織田信長
時代 | 戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代 |
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生誕 |
天文3年5月12日(1534年6月23日)[注釈 2] 天文3年5月28日[2]など諸説あり。 |
死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
改名 | 吉法師(幼名)、信長 |
別名 |
通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府 渾名:第六天魔王[3]、大うつけ |
神号 | 建勲 |
戒名 |
総見院殿贈大相国一品泰巌大居士 天徳院殿龍厳雲公大居士[注釈 4] 天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門[注釈 1] |
墓所 |
本能寺(京都市中京区) 大徳寺総見院(京都市北区) 妙心寺玉鳳院(京都市右京区) 阿弥陀寺(京都市上京区) 他 |
官位 |
従五位下・弾正少忠、正四位下・弾正大弼、従三位・参議、権大納言、右近衛大将 正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位 贈従一位・太政大臣、贈正一位 |
主君 | 織田信友→斯波義銀→足利義昭 |
氏族 | 織田氏 |
父母 | 父:織田信秀、母:土田御前 |
兄弟 | 信広、信長、信行、信包、信治、信時、信与、秀孝、秀成、信照、長益、長利、お犬の方、お市の方 |
妻 |
正室:鷺山殿(濃姫)(斎藤道三の娘) 側室:生駒氏[4](生駒家宗の娘) 側室:坂氏の女 側室:於鍋の方(高畑源十郎の娘) 側室:養観院(不明) 他の側室は下記を参照。 |
子 |
信忠、信雄、信孝 他の子女は下記を参照。 |
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男[注釈 5]。
尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。
生涯
少年期
天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。生まれは勝幡城(現在の愛知県愛西市勝幡町〜稲沢市平和町六輪)[5]と那古野城[6][注釈 6](現在の名古屋市中区)の二説があるが、近年研究者の間では勝幡城説が有力になってきている[7]。 幼名は吉法師(きっぽうし)。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年期にかけて奇天烈な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた(『信長公記』)。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた[8]。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた[注釈 7]。
天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江国の国友村に火縄銃500丁を注文したという(『国友鉄砲記』)[注釈 8]。
天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐ[注釈 9][注釈 10]。
天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年(1554年)には、村木砦の戦いで今川勢を破った。
家督争いから尾張統一・上洛
当時、尾張国は今川氏の侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配する守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・信行の家督相続を支持して信長と敵対し、天文23年(1554年)に信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した信友は義統の嫡子・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして織田大和守家は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も弘治元年11月26日(1556年1月7日)に死亡している[注釈 11]。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信行を擁立しようとした。これに対して信長には佐久間盛重・佐久間信盛・森可成らが味方し、両派は対立する。この出来事の前、信長が四弟・織田信時だけを供に秀貞の城へ出向いた際、通具は信長を捕らえて切腹させることを秀貞に進言したが、秀貞は「三代にわたって恩恵を受けた主君だから」と2人を帰した[14]。
道三の死去を好機と見た信行派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信行を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信行・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の織田信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだために未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信行は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信行を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている[注釈 12]。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主・織田大和守家の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張国から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は80~100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した[注釈 13]。
桶狭間の戦いから清洲同盟へ
尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河国を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後[注釈 14]、昆布と勝ち栗を前に立ったまま湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ義元を討ち取った。今川軍は、駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったため、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す(信長が築いた初めての城)。
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織田信長 銅像
(愛知県清須市、清洲公園) -
善照寺砦跡
(名古屋市緑区)
美濃攻略と天下布武
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠する反乱も勃発した。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏(北勢四十八家を攻略)とも戦っている。
永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)[注釈 15]。
同年11月には沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており[16]、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 16]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[17]。
上洛と将軍擁立
中央の情勢
中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)[18]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を擁立する(永禄の変)。
長逸らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(のち足利義昭)の暗殺も謀った[18]が、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、近江国の和田(和田惟政の居城)、後に同国の矢島を拠点として近江国の守護であった六角義賢に協力を求めた。
足利義昭(当初の名前は義秋)は六角義賢や和田惟政とともに全国の諸大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力するよう働きかけた。ところが上杉謙信・武田信玄ら地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えていて動くことができなかった。そのため、比較的京都に近い大名を連合させて義昭を上洛させるという計画が立てられ、永禄の変の直後から和田惟政が尾張国を訪れて信長に上洛を要請した[注釈 17]。信長は斎藤龍興の存在を理由に躊躇したが義昭側の働きかけに応じた龍興が信長との停戦に応じたため、信長は斎藤領である美濃国から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ることになった。ところが、永禄9年(1566年)8月に信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている[20]。斎藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭と信長の交渉は一時中断する[21]。
六角氏の離反を知った義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長との交渉が再開された。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。信長は和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣し、義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と対面した[21]。
武田氏との同盟
美濃攻略における時期において武田氏が東美濃の高野口(瑞浪市)に侵攻し、織田氏と武田氏との間には紛争が起きていた。この時は織田方の重臣の森可成や肥田忠政等が防戦した。その後、美濃国において領国を接することになった甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。永禄12年(1569年)には、将軍・足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介した(甲越和与)。
織田信長の上洛戦
永禄11年(1568年)9月7日、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、12日に観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注釈 18]。
更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆と三好氏の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。三好三人衆と対立していた松永久秀と三好義継は信長に臣従、唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという[22]。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[23]。
本圀寺の変と畿内遠征、播磨侵攻
永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[注釈 19]。もっとも、細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重、浅井長政、明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。これを機に信長は義昭の為に普請奉行となり二条城を築城、本圀寺から芸術品や藤戸石なども移された。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹親興と和田惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。
同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた[24]。
1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある[25]。
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[17]。
同年8月、木下秀吉に命じて但馬国を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。祐豊は、今井宗久の仲介で信長に降伏した。
遡って同年2月、播磨の赤松政秀が信長に救援を要請。8月から9月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に対して反旗を翻した。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。
伊勢侵攻と北畠家簒奪
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野氏当主とした。
そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって北畠具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲。篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により伊勢攻略を終える。
なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている[21][22]。
第一次信長包囲網
元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信与(信興)を自害に追い込んだ。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[26]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し[注釈 20]、窮地を脱した[注釈 21]。
第二次信長包囲網
元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を降し、佐和山城を得た。
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に殿軍が一揆勢の伏兵に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した。
同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた[注釈 22]。
元亀3年(1572年)、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。以後の戦況は織田軍有利に展開した。
10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は悪化する。
11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。城主の遠山景任は防戦したが(上村合戦)、運悪く病死してしまう。遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した[注釈 23]。
室町幕府の事実上の滅亡と「天下」の継承へ
武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する[注釈 24] [注釈 25]。 幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの数名が義昭に同行するが、多くは京都に残り信長側に転じた[33]。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[注釈 26]。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。
8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、浅井久政や浅井福寿庵らが自刃した。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、長政・赤尾清綱らも自害した。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。
9月、東大寺を戦乱に巻き込み乱暴狼藉を働く者に対して厳罰を科すと通達する書状を出した[36]。 9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る[37]。
11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏は滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。
三位に叙され公卿となる
天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した(岩村城の戦い)。
3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[注釈 27]。
長島一向一揆の制圧
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。この時、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した(『信長公記』)[注釈 28]。
天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。
長篠の戦い
信長包囲網の打破後、信長や家康は甲斐国の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を布いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし[38]、武田軍に勝利する[注釈 30]。
6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、荒木村重に摂津守、羽柴秀吉に筑前守の官位と姓を与えた。
越前侵攻
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[注釈 31][注釈 32]。 越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。
右近衛大将就任・天下人公認・家督継承・安土城築城
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる、また、11月7日には征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。信長は右近衛大将就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式に倣った儀礼(陣座)を挙行させた。。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた[注釈 33]。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとみられる[39]。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある[40]。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある[注釈 34][42]。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた[43]。同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠を正室・濃姫の養子とし、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直轄領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。
天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖岸に安土城の築城を開始する[注釈 35]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。
第三次信長包囲網
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀ら3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。しかし塙が本願寺勢側の雑賀衆の伏兵の襲撃に遭って、塙を含む1,000人以上が戦死した。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。5月5日、救援要請を受けた信長は若江城に入って動員令を出したが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。
その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。
この頃、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化し[注釈 36]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。
織田右府
天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦[注釈 37]を行い、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を攻め自刃させた(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻[注釈 38]。 その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[45]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。
上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配置した。
- 美濃・尾張・飛騨の抑え・織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱
- 対武田方面・滝川一益・織田信忠軍団(天正元年結成)
- 対本願寺方面・佐久間信盛軍団(天正4年結成 - 天正8年消滅)
- 北陸方面・柴田勝家軍団(天正4年昇格)
- 近畿方面・明智光秀軍団(天正8年昇格)
- 山陰・山陽方面・羽柴秀吉軍団(天正8年昇格)
- 関東方面・滝川一益軍団(天正10年結成)
- 四国方面・織田信孝・津田信澄・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍団(天正10年結成)
- 東海道の抑え・徳川家康(形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない)
- 伊勢・伊賀方面の抑え・織田信雄・織田信包
- (紀伊方面の抑え・織田信張)
中国侵攻
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。
天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。
11月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王を猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている[注釈 39]。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている[46][47][48](松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
また伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し、家老の柘植保重が植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。
天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した[49]。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。
天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢で伊賀十二人衆を倒して伊賀惣国一揆を滅ぼし、伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。
京都御馬揃え~左大臣推任
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[50]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった[51]。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる[51]。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による[51]。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった[51]。
2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)[51]。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した[52]。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり[51]、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという[52]。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。
8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった[52]。
高野山包囲
天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる[52]。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した[52]。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した[52]。
信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令[52]。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した[52]。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした[52]。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った[52]。
天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した[52]。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した[52]。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。[53]。
甲州征伐
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る[54]。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した[54]。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する[54]。
武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する[54]。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる[54]。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する[54]。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた[54]。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る[54]。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った[54]。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した[54]。この時、俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた[55]。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する[56]。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した[56]。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領[注釈 40]に任命して厩橋城に駐留させた[56]。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた[56]。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている[56]。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた[56]。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける[56]。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した[56]。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城[56]。4月21日に安土城へ帰城した[56]。
信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った[58]。また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど[59]、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
三職推任
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた(三職推任問題)。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが[注釈 41]、返答の内容は不明である。
本能寺の変
信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。
また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている[注釈 42]。
5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『本城惣右衛門覚書』からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49(満48歳没)。
光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまった、あるいは損傷が激しく誰の遺体か確認できなかったためと考えられる[注釈 43]。 ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。本能寺の変では光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、色々な説が流れており、後者には徳川家康説、秀吉説、天皇説、堺の商人説などがある。
年表
和暦 | 西暦[注釈 44] | 日付[注釈 45] | 内容 | 出典 | 年齢[注釈 46] |
---|---|---|---|---|---|
天文3年 | 1534年 | 5月12日 | 那古野城で誕生。 | 1歳 | |
天文4年 | 1535年 | 那古野城主となる。 | 2歳 | ||
天文15年 | 1546年 | 元服。三郎信長を名乗る。 | 12歳 | ||
天文18年 | 1549年 | 2月24日 | 濃姫と結婚。 | 16歳 | |
上総介を自称する。 | |||||
天文20年 | 1551年 | 父・信秀の死去により家督を相続。 | 18歳 | ||
天文23年 | 1554年 | 本拠を清洲城に移転。 | 21歳 | ||
弘治3年 | 1557年 | 11月2日 | 弟・信行を暗殺。 | 24歳 | |
永禄2年 | 1559年 | 2月2日 | 初上洛、13代将軍足利義輝に謁見。 | 26歳 | |
永禄3年 | 1560年 | 5月19日 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ。 | 27歳 | |
永禄6年 | 1563年 | 本拠を小牧山城に移転。 | 30歳 | ||
永禄9年 | 1566年 | 尾張守を自称する。 | 33歳 | ||
永禄10年 | 1567年 | 8月15日 | 本拠を岐阜城に移転。 | 34歳 | |
永禄11年 | 1568年 | 10月18日 | 義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛し将軍職就任を助ける。 | 35歳 | |
10月28日 | 従五位下弾正少忠 | 系図纂要 | |||
元亀元年 | 1570年 | 3月14日 | 正四位下弾正大弼 | 系図纂要 | 37歳 |
1571年 | 12月13日 | 勅命により浅井氏・朝倉氏・六角氏と和睦。 | |||
元亀4年 | 1573年 | 7月26日 | 義昭を畿内から追放、足利幕府は毛利家勢力範囲の備後へ遷る。 | 40歳 | |
天正2年 | 1574年 | 3月18日 | 従三位参議 | 公卿補任。但し『歴名土代』は従五位下・同日昇殿とする。 | 41歳 |
3月28日 | 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。 | ||||
天正3年 | 1575年 | 11月4日 | 権大納言 | 公卿補任 | 42歳 |
11月7日 | 嫡男織田信忠が秋田城介に就任(征夷大将軍を望むも義昭が辞職せず) | ||||
11月7日 | 兼右近衛大将(義昭の官位を越える) | 公卿補任 | |||
11月28日 | 岐阜城を本拠とする織田家の家督を、嫡男・信忠に譲る。 | ||||
天正4年 | 1576年 | 近江に新たな拠点となる安土城を築く。 | 43歳 | ||
11月13日 | 正三位 | 公卿補任 | |||
11月21日 | 内大臣。右近衛大将兼任。 | 公卿補任 | |||
天正5年 | 1577年 | 11月16日 | 従二位 | 公卿補任 | 44歳 |
11月20日 | 右大臣。右近衛大将兼任。 | 公卿補任 | |||
天正6年 | 1578年 | 1月6日 | 正二位 | 公卿補任 | 45歳 |
4月9日 | 右大臣・右近衛大将を辞す[注釈 47]。 | 公卿補任 | |||
天正8年 | 1580年 | 3月5日 | 勅命により石山本願寺と和睦。 | 47歳 | |
天正9年 | 1581年 | 2月28日 | 京都内裏東で京都御馬揃えを催す。 | 48歳 | |
天正10年 | 1582年 | 6月2日 | 本能寺の変にて自害。 | 49歳 | |
10月9日 | 従一位太政大臣を贈位贈官。 | 大徳寺文書[注釈 48] | |||
大正6年 | 1917年 | 11月17日 | 正一位を贈位。 | 官報(1590号) 大正6年11月19日付 |
人物
人柄
同時代人の証言から、その人物像や当時の評価がうかがえる。
- 宣教師ルイス・フロイスは次のように記述している。
- 「彼(信長)は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」[62]
- 「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない[63]」
- 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった[64]」
- 「信長はほとんど全ての人を『貴様』と呼んだ[65]」
- 「王[注釈 49](信長)は例のごとく、親切だ」
- 「信長は生来純粋で、説得することが容易である」
- 「その葬儀は、信長という非常に王者の風格をもつ、優れた人物に相応しいものとなった」(『耶蘇会士日本通信』『フロイス日本史』)
- 尾張国の僧侶・天沢は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆・松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます[注釈 14]。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた(信長公記・首巻)。
- 多聞院英俊 -「(信長は)一段と礼儀を尽くす人だった」(『多聞院日記』)
- 『朝倉始末記』内「朝倉記」部分著者の言[注釈 50] -「吾々は徒党に加わらず、その上代々の国主に忠節を尽くしてきた(刃向かったり土地の押領などしなかった)ので、その振る舞いは誠に立派であるとして、信長公からお礼を言われた。信長公のご清意に励まされ、吾々は精進に励んだ。この時世に巡り会えたのは幸運である」
- 津田宗及 -「(茶器の)家宝を上様(信長)に召し上げられていたが、その理由を、上様は(使者を通して)一段と気を配ってお伝えになった。(私の素行に問題があったので)やがて返すべきと考えつつ、世間への戒めが必要なので延引しているとのことだった。そして家宝が返されたのは父の命日だった。この偶然の一致は(上様の配慮だろうか)ありがたいことだ」(『津田宗及茶湯日記』)
- 吉田兼見 -「我らは子々孫々まで、信長の尊霊拝むものなり」(『兼見卿記』)
- 近衛前久 -「(信長の死は)嘆いても名残の尽きない涙である なおも慕われる亡き面影(七回忌の今)睦まじかった昔の人に向かいあう 虚しき空の紫の雲・・・」[注釈 51]
- 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
人柄に関する逸話
- 天正2年(1574年)の正月、『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首(頭蓋骨)を
薄濃 ()[注釈 52]にしたものを「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した。信長は何かも思い通りになって誠にめでたいと上機嫌であった[66]と云う。桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している[67]。この桑田説に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している[68]。『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話[注釈 53]になっている俗書があるが、一次史料にはない。 - 弟・信行の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信行も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を手配し、元服後は一門衆として重用している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子(織田勝長)までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の兄弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃して報復する(比叡山焼き討ち、長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚いともされる。
- 信長の側から盟約・和睦を破ったことは一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
- 自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都公家の日記などから)。
- 長女の徳姫(松平信康の妻)を除くと、生前に縁組させた永姫らの娘達は家臣である前田利長、丹羽長重、蒲生氏郷に嫁入りさせており、彼女たちは信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、女性に関する記録が少なかった当時にあって、織田家関連の女性たちの中には本名が正確に記録されている女性が多いため、信長は当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。
- 自分の妻を尾張国に残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
- 『信長公記』首巻に、ある年(1550年代後半の出来事と並んで記録されている)の12月中旬に起きた事件のあらましがある。海東郡大屋村に織田信房の家来で、庄屋の甚兵衛がいた。隣の一色村に池田恒興の家来の佐介という者がいた。この二人は親しい間柄であったが、清州へ貢納に行った甚兵衛の留守に佐介が強盗に入り、甚兵衛の妻がこれに気付いて抵抗し、佐介の刀の鞘を奪い、清洲に訴え出た。しかし佐介は抗弁し双方言い分を譲らず、火起請で裁定を下す運びとなった。佐介は熱した鉄の斧を取り落として失敗したが、当時権勢を奢っていた恒興の配下達が異議を挟んで騒ぎになった。そこに鷹狩の帰りであった信長が通りがかり、これを見咎めた。信長は事情を知ると「どれほど熱したか」と再現させ、自ら熱した鉄の斧を掴んで三歩あるいて棚に置き、大声で「(この通りだ。)見ていたな」と言って火起請の裁定の正しさを証明して、佐介を成敗させたという。
- 『信長公記』によると、無辺という旅僧が石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと町人の間で評判となり、相応の謝礼を払えば丑時の秘法を授けるというので男女が門前に列をなす有様だった。信長も何度か無辺の噂を聞くことがあり、自分の目で確かめたいと言い出した。天正8年(1580年)3月20日、栄螺坊は無辺を連れて安土に出頭した。信長はすぐに厩まで来て無辺に引見した。信長が無辺に出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺は今度は事実を正直に答えて、実は営利目的の売僧であることが判明した。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は女子供を騙して金を巻き上げるとは「不届き千万」と怒って、無辺に恥をかかせよと命じ、無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した。その後、さらに人々に聞くと、無辺は子供ができない女や病気の女に丑時の秘法を授けると称して「臍くらべ(へそくらへ)」という紛い事を行っていたことが判明した。信長は憂いを断つとして無辺を捕らえるように手配し、糾弾して処刑させた。更に信長は無辺を泊まらせていた栄螺坊に「何故、あのような不届きな者を留めおいたのか」と質した。栄螺坊が「石馬寺の雨漏りを修繕したいと存じまして、勧進集めのために、しばらくの間と思い、留め置いたのです」と言うと、信長は栄螺坊に銀子三十枚を下賜した。これらのように信長は自ら不正を糺さずにはいられない性格であった。
- 『信長公記』によれば、美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。信長は、自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であった一方、このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面もあった。
- 長篠の戦いの時には、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
- 最大の同盟者である徳川家康に対しては特に気を使っている。佐久間信盛を懲戒するにあたっては、家康が武田信玄に敗北した三方ヶ原の戦いを引き合いに、家臣に戦死者も出さず撤退したことを激しく非難している。また、第一次高天神城の戦いでは武田勝頼率いる武田勢の大軍に包囲された高天神城への増援が間に合わず奪われたが、2人がかりでなければ持ち上げることも出来ないほどの量の黄金を詰めた革袋を2つも家康に贈与して謝意を示している。天正10年(1582年)、武田氏滅亡後に信長は東海道から帰京しているが、その際に家康から富士見物や大井川の舟橋など巨費を投じた盛大な接待を受けており、本能寺の変直前の家康上洛の際には、街道の整備や通過地の大名に接待役を命じ、後述のように信長自ら食膳を用意するなど、盛大な接待を行っている。
- 荒木村重の説得に向かった黒田孝高(官兵衛)が帰還せず、同時期に孝高の主君・小寺政職が離反したことから、孝高も政職に同調して裏切ったものと考え、孝高の息子・松壽丸(後の黒田長政)の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていたことが判明した時には「官兵衛(孝高)に合わせる顔がない」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中重治(半兵衛)に匿われていたことが分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。
- 『信長公記』などの逸話によると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。
- 天正9年(1581年)7月15日のお盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませるといった行動をとっており、「言語道断面白き有様」と記述されている。
- 天正10年(1582年)の正月に安土城の内部を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を城内に招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき銭100文ずつ見物料を取り立てたという記録が伝わっている。
- 重要なことを他人に任せず自身で直接何かを行った逸話が多い。
- 桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍をつとめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って奮戦している。通常、戦争において最も敵に狙われやすい最前線に大将が立つ事はほとんど有り得ない[注釈 54]中、部下たちを鼓舞するために危険を顧みず自ら最前線に出て戦っていた信長は異例であったと言える。無論、信長自身も常に万全の状態で戦いに臨むために普段から武術の訓練を怠ることはなかった。
- 自ら刈田を行った。(高屋城の戦い[69])
- 馬借が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックした(本圀寺の変の出発前[70])。
- 客をもてなすために自らの手で食膳や茶皿を運んできた(ルイス・フロイス[71]やフランシスコ・カブラル[72]、徳川家康と穴山梅雪の一行[73]に対して)。
- 当時武士たちの間で一般的であった衆道も嗜んでおり、男色相手として前田利家については本人の証言が残っている[74]。
苛烈と云われる所業
- 信長は宗教勢力が世俗の権力と一体化し、宗教としての意義を忘れていた事や僧侶の腐敗ぶりを厳しく批判した。この行為が後世苛烈と評されたが、当時は宗教勢力が自ら軍事力を持ち敵対勢力に対し軍事行動も取っていた時代であり、現に延暦寺も本願寺(大谷本願寺)を焼討ちにしている。信長と同時代の史料では「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『御湯殿上日記』にある程度で、それほど批判はない。また仏を信仰する事自体は禁止しておらず、武装解除した宗教勢力に対しては宗教としての本分を弁える様になったとして、信徒の信仰の自由を保障している。
- 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる(弁慶など)。
- 観内という茶坊主に不手際があり、信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀(長谷部国重作)は切れ味の良さから「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという(福岡市博物館蔵、国宝)。
- 元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の鋸で首を挽かせ、長期間激痛を与え続け処刑した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に[75]、徳川家康も家臣の大賀弥四郎に対して行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
- 天正2年(1574年)の長島一向一揆の第三次討伐は、信長の「騙し討ち」と表現される事があるが[76]、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある[77]。
- 天正9年(1581年)、畿内の高野聖1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復だったという。また高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動だったともいわれている。
- 天正6年(1578年)12月13日、尼崎近くの七松で、謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『信長公記』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
- 天正10年(1582年)4月10日、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは[注釈 55]、桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したという(滋賀県近江八幡市浅小井町付近の「新開の森」か)。また侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、やはり殺されたという。ただし桑実寺の長老に関する記録が信長の死亡後に残っていることから、長老が殺されているわけがないと桑実寺の側は主張している。この逸話の典拠は『信長公記』だが、そこには信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが「殺した」とは書かれていない。当時「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[注釈 56]。
- 信長の敵勢力に対する行為の大半は当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。羽柴秀吉が天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した行為(同年12月5日の秀吉書状)、武田信玄・上杉謙信等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為もあり、戦国時代の道徳や常識の差異を念頭においてその行為を判断する必要がある。
交友関係
- 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深く、特に昵近する公家衆もいた。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、鷹狩りという趣味の一致などと相まって一際仲が良かったようである。
- 天正3年(1575年)に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらった。
- 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い。主に森成利(蘭丸)の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』では、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている。
南蛮への関心
- 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。
- 好奇心が強く、まだ鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。そして長篠の戦いでは3,000丁もの鉄砲を用いて武田勝頼の軍(特に騎馬軍団)に壊滅的な被害を与えたとされている。
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にした。記録によると、この黒人は身長六尺二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称されるほどの怪力であったとされ、信長は好奇心だけでなく実戦の役に立つ兵としても重用していた。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは領地と城を与えて「殿(との、城主)」にするつもりであったが(『イエズス会日本年報』)、その計画は本能寺の変により頓挫する。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、二条城に危急を知らせて明智の軍勢を相手に最後まで奮戦したが捕縛され南蛮寺に送還されたと伝えられる。
- イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時は地上が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際、家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い理解した)。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。信長はローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
- 南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから目覚まし時計を献上された際は扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。
- 永禄年間、ポルトガルの宣教師に命じて伊吹山に広さ50町歩(約50ヘクタール)、薬草の種類は3000種類の薬草園を作らせた[79][80][81][82][83][84][信頼性要検証]。
文化への関心
- 当時の多くの戦国大名と同じく囲碁を愛好しており、囲碁の「名人」という言葉は信長発祥と言われている(本因坊算砂の項を参照)。
- 幸若舞『敦盛』の「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という一節をよく舞った[注釈 14]。
- 大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』から散見される。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[注釈 57]。
- 和歌の教養もあり、上京した際に連歌師の里村紹巴から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させたという(『信長記』)。
- 茶の湯にも大きな関心を示した。これについては、「堺の商人との交渉を有利にするため茶の湯を利用していた」「茶器を家臣への恩賞として利用する目的があった」などといった説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている(『信長公記』より)ことから、もともと信長自身が純粋に茶の湯を楽しんでいたようである。
- 三好義継が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた[85]。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったとは考え難い。単なる嗜好の問題の可能性もある。
鷹と馬
信長の趣味として茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[86]。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[87]。天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。
また信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[88]。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 58]。
- 天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[91]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[92]。
- 天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[93]。
- 天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[94]。
- 天正8年(1560年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[95]。
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の統一政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[96]。
肖像
信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている[97]。
代表的な作品として、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)[98]、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像[99]、近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの[100]、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。
天童藩織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。平成4年(1992年)に作家の遠藤周作が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介して以来著名となった[101]。 遠藤は同書において、信長の死後に宣教師ジョバンニ・ニコラオが描いた絵を、明治になってから複写したもので、宮内庁、織田宗家とともに分け持ったものであると解説している[101]。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている[101]。
政策
天下布武
信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で七徳の武[注釈 60]という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている[102]。
従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され[103]、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし2010年代の歴史学では、戦国時代の「天下」とは京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを意味し[104]、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の治世を確立させることであり[105]、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
宗教政策
- 基本的に不輸・不入の権などの特権を認めているが、敵対行為をとったり、罪人をかくまったりした寺社に対しては厳しい措置をとった。天正9年(1581年)には、和泉国の槙尾山施福寺が検地の指出を拒否したため、焼き討ちにした。
- 宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に石地蔵や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとされる。ただし、信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。
- 桶狭間の合戦の際に途中で熱田神宮に立ち寄って必勝を祈願し、大勝したので、その御礼として奉納した塀が信長塀として今でも残っている。祈願自体が戦意高揚のための手段との説もあるが、戦勝の礼として塀を寄進しているのは信長自体が宗教を否定せず、少なからず神仏の信仰心がある証拠とも取れる。また荒廃していた石清水八幡宮の修復に巨費を投じたり、120年間途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮を復活させるなど、神道復興への功績が大きい。
- 安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用した。
- 軍事衝突し勝利した浄土真宗本願寺教団や天台宗山門派に対しても、宗教活動自体は禁止しなかった。軍事勢力として世俗権力を振るうことは熾烈な戦いを繰り返してまで阻止しようとしたが、宗教・信教の領域までは認めていたのである。
- あるキリシタンの家臣(馬廻)が愛人と同居していることを知ると、教えに従っていないことを指摘し、宣教師たちが彼を咎めたことを知ると非常に喜んだ。この家臣が再び愛人と同棲すると、俸禄を没収し追放した。(『フロイス日本史』)
- 元亀4年(1573年)、武田信玄と敵対した際に(西上作戦)、民衆は比叡山などを焼いたために神仏の罰がくだったのだと噂したが、信長は「日本においては信長自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではない」と言ったという[106]。
- 摠見寺、もしくは安土城内に信長に代わる「梵山」と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝するよう言ったと伝えられる(『フロイス日本史』)。
- これら自己神格化については、朝廷(天照大神)と仏教勢力への対抗や、後に秀吉や家康が自分を神として祀らせていることとの関連などの学説がある。
朝廷政策
信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人・立花京子らが本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど論争が活発になっている[注釈 61]。谷口克広は、各説を以下のように分類している[107]。
以下、論点と双方の説について述べる[108]。
正親町天皇との譲位問題
天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受け入れた。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。
- 対立説の解釈では、信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立したとされる。また朝尾は、誠仁親王への譲位と足利義尋(足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶したとみている。
- 融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の経済的事情により実現しなかったとみている。これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった[注釈 62]。天皇の譲位は、信長の経済的助成によりはじめて可能となる。天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられて、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。
天正9年京都御馬揃え
- 対立説では、織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であったとされる。朝尾、今谷らは、譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力とみ、立花は左大臣推任への圧力とする。
- 融和説では、正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには太閤・近衛前久ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があったとする。橋本は、織田家中の士気の高揚と畿内制覇を天下に誇示するためとし、堀は誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な左義長を再現したとみる。
信長と官職(三職推任問題)
信長は尾張時代には上総介を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って官を得た父・信秀とは対照的である。信長は、将軍義昭の追放後、天正2年に参議に任官、のち従二位右大臣に昇進。しかし天正6年に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。
天正10年(1582年)5月、武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長の本心は不明である。
- 信長の官位奏請
- 信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、修理亮(柴田勝家)や筑前守(羽柴秀吉)など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子・信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、徳川家康や佐竹義重といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。
その他史料で見る両者の関係
- 正親町天皇はある時、信長に対して左義長(火祭り)を共に見物することを誘った。(『お湯殿の上の日記』)
- 正親町天皇は信長が行った馬揃えを照覧し、「今度のことは筆にも言葉にも尽くしがたく唐の国にもないでしょう」と仰せになり、信長は「忝ない」と御礼を言上した。この時、天皇の皇子・誠仁親王は、女房衆に紛れ、御忍びで馬揃えを見物した。(『立入左京亮入道隆佐記』)
- 誠仁親王は信長が死んだ際、自分も(信長の後を追って)切腹するべきかどうかを、明智(光秀)に質問した。(『フロイス日本史』)
- 誠仁親王の子、後陽成天皇は、直筆で総見院(信長の法名)と書いた額を、信長を弔う仏殿に恩賜した。(『阿弥陀寺由緒之記録』)
- 内裏で長年、御蔵職を務めた立入家は、その功績を評価しない徳川将軍に対し、「かつて信長公は、我家の天皇家への忠勤を高く評価して下された」と記し、不満を訴えた。(『立入家文書』)
商業政策
- 楽市楽座は信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行った施策である。信長は楽市楽座令を出す一方、座に安堵状も出している。ただし座の安堵状の内容が「これまで通りの権利を認める」というものにとどまっているのに対し、楽市だった美濃・加納を楽市楽座に、安土は新しく楽市楽座にするなど、信長の政策はどちらかといえば「楽」寄りである[109]。
- 不必要な関所を撤廃して流通を活性化させたことで物資や情報の確保をした(当時は寺社も関所を持って税金を取り立てており、これが仏教勢力との対立にもつながっていると思われる)。
- 質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令し、経済の基盤を安定させた。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である[110]。
- 日本の中央政権としては初めて金銀に貨幣価値を定め、高額品の取引には金銀を使うことを推奨した[111]。その上で信長自身も茶器の購入や家臣への褒美に金銀を多用した。
人事政策
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- 足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、牢人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを家柄にこだわらず登用したが身分を超えた抜擢ということは行っていない。武士階級出身者とそれ以下(小者、町人、農民等)、または文化人などはほぼ明確に分けて登用、運用している。相撲大会の勝者や強者を登用したのは有名だが、この際も武士出身者は武士として、それ以外は厩番などの武士ではない職に登用している。
- 譜代の重臣である佐久間信盛や林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。謀反を起こしながらも長年、汚名返上の姿勢が見られない林と、重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間に対し、懲罰的粛清を断行した。佐久間信盛には19ヶ条の折檻状を出した。それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。佐久間信盛・信栄に関しては、信盛の死後、信忠付きでの信栄の帰参を許した。
- 前田利家の復帰や、北陸戦線で柴田勝家と作戦で仲違いして戦線離脱した羽柴秀吉を許したり、松永久秀に対しては二度も反乱からの降伏を許しているように失敗を上回る功績を立てれば許したり、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。
- 本能寺の変の際、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。彼は光秀に捕らえられたものの後に放免、以降は消息不明となった。
- 天正8年(1580年)、信長は佐久間信盛の追放時に家老の林秀貞を昔の謀反の罪で追放した。これは、24年前の信長家督相続に対する罪を問うたものだが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。これは大きな知行と重い地位だけで役に立たないものは佐久間と同等して追放する決心をしたものらしい。この時は準譜代の安藤守就とその子・定治(武田家への内通嫌疑)、尾張の国人・丹羽氏勝が同時追放されている[112]。
- 当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった「名器と称される茶道具」を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 40]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある(従来なら、土地の加増のほうが茶器よりもはるかに価値のあることのはずである)。
- 人事においては厳しい一面があったとされるが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っている[113][114][注釈 63]。
- 信頼性の高い史料には「家臣が信長に提言し、信長がそれを受け入れた」という話はほとんどない。逆に「信長が1人で戦場を視察し、布陣や作戦を決めた」という話は『信長公記』に数多く書かれている。信長の家臣の中に参謀的な人物は史料では見当たらない。
- 信長はよく家臣の裏切りに遭遇しているが、(織田家譜代の臣ではないが)松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者がいる[116]。ただし、柴田勝家や松永久秀の裏切りを許容するなど、むしろ寛大という面も存在する上、戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事ということも考慮する必要がある。譜代の家臣であるなしを問わず、自身や我が家を第一として情勢が有利な方につく者がいても当然の時代であり、心情などが原因ではなく、信長包囲網などの情勢を不利とみて状況判断から信長と敵対した(陣営を離反した)などの解釈も十分考えられる。
- 二条城築城のとき、信長は自ら工事現場の監督を担当していた。このとき、人夫が女性にちょっかいを出していたのを見て、有無を言わさずこの人夫の首を刎ねた、と伝わる(『フロイス日本史』)。
- 信長は斎藤道三の婿に当たるため、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[117]。正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫が養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)となる。[118]。
- 飛騨国姉小路家とは、姉小路頼綱に斎藤道三の娘(濃姫の姉)が正室で嫁いでいる事と、斎藤利治・斎藤利堯が濃飛国境の加治田城を領地としている関係で同盟国であり、飛騨一国を統治する大名として認めている[注釈 64]
軍事
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- 馬廻(直属部隊)を組織していた。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している[119]。
- 500人の長槍隊と500人の鉄砲隊という、武装の統一された直属部隊を組織していた。毛利家にも旗本鉄砲という直属の鉄砲隊がいたが、大名権力の問題で各地の国人などに分散して配備せざるを得なかった。信長のそれはある一ヵ所の戦場に集中して運用できたことに特徴があったといえる[120]
- 日本で初めて国産の大砲を鋳造し、船に搭載して使用した(第二次木津川口の戦い)。なお、陸上の戦いでも大砲を使用した形跡がある[121]。
- 多くの兵士を動員できるようになるにつれ、大量の付け城(砦)を築いて敵を包囲する、という方法を多くとるようになった。
- よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで、甲州征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
- 信長の軍団は機動力に優れており、例えば本圀寺の変では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し[122]、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘も有る[123]。
- 織田家の軍役は明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」[124]とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」[121]とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである。
内政
- 永禄6年(1563年)7月、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言した。唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を小牧山に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の織田信清と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じた(『信長公記』首巻)。
- 織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。
- 足利義昭と共に上洛した際、京の町で「銭一文でも掠奪した者は斬首する(一銭切り)」という厳正な取り締まりを行った。同時に当時荒れていた京の掃除などの整備も行っており、京の民衆はこれを歓迎したという。その後、元亀4年(1573年)の上京焼き討ちの際も同じことを命じている。
- 天正2年(1574年)から大規模な街道整備を行っている[注釈 65]。単に広く平らでまっすぐな道というだけでなく、一定間隔で飲食店が存在し、また工事範囲は織田家の領国全てと同盟者の徳川家康の領国にまで及ぶという画期的なものだった(征服した諸国にも順次敷設された)。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、また街道における治安が向上し人の往来が容易となり、結果として商業が活性化する、などといった効果をあげた。民衆には大好評だったらしい。反面、敵の行軍速度も速くなるという短所があったので、他国では限定的にしか為されていなかった(武田家の棒道など)。
- 当時全国でばらばらであった枡の統一規格として、織田領国では京枡を統一採用した。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった。また、地方地方でその地域の枡を認可していた商人や「座」(主に大商人の集団や寺社)の権益を奪い、弱体化させることに成功した。
実現されなかった計画・構想
信長が構想していた計画・予定が、関連諸史料や豊臣秀吉の行跡から読み取る事ができる。
- 幻の上洛計画
- 平成26年(2014年)、永禄11年(1568年)9月以前にも足利義昭を奉じて上洛する計画があった書状が見つかった[125]。
- 中国・九州平定計画
- 天正10年(1582年)5月17日に羽柴秀吉の援軍要請に応じて明智光秀や池田恒興、高山重友、中川清秀ら畿内の諸大名に動員令を出し、中国の毛利氏、九州の大名も屈服させる予定でいた(『信長公記』巻15)。
- 四国平定計画
- 三男の信孝を三好康長の養子にして四国に渡海させようとしていた(顕如の右筆・宇野主水の日記)。5月7日付の信長の朱印状には、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えようとしていた。伊予国・土佐国に関しては、信長は四国平定後に戦後処理として淡路まで赴き、その際に残り2カ国の仕置も決める予定であった[126]。
- 安土行幸計画
- 天正10年(1582年)元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の御幸の間を見せている(『信長公記』巻15)。1月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。このため、天正10年かそれ以降に、天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。
- 大坂築城
- 信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという[127]。
- 大陸侵攻計画
- 『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。中村栄孝は信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている[128]。
- その他
- 信長は本能寺の変のほぼ1ヶ月前に征夷大将軍・太政大臣・関白の三職推任を受けている(三職推任問題)が、フロイスは「予(信長)がいる処では、汝等(イエズス会宣教師ら)は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が(天)皇[注釈 66]であり、内裏である[130]」と発言したと記述している。
後世の評価
江戸時代初期では次のような記録が残る。
- 「信長は勝って兜の緒を締める方で、余勢で一気に押さない方だった」「信長の因果は即座に現れ、岩村の城衆や甲州の高僧を焼殺したすぐ後に、自らも焼殺された」(大久保忠教『三河物語』)
- 「信長は(光秀に)城を与えたら首を切られた」「与えれば破られる(裏切られる)ことを信長は知らなかった」(竹中重門『豊鏡』)
- 「信長卿は非常に義理堅い人だった」(神戸良政[131])
- 「偉人信長の死は、彼の勇気、寛容、それに気がまえの気高さなどで、等しく全ての人々に惜しまれた」(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン『日本王国記』第4章)
- 初代加賀藩主・前田利長は泉野菅原神社を造営し、ひそかに信長を神として祀っており[132]、熊本藩の細川忠興(三斎)なども信長の菩提を弔うため、その法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんで泰巌寺を建立した[133]。
しかし一般的には小瀬甫庵の『信長記』での酷評に代表されるように[注釈 67]、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。
そして江戸時代中期以降になると、批判の論調がより強まっていく。
- 「そのことは残忍なりと雖も、長く僧侶の凶悪を除けり。これもまた、天下の功有事の一つと成すべし」「すべてこの人(信長)、天性残忍にして、詐力をもって志を得られき。されば、その終りを 善くせられざりしこと、自ら取れる所なり。不幸にあらず。」(新井白石『読史余論』)
- 「信長は猜忌、(源)頼朝とり勝れり、その残暴は、頼朝の為さざるところなり。局量の狭小なるは、遥かに諸将に劣れり。」(太田錦城『梧窓漫筆』)
- 「(直接の部下であった豊臣秀吉の言葉という形式で)信長公は勇将なり。良将にあらず。剛の柔に克つことを知り給いて、柔の剛を制することを知られず。一度敵せる者は、その憤怒ついに解けずして、ことごとくその根を断ち、その葉を枯さんとせらる。故に降を誅し、服を戮せられ、寇讐絶することなし。これ量狭く器小なるが故なり。人のために憚らるれども、衆のために愛せられず。」(『名将言行録』)などと評し、狭量さにより人望を得られなかったとしている。
- また批判とは別にその人柄を表すとして 「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」 という歌もある。これは江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山著の『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である[135]。ちなみにこの歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判したものだった。
明治になり勤皇思想が強まると、信長は御料所回復等を行っていたために勤皇家として評価され、明治2年(1869年)に明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した。信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された[注釈 68]。
第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。また『フロイス日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」[3]という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘されている。信長は、宗教団体の政治介入を許さない日本の風土を作ったと言える。
後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下[注釈 69]であったことからその影響は計り知れず、日本史上、極めて重要な人物である。また秀吉も家康も、後継者にそれぞれ織田氏の血を引く者を当てている。
系譜
「織田は越前に在り。平氏の子孫、織田明神の神主となる」と江戸時代初期の史料には記されている[131]。これによると織田氏は平氏で、元来神社の宮司をしていたことが窺われ、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏とも考えられる。
また織田氏は藤原氏も自称し、越前に地盤を築いた後、守護大名斯波氏に従って尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。祖父・信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。
先祖
兄弟
姉妹
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妻
- 正室:鷺山殿(別称:於濃の方、濃姫、帰蝶)(斎藤道三の娘)
- 側室
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息子
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娘・養女
- 徳姫(五徳)(見星院)(長女、松平信康室)
- 相応院(二女、蒲生氏郷室)
- 秀子、または藤、のちに上野御方(日栄)(三女、筒井定次室)[136]
- 永姫(玉泉院)(四女、前田利長室)
- 報恩院(五女、丹羽長重室)
- 於振(六女、水野忠胤室・佐治一成継室)
- 源光院(七女、万里小路充房室)
- 月明院(八女、徳大寺実久室)
- 三の丸殿(九女、豊臣秀吉側室・二条昭実後室)
- 鶴姫(鷺の方)(十女、中川秀政室)
- 慈眼院(十一女または養女、北条氏直婚約者)
- さこの方(養女、一説に赤松広秀の娘、二条昭実側室)
- 細川玉子 (秀林院)(養女、明智光秀の娘、細川忠興正室)
- 桂峯院(養女、織田信広の娘、丹羽長秀室)
- 某(養女、斎藤道三の娘、畠山昭高正室)
- 龍勝院(養女、遠山直廉の娘、武田勝頼室)
- 足利夫人(養女か、足利義昭側室)[注釈 71]
猶子
一門衆
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家臣
- 重臣 :柴田勝家、佐久間信盛、森可成、坂井政尚、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉、滝川一益、林秀貞、池田恒興、荒木村重、武藤舜秀、佐久間盛重、平手政秀
- 京都所司代 :村井貞勝
- 京都奉行 :村井貞勝、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉、松井友閑、島田秀満
- 右筆 :武井夕庵、楠木正虎
- 側近衆 :菅屋長頼、矢部家定、堀秀政、長谷川秀一、大津長昌、万見重元、長谷川宗仁、下石頼重、祝重正、平古種吉、竹中重矩
- 小姓衆 :森成利(乱丸)、森坊丸、森力丸、高橋虎松、小倉松寿
- 黒母衣衆 :佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝助、水野帯刀左衛門尉、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、松岡九郎二郎、平井久右衛門、伊東武兵衛
- 赤母衣衆 :前田利家、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時、浅井政貞、木下雅楽助、伊東長久、岩室重休、山口飛騨守、佐脇良之、金森長近、長谷川橋助、加藤弥三郎
他に有力重臣として九鬼嘉隆、細川藤孝、佐久間盛政、池田勝正、松永久秀、筒井順慶、三好康長、織田信張、森長可、毛利秀頼、簗田広正、西美濃三人衆、不破光治、竹中重治などもいる。
重臣のうち、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀の四人を四天王、さらに羽柴秀吉を加えて五大将と呼ぶことがあるが、後世の呼称である。ちなみに清州会議では、すでに亡くなっていた明智光秀を除く四人で話し合う予定であったが、滝川一益がなかなか来なかったために、信長の乳母子である池田恒興を加えた四人となった。
墓所・霊廟・寺社
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本能寺 信長公廟
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安土城址 織田信長公本廟
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静岡県富士宮市の西山本門寺の信長公首塚(写真左側)
- 「信長公廟」:京都市中京区の本能寺[注釈 72]にある石造宝篋印塔と入母屋造の廟屋。
- 「織田信長公本廟」:京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある石碑。当時の住職・清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められており、信憑性が高い。信長の命日に当る毎年6月2日のみ公開されている。
- 「織田信長墓所」:高野山奥の院の五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、昭和45年(1970年)に再発見。
- 京都市北区の大徳寺塔頭の総見院の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」による。特別公開時期以外は非公開[137]。
- 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
- 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある石造宝篋印塔。
- 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。
- 「信長公廟」:愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の石造宝篋印塔。織田信雄が清洲城下に菩提を弔うために立てた寺院。清洲越しにより名古屋に移る。
- 「織田信長供養塔」:愛知県清須市の興聖山総見院。清洲越しで名古屋に移った34年後、総見寺跡に再建立された寺院。
- 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
- 明治時代には、信長を主宰神とする建勲神社が東京と天童に創建された。→詳細は「建勲神社」を参照
- 「越前二の宮 剣神社」:福井県越前町(旧・織田町):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神領を寄進し神社を保護した[138]。毎年10月19日の大祭には織田家当主が参列している[137]。
- 岐阜市若宮町の橿森神社では、信長が美園で開いた楽市楽座の市神が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
- 愛知県清須市清洲古城跡に信長を祀る神明造の小祠がある。
- 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院所蔵。(南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
- 天正寺:山崎の戦い後、秀吉は信長を弔うため、京都船岡山に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年(1588年)、建立責任者の蒲庵古渓が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
- 「織田信長の首塚」:静岡県富士宮市の西山本門寺。西山本門寺18世・日順の父、原宗安(原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊を植え首塚に葬ったという。推定樹齢450~500年とされ、年代的にも符合している。
関連事項
史料
行事、祭礼
織田信長を題材とした作品
小説
- 『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
- 「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
- 『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
- 『炎の柱 織田信長<上・下>』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
- 『国盗り物語』司馬遼太郎、1967年。
- 『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
- 『安土往還記』辻邦生、筑摩書房1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
- 『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉1975年。
- 『下天は夢か』津本陽、1989年。
- 『決戦の時』遠藤周作、講談社、〈講談社文庫〉、1991年。
- 『織田信長<全六巻>』鷲尾雨工、富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年。
- 『鬼と人と<上・下>』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
- 『炎の人 信長<1 - 6>』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
- 「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
- 『信長燃ゆ<上・下>』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
- 『信長の棺』加藤廣、2005年。
- 『戦国スナイパー』柳内たくみ、講談社〈講談社文庫〉、2014年。
漫画
メディア化
織田信長が主人公として映画化された作品では、昭和期にかけて、日活から『織田信長』(1940年 日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)、東映からは『紅顔の若武者 織田信長』(1955年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)、『風雲児 織田信長』(1959年 監督:河野寿一 同演)、大映からは『若き日の信長』(1959年 監督:森一生 演:市川雷蔵)が公開された。その他、黒澤明監督の『影武者』(1980年、東宝)では主人公達に対峙するキャラクターとして登場するなど、多くの映画にて脇役、準主人公としても広く登場する。
テレビドラマとしては、司馬遼太郎の『国盗り物語』を原作としたNHK大河ドラマ(1973年 演:高橋英樹)および新春ワイド時代劇版(2005年 テレビ東京 演:伊藤英明)があるほか、昭和期にかけて『若き日の信長』(1961年・NET、演:九代目 市川海老蔵)、『織田信長』(1962年・朝日放送 演:林真一郎)、『若き日の信長』(1964年・フジテレビ、演:市川猿之助)、『織田信長』(1989年・TBS 演:渡辺謙)が製作された。平成に入ってからも、大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年・NHK 演:緒形直人)や新春ワイド時代劇『織田信長』(1994年・テレビ東京 演:高橋英樹)を始めとして、脇役を含め数多の関連作品が制作された。
漫画化されたものでは昭和期に横山光輝『織田信長』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)等が刊行された。その他のメディア作品としては、『信長の野望』シリーズ (1980年-、コーエー)などがコンピューターゲームとして公開された。この他、信長が登場する作品には枚挙にいとまがなく、フィクション作品を含めれば膨大な数に登る。
脚注
注釈
- ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日(1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
- ^ 『フロイス日本史』中の「信長は己の誕生日を祝わせた19日後に死亡した」の記述が正しければこの日付になるとして歴史研究家松田毅一が算出したもの[1]。
- ^ 武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。
- ^ 天正10年9月11日柴田勝家、市夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
- ^ 異母兄が2人いるとする説がある。この説は小和田哲男によるもので、『武功夜話』などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、織田氏研究者の間で議論になっている。
- ^ 一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。
- ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され[9]、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[10]。
- ^ 正徳寺での会見には、兵に弓・鉄砲500丁を持たせていったと『信長公記』にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。
- ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[11]。
- ^ 信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信行への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。
- ^ 『信長公記』では事故死としている[12]が、『甫庵信長記』では家臣坂井孫八郎により殺害されたとする[13]。
- ^ 『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『甫庵信長記』では池田恒興が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。
- ^ 『信長公記』によれば斉藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
- ^ a b c 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)。
- ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[15]。
- ^ 前者は綸旨、後者は女房奉書によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる[17]。
- ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角・和田らによる構想とする説もある[19]。
- ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀・六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
- ^ 『信長公記』によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。
- ^ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
- ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[27]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[28]。
- ^ 近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[29]。
- ^ 元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている[30]。
- ^ 室町幕府の事実上の滅亡により、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている[31]。
- ^ 義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経て備後国鞆へ移り、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出したが、次第に相手にされなくなり、天正8年(1580年)ごろには 号令を発することもほとんどなくなり、諦めている(なお、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことである)[32]。
- ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[34]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[35]。
- ^ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に陸奥国からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
- ^ ちなみに『フロイス日本史』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。
- ^ 佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。
- ^ この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
- ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
- ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
- ^ 足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる。
- ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇や近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[41]。
- ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも[44]、元々あった地名だとも言われる。
- ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
- ^ 本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった
- ^ 織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。
- ^ 『多聞院日記』より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである[17]。
- ^ a b 滝川一益の任を”関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[57]。
- ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条) [60]
- ^ この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[61]。
- ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、寺が城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。
- ^ ユリウス暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
- ^ 宣明暦長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
- ^ 数え年。
- ^ このとき織田家の家督・信忠は従三位左近衛中将。
- ^
(訓読文)天皇我詔旨良万止、故右大臣正二位平朝臣信長爾、詔倍止勅命乎衆聞食止宣、策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德須、允惟朝乃重臣、中興乃良士奈利止、慮志爾不量爾天運相極氐、性命空逝奴、昨者旌旗乎輝東海志、今者晏駕乎馳西雲須、爰贈崇號氐、照冥路古止者、先王之令典、歷代之恆規多利、故是以重而太政大臣從一位爾、上給比賜布天皇我勅命乎、遠聞食止宣 — 天正十年十月九日、織田信長贈太政大臣従一位宣命「総見院文書」
天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故右大臣正二位平朝臣信長に詔(の)りたまへと勅命(のりたまふおほみこと)を衆(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、一人(ひとり)扶翼(ふよく)の功を策(はか)り、万邦鎮撫の徳を敷かす、允(まこと)に惟(これ)朝(みかど)の重臣、中興の良士なりと慮(おもほ)ししに、量(はか)らずに、天運相極(あひきはま)りて、性命(いのち)空しく逝(ゆ)きぬ、昨(むかし)は旌旗(はた)を東海に輝かし、今は晏駕(あんが)を西雲に馳(は)す、爰(ここ)に崇号を贈りて、冥路(めいろ)を照らすことは、先王の令典(れいてん)、歴代の恒規(こうき)たり、故是(かれここ)を以(も)て重ねて太政大臣従一位に上(のぼ)し給ひ賜ふ天皇が勅命(おほみこと)を遠(はろか)に聞食さへと宣る、天正10年(1582年)10月9日 - ^ 当時西洋人は日本の大名たちを王と呼んだ(豊後の王、薩摩の王など)。
- ^ 執筆者不明、おそらく越前の住人。
- ^ 原句:惣見院前右大臣東岳融泰(信長)の七廻(七回忌)に六字の名号を句ことのかしらにすへて(据えて)追善の和歌をよみけり 准三后龍山(近衛前久)
なけきても名残つきせぬなみた哉 猶したはるるなきかおもかけ むつましきむかしの人やむかふらむ むなしき空のむらさきの雲 あたし世のあはれおもへは明くれに あめかなみたかあまるころもて みても猶みまくほしきはみのこして みねにかくるるみしかよの月 たつねてもたまのありかは玉ゆらも たもとの露にたれかやとさむ ふくるよのふしとあれつつふく風に ふたたひみえぬふるあとの夢 — 天正十六年六月二日
- ^ 漆でかためて金泥などを塗ったもの。
- ^ 髑髏を薄濃にするというのは、「史記」に記載されているもので「戦で討ち取った敵に敬意を表してその勇気を自分に取り込む」という意図のもと死者への敬意を表す古代中国からの習慣であるとされる。
- ^ 天王寺砦の戦いでは実際に銃創を負ってしまい、それを最後に信長も最前線には立たなくなった。
- ^ 安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある
- ^ 「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちのひとりかふたりは処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日にはひとりも生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」[78]
- ^ 具体的な例として、天正6年(1578年)8月15日に行われた相撲大会には約1,500人が参加し、信長はその中から優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという。
- ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[89]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[90]。
- ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
- ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
- ^ ただし、今谷は「朝廷黒幕説」については全面的に否定しており、桐野も「朝廷黒幕説」をのちに撤回している。
- ^ 後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
- ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[115]
- ^ 天正3年(1575年)10月に信長は妙覚寺で茶会を催し、その席上で姉小路頼綱と引見している。また各手紙でも「姉小路殿」との気遣いもある[要出典]。
- ^
- 天正2年(1574年)末、信長は坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛を御奉行として、諸国に道を作るよう朱印状で命じた。道の広さは三間半に定め、険しい道をならし、石を取り除いた。また、道の左右に松と柳を植え、その土地の人々に水をやり、掃除をするよう命じた。陸だけでなく、川・入り江には舟橋を作らせた。工事は翌天正3年(1575年)の正月中に完成した。これと以前から行っていた諸関・諸役の免除とが合わさり、旅の障害が無くなったので、人々は牛馬を使い、安心して行き来し、民の生活は安定した。皆「ありがたい事である」と両手を挙げて感謝し、信長が東方朔・西王母のように長寿で、須達(しゅだつ)のように裕福になるようにと望んだ。(信長公記・巻8)安土の町から都まで陸路十四里の間に、彼は五、六畳の幅を持った唯一の道路を造らせ、平坦でまっすぐにし、夏には陰を投ずるように両側には樹木を植え、ところどころにホウキを掛け、近隣の村から人々が常に来て道路を清掃するように定めた。また彼は全道のりに渡り、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような観を呈せしめた。一定の間隔を置いて休息できる家があって、旅人はそこで売っている豊富な食料品を飲食して元気を回復した。そして以前その諸国では、少なくとも道連れのない一人旅の場合には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、彼の時代には、人々はことに夏には常に夜間旅をした。彼らはその荷物をかたわらに置き、路傍で眠り込んでも、他の人々が自宅においてそうできたほど安全となった。彼は道中のこの秩序と設備をその統治下の多数の諸国において実施させた。(フロイス日本史)
- (安土と京都の間にある比叡山の山岳を)全て手で切り通させ、以前には人々が苦労をし、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく険しい道をまったく平らにし、なんらの障害がないようにした。かくてそれは快適な道路、広大な通路となり、牛車も婦人の駕籠もなんらの困難なしに通行している。
- 近江の湖が狭くなり、激流と急流を伴う瀬田というところに、四、五千クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋を架けさせた(=瀬田の唐橋)。それは四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、形は極めて完全であった。彼はそのほとんど中央の片側に一軒の非常に快適な休憩所を自分のために作り、そこを通行するとき休息できるようにした。(信長の)この好意と民衆の賛意のため、一般の人々はますます彼に心を惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。(同上)
- 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
- ^ 松田毅一が翻訳した「日本巡察記」(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる[129]。
- ^ ただし大久保忠教は「信長記は嘘が多い」と断じている[134]。
- ^ 正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
- ^ 家康とは当初は対等の同盟関係であったが、甲州征伐の後、家康は信長から賜る形で駿河国を与えられている。詳しくは清洲同盟の項目を参照。
- ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
- ^ 詳細不明。娘ではないともされる。
- ^ 本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。
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参考文献
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- 谷口克広『織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで』中央公論社〈中公新書〉、2002年。ISBN 978-4121016256。
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- 林屋辰三郎『天下一統』中央公論社〈中公文庫・日本の歴史12〉、2005年。ISBN 978-4122045224。
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- 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2007年。ISBN 978-4642056328。
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち - 失脚・粛清・謀反』中央公論社〈中公新書〉、2007年。ISBN 978-4121019073。
- 宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)
- 太田牛一; 中川太古『現代語訳 信長公記』(Kindle)中経出版〈新人物文庫〉、2013年。ASIN B00G6E8E7A
- 天野忠幸『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5。
- 金子拓『織田信長 <天下人>の実像』講談社〈現代新書〉、2014年。ISBN 978-4062882781。
- 遠藤ゆり子(編)『伊達氏と戦国争乱(東北の中世史)』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4642064958。