武家諸法度
武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代初期の1615年に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法[1](武家法)である。ここでいう武家とは天和令までは旗本御家人や藩士(幕府からみた陪臣)など広い意味での武家は含まず、大名のことを指す(幕臣については武家諸法度を照応した諸士法度で規定され、天和令において統合された)。
最初は元和元年、1615年(正確には慶長末年)に徳川秀忠によって発布されたもの(元和令)だが、徳川吉宗による享保2年(1717年)の享保令まで改定が重ねられた。
概要
[編集]1615年に、大坂の陣によって豊臣家を滅ぼした徳川家康は、諸大名を伏見城に集め徳川秀忠の命という形で諸大名統制のための全13ヶ条の法令を発布した。これを武家諸法度といい、年号を取って元和令とも呼ぶ。
元々は1611年に家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条で、これに以心崇伝が起草した10ヶ条を付け加えたものである。主に文武や倹約の奨励といった規範を旨としており、それ以外に豊臣政権でも見られた大名同士の婚姻の許可制や、領内に逃げた罪人を匿うことを禁じるなどの統治の制限が含まれていた。特に、この中の居城修補の届出制は、後に福島正則の改易(届出違反自体は減封)に繋がったことでも知られ、しばしば武家諸法度違反が大名の減封や改易の理由に用いられた。また、その違反時の厳罰対象は外様だけではなく譜代も同じであった。
その後、将軍の交代と共に改訂が続けられ、徳川家光が参勤交代の義務化や大船建造の禁に関する条文を加えた1635年の寛永令、徳川綱吉の殉死の禁止や末期養子の緩和などを定めた1683年の天和令、最後の改訂となる徳川吉宗の1717年の享保令(実質は天和令)が知られる。
各法令
[編集]元和令(1615年)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
最初の発布であり、公式には秀忠の命となっているが、実質的には徳川家康が発布者だったと考えられている。内容としては、一般的な規範や、既に慣習として成立していた幕命などを基本法として新たにまとめ、明文化したものである。なお、私的な婚姻を禁ずる規定は以前から存在していたものの、(それ以前は公式に「妻」と称することが出来る女性を複数持つことが可能であったとされるのに対して)幕府が重婚の許可を出さなかった影響として、武家に対する一夫一妻制が確立したとする研究がある[2]。
元和令の条文
[編集]
- 文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。
- 群飲佚游ヲ制スヘキ事。
- 法度ヲ背ク輩、国々ニ隠シ置クヘカラサル事。
- 国々ノ大名、小名并ヒニ諸給人ハ、各々相抱ウルノ士卒、反逆ヲナシ殺害 ノ告有ラバ、速ヤカニ追出スヘキ事。
- 自今以後、国人ノ外、他国ノ者ヲ交置スヘカラサル事。
- 諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止セシムル事。
- 隣国ノ於テ新儀ヲ企テ徒党ヲ結フ者之バ、早速ニ言上致スヘキ事。
- 私ニ婚姻を締フヘカラサル事。
- 諸大名参勤作法ノ事。
- 衣装ノ品、混雑スヘカラサル事。
- 雑人、恣ニ乗輿スヘカラサル事。
- 諸国ノ諸侍、倹約ヲ用イラルヘキ事。
- 国主ハ政務ノ器用ヲ撰フヘキ事。
- 現代語訳[注釈 1]
- 武士は、文武両道、つまり学問と武芸を専ら心がけるべきである。
- 武士は、酒宴や遊興を慎み、節度ある生活を送るべきである。
- 法度に背く者は、どこであっても隠匿してはならない。
- 各藩の大名、小名、および家臣たちは、もし雇った家臣が主君に反逆し、殺害したという訴えがあれば、直ちにその家臣を追放しなければならない。
- 今後は、自国の者以外を雇用してはならない。
- 各藩の居城は、修理を行う場合であっても、必ず幕府に報告しなければならない。ましてや、新規に城を築くことは厳しく禁止する。
- 隣国で新しい企てや徒党を組む者がいれば、すぐに報告しなければならない。
- 大名同士は、幕府の許可なしに婚姻を結んではならない。
- 諸大名の江戸参勤交代に関する規定。
- 衣服の装飾は、派手にしすぎてはいけない。
- 身分の低い人が、勝手に乗り物に乗ることは許されない。
- 全国の侍は、倹約を心掛けるべきである。
- 国主は、政務を遂行するのに適した人材を選ぶべきである。
寛永令(1635年)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
参勤交代の制度化(義務化)や500石以上の大船の建造禁止(大船建造の禁)、奉公構の明文化が追加された。
寛永令の条文
[編集]
- 文武弓馬ノ道、専相嗜ベキ事。
- 大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。
- 新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。
- 江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事。
- 何所ニ於テ刑罰ノ行ハルルトイヘドモ、役者ノ外出向スベカラズ。但シ検使ノ左右ニ任セルベキ事。
- 新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
- 諸国主ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ。平日須ク謹慎ヲ加フルベキナリ。モシ遅滞ニ及ブベキノ儀有ラバ、奉行所ニ達シソノ旨ヲ受クベキ事。
- 国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事。
- 音信・贈答・嫁娶リ儀式、或ハ饗応或ハ家宅営作等、当時甚ダ華麗ノ至リ、自今以後簡略タルベシ。ソノ外万事倹約ヲ用フルベキ事。
- 衣装ノ品混乱スベカラズ。白綾ハ公卿以上、白小袖ハ諸大夫以上コレヲ聴ス。紫袷・紫裡・練・無紋ノ小袖ハ猥リニコレヲ着ルベカラズ。諸家中ニ至リ郎従・諸卒ノ綾羅錦繍ノ飾服ハ古法ニ非ズ、制禁セシムル事。
- 乗輿ハ、一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。
- 本主ノ障リコレ有ル者相抱エルベカラズ。モシ反逆・殺害人ノ告ゲ有ラバコレヲ返スベシ。向背ノ族ハ或ハコレヲ返シ、或ハコレヲ追ヒ出スベキ事。
- 陪臣ノ質人ヲ献ズル所ノ者、追放・死刑ニ及ブベキ時ハ、上意ヲ伺フベシ。モシ当座ニ於テ遁レ難キ儀有ルニオイテコレヲ斬戮スルハ、ソノ子細言上スベキ事。
- 知行所務清廉ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊セシムベカラザル事。
- 道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。
- 私ノ関所・新法ノ津留メ制禁ノ事。
- 五百石以上ノ船、停止ノ事。
- 諸国散在寺社領、古ヨリ今ニ至リ附ケ来ル所ハ、向後取リ放ツベカラザル事。
- 万事江戸ノ法度ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行スベキ事。
現代訳
- 武芸や学問を嗜むこと。
- 大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。
- 新たに築城することは厳禁する。居城の堀、土塁、石塁などが壊れたときは、奉行所に申し出て指示を受けること。櫓、塀、門などは元通りに修理すること。
- 江戸や他藩でたとえ何か事件が起こったとしても、国元にいる者はそこを守り、幕府からの命令を待つこと。
- どこかで刑罰が執行されていても、担当者以外は出向いてはならない。検視者に任せること。
- 謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。
- 諸国の藩主や領主は私闘をしてはならない。日頃から注意しておくこと。もし争いが起きた場合は奉行所に届け出て、その指示を仰ぐこと。
- 藩主、城主、所領1万石以上、近習、物頭は、幕府の許可無く勝手に結婚してはならない。
- 贈物、贈答、結婚の儀式、宴会や屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他のことにおいても倹約を心掛けること。
- 衣装の等級を乱れさせてはならない。白綾は公卿以上、白小袖は大夫以上に許す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりに着てはならない。家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍をした服を着るのは古くからの定めには無いので、禁止とする。
- 輿に乗る者は、徳川一門、藩主、城主、所領1万石以上、国持ち大名の息子、城主及び侍従以上の嫡子、50歳以上の者、医者、陰陽道の者、病人等許可されている者に限り、その他の者は乗せてはならない。ただし許しを得た者は別とする。諸家中においては、その国内で基準を定めること。公家・僧侶・その他身分の高い者は、その定めの例外とする。
- 元の主人から問題のあるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者・殺人者との知らせがあれば元の主人へ返すこと。行動が定かではない者は元の主人へ返すか、または追放すること。
- 幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処する際には、幕府の命を伺うこと。もし急遽執行しなければならない場合に執行する際には、その詳細も幕府に報告すること。
- 領地での政務は清廉に行い、違法なことをせず、国郡を衰えさせてはならない。
- 道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることはせず、往来を停滞させてはならない。
- 私的な関所を作ったり、新法を制定して港の流通を止めたりしてはならない。
- 500石積み以上の船を造ってはいけない。
- 諸国に散在する寺社の領地で昔から所有しているところは、今後取り離してはならない。
- 全て幕府の法令に従い、どこにおいてもこれを遵守すること。
寛文令(1663年)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
ほぼ寛永令に従い、新たにキリスト教禁止の明文化、不孝者の処罰規定の2条が加えられた。一方で、大船建造の禁については商船については例外となった。その他、口上で殉死の禁止が命じられた。
天和令(1683年)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
文治政治の路線を基に大きな改編がなされた。殉死の禁止や末期養子の禁緩和の明文化のほか、諸士法度との統合がなされた。条文が減っているが、これは統合されたものが多く、前代のものを否定したわけではない。
宝永令(1710年)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
和漢混交文を和文に改訂した上で、儒教の仁政思想(徳治主義)を取り込んで文治政治の理念を明瞭化するなど、より具体的な条文に改定した。
享保令(1717年)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
宝永令を廃止しての天和令への全面的な差し戻し。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ コトバンク「武家諸法度」
- ^ 福田千鶴「一夫一妻制の原則と世襲制」『近代武家社会の奥向構造 江戸城・大名武家屋敷の女性と職制』吉川弘文館、2018年5月25日。ISBN 978-4-642-03488-3。初出:『歴史評論』747号(2012年)。