモサピエンス)の出[[アフリカ]]が約6万年前であるため、これらの[[遺物]]は[[デニソワ人]]などの[[旧人類]]の遺したものということになる。</ref>、現世人類([[ホモ・サピエンス]])以前の人類による列島への渡航能力と時期の問題や、石器の出土した[[土層 (考古学)|土層]]の年代測定上の問題などから、4万年前以前に遡る可能性に否定的な見解などがあり{{Sfn|堤|2009|pp=12-15}}、2020年代現在でも意見が分かれている{{Sfn|堤|2020}}。少なくとも現状では、日本列島の旧石器時代遺跡で、4万年前以前に遡る可能性が指摘されているものに、全ての旧石器時代研究者が肯定するものは存在していないとされる{{Sfn|堤|2009|pp=12-15}}。 |
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約1万2千年前から[[日本列島]]には[[縄文]]文化が広がった。[[縄文時代]]の人々は、[[竪穴式住居]]に住み、弓矢での狩猟、[[貝塚]]に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに[[縄文式土器]]を用い、様々な用途に[[打製石器]]・[[磨製石器]]と[[骨角器]]をあて、舟を用いた。人々の交流は広い範囲にわたり、時には[[環状石籬]] (環状列石) 、巨木工事のような大事業を起こした。 |
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現生人類の最初の到来は、4-3.5万年前と考えられている。この時代の人々は、[[集落]]を造って一定の場所に長期間留まることをせず、[[テント]]のような簡易な住まいで寝泊まり([[キャンプ]])しながら集団で[[狩猟採集社会|狩猟採集]]をして移動を繰り返す「遊動生活」をしていたと考えられている{{Sfn|堤|2009|pp=28-29, 68-71}}。後期旧石器時代の初期(4~3万年前)には、大規模な集団キャンプ跡と見られる[[環状ブロック群]]と呼ばれる[[遺構]]が出現し、[[千葉県]][[印旛郡]][[酒々井町]]の[[墨古沢遺跡]]や、[[長野県]][[上水内郡]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]の日向林B遺跡([[野尻湖遺跡群]]の1つ)などの事例が知られる{{Sfn|堤|2009|pp=52-53}}。 |
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== 弥生時代 == |
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約4-3万年前の人々は、台形様石器を用いたほか、日向林B遺跡などで世界最古とされる[[磨製石器]]([[局部磨製石斧]])が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器を使用していたと見られる{{Sfn|堤|2009|pp=52-53}}。[[大分県]][[豊後大野市]]の[[岩戸遺跡]]からは、約2万4千年前のものとみられるこけし型の[[岩偶]]が出土しており、旧石器時代にも何らかの[[信仰]]があったことがうかがえる。 |
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''詳細は、[[弥生時代]]を参照のこと。'' |
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古く[[北海道]]と[[九州]]方面は大陸と地続きであり[[ナイフ形石器]]と呼ばれる[[石器]]が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では出土していない。 |
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[[紀元前3世紀]]かそれ以前に水稲農耕が伝わり、[[九州]]、[[四国]]、[[本州]]に広がった。低地に[[水田]]を作った人々は、[[弥生式土器]]を作り、[[石器]]にかえて徐々に[[鉄器]]を使うようになり、祭祀にのみ[[青銅器]]を用いた。[[弥生時代]]には[[農業]]によって定住が可能になったことから村ができ、貧富や上下関係が生まれた。戦いが絶えなかった。やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に[[奴国]]の王が[[後漢]]に、[[3世紀]]にあったと言われる[[邪馬台国]]の女王が[[魏]]に、[[倭]]の王であることを意味する金印を授けられた。この頃以降の日本は、大陸からは[[倭]]と呼ばれた。 |
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この時代に属する遺跡は列島全体で1万箇所以上発見されているが{{Sfn|堤|2009|pp=68-71}}、[[建物]]([[竪穴建物]]や[[平地建物]])の[[遺構]]が検出される事例は極めて稀で、確実に建物(住居)跡とみて良いものは、約2万2千年前の[[大阪府]][[藤井寺市]]の[[はさみ山遺跡]]の例や、約2万年前の[[神奈川県]][[相模原市]]の[[田名向原遺跡]]の例など、10例程度しか発見されていない{{Sfn|堤|2009|pp=28-29, 68-71}}。 |
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なお、[[南西諸島]]と[[樺太]]・[[北海道]]には水田が作られず、[[南西諸島]]では[[貝塚時代]]、ついで[[グスク時代]]、樺太・北海道では[[続縄文時代]]、ついで[[擦文時代]]が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。[[南西諸島]]の歴史については、[[沖縄県]]も参照。 |
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約2万年前には[[シベリア]]から新たに[[細石刃]]と呼ばれる石器が[[北海道]]に伝わり、主に[[北日本]]で広がり、また約1万4千年前頃には別の型の[[細石器]]が大陸から九州に伝わり、[[西南日本]]で広がったものと思われる。 |
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== 古墳時代 == |
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約1万2千年前頃、[[最終氷期]]が終わり急激な[[地球温暖化]]による[[海面上昇]]が始まると、日本列島は[[アジア大陸]]から分離した。これにより、人々の[[文化]]や生活に大きな変化が生じ、[[南西諸島]]を除いて、次の縄文時代へ移行していった。 |
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''詳細は、[[古墳時代]]を参照のこと。'' |
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旧石器時代人の[[遺伝子]]として[[ハプログループD1a2a (Y染色体)|ハプログループD-M64.1]](M55)、[[ハプログループC1a1 (Y染色体)|ハプログループC-M8]]が想定されている<ref name=崎谷>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)</ref>。 |
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[[3世紀]]末から[[6世紀]]末まで、[[前方後円墳]]という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期に大和政権が倭の統一政権として確立し、5世紀に[[倭の五王]]が中国に使者を遣わした。倭人が[[朝鮮半島]]で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と[[仏教]]・[[儒教]]がもたらされた。この時代の人々は[[土師器]]と[[須恵器]]を用いた。 |
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=== 縄文時代 === |
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{{main|縄文時代}} |
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[[File:Yoshibumi-shel-mound,katori-city,japan.JPG|thumb|[[良文貝塚]]([[千葉県]][[香取市]])]] |
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縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、[[地質年代]]では[[更新世]]の末期から[[完新世]]にかけて日本列島で発展した時代であり、[[世界の歴史|世界史]]では[[中石器時代]]ないし[[新石器時代]]に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、[[土器]]の出現や、定住化に伴う[[集落]]([[環状集落]]など)の形成、長期使用可能な[[建物]]([[竪穴建物]]・[[平地建物]]・[[掘立柱建物]])の普及、[[貝塚]]の形成などがあげられる。 |
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''詳細は、[[飛鳥時代]]を参照のこと。'' |
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草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は[[縄文土器]]を作り、早期以降定住化が進んで主に[[竪穴建物]]に住んだ。縄文土器については、[[青森県]][[大平山元I遺跡]]にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。[[弓矢]]を用いた[[狩猟]]、[[貝塚]]に見られる[[漁撈]]、[[植物]]の採集などで生活を営み、[[打製石器]]、[[磨製石器]]、[[骨角器]]などを用いた。 |
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中央では6世紀末から[[645年]]の[[乙巳の変]]まで[[蘇我氏]]が、それ以後天皇と皇族が政治の実権を握った。この頃までに、日本は東北地方南部から九州までを領域にしていた。[[白村江の戦い]]で敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念した。[[遣隋使]]、[[遣唐使]]を派遣し、中国を参考に官制を整え、[[701年]]に[[大宝律令]]を制定した。この時代に[[倭]]は「日本」と改称した。天皇と氏族が仏教寺院を建設し、これを中心に[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]が栄えた。 |
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[[雑穀]]や[[種実類|堅果]]などの[[栽培]]も行われたとする仮説も提示されており、野生の[[イヌビワ]]から穀物の[[ヒエ]]への栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、[[クリ]]の選択が行われて[[栽培化]]の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。[[稲作]]については、約6,000年前の[[岡山県]][[朝寝鼻貝塚]]から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていたことが判明した。 |
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== 奈良時代 == |
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[[縄文人]]の主要な遺伝子として、[[ハプログループD1a2a (Y染色体)|ハプログループD-M64.1]](M55)、[[ハプログループC1a1 (Y染色体)|ハプログループC-M8]]が想定されている<ref name=崎谷/>。 |
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''詳細は、[[奈良時代]]を参照のこと。'' |
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[[710年]]に都は奈良の[[平城京]]に遷った。この時期の[[律令国家]]は、[[戸籍]]と[[計帳]]で人民を把握し、[[租庸調]]と軍役を課した。[[遣唐使]]を度々送り、唐の文物を導入した。全国に[[国分寺]]を建て、仏教的な[[天平文化]]が栄えた。[[古事記]]、[[日本書紀]]、[[万葉集]]など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、西方は平和であったが、東北では[[蝦夷]]との戦争が絶えなかった。 |
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{{Collapsible list|title=縄文人と弥生人の父系関連を表すY染色体の分岐図|1= |
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{{familytree/start}} |
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{{familytree|border=0| | 101 |-| 201 |.| | | | | | | | | | | | | | | | | | |101='''[[デニソワ人|A0000]]'''|201=[[ネアンデルタール人|A000-T]]}} |
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{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | | | | | | | | | |}} |
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{{familytree|border=0|`| 103 |v| 203 |,| 303 |,| 403 |,| 503 |,| 603 | | | |103=[[Y染色体アダム|PR2921]]|203=[[ハプログループA (Y染色体)|A00]]|303=A0|403=A1a|503=[[ハプログループA (Y染色体)|A1b1]]|603=[[サン族]]}} |
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{{familytree|border=0| | | | |`| 204 |^| 304 |^| 404 |^| 504 |^| 604 |.| | | |204=L1090|304=P305|404=V221|504=[[ハプログループBT (Y染色体)|M42]]|604=[[ハプログループCT (Y染色体)|M168]]}} |
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{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | |}} |
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{{familytree|border=0|!| | | |,| 106 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |106='''[[ハプログループE (Y染色体)|E系統]]'''}} |
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{{familytree|border=0|)| 107 |^| 207 |-|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | |107='''[[ハプログループDE (Y染色体)|YAP]]'''|207=[[ハプログループD (Y染色体)|CTS3946]]}} |
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{{familytree|border=0|!|,|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | | | | | | | |}} |
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{{familytree|border=0|!|)| 109 |-| 209 |,| 309 |-| 409 |-| 509 | | | | | | | |109=A5580.2|209= <small>[[ナイジェリア]]</small>|309=[[ハプログループD1a1 (Y染色体)|F6251]]|409=M15|509=[[チベット]]}} |
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{{familytree|border=0|!|!| | | | | | | |!| | | |,| 410 |-| 510 | | | | | | | |410=Y34637|510=<small>[[ジャラワ族]]</small>}} |
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{{familytree|border=0|!|`| 111 |v| 211 |^| 311 |^| 411 |.| | | | | | | | | | |111=M174|211=CTS11577|311=Z3660|411='''[[ハプログループD1a2a (Y染色体)|M64.1]]'''}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |`| 212 |-| 312 | | | | |!| 512 | | | | | | | |212=L1366|312=[[フィリピン]]|512=※以下日本固有の系統}} |
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{{familytree|border=0|!|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | |}} |
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{{familytree|border=0|!|)| 114 |v| 214 |v| 314 |v| 414 |-| 514 | | | | | | | |114='''CTS131'''|214=CTS220|314=CTS10495|414=Z17176|514=[[板垣退助先生顕彰会#明治維新のDNAの解析と保存|BY113470]]}} |
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{{familytree|border=0|!|!| | | |!| | | |!| | | |`| 415 | | | | | | | | | | | | |415=[[板垣退助先生顕彰会#明治維新のDNAの解析と保存|FT413039]]}} |
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{{familytree|border=0|!|!| | | |!| | | |`| 316 |v| 416 |v| 516 |-| 616 | | | | |316=CTS11285|416=PH2316|516=Z38287|616=Z38284}} |
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{{familytree|border=0|!|!| | | |!| | | |,| 317 |!| | | |`| 517 | | | | | | | | |317=Y456902|517=[[板垣退助先生顕彰会#明治維新のDNAの解析と保存|Z38289]]}} |
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{{familytree|border=0|!|!| | | |`| 218 |+| 318 |`| 418 |v| 518 | | | | | | | |218=CTS1824|318=CTS11811|418=CTS288|518=CTS1815}} |
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{{familytree|border=0|!|!| | | | | | | |`| 319 | | | | |`| 519 | | | | | | | |319=[[礼文島]]人骨|519=Z40665}} |
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{{familytree|border=0|!|`| 120 |v| 220 |,| 320 |-| 420 | | | | | | | | | | | |120='''M116.1'''|220=[[加徳島]]人骨|320=CTS103|420=Z42462}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |)| 221 |^| 321 |v| 421 |v| 521 |v| 621 | | | |221=CTS6609^^|321=CTS1897|421=CTS11032|521=CTS218|621=CTS6909}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |!| | | | | | | |!| | | |`| 522 |)| 622 | | | |522=F8521.3|622=CTS3033}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |!| | | | | | | |!| | | | | | | |`| 623 | | | |623=M151}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |)| 224 | | | | |)| 424 |v| 524 |v| 624 | | | |224=P120|424=CTS1964|524=BY169023|624=CTS964}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |!| | | | | | | |!| | | |`| 525 |`| 625 | | | |525=CTS722|625=BY169030}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |!| | | | | | | |)| 426 |v| 526 |v| 626 | | | |426=Z30644|526=CTS4292|626=Z31517}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |)| 233 | | | | |)| 433 |)| 533 | | | | | | | |233=Z45993|433=Z40609|533=CTS217}} |
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{{familytree|border=0|!| | | | |)| 234 | | | | |)| 434 |`| 534 | | | | | | | |234=CTS3327|434=FT8762|534=Z38475}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | |`| 235 |v| 335 |^| 435 |-| 535 | | | | | | | |235='''CTS8093'''|335=FGC6373|435=FGC6372|535=FGC6384}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 336 |v| 436 | | | | | | | | | | | |336=BY45234|436=BY26014^^}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 337 |`| 437 | | | | | | | | | | | |337=Z40614|437=Z46276}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 338 | | | | | | | | | | | | | | | |338=FGC30021}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 339 | | | | | | | | | | | | | | | |339=Z31548}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 340 |-| 440 | | | | | | | | | | | |340=FT262409|440=Z31553}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 341 |v| 441 | | | | | | | | | | | |341=FT117379|441=[[浅野総一郎#Y染色体系統|CTS4093]]}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |)| 342 |`| 442 | | | | | | | | | | | |342=CTS6223|442=BY166058}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | |`| 343 |v| 443 | | | | | | | | | | | |343=Z40687|443=Z35641}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | | | | | |`| 444 | | | | | | | | | | | |444=Z40688}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 145 |v| 245 |v| 345 |v| 445 |v| 545 |-|-|-|-|-|.| |145=P143|245=M89|345=F1329|445=M578|545=L15}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | |!| | | |`| 346 |!| | | |`| 546 | | | | | |!| |346=Y27277|546='''[[ハプログループH (Y染色体)|H系統]]'''}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | |`| 247 |.| | | |`| 447 |-| 547 | | | | | |!|247=M216|447='''[[ハプログループG (Y染色体)|G系統]]'''|547=[[アイスマン]]}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | | | | | | | |!|}} |
|||
{{familytree|border=0|)| 149 |-| 249 |-| 349 |-| 449 |-| 549 |-| 649 |.|!| | |149='''[[ハプログループC1 (Y染色体)|F3393]]'''|249=CTS11043|349='''[[ハプログループC1a1 (Y染色体)|M8]]'''|449=CTS9336|549=CTS6678|649=Z7972}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|'|!| |}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | | | | | | | | | |`| 551 |-| 651 | |!| |551=Y170131|651=Y170130}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 152 |-| 252 |-| 352 |-| 452 |-| 552 |-| 652 |.|!| |152='''[[ハプログループC2 (Y染色体)|M217]]'''|252=F1067|352=Z1312|452=F2613|552=CTS4021|652=CTS2657}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'|!| |}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 154 |v| 254 |-| 354 |v| 454 | | | | |,| 654 | |!| |154=CTS11990|254=Z31664|354=Y112121|454=MF1792|654=Z31665}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | |`| 255 | | | | |`| 455 |-| 555 |^| 655 |.|!| |255=CTS3579|455=MF2816|555=Y86025|655=Y87983}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|'|!| |}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | |`| 557 |-| 657 | |!| |557=Y89130|657=MF2828}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | |}} |
|||
{{familytree|border=0|)| 159 |v| 259 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |159=M9(P128)|259='''[[ハプログループK (Y染色体)|LT系統]]'''}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |`| 260 |v| 360 |-| 460 |-| 560 |v| 660 |-|.| |260=M526|360=M2308|460=F549|560=M214|660='''M175'''}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |`| 361 |-| 461 |.| | | |`| 661 | |!| |361='''[[ハプログループP (Y染色体)|YSC0000186]]'''|461=PF5850|661='''[[ハプログループN (Y染色体)#一塩基多型分岐図|N系統]]'''}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 162 |v| 262 |-| 362 | | | | |!| | | | | | | | |!| |162='''IJ系統'''|262='''[[ハプログループI (Y染色体)|I系統]]'''|362=[[クロマニョン人]]}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | |`| 262 | | | | | | | | |!| | | | | | | | |!| |262='''[[ハプログループJ (Y染色体)|J系統]]'''}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | |!| | | | | | | |}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 164 |-| 264 |-| 364 |-| 464 |-| 564 |.| | | | |!| |164=V1651|264=M1254|364=P337|464=P284|564=P226}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | |!| | | | | | | |}} |
|||
{{familytree|border=0|)| 166 |-| 266 |v| 366 |v| 466 | | | | | | | | | |!| |166='''[[ハプログループR (Y染色体)|R系統]]'''|266=Y482|366=M173|466=[[ハプログループR1a (Y染色体)|L146]]}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 167 |v| 267 |`| 367 |`| 467 | | | | | | | | | |!| |167= |
|||
'''[[ハプログループQ (Y染色体)|Q系統]]'''|267=L472|367=L722|467=[[ハプログループR1b (Y染色体)|M343]]}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | |`| 268 | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| |268=L275}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| |}} |
|||
{{familytree|border=0|)| 170 |-| 270 |-| 370 |-| 470 |-| 570 |-| 670 |-|.| |170=F265|270=M268|370='''M176''' (P49)|470=F855|570=CTS9259|670=F1204(K10)}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 171 |-| 271 | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |171='''[[ハプログループO2 (Y染色体)|M122]]'''|271=[[漢民族]]}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| |}} |
|||
{{familytree|border=0|)| 173 |-| 273 |-| 373 |.| 473 | | | | | | | | | | | | |173='''47z''' (K7)|273=CTS1348|373='''[[ハプログループO1b2a1a1 (Y染色体)|K2]]'''|473=※以下[[弥生人]]の系統}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | | | | | |}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |)| 275 |-| 375 | | | | | | | | | | | | | | | | |275=CTS8379|375=ACT4054}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |`| 276 |v| 376 | | | | | | | | | | | | | | | | |276=Y130364|376=CTS2748}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |)| 377 |v| 477 | | | | | | | | | | | | |377=Z24599|477=CTS1351}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |!| | | |)| 478 |-| 578 | | | | | | | |478=BY146002|578=Y130014}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |!| | | |`| 479 | | | | | | | | | | | | |479=CTS9852}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |)| 380 |v| 480 |-| 580 |-| 680 | | | | | |380='''K14'''|480=Z24594|580=CTS525|680=FT217340}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |!| | | |`| 481 |-| 581 | | | | | | | |481=FT350225|581=CTS11088}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |)| 382 |-| 482 |-| 582 | | | | | | | | |382=BY179281|482=BY178096|582=BY178807}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | | | | | |`| 383 | | | | | | | | | | | | | | | | |383=Y126340}} |
|||
{{familytree|border=0|`| 184 |v| 284 |-| 384 |-| 484 |.| | | | | | | | | | |184='''F2868'''|284=L682|384=CTS723|484=Y24057}} |
|||
{{familytree|border=0| | | | |`| 285 | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | |285=F940}} |
|||
{{familytree|border=0|,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | |}} |
|||
{{familytree|border=0|)| 187 |v| 287 |v| 387 | | | | | | | | | | | | | | | |187='''CTS7620'''|287=CTS4596|387=Y61286}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |!| | | |)| 388 |-| 488 | | | | | | | | | | | |388=Page90|488=BY162375}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |!| | | |`| 389 | | | | | | | | | | | | | | | |389=CTS1175}} |
|||
{{familytree|border=0|!| | | |`| 290 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |290=MF14346}} |
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{{familytree|border=0|)| 191 |v| 291 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |191=A12446|291=PH40}} |
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{{familytree|border=0|!| | | |)| 292 |v| 392 | | | | | | | | | | | | | | | |292=FGC67537|392=FT41750}} |
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{{familytree|border=0|)| 193 |!| | | |`| 393 | | | | | | | | | | | | | | | |193=MF14220|393=FGC67568}} |
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{{familytree|border=0|`| 194 |`| 294 |-| 394 |-| 494 | | | | | | | | | | | |194=Y72859|294=MF16242|394=MF14245|494=FT281275}} |
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{{familytree/end}} |
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<small>(出典)"[https://isogg.org/tree/index.html ISOGG Tree]"(Ver.15.73), "[https://www.yfull.com/tree/O/ Y-Full]"(Ver.12.00), "[https://www.familytreedna.com/ FTDNA Big Y Tree]"<br /></small> |
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}}</div> |
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=== 弥生時代 === |
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{{main|弥生時代}} |
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[[ファイル:Yoshinogari-iseki kita-naikaku.JPG|thumb|[[吉野ヶ里遺跡]]北内郭の大型建物]] |
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[[ファイル:Emperor_Jimmu.jpg|thumb|戦前の歴史学では初代[[神武天皇]]は西暦紀元前660年元旦(旧暦。新暦では2月11日にあたる)に[[日本国の建国|日本国を建国した]]とされた。そのため日本国内では2月11日を[[建国記念の日]]として制定している。]] |
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[[紀元前10世紀]]頃から[[3世紀|紀元後3世紀]]頃までは[[弥生時代]]と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた[[弥生土器]]に由来する。[[弥生時代]]の開始期に大陸から[[弥生人]]が到達した<ref name=崎谷/>。[[水稲耕作]]が普及し、[[青銅器]]や[[鉄器]]などももたらされた。 |
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''詳細は、[[平安時代]]の参照のこと。'' |
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[[稲作]]を中心とする[[農耕社会]]が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には[[環濠集落]]が営まれた。当時多く築造された[[弥生墳丘墓]]は大型地域集団の首長墓と見られ、[[身分]]差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。 |
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[[桓武天皇]]が[[794年]]に都を[[平安京]]に遷し、蝦夷征服を中断してから、国力を傾ける大事業はなくなった。中央ではまず[[藤原氏]]が力を伸ばして[[摂関政治]]を行い、11世紀末には上皇が[[院政]]を敷いた。地方では[[荘園]]が全国に広がって、荘園と[[国衙領]]が混在する[[荘園公領制]]が出現した。平安時代の後半には[[武士]]が台頭し、末期には中央の政争に関与し、12世紀末に[[平氏政権]]を生んだ。文化面では、唐風の[[弘仁貞観文化]]から、日本的な[[国風文化]]に移り変わった。仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期に、日本の支配は本州北端まで及んだ。[[1019年]]に[[女真族]](現在の[[満州族]])による侵略[[刀伊の入寇]]があった。 |
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当時の日本列島は[[中国]]から[[倭]]・[[倭国]]と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の[[奴国]]王は[[後漢]]へ通使し[[金印]]を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を[[2世紀]]初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に[[帥升]]がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に[[倭国大乱]]と呼ばれる内乱が生じ、その後[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]が倭国王となった。卑弥呼は[[魏 (三国)|魏]]との通交により倭国連合の安定を図った。この時期の倭の状況は中国の史料で確認できるが(→[[倭・倭人関連の中国文献]])、邪馬台国などが後のヤマト王権とどのように関係するかは不明である。 |
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== 鎌倉時代 == |
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第二次大戦前までは『[[日本書紀]]』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当するとされ、初代[[神武天皇]]の即位(日本国の建国)とされる年はこの時代の前半にあたるとされていたが、戦後の歴史学では一般的でない。 |
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''詳細は、[[鎌倉時代]]を参照のこと。'' |
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寒冷な[[北海道]]・[[北東北]]地方においては水田耕作が受容されず、[[続縄文時代]]に移行した。 |
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12世紀末に、[[源頼朝]]が武士の頂点に立ち、全国に[[守護]]を置いて、[[鎌倉幕府]]を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に[[地頭]]等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。質実剛健な鎌倉文化が栄え、武士や庶民に鎌倉新仏教の諸宗が説かれた。西日本を中心に商品経済が広まり、各地に定期的な市が立つようになった。13世紀には[[1274年]]の[[文永の役]]と[[1281年]]の[[弘安の役]]の二度にわたる[[高麗王]]の[[王世子]]の[[椹]](後の忠烈王)による元のクビライ皇帝に、日本を属国化する事を執拗に奏上した事を起因とする[[元寇]](蒙古・漢族・女真族・高麗等の連合軍による侵略)があったが、いずれも撃退した。 |
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弥生時代以降、[[ハプログループO2 (Y染色体)|ハプログループO-M122]]の[[渡来人]]が到達したとされる<ref name=崎谷/>。 |
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== 建武の新政 == |
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== 古代 == |
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''詳細は、[[建武の新政]]を参照のこと。'' |
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{{clear}} |
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{{seealso|日本古代史}} |
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=== 古墳時代 === |
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鎌倉幕府は、[[1333年]]に[[後醍醐天皇]]の討幕運動によって倒れた。天皇は親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士の[[足利尊氏]]の反乱が起こった。 |
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{{main|古墳時代}} |
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[[ファイル:Hira-ide Historic Site Park reconstructed Kofun period (600 AD) house.jpg|thumb|[[平出遺跡]]公園にある、復原された古墳時代(西暦600年)の[[竪穴建物]]。]] |
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== 室町時代 == |
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[[3世紀]]中後半から[[7世紀]]頃までは[[古墳時代]]と呼ばれる。この時期に通称[[古墳人]]が渡来したという説がある。3世紀中頃に[[近畿地方]]に出現した[[前方後円墳]]とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは[[畿内]](ヤマト)・[[北部九州]]([[筑紫]])・[[北関東]]([[毛野]])・[[山陽地方|山陽]]([[吉備]])・[[山陰]]([[出雲]])に並立していた地域政治集団が糾合して[[ヤマト王権]]を形成したことを表していると考えられている([[前方後円墳体制]])。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。 |
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''詳細は、[[室町時代]]を参照のこと。'' |
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[[4世紀]]頃は文献での記述が途絶え「空白の4世紀」と呼ばれる。4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて[[朝鮮半島]]への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として[[朝鮮]]や[[中国]]の技術と文物が倭国へ流入した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。([[倭・高句麗戦争]]、[[倭・倭人関連の朝鮮文献]]) |
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尊氏は後醍醐の南朝に対して北朝を擁立し、[[1336年]]に[[室町幕府]]を開いた。二つの朝廷が対立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は[[1392年]]まで続き、北朝に統一された。ここで最終的に武家が優位に立ったが、幕府の財政軍事基盤は弱かった。[[応仁の乱]]をきっかけに[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入った。[[下克上]]が頻発し、様々な[[一揆]]が起こり、荘園制が消滅した。 |
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[[1419年]]に李氏朝鮮による侵略があった。[[応永の外寇]] |
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戦乱が続く時代だったが内外の通商は盛んで、農業・工業ともに技術が向上した。この頃、西方では[[倭寇]]が朝鮮や中国を襲った。 |
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[[5世紀]]に入るとヤマト王権は朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく[[朝貢]]することで、その目的にふさわしい[[官爵]]を求めて中国の[[南北朝時代_(中国)#南朝|南朝]]との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を[[倭の五王]]という。 |
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== 安土桃山時代 == |
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倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世[[雄略天皇]](470年頃治世)と[[諡]](おくりな)されている人物である。このころより、[[大王_(ヤマト王権)|大王]]や[[治天下大王]]と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の[[前方後円墳]]は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。 |
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''詳細は、[[安土桃山時代]]を参照のこと。'' |
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倭の五王の後、5世紀後半から[[6世紀]]前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した[[継体天皇]]の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で[[磐井の乱]]などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族[[筑紫君磐井|磐井]]の関係については不明の点が多い。 |
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[[戦国大名]]の中で[[織田信長]]が強大になり、後継者の[[豊臣秀吉]]が[[1590年]]に日本を統一した。秀吉は、全国で[[検地]]と[[刀狩り]]を実施させ、[[明]]の征服をもくろんで[[文禄・慶長の役|朝鮮を攻めた]]が、敗れた。秀吉の死後、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に勝った[[徳川家康]]が政権を得た。この時代には豪奢絢爛な[[桃山文化]]が栄えた。 |
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またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期に[[オホーツク海]]沿岸地域では、[[オホーツク文化]]が成立し、およそ[[13世紀]]まで続いた。 |
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== 江戸時代 == |
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この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、[[大和時代]]と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。 |
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''詳細は、[[江戸時代]]を参照のこと。'' |
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{{clear}} |
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=== 飛鳥時代 === |
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家康は[[1603年]]に[[江戸幕府]]を開いて、[[幕藩体制]]を固め、長く続く国内平和を実現した。17世紀に国内の農地開発が進み、その後商品経済が全国に浸透し、商品作物の栽培と商工業が発達した。[[儒教|儒学]]、[[国学]]、[[蘭学]]やさまざま実学など諸学問が繁茂し、[[元禄文化]]、[[化政文化]]のような町人による世俗的文化が栄えた。 |
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{{main|飛鳥時代}} |
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[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|法隆寺金堂と五重塔は国宝。法隆寺は、奈良県斑鳩町にある聖徳宗の寺院。ユネスコ世界文化遺産『法隆寺地域の仏教建造物』の一部。]] |
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日本は[[1609年]]に[[琉球]]を攻撃して属国にした。北では[[アイヌ]]への支配をしだいに強め、今の北海道を領土にした。江戸幕府は、17世紀初めまで[[朱印船貿易]]を実施したが、やがて貿易相手を中国、オランダ、朝鮮に限って[[鎖国]]した。鎖国は200年以上続いたが、[[1855年]]にアメリカの軍事的圧力の下で[[開国]]した。これに反対する[[尊皇攘夷]]運動がおき、幕府は[[1867年]]に倒れた。 |
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[[6世紀]]末から[[8世紀]]初頭までは、大和朝廷の本拠が主に[[飛鳥]]に置かれたことから[[飛鳥時代]]と呼ばれる。6世紀後半には朝廷の国内支配が安定し、むしろ朝廷内部の[[皇位継承|大王位継承]]抗争が目立った。この時期には[[百済]]から[[仏教]]が伝来し、後の[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]などの仏教文化へと発展していった。[[仏教]]・[[儒教]]・[[道教]]等の書物が入ってきたことで、この頃から文字の使用が普及する<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/ |title=漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか - ことばの疑問 - ことば研究館 |access-date=2023-01-19 |publisher=[[国立国語研究所]]}}</ref>。 |
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(ここまで簡略化作業終了。作業についてはこのページの[[ノート:日本の歴史]]を参照) |
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6世紀末、400年ぶりに中国を統一した[[隋]]の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも[[7世紀]]前半にかけて[[推古天皇]]とその甥厩戸王([[聖徳太子]])が、[[王殺し#日本|王殺し]]<!--大学の教科書には出てくるキーワード-->である[[蘇我馬子]]を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次[[遣隋使]]派遣の反省から、[[冠位十二階]]制定・[[十七条憲法]]導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。第2次遣隋使では[[小野妹子]]が派遣され、中国の皇帝[[煬帝]]へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」<ref>隋書 東夷伝 第81巻列伝46): "日出处天子至书日没处天子无恙" </ref>とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。 |
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== 明治時代 == |
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7世紀中頃の[[大化の改新]]も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→[[白村江の戦い]])であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに[[壬申の乱]]に勝利した[[天武天皇]]は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。[[天皇]]号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために[[律令制]]の導入を進め、8世紀初頭の[[大宝律令]]制定に結実した。[[日本]]という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められ、藤原に[[都城]]([[藤原京]])が置かれ、[[大宝 (日本)|大宝]]以後は[[元号]]も定着した。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる『[[日本書紀]]』の編纂が開始される。 |
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[[1854年]]に欧米列強の脅威に屈して幕府が[[開国]]すると、その政策に対する反発から[[尊皇攘夷]]運動が起こった。西国の諸藩の反乱を鎮圧できなかった江戸幕府は、1867年に天皇に政権を返還すると宣言した。この体制変革と直後の改革を[[明治維新]]と呼ぶ。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、[[天皇]]と[[官僚]]を頂点にする中央集権国家を打ち立て、[[地租改正]]によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。また[[徴兵制]]を実施し、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。[[戸主]]は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った。政府は他方、[[文明開化]]として西洋文明を精力的に取り入れ、[[殖産興業]]政策によって産業の急速な育成を図った。政府部内に[[征韓論]]をめぐって対立が生じ、強硬派は下野して一方は[[西南戦争]]、[[佐賀の乱]]などの[[士族反乱]]を起こし、他方は[[自由民権運動]]を起こした。天皇制政府に対しては、[[自由民権運動]]が[[民選議会]]の開設を迫り、[[大日本帝国憲法]]と[[帝国議会]]が開設され、[[内閣]]が組織された。[[朝鮮]]の権益を巡って生じた[[日清戦争]]では、日本が勝利して清との二国間で[[下関条約]]を結び、朝鮮をこの時をもって清国の属国から独立させ、[[遼東半島]]、[[台湾]]、[[膨湖諸島]]を割譲させた。しかし[[遼東半島]]は[[三国干渉]]により返還を余儀なくさせられた。[[日露戦争]]では明確な戦勝ではなかったものの、革命前のロシア国内の不穏な状況も手伝って有利な講和に持ち込まれ、[[南樺太]]を割譲させた。さらに韓国の外交権を奪い、日本の監督下に置いた。1905年、[[韓国統監府]]初代統監には[[伊藤博文]]が任命されたが、1908年に辞任し、ロシアとの会談を行うため渡満し、[[ハルピン]]に到着した際、[[大韓帝国]]の独立運動家[[安重根]]に暗殺された。1909年に韓国の[[一進会]](自称100万人の会員を誇る)より、[[韓国合邦を要求する声明書]]を受け、1910年に[[韓国併合条約]]を結んで[[大韓帝国]]を併合した。朝鮮国民の間には対日独立運動が起こった。[[日露戦争]]は近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。産業面では軽工業が発展し、20世紀に入ると重工業も伸びた。しかし農村部には、[[寄生地主制]]が確立し、地主層の代表者が議会に多く進出した。 |
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なお、この時期[[北海道]]中西南部・[[青森県]]北部においては[[擦文時代]]を迎える。 |
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== 大正時代 == |
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大正年間には、2度に及ぶ[[護憲運動]]([[憲政擁護運動]]・[[大正政変]])が起こり、[[桂太郎]]を中心とする保守的な[[藩閥]]支配体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出した。それは[[大正デモクラシー]]と呼ばれ、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らがその指導層となった。[[大正デモクラシー]]時代は、大正7年の[[米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、[[米騒動]]後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相として[[原敬]]内閣が成立した。しかし原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。大正期には、[[普選運動]]が活発化し、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権運動]]も活発となった。大正14年には、[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈し、[[天皇制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]などが現れた。大正12年に[[関東大震災]]が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。大正末期には、[[ベルサイユ]]・[[ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。また文学界には、[[芥川龍之介]]や[[白樺派]]の[[人道主義]]([[ヒューマニズム]])が台頭した。 |
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=== 奈良時代 === |
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{{main|奈良時代}} |
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[[ファイル:Tōdai-ji Kon-dō.jpg|thumb|[[東大寺]]金堂、奈良県奈良市。]] |
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''詳細は、[[大正時代]]を参照のこと。'' |
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[[8世紀]]初頭から末にかけては[[奈良時代]]と呼ばれ、奈良に都城([[平城京]])が置かれた。そして[[遣唐使]]を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。<!--遣唐使の律令持ち出しが禁じられていたという榎本論文が、律令政治の発展に寄与したという通説を覆すほどに重いかは疑問-->[[王土王民思想]]に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては[[編戸制]]・[[班田制]]・[[租庸調]]制・[[軍団 (古代日本)|軍団兵士制]]などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、[[三世一身法]]・[[墾田永年私財法]]などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期[[聖武天皇]]のときに[[中宮]]職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると[[百姓]]階層の分化が始まり、[[逃散]]増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。 |
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== 昭和時代 == |
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[[ファイル:HeijokyusekiDaigokuden.jpg|thumb|復元された[[大極殿]]]] |
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また、新羅を蕃国とし、東北地方の[[蝦夷]]・南九州の[[隼人]]を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。 |
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この時代には[[干ばつ]]・[[飢饉]]・[[山火事]]などの災害や疫病の流行が多発した<ref>{{cite book |last=Totman |first=Conrad |authorlink=Conrad Totman |year=2005 |title=A History of Japan |publisher=[[Wiley-Blackwell|Blackwell Publishing]] |location=Malden, MA |url=https://books.google.com/books?id=QBGGBAAAQBAJ |isbn=978-1-119-02235-0|pages=140–142}}</ref>。特に、735–737年にかけて発生した[[天然痘]]のエピデミック([[天平の疫病大流行]])は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた[[藤原四兄弟]]も相次いで病死した<ref>{{cite book|和書|author=吉川真司|authorlink=吉川真司|title=天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京 |year=2018|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|isbn=978-4062924825|pages=121–128}}</ref><ref>{{Cite book| last = Farris| first = William Wayne | title = Population, Disease, and Land in Early Japan, 645-900 | publisher = Harvard University Asia Center | year = 1985 | pages = 53–54 | isbn = 9780674690059}}</ref>。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、[[東大寺]]創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した<ref>{{cite book |last=Henshall |first=Kenneth |year=2012 |title=A History of Japan: From Stone Age to Superpower |publisher=[[Palgrave Macmillan]] | location=London |url=https://books.google.com/books?id=vD76fF5hqf8C |isbn=978-0-230-34662-8|page=26}}</ref>。 |
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''詳細は、[[昭和時代]]を参照のこと。'' |
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===昭和前期=== |
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文化面では、『[[日本書紀]]』・『[[万葉集]]』・『[[風土記]]』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた[[天平文化]]が栄えた。仏教は政府により統制されたものの[[鎮護国家]]思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・[[国分寺]]が国家護持の名目で建立された。工芸品では[[正倉院]]宝物が有名である。[[孝謙天皇|称徳天皇]]が作らせた[[百万塔]]におさめられた[[百万塔陀羅尼]]は、現存する世界最古の印刷物と言われている。 |
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日本は国内的には[[立憲君主制]]の体裁をとり、当初の[[藩閥政治]]を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事[[クーデター]]により、ついには政党政治を葬り去った。<br> |
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{{clear}} |
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また[[第一次世界大戦]]によってまれに見る好景気で大きく急成長を遂げた日本経済も、[[1929年]][[10月24日]]、[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]で世界恐慌が引き起こされると大打撃を受け、敗戦国[[ドイツ]]や、[[植民地]]を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。日本はそれまでにも[[第一次世界大戦]]後しばしば[[恐慌]]に見舞われる恐慌頻発国であったが、[[世界恐慌]]の翌年、[[金解禁]]を契機とする[[昭和恐慌]]を生じ、日本経済は深刻な危機に陥った。日本は恐慌からの活路を侵略に求め、[[満州]]進出を押し進め、更には南方資源地帯の利権を巡り欧米諸国との対立を深めていく。 |
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[[1937年]]、[[日中戦争]](支那事変)がはじまると、中国では[[蒋介石]]と[[周恩来]]の間で[[国共合作]]が成立し、抗日闘争が進められた。アメリカは通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はドイツ・イタリアと[[日独伊三国軍事同盟]]を締結することで対処しようとしたが、かえって米の石油禁輸を招くにいたった。米・英・華・蘭の対日強硬策は、それぞれの国の英語の頭文字をとって[[ABCD包囲網]]と呼ばれる。日本政府及び[[大本営]]は、一方で対米戦争を準備しつつも、日米交渉は[[1941年]]晩秋まで続けられたが、[[コーデル・ハル]]国務長官の提案(いわゆる[[ハル・ノート]])を最後通牒に準ずるものと考えた日本は、 |
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[[12月8日]](現地時間[[12月7日]])、[[ハワイ]]の[[真珠湾]]を奇襲攻撃した。同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃し、ここに[[太平洋戦争]]が始まった。日本政府はこの戦争を[[大東亜戦争]]とした。 |
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=== 平安時代 === |
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日本軍は開戦当初、不意打ちを主作戦としたため一見連戦連勝であったが、[[ミッドウェー海戦|ミッドウェイ海戦]]での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。米英は[[大西洋憲章]]を制定し、自陣営を[[連合国]]と称し、日独伊の[[枢軸国]]と対抗した。日本はアジアにおける勢力の正当性を訴えるため、[[1943年]][[10月]]、東京で[[大東亜会議]]を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った[[大東亜共同宣言]]を発表した。<br> |
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{{main|平安時代}} |
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翌[[1944年]][[7月]]には[[サイパン]]が陥落、日本本土も連日の空襲にさらされるようになると、物資は窮乏し、ようやく各種和平工作が企図されるようになる。翌[[1945年]][[7月26日]]、連合国は[[ポツダム宣言]]を発表するが、核の被害実験、ロシアへの軍事力の誇示、戦争早期終結など様々な理由から比較的被害の少ない[[広島市|広島]]と[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾]]が投下された。次いで[[ソビエト連邦|ソ連]]が対日参戦し、宣言受諾やむなしとの結論に達した日本政府は[[8月14日]]ポツダム宣言を受諾した。この事実は翌[[8月15日]]正午、天皇自らのラジオ放送([[玉音放送]]と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。 |
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{{See also|平安時代の人物一覧}} |
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[[File:Ichijoji Kasai13bs4272.jpg|thumb|[[一乗寺]]三重塔(国宝)、[[兵庫県]][[加西市]]。1171年建立の[[和様建築]]。]] |
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[[8世紀]]末頃から[[12世紀]]末頃までは[[平安時代]]と呼ばれ、[[桓武天皇]]の築いた[[平安京]]が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の[[国造]]一族から任命された[[郡司]]階層の没落と[[百姓]]階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで[[朝廷 (日本)|朝廷]]は[[11世紀]]初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、[[王朝国家|王朝国家体制]]と呼ばれる体制が成立した。 |
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===昭和後期=== |
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[[太平洋戦争]]降伏後、[[1952年]]まで[[連合国軍最高司令官総司令部]]の軍事占領下におかれたが、軍政は布かれず、直接的な統治は[[沖縄]]・[[小笠原諸島]]・[[台湾]]・[[朝鮮]]・[[樺太]]、[[南洋諸島]]・[[千島列島]]を除き日本政府が行なう間接統治が行われた。連合国軍最高司令官総司令部[[ウォー・キルト・インフォメーション・プログラム]]を施した。沖縄・小笠原諸島ではアメリカ合衆国の軍政が布かれた。1946年に公布された[[日本国憲法]]は、[[主権]]は国民に存するとした「[[国民主権]](主権在民)」、[[平等権]]・[[自由権]]・[[社会権]]・[[参政権]]・[[請求権]]などの権利を保障する「[[基本的人権]]の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「[[平和主義]]」を三大原則とした。このため現在日本では[[徴兵制]]は[[憲法違反]]として実施されない。また、[[天皇]]を日本国および日本国民統合の象徴として、[[天皇]]の国政への関与は禁じられた。[[農地改革]]、[[財閥解体]]、[[労働改革]]、[[教育基本法]]制定などの社会改革が実施された。戦争によって著しく落ち込んだ経済は、復興の後、1960年から1970年代初めまで[[高度経済成長]]を遂げ、1980年代には[[アメリカ合衆国]]に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。[[農地改革]]や[[労働改革]]によってかつては貧しかった[[勤労者]]や[[農民]]が大[[消費者]]層として開放され、[[国内市場]]が戦前に比べて飛躍的に拡大したことも一因となっている。また一方、産業の高い技術開発力も大きく作用し、[[家電]]、[[自動車]]などは国際的にもトップを争う位置にまで達した。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年に[[日本国との平和条約]]と同時に[[日米安全保障条約]]を締結し、[[アメリカ合衆国軍]]の駐留をそのまま継続するとともに、事実上の再軍備を行なった。[[冷戦]]期には米国と同盟して[[ソビエト連邦|ソ連]]に対抗した。冷戦後には[[国際連合]]に協力して海外で[[PKO]]部隊を展開するようになった。しかし二度にわたるオイル・ショックを境に高度経済成長時代は終焉し、[[低成長]]時代、更には[[デフレ]](マイナス成長)時代に移行する。 |
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王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された[[受領]]とその[[国衙]]機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、[[戸籍]]による個別人民把握と[[郡司]]層の[[百姓]]層に対する首長権に裏付けられた、[[人頭税]]方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、[[負名]]体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、[[国衙軍制]]を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である[[武士]]階層が、[[契丹]]の台頭に呼応した[[承平天慶の乱]]や[[刀伊の入寇]]<!--世界的観点-->などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に[[藤原北家]]が[[皇室|天皇家]]の[[外戚]]として政権中枢を担う[[摂関政治]]が成立した。 |
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== 平成時代 == |
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''詳細は、[[平成時代]]を参照のこと。'' |
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12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から[[13世紀]]にかけて[[荘園 (日本)|荘園]]の量的増加と、経営単位として自律した[[一円領地]]化という質的変化が著しくなり、[[権門]]を[[荘園領主]]とする荘園と、[[国衙]]が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、[[荘園公領制]]と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には[[太上天皇|上皇]]が[[治天の君]]として政務に当たる[[院政]]が開始しており、この時期が[[古代]]から[[中世]]への画期であるとされている。平安末期には[[保元の乱|保元]]・[[平治の乱|平治]]両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った[[伊勢平氏]]によって原初的な[[武家政権]]と評価される[[平氏政権]]が登場した。 |
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終戦後60年を経て、30歳を超えても自分探しを求める未成熟さ、個人が家庭のあり方と対立してしまう不自然さ、日本人としてのアイデンティティーの喪失感は、占領体制下で財閥解体、農地改革などの社会構造の変革と併せて行われた、日本の教育制度の変革によってもたらしたものであるという声も聞かれるようになった。しかし、それは敗戦後の占領よりも、その後の[[高度経済成長]]によって極端な効率性、合理性が必然と求められるようになったせいであるとする考え方も少なくない。[[日本の政治]]を見た場合、[[戦後]]一貫して[[自民党]]政権が続いたことが最大の特徴であろう。確かに最近一時[[非自民]]政権の時期があったが、[[アメリカ]]・[[イギリス]]一辺倒の対外姿勢は変化がない。その点では、[[ヨーロッパ]]、特に[[フランス]]や[[ドイツ]]、[[スウェーデン]]のように、[[社会民主主義]]左派が有力な潮流として定着していないことも、[[先進資本主義国]]としてはやや特異であり、いわば[[国家]]が[[資本]]の自由な活動を優先する政治経済構造を保障する点では典型的な指導性を発揮した。しかし国や国民の経済力が大きくなったとは言っても、豊かな[[国民生活]]なるものの実態はささやかな[[消費財]]の[[消費]]の拡大に止まっており、日本の国民の[[個人資産]]は必ずしもそれ程大きくはなく、また[[労働条件]]・[[福祉]]水準などもヨーロッパ諸国に比べると未だ低水準である。従って表面的な繁栄にも関わらず、実感として[[国民]]一人一人の充実した生活が必ずしも十分満たされているとは言えない面もある。しかも戦後の[[日本経済]]の[[高度成長]]はもはや過去のものとなり、[[低成長時代]]に移行した。更に2000年になると、[[デフレ]](マイナス成長)時代が続くようになる。そのため一方では[[構造不況]]が指摘され、また他方では[[構造改革]]が主張される。いずれにせよ経済の構造が問題とされるようになっているところに時代の転換点が示されている。海外ではアジア諸国、[[中国]]・[[大韓民国|韓国]]・[[マレーシア]]・[[ベトナム]]などの経済発展が見られ、[[日本]]が[[アジア]]で唯一経済的繁栄を誇ってきた時代とは様変わりしつつある。そうした趨勢の下で、あらためて[[アジア]]の中の日本、[[世界]]の中の日本について考えさせる問題も多くなっている。</br> |
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韓国と[[2002 FIFAワールドカップ]]を共催した。また、[[北朝鮮]]との間で[[日本人拉致問題]]等を含めた問題が深刻化している。 |
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[[奈良時代]]から漸次的に進んでいた文化の日本化が[[国風文化]]として結実し、[[漢字]]を元に生み出された[[平仮名]]・[[片仮名]]が使われていくようになり、『[[源氏物語]]』・『[[枕草子]]』に代表される物語文学などが花開いた。[[密教]]や[[末法思想]]が広く信じられ、[[神仏習合]]が進み、[[寺院]]が多く建てられた。 |
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== 時代区分 == |
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各時代の関係を対照するために、[[日本史時代区分表]]がある。 |
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*日本の先土器時代 |
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**[[旧石器時代]] |
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*日本の古代 |
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** [[縄文時代]] |
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** [[弥生時代]]([[紀元前3世紀]] - [[3世紀]]) |
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** [[古墳時代]]([[3世紀]]後半・[[4世紀]]初 - [[7世紀]]前半・[[8世紀]]初) |
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** [[飛鳥時代]]([[6世紀]]終末 - [[710年]]) |
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** [[奈良時代]]([[710年]] - [[784年]]) |
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** [[平安時代]]([[794年]] - [[1184年]]) |
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*日本の中世 |
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** [[鎌倉時代]]([[1192年]] - [[1334年]]) |
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** [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]([[1334年]] - [[1392年]]) |
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** [[室町時代]]([[1392年]] - [[1573年]])([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]) |
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*日本の近世 |
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** [[安土桃山時代]]([[1573年]] - [[1598年]]) |
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** [[江戸時代]]([[1603年]] - [[1868年]]) |
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*日本の近代・現代 |
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** [[明治]]([[1868年]] - [[1911年]]) |
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** [[大正]]([[1911年]] - [[1926年]]) |
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** [[昭和]]([[1926年]] - [[1989年]]) |
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** [[平成]]([[1989年]] - ) |
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東北地方では、11世紀頃から[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]・[[出羽清原氏|清原氏]]・[[奥州藤原氏]]などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された[[鎮守府将軍]]をも交えてしばしば抗争した([[前九年の役]]・[[後三年の役]])。[[南西諸島]]においては、12世紀頃から[[グスク時代]]に入る。以降の詳細は、北から[[奄美群島の歴史]]、[[沖縄県の歴史]]、[[先島諸島#先島の歴史|先島諸島の歴史]]などを参照のこと。 |
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=== 文化の時代区分 === |
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*縄文土器文化 |
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*弥生土器文化 |
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*古墳文化 |
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*[[飛鳥文化]] |
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*[[白鳳文化]] |
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*[[天平文化]](729-749) |
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*[[弘仁・貞観文化]] |
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*[[国風文化]] |
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*院政期の文化 |
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*[[鎌倉文化]] |
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*東山文化 |
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*元禄文化 |
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*文化文政文化(化政文化) |
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== 中世 == |
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=== 首都、政治的中心都市による時代区分 === |
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{{clear}} |
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*京都時代 |
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{{seealso|日本中世史}} |
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*鎌倉時代 |
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*江戸・東京時代 |
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=== 鎌倉時代 === |
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[[ファイル:Mōko Shūrai Ekotoba.jpg|thumb|[[元寇]](「蒙古襲来絵詞」)]] |
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*[[日本史の出来事一覧]] |
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[[ファイル:Kamakura Daibutsu - Takeshi DSC 7846 (4833374859).jpg|thumb|150px|[[鎌倉大仏]]]] |
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*[[日本史の人物一覧]] |
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{{main|鎌倉時代}} |
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*[[令制国一覧]] |
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{{See also|鎌倉将軍一覧|鎌倉幕府の執権一覧|鎌倉時代の人物一覧}} |
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[[12世紀]]末頃から[[14世紀]]頃までは[[鎌倉時代]]と呼ばれ、中央の[[朝廷|公家政権]]と関東の[[武家政権]]が並立した。[[源頼朝]]を首長とする[[鎌倉幕府]]は、[[治承・寿永の乱]]で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で[[守護]]・[[地頭]]補任権を獲得し、[[朝廷 (日本)|朝廷]](公家政権)と並びうる政権へと成長した。[[13世紀]]前半の[[承久の乱]]の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、[[御家人]]筆頭である[[北条氏]]が幕府政治を実質的にリードする[[執権政治]]が確立した。 |
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13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の[[元寇]]によって加速した。[[恩賞]]の払えない幕府は[[徳政令]]を発布したり[[得宗専制]]をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた[[封建制度#日本|封建制]]<!--地味に世界的観点-->を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて[[悪党]]・[[惣村]]などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。 |
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文化面では[[運慶]]と[[快慶]]の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの[[鎮護国家]]を目的とする[[顕密体制]]の仏教から発した[[鎌倉新仏教]]の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の[[擦文文化]]が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、また[[オホーツク文化]]と融合する中、[[アイヌ]]文化へと変遷を遂げた。 |
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=== 南北朝時代 === |
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{{main|南北朝時代 (日本)}} |
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{{See also|日本の南北朝時代の人物一覧}} |
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[[ファイル:Kouyou of Yoshinoyama.JPG|thumb|南朝のあった[[吉野山]]]] |
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[[File:Kamakura-fu-ja.png|thumb|明徳2年/元中8年(1391年)の鎌倉府管轄国地図]] |
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[[14世紀]]頃は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]と呼ばれ、[[大覚寺統]][[後醍醐天皇|後醍醐天皇流]]の[[南朝 (日本)|南朝]]と[[足利氏]]が支援する[[持明院統]]の[[北朝 (日本)|北朝]]に朝廷が分かれた。 |
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鎌倉時代中期以降、皇室は[[大覚寺統]]と[[持明院統]]に分かれて皇位継承を巡り争い、[[鎌倉幕府]]の介入により[[両統迭立]]状態となっていた。大覚寺統から即位した[[後醍醐天皇]]は幕府を滅ぼそうとするも失敗し、廃位されたのち[[隠岐諸島|隠岐]]に流され、[[皇太子]]であった[[光厳天皇]](持明院統)が即位した。しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は再び討幕を呼びかけ、[[足利尊氏]]や[[新田義貞]]らにより[[鎌倉幕府]]を滅亡させる。 |
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後醍醐天皇は、光厳天皇を退位させ、[[建武の新政]]と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、[[公家]]や[[武士]]など様々な層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、光厳上皇の協力も得て[[建武政権]]を崩壊させた。京都で持明院統の[[光明天皇]](光厳上皇の実弟、[[猶子]])が即位したのち、後醍醐天皇は[[吉野]]に逃れ、南朝を成立させた。対する京都の朝廷を北朝と呼ぶ。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。情勢的には、一部期間([[正平一統]]など)を除き、京都を掌握し武家政権を擁する北朝が優勢を誇り、大多数の公家や皇族、武士から支持を得た。 |
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文化面では、[[ばさら]]に代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、[[連歌]]が流行し、『[[二条河原落書]]』など文化の庶民化への動きが見られた。 |
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=== 室町時代 === |
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{{Main|室町時代}} |
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{{See also|足利将軍一覧|室町時代の人物一覧}} |
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[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|3代将軍[[足利義満]]]] |
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[[ファイル:Kinkaku-ji_2015.JPG|サムネイル|[[鹿苑寺]]]] |
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[[14世紀]]頃から[[16世紀]]頃までは[[室町時代]]と呼ばれ、[[京都]]の室町に[[室町幕府|幕府]]が置かれた。京都に本拠を置いた幕府は、[[足利尊氏]]・[[足利直義]]兄弟による[[二頭政治]]を行った。[[観応の擾乱]]以前は、朝廷(公家政権、北朝)と幕府は協調・連動して[[徳政令#徳政|徳政政策]]を行っていた<ref>[[田中奈保]]「貞和年間の公武徳政構想とその挫折―光厳上皇と足利直義の政治的関係から」『中世政治史の研究(阿部猛編)』、日本史史料研究会企画部、2010年、ISBN 9784904315095、p.812。</ref>。しかし、観応の擾乱を経て幕府は幕府権力を一つに統一し、対して朝廷は権威を失墜させると、幕府は朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷は政治実権や政治機構を失っていった。各国に置かれた守護も[[半済]]等の経済的特権の公認や[[守護請]]の拡大などを通じて、国内支配力を強め、[[国衙]]機能を取り込んでいき、[[守護大名]]へと成長して、[[守護領国制]]と呼ばれる支配体制を築いた。<!--こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を[[室町幕府-守護体制]]という。--><!--川岡勉以外にこの体制を主張している学者が見当たらないし、普通に考えると守護領国制の守護勝手な時代のイメージに合わない--> |
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[[足利義満]]は[[明徳の和約|南北朝合一]]を遂げ、朝廷を北朝に統一した。また[[日明貿易]]を行い明皇帝から[[日本国王]]に[[冊封]]された。義満は[[守護大名]]の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は[[15世紀]]中葉まで存続したが、[[応仁の乱]]によって大きく動揺すると[[明応の政変]]を契機としてついに崩壊し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]へと移行した。 |
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[[1419年]]、[[李氏朝鮮]]が対馬に侵攻した。([[応永の外寇]]) |
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[[1429年]]に[[尚巴志王]]が[[琉球王国]]を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は[[道南十二館]]などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、[[1457年]]に大首長コシャマインを中心に蜂起するも([[コシャマインの戦い]])、[[蠣崎氏]]により鎮められた。 |
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この時代の社会原則は[[自力救済]]であり、各階層内において連帯の動き=[[一揆]]が浸透した。村落社会の自立化が進み[[惣村|惣村・郷村]]が各地に成立した。[[西日本]]では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ([[倭寇]])。文化面では、[[連歌]]・[[猿楽]]・[[喫茶]]など身分を超えた交流に特徴付けられる[[室町文化]]([[北山文化]]・[[東山文化]])が栄えた。この文化は[[禅宗]]の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。 |
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=== 戦国時代 === |
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{{Main|戦国時代 (日本)}} |
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[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|thumb|[[姫路城]]]] |
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[[ファイル:Matsumoto Castle 1-1.jpg|thumb|[[松本城]]]][[15世紀]]後期から[[16世紀]]後期にかけての時期を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と呼ぶ。この時代は、[[守護大名]]や[[守護代]]、[[国人]]などを出自とする[[戦国大名]]が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、[[分国法]]を定めるなど各地で自立化を強めた。[[一円知行|一円支配]]された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を[[大名領国制]]という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した[[織田信長]]は、[[楽市・楽座|楽市楽座]]令を出したり、[[自治都市]]の[[堺]]を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い<!--安部龍太郎 信長の流通政策と海外交易 (財務省「夏季職員セミナー」) ファイナンス : 財務省広報誌 48(8), 48-55, 2012-11-->、強大な軍事力を手にした。 |
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この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、[[ヨーロッパ]]との交易([[南蛮貿易]])が始まり、[[火縄銃]]や[[キリスト教]]などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。 |
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== 近世 == |
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{{seealso|日本近世史}} |
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=== 安土桃山時代 === |
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{{main|安土桃山時代}} |
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[[ファイル:FushimiCastle.JPG|サムネイル|[[伏見城]]]] |
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[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。]] |
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[[織田信長]]は室町将軍[[足利義昭]]を追放すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が[[本能寺の変]]により自害すると、[[天下統一]]の事業は[[豊臣秀吉]]が継承することとなった。 |
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秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から[[九州]]に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、[[中世]]をおわらせた。[[刀狩]]や[[太閤検地]]の実施を通し、[[兵農分離]]を進めて[[荘園公領制]]・[[職の体系]]を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると[[大名]]・[[武士]]を中心として豪壮な[[桃山文化]]が栄えた。 |
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秀吉はキリスト教に警戒感を強め、[[バテレン追放令]]の発令と[[サン=フェリペ号事件]]が発生した。処刑された[[日本二十六聖人]]は[[カトリック教会]]系の[[フランシスコ会]]であった。<!--船員に提示された秀吉の書状によると、秀吉は[[英葡永久同盟]]下にあるポルトガルから聞いて、フィリピンが武力制圧されていたことを知っていた([[フィリピン#スペイン植民地時代]])。[[近世日本国民史]]によると、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としているということであった。しかし、この文献は当世のものでない。このときのスペイン国王は[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]であった。次の事実は世界的観点から特に重要である。[[ハプスブルク家]]出身であるフェリペ2世は、英葡同盟下にあるポルトガル国王を兼ね、さらに[[フランチェスコ・デ・タシス2世|帝国郵便]]の維持費を負担していた。--> |
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[[ファイル:Ulsan_Castles.jpg|サムネイル|[[文禄・慶長の役]]の時に日本軍によって築かれた[[蔚山倭城]]。多くの日本軍が駐留していた。(現在の[[大韓民国]]の[[蔚山広域市]])]] |
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また秀吉は[[文禄・慶長の役|朝鮮への出兵]]を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。 |
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=== 江戸時代 === |
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{{main|江戸時代}} |
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{{See also|徳川将軍一覧|江戸時代の人物一覧|幕末の人物一覧}} |
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[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2.JPG|thumb|徳川家康]] |
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[[画像:Mitsubaaoi.svg|thumb|right|150px|徳川家の家紋「[[葵紋#三つ葉葵|丸に三つ葉葵]]」。日本では家紋で使用されない緑色バージョン。]] |
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[[画像:KumamotoCastle EdoPeriod 02.JPG|thumb|江戸期の[[熊本城]]]] |
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[[慶長]]8年([[1603年]])から[[慶応]]3年([[1867年]])までは[[江戸時代]]と呼ばれ、[[江戸]]に[[江戸幕府]]が置かれた。 |
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秀吉の死後、[[徳川家康]]は[[関ヶ原の戦い]](1600年)に勝利して権力を掌握すると[[征夷大将軍]]に任命され(1603年)江戸に幕府を開き、[[大坂の陣]](1614年 - 1615年)で[[豊臣氏]]を滅ぼした。この後、幕府は、[[17世紀]]中葉までに[[武家諸法度]]の発布、[[参勤交代]]の義務化、有力大名の[[改易]]などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、[[キリスト教]]の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中で勃発した[[島原の乱]](1637年 - 1638年)は、[[キリスト教]]禁止の徹底と[[出島]]での管理貿易による[[鎖国]]の完成へとつながる。日本の境界領域である[[琉球王国]]と[[蝦夷地]]([[和人地]]である[[渡島半島]]を除く[[北海道]]、[[樺太]]及び[[千島列島]])の支配は大名を通じて行なわれた。 |
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一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、[[村請]]を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を[[幕藩体制]]という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の[[元禄文化]]に結実した。 |
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[[18世紀]]に入り金銀が流出して[[海舶互市新例]](1715年)を出すようになり<!--世界的観点-->、[[徳川吉宗]]は幕府権力の再強化と財政再建([[享保の改革]])を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力([[寛政の改革]]、[[天保の改革]]等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする[[化政文化]]が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして[[幕末の通貨問題]]<!--世界的観点-->を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。 |
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[[19世紀]]中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力([[ロシア]]、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]船の接近)に抗するため、幕府は[[フランス]]の[[ソシエテ・ジェネラル]]から貸付を受けて軍備を増強した<!--世界的観点-->。しかし同世紀後半の[[黒船来航]](1853年)と[[日米和親条約]]締結(1854年)による[[開国]]を契機として幕府の管理貿易([[鎖国]])は解かれた。そして不平等な[[安政五カ国条約]](1858年)<!--世界的観点と、日米間にとどまらない点での正確性-->を[[勅許]]なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。[[朝廷 (日本)|朝廷]]の権威が増大することになり、幕府は[[大政奉還]]により権力の温存を図ったが、倒幕派の[[薩摩藩]]、[[長州藩]]、[[土佐藩]]らが樹立した[[明治新政府]]との内戦([[戊辰戦争]])に敗北後、瓦解した。 |
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[[ファイル:Shibai_Ukie_by_Masanobu_Okumura.jpg|サムネイル|[[歌舞伎]]([[奥村政信]]画『芝居浮繪』 )は江戸時代の象徴的な娯楽である。]] |
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江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、[[歌舞伎]]、[[俳諧]]、[[浮世絵]]、[[お陰参り]]などが盛んになったほか、[[寺子屋]]や[[藩校]]で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい[[学制]]の普及に活用された。 |
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{{Main|江戸時代の日本の人口統計}} |
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18世紀初頭の[[京都市|京都]]と[[大阪市|大坂(大阪)]]はともに40万近い[[人口]]を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、当時から大都市であった[[ロンドン]]や[[パリ]]以上で世界一の人口を誇る都市であった。当時の江戸と大坂を結ぶ[[東海道]]が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。江戸時代の日本は230年以上に渡り大規模な暴動や争いが無い平和な時代であった一方、科学技術面では停滞し、[[江戸四大飢饉|飢饉]]や[[江戸の火事|大火]]に対して脆弱だった。 |
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== 近現代 == |
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{{main|日本近代史}} |
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=== 明治時代 === |
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[[ファイル:Ceremony_for_the_Promulgation_of_the_Constitution_by_Wada_Eisaku.jpg|サムネイル|[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]の制定([[和田英作]])]] |
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{{main|明治}} |
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{{See also|明治の人物一覧}} |
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[[明治]]年間([[1868年]] - [[1912年]])は[[明治|明治時代]]と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は[[戊辰戦争]]を経て旧幕府勢力を退けてから、[[王政復古 (日本)|王政復古]]により[[日本国政府|明治新政府]]を樹立した。新政府は[[岩倉使節団]]の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。<!--世界的観点-->[[明治維新]]と呼ばれる一連の改革は、[[廃藩置県]]、[[四民平等]]化、[[六法]]・[[郵便#日本の郵便の歴史|郵便]]・[[日本の鉄道開業|鉄道]]・[[水道]]等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった[[琉球王国]]や、[[樺太]]を除く[[蝦夷地]]([[北海道]]の大部分と[[千島列島]])、[[小笠原諸島]]を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。 |
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明治初期は、[[欧化主義]]か[[国粋主義]]かの間で文化面が動揺した。従来の神仏混交が改められ([[神仏分離]])、[[寺請制度]]が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする[[国家神道]]に再編されていった。これにより仏教は弾圧された([[廃仏毀釈]])。政府はキリスト教の弾圧も目指したが欧米側の圧力で容認することなり、主に教育関係において社会的地位を占めるようになった。 |
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欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は[[文明開化]]と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。[[言文一致]]や[[変体仮名]]の整理、[[標準語]]の普及が進められ、近代的な[[日本語]]が成立した。 |
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初代[[内閣総理大臣]](首相)に[[伊藤博文]]が任命された。[[安政五カ国条約]]を改正するため、[[帝国議会]]の設置や[[大日本帝国憲法]]の制定など国制整備に努める一方で、産業育成([[殖産興業]])と軍事力強化([[富国強兵]])を国策として推進した。 |
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また、[[1875年]][[3月2日]]には日本の横浜に駐留していた在日英軍、在日フランス軍率いる[[英仏横浜駐屯軍]]が撤退した。 |
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[[ファイル:Great Victory of Pyongyang and Capture of Chinese Qing Generals by Migita Toshihide 1894.jpg|サムネイル|「平譲大捷清将生捕ノ図」は1894年に描かれた。これは日本に降参し[[土下座]]をした清の政治家と、それを見ている日本軍部を表している。]] |
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日清戦争では[[三国干渉]]により、割譲された[[遼東半島]]を[[清]]に返還。戦後直後には下関条約によって日本軍は台湾に上陸したが、台湾内では混乱と反発が発生し[[乙未戦争]]が勃発、日本は再び勝利し[[台湾民主国]]は滅亡、[[日本統治時代の台湾|日本が台湾を統治]]することになった。 |
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世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが[[大不況 (1873年-1896年)]] 期にあたる。このときは[[オリエンタル・バンク]]が日本の[[外債]]を引き受けた。日露戦争ではシ団が[[ロスチャイルド]]などの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。 |
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[[ファイル:BoxerTroops.jpg|サムネイル|[[義和団の乱]]時の軍事大国とその軍艦旗([[八カ国連合軍]])。左から右へ、{{flagicon|Kingdom of Italy}} [[イタリア王国|イタリア]]、{{Flagicon|USA1896}} [[アメリカ合衆国]]、{{flagicon|France}} [[フランス第三共和政|フランス]]、{{navy|Austria-Hungary}}、[[ファイル:Naval_Ensign_of_Japan.svg|境界|25x25ピクセル]] [[日本海軍]]、{{navy|German Empire}}、{{navy|UK}}、[[ファイル:Naval ensign of Russia.svg|23x23ピクセル]][[ロシア帝国海軍]]]] |
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[[1889年]]から[[1900年]]にかけて清で[[義和団の乱]]が発生、西太后は日本や西洋列強国に宣戦布告、その影響で日本は[[八カ国連合軍]]に加わり、勝利した。清に再び勝利した日本の権益は増加することになる。 |
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1891年には日本を訪日していた[[ロシア帝国]]の皇帝[[ニコライ二世]]が警備にあたっていた[[日本の警察官|警察官]]・[[津田三蔵]]に暗殺未遂で終わる[[大津事件]]が発生した。 |
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1904年に開戦した[[日露戦争]]では[[ロシア帝国]]側の艦隊がほぼ全滅するといった反面、日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらなく、ほとんど無傷であったという異例の結果を残した。 |
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日本の勝利後、ロシア帝国から賠償金を得られず大きな負債が残ったが、ロシア帝国が[[清国]]から受領していた[[大連市|大連]]と[[旅順港|旅順]]の[[租借権]]獲得、[[東清鉄道]]の一部である[[南満洲鉄道]]を獲得するなど、[[満洲]]における権益を得ることとなった。当時としては非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、アジア諸国の中で唯一ほぼ全ての不平等条約改正を達成、欧米諸国と対等の国家となり、のちには「[[五大国]]」の一角をも占めることとなり、[[日清戦争]]と[[日露戦争]]に連続的に勝利したことで[[下関条約]]や[[ポーツマス条約]]といった日本側が有益になる条約を締結した。 |
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さらに[[大韓帝国]]においてロシアの脅威がなくなったことで日本は[[保護国]]化を決行する。[[1905年]](明治38年)には[[第二次日韓協約]]締結後大韓帝国の外交権は日本に接収された。同年には[[韓国統監府]]を設立、[[1910年]](明治43年)の[[日韓併合条約]]の締結により、[[韓国併合|大韓帝国は日本に正式に併合された]]。 |
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明治末期の1912年には[[スウェーデン]]で行われた[[1912年ストックホルムオリンピックの日本選手団|ストックホルムオリンピック]]に初めて出場した。これはアジア諸国で初である。 |
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=== 大正時代 === |
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{{main|大正|日本近代史}} |
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[[File:Emperor Taishō.jpg|thumb|150px|right|[[大正天皇]]]] |
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[[大正]]年間([[1912年]] - [[1926年]])は[[大正|大正時代]]と呼ばれる。[[護憲運動]]を経て大衆の政治参加が進み、[[政党政治]]が確立した時期である([[大正デモクラシー]])。1925年(大正14年)には男子[[普通選挙]]が実現した。大正の約14年間は、明治時代のような[[明治維新|近代化の改革]]のような事が発生することも無く、日本軍の増強などにより外部からの直接的な攻撃もなかった。災害や社会問題は発生していたが、大きな暴動などもなく日本本土も明治と比較してかなり平和な時代であった。 |
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一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、[[大隈重信]]政権は[[1914年]](大正3年)の'''[[第一次世界大戦]]'''には直接国益に関与しないにもかかわらず[[日英同盟]]を根拠に参戦。日本は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側に加わることになり、[[中央同盟国]]の[[ドイツ帝国]]と[[オーストリア゠ハンガリー帝国]]に事実上の宣戦布告、[[青島の戦い|青島戦争]]をはじめとする[[日独戦争]]が開戦、日本は中国の[[青島市]]を[[海上封鎖]]を実行した。 |
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同じ連合国である[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に[[対華21カ条要求]]を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。日本は[[ドイツ帝国軍]]に次々勝利し続けていたためドイツの植民地であった中国の[[青島市|青島]]と[[膠州湾租借地|膠州湾]]と[[ドイツ領ニューギニア|太平洋地域のドイツ領]]を占領した。1918年、第一次世界大戦は日本を含む連合国の勝利となった。 |
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敗戦国のドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵([[日独戦ドイツ兵捕虜]])と民間人約5,000人は全員を日本の[[徳島県]]の[[板東俘虜収容所]]、[[千葉県]]の[[習志野俘虜収容所]]、[[広島県]]の[[似島検疫所]]俘虜収容所など全国12か所に送られ、 戦後の[[1920年]]まで日本政府は収容させた。 |
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[[ファイル:Takashi_Hara_formal.jpg|サムネイル|193x193ピクセル|第19代[[原敬]]首相。[[原内閣]]は日本初の本格的な政党内閣となるなど、日本の政治の基礎を作り、教育政策では[[高等教育]]の拡張に力を入れた。就任中に第一次世界大戦が終戦し、戦勝国になった日本の影響力を国際社会へ高めることに成功した。]] |
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[[第一次世界大戦下の日本]]はヨーロッパ諸国のように戦火に置かれることがなかったため、民間人の死者も発生しなかった他、日本軍の戦死者や被害なども主要連合国の中で最も少なかった。その影響のため、第一次世界大戦中の日本本土では国民はいつも通りの平穏な日々が送られており、日本経済においては大戦特需と[[海底ケーブル]]需要<!--世界的観点。フジクラ等の企業も関わっており、最近のビッグビジネスを理解するために必要な指摘。-->により工業生産が激増し、日本は未曾有の好景気が続いていた([[大戦景気 (日本)|大戦景気]]または大正バブル景気とも言われる事がある)。資本の集積・集中を進め巨大[[コンツェルン]]を築いたり、国際[[カルテル]]に参加、さらには日本が大戦中に[[アジア]]・[[アフリカ]]の輸出市場を独占、輸出関連でも[[オーストラリア]]や[[南米]]など従来未開拓であった市場でも活発化したことで日本経済は空前の好況、[[株式市場]]も活況を呈し、国民の間でも[[成金]]が続出した。 |
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[[ファイル:The Illustration of the Siberian War, No. 1, The landing of the Japanese army (LOC ppmsca.08211).jpg|サムネイル|[[シベリア出兵]]を伝える日本の画報(シベリア出兵に向かう日本軍を見届ける日本国民)]] |
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1918年にはロシア帝国内で[[ロシア革命]]が発生、内政干渉として[[共産主義]]の封じ込めのために、アメリカやイギリスと同調し[[シベリア出兵]]を行った。日本軍が最初にロシア帝国の[[ウラジオストク]]に上陸し、続いて他国軍も到着していったが日本以外の連合国側は撤兵させた。数年後の1922年に日本も撤兵を発表。後の首相である[[加藤高明]]も「(シベリア出兵は)日本の国益に全くもたらせなかった。」と発言した。そのことからロシア帝国が完全に崩壊、世界初の共産主義国家の[[ソビエト連邦]]を誕生させることになる。 |
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1920年には国際平和の確保を目指す[[国際連盟]]が発足した。当時の日本は第一次世界大戦の戦勝国であると同時に経済や軍事、政治に世界的影響力のある大国であったため、国連連盟の数少ない[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となった。その影響から太平洋の[[ドイツ領ニューギニア|ドイツの植民地であった南洋群島]]は、[[国際連盟]]からの委任を受けて[[南洋諸島|日本側が統治することとなった]]。 |
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[[ファイル:Tinian_Shinto_Shrine_1.JPG|サムネイル|第一次世界大戦に勝利した日本は敗戦国のドイツ帝国からドイツ領だった南洋諸島を委任統治することになり、南洋諸島には[[南洋神社]]などの日本の宗教に関する建物が多数設立された(現在の[[パラオ共和国]])。また、パラオ共和国の[[アンガウル州]]内は2022年現在でも日本語が公用語の1つになっている。]] |
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1923年には[[関東大震災]]が発生した。日本国内は経済的にも社会的にも混乱が発生し、政府は[[緊急勅令]]を発令した。1930年には第一次世界大戦の戦勝国([[五大国]])の一員として日本をはじめとする当時の大国([[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]])は海軍力(特に戦艦)の増強を進めたが、[[ロンドン海軍軍縮会議]]によって補助艦保有量の制限を設けた。また、[[四カ国条約]]によって[[日英同盟]]も破棄される事になった。{{clear}} |
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=== 昭和時代 === |
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{{main|昭和|日本近代史}} |
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[[File:Founding Ceremony of the Hakko-Ichiu Monument.JPG|thumb|right|150px|[[八紘之基柱]]竣工式]] |
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[[File:Fumimaro Konoe.jpg|thumb|150px|right|[[近衛文麿]]、[[大政翼賛会]]総裁(初代)などを歴任した。]] |
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[[昭和]]年間([[1926年]] - [[1989年]])は[[昭和|昭和時代]]と呼ばれる。 |
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1927年(昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生。1930年(昭和5年)には、アメリカから発生した[[世界恐慌]]が日本経済を直撃し、社会不安が増加していった([[昭和恐慌]])。国政では二大政党の対立から[[統帥権干犯問題]]が表面化し、[[金解禁]]も失敗に終わるなど政党政治への不信感が増していた中、外地で[[関東軍]]によって[[満洲事変]]が発生、軍部への期待感が高まった。国家改造運動も強まり、1932年(昭和7年)に海軍軍人らによる[[五・一五事件]]で[[犬養毅]]首相が暗殺されると、[[立憲政友会]]が国政第一党でありながら前[[朝鮮総督]]の[[斎藤実]]が[[立憲民政党]]の協力を得て総理に就任する。斎藤内閣は[[塘沽協定]]で満洲事変を終結させた後、事変によって誕生した[[満洲国]]を承認し、それに反発する[[国際連盟]]に脱退を表明した。 |
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1936年(昭和11年)には陸軍の青年将校による[[二・二六事件]]クーデターが発生するも鎮圧された。当時、国連から脱退していた日本は、同じく脱退していた[[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])と[[日独防共協定]]を締結した。1937年(昭和12年)、中国の上海にて[[第二次上海事変]]が勃発し、日本は[[中華民国]]との戦争([[日中戦争]]・[[支那事変]])に突入する。[[南京戦]]などの地上戦に勝利、1938年(昭和13年)には[[重慶爆撃|重慶に対する爆撃]]などを実行し日本側が優勢になっていたが、国民党を支援する米英との対立が深刻化する。 |
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1940年(昭和15年)、[[ナチス・ドイツ]]、[[イタリア王国]]と[[日独伊三国同盟]]を締結した。それと同時に日本は[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]を開催予定であったが、日本国政府は'''[[第二次世界大戦]]'''の影響で[[国際オリンピック委員会]]に返上、日本は[[枢軸国]]として参戦することになる。 |
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1941年(昭和16年)には[[仏印進駐]]の勝利でアメリカとの関係が決定的に悪化すると、日本はアメリカとの戦争を決断し、[[マレー作戦]]とそれに続く[[真珠湾攻撃]]でアメリカ軍を奇襲し、[[太平洋戦争]](第二次世界大戦・[[大東亜戦争]])に突入した。日本はアジアの植民地諸国に駐留しているイギリス軍やフランス軍に次々と勝利していき[[日本占領時期の香港|香港]]、[[日本占領時期のビルマ|ビルマ]]、[[日本占領時期のカンボジア|カンボジア]]、[[日本占領時期のインドネシア|インドネシア]]、[[日本占領時期のフィリピン|フィリピン]]、[[日本占領時期のイギリス領ボルネオ|イギリス領ボルネオ]]などを日本が占領、日本政府は[[皇民化教育]]を強制。同時期には日本軍が[[オーストラリア]]に[[ダーウィン空襲]]を実行した([[日本のオーストラリア空襲]]を参照)。 |
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開戦当初こそ優勢を保っていた[[日本軍]]であったが、[[ミッドウェー海戦]]以降[[アメリカ軍]]の生産力と[[通商破壊]]に次第に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み[[戦略爆撃]]で[[日本本土空襲|焼け野原にされ]]、[[日本への原子爆弾投下|広島と長崎には世界で初めて原子爆弾が投下された]]。外国勢力(日本本土を攻撃したのは主に[[アメリカ合衆国]])によって日本本土を広範囲に攻撃されるのは日本の歴史上初の事例であった。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-L09218, Berlin, Japanische Botschaft.jpg|thumb|right|150px|同盟締結を記念して[[ベルリン]]の日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)]] |
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[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|right|thumb|150px|1945年8月6日に[[広島への原子爆弾投下|広島]]、同年8月9日に[[長崎への原子爆弾投下|長崎]]に[[原子爆弾]]が投下された。]] |
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1945年(昭和20年)、[[昭和天皇]]の[[聖断]]により、日本は[[ポツダム宣言]]を受託して[[日本の降伏|敗戦]]を迎えた。戦後、1945年から1952年まで[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) に占領された。この7年間は日本の歴史上、初めて外国勢力によって[[連合国軍占領下の日本|軍事占領された期間]]である。 |
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同じ枢軸国の[[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツの占領政策]]と日本の占領政策とは差があり、ドイツ政府が解体され、連合国4ヶ国([[イギリス帝国|イギリス]]、[[フランス第四共和政|フランス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ソ連]])による直接統治となりその影響で[[西ドイツ]](資本主義)と[[東ドイツ]](共産主義)という[[分断国家]]にされた。 |
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一方、日本の占領は分断国家にはされず、日本国政府と皇室を存続したまま[[アメリカ合衆国]]が間接的に占領するという間接統治を実行した(占領期間も内閣総理大臣なども存在していた)。 |
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GHQは直ちに日本軍や[[皇国史観]]、国家神道などを解体し、占領政策に基づいた[[象徴天皇制]]、[[国民主権]]、[[平和主義]]、[[政教分離]]を定めた[[日本国憲法]]を新たに制定、[[大日本帝国憲法]]は第73条により全部改正という名目で廃止された。日本が保有していた海外の軍事基地をはじめとする植民地、占領地は全て失う事になった。例えば、台湾は[[国共内戦]]によって、[[中国共産党]]に敗北した[[中国国民党]]が統治する。[[朝鮮半島]]に関しては、[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|南部分はアメリカ合衆国]]と[[ソビエト民政庁|北部分はソビエト連邦]]の2カ国による直接統治となった。その影響でドイツと同じく[[大韓民国]](資本主義)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](共産主義)の分断国家が誕生し、後の[[朝鮮戦争]]に繋がる。また、第一次世界大戦の勝利でドイツ帝国から得た南洋諸島も[[太平洋諸島信託統治領|アメリカ合衆国側が統治する方針になった]]。 |
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「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために[[農地改革]]と[[財閥解体]]が断行された。解体された財閥は[[コンツェルン]]としての形から企業グループと再び復活した。企業グループとは、[[アメリカ対日協議会]]の圧力により[[過度経済力集中排除法]]が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった[[寄生地主制]]と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた<ref>Freda Utley ''[[:en:Freda Utley#Books|Japan's Feet of Clay]]'', Faber & Faber, London (1937)</ref>。そこで[[傾斜生産方式]]という合理化が推進された。1952年、日本は[[世界銀行]]と[[国際通貨基金]]に加盟した。この頃は[[新円切替]]などが国民生活を脅かした。 |
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[[File:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg|thumb|right|[[サンフランシスコ平和条約]]に署名する[[吉田茂]]と日本全権委員団。]] |
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[[1950年代]]にさしかかる頃から[[逆コース]]が進展した。[[朝鮮戦争]]では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国側の支援活動を行った<ref name=ishimaru>{{Cite web|和書|url =http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|title =朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―|publisher =[[防衛研究所]]|author =防衛研究所戦史部[[石丸安蔵]]|accessdate =2011-08-02|archiveurl =https://web.archive.org/web/20110323030422/http://www.nids.go.jp///publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|archivedate =2011-03-23|url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。この時期[[朝鮮特需]]や外債の導入により急速に戦後復興を進めた。財閥は企業グループとして形を変えて再び復活した。 |
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[[1952年]](昭和27年)に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]により主権を回復した。戦後のドイツは[[ナチス・ドイツの国旗|ナチスの国旗]]の廃止や国歌の制限、国章の変更、戦後のイタリアも国旗と国章の変更を行ったが、日本に関しては戦前戦後と[[日の丸|国旗]]・国歌・[[日本の国章|国章]]の変更や制限は一切されず存続することになった。同年4月28日にGHQは解体し、占領軍は権限低下と名目を変え、[[在日米軍]](USFJ)として第二次世界大戦後の日本に駐留する唯一の外国軍になっている。 |
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1954年(昭和29年)には防衛に特化した[[自衛隊]]が設立され事実上の再軍備となった。[[自由民主党 (日本)|自民党]]と[[日本社会党|社会党]]の保革[[55年体制]]ができた翌年、日本は[[日ソ共同宣言]]と[[国際連合]]加盟を果した。 |
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[[冷戦]]下では西側陣営として[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]を締結した。主権回復後の日本は[[西側諸国]]の中でも特に米国寄りの立場をとったが、[[日本国憲法第9条]]を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による[[竹島問題|竹島軍事占領]]を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることが一切なかった。また国内においても[[共産主義]]等の非合法化といった強権措置は行わなかった。 |
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[[1960年代]]、日本の[[国民総生産]]は[[高度経済成長]]を。[[1964年]](昭和39年)にはアジア初であり、有色人種の国家としては初となる[[東京オリンピック (1964年)|東京オリンピック]]・[[1964年東京パラリンピック|パラリンピック]]が[[昭和天皇]]の開会宣言によって開催された。高速道路や国際空港などインフラの整備や[[オリンピック景気]]、1965年以降は[[いざなぎ景気]]と呼ばれる好景気が発生するなど繁栄する年が長年続くこととなった。また、[[国内総生産]](GDP)に関しては[[1966年]](昭和41年)に[[フランス]]を、[[1967年]](昭和42年)に[[英国]]を、[[1968年]](昭和43年)には[[西ドイツ]]をそれぞれ追い抜き、日本は[[先進国]]となった。壊滅的な敗戦から奇跡的な復興を遂げた日本は途上国のモデル国家とされた。 |
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[[1970年代]]は[[ニクソン・ショック]]と[[オイルショック]]の二重苦にもかかわらず軟着陸できたので[[安定成長期]]と呼ばれた。重化学工業から[[自動車]]・[[電機]]へと産業の主役が移る[[産業構造の転換]]が進んだ。同時に[[公害病]]問題が注目される。 |
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[[1970年]](昭和45年)、大阪にて[[日本万国博覧会|大阪万博]]が開催された。博覧会の[[名誉総裁]]は当時の[[皇太子]][[上皇明仁|明仁親王]]、名誉会長は当時の首相の[[佐藤栄作]]となった。当時では普及していなかった[[電気自動車]]や[[動く歩道]]、[[電動自転車]]などを展開するなど未来世界を作り上げたことが世界から注目され、6,422万人以上が来場し大成功を収めた。 |
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[[1972年]](昭和47年)、[[日中国交正常化]]と[[沖縄返還]]が行われた。同年に[[田中角栄]]内閣総理大臣は[[日本列島改造論]]を提唱した。それは高速交通網を全国に張り巡らせ、地方に病院や港湾、学校などの公共施設を次々と建てて、大都市と地方のインフラ格差を埋め、東京だけではなく地方の雇用・経済をさらに潤わせることであったが、後の[[オイルショック]]と[[ロッキード事件]]で道半ばに終わる。 |
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[[1973年]](昭和48年)には日本をはじめアメリカ、イギリス、[[西ドイツ]]、フランスの5カ国がG5(現在この[[G7]])を創設した。 |
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[[ファイル:GE_Building_by_David_Shankbone.JPG|サムネイル|[[三菱地所]]が1,200億円で買収した[[ロックフェラー・センター]](1989年) |
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[[バブル景気]]中の日本企業による国外不動産(主にアメリカ企業の)買い漁りの象徴となった。]] |
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経済学者の[[ラビ・バトラ]]は高い成長率と一億総中流を実現した1960年代から70年代の日本経済を指して「[[資本主義]]の究極の理想に近い」と評価した。[[ロナルド・レーガン]]はGDPと軍事力で日本がアメリカを追い抜くことを覚悟した。また、日本企業の輸出攻勢は[[貿易摩擦]]をもたらした。 |
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[[日本の民営化の一覧#中曽根内閣(1982-1987)|中曽根内閣の民営化政策]]が推進され始めて程なく[[プラザ合意]]がなされた。これにより[[円高不況]]が起こり、そこで行き過ぎた[[政策金利|金融緩和]]がなされて[[リクルート事件]]の頃に[[バブル景気]]が到来した。1人あたりの[[国民所得]]はアメリカに次ぐ世界第2位となった。引き続き年5%-7%の高い経済成長が見込まれ、21世紀は日本の時代になるとまでいわれた([[ジャパン・アズ・ナンバーワン]])。日本は大規模な好景気を経験する一方、アメリカなどは経済低迷を経験していたため日米間で[[日米貿易摩擦|貿易摩擦]]が起きた。 |
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=== 平成時代 === |
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[[ファイル:Tokyo Tower at night 8.JPG|thumb|[[東京タワー]]と[[東京都|東京]]の夜景([[六本木ヒルズ]]より)]] |
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[[ファイル:Osaka_Umeda_Sky_Building_Panoramablick_05.jpg|サムネイル|[[大阪市]]の[[梅田]]のスカイライン([[梅田スカイビル]]より)]] |
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{{main|平成|日本近代史}} |
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[[ファイル:Shukuga-Onretsu-no-gi.png|サムネイル|1989年([[平成]]元年)の祝賀御列の儀のパレードには多くの国民が集まった。]] |
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[[ファイル:Keizo_Obuchi_cropped_Keizo_Obuchi_19890107.jpg|サムネイル|新元号「平成」を発表した[[小渕恵三]]。]] |
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[[平成]]年間([[1989年]] - [[2019年]])は[[平成|平成時代]]と呼ばれる。1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御に[[皇室典範]]に基づいて[[皇位継承|皇位を継承]]。翌[[1月8日|8日]]に[[元号法]]と[[元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)|政令]]に基づき、戦後初めて「'''[[平成]]'''」へ[[改元]]が行われた。平成の30年間において、国民の約80%はとても平和な時代であったという回答がある<ref>{{Cite web|和書|title=平成は「戦争がなく平和な時代」79% NHK世論調査|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/feature-articles/feature-articles_03.html |website=www3.nhk.or.jp |accessdate=2022-03-03 |last=日本放送協会}}</ref>。 |
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平成元年の1989年にはバブル景気の影響で[[日経平均株価]]が最高値になった。1991年12月には共産主義の超大国の[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]し、冷戦は日米欧などをはじめとする西側諸国(資本主義)の事実上の勝利となった。しかしながら冷戦終結と時を同じくして日本では[[バブル崩壊]]が発生、続いて自社両党による[[55年体制]]が崩壊し、短命の[[非自民・非共産連立政権|非自民連立内閣]]が成立。その後も政界再編は続き、2009年と2012年にも[[政権交代]]が起きるなどして、1年持たない総理大臣が続出した。 |
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昭和末期から過熱状態にあった景気は、[[日銀]][[三重野康]]総裁の急激な金融引き締めによりハードランディングがおき崩壊。その後も[[円高不況]]、[[アジア通貨危機]]、[[ITバブル]]崩壊、[[少子高齢化]]と連続した要因により、2000年代まで[[失われた10年|失われた10年と呼ばれる長い経済停滞]]を経験し、その後も20年、30年と停滞が続いた。平成時代は世界的には[[インターネット]]、[[パーソナルコンピューター]]、[[携帯電話]]・[[スマートフォン]]などデジタル分野の発展が著しい時代であったが、日本企業は昭和末期には得意としていた電子産業分野で新興国の後塵を拝する状況となった。一方文化面では日本の[[サブカルチャー]]である[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[漫画]]、[[テレビゲーム]]などがインターネットを介して裾野を広げ海外で興味を引くようになった。 |
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[[阪神淡路大震災]]・[[地下鉄サリン事件]]・[[東日本大震災]]とそれに伴う[[福島第一原子力発電所事故]]などの大規模な災害が相次いで発生し、危機管理に対する意識が高まった。 |
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世界的観点において平成初期は、余剰家計を[[ミューチュアル・ファンド]]が吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、[[BRICS]]などの[[新興国]]が台頭。日本を含む先進国の[[空洞化|産業空洞化]]、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。また、[[改革開放]]以降、高度経済成長を続ける中華人民共和国がイギリスやフランス、[[ドイツ]]のGDPを抜き、2010年には遂に日本のGDPを超えた。それにより日本は42年振りに世界2位の経済大国という地位を中国に譲る事になった<ref>{{Cite web|和書|title=中国GDP、世界2位確実に 日本、42年ぶり転落 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1905R_Q1A120C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2011-01-20 |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref>。中国・[[ロシア]]率いる東側とアメリカ率いる西側の対立が再び深刻化し、日本は再び西側陣営に組み込まれた([[新冷戦]]を参照)。また[[北朝鮮]]とも[[日本人拉致問題]]、[[九州南西海域工作船事件]]、[[北朝鮮核問題]]、ミサイル問題などで対立が深刻化した。アメリカ政府は[[1994年]]から、日本政府に対して[[年次改革要望書]]を出した。年次改革要望書は[[2008年]]に[[鳩山由紀夫内閣]]中に日本側の申し出で破棄したがその後[[日米経済調和対話]]に移行した。[[安倍晋三]]首相は[[日本政府]]の外交方針として2007年には「[[日米豪印戦略対話]]」を、2012年には「[[セキュリティダイヤモンド構想]]」を、2016年には「[[自由で開かれたインド太平洋戦略]]」を世界各国に提唱した。 |
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[[1993年]]には日本が自ら提案し、[[アフリカ連合]]諸国、[[世界銀行]]と共に[[アフリカ開発会議]]を日本国政府の主導型として定期的に主催させるようになった。[[1998年]]、 [[20世紀]]最後の[[冬季オリンピック]]として[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]が[[明仁|天皇]]の開会宣言によって開催された。 |
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平成時代に日本は独自で軍事的に再び[[自衛隊海外派遣|海外に進出するようになった]]。2003年に[[イラク戦争]]が勃発しアメリカ軍が[[バアス党政権 (イラク)|イラク共和国]]に勝利すると、多国籍軍は占領を開始。[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法]]が公布され、日本も[[有志連合]]の一員として[[自衛隊イラク派遣|イラクに自衛隊が派遣された]]。これは日本国政府の目的によるとイラクの国家再建を支援するためであるとされる。[[日本クウェート地位協定]]に基づき[[クウェート]]のアリ・アル・サレーム空軍基地内に自衛隊は長期駐留した。 |
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2009年には[[アフリカ]]の[[ソマリア]]に出現する[[ソマリア沖の海賊|海賊]]を対処([[ソマリア沖海賊の対策部隊派遣]])を行うために日本は[[北大西洋条約機構]]率いる[[オーシャン・シールド作戦]](多国籍軍)に参加した。2011年にはアフリカの[[ジブチ共和国]]内に日本政府とジブチ共和国政府が共に[[日本ジブチ地位協定]]を締結し[[ジブチ共和国における自衛隊拠点|自衛隊専用の海外基地]]を設立するなど国際派遣を強化したが、国内から批判の声もあった<ref>{{Cite web|和書|title=自衛隊派遣支える「地位協定」 ジブチの法令適用されず |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54942350Y0A120C2PP8000/ |website=日本経済新聞 |date=2020-01-29 |accessdate=2022-03-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本は、自衛隊が駐留するジブチに「占領軍」のような不平等協定を強いている |url=https://nikkan-spa.jp/1556286 |website=日刊SPA! |date=2019-03-06 |accessdate=2022-03-09 |language=ja |last=志葉玲}}</ref>。 |
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[[ファイル:Tokyo_Sky_Tree_at_night_(Iki).JPG|サムネイル|[[東京スカイツリー]]は世界で最も高さが高い[[電波塔]]であり、[[ドバイ]]の[[ブルジュ・ハリファ]]に次ぐ世界で2番目の高さを誇る建造物である。2012年に完成した事により平成を代表する建物になっている。]] |
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[[ファイル:National-Foundation-Day-of-Japan-2019.png|thumb|平成時代最後の[[建国記念の日]](2019年2月11日)]] |
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日本は少子化により人手不足に陥っており、平成末期には[[人工知能]]・[[自動運転車|自動運転]]・[[ロボット]]などの新技術が人間の負担を軽減することが期待されるようになった。また宇宙開発では[[2003年]][[10月1日]]には日本の航空宇宙3機関、[[文部科学省]][[宇宙科学研究所]](ISAS)・[[独立行政法人]][[航空宇宙技術研究所]](NAL)・[[特殊法人]][[宇宙開発事業団]](NASDA)が統合されて[[宇宙航空研究開発機構]]が設立された。 |
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2019年4月1日に新たな元号「'''[[令和]]'''」を発表した。4月30日には[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]の施行に伴い、この日を以って第125代天皇[[明仁]]が[[退位]]([[譲位]])。午後5時から退位礼正殿の儀([[退位の礼]]の中心儀式で[[国事行為]]たる儀式)が行われた。5月1日午前0時に令和元年となった。 |
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天皇の生前退位は[[光格天皇]]以来202年ぶりで[[一世一元の制]]となった[[明治]]以降かつ憲政史上初めてのことであった。 |
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=== 令和時代 === |
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[[ファイル:Yoshihide_Suga_announcing_new_imperial_era_Reiwa_2_(cropped).jpg|thumb|新元号を発表する当時の[[内閣官房長官]]、[[菅義偉]](2019年4月1日)]] |
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{{main|令和|日本近代史}} |
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[[ファイル:Imperial_Procession_by_motorcar_after_the_Ceremony_of_the_Enthronement2019(3).png|サムネイル|令和の[[祝賀御列の儀]](2019年11月)。平成と同様に多くの日本国民が集まった。平成の30年間で日本の[[インターネット|インターネット産業]]が急発達していたため、儀式の模様は[[日本放送協会|NHK]]及び民放各テレビ・ラジオ局にて全世界で生中継された他、[[YouTube#YouTube Live|YouTube Live]]や[[ニコニコ生放送]]などで[[ライブストリーミング]]配信も行われた。日本国内のインターネットにおける生中継で他の番組の視聴率を超える中継となった<ref>{{Cite web|和書|title=「即位礼正殿の儀」みんな見守った・・・視聴率22・3%!繰り上げ放送の「スカーレット」は大幅ダウン |url=https://www.j-cast.com/tv/2019/10/23370735.html |website=J-CAST テレビウォッチ |date=2019-10-23 |accessdate=2022-03-14 |language=ja}}</ref>。]] |
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[[令和]]年間は([[2019年]] - 現在)は[[令和時代]]と呼ばれている。[[元号法]]並びに「[[元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)]]」に基づいて、即位の日に「'''[[令和]]'''」と[[改元]]された。 同年10月22日には[[即位礼正殿の儀]]、11月10日には[[祝賀御列の儀]]を行った。 [[御料車]](オープンカー)で[[パレード]]を行った。政府や皇室などは当初予想されていた以上に全国から国民が集まり、そして多大なる支持を示したことにより[[皇后雅子]]がパレード中に感極まって涙を流した<ref>{{Cite web|和書|title=感動の即位パレード 外務省近くで雅子さまが流した涙 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20191115_1487121.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref>。 |
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2019年12月に中国・[[武漢市|武漢]]で発生した[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]が[[2020年]]に日本にも到来。[[安倍晋三]]首相は諸外国のような[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]](都市封鎖)は実行しないものの[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]を発令した<ref>{{Cite web|和書|title=安倍首相が緊急事態宣言 7都府県対象 効力5月6日まで |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200407/k10012373011000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-03-03 |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=緊急事態宣言 39県で解除 安倍首相が表明 新型コロナウイルス |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200514/k10012430241000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-03-03 |last=日本放送協会}}</ref>。経済、政治、そして何より国民生活に大きな動揺を与えている。9月には安倍晋三首相が辞任、通算在職日数が歴代最長となった。 |
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2020年5月には日本国政府が[[宇宙作戦隊]](事実上の[[宇宙軍]])を設立した。 |
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[[2021年]]、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行_(2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により1年延期されていた[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]が[[今上天皇]]の開会宣言によって開催された。[[2020年東京オリンピックのメダル受賞数一覧|オリンピックのメダル受賞数]]で日本は世界3位という日本のオリンピック史上最も多くのメダルを獲得するという結果を残した<ref>{{Cite web|和書|title=NHK世論調査 東京五輪 ことし7月の開催「よかった」は約5割 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211211/k10013384081000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-03-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=空自輸送機がトンガ到着 飲料水3トン届ける |url=https://www.sankei.com/article/20220122-3FHIPFJZIFPADJI42GCSRHVSXM/ |website=産経ニュース |date=2022-01-22 |accessdate=2022-03-14 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 |
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[[第49回衆議院議員総選挙]]では自由民主党が衆議院の過半数の議席を獲得した<ref>{{Cite web|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/ |title=衆議院選挙速報2021 開票速報・選挙結果 -衆院選 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2024-01-06}}</ref>。[[第26回参議院議員通常選挙]]では自由民主党が参議院の第1党の地位を維持した<ref>{{Cite web|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/sangiin/ |title=参議院選挙速報2022開票速報・選挙結果 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2024-01-08}}</ref>。 |
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2月24日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアがウクライナに全面侵攻]]し、[[岸田文雄]]首相は[[ウクライナ]]の[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]大統領に人道と装備の支援を発表<ref>{{Cite web|和書|title=日本がロシア決済網排除を支持、1億ドル緊急人道支援も…首相「関係をこれまで通りにはできない」 : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220227-OYT1T50125/amp/ |website=www.yomiuri.co.jp |accessdate=2022-03-03}}</ref>と[[ロシア]]及び[[ウラジーミル・プーチン]]及び関連のある家族<ref>{{Cite web|和書|title=プーチン氏娘ら資産凍結 日本がロシアへ追加制裁 |url=https://www.fnn.jp/articles/-/345776 |website=FNNプライムオンライン |access-date=2022-04-16}}</ref>や側近、ロシア財閥の[[オリガルヒ]]<ref>{{Cite web|和書|title=“オリガルヒ中のオリガルヒ一族”に日本が経済制裁…一方で衛星がとらえた”資産隠し”の動きも |url=https://www.fnn.jp/articles/-/332264 |website=FNNプライムオンライン |accessdate=2022-03-16}}</ref>と侵攻に関与した疑いがある[[ベラルーシ|ベラルーシ共和国]]全土に前例のないほどの[[経済制裁]]、[[資産凍結]]<ref>{{Cite web|和書|title=岸田首相、日本もSWIFT制裁参加を表明 「暴挙には代償」プーチン氏資産も凍結 |url=https://www.sankei.com/article/20220227-UW3TKQX2BNPVND76QXBMQDLIK4/ |website=産経ニュース |accessdate=2022-03-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=政府 資産凍結の対象にプーチン大統領の娘ら約400人など追加 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220412/k10013578291000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2022-04-16 |language=ja}}</ref>と[[国際銀行間通信協会]]への排除の制裁行っている<ref>{{Cite web|和書|title=岸田首相 対ロシア追加制裁公表 資産凍結や半導体輸出規制など |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220225/k10013500511000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=首相、ロシアへの追加制裁発表 金融機関の資産凍結など |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2508Y0V20C22A2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-02-25 |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本政府、ベラルーシ制裁を検討…米国の表明受け : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220225-OYT1T50326/amp/ |website=www.yomiuri.co.jp |accessdate=2022-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=政府 ベラルーシへの制裁を発表 |url=https://news.yahoo.co.jp/pickup/6419892 |website=Yahoo!ニュース |accessdate=2022-03-03 |language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220305024016/https://news.yahoo.co.jp/pickup/6419892|archivedate=2022-03-05}}</ref>。また、防衛省は軍事的支援を行う事を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナに自衛隊の防弾チョッキなど提供決定 |url=https://www.sankei.com/article/20220304-MAPACGHYRBOCRDRD5PTD55BJDU/ |website=産経ニュース |date=2022-03-04 |accessdate=2022-03-30 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。4月、日本国政府は[[在日ロシア連邦大使館]]の外交官ら複数人を国外追放した<ref>{{Cite web|和書|title=日本駐在のロシア外交官ら8人追放 ウクライナ情勢で 外務省 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220408/k10013573221000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-04-08 |last=日本放送協会}}</ref>。 |
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[[第50回衆議院議員総選挙]]にて、自由民主党・公明党の合計議席は過半数を下回った<ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241027/k10014620511000.html |title=【議席確定】衆院選 自民 公明 過半数割る 立民 国民は大幅増 |accessdate=2024-12-20}}</ref>。 |
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== 歴史認識・歴史叙述 == |
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{{main|日本史学史|日本の歴史書}} |
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日本においては、[[漢字]]が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には[[歴史物語]]の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には[[ヨーロッパ|西欧]]から近代的歴史観が本格的に導入された。また戦前では[[日本神話]]が全て正史であると教育されていたため弥生以前の研究をするのは[[タブー]]であるという風潮があった{{要出典|date=2024年6月}}。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注"}} |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|last=堤|first=隆|title=ビジュアル版・旧石器時代ガイドブック|publisher=新泉社|series=シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊第2巻|year=2009|date=2009-08-25|isbn=9784787709301|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|first=和人|last=松藤|title=日本列島人類史の起源-「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-|year=2014|date=2014-05-22|isbn=9784639023135|publisher=[[雄山閣]]|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|first=隆|last=堤|title=旧石器時代研究への視座 No.2-特集:4万年前以前日本列島に人類はいたのか-|year=2020|date=2020-11-05|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/86546|doi=10.24484/sitereports.86546|volume=2|ref=harv}} |
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* 『朝日百科 日本の歴史』 全12巻、[[朝日新聞社]] |
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* 『岩波講座 日本通史』 全21巻・別巻4巻、[[岩波書店]]、[[1993年]] - [[1996年]] |
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* 『日本の歴史』 全26巻、[[講談社]]、[[2000年]] - [[2003年]] |
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* 『日本の歴史』 全32巻、[[小学館]]、[[1973年]] - [[1976年]] |
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* 『大系日本の歴史』 全15巻、小学館、[[1987年]] - [[1989年]] |
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* 『日本の歴史』 全26巻・別巻5巻、[[中央公論社]]、[[1965年]] - [[1967年]] |
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* 『講座日本歴史』 全13巻、[[東京大学出版会]]、[[1984年]] - [[1985年]] |
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* 『日本歴史大系』 全6巻 [[山川出版社]]、[[1984年]] - [[1990年]] |
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* 『日本の時代史』 全30巻、[[吉川弘文館]]、[[2002年]] - [[2004年]] |
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* 『国史大辞典』 全15巻、吉川弘文館、[[1979年]] - [[1993年]] |
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* 『日本史大事典』 全7巻、[[平凡社]]、[[1992年]] - [[1994年]] |
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* 『日本歴史大事典』 全3巻、小学館、[[2000年]] - [[2001年]] |
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* その他、[[Portal:歴史学/日本史]]も参照のこと。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{関連項目過剰|date=2023年3月}} |
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*[[城]] |
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*[[日本列島の人類の歴史]] |
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*[[歴史学]] |
* [[歴史学]] |
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*[[ |
* [[考古学]] |
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* [[古文書]] |
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* [[日中関係史]] |
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* [[日朝関係史]] |
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* [[日露関係史]] |
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* [[日米関係史]] |
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** [[日系アメリカ人の歴史]] |
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* [[朝鮮の歴史]] |
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* [[台湾の歴史]] |
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* [[沖縄県の歴史]] |
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* [[アイヌの歴史]] |
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* [[郷土史]] |
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* [[日本の軍事史]] |
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* [[日本の経済史]] |
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* [[日本教育史]] |
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* [[日本法制史]] |
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* [[日本建築史]] |
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* [[日本近代建築史]] |
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* [[日本美術史]] |
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* [[日本の文化]] |
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* [[日本写真史]] |
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* [[日本の女性史]] |
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* [[日本の首都]] |
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* [[日本の官制]] |
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** [[近代日本の官制]] |
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* [[日本の古代道路]] |
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* [[日本の税金]] |
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* [[日本史学史]] |
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* [[日本史時代区分表]] |
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* [[日本史の出来事一覧]] |
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* [[元号一覧 (日本)|日本の元号一覧]] |
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* [[内閣総理大臣の一覧]] |
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* [[日本国歴代内閣]] |
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* [[戦前の政治家一覧]] |
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* [[皇室史]]}} |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|History of Japan}} |
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{{Wikibooks|日本史}} |
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{{wikiversity|Topic:日本の歴史|日本の歴史}} |
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* [http://nihon.mydns.jp/ 日本史年表(戦国・安土桃山)] |
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* [https://www.jp-history.info/ 日本の歴史ガイド] |
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* [http://www.kagakueizo.org/movie/education/3990/ 『日本誕生 -民族の歴史-』]《[https://www.youtube.com/watch?v=h_U0a6BBsCc →YouTube版]》 - 『[[科学映像館]]』より。[http://www.nichieikagaku.com/liblary/list/%EF%BD%8Cist_new.htm 1967年]に[[養命酒製造]]の企画の下で製作された短編映画。<br />《[[日本列島の旧石器時代|先土器時代]]から[[弥生時代]]にかけての日本民族の生活・文化について触れている。[[湯浅譲二]]音楽、日映科学映画製作所制作》 |
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* [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_266.html 日本史に関する文献を探すには(主題書誌)] - 調べ方案内([[国立国会図書館]]) |
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日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京奠都以降を東京時代(1868年 – )とする説もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各時代の始期・終期は諸説ある。各記事を参照のこと。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この項目では日本の歴史(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。
時代区分
[編集]日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。原始・古代・中世・近世・近代・現代とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。
古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている[1]。中世については、中世を通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。[誰?](以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代)
上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。
一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古資料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、弥生時代後期〜古墳時代 (大阪市)・飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(近江八幡市・京都市伏見区)・江戸時代(東京23区・旧東京市)と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため弥生時代後期から飛鳥時代前期に大和時代、鎌倉時代の後に建武の新政、室町時代前期に南北朝時代、室町時代後期に戦国時代、江戸時代後期に幕末という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は中国の歴史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間(一世一元の制)に従って明治時代(明治天皇)・大正時代(大正天皇)・昭和時代(昭和天皇)・平成時代(明仁)・令和時代(徳仁)と呼ばれている。これらのうち、明治維新から1947年(昭和22年)5月2日までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)を「大日本帝国時代」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある[2]。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、→日本史時代区分表)。
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁・貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化などが用いられる。
原始
[編集]旧石器時代
[編集]日本列島における人類史の始まり、つまり日本列島に初めて人類が到達した年代については、現在も多くの議論が行われている。5万年前、あるいは8-9万年前に遡るとされる岩手県遠野市の金取遺跡出土石器や、島根県出雲市の砂原遺跡出土石器の分析結果から、12万年前に遡るとする見解もあれば[3][4][注 1]、現世人類(ホモ・サピエンス)以前の人類による列島への渡航能力と時期の問題や、石器の出土した土層の年代測定上の問題などから、4万年前以前に遡る可能性に否定的な見解などがあり[5]、2020年代現在でも意見が分かれている[6]。少なくとも現状では、日本列島の旧石器時代遺跡で、4万年前以前に遡る可能性が指摘されているものに、全ての旧石器時代研究者が肯定するものは存在していないとされる[5]。
現生人類の最初の到来は、4-3.5万年前と考えられている。この時代の人々は、集落を造って一定の場所に長期間留まることをせず、テントのような簡易な住まいで寝泊まり(キャンプ)しながら集団で狩猟採集をして移動を繰り返す「遊動生活」をしていたと考えられている[7]。後期旧石器時代の初期(4~3万年前)には、大規模な集団キャンプ跡と見られる環状ブロック群と呼ばれる遺構が出現し、千葉県印旛郡酒々井町の墨古沢遺跡や、長野県上水内郡信濃町の日向林B遺跡(野尻湖遺跡群の1つ)などの事例が知られる[8]。
約4-3万年前の人々は、台形様石器を用いたほか、日向林B遺跡などで世界最古とされる磨製石器(局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器を使用していたと見られる[8]。大分県豊後大野市の岩戸遺跡からは、約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土しており、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。
古く北海道と九州方面は大陸と地続きでありナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では出土していない。
この時代に属する遺跡は列島全体で1万箇所以上発見されているが[9]、建物(竪穴建物や平地建物)の遺構が検出される事例は極めて稀で、確実に建物(住居)跡とみて良いものは、約2万2千年前の大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の例や、約2万年前の神奈川県相模原市の田名向原遺跡の例など、10例程度しか発見されていない[7]。
約2万年前にはシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が北海道に伝わり、主に北日本で広がり、また約1万4千年前頃には別の型の細石器が大陸から九州に伝わり、西南日本で広がったものと思われる。
約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な地球温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。
旧石器時代人の遺伝子としてハプログループD-M64.1(M55)、ハプログループC-M8が想定されている[10]。
縄文時代
[編集]縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世の末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や、定住化に伴う集落(環状集落など)の形成、長期使用可能な建物(竪穴建物・平地建物・掘立柱建物)の普及、貝塚の形成などがあげられる。
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴建物に住んだ。縄文土器については、青森県大平山元I遺跡にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁撈、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。
雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビワから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。稲作については、約6,000年前の岡山県朝寝鼻貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていたことが判明した。
縄文人の主要な遺伝子として、ハプログループD-M64.1(M55)、ハプログループC-M8が想定されている[10]。
A0000 A000-T PR2921 A00 A0 A1a A1b1 サン族 L1090 P305 V221 M42 M168 E系統 YAP CTS3946 A5580.2 ナイジェリア F6251 M15 チベット Y34637 ジャラワ族 M174 CTS11577 Z3660 M64.1 L1366 フィリピン ※以下日本固有の系統 CTS131 CTS220 CTS10495 Z17176 BY113470 FT413039 CTS11285 PH2316 Z38287 Z38284 Y456902 Z38289 CTS1824 CTS11811 CTS288 CTS1815 礼文島人骨 Z40665 M116.1 加徳島人骨 CTS103 Z42462 CTS6609^^ CTS1897 CTS11032 CTS218 CTS6909 F8521.3 CTS3033 M151 P120 CTS1964 BY169023 CTS964 CTS722 BY169030 Z30644 CTS4292 Z31517 CTS429 Z31512 CTS1798 M125 CTS291 P12.1 JST022457 P53.2 Page3 CTS3397 Z1500 Z1504 BY149852 FGC34008 L137.3 Z40625 Z45993 Z40609 CTS217 CTS3327 FT8762 Z38475 CTS8093 FGC6373 FGC6372 FGC6384 BY45234 BY26014^^ Z40614 Z46276 FGC30021 Z31548 FT262409 Z31553 FT117379 CTS4093 CTS6223 BY166058 Z40687 Z35641 Z40688 P143 M89 F1329 M578 L15 Y27277 H系統 M216 G系統 アイスマン F3393 CTS11043 M8 CTS9336 CTS6678 Z7972 Y170131 Y170130 M217 F1067 Z1312 F2613 CTS4021 CTS2657 CTS11990 Z31664 Y112121 MF1792 Z31665 CTS3579 MF2816 Y86025 Y87983 Y89130 MF2828 M9(P128) LT系統 M526 M2308 F549 M214 M175 YSC0000186 PF5850 N系統 IJ系統 I系統 クロマニョン人 J系統 V1651 M1254 P337 P284 P226 R系統 Y482 M173 L146 Q系統 L472 L722 M343 L275 F265 M268 M176 (P49) F855 CTS9259 F1204(K10) M122 漢民族 47z (K7) CTS1348 K2 ※以下弥生人の系統 CTS8379 ACT4054 Y130364 CTS2748 Z24599 CTS1351 BY146002 Y130014 CTS9852 K14 Z24594 CTS525 FT217340 FT350225 CTS11088 BY179281 BY178096 BY178807 Y126340 F2868 L682 CTS723 Y24057 F940 CTS7620 CTS4596 Y61286 Page90 BY162375 CTS1175 MF14346 A12446 PH40 FGC67537 FT41750 MF14220 FGC67568 Y72859 MF16242 MF14245 FT281275
弥生時代
[編集]紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。弥生時代の開始期に大陸から弥生人が到達した[10]。水稲耕作が普及し、青銅器や鉄器などももたらされた。
稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された弥生墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。この時期の倭の状況は中国の史料で確認できるが(→倭・倭人関連の中国文献)、邪馬台国などが後のヤマト王権とどのように関係するかは不明である。
第二次大戦前までは『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当するとされ、初代神武天皇の即位(日本国の建国)とされる年はこの時代の前半にあたるとされていたが、戦後の歴史学では一般的でない。
寒冷な北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず、続縄文時代に移行した。
弥生時代以降、ハプログループO-M122の渡来人が到達したとされる[10]。
古代
[編集]古墳時代
[編集]3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。この時期に通称古墳人が渡来したという説がある。3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている(前方後円墳体制)。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
4世紀頃は文献での記述が途絶え「空白の4世紀」と呼ばれる。4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ流入した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)
5世紀に入るとヤマト王権は朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく朝貢することで、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。
またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。
この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
飛鳥時代
[編集]6世紀末から8世紀初頭までは、大和朝廷の本拠が主に飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半には朝廷の国内支配が安定し、むしろ朝廷内部の大王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。仏教・儒教・道教等の書物が入ってきたことで、この頃から文字の使用が普及する[11]。
6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王(聖徳太子)が、王殺しである蘇我馬子を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次遣隋使派遣の反省から、冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」[12]とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。
7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められ、藤原に都城(藤原京)が置かれ、大宝以後は元号も定着した。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる『日本書紀』の編纂が開始される。
なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。
奈良時代
[編集]8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期聖武天皇のときに中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の分化が始まり、逃散増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。
この時代には干ばつ・飢饉・山火事などの災害や疫病の流行が多発した[13]。特に、735–737年にかけて発生した天然痘のエピデミック(天平の疫病大流行)は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた藤原四兄弟も相次いで病死した[14][15]。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した[16]。
文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名である。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。
平安時代
[編集]8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。
王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である武士階層が、契丹の台頭に呼応した承平天慶の乱や刀伊の入寇などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。
奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
東北地方では、11世紀頃から安倍氏・清原氏・奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役・後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。
中世
[編集]鎌倉時代
[編集]12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの鎮護国家を目的とする顕密体制の仏教から発した鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の擦文文化が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、またオホーツク文化と融合する中、アイヌ文化へと変遷を遂げた。
南北朝時代
[編集]14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統後醍醐天皇流の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。
鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し、廃位されたのち隠岐に流され、皇太子であった光厳天皇(持明院統)が即位した。しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。
後醍醐天皇は、光厳天皇を退位させ、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、公家や武士など様々な層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、光厳上皇の協力も得て建武政権を崩壊させた。京都で持明院統の光明天皇(光厳上皇の実弟、猶子)が即位したのち、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を成立させた。対する京都の朝廷を北朝と呼ぶ。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。情勢的には、一部期間(正平一統など)を除き、京都を掌握し武家政権を擁する北朝が優勢を誇り、大多数の公家や皇族、武士から支持を得た。
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。
室町時代
[編集]14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。京都に本拠を置いた幕府は、足利尊氏・足利直義兄弟による二頭政治を行った。観応の擾乱以前は、朝廷(公家政権、北朝)と幕府は協調・連動して徳政政策を行っていた[17]。しかし、観応の擾乱を経て幕府は幕府権力を一つに統一し、対して朝廷は権威を失墜させると、幕府は朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷は政治実権や政治機構を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。
足利義満は南北朝合一を遂げ、朝廷を北朝に統一した。また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 1419年、李氏朝鮮が対馬に侵攻した。(応永の外寇) 1429年に尚巴志王が琉球王国を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は道南十二館などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、1457年に大首長コシャマインを中心に蜂起するも(コシャマインの戦い)、蠣崎氏により鎮められた。
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化・東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
戦国時代
[編集]15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出したり、自治都市の堺を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。
近世
[編集]安土桃山時代
[編集]織田信長は室町将軍足利義昭を追放すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が本能寺の変により自害すると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、中世をおわらせた。刀狩や太閤検地の実施を通し、兵農分離を進めて荘園公領制・職の体系を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。
秀吉はキリスト教に警戒感を強め、バテレン追放令の発令とサン=フェリペ号事件が発生した。処刑された日本二十六聖人はカトリック教会系のフランシスコ会であった。
また秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。
江戸時代
[編集]慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝利して権力を掌握すると征夷大将軍に任命され(1603年)江戸に幕府を開き、大坂の陣(1614年 - 1615年)で豊臣氏を滅ぼした。この後、幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中で勃発した島原の乱(1637年 - 1638年)は、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国の完成へとつながる。日本の境界領域である琉球王国と蝦夷地(和人地である渡島半島を除く北海道、樺太及び千島列島)の支配は大名を通じて行なわれた。
一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。
18世紀に入り金銀が流出して海舶互市新例(1715年)を出すようになり、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革、天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする化政文化が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして幕末の通貨問題を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。
19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)に抗するため、幕府はフランスのソシエテ・ジェネラルから貸付を受けて軍備を増強した。しかし同世紀後半の黒船来航(1853年)と日米和親条約締結(1854年)による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。そして不平等な安政五カ国条約(1858年)を勅許なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩、土佐藩らが樹立した明治新政府との内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。
江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい学制の普及に活用された。
18世紀初頭の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、当時から大都市であったロンドンやパリ以上で世界一の人口を誇る都市であった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。江戸時代の日本は230年以上に渡り大規模な暴動や争いが無い平和な時代であった一方、科学技術面では停滞し、飢饉や大火に対して脆弱だった。
近現代
[編集]明治時代
[編集]明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けてから、王政復古により明治新政府を樹立した。新政府は岩倉使節団の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。明治維新と呼ばれる一連の改革は、廃藩置県、四民平等化、六法・郵便・鉄道・水道等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地(北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。
明治初期は、欧化主義か国粋主義かの間で文化面が動揺した。従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていった。これにより仏教は弾圧された(廃仏毀釈)。政府はキリスト教の弾圧も目指したが欧米側の圧力で容認することなり、主に教育関係において社会的地位を占めるようになった。
欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。
初代内閣総理大臣(首相)に伊藤博文が任命された。安政五カ国条約を改正するため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成(殖産興業)と軍事力強化(富国強兵)を国策として推進した。
また、1875年3月2日には日本の横浜に駐留していた在日英軍、在日フランス軍率いる英仏横浜駐屯軍が撤退した。
日清戦争では三国干渉により、割譲された遼東半島を清に返還。戦後直後には下関条約によって日本軍は台湾に上陸したが、台湾内では混乱と反発が発生し乙未戦争が勃発、日本は再び勝利し台湾民主国は滅亡、日本が台湾を統治することになった。
世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが大不況 (1873年-1896年) 期にあたる。このときはオリエンタル・バンクが日本の外債を引き受けた。日露戦争ではシ団がロスチャイルドなどの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。
1889年から1900年にかけて清で義和団の乱が発生、西太后は日本や西洋列強国に宣戦布告、その影響で日本は八カ国連合軍に加わり、勝利した。清に再び勝利した日本の権益は増加することになる。
1891年には日本を訪日していたロシア帝国の皇帝ニコライ二世が警備にあたっていた警察官・津田三蔵に暗殺未遂で終わる大津事件が発生した。
1904年に開戦した日露戦争ではロシア帝国側の艦隊がほぼ全滅するといった反面、日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらなく、ほとんど無傷であったという異例の結果を残した。
日本の勝利後、ロシア帝国から賠償金を得られず大きな負債が残ったが、ロシア帝国が清国から受領していた大連と旅順の租借権獲得、東清鉄道の一部である南満洲鉄道を獲得するなど、満洲における権益を得ることとなった。当時としては非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、アジア諸国の中で唯一ほぼ全ての不平等条約改正を達成、欧米諸国と対等の国家となり、のちには「五大国」の一角をも占めることとなり、日清戦争と日露戦争に連続的に勝利したことで下関条約やポーツマス条約といった日本側が有益になる条約を締結した。
さらに大韓帝国においてロシアの脅威がなくなったことで日本は保護国化を決行する。1905年(明治38年)には第二次日韓協約締結後大韓帝国の外交権は日本に接収された。同年には韓国統監府を設立、1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に正式に併合された。
明治末期の1912年にはスウェーデンで行われたストックホルムオリンピックに初めて出場した。これはアジア諸国で初である。
大正時代
[編集]大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。護憲運動を経て大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した時期である(大正デモクラシー)。1925年(大正14年)には男子普通選挙が実現した。大正の約14年間は、明治時代のような近代化の改革のような事が発生することも無く、日本軍の増強などにより外部からの直接的な攻撃もなかった。災害や社会問題は発生していたが、大きな暴動などもなく日本本土も明治と比較してかなり平和な時代であった。
一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、大隈重信政権は1914年(大正3年)の第一次世界大戦には直接国益に関与しないにもかかわらず日英同盟を根拠に参戦。日本は連合国側に加わることになり、中央同盟国のドイツ帝国とオーストリア゠ハンガリー帝国に事実上の宣戦布告、青島戦争をはじめとする日独戦争が開戦、日本は中国の青島市を海上封鎖を実行した。
同じ連合国である中華民国の袁世凱政権に対華21カ条要求を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。日本はドイツ帝国軍に次々勝利し続けていたためドイツの植民地であった中国の青島と膠州湾と太平洋地域のドイツ領を占領した。1918年、第一次世界大戦は日本を含む連合国の勝利となった。
敗戦国のドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員を日本の徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所に送られ、 戦後の1920年まで日本政府は収容させた。
第一次世界大戦下の日本はヨーロッパ諸国のように戦火に置かれることがなかったため、民間人の死者も発生しなかった他、日本軍の戦死者や被害なども主要連合国の中で最も少なかった。その影響のため、第一次世界大戦中の日本本土では国民はいつも通りの平穏な日々が送られており、日本経済においては大戦特需と海底ケーブル需要により工業生産が激増し、日本は未曾有の好景気が続いていた(大戦景気または大正バブル景気とも言われる事がある)。資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築いたり、国際カルテルに参加、さらには日本が大戦中にアジア・アフリカの輸出市場を独占、輸出関連でもオーストラリアや南米など従来未開拓であった市場でも活発化したことで日本経済は空前の好況、株式市場も活況を呈し、国民の間でも成金が続出した。
1918年にはロシア帝国内でロシア革命が発生、内政干渉として共産主義の封じ込めのために、アメリカやイギリスと同調しシベリア出兵を行った。日本軍が最初にロシア帝国のウラジオストクに上陸し、続いて他国軍も到着していったが日本以外の連合国側は撤兵させた。数年後の1922年に日本も撤兵を発表。後の首相である加藤高明も「(シベリア出兵は)日本の国益に全くもたらせなかった。」と発言した。そのことからロシア帝国が完全に崩壊、世界初の共産主義国家のソビエト連邦を誕生させることになる。
1920年には国際平和の確保を目指す国際連盟が発足した。当時の日本は第一次世界大戦の戦勝国であると同時に経済や軍事、政治に世界的影響力のある大国であったため、国連連盟の数少ない常任理事国となった。その影響から太平洋のドイツの植民地であった南洋群島は、国際連盟からの委任を受けて日本側が統治することとなった。
1923年には関東大震災が発生した。日本国内は経済的にも社会的にも混乱が発生し、政府は緊急勅令を発令した。1930年には第一次世界大戦の戦勝国(五大国)の一員として日本をはじめとする当時の大国(連合国)は海軍力(特に戦艦)の増強を進めたが、ロンドン海軍軍縮会議によって補助艦保有量の制限を設けた。また、四カ国条約によって日英同盟も破棄される事になった。
昭和時代
[編集]昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。
1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生。1930年(昭和5年)には、アメリカから発生した世界恐慌が日本経済を直撃し、社会不安が増加していった(昭和恐慌)。国政では二大政党の対立から統帥権干犯問題が表面化し、金解禁も失敗に終わるなど政党政治への不信感が増していた中、外地で関東軍によって満洲事変が発生、軍部への期待感が高まった。国家改造運動も強まり、1932年(昭和7年)に海軍軍人らによる五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されると、立憲政友会が国政第一党でありながら前朝鮮総督の斎藤実が立憲民政党の協力を得て総理に就任する。斎藤内閣は塘沽協定で満洲事変を終結させた後、事変によって誕生した満洲国を承認し、それに反発する国際連盟に脱退を表明した。
1936年(昭和11年)には陸軍の青年将校による二・二六事件クーデターが発生するも鎮圧された。当時、国連から脱退していた日本は、同じく脱退していたドイツ国(ナチス・ドイツ)と日独防共協定を締結した。1937年(昭和12年)、中国の上海にて第二次上海事変が勃発し、日本は中華民国との戦争(日中戦争・支那事変)に突入する。南京戦などの地上戦に勝利、1938年(昭和13年)には重慶に対する爆撃などを実行し日本側が優勢になっていたが、国民党を支援する米英との対立が深刻化する。
1940年(昭和15年)、ナチス・ドイツ、イタリア王国と日独伊三国同盟を締結した。それと同時に日本は東京オリンピックを開催予定であったが、日本国政府は第二次世界大戦の影響で国際オリンピック委員会に返上、日本は枢軸国として参戦することになる。
1941年(昭和16年)には仏印進駐の勝利でアメリカとの関係が決定的に悪化すると、日本はアメリカとの戦争を決断し、マレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃でアメリカ軍を奇襲し、太平洋戦争(第二次世界大戦・大東亜戦争)に突入した。日本はアジアの植民地諸国に駐留しているイギリス軍やフランス軍に次々と勝利していき香港、ビルマ、カンボジア、インドネシア、フィリピン、イギリス領ボルネオなどを日本が占領、日本政府は皇民化教育を強制。同時期には日本軍がオーストラリアにダーウィン空襲を実行した(日本のオーストラリア空襲を参照)。
開戦当初こそ優勢を保っていた日本軍であったが、ミッドウェー海戦以降アメリカ軍の生産力と通商破壊に次第に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には世界で初めて原子爆弾が投下された。外国勢力(日本本土を攻撃したのは主にアメリカ合衆国)によって日本本土を広範囲に攻撃されるのは日本の歴史上初の事例であった。
1945年(昭和20年)、昭和天皇の聖断により、日本はポツダム宣言を受託して敗戦を迎えた。戦後、1945年から1952年まで連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に占領された。この7年間は日本の歴史上、初めて外国勢力によって軍事占領された期間である。
同じ枢軸国のドイツの占領政策と日本の占領政策とは差があり、ドイツ政府が解体され、連合国4ヶ国(イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソ連)による直接統治となりその影響で西ドイツ(資本主義)と東ドイツ(共産主義)という分断国家にされた。
一方、日本の占領は分断国家にはされず、日本国政府と皇室を存続したままアメリカ合衆国が間接的に占領するという間接統治を実行した(占領期間も内閣総理大臣なども存在していた)。
GHQは直ちに日本軍や皇国史観、国家神道などを解体し、占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義、政教分離を定めた日本国憲法を新たに制定、大日本帝国憲法は第73条により全部改正という名目で廃止された。日本が保有していた海外の軍事基地をはじめとする植民地、占領地は全て失う事になった。例えば、台湾は国共内戦によって、中国共産党に敗北した中国国民党が統治する。朝鮮半島に関しては、南部分はアメリカ合衆国と北部分はソビエト連邦の2カ国による直接統治となった。その影響でドイツと同じく大韓民国(資本主義)と朝鮮民主主義人民共和国(共産主義)の分断国家が誕生し、後の朝鮮戦争に繋がる。また、第一次世界大戦の勝利でドイツ帝国から得た南洋諸島もアメリカ合衆国側が統治する方針になった。
「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために農地改革と財閥解体が断行された。解体された財閥はコンツェルンとしての形から企業グループと再び復活した。企業グループとは、アメリカ対日協議会の圧力により過度経済力集中排除法が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった寄生地主制と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた[19]。そこで傾斜生産方式という合理化が推進された。1952年、日本は世界銀行と国際通貨基金に加盟した。この頃は新円切替などが国民生活を脅かした。
1950年代にさしかかる頃から逆コースが進展した。朝鮮戦争では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国側の支援活動を行った[20]。この時期朝鮮特需や外債の導入により急速に戦後復興を進めた。財閥は企業グループとして形を変えて再び復活した。
1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した。戦後のドイツはナチスの国旗の廃止や国歌の制限、国章の変更、戦後のイタリアも国旗と国章の変更を行ったが、日本に関しては戦前戦後と国旗・国歌・国章の変更や制限は一切されず存続することになった。同年4月28日にGHQは解体し、占領軍は権限低下と名目を変え、在日米軍(USFJ)として第二次世界大戦後の日本に駐留する唯一の外国軍になっている。
1954年(昭和29年)には防衛に特化した自衛隊が設立され事実上の再軍備となった。自民党と社会党の保革55年体制ができた翌年、日本は日ソ共同宣言と国際連合加盟を果した。
冷戦下では西側陣営として日米安全保障条約を締結した。主権回復後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第9条を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることが一切なかった。また国内においても共産主義等の非合法化といった強権措置は行わなかった。
1960年代、日本の国民総生産は高度経済成長を。1964年(昭和39年)にはアジア初であり、有色人種の国家としては初となる東京オリンピック・パラリンピックが昭和天皇の開会宣言によって開催された。高速道路や国際空港などインフラの整備やオリンピック景気、1965年以降はいざなぎ景気と呼ばれる好景気が発生するなど繁栄する年が長年続くこととなった。また、国内総生産(GDP)に関しては1966年(昭和41年)にフランスを、1967年(昭和42年)に英国を、1968年(昭和43年)には西ドイツをそれぞれ追い抜き、日本は先進国となった。壊滅的な敗戦から奇跡的な復興を遂げた日本は途上国のモデル国家とされた。
1970年代はニクソン・ショックとオイルショックの二重苦にもかかわらず軟着陸できたので安定成長期と呼ばれた。重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進んだ。同時に公害病問題が注目される。
1970年(昭和45年)、大阪にて大阪万博が開催された。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の首相の佐藤栄作となった。当時では普及していなかった電気自動車や動く歩道、電動自転車などを展開するなど未来世界を作り上げたことが世界から注目され、6,422万人以上が来場し大成功を収めた。
1972年(昭和47年)、日中国交正常化と沖縄返還が行われた。同年に田中角栄内閣総理大臣は日本列島改造論を提唱した。それは高速交通網を全国に張り巡らせ、地方に病院や港湾、学校などの公共施設を次々と建てて、大都市と地方のインフラ格差を埋め、東京だけではなく地方の雇用・経済をさらに潤わせることであったが、後のオイルショックとロッキード事件で道半ばに終わる。
1973年(昭和48年)には日本をはじめアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスの5カ国がG5(現在このG7)を創設した。
経済学者のラビ・バトラは高い成長率と一億総中流を実現した1960年代から70年代の日本経済を指して「資本主義の究極の理想に近い」と評価した。ロナルド・レーガンはGDPと軍事力で日本がアメリカを追い抜くことを覚悟した。また、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。 中曽根内閣の民営化政策が推進され始めて程なくプラザ合意がなされた。これにより円高不況が起こり、そこで行き過ぎた金融緩和がなされてリクルート事件の頃にバブル景気が到来した。1人あたりの国民所得はアメリカに次ぐ世界第2位となった。引き続き年5%-7%の高い経済成長が見込まれ、21世紀は日本の時代になるとまでいわれた(ジャパン・アズ・ナンバーワン)。日本は大規模な好景気を経験する一方、アメリカなどは経済低迷を経験していたため日米間で貿易摩擦が起きた。
平成時代
[編集]平成年間(1989年 - 2019年)は平成時代と呼ばれる。1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御に皇室典範に基づいて皇位を継承。翌8日に元号法と政令に基づき、戦後初めて「平成」へ改元が行われた。平成の30年間において、国民の約80%はとても平和な時代であったという回答がある[21]。
平成元年の1989年にはバブル景気の影響で日経平均株価が最高値になった。1991年12月には共産主義の超大国のソビエト連邦が崩壊し、冷戦は日米欧などをはじめとする西側諸国(資本主義)の事実上の勝利となった。しかしながら冷戦終結と時を同じくして日本ではバブル崩壊が発生、続いて自社両党による55年体制が崩壊し、短命の非自民連立内閣が成立。その後も政界再編は続き、2009年と2012年にも政権交代が起きるなどして、1年持たない総理大臣が続出した。
昭和末期から過熱状態にあった景気は、日銀三重野康総裁の急激な金融引き締めによりハードランディングがおき崩壊。その後も円高不況、アジア通貨危機、ITバブル崩壊、少子高齢化と連続した要因により、2000年代まで失われた10年と呼ばれる長い経済停滞を経験し、その後も20年、30年と停滞が続いた。平成時代は世界的にはインターネット、パーソナルコンピューター、携帯電話・スマートフォンなどデジタル分野の発展が著しい時代であったが、日本企業は昭和末期には得意としていた電子産業分野で新興国の後塵を拝する状況となった。一方文化面では日本のサブカルチャーであるアニメ、漫画、テレビゲームなどがインターネットを介して裾野を広げ海外で興味を引くようになった。
阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が相次いで発生し、危機管理に対する意識が高まった。
世界的観点において平成初期は、余剰家計をミューチュアル・ファンドが吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、BRICSなどの新興国が台頭。日本を含む先進国の産業空洞化、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。また、改革開放以降、高度経済成長を続ける中華人民共和国がイギリスやフランス、ドイツのGDPを抜き、2010年には遂に日本のGDPを超えた。それにより日本は42年振りに世界2位の経済大国という地位を中国に譲る事になった[22]。中国・ロシア率いる東側とアメリカ率いる西側の対立が再び深刻化し、日本は再び西側陣営に組み込まれた(新冷戦を参照)。また北朝鮮とも日本人拉致問題、九州南西海域工作船事件、北朝鮮核問題、ミサイル問題などで対立が深刻化した。アメリカ政府は1994年から、日本政府に対して年次改革要望書を出した。年次改革要望書は2008年に鳩山由紀夫内閣中に日本側の申し出で破棄したがその後日米経済調和対話に移行した。安倍晋三首相は日本政府の外交方針として2007年には「日米豪印戦略対話」を、2012年には「セキュリティダイヤモンド構想」を、2016年には「自由で開かれたインド太平洋戦略」を世界各国に提唱した。
1993年には日本が自ら提案し、アフリカ連合諸国、世界銀行と共にアフリカ開発会議を日本国政府の主導型として定期的に主催させるようになった。1998年、 20世紀最後の冬季オリンピックとして長野オリンピックが天皇の開会宣言によって開催された。
平成時代に日本は独自で軍事的に再び海外に進出するようになった。2003年にイラク戦争が勃発しアメリカ軍がイラク共和国に勝利すると、多国籍軍は占領を開始。イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法が公布され、日本も有志連合の一員としてイラクに自衛隊が派遣された。これは日本国政府の目的によるとイラクの国家再建を支援するためであるとされる。日本クウェート地位協定に基づきクウェートのアリ・アル・サレーム空軍基地内に自衛隊は長期駐留した。
2009年にはアフリカのソマリアに出現する海賊を対処(ソマリア沖海賊の対策部隊派遣)を行うために日本は北大西洋条約機構率いるオーシャン・シールド作戦(多国籍軍)に参加した。2011年にはアフリカのジブチ共和国内に日本政府とジブチ共和国政府が共に日本ジブチ地位協定を締結し自衛隊専用の海外基地を設立するなど国際派遣を強化したが、国内から批判の声もあった[23][24]。
日本は少子化により人手不足に陥っており、平成末期には人工知能・自動運転・ロボットなどの新技術が人間の負担を軽減することが期待されるようになった。また宇宙開発では2003年10月1日には日本の航空宇宙3機関、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)・独立行政法人航空宇宙技術研究所(NAL)・特殊法人宇宙開発事業団(NASDA)が統合されて宇宙航空研究開発機構が設立された。
2019年4月1日に新たな元号「令和」を発表した。4月30日には天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行に伴い、この日を以って第125代天皇明仁が退位(譲位)。午後5時から退位礼正殿の儀(退位の礼の中心儀式で国事行為たる儀式)が行われた。5月1日午前0時に令和元年となった。
天皇の生前退位は光格天皇以来202年ぶりで一世一元の制となった明治以降かつ憲政史上初めてのことであった。
令和時代
[編集]令和年間は(2019年 - 現在)は令和時代と呼ばれている。元号法並びに「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」に基づいて、即位の日に「令和」と改元された。 同年10月22日には即位礼正殿の儀、11月10日には祝賀御列の儀を行った。 御料車(オープンカー)でパレードを行った。政府や皇室などは当初予想されていた以上に全国から国民が集まり、そして多大なる支持を示したことにより皇后雅子がパレード中に感極まって涙を流した[26]。
2019年12月に中国・武漢で発生した新型コロナウイルス感染症が2020年に日本にも到来。安倍晋三首相は諸外国のようなロックダウン(都市封鎖)は実行しないものの緊急事態宣言を発令した[27][28]。経済、政治、そして何より国民生活に大きな動揺を与えている。9月には安倍晋三首相が辞任、通算在職日数が歴代最長となった。
2020年5月には日本国政府が宇宙作戦隊(事実上の宇宙軍)を設立した。
2021年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により1年延期されていた東京オリンピック・パラリンピックが今上天皇の開会宣言によって開催された。オリンピックのメダル受賞数で日本は世界3位という日本のオリンピック史上最も多くのメダルを獲得するという結果を残した[29][30]。
第49回衆議院議員総選挙では自由民主党が衆議院の過半数の議席を獲得した[31]。第26回参議院議員通常選挙では自由民主党が参議院の第1党の地位を維持した[32]。
2月24日、ロシアがウクライナに全面侵攻し、岸田文雄首相はウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に人道と装備の支援を発表[33]とロシア及びウラジーミル・プーチン及び関連のある家族[34]や側近、ロシア財閥のオリガルヒ[35]と侵攻に関与した疑いがあるベラルーシ共和国全土に前例のないほどの経済制裁、資産凍結[36][37]と国際銀行間通信協会への排除の制裁行っている[38][39][40][41]。また、防衛省は軍事的支援を行う事を発表した[42]。4月、日本国政府は在日ロシア連邦大使館の外交官ら複数人を国外追放した[43]。
第50回衆議院議員総選挙にて、自由民主党・公明党の合計議席は過半数を下回った[44]。
歴史認識・歴史叙述
[編集]日本においては、漢字が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には歴史物語の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。また戦前では日本神話が全て正史であると教育されていたため弥生以前の研究をするのはタブーであるという風潮があった[要出典]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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- ^ “首相、ロシアへの追加制裁発表 金融機関の資産凍結など”. 日本経済新聞 (2022年2月25日). 2022年2月25日閲覧。
- ^ “日本政府、ベラルーシ制裁を検討…米国の表明受け : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン”. www.yomiuri.co.jp. 2022年2月25日閲覧。
- ^ “政府 ベラルーシへの制裁を発表”. Yahoo!ニュース. 2022年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月3日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2022年3月4日). “ウクライナに自衛隊の防弾チョッキなど提供決定”. 産経ニュース. 2022年3月30日閲覧。
- ^ 日本放送協会. “日本駐在のロシア外交官ら8人追放 ウクライナ情勢で 外務省 | NHK”. NHKニュース. 2022年4月8日閲覧。
- ^ “【議席確定】衆院選 自民 公明 過半数割る 立民 国民は大幅増”. 2024年12月20日閲覧。
参考文献
[編集]- 堤, 隆『ビジュアル版・旧石器時代ガイドブック』新泉社〈シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊第2巻〉、2009年8月25日。ISBN 9784787709301。
- 松藤, 和人『日本列島人類史の起源-「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-』雄山閣、2014年5月22日。ISBN 9784639023135。
- 堤, 隆『旧石器時代研究への視座 No.2-特集:4万年前以前日本列島に人類はいたのか-』 2巻、2020年11月5日。doi:10.24484/sitereports.86546 。
- 『朝日百科 日本の歴史』 全12巻、朝日新聞社
- 『岩波講座 日本通史』 全21巻・別巻4巻、岩波書店、1993年 - 1996年
- 『日本の歴史』 全26巻、講談社、2000年 - 2003年
- 『日本の歴史』 全32巻、小学館、1973年 - 1976年
- 『大系日本の歴史』 全15巻、小学館、1987年 - 1989年
- 『日本の歴史』 全26巻・別巻5巻、中央公論社、1965年 - 1967年
- 『講座日本歴史』 全13巻、東京大学出版会、1984年 - 1985年
- 『日本歴史大系』 全6巻 山川出版社、1984年 - 1990年
- 『日本の時代史』 全30巻、吉川弘文館、2002年 - 2004年
- 『国史大辞典』 全15巻、吉川弘文館、1979年 - 1993年
- 『日本史大事典』 全7巻、平凡社、1992年 - 1994年
- 『日本歴史大事典』 全3巻、小学館、2000年 - 2001年
- その他、Portal:歴史学/日本史も参照のこと。
関連項目
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外部リンク
[編集]- 日本史年表(戦国・安土桃山)
- 日本の歴史ガイド
- 『日本誕生 -民族の歴史-』《→YouTube版》 - 『科学映像館』より。1967年に養命酒製造の企画の下で製作された短編映画。
《先土器時代から弥生時代にかけての日本民族の生活・文化について触れている。湯浅譲二音楽、日映科学映画製作所制作》 - 日本史に関する文献を探すには(主題書誌) - 調べ方案内(国立国会図書館)